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2007年04月27日(金) 管理人の誠意

「更新期限が近づいています」という件名のメールが届いた。
私はこの日記を「エンピツ」というレンタル日記を利用して書いているのだが、もうひとつ、某ブログも借りている。そこで別の日記を公開しているというわけではなく、ある目的のために「エンピツ」の過去ログの一部を移動し、その保管場所として使っているのだ。
そのブログサービスからの「更新期限のお知らせ」だったのであるが、私はそれを舌打ちしたいような気分で読んだ。おもしろくないことを思い出したからだ。

私がそのブログサービスを申し込んだのは一年四ヶ月前。最初に登録料3400円が必要だが、以後は費用はかからないということだったので、それなら高くないと思い、支払った。
しかしその四ヶ月後、「突然ですが、規定を見直すことになりました」というメールを受け取った。登録料を支払えば容量も期間も無制限で利用できると謳っていたものが、来月からは登録料とは別に年間2650円が必要になるという。それを支払わなくても利用はできるが、その場合は「無料会員」扱いになり、日記のログは一年分しか保存してもらえない。
「つきましては今月中に年間使用料をご入金ください。そうすれば一年間は全過去ログの保存を保証します」
つまり、一年以上前に書いた日記もずっと残しておきたいと思うなら、毎年2650円を支払いつづけなくてはならなくなったのである。

なんだそれ、と思った。
ほんの四ヶ月前に私が申し込んだときには3400円の登録料でそのブログサービスがつづくかぎり自由に使えるかのような説明だったし、二ヶ月前まで「友達紹介キャンペーン」というのを大々的にやっていたのである。そうして会員を集めた後に「今後は年間使用料をいただくことになりました」だなんて、あこぎなことをするじゃないか。いついつからは登録料のほかに利用料が必要になるシステムに変わります、という告知がされていれば、少なくとも私は申し込んでいなかった。
百歩譲って、自分は運悪く規定改正直前の損なタイミングで入会してしまったのだと納得したとしても、「来月から変更」はあまりにひどい。年間使用料を支払うつもりのない人はログが消える前にどこかに移動させなくてはならないが、その作業をする時間がひと月もないのである。
私は「エンピツ」にログがあるからいいけれど、ユーザーのほとんどはそのブログだけでずっと書いてきた人たちである。膨大な量のログを前に途方に暮れるのは目に見えている。

……と思っていたら、やはりユーザー掲示板には突然の有料化を非難する人、ログの引越しが間に合わないと嘆く人、つい最近入会したばかりなのに話が違う、登録料を返してという人の書き込みが連なった。それでも、
「ユーザーにとってこれほど重大な変更をなんの予告もなく、メール一本で来月から実施するとしたことについての納得のいく説明がほしい」
に対する管理人の回答は一切なかった。ユーザーの不信感はさらに募り、ほかのブログに乗り換えるという声が続出した。当然である。

しかしそれが功を奏したのか、しばらくして「規定改正は一年延期する」という知らせが届いた。
その“一年後”が今年の五月一日で、先日「まもなく猶予が切れますよ。で、有料会員になるんですか、どうするんですか」とメールが送られてきたというわけだ。


私は「日記書き」について、「お金のかからない、いい趣味を見つけたもんだと思う」とよく言ったり書いたりするけれど、実際にはいまご覧いただいているサイトを運営・維持するのに一日あたり十九円、年間七千円が必要だ。
日記スペース、アクセスカウンタ、解析などのレンタル料であるが、そういったサービスをしばらく利用しているとそれぞれの管理人のユーザーに対する誠意のあるなしがはっきりわかる。
なにかを問い合わせると速やかに回答が届くところは障害が発生したときも現在の状況や復旧予定をきちんと説明してくれるし、いつまでたっても返事が届かないようなところは事前のアナウンスもなくメンテナンスが入り、半日使えないということが起こる。
上に書いた某ブログサービスは、利用を始めたばかりの頃に何度か質問メールを送ったことがあるのだけれど、毎度回答は催促が必要なほど遅かった。それどころか、結局届かずじまいということさえあった。せっせと移したログが消えてしまうのは悔しいが、有料会員になる気はもちろんない。

私は有料でなにを提供しているわけではないが、管理人の立場ではある。ユーザーに不信感を持たれたらおしまい、というのはよくわかる。
メールには必ず返信するとか、長く更新を休むときには再開予定日をアナウンスするとか、そんな程度のことだけれど、読みに来てくれる人のガッカリや不便を減らすためにできることはしたいなあとはいつも思っている。


