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2004年11月29日(月) 色気の正体

先日、「見合いやコンパといった場で出会った初対面の男性から断られる場合、性格と容姿のどちらでアウトにされるのがより精神的ダメージが大きいか」という話を書いたところ(こちら)、男性からこんなメッセージが届いた。
「僕が女性との交際を考えるとき、彼女とベッドを共にできるかどうかが重要なポイントになります」
あらためて言われるとちょっぴりどきりとしてしまうが、実際はこれほどささやかな要求もない。
誰かを自分の恋の相手にどうかと検討する過程で、彼なり彼女なりを「セックスしたいと思える相手であるか」というフィルターにかけない人はいないだろう。
友人から恋人や夫を紹介されたり写真を見せられたりすると、「私とはちょっと……いや、だいぶ好みが違うなあ」と思うことがときどきある。
一番最近では義妹の婚約者に会ったときだったのだけれど(もっとも、彼女が夫とそっくりのタイプを選んでいたらそれはそれで考え込んでしまうが)、驚きとも軽いショックとも呼べそうなそれは、ずばり言えば「この男性とアンナコトやソンナコトをするなんて考えられないや」というものだ。
性格がよさそうで友人としては申し分ない人でも、恋人や配偶者となると話は別。生理的に苦手なタイプは言うまでもないが、そこまでいかずとも自分の中のセクシュアルな部分をまるで刺激しない人を愛することができるだろうか。

色気のある男性が好きだ。自分の中の“女”をはりきらせてくれる人といるのは楽しい。
もちろんその色気というのは普遍的なものではなく、あくまで「私が反応する種類の」であるが、誰かを恋愛対象としてみるには必須項目だ。
ところで、私はいったいなにをもって、この人にはそれがあるとかあの人にはないとか判断しているのだろう。
容姿じゃないの、って?過去に色気を感じた男性に整った顔立ちをした人が多かったことはたしかである。しかしながら、タイプのルックスでない人には感じないかというとそんなことはない。
たとえばヴァイオリニストの葉加瀬太郎さん。正直言って、彼の風貌は私の好みではない。友人が「物静かなパパイヤ鈴木」と例えたときも、うっかり相槌を打ってしまった。しかし、私は彼をとても色っぽいと感じているのだ。
セリーヌ・ディオンのコンサートでうちの一曲を葉加瀬さんが演奏したのだけれど、その姿はステージの上でヴァイオリンと社交ダンスを躍っているかのようで、とてもセクシーだった。
そして、ひらめいた。私がキャッチする男性の色気というのは「自信」に由来するものなんだわ、と。
色気の正体にはもうひとつ心当たりがある。私には魅力的だなあと思っている日記書きの男性が何人かいる。その中には非モテキャラで売っておられる方もいるけれど、三枚目な文章の中にも品や知性がうかがえる。いずれの方にもお目にかかったことがないので実生活ではわからないが、少なくとも日記の世界ではかなりモテているはず……と私は踏んでいる。
さて、彼らに共通しているのが「自身の露出をコントロールしている」ことである。テンションは常に一定で、「この人は私たちには見せない顔があるんだろうな」と読み手に思わせるものがある。
私はこの「抑制」に、書き手の中の他人に流されない凛としたものを感じるのだが、これこそが色気の成分なのだ。
糸井重里さんは色気の正体を、「ゆだん」である、と言った。「落とせば落ちる感じ」というような油断だ、と。
では私は、色気とは「余裕」だ、と言おう。自信とは、すなわち泰然。抑制とは、意図と計算。「これが自分のいっぱいいっぱい」でないからこそ、香り立つものが生まれる。
ゆとりのないところには、私が思う色気もまた存在しない。

<参照過去ログ> 2004年11月24日付 「悲しい心当たり(後編)」

【あとがき】
糸井重里さんが色気の正体を「落とせば落ちる感じ」と言ったけれど、なるほどと頷くと同時に思い出したことがあります。以前、「周囲の女性日記書きさんは『男性読者から写真が送られてきた』とか『出張でどこそこに行くと書いたら食事に誘われた』といった武勇伝をひとつやふたつ持っているのに、どうして私にはそういう話がいっぺんも来ないんだろう?」とここに書いたところ、ある男性が私が口説かれない理由をこう分析してくれました。
「文章を読んでちょっとその気になったら、口説いたらOKもらえる確率ってのを何となく想像するものです。で、OKもらえそうにない場合は口説きません。本意かどうかは分かりませんが、小町さんには誘ってもOKもらえないだろうと思わせるものがあります。モテる女性の条件としては見た目や性格よりも、誘ったらOKもらえそうな雰囲気ってのが大切なのではないかと思います」
そういえば、私は色気があると言われたことがないのであった……ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン !!


