過去ログ一覧前回次回


2006年05月31日(水) 『anan』のセックス特集号を読んだ(前編)

美容院に行くと必ず味わう、緊張の一瞬がある。鏡の前で美容師さんが雑誌を持ってきてくれるのを待っているとき、だ。
彼らはこちらの外見を見て、「この客はこういうのを好んで読みそうだ」と判断したものを選んでくる。つまり、運ばれてきた雑誌からその目に自分がどんなふうに映っているかがわかるのである。

私の場合、『SPUR』『BAILA』『LEE』『with』『MORE』あたりが多い。どれも若い女性をターゲットにした雑誌であるから文句はない。しかしながら、不本意な雑誌を持ってこられることもたまにあるのだ。
「どうぞ〜」という明るい声とともに『家庭画報』を目の前に置かれたときは、心の中でハア!?と叫んだ。ちょっとぉ、それ、四、五十代の女性が読むやつでしょーっ。
そういうときは「失礼ねッ、こんなの読まないわよ!」と突き返し、べつのものに取り替えさせる。
……というのは冗談だが、無言の抗議はする。それには指一本触れない、目もくれない。たとえパーマに何時間かかろうと、意地でも読まないのだ。

年齢は関係ないけれど、『オレンジページ』を持ってこられてショックだった、とうなだれる友人の気持ちもよくわかる。
「家に帰ったら夕飯の支度が待っている主婦」と見られていると知るのはあまり心躍ることではない。あの場面で渡されるのは生活情報誌ではなく、やっぱりファッション誌であってほしいよなあ。

さて先日、私の前に置かれたのは『anan』だった。
あら、よかったじゃないという声が聞こえてきそうであるが、私はやはり手に取らなかった。二十代の女性向けの雑誌であるから、美容師さんのチョイスが不服だったわけではない。
ではなぜか。
表紙には「恋に効くSEX」というどでかい文字と、裸でM字開脚した女の子のイラスト。そう、年に一度のセックス特集号だったのである。
「読者アンケートで明らかに!どーなの?みんなのSEX事情」という見出しに目が行ったけれど、男性が後ろに立ってチョキチョキやっている状況でページを繰る気にはちょっとなれない。

というわけで、帰りに駅の書店で買ってしまった……。
すっかり前置きが長くなりましたが、かくかくしかじかの理由により本日はそういうお話です。


『anan』のセックス特集号は通常月の倍売れるそうだが、私が読むのは今回が初めて。
……驚いた。これはセックス教本ではないか。
「アイラインをこう引けば目がぱっちり大きく見えますよ」「この体操でウエストを引き締めましょう」といった美人になるための化粧法や美容法を紹介するのとまるで同じ調子で、男性を悦ばせるためのテクニックについて書いてある。文章とイラストできわめて具体的に解説されているのである。
夫も「すごいなあ、こんなの女の人が読むの。エロ本と変わらないじゃん」と目を丸くしている。

で、私の感想はというと。
「いまや男が悦ぶテクニックはあらゆる女性の必修科目」とのことで、「ヘルス嬢秘伝の技」とか「プロに学ぶテク」という文句がそこここに出てくるのであるが、ううむと唸ってしまった。
いくらセックスが大切なものだとはいえ、ふつうの女性がここまで研究熱心になるのは推奨されるようなことなのかしら……という違和感である。
それに、
「初めての相手とのHでは受け身が基本。どんなに自信があろうとも『どうしたらいい?』『ここ?』などと生娘を装い、控えめな愛撫を」
「事後は『気持ちよかった……』より『おなかすいちゃった』『のど乾いちゃった』などのセリフが効果的。どれだけ夢中になったかをアピールできます」
なんてことまで指南しており、かなりマニュアルチックなのである。

が、一方で、自分のこの白けたようなあきれたような気分は「この年」だからなのかもしれない、とも思う。
大学に入ってまもない頃、キムスメの友人たちと経験豊富な先輩の家に押しかけては、キャッキャッはしゃぎながらレクチャーを受けた。彼女はなにも知らない、わからない私たちのために一・五リットルのペットボトルを男性自身に見立て、「ここが敏感なポイント。ここをこうすれば男の人はこうなってああなってイイ気持ち」という具合に教えてくれたので、初めて実物を見たときは「あら……ちょっと違うわね……」と思ったっけ。
以前、ある日記書きさんから「童貞時代、大きなテディベアに姉貴のブラジャーを装着して、スマートにホックを外す練習をした」という話を聞いておなかを抱えて笑ったことがあるけれど、思い返せば自分も相当バカなことをしていたのである。
好奇心、向上心旺盛だったあの頃なら「勉強になるわあ」と嬉々として読み、その修得に勤しんだのではないだろうか。

* * * * *

……とまあ、「anan認定Hテク向上講座」には苦笑した私であるが、セックスライフに関する読者アンケートの結果はそれなりに興味を持って読んだ。
それについての突っ込みと、付録の「女の子のためのエッチDVD〜ラブ・エクスタシー〜」を見た感想は次回


2006年05月29日(月) 悩みの相談

週末、一泊で温泉に行ってきた。
東京に転勤して現在の業務をつづけるか、大阪に残って部署を変わるかを迫られ、後者を選んだ友人が異動先でかなり苦労しているらしい。三、四日おきに届くメールから彼女がどんどんしおれていくのがわかる。これはちょっと飲みに行って話を聞くくらいでは間に合いそうにないなと思い、近場の温泉に誘ったのだ。

「始業より一時間半早く行っても昼休抜いても仕事が追いつかないって考えられる?」
神経痛に効果てき面という薬草風呂に浸かりながら、彼女が悲痛な顔で訴える。
終電が当たり前で精神的にも厳しい部署のため、これまで男性しか配属されていなかったのだが、彼女は前部署で社長賞を取った実力とがんばりを買われ、このたび初の女性社員となった。しかし、そのハードさは彼女の覚悟をはるかに超えていた。異動してひと月、業務の全貌が見えてくるにつれ、「自分は大変なところに来てしまった」と空恐ろしくなってきたのだという。
「私、自惚れって言われるかもしれんけど、はずかしくない仕事をしてきたって自負持ってるねん。だからなんとかやれるやろって自信もちょっとあってん。でも、まじで無理かもしれん……」
ふと見ると、目を潤ませているではないか。十五年以上の付き合いになるが、そんな切羽詰まった彼女を見るのは初めて。かなりアップアップしているのは伝わってきていたが、これほどまでとは思わなかった。