2007年04月24日(火) 一緒に食事をしたくない人

故郷で見合いをしてきた友人に成果を訊いたら、「あー、あれね、断った」と言う。
このあいだ彼女に会ったときは釣書が届いたと言って、「地元では知られた会社にお勤めしてるし、見た目も悪くない。しかも三男!」とはりきっていたのに。
「相手には申し訳ないけど、生理的に嫌って思っちゃったんだよね」
生理的に嫌、とはまた手厳しい。それは女性が男性を評するときにしばしば使う言葉であるが、いったいどうして。
当人同士を引き合わせると仲人も帰ってしまうような略式の見合いで、二人はホテルのレストランで食事をした。そのときの相手の食べ方を見て萎えたのだという。
フレンチのコースだったのだが、彼がカトラリーをまともに扱えないことに驚いた。緊張しているのかな?と思ったが、最初に料理を全部切り分けてフォークを右手に持ち替えて食べるのを見て、単にもの知らずで不器用なのだとわかった。
「ナイフの持ち方もすっごく変で、幼児がスプーンを掴むみたいなの。そりゃあフランス料理なんてそうしょっちゅう食べる機会のあるものじゃないけど、三十代後半であれはないよ」
で、それ以上彼のことを知ろうという気持ちが失せてしまったらしい。
そういえば林真理子さんのエッセイにもこんな話があった。知り合いの女性からいい人を紹介してほしいと頼まれ、顔合わせのためにある和食の店を予約しようとした。が、「あ、やっぱだめだ」と思い直した。その女性の箸使いがひどいのを思い出したから……という内容だ。
好きな人ならナイフや箸の持ち方が少々不恰好でも目を潰ることができるが、見合いの席では大きな失点になるのである。
友人の場合は、彼が野菜の小片をひとつひとつ注意深く皿のふちによけている姿がダメ押しになって、翌日断りの返事を入れたそうだ。


行儀が気になったり食べ姿が好きになれなかったりする人と食事を楽しむのはむずかしい。
知り合いにごはんに塩をかけて食べる人がいる。彼女は料理が運ばれてくると、なによりもまず塩の小瓶に手を伸ばしサッサッサッと振りかける。小さい頃からごはんはふりかけをかけて食べていたので、たとえおかずがあっても「味つけのないごはん」は食べられないらしい。
どんなふうに食べようと人の勝手ではあるのだが、「子どもじゃあるまいし……」とつい言いたくなってしまう。

ダイエット中の人との食事もつまらないなあと思うことが多い。
食事というのは同じように飲んで食べてこそ楽しいと思えるもの。「私のことは気にしないで食べてね」と言われてもサラダだけで済ませる人の前で食後のデザートを注文する気にはなれないし、食べている最中に「そのパン一個が百五十キロカロリーでしょ、メインが肉だからその一食で八百はいくんじゃない」なんてことばかり言われておいしいわけがない。
あるとき友人から晩ごはんのお誘いがあったので出かけて行き、何が食べたいかと訊いたところ、「そうめん」という答え。何が悲しくて夜にそうめん食べなくちゃなんないの。
「だって夏までに三キロ痩せんと……」
知らんがな!

阿川佐和子さんは飾り気のない性格で好きなのだが、エッセイを読みながら、「この人と一緒に食事をする間柄だったら、恥ずかしい思いをしたりイライラしたりしそうだなあ」と思うことはよくある。
最近読んだ中に、自分好みの味つけにするために運ばれてきた料理をあれこれ加工することを友人に注意された、という話があった。
中華料理屋でチャーハンを注文した。もっとおいしくなりそうだと思い、酢をかけた。するとぴりっとした辛さが合うような気がして、店の人に豆板醤を持ってきてもらった。それを混ぜたら、今度は香菜の風味が欲しくなった。
「いろいろ言ってすみませんけど、香菜を……」
と頼んだとき、友人に「来た料理をそのまま食べたらどうなの。料理人に失礼じゃないの」と叱られた、という内容である。
どうせならおいしく食べたいもの。より自分の舌に合うように好きに味つけをいじればいい、と私は思う。
ただし、それはテーブルの上にある調味料を使う範囲でのこと。同席している誰かが厨房からあれやこれや持ってこさせようとしたら、私もやっぱり「そこまでしなくてもいいでしょう」とたしなめるだろう。
料理人に失礼うんぬんより、「ここは自分の家じゃないんだから、そこそこのところで手を打ちなさいよ」という気持ちだ。

