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2006年06月30日(金) 詮索しないで。

このところ更新が何度か飛んでいるのは、ばたばたと忙しかったから。母が入院していたので、自宅と実家を行き来していたのだ。
私に負担をかけまいと、母は見舞いはいらないと言い、父は家のことは自分がちゃんとやるからと言ったが、「ハイ、そうですか」とはいかない。母の顔を見ないことには心配だし、父に毎晩スーパーの惣菜を食べさせるのもつらい。実家のそばには妹が住んでいるが、出産したばかりなので頼めない。
そんなわけでここ三週間ほどせっせと実家に通っていたら、パソコンを開く暇がなかった。で、もうしばらくは更新が不安定になる見込み。

……とここまでが前置き。

* * * * *

入院して四、五日経った頃、母から携帯メールが届いた。もしご近所の人に会って自分のことを訊かれることがあったら、旅行に行っていると言っておいて、という内容だ。
病気だなんて誰だって他人には知られたくない。私はすぐに「了解」と返信した。

そして数日前、無事退院した母がしばらくぶりのわが家でお茶を飲みながら、「突きあたりの家の奥さんと話した?」と言った。
「ううん、会ってないよ。どんな人かも知らんわ」
「それが、好奇心旺盛な人でねえ。よその家のことにすごく興味があるみたい。悪い人ではないんやけどね……」

定年退職した夫とふたり暮らしのその女性はしょっちゅう近所を散歩していて、庭に出ている人を見つけると話しかけ、情報収集をするらしい。
そして、次に出会った誰かにその成果------向かいの奥さんが三人目を妊娠して予定日はいついつだの、角の家が車を買い替えたけど、ご主人がお勤めのどこそこって景気いいのねだの、○○さんとこの息子さんは浪人中なのにガレージでバイクいじりばかり、来年は大丈夫なのかしらだの------を披露するのだ。
そんなだから母は彼女に家のことを話さないよう気をつけているのであるが、妹は父と母が海外旅行中、朝晩実家に通って犬の世話をしていたら、「最近お母さんの姿を見ないけど、なにかあったの?」と訊かれたという。それで母は、もしかしたら今回も目ざとい彼女のチェックが入るのでは……と思ったのだ。

「噂好き、詮索魔ってどこにでもおるんやなあ」
と思わず苦笑したのは友人の話を思い出したからである。彼女が以前住んでいたマンションの隣人にそういう人がいたのだ。
引越しのあいさつに行ったら、ゴミ出しのルールや選挙の投票場所などあれこれ親切に教えてくれる奥さんがいた。いい人がご近所さんでよかったわと喜んでいたある日、立ち話の最中にこんなことを言われた。

「ご主人、美容師さん?月曜日がお休みの仕事っていったらそのくらいしか思い浮かばなくて。イマドキの感じだしスーツも着てらっしゃらないから、もしかしてそうなのかなって」

驚いた。夫は美容師ではないけれど、たしかに月曜日が定休。しかし、彼女にそんな話をしたことはない。こちらのことをよく見ているんだな、とどきっとした。
その後なんとなく注意していると、
「昨日遊びに来てた人たち、学生時代のお友達?」
「ご主人の帰りが遅いから寂しいでしょう、新婚なのにねえ」
「週末は実家にでも帰ってたの?夜、電気がついてなかったから」
といったことをさらりと言われる。まるで監視されているみたい……と彼女はだんだん不気味になってきた。
その気持ちが決定的になったのは、「ねえ、あなた、コレいるの?」と訊かれたときだ。女性は親指を立てるジェスチャーをしていた。
「この人、ちょっとおかしいんじゃないだろうか……」

以来、彼女は廊下で顔を合わせてもあいさつだけで、会話は避けるようになった。
それから数日後、車で出かけようとしてびっくり。ドアのキーの差込口にガムが押し付けられていたのだ。
嫌がらせにその女性がやったのだ、と彼女は信じて疑わない。


先日、私は「許せるダメ男、許せないダメ男」というテキストの中で、もし男性を対象に「許せるダメ女、許せないダメ女」調査をするとしたらこんな女性がリストアップされるのではないか、といくつか例を挙げた。
そうしたら何人かの方が回答してくださったのだが、それによると「ワイドショーネタや周囲の噂などの話しかしない女性」は「許せないダメ女」であるらしい。理由は「頭が悪そうでイヤ」というもの。

他人のプライバシーへの興味は男性の中にもあると思うが、やはり女性のほうが強いと感じる。職場や近所でくだらない噂を流す人がいる、という悩みに登場する困ったサンはたいてい女性だ。
旺盛すぎる好奇心に“暇”が加わると、詮索オバサン化することがある。私も気をつけようっと。


2006年06月26日(月) 近所からの苦情

同僚から聞いた話である。
彼女の知人の自宅のポストに宛名も差出人もない一通の封筒が入っていた。なんだろう?と読んでびっくり。お宅の犬の鳴き声がうるさいのでなんとかしてほしい、という内容だったのだ。
「へええ。で、その知り合いはどうしたん?」
「キレてた」
「……え、なんで?」
知人の言い分はこうらしい。ペット可のマンションに住むからには隣人が飼っている犬猫の鳴き声が多少聞こえることも了解しておくべきであろう、そういうことに寛容になれないのならペットを飼えるマンションになど住まねばよいのだ。それに匿名なんて卑怯じゃないか、言いたいことがあるならきちんと名乗るべきである、と。

苦情の手紙が届くなんてよほどのことだと思うのだが、それでも自分の非に目を向けようとしないのか!と私はかなり驚いた。
が、すぐに思い直した。ここまで自己中心的な人はめずらしいとしても、自分の犬が他人に与えている不快にものすごく鈍感な飼い主は決して少なくなさそうだ。

* * * * *

私の実家は新興住宅地の一角にある。ここ四、五年でよそから移ってきた人ばかりが住んでいる閑静な町だ。
その家を私はとても気に入っているのだけれど、ひとつだけ残念に思っていることがある。お向かいが飼っている柴犬とその隣家のコーギーが信じられないほどうるさいのだ。
毎朝六時きっかりに柴犬がワンワンワンワンと吠えはじめる。おそらく家人がその時間に起きるのだろう。すると隣のコーギーも目を覚まし、負けじとワンワンワンワン。昼間も庭に面した道を人や車が通るたび二匹が競い合うように吠えたてるため、鳴き声は一日中途絶えることがない。
私などはときどき帰省するだけだからまだいいが、ここで暮らしている人たちはさぞかしストレスを感じていることだろう。犬好きの私でも勘弁してよと思うくらいだから、犬を可愛いと思わない人や自宅で仕事をしている人、受験生や寝たきりの老人などはたまらないんじゃないだろうか。
不思議でしかたがないのだが、飼い主はあれをうるさく感じないのだろうか。うちよりもさらに大音量で聞こえているであろうに、叱りつける声は聞いたことがない。
それとも、愛犬の鳴き声は「騒音」にはならないのか……。