しかしながら、夕食を食べ終える頃には私は彼女に対して「やっぱりたくましいや」と感心していた。
聞いてもらってちょっと楽になったわ、という言葉通り、何時間もかけて不安や焦りを残らず吐き出したら、彼女がずいぶん浮上したのがわかったからだ。
これまでも失恋だなんだで彼女が落ち込むたび話を聞いてきたが、毎回そうだった。自分を苦しめているものをアウトプットすることで身軽になれるタイプなのである。

私はそうではない。誰かに相談するというのはものすごく苦手だ。
この人なら聞いてくれるだろうな、甘えてみようかな……とちらと思うこともあるけれど、いざとなると辛気くさい話よりべつの話をしたくなる。相手に心を許していないわけでも頼りにしていないわけでもない。話すのがしんどいからだ。
なにかを誰かに伝えようとすると、そのことと「対峙」しなくてはならない。抱えている問題を冷静に見つめなおし、言葉にする作業が必要になる。それは自分を解放するどころか、胸に詰まった石の重さを再認識させるだけのような気がするのだ。「洗いざらいしゃべったらなんかすっきりしちゃった」となるより、余計に憂鬱になりそうである。
話すことで救われるどころか、ストレスを増やしかねない。だったら胸にしまっておいたほうがかえって楽、ということになる。身近な人が自分みたいなタイプだと大層心配になり、「私にも話を聞くくらいはできるんだけどな……」と寂しく思うのに、まったく勝手なものである。

こんな私には、「日記書きでストレス発散」という感覚ももちろんない。
無関係の話題について書いていると気が紛れていい、という意味ならば理解できるのだが、鬱憤そのものについて書いて憂さを晴らすということはありえない。書くも話すもプロセスは同じ。文章にするために目を凝らしてそれを見つめていたら、なおのこと気が滅入ってしまう。

* * * * *

友人が口を開かなくなったらいよいよやばいと思わなくてはならないけれど、私はその反対で、自分ひとりで抱えていられるうちはまだだいじょうぶということなのだろう。人にはいろいろなタイプがある。

「ギブアップはいつでもできるんやし、やれるとこまでやってみるしかないよね。いまあかんかったときのこと考えてもしゃあないもんな、そやそや」

ひとりでぶつぶつ言っている友人を見て安心する。きっと彼女はトンネルを抜けられるだろう。
……さて。私のほうはどうしたものか。
どれだけ歩いても一向に光が見えてこないが、まさか出口が岩で塞がれているのではあるまいな。


2006年05月24日(水) 誰が読んでいるかわからないから(後編)

前編中編からどうぞ。

先日、私は「すごい話を聞いちゃった」というテキストを書いた。街で信号待ちをしているときに偶然耳にした話について書いたものである(未読の方はこちらを読んでね)。
これにはあちこちからかなりの反響があったのだが、そのうちのいくつかのサイトを読みに行って私はため息をついてしまった。銀行名を突き止めようとしたり2ちゃんねるの該当スレを探し出そうとしたりする人がいたからである。
その点に異常な執着を見せる人はいるだろうなとは思っていたが、やっぱりか……。思わずつぶやく。
「そんなもの、調べればわかるようになんて書くわけないじゃない」
その銀行にはべつになんの義理もないけれど、かなり格好の悪い話である。たとえ読み手のうちのごく一部にであっても、その名を公表するようなことになるのは望むところではない。
そして私が「書く」において注意していることのひとつが、これ。こういう場面で「固有名詞を特定されないようにすること」だ。

私は身近な誰か、あるいは何事かをクローズアップして書くとき、必要と思えば徹底的に設定を変更する。場所や状況、ときには登場人物の性別も変える。さらに念を入れ、何ヶ月も経ってから話題にすることもある。
けれど、「日記なのに事実をありのままに、またはタイムリーに書けないこと」に対するジレンマはまったくない。そこはどんな人が目にするともしれない場所なのである。あったことを寸分違わず再現することより、自分に書かれたことによって誰かが迷惑を被るリスクを下げることのほうが優先順位ははるかに上だ。
そのことを不自由に感じることはない。事象を一から十まで正確に記述しなければ読み手に伝えられないことというのはそれほど多くないから。
たとえば、「すごい話を聞いちゃった」に届いたメッセージのほとんどが「他人事ではない。一歩間違えたら自分もやってしまいそう」「『壁に耳あり障子に目あり』ですね」といった内容のものであったが、それらは「交差点で信号待ち中」「銀行」「若いサラリーマン」「大阪府下」という要素の組み合わせに導き出されたわけではない。
もしかしたら本当は、大声でぺらぺらやっていたのはメーカー勤務の女子社員で、それを聴取したのは喫茶店でお昼を食べているときだったかもしれない。しかしたとえそうでも、読み手の感想は変わらないだろう。ディテールを変えても、主題である「誰が聞いているかわからないのだから、外で話すときは気をつけなくては」はきちんと伝えることができるのである。
そして、私はそれ------出来事そのものでなく、それを通じて私がなにを感じたか、考えたか------が伝わりさえすればいい。
そりゃあ足したり引いたりせずに書いた上で伝えたいことを伝えられるのが一番ではあるが、web日記でそれを望むのはむずかしいこともある。

誰が見ているかわからない場所で書くための決め事のもうひとつは、「自分が誰であるかを明かさないこと」。
以前、「食事に行ったという話を書くときは、そのレストランが地元以外の場所にもあることを確かめてから店名を出す」「自分の誕生日ネタは書かない」という方がいたけれど、そのくらい用心深くてちょうどいい気がする。自分を守るためだけではない。安全なところに身を置いて書くのは日記書きの責務である、と私は思っている。
本名でサイトをやっている人はほとんどいないと思うが、たとえばもしプロフィールに顔写真を載せていたら……。実生活の書き手を知る誰かが偶然サイトを訪問したとき、文章だけなら気づかず通り過ぎていくところが「えー!○子ちゃんじゃない!」となる。
自分はその覚悟ができているかもしれない。しかし、「日記」には家族や友人、同僚などたくさんの身近な人を登場させてきただろう。自分の身元が割れることによってそういう人たちが誰かまで芋づる式に判明してしまう場合があるのだ。
「経験」は自分のもの。彼らとのやりとりを書くことはもちろん咎められることではないが、そのことは心に留めておく必要があるのではないだろうか。
「(顔を)出すなら、(周囲の人のことを)書かない。書くなら、出さない」
とつまらない標語を思い浮かべる私である。

