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2007年05月29日(火) 表の顔と裏の顔

買い物の帰り道、電車の中でばったり同僚に会った。
「ねえ、例の面談終わった?」と彼女。私たち派遣社員の契約は三ヶ月更新のため、年に四回、契約更新の意思を確認するための面談が行われるのだ。「もう済んだよ。九月末まで更新しといた」と答えたら、彼女は不愉快そうに言った。
「私は六月いっぱいで終了。次の更新はなし、やって」
え!と思わず声をあげる。彼女の成績は知らないが、勤怠その他に問題があったとは思えない。経験が長くなればなるほど重宝される職種であり、ふつうに仕事をしていたら契約を打ち切られることはまずないと思っていたので驚いた。いったいどうして。
「○○さん、私のこと嫌ってるからねー。課長にあることないこと言って、アイツは使いづらいとか訴えたんだと思うよ」
○○さんとは派遣社員の取りまとめをしている三十代なかばの男性である。一年ほど前に別の支社からやってきた人であるが、いつもニコニコと物腰は柔らかく、決して偉そうな口を利いたりしない。私の目にはそう映っている彼が赴任してきた頃から彼女のことを疎んじていて、ふだんから冷たく当たっていたと聞かされても、「まあ、そうなの」と相槌を打つことはむずかしい。
「あの人、みんなのいないところでは豹変するよ」
その言葉を裏付けるような場面を私は見たことがないのだ。

しかしだからといって、彼女の被害妄想なのでは?というふうにも思わない。一年やそこいら同じ職場で働いたくらいで、「そんな人じゃないよ」と言えるほど私が彼のことを知ることができるはずがないから。
「裏表のない人」という言葉があるけれど、実際にはそんな人間はいない。どんな善人もどんな単細胞も、人は誰もいくつもの顔を持っている。そして自分がふだん見ているのは、これまでに見たことがあるのは、そのうちの限られた顔でしかないのだ。

* * * * *

「思いも寄らない面を持っている可能性は誰もにある」で思い出したことがある。
私が以前勤めていた会社にAさんという四十くらいの男性がいた。コワモテの上につっけんどんな話し方をするので最初は苦手だなあと思っていたのだが、彼の下で働くうちにものすごくまじめで責任感の強い人だということがわかった。休みをほとんど取らないのは完璧主義で人まかせにできない性分だったこともあろうが、部下に休みを回すためというのが大きかったと思う。顔は怖いが、実は私たちのことをよく考えてくれている上司だったから、彼が異動で部署を去るときにはみなで盛大に送り出しをした。
だから、Aさんが会社のお金を横領して懲戒解雇されたと聞いたときはまったく信じられなかった。私だけではない。たった数百万のために職を失う危険を冒すなんてあまりに馬鹿げているし、なにより「あの人に限って」とみなが思った。
詳細が伝えられるにつれ、事実だったのだと信じざるを得なくなったが、それでも私の中からなにかの間違いではないかという気持ちは抜けきらなかったし、「業者にそそのかされて魔が差しちゃったんだろうなあ」とか「子どもさんがあまり丈夫でないらしいから、それでお金が必要だったんじゃないか」とかいう声もあちこちで聞かれた。そのくらい部下や同僚から信任の厚い人だった。

しかし、最近になって意外な話を聞いた。半年ほど前に当時の同僚と会ったとき、彼女が言った。
「営業の△△さんから聞いたんやけど、Aさんってすごいパチンコ好きやったらしいね」
えっ、あのお堅い人が?まったくイメージではない。
「たまに仕事帰りに店に寄るとよく会ったらしいんやけど、お金のつぎ込み方が趣味のレベルじゃなくてびっくりしたって。『勝つためにはそれなりの投資が必要だから、一日で十万使うこともある』ってさらっと言われて素人の遊び方じゃないなと思ったって言ってた。人は見かけによらんよねえ……」

これを聞いたからといって「合点がいった」と言うつもりはない。けれども、この話はしこりのように私の胸に残っている。


たとえば、山がある。
西から眺めるのと東から眺めるのとではその姿はずいぶん違うが、どちらが山の正面で、どちらが裏側ということはない。山には表も裏もない。
人間にも同じことが言えるのではないだろうか。
私たちは誰かについてふだん見知っている顔を表と考え、未知の顔を裏だと思いたがるけれど、当人にとってはどの顔も本物であり、すべてが「正面」なのである。

人間はいくつも面からなる多面体であり、ある人について自分が目にすることができるのはそのうちの一部に過ぎない。そして、自分が見たことのない側にどんな面が存在しているかは想像もつかないものだ。
私はそれを思うと、「あの人に限ってありえない」とか「あの人らしくない」なんて簡単に口にできないような気がしてくるのである。

【あとがき】
事件が起こるとワイドショーやなんかで「容疑者にはこんな裏の顔もあったのです……」なんてやるけれど、本人にとっては裏でもなんでもないのだろうなと思います。
たとえば、私について「どんな人物ですか?」と同僚、学生時代の友人、過去に付き合った男性、サイトの読み手に尋ねたとしたら、答えはすべて異なるだろうなと思います。それは私が自分を演じ分けているというわけではなくて、それぞれの人と一緒にいるときに自然に前面に出る顔が違うからですね。でもどれももちろん本当の私であり、どれが表でどれが裏ということもありません。




2007年05月25日(金) 街で見知らぬ男性と口論になる

家の外では非常識なことをしている人にしばしば出会うが、よほどのことがなければ、つまり不快感以外の不利益を被らないかぎりは我慢する。彼、彼女に声をかけてまでやめてもらおうとは思わない。
相手が他人の迷惑を顧みることのない人であるだけに逆恨みをされないともかぎらないからだ。何年か前に電車内で携帯電話を使っている女性に注意をした男性が腹いせに痴漢に仕立て上げられるという事件があった。さしあたって私にその心配はないにしても、ポケットからナイフを出されて人生を終わりにされるのはかなわない。だから、「一生そうして他人から白い目で見られながら生きていきなさい」と思うだけにしている。
けれども、先日はそんなことを考える間もなく「ちょっと!!」と叫んでいた。