どうやらそのようである。
愛犬家が集うとある掲示板に、「引越ししたばかりの家の庭で犬たちを遊ばせていたら、見知らぬおじいさんに『犬がうるさい。こんな静かな住宅街で犬の商売をするな』と文句を言われた」という女性の投稿があったのだが、彼女の言い分とそれについたコメントのいくつかを読んだらそのことがよくわかる。

その方が一体なにを言いたかったのかわかりません。うるさいから黙らせろと言いたかったのか、うるさいから犬を捨てろと言いたかったのか。たしかにこの辺は静かなところですが、子どももギャーギャー言ってます。


面と向かってうるさい!と怒鳴られても「なにを言いたかったのかわからない」のか……。「子どもだって騒いでるじゃないの」か……。
唖然となるが、これに対するレスもすごい。

ご近所にたいていひとりくらいはうるさいお年寄りがいるものです。なにか言ってきたら「すみません、気をつけます」を繰り返し、ワンコはそのままで。そのうちなにも言ってこなくなりますよ〜。

ほんとに迷惑しているわけでもないのかも。なににでも文句を言いたい人っているじゃないですか。近隣への迷惑といっても吠え声のマックスが何ホーンかというのが決められていると思います。それ以下でしたら問題ありません。市役所等で測定器を貸してくれたはずです。違反していないのにまた文句を言ってくるようでしたら、恐喝ですので警察へ。


ふつうの住宅街でブリーダーをしていると勘違いされるほどたくさんの犬(十四匹)を飼っており、しかも、
「うちの子たちは人・動物を見つけたらもうワンワンが始まります。新聞屋さんが来てもお隣さんが見えてもワンワンです」
であるにもかかわらず、「苦情がきたのにびっくりした」「ちょっとした吠えにうるさい、うるさいと言われるとどうしたらいいのか……」と嘆く。どうやら投稿者と一部の飼い主たちはその苦情を理不尽なものと感じているらしい。

犬たちにとっては無駄吠えではなく、自分たちのテリトリーを守るために吠えてるんだと思うんです。

近所にあいさつ回りをしたとき、ゴミをチェックするおばさんがいるから気をつけてと言われたんですが、犬についてはこういう人がいるからとは言われなかったので、この辺は犬好きさんが多いのかなと思ってました。

そのおじいさん以外には、そんなにうるさいとは思われていないような気がします。


こういう人だから苦情になるのよねえ……と納得。
たとえテリトリーを守るための吠えであっても、住宅が密集した地域で飼われている犬にそれを許してやれないのは当たり前じゃないか。しかも十四匹、なのだ。神経質なほど気を遣わなくちゃ、そりゃあ鳴き声がどうの匂いがどうの抜け毛がどうのと言われてしまうさ。庭に毒を投げ込まれる心配をする前に、自分の犬が近隣に迷惑をかけていることを自覚しなさいよ。


「せっかくこの子たちのために庭付きの家を買ったのにやりきれない」と投稿者は言うけれど、嘆きたいのは近所の人たちのほう。夢のマイホームを手に入れたと思ったら、朝から晩まで鳴きわめく犬が引越ししてくるなんて。
庭に出して遊ばせてやるのは無駄吠えをしないという最低限のしつけをしてから。あなたにとっては可愛い可愛い子どもでも、他人には「ただの犬」だ。


2006年06月23日(金) 許せるダメ男、許せないダメ男

リビングのテーブルの上に『SPA!』を発見。
以前、ある記事を読もうと私が買ってきたそれを見て、夫はまじめな顔で「どこで拾ってきたの?」と言った。「ボクらの下半身平均マネーライフ」などという見出しが表紙にでかでかと載っている雑誌を妻がお金を出して買うはずがない、と思ったらしい。
その雑誌を夫が買ってくるなんて!……と驚いたら、特集の「個人投資家の大損墓場通信」が読みたかったよう。
「ふうん、どれどれ……」
といっても、株がどうの投資信託がどうのというコーナーは私は素通り。ページを繰る手を止めたのは、「冴えない男にも朗報!こんなダメ男はむしろモテていた!」という記事だ。
「歯を磨かない」「メールに絵文字を使う」「小食」「機械に弱い」「『俺のナニは大きい』と勘違いしている」といった“男のダメ部分”五十項目について、二十代から三十代の女性百人に「許せるダメ」か「許せないダメ」かを調査した結果である。挿絵を見ただけで読まずともくだらない内容だとわかるのだけれど、そこはそれ、ジャンクフードほど美味しいというやつだ。

さて、女性たちが選んだ「許せないダメ」トップ3は「暴力を振るう」「私の女友達に手を出す」「避妊しない」が圧倒的だったが、「許せるダメ」のほうは人によってばらばら。

●パジャマの上をズボンの中に入れる
ふだんはデキるサラリーマンという感じで社内でもモテる彼ですが、実は寝るときにパジャマの上をズボンにINするのが子どもの頃からの信条。本人は「おなかを冷やさないため」と言うんですが、ブサイクで笑えるし、そんな姿は私しか知らないと思うと余計キュンときます。

●音を消さない
会社のトイレは応接室の隣にあるため、音姫を設置している。でも部下のY君は音を消さないので、いつもお客さんに丸聞こえ。そこで音姫を使ってくれるよう頼んだところ、「男としてちまちま音を消すなんて行為が許せないんです!」と彼。この無意味な信念に不覚にもキュンとしてしまいました。

●赤ちゃん言葉を使う
居酒屋で酔っ払って寝てしまった彼に「ヒロシ君、起きないとダメでちゅよ〜」と話しかけたら、「もうちゅこしねかしぇて〜」と赤ちゃん口調で応答しはじめた。内心イカンだろと突っ込みつつも、カワイイと思ってしまいました。


なるほど、女性はやはり母性本能をくすぐられる仕草や姿に弱いらしい。
ふむ、では私も周囲の男性を思い浮かべて“男のダメポイント”を挙げてみよう。

「車の運転中に信号が長いだの混んでいるだのと文句を言う」
「電車の中で漫画を読む」
「店員やタクシーの運転手に偉そうにする」
「スーツのズボンに折り目がない」

これらはダメはダメでも、私にとっては「許せないダメ」。
そりゃあ渋滞は愉快なものではないけれど、男のイライラカリカリは見映えのいいものではない……ということをわかっていないところが×。通勤途中にジャンプやなんかを読みふけっているサラリーマンも同様。昔ほのかにいいなと思っていた男性がタクシーでマンションまで送ってくれたときに親ほどの年齢の運転手さんに横柄なもの言いをしたのを聞いて、ものすごくがっかりしたことがある。うちの夫は週末はでれんだらんとした格好をしているが、ウィークデーの身だしなみには大変気を遣っている。革靴はいつもピカピカ、ズボンにはピシーッと折り目が入っており、車を運転するときは背中にしわが入るのを嫌って上着をハンガーにかける。そういうのを見ているので、会社でヨレヨレのズボンやしわくちゃのワイシャツを着ている男性を見かけると、つい「仕事できなさそう……」と思ってしまう。

では、私の「許せるダメ」は?