それでも万が一のことを考え、そのとき友情にひびが入ったり職場にいづらくなったり結婚生活が破綻したりしかねない話については、「書かない」。
結局、これに勝る安全策はないのである。
(あー、結婚生活が破綻うんぬんというのはもちろん言葉のあやというやつです)


2006年05月22日(月) 誰が読んでいるかわからないから(中編)

前編から読んでね。

ネット上で見たり聞いたりした不気味な話は両手の指を使っても足りないくらいある。
見ず知らずの人から自宅に電話がかかってきて「いつも読んでます」と言われた、家族にサイトのことをばらされた、勤務時間中に更新していると職場に“通報”された……といった話を最初の頃こそ鳥肌を立てながら聞いたが、いまではそれほど驚かない。
書き手がうっかり“手がかり”になるような情報を書いてしまったとしても、モニターを眺めているだけであぶりだしのように書き手の本名や電話番号が浮かび上がってくるわけではない。絞り込むためのさらなるヒントを求めてログを漁り、かなりの骨を折らなければそれらを突き止めることなどできないのだ。
それなのに、そういうことが読み手の劣情をそそるような過去を赤裸々に告白しているだとか好戦的なキャラクターだとかいうわけでない、ごくふつうの日常を綴る子育て中の主婦や会社員の身に起こるのである。

ある育児日記系のブログでこんな展開を見たことがある。
わが子がお風呂に入っている写真を載せたら、「どんな人間が見ているかわからないから気をつけたほうがいい」と読者から忠告のメールが届いた。書き手はそれもそうかと思い、そのことを翌日日記に書いたところ、こんなコメントがついた。
「私は実際に経験があります。親バカのつもりで同様の写真を載せたら急激にアクセスが増え、おかしいと思って調べたら、2ちゃんねるのロリコンスレにURLを貼りつけられていました」
どんな人がなんのつもりでこういうことをするのか。私にはもうまったくわからない。
数日前、ブックマークの中のある日記書きさんが自分のある日のテキストをそっくりそのまま使っているサイトを偶然発見し、怒りの日記を書いておられたが、こういうこともめずらしくない。
抗議してファイルが削除されるならよいほうで、「そっちがぱくったんじゃないの!」と逆切れされたとか、メールを送っても無視をきめこまれ泣き寝入りするしかなかったといった話も聞く。
しかし、盗まれたのが一話だけならまだましかもしれない。過去ログのすべてが他人が書いたテキスト、というサイトさえ存在するのだから。
検索ロボットよけのタグを埋め込み、日記リンク集にも登録せず、何年も前のログをひっぱってくる……。オリジナルのサイトの書き手とその読者に見つからないよう細心の注意を払っていたにも関わらず、彼女は私にリンク依頼のメールを送るというミスを犯した。すぐに気づいた。彼女が一年ものあいだテキストを盗用しつづけていたサイトは私のブックマークのひとつだったから。
読者から以前どこかで似た文章を読んだことがあるような……と言われれば、「誰のことでしょう、教えてください」ととぼけ、日記とその他のコンテンツとではイメージが違うと言われれば、「どう違うのでしょう、文体は同じだと思うんだけどな」と首をかしげる。
プロフィールを見れば、どこにでもいそうなふつうの女の子。メールを読み返してもおかしなところは見当たらない。それだけになおのことその悪びれのなさにぞっとした。
五年も前の話であるが、当時日記リンク集内でずいぶん話題になったので覚えている方もおられると思う。某有名日記書きさんの死亡騒動、あれも熱烈なファンによるものだったのだろうか。
ある日そのサイトに行くと、いつものページに「お知らせ」の文章が載っていた。書き手の友人を名乗る人物が書いたもので、読んでびっくり。書き手の急死を知らせる内容だったのだ。「よってこのサイトは閉鎖します」とあり、ログはすべて削除されていた。
数日前まで変わらぬ更新があったし、なによりご本人は二十代。本当に驚いたし、周囲には慌てて「問い合わせ先」と書かれていたところにメールを送ったという人もいた。
しかし結論を言うと、これは何者かによる悪質ないたずらだった。書き手が長期出張でしばらくアクセスできない状況にあるのを利用して、誰かがサイトを乗っ取ったのである。

ネットの片隅でひっそりと暮らしている私でさえ、「異常だ……」とつぶやかずにいられないような話をしばしば耳にしたり、現場に居合わせたりする。掲示板荒らしなど日常茶飯事だろう。
しかし私が本当に恐ろしいのは、彼、彼女は見るからにそういうことをしそうな顔をしているわけではないのであろうなと思われることである。
学生だったりサラリーマンだったりする彼らには友人や恋人がいるに違いない。部下を持ったり人の親をしていたりもするのだろう。そういう「ふつうの人」とされている人が悪ふざけや出来心という言葉では片づけられないようなことをするということに、私は戦慄する。
そうしてここに長くいればいるほど用心深くなっていく私は、「書く」においてふたつの決め事をしている。 (つづく


2006年05月19日(金) 誰が読んでいるかわからないから(前編)

リビングの電話を取ると、友人からだった。
いつもは携帯にかけてくるのに自宅になんてめずらしいなと思ったら、携帯の番号とメールアドレスを教えて、と彼女。
「べつに変わってないよ」
「ちゃうねん、携帯なくしてん。友達の連絡先、全部あれに登録してたもんやから、なんもわからんくなってしまって。この電話も年賀状見てかけてんねん」
えーー!思わず声をあげる。
「それ大変やん!」
「そうやろー、むちゃむちゃ困ってんねん。会社の人と飲んだときに店に忘れてきたと思うんやけど、ないって言われてさ。ほんま悲しいわ、いろんな写真撮ってたのに全部パー」

……え。
私は「それは災難だったわねえ」と同情したのではない。電話番号、メールアドレスといったデータがたっぷり詰まった携帯、いわば他人の個人情報の塊をなくしたことについて、「大変じゃないの!」と言ったのである。
それなのに、彼女はさっきから携帯を使えない不便さしか口にしない。わざとなくしたわけではないのだから責めるのは気の毒だとは思いつつも、私はつい言ってしまった。
「あなた、こないだ晩ごはん食べた店で食後のアンケートに答えるとき、名前と住所のところ空欄にしとったやん。自分の個人情報には敏感やのに、友達のそれが漏れることについてはなんでそんなに大らかなのよ」

