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2005年11月30日(水) 掲示板は置かない

少し前のことだ。ある女性からサイトに設置している掲示板を閉鎖しようか悩んでいるという話を聞いた。
もめごとがあったのだという。事の発端は「通りすがりさん」から書き込まれたメッセージ。忙しくて彼女がサイトを留守にしているあいだに、他の閲覧者が「そういう言い方は管理人さんに失礼ですよ」「書き込むときは名前くらい名乗ったらどうですか」といったようなレスをつけた。彼女が何日かぶりに掲示板にアクセスしたときには、おもちゃ箱を引っくり返したような事態になっていたのだそうだ。
自分の横レスが事を大きくしてしまった、とその人は恐縮して騒動が片付いた後も掲示板に現れなくなった。そして彼女自身もそのゴタゴタでなんだか嫌気がさしてしまった、ということだった。

おそらくその書き込みは管理人だけでなく、その場に居合わせた人をも嫌な気分にさせるものだったのだろう。
横レスを入れたのは「管理人さんの援軍をしたい」ももちろんだったろうが、掲示板は公共の場、みんなのものという気持ちがあってついカチンときた……という部分もあったのではないだろうか。
しかしいずれにせよ、むやみに反応したのは迂闊だった。管理人にまかせておくべきだったなあ。

こういう話を聞くと、掲示板管理の大変さ、むずかしさをあらためて思う。
レスに手が回らず宿題を抱えているような気分になったり、よく書き込んでくれる人のところに自分もなにか書きに行かなきゃと気を遣ったり、宣伝目的の書き込みに腹を立てたり……といった苦労話はよく耳にする。
また、ちょっと主張系の日記サイトの掲示板をのぞくと、自分と異なる意見が存在するのが許せないらしい人によって“書き捨て”られたコメントを見つけることがある。多くの管理人は場の空気を考え、礼儀知らずな書き込みにも「メッセージありがとうございます」なんて丁寧にレスをつけているが、ストレスたまりそうだなあといつも思う。
私がサイトに掲示板を置かない理由のひとつがこれ。私はメールにはすべて誠意を持って対応するが、自分の所在を明らかにせず通りすがりに他人の庭につばを吐いて行くような真似をする人に手を煩わされるのはごめんである。


……と、ここまで書いて思い出した。たったいま「サイトに掲示板を置いたことがない」と書いたけれど、そういえば一度だけあった。
以前、サイト上でオフ会の参加者を公募したことがある。日記書きのオフ会というのは、ふだんから交流のある書き手が声を掛け合ってするタイプのものが多いが、私はサイト持ちもサイト持たずもごちゃ混ぜの、過去にやりとりをしたことがあるもないも関係なしの集まりにしたかったのだ。
そうしたら、誰が来るのかわからない闇鍋のようなオフ会に申し込むすごい度胸の持ち主が八人もいてくれた。
幹事の私が参加表明してくれたのがどんな人たちなのかわからないのだから、参加者同士ももちろんまったく知らないわけだ。予備知識なしで当日いきなりご対面、というのもスリリングで面白そうな気もしたけれど、それではさすがの猛者たちもなじむのにいくらか時間がかかってしまうかもしれない。
そこで掲示板を用意した。連絡事項をメールで配信するのではなくそれに書き込むようにしたところ、ノリのいい人がレスをつけてくれた。そのうち会話に加わる人が増え、「どんな服で行くんですか」「ボウリングですもん、もちろんジーンズ」「待ち合わせ場所で見つからなかったらどうしよう」「○○さん(サイトで写真を公開しておられる)を目印にしましょうよ」といった雑談がはじまった。
オフ会の前後数週間の期間限定掲示板だったが、不思議な一体感があって楽しかった。そういう下地があったからかどうかはわからないけれど、当日は顔合わせをした十五分後にはチーム対抗ボウリングで大騒ぎしていたっけ(単にお祭り好きな人たちだったという話も……)。
オフ会はいくつも企画したけれど、これはもっとも思い出深いもののひとつだ。

うーん、懐かしい。あれから二年経つけれど、みなさんお元気ですか。


2005年11月28日(月) スモーカーの苦悩

先日新聞で、作家の黒井千次さんの「禁煙難民」と題されたエッセイを読んだ。
デパートで買い物中、一服したい気分になったが、各階にある喫茶店は禁煙マークの入ったところばかり。安息の場を求めてさまよい歩き、ようやく見つけたのは甘味処。「男がひとりでこういう店にいるのは傍目に滑稽ではないだろうか」とひるみつつあんみつを注文、やれやれとタバコに火をつけた、という話だった。

そうそう、まさに“難民”なんだよなあ!と相槌を打ったのは、つい最近私も同じ思いをしたからだ。
喫煙歴二十年という年季の入ったスモーカーである年上の友人と食事に行ったときのこと。食後のドリンクはサービスで半額で飲めるのだが、彼女は店を替えようと言う。そのレストランは店内禁煙だったため、我慢の限界にきていたらしい。
そこで店を出て、タバコを吸いながらお茶ができるところを探したのであるが、時間が遅かったこともあってなかなか見つからない。そうだ、たしかあそこが……と思い出した喫茶店に行ってみると、「十月から全席禁煙になりました」と言われてしまった。
彼女はコーヒーを飲みながらの一服をあきらめ、私にオーダーを頼むと表に出て行った。どこかで立ったまま吸うのだろう。

戻ってきた彼女が、「喫煙者は肩身が狭くって……」と苦笑して言った。
マンションを買ったばかりの友人を訪ねたら、部屋に通されるなり「うちは禁煙だから、タバコはベランダでお願いね」と言い渡されたらしい。ノンスモーカーの友人の、真新しい家のリビングで吸わせてもらおうなんてまったく思っていなかったが、先手を打つようなその言い方にはちょっぴりショックを受けたという。
「だって、その口ぶりが『タバコを吸われるのは迷惑なんです』ってありありと語ってるんやもん」
こういう話を聞くと、少しばかり同情してしまう。私もタバコは苦手だけれど、彼女は吸うときにはひと声かけてくれるし、必ず横を向いて息を吐く。それでも私のほうに煙が流れてくると、手で追い払おうとする。いつも気の毒になってしまうくらい、こちらに気を遣ってくれるのだ。
釘なんか刺さなくたって、断りもなく部屋の中で火をつけるような人でないことくらい想像できそうなものなのに。

喫煙者と行動を共にすると、街中から灰皿が撤去されていることにあらためて気づく。
喫煙可のカフェやレストランを見つけても、窓際の眺めのいい席に案内されることはない。これからの季節は寒さに凍えながらテラスで、ということもあるかもしれない。また、少し前まではホームの先端に喫煙スペースが設けられていたが、いまは多くの駅で終日禁煙のアナウンスが流れている。
残業でくたくたに疲れ果て、やっとのことでタクシーをつかまえたと思ったら、「禁煙車ですがよろしいですか」と運転手。彼女は思わず“迫害”という言葉を思い浮かべたそうだ。