* * * * *

夫は何を出してもたいていおいしく食べてくれる。だから私はとても楽ちんだ。夫の友人にものすごく味にうるさい人がおり、
「僕、こう見えて舌が利くんですよ。まずいものなんかぜったい食べません。このあいだもうまいって評判のラーメン屋に行ったんですけど、ふた口で出てきちゃいました」
なんて言うのを聞くと、奥さんになる人は大変だろうなあと思う。こういう人はときどきいて、知り合いの一人も自分の口に合わないとわかるともう一切手をつけない。おいしくないものを無理して食べる必要はないからそれはちっともかまわないのだけれど、
「これは『まずかった』っていうアピールだ。客が丸ごと残しているのを見れば、店も考えるだろ」
には首を傾げる。皿を下げるのはバイトのウェイトレスで、残飯なんか即ゴミ箱行きなんだから、シェフの目に留まるわけがない。お客様アンケートに書くか店の人に直接言うかしないことには、その無言の意思表示が厨房に届くことはまずないと思うけどな。

好き嫌いが激しくなく、味にうるさすぎず、食べ方が不様でない。これは私にとって「イイ男」の条件だ。


2007年04月20日(金) 車の運転が苦手な理由

わが家の車を買い替えることになった。ゴルフやスキーに行くのに便利な車が欲しいと夫が言いだしたのだ。
いまの車の車検がまだまだ残っているのにもったいないなあ……が頭をよぎったものの、一生懸命働いてくれているし、そのくらいの楽しみがあってもいいかと思い、「じゃあ好きなの買ったら?」と言った。
そうしたら、彼が選んだのはいま乗っているのよりずいぶん大きな車。横幅は十五センチ、全長は一メートル長くなると聞いて、私は慌てた。
「私、そんなの運転できないよお!」

自慢じゃないが、私は車の運転が苦手だ。十年間ペーパードライバーをした後、三年前から運転するようになったのだが、つくづく自分には向いていないと感じている。
ふつうに走行する分にはそう問題はないのだが、どうしようもなく下手なのが車庫入れ。スーパーに買い物に行ったら、私は空いている屋上まで上がりたい。が、夫が億劫がるのでしかたなく二階、三階の混んだ駐車場に進入する。やっと空きを見つけ、「よし、入れるぞ」とハンドルに力を込めたら、夫が助手席からぼそっと言う。
「隣の車、高いよ。七百万くらいかな」
……ひどい。そうでなくても、「後ろがつかえている」というプレッシャーで私の心臓はつぶれそうになっているというのに。
それから縦列駐車もだめである。それに必要なスペースは車の長さの一・五倍というけれど、私はそれっぽっちじゃまず入れられない。そんなだから駅まで夫を迎えに行き、待っているあいだに後からやってきた車に自分の車を挟むように停められるともものすごくイヤ。
「ちょっとォ、もっと空けてくんなきゃ出られないじゃないのよー!」

こういう話をすると、たいていの人は「そんなのは慣れだよ。練習すればできるようになるさ」と言う。しかし、三年運転していてこのレベルというのはひどすぎるのではないだろうか……。
世の中の大半の人がなんなくこなすことが私だけできないなんてわけがない。そうは思うのだが、現実問題、いつまでたってもうまくならない。
私は決して不器用ではないのだが、車の運転に関しては「人並みのことができない」と認めざるを得ない。

* * * * *

どうして自分はこうなのか。
誰もまともに取り合ってくれないが、私自身は原因はこれしかないと思っている。空間能力が著しく欠如していることだ。
『話を聞かない男、地図が読めない女』によると、空間能力とは「三次元的にものを見る力」。対象物の形や大きさ、動き、配置などを思い浮かべ、それを回転させたり立体的に見たり。また対象物と自分との距離、位置関係を把握する能力のことである。
その空間能力をつかさどる脳の領域は、女よりも男のほうが圧倒的に発達しているという。太古の昔から男は獲物を追いながら距離を目算したり、どんなに遠くにいても家のある方角を察知し、帰り着く必要があった。その“狩人”だった頃の名残だそうだ。
そう、私が車庫入れや縦列駐車が苦手なのは、そのスペースにうまくおさめるためのバックの開始位置やその角度をイメージできないから。車線変更するときいつもおっかなびっくりなのも、ミラーに写る車のスピードを推測してこの距離なら入れる、入れないという判断を下すのがむずかしいからなのだ。