●虫が怖い
独身の頃、ワンルームマンションの台所にゴキブリが出た。悲鳴をあげたら、部屋にいた彼が慌てて腰を浮かした。もちろん退治しに来てくれるものと思っていたら、彼はドアをバタン!私を台所に閉じ込めた。
それでも男かっ!と後から私にののしられ、いつも強気な彼が「だってこっちの部屋に入ってきたら……。俺、ほんま虫アカンねん」としょぼんと言い訳するのが可笑しかった。

●素っ裸で家中をウロウロする
夫が風呂上がりにバスタオルも巻かずいつまでもその格好でいるので、これっぽっちも恥ずかしくないのかと訊くと、「ぜんぜん!まったく!」という答え。
この感覚は女の私には理解できないけれど、いまさら目のやり場に困るということもないので放置している。

●戸を開けたままトイレをする
トイレが狭いからかなんなのか、戸を全開でする人がいる(過去に約二名)。コラ!と言うと便器に腰を下ろした姿勢で手を伸ばして閉めるのだが、私が立ち去るとまたオープン。
バカバカしすぎて、かえって本気で怒る気になれない。

●エッチを拒んだらすねる
眠いとか疲れたとかオンナノコの日だからとか、諸々の理由で“ノー”を表明すると地団駄を踏んでしたがる。それでもこちらが折れないとふてくされて背を向け、「どうせ俺のコレは小便のためだけについてるんだ……」。
大の男がそんなすね方せんでも、とつい情にほだされそうになる。


こうして並べてみると、世の女性と同じく私も外ではキリリとしている男性が自分の前でだけ見せる子どもっぽさや情けないところが嫌いじゃないみたい。

* * * * *

では、もし男性に「女の許せるダメ、許せないダメ」を調査したら、どういう結果が出るのだろう?
挙げられるのはこんな項目だろうか。

「レジで財布を出さない」
「出かける準備に時間がかかる」
「ワイドショーネタや近所の噂話などどうでもいい話しかしない」
「携帯の履歴を盗み見する」
「記念日を忘れると怒る」
「イッたふりをする」
「させてくれない」

ううむ、男のダメポイントに比べて可愛げに欠けるなあ。許してもらえるのかしら……。


2006年06月21日(水) その体の大きさに見合った世界で。

先日、実家のそばで暮らしている妹のところに姪を見に行ったときのこと。どちらに似ていると思うかと夫婦に訊かれた。
「そうねえ……」
生後二ヶ月の赤ちゃんの顔をじいっと見つめる。が、あえて「似ている」と言うほどにはどちらにも似ていない気がする。
すると、やっぱりそうかと頷くふたり。いままで誰からも「パパ似だね」とか「ママにそっくり」とか言われたことがないという。「でも、通天閣のビリケンに似てると言われたことはある」と大笑いしている。
女の子なのにビリケン!?と絶句していたら、妹が言った。
「でも私、一番似てるんはお姉ちゃんのような気がするねん」
「へ?」
「赤鬼みたいな顔して泣いてるときなんか、お姉ちゃんの赤ちゃんの頃にそっくり」
そりゃあ姪はかわいい。似ていると言われるのも歓迎だ。けれども、ビリケン似だとか「将来名前が似合わなかったらどうしよう」(姪はうんと女の子らしい名前なのだ)だとかいう話のあとで「そっくり!」と言われるのは複雑だわ……。
「ところで、なんであんたが私の赤ちゃん時代を知ってるんよ」
「アルバム見たことあるもん」
実家に戻った私は納戸から大昔のアルバムを引っぱりだしてきた。赤ちゃんだった頃の自分の写真を見るのは初めてだ。
「ほ、ほんまや……」
三十四年前の私は、見るからにゴンタになりそうな男の子顔の赤ちゃんだった。そして妹の言うとおり、本当にそっくり(ビリケンとではない、姪とだ)だったのである。

さて、アルバムを見はじめたらページを繰る手が止まらなくなった。
大学時代以降のアルバムは手元にあるためときどき眺めることがあるが、実家に置いてある子どもの頃のものを見ることはまずない。
一緒に写真に写っている子の名前をひとりずつ言ってみる。近所の友達はだいたい覚えていたけれど、クラスの集合写真となるとお手上げだ。幼稚園のクラスメイトで顔と名前が一致したのはほんの数人、小学校低学年では全体の三分の一、高学年は半分。それでも、見つめていたら当時のことがよみがえってきた。
子どもの頃を振り返ると、どうしてあんなたわいもないことにびくびくしたり、悩んだりしていたのだろう?と可笑しくなる。小学生の頃、私は母に叱られるのがとても怖かった。親は子どもの頭の中が読めると思い込んでいたので、知られるとまずいことをした日------食べてはいけないときつく言い渡されていたガムを友達にもらって食べてしまったとか、三角定規をなくしてしまったとか、習字の墨汁を服に飛ばしてしまったとか------は帰り道、ばれたらどう言い訳しようかと本当に胸がどきどきしたものだ。
このあいだ、『ちびまる子ちゃん』でまる子がテストの答案用紙を考え抜いた末、部屋の壁に貼ってあった表彰状の裏に隠したが、やましさから挙動不審になり、母親にばれて大目玉を食う……という話があったが、とても懐かしい気持ちになった。
私もひどい点数のテストや視力検査で0.5をとってしまったときの診断票をどうしても親に見せることができず、その隠し場所を悩みに悩んだ。
「じゅうたんの下はどうだろう?いや、掃除機をかけるときに見つかるかもしれない。じゃあタンスの中は?だめだめ、洗濯物をしまうときにばれちゃう。じゃあどこに……」
結局私はそれを小さく小さく折り畳み、図画工作で使う四角い粘土の中に埋め込んだ。
いまそのことを思い出すと、不思議でしかたがない。そんなに見つかるとまずいものなら、どうしてわざわざ家に持って帰ったりしたのだろう?学校の焼却場で焼いたり、どこかのゴミ箱に粉々にちぎって捨てたりということもできたはずなのに。
しかし、「隠す」という行為と矛盾するようであるが、私はそれをこの世から完全に消し去ってしまうということはどうしてもできなかった。どこからか話を聞きつけた母に「こないだテストあったんだって?」と言われたときには、観念して見せられるようにしておかなくてはならないような気がしていたのだ。
隠すことはしても焼いたり捨てたりはできない、その小心さ、生まじめさが「子ども」なのだろうなと思う。大人なら、「んなこと言ったって、とっちゃったもんはしゃあないやん」と開き直るか、さっさと処分するかのどちらかだろう。