昔付き合っていた人の中にチェーンスモーカーの男性がいた。
一後輩だった頃から、寿命を縮める吸い方だなあと思いながら見ていたくらいだから、彼女になったらハラハラどころではすまなくなった。ちょっとした運動で息切れしたりよく風邪をひいたりするのが、すべてそれのせいのように私には思えた。
タバコを吸っている人を見て、「あ、ニコチン中毒者だ!」なんて思うことはまずないが、彼が具合が悪くても吸うのをやめないのを見たときは、彼にとってそれは嗜好品というより依存物なのではないかと感じた。どんなにいい人でも、こういう人と結婚することはできない。
こういう世の中になって、彼はきっととても苦労しているだろう。少しは本数、減っているといいけれど……。


「この機会に禁煙に挑戦してみたら?ほら、成功率九十パーセントっていう禁煙本が評判になってるやん」
「ああ、『禁煙セラピー』やろ。それ、読んだ」
「えっ、そうなん。ってことは効果なかったんか」
「ううん、これ以上読んだらほんまにタバコやめてしまいそうって怖くなって、途中で読むのやめてん」

世の喫煙者すべてが「やめられるもんならやめたいよ」と思っているわけではない、というのは発見だった。
それにしても、彼女のようなヘビースモーカーをして「これ以上読んだらやばい」と言わしめる内容とはいったいどんなものなのか。
「タバコを吸い続けたら、将来こんな恐ろしい病気になりますよ」というようなことが書いてあるのかと思ったら、そうではないという。ふうむ……。


2005年11月25日(金) 問題のありか

二十二日付けの読売新聞に、「解雇は仕方ない 親としての問題」というタイトルの投書が載っていた。
投稿者は五十代の主婦。数日前に同欄に掲載された「人情味あふれる電車運転士必要」に疑問を投げかける内容だった。どちらも東武鉄道の運転士解雇問題について書いた文章である。
このニュースはご存知の方も多いと思うが、事のあらましはこうだ。

東武鉄道野田線の南桜井駅で、普通電車の運転室に30代の運転士の長男(3つ)が入り込み、次の川間駅まで運行を続けたことが10日、分かった。同社は「重大な服務規定違反」として、運転士を懲戒解雇する方針。
同社によると1日、運転士の妻と長男が電車の先頭車両に乗車。父親の仕事姿を見た長男が運転室のドアをたたくなど騒いだため、なだめようと停車中にドアを開けたところ、運転室に入り込み、そのまま発車した。
運転士は「しかったら泣いて座り込んでしまった。運行を遅らせるわけにはいかないと思った」と話している。長男は運転中はおとなしくしていたといい、川間駅で停車中に妻に引き渡した。
(2005年11月10日 共同通信)


さて、私は今回の投書を読み、「あれを読んで違和感を覚えた人はやっぱりいたんだな」と思った。
元記事の「人情味あふれる電車運転士必要」には私も首を傾げたひとりである。投稿者の三十代の女性は、子どもの頃にすし詰め状態の電車に乗っていたら運転士が「かわいそうだから」と中に入れてくれた思い出に続け、
「親子で駅の清掃をさせるなどの処分でよいのではと思う。解雇の理由が『安全運転は鉄道事業者の使命だから』というが、運転士にはこれぐらいの人情味があってもいいのではないか」
と書いていた。
「親子で清掃」という発想もユニークであるが、この件は女性にとって“これぐらいの”という言葉で片づけられることなのだという事実は、さらに私を驚かせた。そうか、そんな人もいるんだなあ。
……と思っていたら。その後の報道によると、東武鉄道には二千件の意見が寄せられ、うち千八百八十件が「処分が厳しすぎる」「自分のせいで父親が解雇になったと知ったら子どもがかわいそう」など同情的なものだったという。
ためしにYahoo!の掲示板をのぞいてみると、東武鉄道に対する抗議のトピックがいくつも立ち、「解雇権の濫用だ」「東武にはもう乗らない」「血も涙もない会社だ」といったコメントが連なっている。
今回の処分についていたしかたないと思う私のほうが、「そういう人もいるのか」と言われる側だったようだ。

* * * * *

しかしやはり私は、JR福知山線の脱線事故を経験し、電車で死ぬこともあるのだと知ってもなお、多くの人がいま自分が手にしている安全には“余裕がある”と思っている現実に驚かずにいられない。

「公私混同したことはよくないが、重要な操作器具は足元にはないから大丈夫だと考えたのだろう。運転室に子どもをひとり入れることに即事故につながるような危険性があるとは思えない」

掲示板でこういうコメントをたくさん見かけたが、はたしてそうだろうか。
脱線事故の後もしばらくのあいだ、新聞には毎日のようにどこそこ駅でオーバーランが発生したというニュースが載った。世間の目が厳しくなり、どの路線の運転士もかつてないほどの緊張感、集中力を持って業務にあたっているであろうに、それでも何十メートルも行き過ぎてしまう電車が出る。これはその運転がそれほどデリケートなものであるということの証明ではないだろうか。
そのことを考えれば、子どもに気を取られた状態で運行することに不具合があることははっきりしている。

公私混同がどうとか、三歳児の手の届く位置にスイッチがあるとかないとか、問題にすべきはそんな表面的なことではない。
運転室に子どもを入れたまま運行することを「その程度のこと」と感じてしまう、そのことこそが危険の正体であり、問題のありかなのだ。これは運転士だけでなく、乗客の意識においても言えることである。
規則違反であることを知りながら、どうして運転士は子どもを隣りに置いたまま運行したか。発車時刻になったからだ。
規則は運転士に窮屈な思いをさせるためにあるわけではない、乗客の安全を守るためにあるのだ。しかし、彼が恐れたのは「安全」の部分を脅かすことではなく、ダイヤを乱すことのほうだった。それは運転室のドアを開けたこととは比較にならない重大な判断ミスである、と私は思う。
安全第一よりダイヤ優先。その発想が半年前、悲惨な事故を起こしたのではなかったか。「たった一駅」「わずか四分間」でも根はまったく同じなのだ。

しかし、その過ちを運転士ひとりのせいにすることはできない。
彼の「運行を遅らせるわけにはいかないと思った」という発言を読んだとき、JR西日本の営利体質があれだけ批判されたのを目の当たりにしても、鉄道会社の幹部の意識はなにも変わっていないのだな、と思った。脱線事故の後、「安全運行はすべてに優先する」が現場の人間にあらためて周知されていたならば、今回の運転士も少々手間取っても子どもを運転室から出そうと考えることができたかもしれない。
そして、私たちにも考えなくてはならない点はある。ほんの数分の遅れにも乗客から激しいクレームがつけられるとしたら、彼らは「なにがなんでも時間厳守しなくては」とプレッシャーを感じずにはいられないだろう。
私たちが寛容になるべきは「運転室に子どもを乗せること」に対してではなく、こういう部分にではないだろうか。


懲戒解雇が妥当であるか、厳しすぎるか。私にはそんなことはわからない。
私は東武鉄道の人間ではないから、その判断基準を持たない。どの程度の罰則が相応かの判断などつかないから、「解雇は当然だ」とも「停職で十分だったのでは」とも言えない。
ただ、法律や社則に抵触する行為をした社員の処分をいかにするかの裁量権は会社にある。東武鉄道が何百という乗客の命を預かる立場にある者の行為として情状酌量の余地はないとしたならば、甘んじて受け入れるしかないだろう。
それが、私の「いたしかたない」の理由だ。