ところで、私は方角がまったくわからない人間だが、方向音痴も空間能力に問題があるためだと先述の本にある。
空間能力の優れた人は頭の中で地図を回転させ、しかもその情報を蓄積することができるので戻ってくるときはもう見なくても済むらしい。しかし、私は車が右折すると地図も右に九十度回し、南に向かえば上下をひっくり返すというふうに自分の進行方向と地図の方角を合わせなければ読むことができないし、道もちっとも覚えられない。
ショッピングセンターの巨大駐車場で自分の車まで戻れない、カラオケの最中にトイレに立ったら迷子になる、食事をして店を出ると自分が右から来たのか左から来たのかわからない。この方向感覚のなさは異常なのではないかと真剣に思う。
私がよく利用する駅には改札が南と北に二箇所ある。南口を通って帰宅するときホーム右側の電車に乗らなくてはならないとしたら、北口を通ったときは当然左側の電車に乗ることになる。しかし、私にはそれがわからない。電車が動きだしてしばらく窓の外を眺めてからようやく乗り間違えたことに気づいた……ということが何度もある。
友人が言うには、私が会話の中で「角のコンビニのね」「そこの○○って店あるじゃない?」と言いながら指差す方向にその建物があったことは一度もないそうだ。毎回毎回私の指はあらぬ方を向いているらしいが、私としてはばっちり指し示しているつもりなのである。
道に迷ったとき、まったく初めての場所なのに「えーと、あっちが北だから……」とどこかに書いてあるかのように言う人がいるけれど、いつもマジックを見せられたような気分になる。どうしてそっちが北だとわかるんだ!?


いま乗っている車は軽ではないが、「とにかく小さいのにして!」という私のリクエストに適ったものだ。それでも最近壁にこすって夫にえらく叱られた。
「だから今度の車にはコーナーポールつけてよ」
「やだよ、かっこわるい。そんなもんは慣れなんだから、練習練習」
そりゃあふつうの人はしばらく乗れば感覚を掴み、どこででも応用をきかせることができるのだろうが、私はふつうじゃないのだよ……。これは言い訳なんかじゃない、事実なのだ。
自宅の駐車場といったように環境が一定しているところであれば繰り返しの練習でできるようになるが、実際に車で走るときは常に新しい状況下に置かれる。だから何年運転していても、車庫入れや縦列駐車のたびに深呼吸をしなくてはならないのである。

と泣き言を言っていても、いまの車がなくなったらその大きい車をなんとか操縦しなくてはならない。しばらくは初心者マークをつけて乗ることにする。


2007年04月17日(火) うれしい知らせ

実家の母から電話。いつになく明るい口調だなと思ったら、やっぱりうれしい報告だった。
おっと、「いつになく」と書いたからといって、母がふだんは陰気くさい人というわけではない。ただ、去年からある病気の治療のために薬を飲んでおり、その副作用で常に体調がすぐれず、本来の元気や明るさが封印されているのだ。
一年間の予定でスタートした治療であるが、きつい薬ゆえにそれに耐えられるだけの体力があるかどうかの検査が月に一度ある。それに引っかかると薬を減らされ、最悪の場合は治療中止になってしまう。
治癒率を上げるには期間満了しなくてはならない。母は早い段階から規定量の半分に減薬されてしまっていることもあり、なんとしても最終回までたどり着かなくてはならないのだが、検査のたびにお医者さんから「今回はギリギリセーフ。これ以上○○の数値が落ちると中止になる」と言われていた。
途中でやめたら、ここまでのがんばりが水の泡。私たち家族も検査の日は「どうか今月もクリアできますように」と祈るばかりだったのだけれど、母の電話はその最後の検査が終わり、“完走”できることになった、という知らせだった。

この一年の治療生活が本当に厳しいものであったことは、離れて暮らす私にもわかった。
常に体がだるく、家事も思うようにこなせない。その上節々が痛んだり、手足がしびれたり。髪がたくさん抜けるのも女性としてはつらいだろう。治療中に鬱になる人もいると聞いていたので、メールの返事がなかなか届かないと少し不安になった。
しかし、その日々もやっと終わりが見えてきた。

母がくじけないでがんばってこられたのは父の支えがあったからだが、もうひとつ、同じ治療を受けている同年代の女性のブログの存在も大きかったようだ。
帰省したとき、その人のテキストをプリントアウトしたファイルを見つけた。読んでみると、前向きで非常に明るい女性で「毎日こんなにつらいんです」なんてことはどこにも書いていない。治療の経過や検査結果の数値などが参考になるということもあるが、それ以上に母は「完走目指してがんばるぞー!」というノリに元気をもらっていたらしい。
闘病中の不安やつらさの本当のところは、同じ立場にある人か経験者にしかわからない。治療が終了したら、「母を支えてくれてありがとう」とメールを送るつもりだ。

その女性は少し前に治療を完了し、現在は治癒したかどうか判定待ちの状態だ。体内から薬が抜けたようで、
「体が思うように動くって、どこも痛くないって、こんなに素敵なことだったんだ!」
と日記に書いてある。
母にも、その人にも、そのブログに集まっている人たちにも、どうか待ち望む結果が出ますように。