第三者に見られるとまずいことになる可能性があるのはアドレス帳だけではない。
私はこれまでにずいぶんたくさんのメールを彼女に送ってきた。たわいのない話ばかりとはいえ、こちらの氏名が明らかな状態で見ず知らずの人間に読まれるかもしれないことを考えると、ものすごく気持ちが悪い。
それに万が一、「読まれた」だけで済まなかったらどうするのか。
受信箱の中に「今週末から家族でハワイでーす。お土産買ってくるね」という内容のメールがあったとする。拾った人が「そうか、この家はしばらく留守なのか……」とあらぬ気を起こさないと言えるだろうか。あるいは、勤務時間中に職場から送信されたとわかるものや不倫の相談を受けたものを読んで、「このネタ、金になりそうだ」と考えるかもしれない。
もしもそんなことになったら、そのメールの送り主は大変なトラブルに巻き込まれることになるのである。
洗濯したりトイレに流したりして使えなくする分にはちっともかまわないが、ロックもかけていない携帯を紛失するのだけは勘弁してほしい。
「大丈夫、そんなシリアスなメールはないから。それにふつうはまあ、そんなことにはならんやん?」
と彼女は言う。しかし、そんなことはまったくわからない、と私は思う。
日記の読み書きを趣味にして何年にもなるが、私がそれからなにを学んだかというと「世の中にはいろいろな人がいる」ということである。
さまざまな意見の持ち主がいる、という意味ではない。自分の常識や感覚では理解に苦しむ行動をとる人が、私の思う「ふつう」では考えられないようなことをする人が存在することを身をもって知ったのだ。
“聴衆”の中にはなにをするかわからない人が混じっている……。その思いは私の中で年々強くなっていく。 (つづく


2006年05月17日(水) ケンカの多い夫婦だけれど

林真理子さんのエッセイにこんな話があった。
週刊誌の連載エッセイを文庫化するにあたり、何年前も書いた原稿に赤を入れる作業をしていたらおもしろい発見をした。夫ととても仲がよいのだ。夫婦ゲンカをしたという話も出てこない。そういえばあの頃、夫がいまよりずっと優しかったことを思い出した……という内容だ。

思わずふきだす。私は林さんの文章が好きで文庫化されたエッセイはすべて読んでいるが、言われてみればなるほど、夫についての描写が結婚当初といまとではずいぶん違っている。
「うちは結婚以来『家庭内恋愛』をずっと続けている」
「空気というにはあまりにも甘やかな存在が、夫という男である」
といった一文が出てくるのは、十年以上前に書かれたエッセイ。夫とのたわいのない会話も温かく、林さんが満たされた結婚生活を送っているのが伝わってきたっけ。
で、いま読んでいるのがここ数年で書かれたものを集めた最新のエッセイ集。その中には、最近日記をつけはじめたら一年の三分の二、夫婦ゲンカしていることがわかったという話や「夫選びこそはずれたが……」というくだりが出てくる。

もちろん、それには“ポーズ”がおおいに入っているだろう。夫は私をガミガミ叱ってばかりいる、離婚話が出たことも一度や二度ではない、なんて書かれてはいるけれど、本気で夫選びを失敗したと思っているふうには読めない。
とはいえ、「私は結婚する前の優しい夫よりも、今のワガママ夫の方がずっと好き」と臆面もなく書いていた頃とはえらい違いなのはたしかである。


とまあ、ひとしきり人様の「夫のいる風景」の変遷について思いをめぐらせた後、私はでは自分はどうかと考えてみた。
五年前に書いた日記を読み返しながら、愕然とする。
「げっ、うちもだいぶ変わってる……」

数日前のこと。夜中にふと目が覚めると、隣りに夫がいない。
時刻は午前三時。私が寝るとき、夫は居間でソファに横になってテレビを見ていた。あらら、そのままうたた寝しちゃったのね。風邪を引くといけないと思い、私は眠い目をこすりつつ布団から出た。
が、居間のドアを開けると部屋は真っ暗。テレビもちゃんと消えている。ソファにも姿がない。トイレはもちろん、お風呂の蓋まで開けて探したがどこにもいない。
神隠しに遭ったみたいだ、と呆然としていたら。客間から人の気配が。
わが目を疑った。開けた引き出しも閉めないほど横着な夫がわざわざ押し入れから布団を出してきて、そこに寝ていたのである。私が寝ているあいだに彼の心の中になにが起きてそのような事態になっているのか、まったくわからなかった。

次の日その理由を尋ねたところ、夕食の最中に口論になったことを寝るときまで引きずっていたことがわかった。しかし、私は納得するどころかものすごく驚いた。
たしかに、あることについての意見の食い違いからちょっとした言い合いになった。が、雰囲気が悪くなったという程度のものである。
結婚生活五年半のあいだに別々に寝たことは二、三度ある。が、いずれも歴史に残る大ゲンカをしたときのこと。私にとってそれはよほどのことがあったときにしか考えられない行動なのだ。
まさかあれしきのことで「一緒には寝られない」と考えるとは……。

そして思ったのは、「以前の彼はこんな安易な解決の仕方はしなかったよなあ」ということだ。
不愉快なことは不愉快であると、我慢ならないときは我慢ならないと表明してくれた。そうするとケンカに発展することも多いが、互いに思っていることを言い合うことができた。こんなふうに相手になにも伝えず、ただ時が腹の虫をおさめてくれるのを待つようなやり過ごし方はしなかった。
ふいに、最近めっきり夫婦ゲンカをしなくなったと言う友人たちの言葉を思い出した。
「だってケンカするのって体力いるやん。家でイライラするのも嫌やし、めんどくさいし……。だったらこっちが折れればいいやって思っちゃう」
正面からぶつかってよりよい関係をつくろうとするより、しんどくないほうを選ぶ。つまりは妥協、あきらめ。
夫の中にもそういう気持ちがあるのだろうか……と考え込んでしまった。

* * * * *

けれど、変わったのは夫ばかりではなかったのだ。
そのことに、私は先日の「話は最後まで聞いて。」にいただいたメッセージを読んで気づいた。

うちのオットもよく「○○でね〜。」「あー、分かった!それで××なんでしょ?でさ、こないだ△△がね…。」と話を続ける事があるんですよね。小町さんはそこで萎えちゃってお話が止まっちゃうのね。
私の場合一通り話を聞いてから「で、さっきの話なんだけど、最後まで話してもいいかな?興味が無くて聞きたくないなら、もう止めとくけど…。」と言ってます。友達や会社関係なら波風立てる事も無いかなーとも思うんだけど、いかんせん「オット」な人は一生お付き合いする相手なので、「そういう事されるのは嫌なのよ。」という意思表示をしておかねば!と…。