運転士の妻と子どもたちは運転士の勤務終了後に一緒に買い物に出かけようとして、その電車に乗車したそうだ。
仲の良い家族の姿が目に浮かぶ。四人で支え合い、この試練を乗り越えてほしい。


2005年11月24日(木) リベンジ

旅行代理店に勤める友人が「社長賞」をもらったという。
成績と部門長の推薦によって全社員の中から東西各一名が選ばれるものだというから、それはもう名誉ある賞だ。つまり、彼女は西日本でもっとも優秀な社員ということになる。
友人は順風満帆の社会人人生を歩んできたわけではない。大学を卒業してから旅行業界ひと筋できたが、二度も倒産の憂き目に遭い、いまの会社で三つ目だ。きっと苦労も多かっただろう。
「結婚もせんとがんばってきた甲斐あったわ」
と胸をそらす彼女に、
「えっ、独身なんは仕事のせいちゃうやん」
と突っ込みを入れつつ、私もとてもうれしかった。

さて彼女、そのお祝いで直属の上司にふぐをご馳走してもらったらしい。だめモトで「てっちりが食べたい」と言ってみたところ、本当にふぐ料理屋に連れて行ってくれたそうだ。しかも鍋だけでなく、皮刺しや刺身、唐揚げまでついたフルコースだったという。
「てっさの薄造りの身がきれいでねえ」
「鍋の後の雑炊がこれまた格別で……」
「でもひれ酒は飲めんかったわあ」

彼女の話を黙っておとなしく聞く私。
そりゃあ私だってできるものなら、「雑炊もいいけど、ふぐ茶漬けも捨てがたいよね」とか「私、白子はだめなのよ」とか合いの手を入れたい。しかし、ちゃんとしたふぐを食べたことがない私は「へええ」「ほおお」と拝聴するしかないのだ。


ちゃんとしていないふぐなら、一度食べたことがある。
二年前の冬、てっちりというものを食べてみたくてA子と下関に出かけた。学生時代の友人B君があちらに住んでおり、いい店を知っているというので案内してもらうことになっていた。
が、出発前夜になって彼からインフルエンザで寝こんでいるため会えないと連絡が入った。私たちのことはやはり共通の知り合いで下関在住のC先輩に頼んであるから心配ない、とのこと。
そんなわけで、急遽Cさんのお世話になることになった。……のであるが。

雑居ビルのかびくさいエレベーターに乗って到着したのは、場末ムード満点のスナックだった。
きょとんとしている私たちに、「ここのママには世話になってるんだ」とCさん。ああ、なるほど、紹介がてら私たちを連れて来たのね。そしてちょっと飲んだら、ふぐを食べに行くつもりなのね。
ほっとしたのも束の間、昭和な髪型をしたママが「大学の後輩なんだってえ?」と言いながら、私たちの席にやってきた。「あ、はい」と答えながら、私の目は彼女が手にしている一口コンロに釘付け。
まさかそれ、このテーブルに置いて行くんじゃないよな……。
ドキドキしながら見つめていたら、私の視線に気づいた彼女はにっこりして言った。
「ふぐは初めて?」

はじめ、私はそれが「てっさ」だとわからなかった。大きな丸皿に花の形に並べられていたのではなく、角皿に小山のように“盛られて”いたからだ。
しかも、下手をしたら一センチくらいあるんじゃないかと思うくらい身が厚かったのである。ふぐの刺身というのは皿の絵模様が透けて見えるくらい薄く引くものじゃなかったのか……?
A子が思わず「これ、むっちゃぶ厚くない!?」と声をあげたら、ママは得意げに言った。
「でしょ。こんな厚いの食べさせてくれるとこ、ほかにないわよ」
なぜふぐは薄造りにするか。弾力があって身が固いため、いっぺんに二枚三枚とって好みの歯応えにして食べるためだと聞いたことがある。
私は心の中で「ぶ厚いほうが得とかいう問題なんかあっ!?」とわめいた。

そんなだから、てっちりのほうも言わずもがな。まだ沸騰していない湯の中にふぐのあらをどかっと投入するママ。
ふぐというのは淡白な味らしいから、熱湯ではだめなのかしら……。と一瞬考えたが、いやしかし、鍋の具材はふつう煮立ってから入れるものである。思いきって訊いてみる。
「あの、沸いてなくても入れちゃっていいんですか」
「蓋してたらすぐ沸くわよ」

しばらくしたら鍋がグツグツいいはじめた。ママは「ふぐ鍋はね、ぽん酢をつけて食べるのよ」と言って、ミツカンの味ポンを私たちの前にゴン!と置いた。

* * * * *

のぞみに乗って出かけた下関で、私はふぐを数切れしか食べなかった。
味の問題以前に「このふぐ、まさかママがさばいたんじゃ……」と思ったら恐ろしくて、どうしても箸が伸びなかったのである(ちなみにA子もC先輩も生きている)。
そんなわけで、あれは私の中で“ふぐ体験”としては認定されていない。

「あのさ、話の種にいっぺんふぐってものを食べてみたいんやけど……」
唯一スポンサーになってくれそうな男性にお伺いを立ててみる。が、接待の席で何度か食べたことがある彼は(される側ではなく、する側だ)「言うほどうまいもんじゃないよ」とつれない。
お高いものを食べさせて、妻が味をしめたら大変だと思っているのではないだろうか……。
しかし、この冬こそリベンジを果たしたい。


2005年11月21日(月) 私事で恐縮ですが

日記で「私事で恐縮であるが……」と前置きしたら、笑われるだろうか。
もともと“私事”しかないじゃないか!と突っ込まれてしまいそうである。まあ、それはそうなんだけれども、でもやっぱり今日はそう断っておきたい気分。

「熱しやすく冷めやすい」という言葉があるけれど、私は「熱しにくいが、いったん熱したらなかなか冷めない」タイプ。だから、ほかの男性に目移りして恋人を振ったという経験は一度もないし、飽きるということがあまりないので物持ちもいい。
趣味についてもそれは言え、なにかをはじめたけれど三日坊主になっちゃった、という覚えはない。中でも一番長く続いているのが「日記」である。
手書きの日記は中学一年のときから十年以上に渡って日課にしていた。細罫の大学ノートに毎日の出来事をびっしり書きつけた。社会人になってしばらくしたら忙しくて書けなくなってしまったが、数年後、web日記という形で私は再び書きはじめた。
そして、明日はサイト開設五周年の記念日なのだ。

* * * * *

日記をはじめた当初から、エクセルで作った表にテキストごとの細かいデータを残している。
これこれこんな項目がある、と以前ある日記書きさんに話したら、「なんのために!?」とものすごく驚かれたのだけれど、一番の理由は自分がいつどんなテキストを書いたかを把握しておくためだ。
八百三十二本も書いていると(こういう数字もぱっと出てくる)、過去ログについての記憶がかなり曖昧になっている。何年も前のテキストに感想をいただくことがあるが、返事を書く前に読み返そうとしてもいつ頃のログを繰ればいいのかわからない。そんなとき、そのエクセルのファイルを開けばたちどころにわかる仕組みになっているので、とても便利なのである。
「むかし一度メールしたことがある○○です。覚えておいででしょうか」なんて書かれたメールをいただいたときにも役に立つ。
過去にやりとりをしたことがある方の名前はほとんど記憶しているつもりだけれど、それでもずいぶん前のことだったりよくあるハンドルネームだったりすると、「おひさしぶりです」と打つ前に念のため当時のメールを確認しておきたいなと思う。そういういつ受け取ったのかわからないメールを探すのにも、そのファイルは活躍してくれるのだ。