2007年04月12日(木) ある人との関係

mixiをしているという人は日記関係の知人には多かったが、最近オフラインの付き合いの人の中にも増えてきた。そういうことにはまったく興味のなさそうなうちの夫まで始めたのだから(義妹から招待状が回ってきたらしい)、まさに「猫も杓子も」という印象だ。
さて先日、会社の昼休みにごはんを食べながらmixiの話になった。そうしたら、うちのひとりが「こないだマイミクを外されてさ……」としょんぼりと言う。
少し説明すると、マイミク(マイミクシィ)というのはmixi内での友人のこと。「マイミクになってください」「いいですよ」のやりとりを経て相互リンクをすることで、互いの日記を読むことができるようになる。マイミクを外されたとは、そのリンクを切られたということだ。
しかし、彼女にはその理由がわからない。自分が書いたここ数日の日記を読み返してみたが、その人を傷つけたり不快にさせたりする内容とは思えない。相手の日記に失礼なコメントをつけた覚えもない。
「たしかに前ほど頻繁には訪問しなくなってたけど、だからなんやろか。コミュニティで仲良くなった人でさ、いつかオフ会できればいいねなんて話してたこともあったのに、すごいショック……」

なぜだかわからないが嫌われてしまった、と落ち込む同僚。しかし気休めを言うわけではないけれど、心当たりがないのならそうとはかぎらないんじゃないの?
たとえば、マイミクを増やし過ぎてしまい、個人的な話ができなくなってしまった……というぼやきはよく聞く。膨れあがったマイミクを整理して一からやり直そうと思い立ち、「嫌いとかそんなんじゃ決してないんだけど、今回本当に親しい人だけに絞らせてもらうことにしました。ごめんなさい」ということだったのかもしれない。
でもいずれにせよ、「外したら角が立つもんなあ……」と我慢しながらマイミクに残されているより、すぱっと切ってもらったほうがありがたいじゃないの。
と私は思うよ、となぐさめた。

人と人の関係は生もので、それは常に変化している。「自分とある人の関係」は、今日と昨日ではほとんど変わりなく見えても、一年前と比べたら違いがはっきりわかることがある。
顔を合わせれば挨拶をする程度の間柄だったのがいまやすっかり打ち解けたということもあれば、逆にあんなに頻繁にやりとりをしていたのにいつしか疎遠になってしまったということもある。先日、遠方で暮らす友人のところに遊びに行こうよと共通の友人を誘ったところ、あまり気乗りしない様子。もう何年も音信不通でほとんど他人状態だという。
「どうしたん、ケンカでもしたん?」
「そんなんじゃないよ。ただ、こっちは一人身であっちは子育て真っ只中でしょ。話が合わなくなってきたなあと思ってるうちに付き合いがなくなっちゃっただけ」

学生時代は私よりむしろその友人のほうが彼女と親しかったのに……と驚いたが、考えてみればこんなことはめずらしいことでもなんでもない。
携帯電話を換えたとき、アドレス帳を見ながら新しい番号を知らせる人、知らせない人を分ける。年末になると、年賀状送付リストから「もういいや」な人を除く。友人・知人関係のリストラは日常生活の中で誰もが無意識のうちに当たり前に行っていることなのだ。
「あっ、マイミクさんが一人減ってる……」
これがことさら寂しく感じられるのは、mixiの場合はそのつながりが目に見えるため、関係の終わりがはっきりわかってしまうからだろう。オフラインの付き合いのように自然消滅、フェイドアウトということができないのだ。
けれども、人と人との距離、「仲」というのが日々変わっていくものであることを考えれば、外したり外されたりということもそりゃああるだろう。

* * * * *

……という話をした数日後。
「こないだ言ってたマイミク外されたって話だけどさ、あれ、解決したわ」
と同僚。
「理由がわかったん?」
「昨日その人からまたマイミクの申請が来てん。なんかね、マイミクに嫌な人がいたんだけどその人だけ外すと揉めそうだったから、いっぺん退会してあらたに入り直したんだってー」
なあんだ、そういうことだったの。真剣になぐさめて損しちゃった。
でもよかったね。いくら「そういうこともある」とはいえ、やっぱり友だちはくるくると入れ替わらないほうがいいもんね。


2007年04月09日(月) ところ変われば

前回のテキストで、冷麺とメロンパンについて大きな勘違いをしていたという話を書いたら、いろいろ情報をいただいた。
その中に、Nikkei Net内の「食べ物新日本奇行」というページを教えてくださった方があった。日経新聞社が読者アンケートによってさまざまな食べ物についての謎を解明しているコーナーで、それを見たら、私がいままで「冷麺と冷やし中華は同じもの」「メロンパンとサンライズは似ても似つかぬ別のパン」と信じて疑わなかった理由がたちまち明らかになった。