「いかんせん『オット』な人は一生お付き合いする相手なので……」
本当にそのとおりだ、と思った。
途中で話をやめたのに続きを促されなかったとき、私は「聞いてないんならもういい」と思い、そのまま終わらせた。けれど、「話をちゃんと聞いて」「そういうことされるのは好きじゃないの」を相手に伝えようとしないというのもまた、結婚生活における立派な妥協ではないか。
「ハイハイって聞いていればもめずにすむしね」と言う友人に、そういうのってなんか悲しいと思っていたのに、いつしか自分も同じようになっていたなんて……。ああ、これではいけない。

とにかくケンカの多い夫婦だけれど(林さんのところにはかなわないが)、ぶつかり、こすれ合っているうちに次第に角がとれて丸くなった、そんなふたつの石にいつかなれるかなあ。


2006年05月15日(月) 三日坊主でもいいじゃないの

先日、東京に遊びに行ったときのこと。
夜、渋谷駅で友人と別れた後、ネットカフェに入った。東京に来ていることを誰かに伝えたくなった私はmixiを開き、「親愛なるマイミクのみなさん、いま私がどこにいるかというと……」と日記を書いた。
するとまもなく、「なんと!僕も昨日渋谷の漫画喫茶行ってました。もしかしたら同じところかも」というコメントがついた。
まああ、ニアミス!でもさすがに同じ店ってことはないわよね、この渋谷にネットカフェ(とあえて言う)は目をつぶって歩いてもぶちあたるくらいたくさんあるもの。
……と思いつつ、私は駅前の「自遊空間」ですよ、と返信したら。
「僕も自遊空間にいましたよっ!!」

とにかく狭い店だった。丸一日ずれていたら、店内ですれ違ったり私の日記に彼が隣席のパソコンからコメントをつけたりという可能性も十分あったわけだ。
思わず、「イッツ・ア・スモールワールド!(世間は狭いね)」と叫んでしまった(前日、ディズニーランドに行ったもんで)。


ところでmixiといえば、「オープン二年で入会者数三百万人を突破」という記事を少し前にネットニュースで読んだ。
今年に入ってからの一日の平均新規入会者数は一万四千人ということであるが、そんな数字を聞かずとも、とにかくものすごい数の人がいまmixiをやっているのだということは実感としてある。
ネットカフェに行くと、自分の席に着くまでにいくつのパソコンであのオレンジ色の画面を目にすることか。このあいだなど、右隣りも左隣りもmixiを開いて作業中。これで私が開いたら三連続でお揃いの画面か、と思うと妙にはずかしかった。

総務省の調査によると、三月末現在でmixiをはじめとするSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とブログの登録者数を合わせると千五百万人なのだそうだ。日本の人口が一億二千万くらいだから、恐るべき数である。
「書く」は「読む」と比べたら圧倒的に手間暇がかかり、面倒くさい。と私は思っているので、それを趣味にする人が世の中にそんなにたくさんおり、なおかつその数がうなぎのぼりである、なんて聞くと驚かずにはいられない。
お金はかからない代わり、時間と筆まめさがいる。「日記書き」なんて多忙な現代人がはまるような遊びではないと思っていたけどなあ。

……と思っていたら、先の数字には更新が途絶えているページが相当数含まれているらしい。
一ヶ月に一度以上更新がある、いわゆる「生きている」ブログは三割と言われているそうで、やっぱりそうかと頷いた。

* * * * *

「どうしてブログは三日坊主になる?」という記事ではその現状について、サイバーローグ研究所という会社の代表者の男性が「開設してもひと月くらいでやめてしまう人が多い」と分析、六つのブログを運営している立場から「継続する秘訣」をいくつか挙げている。
「ネタ帳をつくる」「アフィリエイト(企業広告)で儲けようとしない」といったことであるが、その中にへええ!と思ったものがあった。
「生活の中に組み込んでしまえば、歯を磨くのと同じように日記を書くことも当たり前になる」
ということで、彼は指定時間になるとパソコンにブログのテンプレートが開くよう設定しているというのだ。
「こうなると書かざるをえない」と男性。

まあそうでしょうねえ……とつぶやきつつ、なんだか可笑しい。だって日記って、そこまでしてつづけようとするようなものか?
なにかを継続させようと思えば、ある程度の強制を自分に課す必要はある。無理は一切しない、気が向いたときだけでオッケー、ではかえってつづかないものだ。けれども、日記書きは「継続=目的」のダイエットや禁煙とは違う。
いまは芸能人もスポーツ選手もブログを開設しているが、自分が好きでやっているのか、ファンのためにやっているのかは伝わってくる。横峰さくらさんがブログが負担になってしまい、本業に影響が出かねないという理由で閉鎖したことがあったが、「なかなか更新できなくてごめんね。いつも応援してくれてありがとう」の繰り返しでかろうじて継続しているようなページは少なくない。
半端でなく忙しい人たちなのだから無理してブログまでやらなくていいじゃないと思うと同時に、たとえ時間があっても誰にでもつづけられるわけでないのが日記なのだろうな、と思う。

その人にとって「書く」が“趣味”になるか、それとも“作業”以上のものにはならないか。
それが相性というもの。性に合っていれば、何時からは執筆の時間、なんて決めなくてもおのずと習慣になり、眠い目をこすってでも書くようになる。
どんなことでも、やめずにつづけることが崇高なわけではない。毎日は忙しく、世の中にはおもしろいことがあふれている。それなのに、人はどうして日記となると「三日坊主にしちゃいけない」と意固地になるんだろう?