出勤途中、ランドセルを背負った子どもたちを見て、いいよなあとつぶやくことがある。
「学校行って給食食べて、放課後は友達と遊んで、晩ご飯食べたら一日が終わるんだもんなあ」
しかし、いまなら笑っちゃうくらいささいなことにも大騒ぎしていた昔の自分を思い出したら、家族を養うプレッシャーやリストラの不安、健康の悩みがないからといって彼らがお気楽に暮らしているというわけでもないのだろうな、という気がしてきた。
彼らは大人にとってはなんでもないようなことに怯えたり、パニックに陥ったりする。親がちょっとケンカしただけで離婚しちゃうんじゃないかと布団の中で泣いたり、ノストラダムスの大予言を信じて恐怖におののいたり。
最近、小学生の男の子ふたりが団地のゴミ捨て場のコンテナに入って遊んでいて、出られなくなってしまった騒動をニュースでやっていた。助けられたとき、「知らない男の人に閉じ込められた」と言ったのは親に叱られるのが怖かったからだという。
大人は「なんでそんなつまらない嘘をつくんだ」と理解に苦しんだろうが、彼らはどうにか怒られずにすむ方法はないものかと真っ暗なコンテナの中で真剣に話し合ったのに違いない。
まだ「要領」というものを持たない子どもたちには、大人には見えない苦労がきっとあって。
彼らは大人が悩むことを悩まない代わりに、大人が悩まないことを悩む。その体の大きさに見合った世界で、大人と同じだけ深刻に、切実に、懸命に生きているのだろうな。まだ泣くことしか知らないように見える生後二ヶ月の赤ちゃんでさえも。


2006年06月16日(金) 夜明けのコーヒー

近所を歩いていたら、後ろからクラクションが聞こえた。
振り返ると、白い乗用車。しかし、私はなんのために鳴らされたのかわからなかった。一車線だけの細い道ではあるが、私は真ん中を歩いていたわけではない。わざわざ「どいてくれ」と言わなくても通れるだけの道幅はあるのだ。
なんなの?といぶかしく思ったそのとき、気がついた。ボンネットの上に燦然と輝く若葉マーク。そうか、ふつうのドライバーならそれほど苦もなく行くところだけれど、彼はちょっぴり自信がなく私に注意を促しておきたかったのに違いない。
私はぐっと端に寄って立ち止まり、その横を車がそろそろと通り過ぎるのを見送った。

* * * * *

きっと免許取りたてなんだろうなと思ったら、懐かしい思い出がよみがえってきた。
京都で大学生をしていたある夏のこと。男友だちからドライブのお誘いがかかった。
最近免許取ってさ、と電話の声が弾んでいる。父親の車で家の付近を走っているが、そろそろちょっと遠出をしてみたいから付き合えよ、ということらしい。
心優しく勇敢な私は快く練習台になってあげることにした。

当日、私たちは夜の八時から半日間レンタカーを借りた。なぜ日中ではないのか?
彼が「京都の夏といえばこれしかない!」と肝だめしをしたがったからである。
まず向かったのは嵐山の「清滝トンネル」。京都に住む人なら誰でも知っている心霊スポットのひとつだ。
トンネルに近づいた頃、彼が声のトーンを落として言った。
「どうする?もし青信号やったら……」
一車線の狭いトンネルのため、車は入口についている信号に従って交互に通行することになっているのだが、その信号は必ずといっていいほど「赤」。
しかし、そうでなくてはならないのである。青信号で待つことなくトンネルに侵入すると、ボンネットの上に女性が落ちてくるのだ!
だから、もしトンネルの前にきたときに青だったら赤になるまで待ち、再び青に変わってから通過しろ、と言われているのである。
「……そのまま行ってみるか?」
「いったん停まる!ぜったい停まって!」
助手席で本気でじたばたしたが、信号はちゃんと赤だった。

女性が降ってくることもなくトンネルを抜け、平常心を取り戻した私たちは次は北山の「深泥池」へ。「みどろがいけ」と読むのだが、その名にぴったりのおどろおどろしい噂がここにもある。
ひどい雨降りの深夜、一台のタクシーが傘も差さずに立っていた女性を乗せた。彼女は「深泥池まで」と言い、目的地に近づいたので運転手が「どのあたりですか?」と声をかけたところ、返事がない。慌てて車を停めたら、後部座席に女性の姿はなく、シートがびっしょり濡れていた……。
これは恋人に会いに行く途中、誤ってこの池に落ち、溺れ死んだ女性の霊。だから京都のタクシーは雨の降る夜、深泥池のほとりで手を挙げている女性がいても決して停まらない、という話がまことしやかに伝えられているのである。
怖いもの見たさで私たちは道路脇に車を停め、池の淵まで歩いていった。
「この池の向こうに精神病院があってな、病気を苦にして入水自殺する患者が後を絶たんらしい。でもここは泥が深いから、死体はぜったいに浮かび上がってこんのやって……」
彼が水面を見つめて言う。私を怖がらせようとしているのだとわかっていても、生あたたかい風に頬をなでられ、私は背中がぞくぞくしてきた。
「……そ、そろそろ次行こか」
「わはは、根性なしな奴ー!」

丑の刻参りで知られる貴船神社、首なしライダーが走っているという宇治川ラインを通り、その後“口直し”にいくつかふつうの観光スポットに寄って、朝の五時に私の部屋に戻ってきた。


それからもう一度だけ、彼の運転する車に乗る機会があった。
きれいにUターンしたのを見てフッと笑ったら、「……なに?」と彼。
「いやあ、運転上手になったなあと思って」
「当たり前やろ。あれから何年経ったと思てんねん」

そんなふうには見えなかったけれど、あのとき実はかなり緊張していたそうだ。
「おまえ乗せててぜったい事故れんと思ったし、それにちょっとええカッコもしたかったしな……。若かったわ、俺」

ああ、私も若かった。
いま誰かに肝だめしをしようなんて誘われてもぜったいに行かないし、徹夜に耐える体力もあるかどうか。なにより、そういう遊びができる身軽さがもうない。
二人で飲んだ夜明けのコーヒー、あれはなかなかおいしかった。


2006年06月14日(水) 病院にて

同僚の夫の話である。以前から下肢にある症状が出ていたのだが、若い頃に配達の仕事で腰を傷めた後遺症だろうと思い、放っておいたという。

「そしたら会社の健康診断でひっかかってね、精密検査したら脊髄に巻きつくように腫瘍ができてたんよ。で、即入院の即手術」

ひえええー!と顔に縦線を入れたのは、少し前から私にも似たような症状があり、不快を感じていたからだ。
いや、自分もそうではないかと思ったわけではない。その症状をネットで検索すると、それはもうさまざまな種類の病気が候補として出てくるから。けれども原因がなんであれ、いまのところ生活に支障が出るほどひどくないからといって放置しておくのは恐ろしいな、とつくづく思ったのである。
そんなわけで、昨日病院に行ってきた。

何科で診てもらえばいいのかわからなかったので、電車とバスを乗り継いで総合病院へ。
歯医者以外のお医者さんにかかるのはいつ以来かなあ……と思いながら窓口に行って、「わ!」。カウンターの中の女性たちが白いブラウスに紺のベストとタイトスカートという、まるでOLのいでたちだったのだ。
ここにいる人たちは受付や会計の担当で、診察室に立ち入ることはないらしい。私はこれまで窓口業務も看護師が行う小さめの病院にしか行ったことがなかったので、かなり驚いた。