まず「冷麺」についてであるが、私は前回、
「冷麺と冷やし中華が別物であるとは夢にも思わず、ラーメン屋で冷やし中華を頼むときも『冷麺ください』と言ってきた。が、注文を聞き返されることもなく、いつもちゃんと冷やし中華が出てきた(ので、今日まで勘違いに気づかなかった)」
と書いた。これについて私は、ラーメン屋には冷麺(韓国式冷麺)は置いていないため、店の人が「ああ、このお客は冷たい麺のことを言っているんだな」と機転を利かせてくれ、毎回無事に冷やし中華が運ばれてきていたのだろうと解釈した。
しかし、そうではなかったのである。
上記ページに、「西日本の多くの地域では、冷やし中華のことを『冷麺』と呼んでいる」と書かれていたのだ(第9回「いわゆる冷やし中華」)。
ハムに錦糸玉子、細切りきゅうりがのっかったあの料理は近畿・四国地方では「冷麺」、北海道では「冷やしラーメン」、それ以外の地域では「冷やし中華」という名称で呼ばれているという内容である。そうだったのか!だから実家の両親も冷麺、冷麺と言っていたのだ。
もうひとつ思い出した。京都の大学に通っていた頃、学食のメニューに「唐揚げ冷麺」があったことを。麺の上にレタスにトマトといった生野菜と唐揚げが二、三個載ったもので、夏はしょっちゅう食べていたから覚えているが、あれは「唐揚げ冷やし中華」ではなかった。
ラーメン屋で「冷麺」と注文してちゃんと冷やし中華が運ばれてきていたのは、関西では当たり前のことだったのだ。

次に「メロンパン」。
前回の日記に、「小町さんの言うメロンパン(ラグビーボール型白あん入り)は見たことがない」というメールをいくつもいただいたが、それもそのはず、これは広島で生まれ、西日本でしか売られていないパンだったのである。
「食べ物新日本奇行」では「メロンパン」も取り上げていた。それによると、ラグビーボール型白あん入りパンが存在し、それを「メロンパン」とする近畿・中国地方ではいわゆるメロンパン(半球形格子模様付き)のことを「サンライズ」と呼び、区別しているということだ(第11回「メロンパンとサンライズ」)。
だから、関西にしか住んだことのない私はサンライズが一般的にメロンパンと呼ばれていることを知らず、関東出身の友人は「サンライズ」という名称を聞いたことがなかったのである。
(厳密に言うと、半球形メロンパンとサンライズはまったく同じものではないらしい。サンライズの表面の模様は格子ではなく放射線状の線で、それが日の出を連想させるのが名前の由来ということだ)
ついでに、
「たしかに半球形メロンパンはマスクメロンを思わせる見た目をしている。でも私のメロンパンはメロンの味がするわけでも形がメロンに似ているわけでもないのに、どうしてメロンパンの名を語っているのだろう?」
という謎も解けた。それはマクワウリをイメージして作られたそう。なるほど……。

* * * * *

「名称が同じでも、地域によってはまったく異なった食べ物になる」例はほかにもいろいろある。
東京の人が大阪に来てきつねそばを食べたいと思ったら、「たぬきそば」と注文しなくてはならないことはよく知られているし、私は以前、ここで桜餅の食べ方について「葉っぱごと食べるか、それとも剥がして食べるか」と書き、こんなコメントをもらったことがある。
「小町さんの言う桜餅とは道明寺ですか?長命寺ですか?それによって私の場合、答えが違ってきます。道明寺なら食べませんが、長命寺なら食べます」
えっ、桜餅に種類があるの!?さっそく調べたところ、「道明寺」は関西の桜餅、「長命寺」は関東の桜餅、とわかってびっくり。

関西の桜餅、「道明寺」。私にとって桜餅といえばこれ。
つぶつぶのもち米であんを包んだもので、見た目は桜の葉っぱにくるまれたピンク色のおはぎ。

関東の桜餅、「長命寺」。
小麦粉を練ってクレープ状に焼いた生地であんを包んだもので、やはり薄いピンク色をしている。


もし関西人と関東人が「桜餅っておいしいよねえ」「私も大好きなのよ」という会話をしていたら、ふたりが思い浮かべているのはまったく別の和菓子なのである。

ううむ、なんでも書いてみるものだなあ。こういう発見があるから日記書きはおもしろい。
今回は「ところ変われば品変わる」の話をしたけれど、私は結婚して「(育った)家庭違えば食べ方違う」もつくづく感じている。
「えっ、それにそんなもん(調味料)かけるの!?」
と言ったり言われたり。その話はいずれまた。