2006年05月12日(金) 話は最後まで聞いて。

先日、上京して表参道ヒルズに行ったときのこと。
人波に押されながら館内をぐるっと一周し、吐き出されるようにおもてに出たところ。目の前の表参道に大きなトラックが信号待ちで止まっていたのであるが、その荷台を見てびっくり。巨大な亀が載っていたのだ。

「ガメラや、ガメラ!」
慌てて友人に教える。ガメラかどうかは知らない。けれど巨大亀といえばそれしか浮かばないのだ。全長六、七メートルありそうな、まさに怪物の大きさである。
でもどうしてこんなところに?
すると、友人が驚いた様子もなく言った。
「これ、映画の宣伝。公開前にガメラ載せて全国回るってこないだテレビで言ってたよ」
まああ、ほんとにガメラだったのね。
なるほど、走り去るトラックの後ろ姿に「とらわれたガメラ」という文字。落ちないようロープを何重にもかけられた姿がその文句にぴったりだ。

それにしてもすごい偶然だ。「小さき勇者たち〜ガメラ〜」の公式サイトによると、ガメラ・トレーラー(というそうだ)が都内を走行したのは二日間だけ。建物から出てくるのが三十秒遅かったら、私はガメラのしっぽさえ見られなかったはずである。
幼稚園くらいの頃、テレビでガメラをやっていた。とくに熱心に見ていたわけではないけれど、懐かしくてちょっぴり興奮してしまった。

* * * * *

……という話を、私はしたかったのだ。
しかし同僚は、「こないだ表参道ヒルズに行ってきてん。そしたらね」まで聞くと、こう叫んだ。
「表参道ヒルズ?私も行った行った〜、オープン直後やったからすっごい人でさ、ほとんどなんも見られんかったけど。でもナントカってお笑い芸人が来てたわ、えーと、テレビでときどき見る……あー、ド忘れした」
やがて名前を思い出すのをあきらめると、彼女は「お笑いといえば、『爆笑オンエアバトル』見てる?」とつづけた。
私は「そんな番組知らない」と答え、ガメラのガの字も発することのないまま、昼休みを終えた。

こういうタイプの人はときどきいる。こういう人、とは人の話に早々に反応して自分の話に持っていく人のこと。相手の話を広げるのではなく、話題ごとさらっていってしまうのだ。
彼らに奪われたマイクが私の元に戻ってくることはまずない。それについて話し終えると、次の話をはじめてしまうからだ。
これをやられるたび、私は萎える。親しい友人であれば「ちょっと、人の話を聞きなさいよ」とマイクを奪い返すこともあるが、たいていは「もういいや」と思う。話が終わるのを待って、自分から「……で、さっきの話の続きだけどね」とやる気にはとてもなれない。
しない人は一度もしないが、する人は繰り返しする。悪気がないのはわかっているが、「私はあなたの話題提供者じゃないわよ」と言いたくなることがある。

相手の話をきちんと聞かない人と話をすると、非常にストレスがたまる。
話を遮られる以外にも私がむっとくるのは、上の空で聞いているのがわかるときだ。自分の興味のない話題だとそれがあからさまになる人がたまにいる。
なにも身を乗り出して聞く必要はないけれど、相手に「心ここにあらず」を悟らせない程度の態度で聞けないものかね、と思う。
このあいだ、夫に話しかけたら相槌がかなりいい加減だったので途中で話をやめてみたところ、案の定続きを促されることはなかった。
なんだ、やっぱり聞いてなかったのか。私はかなりがっかりした。


その点、「書く」はいい。
いつもここに書いているような話を誰かに話して聞かせようとすると、なかなか大変かもしれない。合いの手によってつい話が脱線してしまう……というのも「会話」の面白みではあるのだが、着地点まで一気に話し通せることに私が快感を感じるのもたしかなのだ。
話途中で「あ、それ、私もさー」とやられる心配がないし、「私ばっかりしゃべったら悪いかな」「ちゃんと聞いてくれてるのかしら」と相手の反応が気になることもない。私は自分が日記書きをこんなに好きなのは、「言いたいことを確実に最後までしゃべらせてもらえること」によるところも小さくないと思っているくらいである。

ところで、一口に「日記」と言ってもいろいろで、「あれも言いたい、これも言いたい」でどうしても長文になってしまうという書き手もいれば、的を絞って毎回すっきり簡潔にまとめている書き手もいる。
たとえば後者のような人が、実物はものすごいおしゃべり、というようなことはあるんだろうか。淡々とした文章を書く人はやっぱり中身も淡々としているような気がするけれど……。
えー、もちろん私は話し好きです。


2006年05月10日(水) すごい話を聞いちゃった

交差点で信号待ちをしていたら、突然「2ちゃんねるって知ってるか?」という声が聞こえてきた。
ふと隣を見ると、スーツ姿の若い男性が携帯電話で話している。ネット系の話題だわと思い、聞くでもなしに聞いていたら、驚きの内容だった。
同僚の中の誰かの奥さんが2ちゃんねるに「銀行マンの夫の残業代がつかない」「休日出勤が多すぎる」といった会社に対する批判を書き込んだ。それが会社の知るところとなり、いま社内で大問題になっているというのだ。
「で、俺らも今日は早く帰れって言われてさあ」
と男性がのんきに言う。
が、彼の話が「書き込んだのが誰の嫁さんかってのはもうほとんどわかってるんだよね」と続いたものだから、私の耳はますますダンボに。なんとその奥さん、「○○銀行」と名指ししただけでなく、夫が勤めているのは大阪にある支店の中で唯一ATMを置いていない店舗であるとか、仕事内容はこんなこんなでひと月のサービス残業は何時間であるといった、きわめて具体的な情報まで書き込んでいたのだ。
それによって「夫」の勤務地と所属部署が割り出され、さらに残業量や既婚者であるなどの条件で絞り込んでいったら、該当する男性は三人。そのいずれの妻が書き込みをしたのかは現在調査中であるという。
私の隣で携帯で話している男性はまさにその「夫」と同じ支店勤務で、別の支店の同僚にその“ビッグニュース”を伝えていたところに私は居合わせた、というわけだ。
「こういうのって処分はどうなるのかねえ?」
と男性が言い、私は「そう、そう」と心の中で相槌を打った。その瞬間、信号が青に変わった。
もちろん私は男性と同じスピードで歩くつもりだったのであるが、彼は立ち止まったまま話し続けている。バッグの中のものを探すふりをしてぐずぐずしてみたが、結局そこまでしか聞くことができなかった。
私は帰宅するやパソコンを立ち上げた。男性は銀行名、支店名、部署名、すべて固有名詞を出して話していた。さきほどの話が聞き間違いでないかどうか確かめようと思ったのだ。
○○銀行のサイトにアクセスしてみたところ……。会話にでてきた「××支店」は実在し、妻の書き込み通り、そこは大阪府下で唯一ATMを設置していない店舗であった。