さて、そこでどの科を受診すべきか相談したところ、まず内科へとのこと。
その棟に行ってみたら、待合室には人がいっぱい。会社に行くときより早く家を出たというのに!
しかも問診票を提出しようとしたら、「受付を待っておられる方が前に十五名様ほどおられますので、ベンチに掛けてお待ちください」。えーっ、ただそれを渡すのにも順番待ちがあるの!?
この調子じゃあ診察室に入れるのなんていつになることやら……と思っていたら、名前を呼ばれたのは二時間後だった。


診察室から出て時計を見る。滞在時間はちょうど十分。よく耳にする「三時間待ちの三分診療」は現実の話だったのだ。

部屋に入ったとき、その年配の先生は書類を書いていた。そして私が丸椅子に座ると、横を向いたまま「どうしました?」。
一週間前からこれこれこういう症状で、と話しはじめるとようやく手を止め、こちらを向いた。……と思ったら、今度はパソコンに向かい、私の言うことを「自覚症状」欄に打ち込みはじめた。
が、それが恐ろしくスローモーなのである。一文字一文字キーを探しながらぽちっぽちっという感じ。そんなだから、先生は話を聞くことより入力の作業に集中しているように私には思われた。
少し前に新聞の投書欄で読んだ文章を思い出した。やはり同じ経験をした人が「キーボードを打つのが苦手な先生には代わりの人をつけるなどして、きちんと話ができるようにしてほしい」と書いていたのであるが、まったくだ。
患者の表情や顔色もろくに見ないで、どんな診断が下せるというのだろう。

三行ほどの文章をやっとこさ打ち終えると、先生は「ま、もうちょっと様子を見ましょう」と言った。
「で、もしだんだんひどくなるようだったら、また来てください」
「ですから、少しずつ症状が強まってきてるから来たんですけど」
「あ、そうですか、ひどくなってってますか」
だからさっきからそう説明しているじゃないか。
が、それでもなお先生は「もうしばらく経ってから来て」としか言わない。

いや、検査をするにももう少し症状がはっきりしてからでないと……という話であるなら、もちろん異議などない。けれども、
「じゃあビタミン剤でも出しときますから、それ飲んで一、二週間待ってもらってですね」
という言い方をしたものだから、素直にハイと言えなかった。ビタミン剤「でも」ってどういうこと?
私はそれはこの症状がどういう原因だった場合に効くのかと尋ねた。すると、「栄養の偏りとか脚気(かっけ)だったときですねえ」という答え。

「この私が栄養不足に見えますか……。脚気の可能性をお考えなら、いまここで膝を叩いてみてください」
と思わず言いたくなった。この患者は薬を出すとでも言わなきゃ帰りそうにないと思ったのだろうか。
ビタミン剤は、もちろん断った。

* * * * *

診察室を出たら、待合室はまさに芋の子洗い状態。診察も流れ作業になるわけだ。
新聞の医療特集記事で「『患者様』はおかしい」という意見をよく見かける。昨日の病院もやはりその呼び方だったけれど、この扱いで「様」なんて誰だって違和感持つわなあ……と妙に納得した。
ああ、こんな無意味に貴重な平日休みの午前中を潰してしまって。それがなにより腹立たしい。


2006年06月12日(月) もし私が国語教師だったら……

土曜日の読売新聞の夕刊に「週刊KODOMO新聞」という面を見つけた。
子どものためのページらしく、「石原千秋先生の国語教室」というタイトルで某私立中学の昨年度の国語の入試問題が掲載されている。
「次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい」という口調にそうそう、こういうのやってたなあと懐かしくなった私は夕食後、裏の白いチラシと鉛筆を用意してダイニングテーブルに向かった。

……のであるが、これがなかなか手ごわい。
長文は日高敏隆さんという動物学者が書いた評論だったのであるが、読みながら何度も集中力が途切れた。学生でなくなってからというもの、エッセイだのコラムだのといった咀嚼しやすいものばかり読んできたため、こういうお固い文章を読み通すのに必要な根気というか忍耐力というかがすっかり衰えてしまったらしい。気を抜くと飛ばし読みをしそうになり、そのたび「イカン、イカン」と戻った。

そして二十分後、答え合わせ。
「うっそお……」
私はリビングのテレビを消し、「コーヒー飲みたい」「なんか果物むいて」とぴいぴい言う夫も無視、制限時間が書いていなかったのをいいことに時計を気にしないで真剣にやった。にもかかわらず、四問中一問、間違えていたのである。
その設問の正解は二文字の単語だったのだが、私は文章で答えていた。言っていることは同じなので私のでも丸になるんじゃないかとは思うけれども、完璧な解答でなかったのはたしか。
自分で言うのもなんだが、私は国語の成績だけはとてもよかった。長文の中の空欄を埋める問題はたいてい選択肢を見る前に答えを用意することができた。そのくらい読解力には自信があったのに、小学六年生が受ける試験の問題で満点をとれないとは。

「昔とった杵柄もいまじゃすっかりぼろくなって……」

そのときふと、私は以前読んだ群ようこさんのエッセイを思い出した。
ある年の国士舘大学の入試問題に、ある雑誌に掲載した両親についての文章が使われた。群さんは自分のエッセイを材にとったそれを解いてみることにした。
すると、いくら頭をひねってもわからない設問があるではないか。自分が書いた文章なのに、伏字にされている箇所に入れるべき「適切な語句」が浮かばないのだ。で、考えに考えた末に埋めた答えは不正解。
「著者が全問正解できないような問題で不合格になった人がいたらごめんなさい」という内容であった。

その文章を書いたとき、自分がその箇所になんと入れたかを思い出せなくても、前後の文脈からわかりそうなものなのに。というより、わかるはずなのだ。そもそもどんな言葉が入っていたのか知らない人たちが解く問題なのだから。
けれども、実際にやってみたら書いた本人が間違えてしまう……。これが「答えはつねにひとつ」の数学とは違う、国語のおもしろさだろう。

* * * * *

それにしても、自分が書いた文章が国語の試験問題になり、それを自分で解いてみる……なんてユニークな経験ができるとはうらやましい。
そのエッセイには、群さんがある設問を読んで憤慨する場面があった。「筆者がそのように考えた理由を次の中から選べ」の選択肢の中に、
「これ以上美人になれるわけはないし、いまさらくよくよ悩んでみてもはじまらないと悟るようになったから」
というものがあり、思わずむっとしたそうだ。たしかに「んま、失礼ね」と言いたくなるわねえと相槌を打ちつつ、笑ってしまった。