2007年04月06日(金) またひとつかしこくなりました。

酒井順子さんのエッセイを読みながら、え!と声をあげてしまった。
知人と食事に行ったら、彼女が品書きの「冷麺」を冷やし中華のことだと思っていてびっくりした、という内容だったのだが、私はそれを読んでびっくりした。
「えっ、冷麺と冷やし中華って違う食べ物なの……?」
私もそのふたつは呼び方が違うだけで同じものだと思っていた。酒井さんによると、「韓国のゴムみたいな感じの麺にスープがかかってて、キムチとかのってるやつ」が冷麺だという。
それなら一度食べたことがある。焼き肉屋で誰かが食べていたのをひと口もらったのだが、麺は糸コンニャクのようで食感は本当にゴムだし、ちっともおいしくないと思ったのだった。ああ、そういえばあれも冷麺と呼んでいたっけ……。いや、あれこそが冷麺だったらしい。
で、私がずっとそれと信じて疑わなかったハムや錦糸玉子やきゅうりがのっかったものは「冷やし中華」。たしかに夏になるとラーメン屋の壁に「冷やし中華始めました」の貼り紙を見かける。
しかし私はその名称にはなじみがなく、いつも「冷麺ください」と言っていた。けれどもゴム麺が出てきたことは一度もなかったため、今日まで認識を改める機会がなかったのだ。

過去にも似たようなショックを味わったことがある。
大学生のとき、部屋に泊まりに来た友人と翌朝のパンを買いにコンビニに行った。ひさしぶりにメロンパンが食べたいなあと思い探していたら、彼女が「あったよ」と持ってきたのはまったく別のパン。
「ううん、私がほしいのはメロンパン」
「だから、ハイ」
「それ、サンライズやん」
「は?メロンパンはこれでしょ」

見ると彼女が言い張る通り、袋に「メロンパン」と書いてあったから驚いた。ええっ、これはサンライズでしょう!?
「なあに、そのサンライズって」
サンライズというのは、パン生地にビスケット生地をかぶせ、表面に格子模様をつけた半球形のパン。まさに彼女が手にしているそれである(写真左)。
そして私の言うメロンパンは、ラグビーボールを縦に半割りした形で中に白あんがつまったパン。両者は味も形状も似ても似つかぬものである(写真右下)。
メロンの味がするわけでも形がメロンに似ているわけでもないのに、どうしてこのパンが「メロンパン」を名乗っているのかは知らない。が、とにかく私の実家周辺のパン屋はどこも、半球形格子模様入りパンを「サンライズ」、ラグビーボール型白あん入りパンを「メロンパン」という名称で売っていたのである。
言われてみれば、サンライズのほうがずっとメロンパンにふさわしいような気はする。しかし、私は一般的にこれが「メロンパン」と呼ばれているとは知らなかった。
最近ブームなのか、街で移動式のメロンパン屋(車)をよく見かけるが、あそこで売っているのは私の中ではやっぱり「サンライズ」である。


無知さらけだしついでにもうひとつ。
先日、友人と「おみおつけ」とはなにかということで議論になった。
私はその言葉を耳にしたことはあったが、なんのことかきちんと確かめたことはなかった。しかしその語感と、以前本で「おみおつけ色をした海」という表現を見たことがあったのとで、味噌汁のことだろうと解釈していた。
が、友人は漬け物のことだと言う。「おみ」はおみ足のおみで「御御」と書き、「お漬け」つまり漬け物を丁寧にいった言葉である、と自信たっぷりだ。
「えー、じゃあ漬け物色の海ってどんな色?」
と思ったものの、味噌汁説に絶対の自信があるわけではないから漢字まで説明されるとそうなのかしらという気がしてくる。家に帰って夫に訊いたが、「どっちかだとは思うけどわからない」という答え。
「そうだよねえ、だっておみおつけなんて言葉使ってる人、いないもん」
で、広辞苑で調べてみたら。
「おみ」は友人の言う通り「御御」だったが、「おつけ」は「御付」で味噌汁のこと。つまり「御御御付」は味噌汁を丁寧にいう言葉であった。

今日の日記にはモニタの向こうから「そんなことも知らなかったのお?」という声が聞こえてきそうだ。はい、知りませんでした。これでまたひとつかしこくなりました。


2007年04月03日(火) 漫画コンプレックス

エレベーターに乗り込み、私が「4」を押した瞬間、乗っていた見知らぬ男性が露骨に首を動かして横の壁を見た。案内表示で四階になにがあるのかを確かめたのだ。
「他人がどこに用があるのか、そんなに気になるか」
とイヤーな気分になったのは、行き先が「漫画喫茶」だったから、かもしれない。もし美容院やレストランだったなら、なんとも思わなかったような気もする。