自宅近くの大きな公園の前を通りかかったときだ。「さっさと来んかい、ボケがあっ!」という怒号が聞こえてきた。
私が歩いている場所からは背の高い茂みのせいで中年男性の姿しか見えなかったが、子どもに向かっての言葉にしては乱暴過ぎる。気になって早足で近づいて行くと、彼から何メートルか離れたところに黒のラブラドールが座り込んでいるのが見えた。
男性は散歩紐を鞭のように振り回し、犬に罵声を浴びせている。ただならぬ雰囲気に歩をゆるめて見ていたら、私の目の前で彼は思いきり犬の頭を蹴り上げた。
犬は悲鳴をあげて後ろに吹っ飛び、男性は起き上がろうとする犬の顔面を蹴ったり踏んだり。私はもうびっくりして、反射的に大声をあげた。
「なに見とんねん」
と振り返ったのはポロシャツにチノパンを着た、どこにでもいそうな四十代の男性である。
「なにしてるんですか!?その犬がなにしたんですかっ」
「こいつが言うこときかんからやろが」
通行人を噛んだとかなにか大変な悪さをして叱っているのではないとわかった。
「そんなことで殴る蹴るせんでええでしょう!!」
「ほっとけや、おまえに関係あるんかい、エッ!」
犬は蹴り飛ばされても唸り声ひとつあげない。首をうなだれ尻尾を垂れ下げ、目にはまるで光がない。この男がこの犬をこんなふうにしたのだ、と思ったら猛烈に怒りが込み上げてきた。
「そんなんしてたら死んでしまいますよっ」
「黙っとらんかい」
ひとしきり言い合いをした後、遠巻きに見ている人がいるのに気づいた男性は首輪に紐をつなぐと引きずるように犬を連れて行ってしまった。

一部始終を見ていたらしい女性が声をかけてきた。ひと目で可愛がられているとわかる、つやつやした毛並みのミニチュアダックスを連れている。
「ひどいねえ。あんな人に犬を飼う資格はないですよ」
「ほんとに……」
そういえば男性は手ぶらだった。糞の始末もしないなんてどうしようもないじゃないか。どんな人間に飼われるかによって彼らの一生が決まるのに、どうしてあんな飼い主がいるんだろう。
そしてふと思った。それは人の子どもも同じだな。彼らも親を選べない。たまたま愚かな人間のもとに生まれ落ちたというそれだけで、バイクのメットインに入れられたりゴミの日に出されたりしてしまうのだ。犬を連れた男性が一見ふつうの人だったように、子どもを死に至らしめる親もおそらく傍目にはそんなことをしそうには見えない人間なのだろう。

私が男性のイライラを増大させたがために、あの犬は家に帰ってさらなる暴力を振るわれたんじゃないだろうか……。だとしたら本当にかわいそうなことをしてしまった。
その日一日、胸が痛んだ。

【あとがき】
キレるとなにをするかわからない人っていますよね。なので、たとえば私が車の助手席に乗っているときにドライバーが乱暴な運転をする車にクラクションを鳴らしたりするとハラハラしてしまいます。理屈の通らない相手だった時、「降りてこんかいゴルァ」ってことになるとしゃれにならないでしょう。たとえこちらが間違っていなくても、相手がどんな人間かわからないので気をつけないと自分の身に危険が降りかかることがある。と思ったりするわけです。




2007年05月22日(火) 「今日、アレなの」と言われたら。

群ようこさんのエッセイにこんな話があった。
若い知人男性が「このあいだ、彼女の首を絞めて殺してやろうかと思いましたよ」と物騒なことを言う。なにがあったのかと思ったら、こういう訳だった。
ある朝、彼は会社に着いたとたん「今晩やりたいなあ」という気持ちがムラムラと湧いてきた。すぐさま恋人に電話をかけてデートの約束を取りつけ、仕事帰りにレストランで待ち合わせをした。食事を済ませたらすぐにもホテルに誘いたかったのだが、さすがに気が引けたので、これからどうする?と彼女に訊くと、「ボウリングがしたい」という答え。
が、球を投げながらも彼の頭の中はその後のお楽しみのことでいっぱい。なんせ朝からおあずけ状態なのだ。しかし、恋人はボウリングに夢中でちっともやめようとしない。そうこうしているうちに八ゲームもやってしまい、いよいよ我慢の限界に達して切り出したところ。
「今日はアレなの。さよなら」
と言って、彼女はあっさり帰ってしまった。
「だめなら、朝電話したときにそう言えっていうんですよ!」
------という内容である。

どのくらいの男性が「その気持ち、わからないでもない」と思ったかは知らない。しかし、それは無理な相談というものだ。
恋人から「今夜会おうよ」と電話がかかってきたときに、「今日、私アレよ」と申告する女性がどこの世界にいるだろう?「ホテルに行けないのなら会ってもしかたがない」と思われているなどとは想像もしないのだから、当然である。
仮に、エッチを期待しているのかも?がちらと頭をよぎったとしても、「今日はできないけどいいの?」と訊くなんて「会うのはそれが目的なんでしょ」と疑っているみたいで相手に失礼である。……と女性は考えるから、やはりそんなことは言わない。
それにしても、もし「アレが来ないの……」と言ったら真っ青になるくせに、「今日、アレなの」と言ってもキレられるのではやっていられないよなあ。

「今日はだめ」と言われて殺意が芽生えるほど腹を立てるなんて、もちろんこの男性が特別なのだと思う。思うけれども、男性のそれにかける意気込みというか執着というかには女性の理解を超えるものがあるということも、三十余年女をやってきて私は感じている。
眠いからとかオンナノコの日だからとかいう理由で拒むと、付き合い始めこそ「じゃあしかたがないね」とおとなしくあきらめてくれるが、気どらなくていい間柄になると地団駄踏んでしたがるようになる。なんとかその気にさせようと、こちらをなだめたりすかしたり。それでも知らんぷりをしていると、「どうせ俺のコレはおしっこのためだけについてるんだ……」と布団の上にのの字を書いてすねる。
おもちゃを買ってもらえない子どものようで、いつも笑ってしまう。年にいっぺんしか会えないわけでなし、そこまで残念がるようなこと?この先いくらでもできるじゃないと思うのだが、今日といったら今日したいらしい。