設問を通して、出題者が自分の文章をどう読んだのかが透けて見えるからおもしろい。
筆者が解答と解説を読んだら、「お、この出題者、ちゃんとわかっとるじゃないか」と思うこともあれば、「いやいや、それは深読みしすぎだよ」と苦笑することもあるのではないだろうか。
でも私の文章がどこかの試験で使われることはありえないから、もし私が国語教師だったら、授業中のテストで何食わぬ顔をして自分の文章を採用するんだけどなあ!
過去ログから適当なテキストを引っぱってきて、ところどころ空欄をつくったり、ある一文に傍線を引いたりして、「Aにあてはまる言葉を答えよ」「このときの筆者の気持ちとしてもっとも適切なものを選べ」なんて出題するのだ。
で、採点してみたら生徒たちの出来があまりにひどい。「なんだなんだ、ちっとも趣旨が理解されてないじゃないか」「私の文章、そんなにわかりづらいのか……」と腹を立てたり愕然としたりするのである。
考えただけで楽しそうだ。

……いっぺんやってみよかしら。
え、生徒もいないのに誰を相手に、って?
あら、そんなの決まってるじゃないですか。

ある日の日記が「小町先生の国語教室」になっていたときはみなさん、お付き合いくださいませ(答案メールはもちろん回収して、私が採点しまーす)。


2006年06月09日(金) 夫の転勤(後編)

※ 前編はこちら

ホテルの部屋に戻り、夫に言う。
「そんな話が出てるんやったら言うてくれんと。心の準備がいることなんやから」
「でもまだ決まったわけじゃないし……」
「それでも話しといてほしい。結果が違ったってぜんぜんかまわんのやし」
生まれも育ちも関西の妻に自分の実家方面に転勤になりそうだとは言いだしにくかったのだろう。喜ばないとわかっている知らせを早々と伝えるのはしのびなかったのかもしれない。
でも、私には大事なことだ。

いま私が住んでいるところは転勤族が多い地域で、職場にも夫の転勤で遠方からやってきた女性がたくさんいる。私は彼女たちが先の見通しが立たない生活の不便やつらさについて口にするのを何度となく聞いてきた。
「どんな家にも対応できるように家具は最低限しか持てない。ピアノなんかぜったい無理だし、ペットも飼えない」
「誰かが家買ったなんて話を聞くと、ほんとうらやましいって思うよ。でも買っちゃったら夫の単身赴任決定でしょ、それが家族の幸せなのかなって考えたら決心がつかない」
「そうそう、子どもを私立の中高一貫校に入れるなんて選択肢もないもんね」
「でも夫の転勤にどこまでもついていくのがいいかはわからないよ……。うちの子、五年生で小学校三つめなのよね。これまではまだ小さかったからよかったけど、この先は受験がからんでくるし、転校のストレスも大きくなってくることを思うと、これからも“家族一緒”を優先することが最善なのかなって悩んでしまう」
私の夫が勤める会社も全国に支社がある。とはいうものの、金融業界に勤める人ほど短いスパンで転勤があるわけではないので、私は「転勤族の妻」ではない。
けれども、春と秋の異動シーズンが来るたび祈るような気持ちになるのもいまいる場所に根を下ろせないのも同じだから、彼女たちの苦悩はかなり親身に感じることができる。

しかし私がさらにリアリティをもって想像するのは、縁もゆかりもない地で生活する心許なさについてである。
私には関東在住の友人は見事にいない。いま私はしょっちゅう誰かとごはんを食べたり家に遊びに来てもらったりしているけれど、日常のそういう楽しみはいったいどうなるんだろう。
行った先で友人をつくればいいって?それは口で言うほどたやすいことなんだろうか。私は彼女たちの話を聞きながら、すっかり大人になってから気心の知れた友人をつくることのむずかしさを思うことがある。
人見知りさえしなければ、「顔を合わせたら楽しく話せる」程度の知り合いはすぐにできる。しかし、電話でたわいもない話をしたり家でお茶をしたりできるほど気兼ねのいらない関係を得るにはやっぱり時間がかかるみたいだ。子どもがいなかったり仕事をしていなかったりすると、とくにそのきっかけがないらしい。
私は大学も就職も関西で、大阪に転勤してきた夫と知り合って結婚したから、いままで関西の外に住んだことがない。つまり、人生のどの時点でも“既存”の友人がまわりにいたため、努力してまで誰かと仲良くなろうとか人間関係を広げようとか考える必要がなかった。新規の友人は「自然にできる分」で十分だった。
しかし、見ず知らずの地でそんなふうに無欲でいたら新しい友人ができるのはいつになるやら……なのかもしれない。
そしてそれまでの間はかなりさみしいのではないだろうか。それがどういう感じなのか、いまの私には想像がつかない。


そんなことを考えてしんみりしていたら、「筋肉痛になってませんか?」と義妹からメールが届いた。なってる、なってると苦笑しつつ読み進むと、こんな一文があった。
「育児の合間に英語のリスニングとドイツ語の日常会話を勉強中です。でも学生時代の英語は吹っ飛び、一からやり直しで、ドイツ語はちんぷんかんぷん……」
私はちょっとはずかしくなった。
彼女は来年から夫の海外赴任についてドイツに行くことが決まっているのだ。友人がいないどころか言葉も通じないところへ、しかも赤ちゃんを抱えて。その大変さに比べたら、いま私が漠然と不安に感じているようなことはあまりにもささいなことではないか……。
親の年齢を思うと実家から離れることは本当に気がかりである。でもそれ以外のことはきっと、がんばればなんとかできるのだろう。

そう自分に言い聞かせつつも。
「まあ、人事異動なんていうのは蓋を開けてみるまでわからないものだしね」
とつぶやく、往生際の悪い私。
(でももしそうなったら、関東在住の読み手のみなさん、どうぞいま以上によろしくね……)


2006年06月07日(水) 夫の転勤(前編)

四日ぶりに出勤したら、何人もの人に声を掛けられた。
「どうしたん、そんなそろりそろり歩いて」
「足、捻挫でもしたん?」
そうじゃない、そうじゃないのよ。でもあまりに情けないから言いたくない……。
週末、私は千歳で行われたマラソン大会に参加し、十キロ走ってきた。爽快に完走したと思っていたら、翌日この筋肉痛である。駅の階段を降りるときも、つい「あいたたた!」と声をあげてしまうからはずかしい。笑ったり咳をしたりしてもおなかに響くのだ。走るのがこんなに腹筋を使うことだったとは知らなかったわ……。
いやいや、今日はそんな話がしたいわけではないのだ。

* * * * *

千歳JAL国際マラソンはわが家の恒例行事で、毎年夫の同僚夫婦と一緒に参加している。私はマラソンが趣味というわけではまったくないので最初の何回かはフルを走る夫たちの応援をしていたのだけれど、ひとりだけ沿道で旗振りというのもつまらないなあと去年から十キロの部に出ているのだ。
現地でAさん夫婦と合流。ウォーミングアップをしながら夫たちはもう次に出るマラソン大会の話をしている。それを「好きだねえ」と思いながら聞いていたら、Aさんに急に話を振られた。

