家を出て歩きはじめてほどなく、忘れものをしたことに気づく。それは財布と違って、なくてはどうしようないというものではない。しかし、気づいてしまったが最後、引き返さずにはいられない------そんなアイテムが誰にもひとつやふたつあるのではないだろうか。
その筆頭に挙げられるのが携帯電話だと思うが、手帳や化粧ポーチ、MDプレーヤーもある人にとってはそのひとつになるだろう。
では私の場合はなにかというと、「本」だ。それを読むためにどこかへ出かけようとしているわけでなし、駅のホームと往復の電車の中で手持ち無沙汰を我慢すればすむ話なのだが、それでもかなりの確率で取りに戻る。それが不可能なときは駅の書店で調達する。
読む暇があろうがなかろうが、バッグの中になにか一冊入れていないと心許ないのだ。
十月二十七日からはじまった読書週間にちなんで、讀賣新聞に「本のある生活」をテーマにした何人かの作家のエッセイが掲載されていたのだけれど、小池真理子さんの文章の中にこんなくだりを見つけた。
十代のころ、赤えんぴつや赤のボールペンが私の読書の伴侶だった。気にいった文章、表現はもとより、そこに書かれていることに感動したり、教えられたり、深い共感を覚えたりするたびに、ページが汚れるのもかまわず、私は惜しげもなく赤線を引っ張った。
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へえ、そういう読み方をするのかと少しばかり驚いた。
図書館や駅の片隅でときどき見かける「善意の本棚」に並んでいる本をめくっていると、線が引かれたり蛍光ペンでしるしがつけられたりしているものを見つけることがあるが、私はそのたび不快感とも呼べそうな違和感を覚える。「公共の本にこんなことをして」という思いもさることながら、本に書き込みをするということ自体に抵抗があるからだ。
線であれ文字であれ、なにかを加えることによって、作家が作り出した世界に「自分」が持ち込まれてしまうのが嫌なのだ。もし映画を見ているときにスクリーンにちらちらと自分の影が映ったら、気が散ってストーリーに没頭できないだろう。本に書き込みをするというのは、私にとってまさにそういうイメージなのである。
そこには若かりし日の小池さんがどんな本を読んでいたかまでは書かれていなかったが、「感動したり、共感を覚えたり」というからには学術書ではないだろう。そんなふうに赤線をじゃんじゃん引いて、以後読むときに目障りに感じたことはないのだろうか。
そもそも、私は本を汚したり傷つけたりというのがだめなのだ。きれいに保存していたいということではない。私はどこにでも持ち歩くし、お風呂にも持って入る。同じ本を繰り返し読むので当然くたびれてもくるが、そういうのは自然な劣化と見なすので気にしないし、ここまで読んでもらえたら本も本望だろうと解釈している。これが私の思う、「本を大切にする」なのだ。
私が不思議になるのは、本に愛着というものをまるで感じていないように見える人たちである。
待ち合わせ場所で友人の姿を見つけ、駆け寄った私はぎょっとした。「お待たせ」の声に彼女は文庫本から視線を上げると、読んでいたページの右肩をなんのためらいもなく、大きく三角に折り曲げたのである。
それは『ホットペッパー』じゃないんだよー!見てはいけないものを見てしまったような気分でフリーズしていると、彼女はあっけらかんと言った。
「しおりって嫌いやねん。あれ、落ちたりして邪魔やん」
こういうのは本の尊厳というものを無視しているような気がしてならないの。
【あとがき】 私が一日で一番ほっとする(シアワセ〜と思う)のは、お風呂で本を読んでるときなのですね。讀賣新聞の読書に関する全国調査の結果では、回答者3000人のうちの50%が「ひと月に一冊も本を読んでいない」と答えたと載っていたのですが、私の生活から「本を読む」を削るなんてちょっと考えられないなあ。 |