以前、新聞の人生相談欄で七十代の男性の「妻が夜の求めに応じてくれないのでノイローゼになりそう」という手紙を読み、その年になってもそんなにしたいものなのか!と驚愕したことがある。
周囲を見渡せば、三十代にして「エッチなんかなくていい」「面倒くさい」と言っている女性がごろごろ。私はそこまで枯れてはいないが、七十を過ぎても自分が投稿者のような旺盛な性欲をキープしているとは到底思えない。
そういえば渡辺淳一さんの『夫というもの』の中に、「男が結婚を考えるとき、頭の中には『これで常時安定してセックスができるようになる』という思いがある」とあった。結婚のメリットとして「性生活の安定」を挙げる女性はあまりいないだろう。
このあたり、男と女では相当の……というより根本的な違いを感じる。

* * * * *

では女性はそちら方面では苦悩することなどなくのほほんと暮らしているかというと、そんなことはない。女には女の、男にはわからない悩みがある。
私くらいの年になると友人には経産婦が多いが、しばしば聞くのが「産後、ゆるくなったと夫に言われる」という話である。失礼しちゃう!と笑いにする人もいれば、本気で気にしていると見受けられる人もいるけれど、私は他人事ながら毎度憤慨する。
死ぬほど痛い思いをして子どもを生んで、その挙句にそんなことを言われたらたまったもんじゃない。つい、そんな文句を言うなら二度とさせなくてよろしい!とわめいてしまう。
将来、もしうちの夫がそんなことを口にしたら、
「そんなもん、半分は男の責任でしょ。そやからその分アンタが太うせい!」
と言ってやろう。

……アラ、いやだ。本日は品のない話で失礼しました。

【あとがき】
セックスレスの相談をされたことは一度しかないけど、「セックスがめんどくさい」という愚痴はしょっちゅう聞くんだよなあ。まあ、前者は人になかなか話しづらいということはあるだろうけど。




2007年05月18日(金) 「よくあんなことしてたもんだなあ」と振り返ること

仲良しの同僚との飲み会の席で、「過去を振り返って、『よくまああんな大変なことをしていたものだ』とわれながら感心すること」というお題で盛り上がった。
ひとりは、独身の頃、同じ電車で通勤する恋人に毎朝手作りの弁当を渡していたことを挙げた。自分はみなと外に食べに行くので必要がなかったにもかかわらず、外食の多い彼のために作り続けていたという。
「栄養のバランスにも配色にも気を遣ってさ。早起きもべつに苦じゃなかった」
その彼と結婚した現在はというと、「おかずはだいたいゆうべの残りもんと冷凍食品をチン、かな。だって一分でも長く寝てたいもん!」だそうだ。
また別の女性は、「結婚して半年間、夫に素顔を見せなかったこと」だと言った。夫より必ず先に起きて顔を洗い、化粧を完了していたらしい。さすがに寝るときはファンデーションを塗るわけにはいかなかったが、眉だけはしっかり描いていたという。
あの恥じらいはどこへやら、今はもちろんスッピンがデフォルトだ。

「あんなこと、今はとてもできない」と振り返る事柄は私にもたくさんある。真っ先に思い浮かべたのは高校時代の部活だ。
毎朝五時に起きて弁当を作り、六時に家を出、七時から朝練。放課後はもちろん、土曜も日曜もバレーボールに明け暮れた。この私が三年間一人の好きな男の子も作らなかったことを思うと、いかにそれオンリーの生活だったかわかる。
中学のときは全員なにかのクラブに所属しなければならなかったが、高校に上がるとそんな決まりもなく、帰宅部の子も多かった。誰に強制されたわけでもないのに、どうしてあれほど頑張れたんだろうか……と不思議な気さえする。
純情だったんだろうな。つらかろうが苦しかろうが入部したからにはやり抜くのが当たり前、途中で辞めるなんて考えもしなかった。とにかくがむしゃらだった。
あの頃の頑張りを発揮してみろと言われても、もう無理だ。あのひたむきさは十代の頃限定のものだった。

そして、もうひとつ。これは比較的最近までしていたことについての「よくあんなことしてたなあ!」なのだが、それはこの日記のことである。
二〇〇〇年にサイトをオープンしてから昨年の暮れまでの六年間、私は判で押したような月・水・金更新を続けてきた。それを思うところあって今年から週二回にしたところ、その楽なこと、楽なこと……。週三回更新を当たり前に行っていたときはなんとも感じていなかったけれど、実はかなり大変なことだったのだ、と初めて気づいた。
私が一本のテキストを更新するまでの流れはこうである。書いたらその場でアップする人が多いと思うが、私は原稿を一晩寝かせ、翌朝推敲してアップすることにしている。
よって、週三回更新をしていた頃の一週間はこんなふうだった。

  月 …… 推敲ののち更新。次回なにを書くか考える。
  火 …… 日中にテキストの内容を固め、夜に下書き。
  水 …… 推敲ののち更新。次回なにを書くか考える。
  木 …… 日中にテキストの内容を固め、夜に下書き。
  金 …… 推敲ののち更新。次回なにを書くか考える。
  土 …… 日中にテキストの内容を固め、夜に下書き。
  日 …… 休み

「あら、私なんか毎日更新だわよ」と言うなかれ。うちはご覧の通りの長文である。かつ、私はものすごい遅筆なのだ。ストーリーをすっかり組み立ててからパソコンに向かうのだから、頭の中のものをアウトプットするだけのはずなのに、なぜかやたら時間がかかる。
夫が出張だらけの人だから自由に使える時間はふつうの既婚女性よりはたくさんあるとはいえ、私も仕事をしている身なので日付が変わる頃には布団に入らなくてはならない。六年もこのリズムで生活していると「こういうもん」という感じで、ああしんどいとか忙しくてたまらんとか思うことはなかったが、あらためて考えてみると、一週間のうち日記のことを完全に休めるのは日曜だけとは、一日おきの更新でも十分ハードだったのだなあと思う。
週二回更新に変更してからは一週間に三日もオフができた。最初は手持ち無沙汰さえ感じたものだが、半年も経っていないというのに今ではもうすっかりこのペースに体がなじんでしまった。
ネットしか娯楽のない無人島にでも送り込まれないかぎり、もう週三回は書けないと思う。