ほかの利点としては、いくつかの項目についての数字の推移が励みになるということがある。
アクセス数をアップさせるためにどうするこうするといった話をよく目にするが、私が五年間を振り返ってあらためて思ったのは、結果は後からついてくる……いや、「後からしかついてこない」ということだ。
サウナで汗をしぼり出した後に体重が減った!痩せた!と小躍りしてもぬか喜びになるように、過激な内容で一時的に人を集めてもしかたがない。あぶく銭ならぬ、あぶくアクセスは明日には消えてしまう。
繰り返し見に来てくれる人を増やしたいと思うなら、テキストをひとつひとつ丁寧に重ねていくことで、読み手の中に自分の日記に対する“ある種の信頼感”を芽生えさせること。これに尽きる、と確信している。
そして、こつこつとマイペースで書きつづけていくための策のひとつが私の場合、サイトの成長を目に見える形にすることだった。体重を記録することなくダイエットに成功する人はあまりいないだろう。

今いる地点が山の中腹なのか、実はもう頂上付近まで来ているのかはわからないけれど、一歩でも二歩でも多く歩いていられたらなあと思っている。
いつも本当にありがとう。今後もどうぞ変わらぬお付き合いを。


2005年11月18日(金) ジャパニーズ・ビジネスマンに愛を込めて。

月曜の朝、夫を送り出してリビングに戻ると、テーブルの上の一冊の文庫本が目に留まった。読み終えて、夫が出張カバンの中から出して置いていったのだろう。
夫婦で本を共有することはほとんどない。夫が読むのはビジネス書っぽいものばかりなので、私の食指は微動だにしないのだ。けれど、そのときはつい手に取った。表紙のイラストになんとも言えぬ哀愁が漂っていたのである。
長ネギが飛び出したスーパーの袋を下げた背広姿のオジサンがチラッと後ろを振り返り、涙目で「さびしくなんかないやい!」。
いったい何の本かと思ったら、重松清さんの『ニッポンの単身赴任』とあった。

ぱらぱらめくってみる。さまざまな理由で「単身で赴任すること」を選択した二十人のサラリーマンに取材したルポルタージュだそうだ。
なになに、「単身赴任」に相当する言葉は英語にはない?うん、そうだろうなあ、そういえば「過労死」もなかったよねえ。
……ところで、夫はなんでこんなの読んでたのかしら?

本格的に読んでみたところ、孤独や不安と闘いながら家族のために、自分のためにひたむきにがんばるお父さんたちの姿に思わずほろり。
四畳半一間の部屋に酒屋さんから譲ってもらった日本酒のケースを二十個並べ、「ベッド」を作るお父さん。ちゃんとしたベッドを買わないのは、「必ず家族のところに帰るんだ」という思いからなのか。
またあるお父さんは、週末に帰省したときは月曜の朝五時に家を出て、新幹線で赴任先に戻る。前夜に戻っておいたほうが体は楽なのだが、「週末ぐらいはゆっくり家族と過ごしたい。日曜の夜に家族と別れてあわただしく戻るのは、やっぱりつらい」。

四十年、五十年生きてきた“大の男”でもやっぱり家族と離れていると寂しくて、毎日真っ暗なアパートに戻るのは嫌なんだなあ……と胸がきゅっとなった。


人はつい、自分が育った家庭がスタンダードであると錯覚してしまう。会社の休みが土日でないとか、平日は子どもの寝顔しか見たことがないというお父さんが世の中には少なくないことを私が知ったのは、それほど昔のことではない。

私の父は毎日判で押したように十九時に帰宅する人だった。飲んで帰ってくることもなく、夕食は家族四人で一緒にとるのが当たり前。物心ついたときからそうだったから、私は長いあいだ、「お父さんとはそういうもの」と思っていた。
だから大学生のとき、先に卒業、就職した彼が日付が変わるくらいの時間まで残業したり、休日出勤したりしていることを知って、本当に驚いた。
社員に対して非人間的な扱いをする、なんてひどい会社なんだ!そう思っていたら、次に付き合った人の働きぶりも似たようなものだった。
ためしに周囲に訊いてみたら、
「子どもの頃、晩ご飯はいつもお父さん抜きだった」
「お父さんは私が起きてる時間には帰ってこなかった」
「休みは土日じゃなかったから、どこかに連れて行ってもらったりした記憶はあまりない」
という人はいくらでもいた。そうだったのか……!
父のような“お父さん”を見つけるほうがむずかしいということは、自分が会社勤めをはじめたら、もっとはっきりわかった。

そして、いま私の夫をしている人もまた、「二十四時間戦えますか」(古いか……)を地で行くようなサラリーマンである。
月曜の朝出かけたら、帰宅は金曜の夜という“出張族”。この生活は結婚当初からだから、もう六年目になる。夫婦で過ごす時間は、毎週末帰省する単身赴任者とそう変わらないかもしれない。

* * * * *

家族を思いながら、遠くで孤軍奮闘するお父さんたちを本の中に見て、思い出したことがある。
夏に北海道に行ったとき、夕張の石炭博物館に寄った。炭鉱の町として栄えていた昭和三十年代から四十年代の資料が展示されていたのだが、私はその中の一枚の写真に胸を衝かれた。
誰が誰だかわからないほど顔をススで真っ黒にした採炭員の男性が、炭坑内で昼食をとっている場面だ。彼は弁当箱の蓋をほんの数センチずらし、そのわずかな隙間に箸を差し込んでいた。掘ったばかりの炭壁から小さな石炭が降ってくるため、蓋が開けられないのだ。頭から新聞紙をかぶって食べることもある、と説明書きにあった。
その写真には男性のこんな言葉が添えられていた。

この写真ナ、オラが炭鉱やめるまで
ゼッタイ人に見せんなヨ、
こんな真黒くなって、こったらとこで、
弁当のフタもとらねえで
メシ喰ってるなんてオマエ、
女房や子供さでも知れたら
泣かれるベャ!