「漫画を読む」という行為に私が妙に引け目を感じてしまうのは、子どもの頃に大人からさんざん「漫画なんか……」を吹き込まれたからだと思う。
小学校の担任は「漫画を読むとバカになる」とよく言っていたし、親も私や妹が友だちから借りてきたものを読んでいるといい顔をしなかった。昨年はらたいらさんが亡くなったとき、クイズダービーでのあの驚異の正解率が「漫画家の地位が低かったため、自分ががんばれば世間の評価が変わると思い、必死で勉強した」結果であると知ったが、たしかに二十年前は「漫画=くだらないもの」というのが人々の認識だった。
そのため、小学生の私が心おきなく読めるのは児童館くらいのものだった。そして抜けている巻があると本屋に行った。当時はビニールなどかけられていなかったので立ち読みができたのである。その代わり、十分も滞在していると店のオジサンがハタキをかけにやってきたが、どんなに頭をパタパタされようとくじけず読んだ。月の小遣いは五百円。単行本一冊が三百五十円だったから、そうそう買えなかったのだ。
しかしそうして大人の目を避けながら読んでいるうちに、いつしか私の中にも「漫画を読むのは恥ずかしいこと、褒められたことではないのだ」という意識が植えつけられた。
電車の中で漫画雑誌を読んでいるサラリーマンを見かけると、「なんてみっともない、これが自分の夫だったら泣くな」と辛辣なことを思うのも、むかし刷り込まれた「漫画なんか……」が効いているのだろう。

……が、では自分はもうすっかり卒業したのかというとそんなことはないのである。社会人になってから長らくご無沙汰だったが、ここ数年でまたちょこちょこと読むようになった。
きれいな漫画喫茶が増えたからだ。それまでは「漫画オタクが集まる特殊な場所」というイメージだったが、女一人でも入れるおしゃれな「ネットカフェ」に変わった。なので、出先で時間潰しをしたいときに立ち寄ることがある。
先日ミナミを歩いていたら、ビルの前で黒服のお兄さんが「本日オープン!」と呼び込みをしているのを見かけた。なんの店かと思ったら漫画喫茶で、今日は一時間百円だと言うので入ってみたところ、水族館のようにほの暗く幻想的な雰囲気、フロアはとてもゆったりしたつくりで落ちつける。ジュースは自販機ではなくお金をかけているなあという感じだし、ソフトクリームやポップコーンも無料。
私の周囲には漫画喫茶未経験者がわりといて、「私も行ってみたい。今度連れて行って」と言われることがある。「黙〜って漫画を読む場所に二人で行ってどうするの」と返すと、だって一人で行く勇気はないんだもんと言う。でもこういう店だったら彼女も平気だろう。


いまになって思うのは、あの頃どうして大人はあんなに漫画を悪く言ったのかなあということだ。
いや、理由はわかっている。絵で理解するため考えることをしなくなる、想像力がなくなるとよく言われたっけ。漫画を読むのに根気はいらないからそれに慣れてしまい、活字を読むのを苦にする子どもが出るのを危惧したというのもあるだろう。これについては、たしかに私も自分の子どもが漫画を読みふける姿を見たら気にするだろうなと思う。
けれども私は大人になって、「活字は尊く、漫画は劣っている」なんてことはないのだということを知った。
「漫画なんか読まずに本を読め」としょっちゅう言われたが、小説でもくだらないものはくだらなく、漫画にも名作と呼ぶべきものはたくさんある。私の世代にはサッカーや野球を始めたきっかけが『キャプテン翼』や『タッチ』だったという男の子がいっぱいいた。『ブラック・ジャック』に憧れて医者になったという話も聞いたことがある。そういう面は一切見ず、躍起になって子どもから漫画を遠ざけようとしたのが不思議な気さえする。

年末に入院していた病院の休憩室には少女漫画がひとつもなく、私はしかたなしに『ゴルゴ13』を部屋に持ち込んだ。絵柄的にはまったく好みでなかったが、活字を読むのは億劫だったのだ。
が、初めて読んでみて驚いた。ゴルゴ13は世界を舞台に暗躍するスナイパーだから、執筆当時の国際情勢が反映されているのだが、三十年以上前に描かれたものなのにいま読んでも稚拙に感じないくらいストーリーがよくできているのだ。誰でも気軽に海外に行ける時代ではなかったはずなのに、これはすごいと思った。
しかしこの漫画を子どもが読んでも、面白みは理解できないにちがいない。
漫画喫茶がこれだけ繁盛しているからといって、いい年をして子どもの漫画を読み続ける幼稚な大人が多いと決めつけるのは早計だ。それだけ大人の鑑賞に耐えうる質の高い作品が出てきていると見ることもできるのではないだろうか。
……と言ったら、漫画を読まない人には正当化しすぎだと笑われてしまうかしら。