「推敲」の話をしたのでついでに書くと、私はその作業をとても大事にしている。
下書き原稿の仕上がり具合によって目覚ましをセットする時刻が決まる。当然、不出来なほど早起きになる。と言ったら、夜のうちに頑張って最後までやっちゃえばいいじゃないかと言われそうだが、時間を置いて読み返す、このことに意味があるのだ。
眠っている間に頭の中がリセットされ、起きたときには「はて、昨日はなに書いたっけな?」というくらいまで忘れている。そういう状態で読み直すと昨日は気づかなかった粗が見え、文章が明らかに整うのだ。
短い日記ならそこまでしなくてもいいと思うが、うちみたいな長文だとこの過程を省くわけにはいかない。しかしこれをやると後から「あー、しまった」と思うことを確実に減らせるから、おすすめである。

でも、「書き終えたらすぐにアップしないと気が済まない」という人も多いに違いない。
そんな場合は、原稿のフォントを変更してみよう。たとえばゴシック体で書いたものを明朝体で表示するとなんだか別物に見え、新鮮な気分で読み直すことができるから。「一晩寝かせる」に近い効果を期待できると思う。
勢いで書いてしまったほうがおもしろい文章というのもたしかにあるけれど、そういうタイプの日記書きでない場合はぜひお試しあれ。そのひと手間で文章がずいぶん変わります。

【あとがき】
パソコンをする時間がずいぶん減りましたね。書くための時間が減る以外に、1話分届くメールが少なくなるので返信に充てる時間も減るから。ま、それでも一般の人に比べたら十分多いんだけど。




2007年05月15日(火) 「腕時計をしない人は信用しないことにしてるの」

川上弘美さんのエッセイ集『あるようなないような』の中にこんな話があった。
電車に乗っていたら、背後から「腕時計をしない人は信用しないことにしてるのよ」という女性の声が聞こえてきた。腕時計をしないということは万人の時間に合わせないで自分だけの時間で生きるということ。つまり人の時間を無駄にしても心を咎めない人に違いないのよ……と話は続き、腕時計をしていない川上さんはビクビクしてしまった、という内容だ。
これを読んでフフッと笑ってしまったのはある友人を思い浮かべたから。待ち合わせに定刻に来たためしがない彼女はやはり腕時計をしない人。会社の創立記念日にもらった社名入りの腕時計一本しか持っていないというつわものだ。
「だってべつにいらんやん。時間は携帯見ればわかるんやし」
そのわりには携帯はバッグの底に沈めたままで、「いまどこにいんのよ!」と電話をかけてもちっとも出てくれないのだけれど。遅刻しても悪びれないかわりに自分が待たされる側になってもあまり腹が立たないようだから、いい意味でも悪い意味でも時間に対しておっとりしているのだろう。

たしかに友人の言う通り、腕時計がなくても困ることはない。実は私も「外出のときは必ず腕時計をする人」ではない。
私の生活で腕時計の必要性を強く感じることはあまりない。間に合わないかも……とどきどきするのは嫌なのでいつも余裕を持って家を出るし、電車は次々やってくるから何時何分のに乗らなきゃ!と駅までの道のりを時間を気にしながら歩くこともない。そのため、「いまこの瞬間に時刻を知りたい」と思うことはそう多くなく、街の時計が自然と目に入ってきたときに確認する程度で十分なのだ。
だから私が腕時計をつけるのは時刻を把握するためというより、アクセサリーとしての役割を期待してのこと。なので文字盤に目盛りのないデザインのものもある。
そんな私なので、夏は腕時計をつけたくない。手首に塗った日焼け止めクリームで汚れてしまうからだ。あと、会社でも外していることが多い。
私の職場はものすごく時間に厳しいのだが、業務中の時間管理は全台共通設定されているパソコンの時計が基準になる。毎時0分から十分間トイレ休憩の時間が与えられるのだが(それ以外は席を離れることができない)、フロアの掛け時計や机上の電話機のデジタル時計ではなく、パソコンの時計が「0分」を表示してからがスタート。終業も同じで、ほかの時計がほんの少し早く定時になったのを見てうっかり帰り支度を始めようものなら、「まだだよ!」と社員さんからたちまち注意されてしまう。
私はどの腕時計も針を一、二分進めている。そんなものは役に立たないどころか、まぎらわしくて邪魔なのだ。

しかしながら、普通の会社員の場合は腕時計がなくては話にならないだろうなと思う。
日経新聞やビジネス系の雑誌には企業の創業者や社長のインタビュー記事がよく載っているが、腕時計に愛着を持っている人が多いことに驚く。「社会人になったら腕時計は必ずしろ」「時間を大切にしない人間は仕事ができない」といった発言もしばしば目にする。
たしかに、常に納期や効率を意識して仕事をしなくてはならない人が時刻を確認するのにいちいちポケットから携帯を出してきて、パカッと開いて、また閉じてしまって……なんてしているようでは時間に敏感になれるわけがない。一日に何軒もの取引先を回って商談をこなす営業マンの腕に時計がないのはかなりリスキーである。
最近車を買い替えたのでいくつかのディーラーに足を運ぶ機会があったのだが、話をしながら目が行くのは営業マンの格好だ。背広の袖口からのぞく腕時計が学生がするような安っぽいものだと、「この値段の車を売るのにこの腕時計か……」とやはり思う。「すみません、いま何時ですかね」なんて訊かれた日には、この人にまかせて大丈夫か?と思ったに違いない。
そういう意味では、冒頭の「腕時計をしない人は信用できない」には一理ある。