そうだナ、
オレも結婚して20年近くなるけど、
うちの女房なんか今でも、
オレ事務所にあがってから
メシ喰うもんだと思ってるもんナ。


時代は変わっても、仕事は違っても、「弁当のフタもとらねえでメシ喰ってる」ことを妻や子どもには知らせていない男性はきっとたくさんいるのだろう。仕事の愚痴を一切言わない私の夫もそのひとりかもしれない。


「立山は気温七度、山は雪が積もってるよ。雪を見たらおでんが食べたくなりました」

夫からの携帯メールは、ケンカ中でさえなければ毎日届く。返事を送るとどんどん送ってきて、十通を超える日もある。
「やっぱり一日一回は声を聞きたいなあ」なんて思ってくれるようなしおらしい人ではないし、出張生活もそれなりに楽しんでいるようだけれど、それでもほんのちょっぴりは「ひとりはツマラナイ」のかもしれない。それとも、妻に気を遣っているのかな。

そりゃあお金もいるけれど、でもね、家族にとってなによりもありがたいのは……。
健康でいることが、あなたがたの最重要任務です。どうかがんばりすぎないで。


2005年11月16日(水) どうぞお幸せに。

昼食を済ませ会社に戻ると、休憩室は案の定、紀宮さまの話題で持ちきりだった。
同僚たちはテレビ中継を見ながら、「お似合いやん」とか「年収七百万かあ」とか「今日もやっぱりこの髪型」とか、口々に好きなことを言っている。
私は黙ってそれらを聞いていたのだけれど、「これからは自由に暮らせるんだね、紀宮さんよかったね」というニュアンスのものがけっこうあって、ふうむと考えた。そういうものだろうか。

皇室というところは、たしかにいかにも窮屈そうである。判で押したようなアルカイックスマイルに角度まで決められているのであろうお辞儀とお手振り、完璧な言葉遣いに露出の少ないパターン化したファッション。見ているだけでこちらの肩が凝ってきそうだ。
国民の「模範」としてあらねばならぬ人たちの生活は制約が多いだけでなく、常に注目される。私たち一般人にはとても耐えられそうにない。だから、二十数年間ふつうの暮らしをした後に皇室に入った美智子さまや雅子さまが相当苦労されたであろうことは想像に難くない。

しかしながら、私が紀宮さまに対して「自由の身になりましたね」的な感想を持つことはない。私たちの目にどんなに特殊に映る環境でも、そこで生まれ育った人にとっては当たり前のものであろうと思うから。
乙武洋匡さんは「僕はもともとこう(手足がない)だから、不自由とは思わない」と言う。人は、生まれながらに与えられたものについては「そういうものだ」として受け入れることができるような気がする。言動が制限されるとか常に護衛の人々に付き添われるといった生活も、紀宮さまにとってはまぎれもなく「日常」であり、「そういうもの」であったのではないか。

それでもクラスメイトや同僚の暮らしぶりを見て憧れる部分もあったのではないかな、とは私も思う。
でもだからといって、そういう生活を欲しておられただろうとかそれを手に入れることが幸せだとかいうふうに解釈するのは早計かもしれない。


純白のドレス姿の紀宮さまを見て私が思ったのは、「よく相手を見つけられたなあ」ということだった。
「負け犬の星」なんてことも言われていたが、そりゃあそうだろう、この時代に天皇家の長女と結婚しようなんて男性がそう簡単に見つかるはずがない。なんせ天皇、皇后が義理の両親になるのである、誰だって怖じ気づく。
披露宴中にふたりが雛壇から天皇一家のテーブルに移動したとき、黒田さんの席の目の前は両陛下、斜め前は皇太子さまと雅子さま、左は紀宮さまをはさんで秋篠宮さま、右は紀子さまだった。
それを見て、「そうか、クロちゃんはこれからこの人たちと親戚付き合いをするんだなあ」と思った。たとえ紀宮さまがすごい美人だったとしても、夫探しは難航していたにちがいない。

そんな中で、本当にいい相手に出会えたものだ。夫が見つかっただけでもすごいことだと思うのに、黒田さんという人は紀宮さまにとって最高の条件の男性ではないだろうか。
結婚準備のひとつとして、初めて財布を用意したとかゴミの出し方を教わったとかいう話があったが、これから紀宮さまは美智子さまや雅子さまが経験したのとはまた別の苦労をすることになるだろう。しかし、夫が兄の学友で皇族の生活を一般人よりはずっとよく理解している男性であるという点は、大きな救いになるような気がする。

しかしながら、私がその勇気というか度胸というかに脱帽したのは黒田さんに対してだけではない。
紀宮さまは皇籍を離れ、民間人になる。それはなにがあろうと後戻りできないということだ。ふつうのカップルなら嫌になれば別れることもできようが、この結婚は「やーめた」をすることはできない。
なにかをこれからはじめるというときに「もし失敗したら……」なんてことは考えない人が多いと思うが、もう戻る場所はないとなれば、そういうわけにもいかなかったのではないか。
嫁ぐ朝、美智子さまが娘を抱きしめながら「大丈夫よ」を繰り返したという話を聞いて、そんなことを思った。

* * * * *

「この人はきっと本当にいい人なんだろうなあ……」
とむかしから思っていた。最近「ドンマーイン」の話を聞いたときも、あまりにも“らしい”感じがして笑ってしまった。

“結婚”というものをしている女性のひとりとして、幸せになってほしいと心から思う。おめでとうございます。


2005年11月14日(月) まさかとは思うけど

聞けば、「本は文庫化されてから買う」という人は意外と多い。
私もそのひとりで、ハードカバーの段階ではめったに買わない。書店の平台に並んでいるのを見て、いますぐ読みたいなあと思うこともあるにはあるが、本は家にいるときより外で読むことのほうが多いため、持ち歩きづらいようなものでは困るのだ。
そんなわけで、うちの書棚に並んでいるのは文庫本ばかりである。

が、これでは当然のことながら、文章をタイムリーに読むことはできない。そのため、最近こんなことがあった。
中村うさぎさんの『愛か、美貌か』というエッセイを読んだ。うさぎさんがお気に入りのホスト、「春樹」を店のナンバーワンにすべく大金をつぎ込んだ、三ヶ月間のホストクラブ通いの記録である。これは三、四年前に『週刊文春』に掲載されていた連載が文庫化されたものだそうだ。

さて、初出を知らず文庫本で初めてそれらの文章を読んだ私は、うさぎさんがホスト遊びから足を洗うくだりに「あれ?」と首を傾げた。
出版社からは三年先に刊行予定の本の印税まで前借りしたが、それでも資金が底をついた。「お金がないからもう店には来られない」と彼に告げ、最後の夜、一本百万円のブランデーを入れてホストクラブで放蕩する日々にピリオドを打った。
……と本にはある。しかし、私は半年ほど前、たまたまどこかで手に取った文春のうさぎさんのページで、「春樹」という名のホストが自宅に怒鳴り込んできた、という話を読んでいた。
「美しい男は怒ろうがなにをしようが、やっぱり美しいのだなあ。だけど人間、顔だけじゃあねー」
といった調子の、皮肉たっぷりの文章だったと記憶している。その頃私はまだうさぎさんのエッセイをほとんど読んだことがなく、ホスト通いをしていた時期があったことも知らなかったので、「ふうん、なんか知らんけど、そのホストとよほどのことがあったんだな」と思った。
そのことを思い出したのである。

出会ったときは店の十四位だったのを二位にまで押し上げるくらい、うさぎさんはそのホストを可愛がった。そしてお金を使い果たし、「私がいなくなってもがんばってね」「うん、今までありがとう」で綺麗に終わったように本には書いてあるのに、なにをどうしたらそれからこんなドロドロした展開になるのだろう?
文春誌上では掲載済みで、現在文庫化されるのを待っているエッセイの中に、その「よほどのこと」について書かれたものがあるのだろう。
気になる、気になる……。