本当の話であるらしいとわかり、私が真っ先に思ったのは「いまごろ奥さんは自分がしたことの重大さに気づいて真っ青になっているのではないか」ということだ。
かなり前であるが、夫の過労を心配する三十代の妻が新聞の投書欄に夫の会社を非難する文章を投稿したことについて、「実名でこんな投稿をして大丈夫なのか?」と書いたことがある。
それは当然、社内の人間の目に触れるだろう。それによって夫がここまで培ってきたものが根こそぎ崩れ去るようなことにはならないのだろうか、と。
しかし、今回は少し違った感想を持った。新聞に投稿した妻に対しては「彼女は自分の文章が上司の目に留まったとき、夫が被ることになるかもしれない不利益についてまでは考えなかったのではないか」と感じたが、2ちゃんねるに投稿した妻には「この人は自分の書き込みが会社の人間の目に留まること自体、まるで予想していなかったのだ」と思った。
おそらくこの女性は2ちゃんねるについてあまりにも無知だったのだ。「匿名でなんでも書き込める便利な掲示板」くらいの認識しか持っておらず、過去に勤務時間中にそこに書き込みをしたり内部事情を明かしたりしたことで懲戒処分を受けた人がいるといった話は知らなかったに違いない。
でなければ、関係者が読めばたちまち「夫」が誰か特定されてしまうような情報を晒したりはしないだろう。
新聞投稿のほうは「実名」「媒体が新聞」という点で、相手の情けが深ければ妻の切実な訴えと受け取ってもらえる可能性もあるが、「名無しさん」で「2ちゃんねる」では救いがない。そして会社はそこに書かれた恨みつらみを、「妻の愚痴」でなく「夫の本音」とみなすだろう。
妻が新聞やネットの片隅でなにを訴えたところで、夫の処遇が改善されることはない。しかし、その投書や書き込みは夫の将来に傷をつけるものにはなりうるという皮肉。
どんな指導を受けるのかわからないが、気の毒なのは夫である。

……それにしても。
「アベさん、イケダさんは大して残業してないし、ウノ君とエモトさんは独身だろ。となると、オオニシさんかカトウさんかキシモト君か、ってことになるんだよな〜」
なんて、「夫」候補者の名前まで街頭で披露した男性も実にお粗末である。あたりにはたくさんの人がいたのに、まるで電話ボックスの中にいるかのような調子でぺらぺらやっていたのにはびっくりしてしまった。
ここまでひどいのに出会ったのは初めてであるが、エレベーターの中で乗り合わせた他社のサラリーマンの仕事の話を聞くことはよくある。「固有名詞」にはお互い気をつけましょう。


2006年05月08日(月) なんせうぶなもんで……

みなさま、しばらくぶりです。ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしたか?
いま会社からこの日記をお読みくださっている方の大半は「だりーよお、仕事やだー」な現実逃避な気分ではないかと思います。
そんなあなたの心をときほぐすべく、今日は私が連休中に台湾で経験した「マッサージ」の話をお届けします。


「『鼎泰豊』の小籠包を食べる」こと以外、これという目的なく台湾に出かけた私と夫。
駅でもらったタウンガイドに「日本でも大人気の足ツボマッサージの本場は台湾。ぜひお試しを」とあるのを見て、じゃあ行ってみようかという話になった。

ずらりと並んだマッサージ店の広告の中から私たちが選んだのは、「明るく清潔。初めての方もお一人様も安心してお入りいただけます」という謳い文句のところ。
しかし訪ねてみたら、平日の午後という時間帯のせいか客は一人だけで、店内は薄暗くて陰気くさい感じ。白衣を着た男性マッサージ師が何人か暇そうにしていたけれど、「いらっしゃいませ」を言うでもなく、日本だったらすぐさま「やっぱりいいです」と踵を返すであろう雰囲気の店だ。
しかし、私はそこでしてもらうことにした。ここは台湾。明るさにしろ清潔さにしろ店員の愛想にしろ、日本と同じレベルを求めちゃいかんのだ。

片言の日本語で六十分間の全身マッサージを勧められる。たしかに九百台湾元(三千円ちょっと)というのはとても安い。日本でしたら倍はするだろう。私は喜んでそれをお願いした。
足湯の後、私と夫はそれぞれの個室に案内された。そこで上下に分かれた浴衣のようなものに着替えるよう言われたのであるが、私は少し迷った。
「ブラはどうしたらいいんだろ」
足裏や肩のマッサージは何度も経験があるが、全身は初めて。着けたままだとやっぱり邪魔かしら。でもマッサージ師さんは若い男性だしな……。
しばらく悩み、結局着けたままにすることに。そして、眠る気満々だった私は「おやすみなさーい」と冗談を言い、顔の部分がくり抜かれたベッドにうつぶせになった。

……のであるが。眠るどころではとてもなかった。
首から肩、背中から腰、と押してきた手がさらに下におりたとき、
「ふうん、女性客の場合はお尻は避けるのかと思ったけど、ちゃんとするんだ。そりゃあそうか、お医者さんと同じようなものだもんね」
なんて思ったのであるが、私にそんな余裕があったのは最初の十五分だけ。というのもその後、下半身に集中砲火を浴びたのだ。
肩や背中は浴衣ごしの指圧だったのだが、足はショートパンツ状のものをまくりあげられ、下着はハイレグにされ。その状態で足を持ち上げられたり、押し開かれたり。太腿やふくらはぎだけでなく内腿の微妙なところまで遠慮なくなで回される。私は思わず「まさぐる」という言葉を思い浮かべた。

そして、ふと思った。
「まさか、いたずらされてるんじゃないよね……」
だってなんというか、ものすごく卑猥な感じなのだ。上半身は「押す、揉む、ほぐす」だったのに、下半身はひたすら「なでる、さする」。しかもきわどいところを執拗に、なのだ。
「前に全身エステをしてもらったとき、女性のエステティシャンでもこんなぎりぎりのところまでは触れなかったよ。あ、でもあれはエステだからマッサージはまた違うのかな。たとえば足の付け根にツボが集中してるとか?でもいくらツボがあっても女性にここまでするかな……」

そんなことが頭の中をぐるぐる回ったが、全身マッサージを他で経験したことがないので判断がつかない。それに、夫と一緒にやってきた客におかしなことをするはずがない、という思いもある。
あられもない格好をさせられながら、
「全身マッサージというのはこういうハードなものだから、初めてのときはみな驚くのかもしれない」
とつぶやいてみた。
それでも、「そのうち下着の中に指が入ってくるんじゃないか」と本気で考えた。もしそんな展開になったら日記には書けないわ……。あ、そういう問題じゃないか。

というようなことを思っていたら、時間がきた。
着替えて外に出ると、夫が退屈そうに携帯をいじりながら待っていた。時計を見ると二十分オーバー。「得した」と思ってもよいものなのかどうなのかよくわからない。
といって、夫にどんなことをされたのかと聞く気にはならない。「服の上から押されただけだよ」なんて返ってきたらどうしたらいいの。それに、妻が受けたマッサージの内容を知って機嫌を損ねられても困る。
私ははずかしくてマッサージ師の男性の顔をまともに見ることができぬまま、店を出た。