二十代の前半に付き合っていた人と長い時間を経て再会したとき、彼の腕時計が目に留まった。
見覚えがある気がしてしばらく眺め……思い出した。大学を卒業したときに「これから遠距離恋愛になるけど、一緒にこれつけてがんばろうな」と贈り合ったペアウォッチだった。
うちにあるのとベルトが違うのは、別れてからも彼がそれを大事に使い続け、革が傷むたび交換してきたからだった。私はあれから一度も着けていないのに……。
「べつに深い意味はないぞ」
「わかっとうわ」
でも、うれしかった。

この先どこかで会うことがあっても、もう彼の腕にそれを見つけることはないだろう。
それでいい。年齢や収入や立場や……いまの自分にふさわしい腕時計を男の人はつけなくっちゃ。

【あとがき】
サラリーマンだと職種によっては見た目も仕事をする上で大事になってくると思うんですよね。うちの夫は営業職でいろいろな人に会うので、やっぱり腕時計や靴やカバンは嫌味にならない程度のいいものを持っています。




2007年05月11日(金) 夫の前でおならをしますか

出張中の夫に電話をかけたら、呼び出し音が鳴る間もなく一瞬でつながった。が、受話器の向こうからは雑音は聞こえてくるのに応答がない。
「おーい、妻ですよー」と呼びかけたら、ようやく夫の声がした。
「あれっ、小町さん?どうして電話がつながってるの?」
どうしてって……。私が電話をかけて、あなたがそれに出たからでしょ。
「違うよ、これから家に電話をしようと思って発信ボタンを押したとたん、小町さんの声がしたから驚いたんだ」
なんと、夫と私はまったく同時に互いに電話をかけようとしていたのである。

という話を職場でしたところ、「うちも最近すごい偶然があったわ」と同僚。
「テレビ見てるときにおならしたらね、だんなのほうからもブーッ!て聞こえてきて、見事にハモってん〜」
……びっくり。そのタイミングのよさについてではない。
「あなた、だんなさんの前でおならするの?」
「するよー。なんで?」
「そういうのって恥ずかしくないんかなあ……と」
「ぜんぜん。だって出るもんしゃあないやん。だんなも私の前でブーブーやるしさ。一緒に暮らしてるのにかっこなんかつけてられへんし」

世の中に夫の前でおならをする女性がいるということを知らなかったわけではない。YOMIURI ONLINEの掲示板「発言小町」の中に、「夫の前でおならができないために、週末はガスがたまっておなかが痛くなってしまう」と悩む新妻の投稿があり、それに「私はしてますよー」という回答がたくさんついていたから(こちら)。
しかし、私の同僚は美人だし、結婚してまだ二年かそこいらである。そんな女性でもするのか!と驚いたのだ。
……が、すぐに思い直した。結婚歴なんて関係ないか。そのコメント欄を読んだときも、「する人は新婚当初からするし、しない人は五十年夫婦をしていてもしないんだな」と思ったんだっけ。
夫の前で、というのは私はぜったいに無理である。「出るもんしゃあない」と開き直ることは私にはできない。
うちの夫は遠慮なしだ。いったいなにを食べてるんだ!と言いたくなるくらい臭いわ、爆音だわ、頻繁だわ。でも彼は男だからそういうことも冗談になる。わからないようにしてちょうだいよ、ともべつに思わない。
けれども女の場合はなあ……。いくら生理現象でも、夫婦でも、男と女とではやっぱり違うと思うのだ。

これについて夫たちはどう思っているのだろう?先述の投稿についた男性の意見は二種類。

愛する妻が自分の前でおならをするなんて私にとっては感動的で、愛おしさが増すことはあっても幻滅することはありません。とくに我慢をしている訳ではないらしいのですが、遠慮しないでどんどんしていいよと、妻に言いました。

好きな人のおならは可愛くて愛しくてたまらない。それで女の魅力もあがる。逆に、それをしたら女としてみられないかもと恥ずかしがってさらけ出さない女性は可愛げがない。


という「歓迎派」と、

おならなんて自然な生理、結婚したからにはいいんじゃないの?という人も多いと思いますが、僕は恥を感じない関係になったら百年の恋も冷め、その時点から男女ではなくなってしまう。

女性でなくなる瞬間ですね。初めて妻がおならをした時、男側は「いいよ〜、気にしないで大丈夫だよ。そんなことで嫌いになったりしないから」などと言いますが、おならしたことに対する恥じらいを相手が持っているから、それをかわいいと思うのです。
ところが、多くの世の中の女性は相手のそんな感覚もわからず、慣れていき平気でするようになります。


という「拒絶派」。
うちの夫がどちらのタイプかは予想がついたが、念のため訊いてみると、
「自分の前で奥さんが片尻上げて堂々とおならする姿なんか見たら、がっかりする。してほしくない」
と即答された。やっぱりね。
でも私は妻のおならは聞きたくないという男性を「その程度のことで幻滅するなんて薄情ねッ」と責める気にはならない。

最初は別室に行ったりしてたんですが、結婚一年目で面倒になって「もういいかな〜」と思って、わざと夫と同室で堂々と決行!!
そしたらその恥じらいの無い態度に引いたのか、『なんで?!』と責められました。ショックを与えてしまったようです。笑ってくれるかと思った私もショックで、それ以来していません。とほほ……。


どんなに妻を愛している男性であっても、「すすんでは見たくない妻の姿」というのはいくつか持っているだろうと想像する。
妻が風呂上がりに素っ裸でうろうろしていたら、多くの夫は「オイオイ……」と思うだろう。おならを遠慮なくできるようになったら楽かもしれないけれど、失うものも確実にありそうだ。差し当たって、離婚の危機は考えずとも。

だから私は、妻のおならまで愛しがってくれるなんてありがたい夫だなあとは思えども、「うちも平気でおならがし合える関係になりたい」とは思わない。
夫の前でそれができるか否かが夫婦仲のバロメーターになるわけではあるまい。なんでもあけっぴろげにすることが気を許し合えている証だとも思わない。
そもそも、夫に限らず人前でおならをするということに抵抗がある。実家で暮らしていた頃も好き放題していたのは父だけだ。
とくに「女の子なんだからだめ」と言われた記憶はないけれど、それをはしたないことだと感じるのは母のおならを聞いたことがないことも関係しているのだろう。


とまあ、夫のおならには寛容な私だが、ゲップは嫌いである。
おならよりもこちらの顔と近い位置でされるのと、彼がさっき食べたものの粒子をばらまかれるような気がするのとでとても不快な気分になる。
私にとっておならは羞恥心の問題だから、「あなたが恥ずかしくないならお好きにどうぞ」なのだが、ゲップはマナーの問題。おならよりも我慢しづらいものではあるが、口元も覆わずあからさまにされると、夫婦でも失礼だと感じる。欧米ではゲップは無礼、下品な行為とみなされるため、子どもの頃から人前でしないよう躾けられると聞くが、納得である。

さて、あなた(あるいはあなたの奥さん)はおならやゲップ、どうしていますか?