と思っていたら、今月号の『婦人公論』を読んで謎が解けた。うさぎさんの「暴走する私は、どこに向かう」という手記の中に、そのホストとは“続き”があったことが書かれていた。
彼はうさぎさんにはまだまだ金があると睨み、作戦を変えたらしい。「色恋営業」、つまり愛を告白してきたのだ。
もちろん最初は信じなかったが、「俺がホストだから信じてくれないんだね」と悲しげに言うのを見て、見事術中にはまってしまった。若い男に愛されているという恍惚と、騙されているのかもしれないという苦悩。「いいや、自分は愛されているのだ」という幻想にすがりつくために、さらにお金を遣うことになった。
しかし、その後なにもかも嘘だったことが発覚、自分の男を見る目のなさに愕然とした------という内容であった。

なるほど、相手が家に乗り込んできたというのはそのゴタゴタの最中のことだったのね。


ほかの作家のエッセイであれば古い話、新しい話を前後して読んでも支障はないのであるが、うさぎさんの場合は少々事情が違う。恐竜の生きた時代が三畳紀、ジュラ紀、白亜紀に分けられるように、うさぎさんの人生にも「紀」があるからだ。
かつては「ショッピングの女王」と言われ、破滅的なお金の遣い方をすることで有名であったが、その買い物依存症が落ちついたと思ったら、ホストに溺れた。結果はお金のみならず女としての自信まで失い、そうしたら次はそれを取り戻そうと美容整形にはまった。顔にはメスを、胸にはシリコンを入れ、若さと美しさを得たら、今度は「自分には女としての価値がどのくらいあるのか」を知りたくなった。そしてこの夏、デリヘル嬢体験をしてみたそうだ。
『婦人公論』の手記を読んだら、彼女の内部の変遷が実によくわかった。

……しかしなあ。
この一連の行為を「自分探し」「自己確認」だと説明されても、露悪的なエッセイが人気の作家である。ここまでやることがエスカレートしてくると、さらなる刺激を求める読者の期待に応えて……的な部分もあるのではないか、なんてことがちらっと頭をよぎる。
まあ、まさかそんなことではないとは思うが、もしもそうだったら怖い。だって、これ以上派手で世間の注目を集めることといったら、あとは自殺くらいしか思い浮かばないんだもの。


2005年11月11日(金) 百読は一見にしかず

書店で立ち読みをした『週刊新潮』の中に、「講演会」について書いた渡辺淳一さんのエッセイがあった。
講師として招かれることが多いが、苦手なことがいくつかあるという内容だ。講演がはじまるときに司会者の「盛大な拍手でお迎えください」の声とともに会場の後ろから演壇まで聴衆のあいだを歩かされること、登壇してから長々と経歴を読みあげられることがとても嫌なのだそう。
「話しているとのどが乾いてくるが、どうしても水差しの水を飲むことができない」というくだりにも、へええと思った。聴衆にじいっと見つめられているのでグラスに水を注ぐとき、手元が狂ってこぼしてしまいそうだとおっしゃる。
世間に名を知られ、「先生、先生」と呼ばれているような人でも、人前に立つと気恥ずかしさを覚えたり緊張したりするのだなあ、と少々意外だった。


作家の講演を聴くのが好きだ。そうたくさん経験があるわけではないが、実感しているのは「ものを知っている人、いろいろな経験をしてきた人の話は面白い」ということだ。
おとつい、養老孟司さんの「なぜ日本は『少子高齢化』したか」というテーマの講演を聴きに行ってきたが、これもとても勉強になった。
「子育ては農業と同じ。“子ども”という、毎日変化し常に手入れが必要なものと付き合うにはエネルギーがいる。ボタンひとつで風呂が沸き、ご飯が炊きあがる時代に、子育てのように手間ひまがかかり、かつ結果が予測できないものがすたれていくのは当たり前」

これを聞いて、酒井順子さんの著書『少子』の一節を思い出した。
「生まれた頃から洗濯機も掃除機も冷蔵庫も家にあった世代にとって、全て人の手によって行なわなければならない育児という家事労働の面倒臭さ加減は、クッキリと際立ってしまいます。これは、他の家事が全て手作業だった時代の人達には理解できない感覚なのかもしれませんが」

面倒くさいから子どもはいらない、なんて文字通り「世も末」のような気がするが、実際私のまわりにもそれを理由に結婚に魅力を感じない、あるいは子どもは作らないと公言している人がいる。
彼らの顔を思い浮かべると、「脳化社会(都市社会)に子どもが減るのは必然」という話はすんなり私の中に入ってきた。


そしてもうひとつ、講演会に行くたび思うのは、百聞ならぬ「百読は一見にしかず」ということだ。
その人の書いたエッセイを何十冊読んでいようと、実物に会うと「来てよかったなあ」と思えるような発見が必ずある。顔写真のまんまだ!と感嘆することもあれば、思っていたよりキレイだったと驚くこともある。シャイで不器用そうなイメージをしていた人が実はとても話上手で、聴衆を沸かせっぱなしだったということもある。
客席を見渡せば、その人がどんな人たちに支持されているのかがわかるのも興味深い。養老孟司さんのときは年齢層が高く、熟年の男女が多かったが、林真理子さんのときは見事に二十代、三十代の女性ばかり。男性は五百人中五人いるかいないかで、「私には男性ファンが少ないの」と苦笑しておられたっけ。

そうそう、林さんの講演会は忘れがたい思い出だ。
「人間スピーカー」の異名を取り、講演依頼も多いという噂通り、話はとても面白かった。一時間半はあっという間に過ぎ、私はクロークに預けていたコートを受け取るために長い列に並びながら、一番好きな文章を書く人に会えた喜びと、それと同じくらい大きな寂しさに包まれていた。
講演の最後にあるかもしれないと期待していた質問の時間もなく(あったら真っ先に手を挙げようと思っていた)、林さんはあっさり扉の向こうに消えてしまった。コンサートのように「アンコールに応えて再登場!」ということもない。
多くの人はプレゼントや花束を受け付け時にホテルの人に預けていたが、私は手渡しできるチャンスがあるかもしれない、と書いた手紙をまだ持っていた。帰り際、それをホテルマンに託すとき、「一言でいいから言葉を交わしてみたかった」という気持ちでいっぱいになった。

そのときふと、講演の中で林さんが口にした言葉が胸に浮かんだ。それは、
「してしまったことの後悔は日に日に小さくしていくことができる。でも、しなかったことの後悔は日増しに大きくなる」
というもの。そうしたら、「このまま帰っちゃだめだ」という思いがふつふつと湧いてきた。
私はホテルの外に飛び出した。建物の周囲をぐるりと回る。いない、いない、どこにもいない。
忙しい人だから、もうタクシーに乗って行ってしまったのだろうか……。

うなだれながら裏口のあたりを歩いていたら。
突然目の前のドアが開いて、ピンクのスーツを着た背の高い女性が出てきた。
「マリコさん!」
恥ずかしいとか迷惑かもしれないとか、そんなことは頭になかった。
「あ、あの、今日はほんとにありがとうございました。お目にかかれてすごく、すごくうれしかったです」