「そんな他人事みたいな顔してんと。東京マラソンの申込書、小町ちゃんの分ももらってきたからな」
「えっ、そうなんですか。まあ十キロだったら……」
「十キロの部は都庁をスタートして飯田橋、皇居前を通って日比谷公園でゴールや。道路を封鎖して走るなんて気持ちいいぞー」
「でもあれですね、マラソンのために飛行機乗って東京まで行くなんて人が聞いたら、かなりの物好きだと思いますよねえ」

すると、「なんでや、来年の二月やからちょうどええやんか」とAさん。え、ちょうどいいってなにが?
「その頃にはもう東京におるんやし」
意味がわからないという顔をしたら、彼は「だってこいつ、十月から東京やん」と夫を指差して言った。
「それ、どういうことですか……」
そんな話、夫からは聞いていない。それに秋の異動がどうしてこの時期にわかっているはずがあるのだ。
そう詰め寄ると、十月一日付けで組織編成の改変があり、いま夫が担当している地域の管轄が大阪支社から東京本社に移るからだと説明した。それまでに担当が変わらないかぎり机は東京に移動する、と。
「俺のパターンからして八月末に辞令で、九月に引越しやな」
Aさんは昨秋、大阪から東京に転勤になった人なのである。

マラソンの後、東京出身で現在は札幌支社に勤務している同僚も加わって五人でお寿司を食べに行ったのであるが、そこでも夫の転勤話になった。
同僚二人はどのあたりが住みやすいだの、通勤を考えたらやっぱり○○沿線だろうだのと盛り上がっている。小町ちゃんはどこがいい?とも訊かれたが、街や駅の名を挙げられてもまったくわからない。それに、「そうですねえ、羽田に好アクセスで都心にも三十分圏内ってとこ、どこかありますかね」なんて答えられるような心境でもない。
大好物のウニもイクラも、この日ばかりは喉を通らなかった。

……ということはなくて、おいしいものはやっぱりおいしかったけれど、いろいろなことが頭をよぎって相槌は上の空になってしまった。 (つづく


2006年06月05日(月) 夢を見つけるということ

先日、電車に乗っていたときのこと。途中の駅から乗り込んできた女性四人組を見て、「あ!」。
年の頃は二十二、三。ふたりはすらりと背が高くショートカットでパンツルック、あとのふたりはロングヘアで可愛らしいお嬢さんという感じ。個性は正反対なのであるが、四人とも雰囲気というか物腰というかに品がある。それに姿勢がすばらしくよいので、とても目立つのだ。

わあ、素敵……と思っているうちに彼女たちは目的地に着いたらしい。四人が電車を降りたのを見届けて、私は隣りの友人に言った。
「さっきの、タカラジェンヌよね!」
すると、「私も思ってた〜」と友人。まあ、やっぱり気づいていたのね。
彼女たちの会話に「タカラヅカ」という言葉が出てきたわけではないけれど、男役ふたりに娘役ふたりだったのは間違いないと思う。年齢からして、宝塚音楽学校を卒業して宝塚歌劇団に入団して数年、というところではないかしらん。

「そういえば、宝塚音楽学校ってむかし憧れたわあ」
友人が遠い目をする。私や彼女のように関西で育った女性には「宝塚音楽学校」にちょっとした憧憬を持っていたという人が少なくない。
「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関で、みな受験のために声楽やバレエの教室に通い、何年もかけて準備をする。が、実力さえあれば合格できるというわけではない。応募要綱の受験資格の欄には「容姿端麗であること」とばっちり書かれているのだ。
校訓は「清く、正しく、美しく」。ブランド品を持ってはいけないとか、私服でも赤い色のものを着てはいけないとか。登下校の際は正面を向いて二列縦隊で歩けとか、電車は一番後ろの車両に乗れとか。とにかく礼儀作法やしつけが厳しいことで有名で、ここの生徒にかぎってローライズのパンツを履いてお尻を見せたり、電車の中で化粧をしたりなんてことはありえない。
そういうところで寮生活をしながら稽古を積んでいる女の子たちは並大抵でない根性があるに違いないと思ったし、「本物のお嬢さん」という感じがしたものだ。

歌劇団に入団して何年目くらいから役付きで舞台に立てるのだろう。若い四人にはまだそこまでのオーラはなかったように思うけれど、がんばってほしいねえと友人と言い合った。
そして私はふと、少し前に見たミュージカル「アニー」のオーディションを特集した番組を思い出した。
「アニー」はニューヨークの孤児院で暮らす子どもたちの話なので、オーディションの参加者は幼稚園から小学生の子どもであるが、アニーとその仲間たちの一人に選ばれんと、みな学校が終わると歌やダンスのレッスンに出かける。二十八の子役の枠に応募は九千人。合格するのは宝くじに当たるような確率なのであるが、多くの子どもは諦めず、今年アニー役に選ばれた女の子も六歳で初挑戦してから四度目の正直だったそうだ。

「すごいなあ……」
思わずつぶやく。小枝のような手足をしたまだこんなに小さな子どもたちが、これほど確固とした夢を持っていて、それを叶えるために自分の意思でいろいろな習い事をしているのである。
子どもだからといって優しい笑顔を見せてくれるわけでもない試験官の前で歌やダンスの実技試験を受け、「人生の中で一番緊張しています」と言いながら合格発表を待つ。名前が呼ばれず、お母さんにしがみついて泣く姿は年相応の子どもであるが、会場を後にするときには「悔しい。来年はぜったいがんばる」と言うのだ。どの子もものすごくしっかりしていて、実際の年齢より二つも三つも上に見える。
私がこのくらいの年だった頃、ここまでなにかに執念を燃やしたり、唇を噛みしめてリベンジを誓ったりしたことなんてなかったものなあ。

* * * * *

……という話を同僚にしたところ、「夢を追う子どももがんばってるけど、親もがんばってるんだよー」と彼女。
中学生の彼女の娘はバレリーナを目指している。単なる憧れではなく、なんとかという全国コンクールで優勝し、ニューヨーク公演に参加したこともあるというから、その見込みは十分あるのだ。
「でもね、とにかくお金がかかるの。ニューヨークに連れて行ってもらったときも同行してくれた先生方の旅費、全部こっち持ちでしょう。付き添いの先生はひとりでいいですって言いたくなっちゃった。それに、中学出たらバレエ留学したいらしいし……。だから親はこうして骨身を削って働いてるのよお」
しかし、彼女はうれしそうだ。
以前テレビで、有名私立小学校の“お受験”に失敗した子どもが泣きながら母親に「ごめんなさい」と言うのを見たことがあるけれど、親の夢に子どもが必死でついていく姿は痛々しい。でも、子どもの夢に親がついていくのを見るのは大変そうでもほほえましい。