【あとがき】
腸の病気を患っていたり妊娠中だったりするなら健康第一だから、恥ずかしがってる場合ではないけどね。ちなみに、発言小町の編集部がまとめた今回の「おなら問題」の回答結果はというと、「絶対しない、できない」42%、「するorしてしまうことがある」50%(そのうち「我慢などしないで遠慮なくする」は21%)で、する女性に軍配(?)が上がりました。




2007年05月08日(火) 「オバサン」と呼ばれて。

電車で向かいに座る女子高生ふたりが、「あの人らってなんでああなんやろか」とオバサンの批判を始めた。
片方の女の子が街で見知らぬ中年女性に不愉快な思いをさせられたようで、もう一方がその愚痴に付き合っているうちに世のオバサンの悪口に発展したらしい。
「まあまあ。アンタたちだっていずれはそのオバサンになるんだから、そう意地悪く言いなさんな」
とたしなめたい気も少々したが、しかし聞いていると、その言い分というか分析というかにはなるほどと思う部分もあった。
たとえば、「オバサンはぜんぜん周りが見えてへん」には思わずそうそうと合いの手を入れそうになった。それについては私もつねづね思っていたのだ。
評判の食べ物屋の前では道路をはさんで行列が続いている……という光景をよく見かける。が、そういう場面ではその、列がいったん途切れたところを最後尾だと思い込んで加わる人が必ずいる。道路の向こう側から「こっちから並んでるんですけど!」と言われ、あら、まあとかなんとか言いながら列を離れるのは決まって中高年の女性グループである。
あるいは公衆トイレで。空いた個室に順次入れるよう一列に並んでいるところに後ろからつかつかと歩いてきたかと思うと、すました顔で個室の前に立つ。先頭の人に注意されて初めてみなの冷たい視線に気づき、あたふたと立ち去る。これもたいてい中高年の女性だ。
「みんな並んでるんですよ」と言われたとき彼女たちが一様に驚いた表情をするところをみると、割り込んでやれと思ってのことではなく、本当に順番待ちをしている人たちが目に入っていなかったのだということがわかる。若い人はまずこんな失敗はしないから、私は「年を取るとブリンカーをつけられた馬みたいに正面しか見えなくなっちゃうんだろうか」と思っていた。
そして女子高生たちも同じことを感じていたらしい。

「ふうん、アンタたち口は悪いけど、意外と見るとこ見てんのね」
と心の中で突っ込みを入れていたら、女子高生がこう続けた。
「でも、オバサンはまだええねん。問題はコバサンやねん」
コバサン……?なんだそれ。
と思ったが、もうひとりも神妙な顔で頷いているところをみると、それは周知の言葉らしい。
「オバサンはな、自分がオバサンやってことがわかってるからまだ可愛げあるねん。『うちらオバチャンやしな、堪忍やで〜』みたいな。でもな、コバサンはオバサンに片足突っ込んでるっていう自覚がぜんぜんなくて、まだまだ若いつもりでおるから始末が悪いねん」
そう、オバサンの前段階が「コバサン」だったのである。
しかし、
「ってことは、まだオバサンじゃない私はコバサンか。なかなかうまいことを言うなあ」
と感心したのも束の間、コバサンの対象年齢が二十五から三十歳と聞いてびっくり。
つまり、彼女たちはさっきから三十一歳以上の女性を指して「オバサン、オバサン」と連呼していたのである。

私は現在三十五であるが、自分のことをオバサンだと思ったことはない。私が「若い人たちがうんぬん」と言うときはたいてい二十代の人を想定しているが、だからといって自分と同世代がオジサン、オバサンにはまったく見えない。三十代をそう呼ぶには見た目も中身もちょっと若すぎるんじゃないだろうか。
……と目の前の女子高生の会話に割って入りたくなったが、「自覚のないオバサンはコバサンより最悪!」と罵られそうなのでやめておいた。
まあ、彼女たちの立場になって考えてみるとわからないでもない。高校時代、部活の顧問だった二十六、七歳の体育教師を「若い男性」と感じたことはなかった。いま思えばかっこいい部類に入るルックスだったのに、当時の私にとって十歳という年齢差はいまの私が四十五の男性に対して感じるそれの何倍も大きかったのだ。
もしあの頃そういう言葉があったなら、私たちも彼を「コジサン」と呼んでいたかもしれない。


それにしても、その「オバサン」だらけの車内で臆面もなくそういう話ができるところが、まさにいまどきの子らしいなと思った。
「ここでこんな話をしたらまずいかも……」という発想がないのは、彼女たちにとってそこは貸し切り車両も同然だからであろう。コバサン未満の年齢の女の子の中には自分たち以外の人間を“透明人間”にするのが得意なのが少なくなく、どんな場所でもたちまち「自分の部屋」にしてしまうのにはいつもながら驚く。だから公衆の面前で化粧ができるのである。
先日もこんなことがあった。電車の中で大学生カップルと思しき男女が仲良く温泉旅行のパンフレットを見ていた。日程を考えているようで男の子が手帳を見ながら、
「二十、二十一にしようや。バイト休みやし黄色の日やし、ちょうどええやん」
と言った。パンフレットのカレンダーに黄色の網かけが入っている日が代金の安い日らしい。
そうしたら女の子が叫んだ。
「あかんあかん!私、そのへん血みどろやもん」