感激のあまり涙があふれてきて、それ以上なにも言えなかった。
林さんはびっくりした様子だったけれど、「どうもありがとう」と私の目を見て言ってくれた。

* * * * *

内館牧子さんの講演会が月末にあると聞いて大喜びした。文庫になったエッセイはすべて読んでいる。脚本家としての活動以外にも女性初の横綱審議委員を務めたり、現在は「横綱神学」で修士号を取得するため東北大学の大学院で勉強したりしている人だ。面白い話を聞かせてくれるに違いない。
……と思ったが、開催が東京だったため今回は涙をのんだ。

話を聞いてみたいなあと思っている作家は何人もいる。またチャンスをつかまえて、イメージと実物の“答え合わせ”をしに行くんだ。


2005年11月09日(水) 「レディーファースト」がうらやましいわけじゃない

「私、ぜったい結婚する……!」
会うなり決意表明をするA子。なんのこっちゃと思ったら、彼女は夏の終わりに友人夫婦と三人で旅行に出かけたときの話をはじめた。

「そのだんなさんがとにかく優しい人でさ。すごい暑い日やってんけど、友だちに自分の影を歩かせるねん。少しはましやろって。小さい虫が飛んでるとこ歩くときなんか、彼女が虫嫌いやからって目のところを手で覆ってあげててんで!」

旅行のあいだ中、彼は妻に対してその調子だったそうで、独身をこじらせているA子はいたく感動したらしい。で、冒頭のセリフにつながるわけであるが、「来年こそ幸せになるわ!」と気炎を上げている彼女に私はつい言ってしまった。

「あのねえ、そんな夫が世の中にゴロゴロいるわけないでしょうが。そういう男の人は特別なの。言っちゃあなんだけど、私のまわりなんか夫の気遣いが足りんってブーブー言ってる妻ばっかりだよ」

しかし、ほどなく「……いや、そこまでめずらしくもないか?」と思い直した。つい最近、その手の男性に会ったことを思い出したからである。

* * * * *

先週の後半、私は夫、夫の同僚夫婦の四人で上海蟹を食べに香港に行っていた。
その夫婦とは会社のイベントで何度も会ったことがあったが、一緒に旅行をするのは初めて。年齢も夫婦歴もうちと変わらないよその夫婦がどんなふうなのかには興味があるし、いろいろ勉強させてもらおうと思っていたところ……。

私はかなり驚いた。その男性が奥さんのことをたえず気にかけ、なにくれとなく世話を焼くのである。
見るからに不衛生そうな粥麺店に入れば、「食べられそうなものあるか?」と尋ねる。あちらは人より車が強いため、道路を横断するときは必ず手を引く。バスや船に乗れば景色がよく見える窓際の席に座らせる。
空港で発車間際のモノレールに乗り込むとき、少し遅れて走ってくる彼女のためにドアが閉まらないよう自分の体を盾にしていたのを見たときは、「おおっ、すばらしい」と心の中で手を叩いた。
え、それの何に感心するの?と思ったあなた、幸せ者ですね。私は以前、目の前でドアが閉まり、夫に置いて行かれたことがあるのだ。もちろん次のモノレールで追いかけたが、降りたホームに夫の姿はなく、合流できたのは検疫もイミグレも通過したあとの手荷物受け取りのターンテーブルのところであった。

どうしてうちはこうなのかしら。
同僚夫婦は年が離れているが、私たちは同い年だから?夫の性格や妻に対する関心の大きさの違い?それだけでもなさそうだ。
二日目の午後、夕食まで自由行動にしようという話になった。尖沙咀で買い物をしたりお茶を飲んだりしてぶらぶらし、約束の時間に待ち合わせ場所に行くと、奥さんに「心配してたんよー」と言われた。
遅刻したわけでもないのにどうして?と首を傾げたら、彼女にとって自由行動というのは「夫婦水入らずで」という意味だったらしい。私と夫が別行動だったため、驚いたのだそうだ。

「お互い見たいところが違ったから。ここには今日しか来られないし」
「でも怖くない?海外だし、ひとりは危ないよ」
「大丈夫だよお、治安いいもん。それに香港は五回目なんよ」
「でもさっき○○君が、ヨーロッパとかでもいつもそうだって言ってたよ」

そして彼女は、「小町さんて、たくましいよねえ……」としみじみ言った。
放っておかれる理由はこのあたりにもあるのかもしれない。


夫にレディーファースト的な扱いをしてもらえる女性がうらやましいわ、という話ではない。
私は子どもではないから、自分のことは自分でする。メニューの心配をしてもらわなくても適当に注文するし、車の多い道路だって手を引いてもらわなくても無事に渡れる。ドアを開けたまま待っていて私を先に通そうとする必要もない。“保護者”のように始終妻に目を配っていることはないのだ。

だけどもし、大きな荷物を持とうとしたときに「あ、それ重いからいいよ」と言ってくれたら、人込みの中で私がちゃんとついてきているかたまに振り返って見てくれたら、私はとても幸福な気持ちになるだろう。
おなかが痛いと言ったとき、「薬飲んだの?」だけでなく「大丈夫?」のひとことが聞けたら、私はどんなにうれしくなるだろう。

つい面倒を見てやりたくなるようなタイプではないのだろうけど、でももうちょっと気にかけてほしいな……と思うのは、自分が女だから、ではない。
いたわり合うのが夫婦、でしょう?


2005年11月07日(月) 匿名社会(後編)

※ 前編はこちら

しかし、親が我が子のクラスメイトの名前も満足に知ることができないなんて、どう考えてもまともな状況だとは思えない。
それに、子どもがよく遊んだり家に出入りしたりしている友だちの連絡先を把握できないということに不便や不安はないのだろうか。

「そりゃああるよ。子どもらは電話番号とか教え合ってるらしいけど、親にはその情報は回ってこんでしょ。お互いになにも知らんから親同士のつながりも生まれようがないしね」

大きく頷く。
たとえば子どもが夜になっても帰ってこないとする。不吉な予感が頭をよぎったとき、私たちの親はクラス名簿を見て「うちの子、お邪魔してませんか」と片っ端から電話をかけて回るということができた。が、友人にはそれができない。なんせ緊急連絡網の電話番号さえ、自分の後ろふたり分しか教えられていないのだから。
しかし、彼女はこう続けた。

「でも、そのほうが無難かなとも思う。名簿がどう扱われるかなんてわからんから」

たしかにそうだ。
クラス名簿が配布されると自分の家の情報が他人に知られることになるが、それは「他人の個人情報を自分が収集すること」でもある。しかしながら、そのことに気づいていない、あるいは気づいていても他人の個人情報の扱いに無頓着な人は少なくないのではないか、という疑念を私も持っていた。
知人から届いた「メールアドレスを変更しました」などの連絡メールの宛先欄に見知らぬ人の名前がずらずらと並んでいるのを見て、ぎょっとした経験のある人は少なくないだろう。インターネットが流行りはじめた頃なら「BCCを教えてあげなくちゃ!」と思えるが、当たり前にメールを使って仕事をしているはずの人にこういうことをされると、考え込んでしまう。
携帯をどこかで落として不便だ、ああ困った、と友人がぼやくのを聞いたときも「おいおい……」と思った。トイレに落としたり洗濯したりして使えなくするのは勝手だけれど、なくすのは勘弁してほしい。それには私を含め、たくさんの人の名前やら電話番号やらメールアドレスやらが登録されていたんでしょう?