* * * * *

全身マッサージがああいうものなのだとわかったのは、実はついさきほどである。
日記の下書きを終えた後、なにげなく読んでいた台湾観光案内サイトにマッサージについての記述があった。その中にこんな内容の一文が。

「足裏はお勧めですが、全身は避けた方がいいかもしれません、とくに女性は。日本人だとたぶんセクハラだと感じると思います。そうではないのですが」

んまああ!ということは、あのエロティックな指使いはちゃんとしたものだったのね。途中、ベッドに横たわった男性の体の上に載せられ、「こんなんぜったい変だよ〜」とおたおたしていた私っていったい……。
でもさ、タオルで視界を遮られ、両手を包まれて自由を奪われていたら、そりゃあ想像力もあらぬ方向に働きますよ。

……なんて言い訳もはずかしい。
疑ってごめんなさい。当方、三十四の小娘なもので。

【おまけ】
全身マッサージの際のブラジャーは外すべきものだそうです。ある整体院のサイトに「背中を施術する際、ホックで肌を傷つけることがありますし、押せる場所も極端に減ってしまうため着用はご遠慮下さい」とありました。言われてみればそうですね。



2006年05月02日(火) 東京に行って驚いてしまったことランキング

前回の日記に、山形由美さんがJR東京駅のコインロッカーに預けたフルートを盗まれた件について書いたが(こちら)、東京駅のコインロッカーといえばつい先日、私もえらい目に遭った。
指定を取った帰りの新幹線の二十分前に東京駅に戻ってきた私は預けておいた荷物を引き取ろうとして、さあ困った。ロッカーの場所がわからない……。
私は筋金入りの方向音痴。とくに建物の中や地下だとお手上げで、ちょっと駐車場の大きなスーパーに行くと買い物後、ひとりで車まで戻ることができないほどだ。だからそのときのことを考えて、朝荷物を入れるときにロッカー周辺の景色をしっかり覚えておいたのである。
それなのに。ここだ!と勢いよく曲がった先にあるはずのロッカーがない。
「うそー、半日のあいだにロッカーが撤去されてるーー」
……なわけがなく。なけなしの記憶を頼りに構内を探し回るが、見つからない。
幸いにも、発車まで十分を切り「自由席で帰らなきゃならないかも」が頭をよぎったとき、インフォメーションを発見。お姉さんに鍵を見せたら、いともあっさり解決した。
そうして滑り込みセーフで乗ることができたのであるが、あれはかなりあせった。

* * * * *

もちろん、主たる原因は異常ともいえる私の方向感覚のなさである。しかし、私は上京するたび大声で叫びたくなるのだ。

「東京駅は……いや、東京の電車はなんでこんなに難解なんだーー!」

私は東京駅に降り立つとなによりも先に路線図をもらうのであるが、あまりに駅が多いので、降車駅を探し出すのに毎回ものすごい時間を費やす。ようやく見つけたらルートを考えるわけだが、路線が交差しまくっているため、どこで何線に乗り換えるのが賢いのかなんてさっぱりわからない。
実際何通りもの行き方がある場合も多いようで、今回もある駅から渋谷駅経由で東京駅に行くにはどうしたらいいかを人に訊いたところ、たちどころに三パターン挙げられて驚いた。距離はしれているのに、どうしてそんなにいろいろあるんだ。
で、彼女は「ちょっと面倒だけど、これが一番早く着けるから」と地下鉄を乗り継ぐ方法を教えてくれたのだけれど、
「○○線の一番後ろの車両に乗って、●●駅で降りる。同じホームの向かい側に△△線が来るからそれに乗って▲▲駅で降りる。そしたらすぐのところに階段があるからそれを下りたら、××線って書いてあるから……ナントカカントカ」
と聞いているうちにこりゃ無理だとあきらめ、乗り換えなしで行ける山手線でえっちらおっちら行くことにした。
私の場合、都内を動くときは効率よりも「確実に目的地にたどり着くこと」を考えなくてはならないのだ。

あちこちの駅で行われている「相互乗り入れ」というシステムも私を混乱させる要因になっている。
関西では鉄道会社が違えば駅は離れているのが一般的だ。同じ「大阪市営地下鉄」でも線が違えば乗り場は別。たとえば梅田には地下鉄が三本走っているが、御堂筋線は「梅田駅」、谷町線は「東梅田駅」、四つ橋線は「西梅田駅」である。
しかし、東京ではJRと私鉄、私鉄と地下鉄、という具合に別会社の電車がつながっていて線路を共有することがめずらしくない。だから東急の切符で改札を入り、地下鉄の駅で下車、というようなことがふつうに起こるみたいだ。
乗り換えずにすむのだから慣れれば便利でいいのだろうが、間違えずに乗るのがやっとこさ状態の私にはひとつの駅にいろいろな電車が入ってくることはややこしさでしかない。

わかりにくいといえば、何年も前の話であるが、東京出張した際に非常に驚いたことがあった。
次の電車は何分かな、とホームの電光掲示板を見て、目が点に。
「こんど:急行」
「つぎ:快速」
と上下に並んでいたのだ。思わずつっこむ。
「“こんど”と“つぎ”。いったいどっちの電車が先に発車するんですか……」

だって、「今度いつ会えるの?」と「次いつ会えるの?」は同じ意味ではないか!
それぞれの横に書いてある発車時刻を見たら、「こんど」が先に出て、その次に「つぎ」が出るのだということはわかったが、どうしてこんなまぎらわしい表記にしているのだろう。関西では「先発」「次発」「次々発」だから、一目でわかる。


gooの「東京に来て驚いてしまったことランキング」を見ると、駅や電車に関する項目がいくつもランクインしている。納得である。
回答者は進学や就職のために地方から出てきた人たちなのだと思うが、そりゃああの様にはびっくりするわな。「夜なのに明るい」「すごい格好の人が歩いている」「終電でも電車がラッシュ」あたりを読むと、上京したばかりの頃にあ然としている姿が思い浮かぶ。

私にとっての一位はもちろん「鉄道網が複雑怪奇なこと」であるが、この中に挙がっている中で同意したのは九位の「そばつゆが黒い」。その他については大阪と似たり寄ったりだったり、想像の範囲内だったり。
あ、でも東京駅に対しては「ホームが多すぎる」(八位)と声を大にして言いたいけれど。