ひえー。そんなこと、人の目も耳も気になるオバサンには口が裂けても言えませんよ……。
オバサン、コバサンとバカにするけど、いやいや、あなたがたもなかなかのモンです。

【あとがき】
なにをもってオジサン、オバサンとするかというのは、結局のところ年齢より見た目の問題なのではないかなぁと。わかりやすく、極端な例を挙げると、黒木瞳さんはたぶん40代なかばだと思うけど、彼女を「オバサン」とは呼ばないわけで。ということは、たとえ30代でも見た目にかまわずにいるとオジサン、オバサン呼ばわりされてもしかたがないということになりますね。




2007年05月04日(金) 遊びの記憶

一歳になったばかりの姪の顔を見に行ったら、妹が「この子、お姉ちゃんみたいになりそうや」と心配そうに言う。
チョットチョット、私みたいになることのなにがご不満?そもそも、私みたいにってどんなふうよ?
すると、「すごいゴンタになりそうな気ィするねん」と返ってきた。
妹の産院は入院中は母子別室だったのだが、離れていても聞こえてくるほどの大音量で泣く赤ちゃんがいた。
「えらい元気な子やなあ。でもこの赤ちゃんのママは大変そう……」
と思っていたら、自分の娘だった------というエピソードを持つくらい、姪は泣き声が派手なのだが、泣くばかりでなく動くほうも豪快なのだとか。検診で知り合ったママたちと会い、赤ちゃんを一緒に遊ばせていてもどの男の子よりも男の子らしい。足は大きいわ、腕力はあるわ、犬を見ても怖がらないわ。その様子が子ども時代の私を髣髴させるという。
母も証言する。妹は比較的おとなしく手がかからなかったが、姉は窮屈嫌いのちっともじっとしていない子で、片時も目が離せなかった。出かけるとき、妹はきちんと母の手をつないで歩くが、姉は先に先に行きたがり、しかも塀の上や溝の中を歩く。なにかおもしろそうなものを見つけるとぱーっと駆け出して行き、そのたび母は妹を抱え、必死に追いかけたそうだ。そんなだからケガをするのも迷子になるのもいつも私。
「同じように育ててもこれだけ違ってくるんやなあと思った」
としみじみと言う。なるほど、いくら帽子をかぶせてもちぎっては投げ、ちぎっては投げする姪を見ていると、私もこんな赤ん坊だったかもしれないという気がしてくる。


いまでこそこんなふうにしっとりとオンナらしくなったけれども(えー、ノークレームでお願いします)、子どもの頃の私は「サザエさん」のカツオみたいな女の子だった。
なによりも外で遊ぶのが好き。放課後はランドセルを放り出すとまたすぐ飛び出して行き、とっぷりと日が暮れるまで帰らない。本当に子どもらしい子どもだったなあとわれながら思う。

家の近所には空き地や池、雑木林や小さな山があった。もちろんどこも立ち入り禁止の札が立っていたが、そういう場所ほど子ども心をかきたてる。
空き地には十匹くらいの野良犬が住んでおり、妹はハトを見ても怯えるような子だったが動物好きの私にとってはムツゴロウ王国だ。塀は高くてよじのぼれなかったので、私は地面に穴を掘って出入りした。小学校高学年になって友達がこぞって塾通いを始めると、彼らと遊んだ。「これには絶対入ったらあかん」と教えながら保健所が仕掛けていった捕獲器の扉を閉めて回ったっけ。
池ではザリガニ釣りをした。長い棒と糸で竿を作り、チクワのかけらをぶらさげる。根気よく待っていると、水底からアメリカザリガニの大きなハサミが見えてくる。
「よーし、はさめ、はさめ……」
息を詰めてゆーっくり引き上げるのだが、誰かが物音を立ててあとちょっとというところでポチャン!となることも多かった。
釣れたものは持ち帰って飼った。ニホンザリガニとの違い、メスがどんなふうに卵をつけるか、脱皮してしばらくは体が柔らかいためすぐに隔離してやらないと共食いされてしまうということも家の水槽で勉強した。
夏になると晩ごはんの後、懐中電灯を持って近所の友達と近くの山の中の木にハチミツを塗りに行った。そうしておいて翌朝五時くらいに見に行くとカブトムシがわんさか集まっているのである……というのが私の計画だったのだが、蜜を舐めにきているのはいつもカナブンだけ。
「またブイブイ(カナブン)かあ」
毎回、空の虫かごをぶら下げて帰った。父の実家に帰省したとき、最寄りの無人駅に夜行くと電灯に集まってきたカブトムシがボトボト落ちていて、宝の山に思われた。あの光景が忘れられず、自分でも捕まえたいと思ったのだが、結局一度も叶わなかった。
山や林の中で遊ぶのは一番楽しかった。野いちご、ヤマモモ、アケビを見つけると大喜びで口に入れ、あの酸っぱいスカンポ(イタドリ)でさえも齧った。栗やムカゴは拾って帰った。何度か痛い目に遭ったおかげでどんな虫に毒があり、どんな葉っぱに触るとかぶれるかというのもよく知っていた。

私がこんな子どもになったのは、田舎育ちの父が週末ごとに野山に連れて行っては花や虫や鳥について教えてくれたり、竹馬や竹鉄砲を手作りしてくれたからである。
だから、当時大流行していたローラースルーゴーゴーやホッピングを知っている世代だからといってその人が自分と同じ思い出を持つとは考えないけれど、それでも外遊びが好きな子どもだったならある程度共有できる風景ではないかと思う。

* * * * *

マンションのツツジがきれいに咲いている。通るときふと、あの花を摘んでよく蜜を吸ったなあと思い出した。いまそんなことをする子どもはいないのだろう。というより、吸うと甘いということを知らないに違いない。
そういえば、缶馬(紐を通して持ち手を作った空き缶の上に乗り、下駄のようにして歩く)やゴム跳びをしている子も見たことがない。私たちの頃は子どもが遊んだあとの道路には、Sケンやケンケンパをやっていたんだなと一目でわかるチョークやロウセキの跡が残ったものだが、それもまったく見ない。空き缶を蹴るカンカラカーンという音が聞こえてきたこともない。縄跳びと一輪車をしているのをときどき見かけるくらいだ。
いまの子はいったいどんな遊びをしているんだろう?ピーピー豆を鳴らしたりひっつきむしを投げ合ったりはするんだろうか。