結婚した当初、私がへええと思ったのは夫が郵便物や何かの書類を捨てるとき、個人情報が記載されている部分をすべて切り取り、シュレッダーにかけることだった。
開けた引き出しも閉めないような横着な人であるが、会社では社外秘を扱うことも多いから、そういう処分の仕方が習慣になっていたのかもしれない。が、私はそれまでそのようなことを考えたことがなかったため、最初のうちはハガキや封筒の宛て名シールを剥がしながら、「いちいち面倒だなあ」と思ったものだ。
しかし、これもゴミの分別と同じで、慣れるとどうということもなくなった。それどころか、いまではきちんとやらなくては気持ちが悪い。ダイレクトメールをそのままゴミ箱にポイ、なんてことはもうできない。
だから、もし私が規定外の日にゴミを出し、「こんな非常識なことをするのはどこの家!?」と怒った誰かに袋を開けられることがあっても、うちのものだとはわからないはずである。

しかしながら、自宅にシュレッダーがあるとか郵便物を捨てるとき同じようにしているという人の話はほとんど聞いたことがない。私はこのご時世には妥当な取り扱いだと思っているが、神経質だと感じる人もいるだろう。銀行のATMの画面の周りには利用明細書が放置されているし、ネット上には子どもの写真満載の育児系サイトがたくさんある。リスクの感じ方にはそれだけ個人差があるということだ。
とすれば、子どもの学年が上がったとき不要になったクラス名簿をどのように処分するかも親によって違ってくる。シュレッダーにかけたり、細かくちぎったりする家ばかりではないだろう。丸めてゴミ箱に放り込んだり、新聞と一緒に廃品回収に出したりする家があっても不思議ではない。

自分の個人情報は本人が自己責任で好きに扱うことができる。しかし、名簿は他人の個人情報でもあるということに思い至らない人がいる可能性を考えると、「多少不都合があっても無難なほうがいい」と友人が言うのも理解できなくはない。
“流出”は悪気がなくても起きるから。


……しかしながら。
数日前の新聞に、個人情報保護法施行後、署名運動に対する拒否反応が目立つという内容の記事が載っていた。半月前には国勢調査員を務めた女性が書いた「調査票の手渡しを断られることも多く、回収に苦労した」という投書を読んだ。
潔癖が過ぎて過剰な消毒を施すと、人に有用な菌まで死滅してしまう。個人情報の管理についても同じことが言える。“無菌”状態は------有用性を考えない、あらゆる情報の非開示は------リスクだけでなく、リターンの芽も摘み取る。

「こないだ日曜参観に行ったらね、教室に図画工作の絵が貼ってあったんやけど、どれが娘のかわからんの」
と友人が苦笑するのを見て、そんなことを思った。


2005年11月02日(水) 匿名社会(前編)

友人が勤める会社で、最近ちょっとした騒動があったらしい。
同僚の女性が顧客から受け取った個人情報満載の書類を紛失してしまった。会社に知れるとまずいと思ったのか、それともそれほどの大事だと思っていなかったのか。彼女は誰にも相談することなく、その顧客に電話をかけた。謝罪して、もう一度書類を書いて送ってもらおうとしたのだ。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。運悪くというべきか、その顧客は信販会社勤務の、個人情報の取り扱いに関しては“プロ”の人だった。
「あの書類には口座番号も記入してある、捺印もしてあるんだぞ!それをなくしたからもう一度送れだと?お宅は客の個人情報をなんだと思ってるんだ!」
そう怒鳴られ、女性は慌てて上司に事の次第を報告、電話を代わったが、相手の怒りは収まらない。ついには損害賠償を請求される事態に発展してしまった。
以来、彼女は欠勤しているのだそうだ。

友人の会社では社員が業務の中で顧客情報に接する機会は頻繁ではないため、個人情報保護に関する教育をそれほど熱心にはしていなかったという。
もし私の職場でこのようなことが起こったら、その人は会社の信用に傷をつけたということで相当重い処分を受けるだろう。もろに個人情報を扱う業種なので、その管理については半端でなく厳しいのだ。
フロアにはIDカードをスキャンして出入りするが、その際は手ぶら。業務に必要な文房具はあらかじめ机に入っており、ペン一本持ち込むことも持ち出すこともできない。帰るときは引き出しに備品一式が揃っていることを社員に確認してもらわなくてはならないのである。ノートは毎日中身をチェックされ、業務中にとったメモを勝手にシュレッダーにかけることも許されない。
顧客の自宅に電話をかけると、家族から「本人は留守なので、代わりに聞いておきます」と言われることがあるが、内容開示はもちろんできない。本人は仕事で毎日夜中まで帰ってこないと言われようと、耳が遠くて電話で話せないため自分が一切をまかされていると言われようと、本人は死んだと言われない限り、その場は「改めます」で通さなくてはならない。
融通を利かせる余地などまったくない。しかしそれが社内における個人情報管理の鉄則、いや常識なのだ。


しかしながら、今年の四月に個人情報保護法が全面施行されて以降、新聞ではそれによる弊害についての記事や「行き過ぎなのではないか」という内容の投書をよく目にする。
先日読んだのは「授業参観や運動会のとき、展示してある児童の作品やげた箱から名前を外す」という記事。保護者にまぎれて不審者が校内に入り込む可能性があるからだ。
大阪教育大付属池田小学校の事件があってから、子どもの安全確保のために神経質にならざるを得ないのはよくわかるが、そこまでするのかと驚いた。

……という話を小学生の母親である友人にしたところ、「そうそう、それでこないだ大変な目に遭ったわ」と彼女。
娘に傘を届けに学校に向かう途中、保護者用のIDカードを忘れたことに気づいた。が、説明すれば入れてもらえるだろうと思っていたら、校門の守衛さんは「カードがないと立ち入りは許可できない」の一点張り。押し問答に敗れた彼女は十五分かけて取りに戻ったらしい。

「何年何組の○○子の親です、って言ってもだめやったん?」
「うん、子どもらが道でしゃべってるの聞いたら名前なんか簡単に知れるからやろうね。まあ、親としてはそのくらい厳しいほうが安心といえば安心やけどさ」
私が小学生の頃は校門は開けっ放しだった。守衛さんなどもちろん立っておらず、忘れ物を届けに来た保護者は自由に出入りできた。時代が違うのだと思えども、あ然としてしまう。

が、驚くべきはそれだけではなかった。
クラス名簿が配られないため、子どもの友だちがどこに住んでいるのかわからない、電話番号も緊急連絡網の自分の後ろふたりの分しか教えられない、おまけに担任の先生の連絡先も知らされないというのである。
登下校時に名札を外すとか、学校のサイトに掲載される子どもの写真は遠景か後ろ姿のものばかり、そうでなければ顔にモザイクがかけられるという話は以前から聞いていた。しかし、いまや自宅の住所や電話番号といった情報をクラスメイトの家族に知らせるのも好ましくないと判断されるような世の中なのか……。 (つづく