やりたいことが見つからない、とニートやフリーターでいる若者が増えていると聞くけれど、「自分で自分のやりたいこと、なりたいものを見つけられる」というのも、れっきとした個人の“能力”である気がする。
タカラジェンヌになりたい、アニーになりたい、バレリーナになりたい。こんなに小さいうちに夢を見つけ、それに向かって邁進する子どもたちを本当にすごいと思う。
私はここまでの人生、まずまず順調にきたと思っているけれど、実はそこまで強く望むものがなかったがゆえに「思い通りにいかない」と感じる機会がなかった、ということだったりして……なんてちらと考えてしまった。

あなたの心になにか残ったときだけ
(アドレスわからないようになってます)



2006年06月02日(金) 『anan』のセックス特集号を読んだ(後編)

※ 前編はこちら

それでは、『anan』の読者1146人を対象に実施したセックスに関するアンケートの結果について、「ん?」と思ったいくつかをピックアップしてみよう。

 [質問] いままでにセックスした相手の人数は?
 [結果] 平均8.1人


ええええ!
周囲を見渡しても、八人を超える男性と付き合ってきたという女性は数えるくらいしか知らない。私の感覚では四人か五人というところ。しかも回答者の大半が二十代なのだから、さらにひとりふたり少なくてもおかしくないのに……といぶかしく思ったところで気が付いた。
「あ、そっか。セックスは恋人としかしないってわけじゃないのか」
自分がそうなものだから、「経験人数」と聞いてつい「付き合った人の数」と解釈してしまったけれど、世の中の女性がみなそうだとは限らないのよね。現にその後の「恋人以外の人とセックスしたことがある?」の質問には43%の女性がYESと答えている。

しかしそれにしたって平均がこれというのは多すぎるんじゃないの……と思っていたら、「200人」という回答が平均値をぐっと上げたことが判明。
実際は、回答の多かった順に「3人」「1人」「2人」だったそうだ。納得。

 [質問] 付き合うときに体の相性を重視する?
 [結果] 66%がYES。結婚の際にはさらにアップし、77%が重視すると回答。


で、なにをもって「相性がよい」とみなすかというと、主な意見は「肌の触れ合いが気持ちいい(42%)」「挿入サイズがしっくりくる(22%)」。
私にとって「相性がよい」という判定はもっとシビアな基準をクリアしてくれる人に対して出すものなので、この程度を満たしていれば「よい」とするのかあ……とちょっと拍子抜け。ま、それはいいとして。

ほかの女性がどのくらいの確率でそういう人にあたっているのかわからないけれど、私は「この人とは相性悪いな」と思ったことは一度もない。
触れ合いが気持ちよくなかった人もサイズがしっくりこなかった人もいない。ひとり、私があまり得意でないタイプのセックスを好む人はいたけれど、「好みが違う」とは思えど「相性が悪い」というふうには思わなかったなあ。だから、付き合いを考え直そうというようなことも考えなかった。
もっとも、その人には数ヶ月で振られてしまったので悩む暇もなかったわけだけれど……。
ふうむ、もし長く付き合っていたら私はどうなっていたんだろう?彼との関係においては精神的な充足のみ求めるようになっていたのだろうか。それとも、だんだんとそのセックスになじんでいったのかなあ。

 [質問] ひとりHはする?
 [結果] 57%がYESと回答。そのうちの半数が「週一回以上」。


え!と驚いたのは上記の結果についてではなく、「女性のひとりHについてどう思うか」に男性読者の一割が「絶対いや」「あまりしてほしくない」と答えていたこと。
えーと……どうして?
女性がそちらの欲求旺盛なのははしたないとか、セックスに積極的になられると気後れするとか、そういうことなんだろうか。

べつのページには、初めての相手とするときの注意点として「愛撫は彼から求められたときのみオッケー」「正常位で処女性を強調して(騎乗位はNG)」なんてことがしつこいくらい書いてある。「初めてのキスから口の中をかき回すような積極的なことをされると、正直引いてしまう」という男性の証言も載っている。
女性の研究熱心を歓迎するようなことを言っていても男性の中にはやっぱり、その場面で自分がイニシアティブを取るために女には奥手であってほしいという思いがあるのかなあ。

最後に、アンケートコーナーの欄外に載っていた「彼には絶対言えない」秘密のエピソードをいくつかご紹介。

コンドームにたまる精液の量を見て浮気調査。 (金融・29歳)

今の彼は会社の同期。同僚に兄弟がいっぱいいることを彼は知らない。 (出版・23歳)

彼のを「大きい〜」とか言ってるけど、実は浮気相手のほうが断然大きい。 (通信・25歳)

浮気相手と会う前日は必ず彼とHをして、もしもの妊娠に備えていたことがある。 (アルバイト・30歳)


ひえええーー。男性のみなさん、お気をつけあそばせ……。


さてさて。付録のエッチDVD for Girls「ラブ・エクスタシー」(ソフト・オン・デマンド監修)の感想でありますが。
登場する男女は付き合って半年の恋人同士という設定。「二週間ぶりに一緒に過ごす休日を女性の部屋で」の昼の部と、「大切な記念日を夜景のきれいなホテルの一室で」の夜の部の二本立てだったのだけれど。

うーーん、AVとして見るにはものたりなかったなあ……。
夜の部ではソフトSMの要素(目隠しと手首縛り)も一応盛り込まれてはいたけれど、あっという間にほどいてしまうし、どうということもない。おとなしいというか、変哲のないセックスだなあという印象だ。
「女性のためのDVDなのでエグい表現は排除し、雰囲気にとことんこだわって愛のあるセックスを描きました」
というプロデューサーの言葉通り、モザイクを入れずにすむようなカメラワークにしてあり、“山場”ではひたすら恍惚とした女性の顔が映しだされる。誌面ではあれほどテクニックの研鑽を説いていたにもかかわらず、DVDでは女性が男性のためになにかをする場面は一切なく(コンドームをつけてあげるシーンはあったけれど。こういう“配慮”はアダルトDVDとしてはかなりめずらしいのではないか)、とにかく生々しい映像は皆無。
よってエッチな気分になることもなく、途中から洗濯物を畳みながら見てしまった私。「愛情表現としてのセックス」がテーマだけにキスの場面がやたら多く、女の私でもじれったいなあと思ったくらいだから、もしこれを男性が見ても退屈なだけなのではないだろうか。

あ、でもひとつ驚いたことがあった。
女性の喘ぎ声だ。絶頂に近づくにつれボリュームを増していき、最後は咆哮とも呼べるような絶叫になったので(慌ててボリュームを下げたほど)、耳が点に。
人がセックスしているところに居合わせたことがないのでわからないけれど、もしかしてこのくらいはふつうの域なのか?でも親と同居しているとかマンション住まいであんな、まるで首でも絞められているかのような声を出したら、何事かと人が飛んできそうだよなあ……なんてあれこれ考えてしまった。


以上が私の感想なのだけれど、前編にいただいたメールを読んでいると「もろAVでしたね!」という方がいれば、「プロモーションビデオみたいで期待はずれだった」という方もいて。同じDVDを見たと思えないくらい感じ方が違っており、とても興味深かった。
あなたはいかがでしたか。