2007年05月01日(火) 台湾旅行記

ゴールデンウィーク真っ只中、みなさんいかがお過ごしですか。今年の連休は長いので旅行に出ている人も多そうですが、私からは台湾旅行記をお届けします。
あまりきれいでないという理由で「台湾はいっぺん行ったら十分」と言う友人もいるけれど、私はかなりのリピーターだ。たしかに街並みは洗練されているとは言えないし、走っている車は泥々で運転は荒い、店の人は商品にハエがとまっていても気にも留めない。でも、それらを補って余りある魅力がそこにはある。

ひとつは、食べ物がおいしいこと。
今回の旅行も「魯肉飯が食べたいなあ」という夫のつぶやきがきっかけだ。八角や香菜の風味が苦手な人は台湾料理は口に合わないだろうけれど、そうでなければそのうまさと安さに感激すること請け合いだ。
台湾といえば「鼎泰豊」の小籠包が有名で、私も毎回食べに行くのだが、屋台や食堂で食べる小吃(庶民の味)めぐりも同じくらい楽しみ。
朝はホテルのレストランなんかにはもちろん行かない。朝食の時間帯は道端にワゴンや屋台が出ているので、そこであれこれ買って食べるのだ。
たとえば空心菜の炒め物、焼きそば、ビーフン、大根のスープ。その場で作ってくれるのですごくおいしいし、二人が満腹になるボリュームで350円という安さ。
食材は常温保存で、ハエがブンブン。それらをお金やふきんを触った手でむんずと掴み、肉や魚の血のついたまな板で野菜を切る。日本だったら保健所が血相変えて飛んでくる衛生状態だが、いまのところおなかを壊したことはない。
ちなみに、夫が食べたいと言った魯肉飯というのは醤油、酒、砂糖で煮込んだ豚バラ肉の荒ミンチを白いごはんにかけたもので、台湾の人たちの日常食。丼ではなくふつうの茶碗で出てきて、一杯80円くらい。台湾に行く機会があったらぜひお試しあれ。

それからもうひとつ、私の台湾好きの理由がマッサージ。
日本にもいくらでもマッサージ屋さんはあるが、十分間千円以上もするのでリラックスできるほど長い時間は頼めない。けれどもあちらはマッサージの本場である上、相場は日本の半額。好きなだけ堪能できるのだ。
今回は足の角質取り+九十分間の全身マッサージ+耳掃除というコース(約6000円)を注文。
まず、足湯。薬湯を溜めた水槽にじゃぼんと足を浸けて十分間。こうすることで血行がよくなり、老廃物を排出する効果が高まるそうだ。
(……と壁の説明書きにあるのを読んで、「いま流行りの『ボトックス』というやつだな」と夫。それを言うならデトックスだーー!彼はときどきこういうとんでもない勘違いをする。このあいだも誰それさんがインフルエンザにかかって例の薬を飲んだらしいと話したら、「ああ、タフミルね」だって)
足が適度にふやけたところで角質取り。つま先のとがったヒールの高い靴を履いていると足の裏が必要以上に丈夫になってしまうが、その固くなった皮膚を小刀のようなもので削っていくのだ。
と聞いたら痛そうに思えるかもしれないが、そんなことはぜんぜんない。もちろん血も出ない。ただ、最後に「これだけ削りました」と成果を見せられると、ものすごく恥ずかしくなる。
けれども、まるで手のように柔らかくつるつるすべすべになるので、これは本当に値打ちがある。

つづいて全身のマッサージ。
今回施術してくれたオジサンは上手だったが、言葉がまったく通じなかった点が残念だった。多少日本語を理解してくれる人のほうが断然おもしろい。
足の裏を押してもらっている最中、ギャーと叫びそうになるくらい痛んだ箇所があったので「なんのツボですか?」と訊くのだけれど、ニコニコしているばかり。どこが悪いのか教えてほしいのに。
去年別の店でマッサージを受けたときは訊けばなんでも教えてもらえた。その若い男性マッサージ師さんは施術前、私の首筋を押さえ、「ここにしこりがあるでしょう。これは血流の悪いところで、マッサージが終わったらなくなってますよ」と言い、後で触ったら本当に消えていたからびっくりしたっけ。

そして仕上げは耳掃除。
えー、そんなのお金を払ってまでしてもらうもの?と思うでしょう。私もそうだったのだけれど、プロにしてもらうとびっくりするくらいきれいになって耳の聞こえまで違ってくる、という話を聞いて興味が湧いたのだ。
が、これは大ハズレだった。なにか特殊な器具を使うのかと思ったら、一般的な綿棒と耳掻き。じゃあテクニックがすごいのネと期待したが、それもふつう。足の皮みたいにやっぱり耳垢もぎょっとするくらい取れるのかしらんと思っていたのにぜんぜんで、ないものをほじくりだそうとしたためかとても痛くて、後で流血までしてしまった。
オジサン、ほかは上手なのに耳掃除だけ苦手だったのかな。

次行ったときは、顔のうぶ毛取り(糸を巧みに操ってうぶ毛を取る台湾伝統の美顔術)に挑戦するつもり。



他人の旅行記なんてたいしておもしろくもないのに最後まで読んでくださったアナタに感謝して、今日は特別に足湯中の写真をアップしました。
ゴールデンウィーク期間中だけの出血大サービス!小町さんの美脚、とくとご覧あれ〜〜(こちら)。

あははー。それではみなさん、ひきつづき楽しい連休をお過ごしくださいませ。

【あとがき】
「そ、そうか、これが小町さんの足か……」と信じたおっちょこちょいの人がいたらどうしよう(もちろん夫の足だ)。え、それも恩をアダで返したバツ?ひゃ〜。