2004年11月26日(金) 鍋料理不可の人

職場に週二日勤務のパートの女性がいる。固定の机がなく、毎回空いている席に座ることになっているのだが、彼女は出勤するとイの一番にすることがある。
ウェットティッシュで受話器とキーボード、マウスを拭くのである。業務中には見せたことのないような真剣な面持ちで、キーとキーの隙間まで十分くらいかけて丹念に磨いている。
「人が使ったあとのものってあんまり気持ちよくないでしょ」
ということだが、終業後に彼女がそれらを拭いている姿は見たことがない。
さて、誰かと話していると、「へええ、そんなことが気になるのか」と驚くことがしばしばある。このところ病院通いをしている友人は、そこのスリッパを履くのが嫌でたまらないという。そこではスリッパが一組ずつ重ねられてある。つまり、片方のスリッパの裏側がもう片方の足を入れる面に接しており、これでは床を靴下で歩くのと変わらないじゃないか!というわけである。なるほど、言われてみればその通りだ。
携帯の液晶に付着した顔のアブラが許せないという話を聞いたときも、思いも寄らなかったことなので感嘆してしまった。酒井順子さんも「脂性の人に携帯を借りなくてはいけないときはつまむようにして持ち、顔から五センチ離して使用する」とエッセイに書いていたし、それを不快に感じている人は少なくないらしい。
「人の握ったおにぎりが食べられない」「病院に置いてある雑誌には触れない」「古着は気持ち悪い」といった声も耳にする。こうしてみると、潔癖症ではないけれど生理的に受け付けない事柄をひとつふたつ持っている、という人はかなり多そうだ。
かく言う私は、公衆トイレの便座に直に腰掛けることができない。
こういった誰かの「これが嫌、あれが気持ち悪い」のほとんどは文字通り、他人事である。仮に友人が吊り革を持てず、電車の中ではいつも仁王立ちという人であっても、私の生活にはなんの支障もない。
とはいうものの、身近に該当する人がいるとちょっぴり残念だなと思うこともないわけではない。
仲良しの同僚六人と、ホットペッパーをめくりながら忘年会の店探しをしていたときのこと。「体が温まるものがええなあ」「じゃあ鍋にしよ」という話になり、チャンコかしゃぶしゃぶか、それともおでんかすき焼きか、と盛りあがりかけたところ、ひとりから“待った”がかかった。
「できれば鍋じゃないほうがいいな」
すっかり忘れていた。彼女は鍋がダメな人だったのだ。
居酒屋などで大皿に盛られた料理を何人かで食べるとき、誰からともなく「自分のお箸、使っちゃっていい?」と声があがり、「いいよー」となるのがほとんどだ。しかし、彼女はそれが苦手なのだ。
そのため、彼女と一緒のときは店の人に取り分け用の箸をお願いする。銘々が箸をひっくり返して使うという手もあるけれど、私はあまり好きではない。箸のてっぺんが汚れていると見た目に悪いし、下のほうを持たなくてはならないので食べづらいから。
“他人の唾”に神経質な彼女が、何人もの人間がねぶった箸を突っ込み合う鍋など食べられるわけがない。忘年会は以前から行ってみたいねと話していた、「自家製ピザが自慢」のイタリアンレストランに決まった。

というわけで、私は鍋料理大好き人間である。しかしながら過去に一度だけ、「勘弁してえ」と心の中で叫んだことがある。
独身の頃、同僚と料理持ち寄りのクリスマスパーティーをした。女だけの集まりに手作りのものを持参する者などなく、テーブルにはデパ地下の惣菜やケンタッキーのチキンが並んだ。
「惜しむべき労は惜しむ。うーむ、さすが」と感心していたら、ひとりが紙袋の中からタッパーを取り出した。おっ、もしや手料理?
「わあ、なにそれー」
「うん、こないだ友達と鍋したときのダシ、冷凍しといてん。雑炊作ったらおいしいと思って」
サークルのコンパや職場の飲み会で、それほど親しいわけではない人たちとも鍋をつついてきた私であるが、「自分不在の場で食された鍋の残り汁」はさすがに不可だ。

【あとがき】
神経質といえば、柴門ふみさんのエッセイに、家に泊まりに来た友人に「着替え持ってこなかったからパンツ貸して」と言われて貸したことがある、という話がありました。その友人は「ちゃんと洗ってあるんでしょ。なら平気だから貸して。私、神経質だから、二日同じパンツ履けないの」と言ったそうだ。“神経質”にもいろんな種類があるのね……。


2004年11月24日(水) 悲しい心当たり(後編)

私は見合いをしたことがないし、この先の人生に「メル友とご対面〜♪」なんてシーンが用意されているとも思えない。それなのに彼女の話を聞いてこんなにも胸が締めつけられるのは、私も一緒にいる人のテンションの変化に疎いほうではないからだろうか。
「人を見た目で判断する人なんて、こっちだってノーサンキューや」
「ちょっとぉ、それでフォローしてくれてるつもり?」
たしかにフォローになっていない。同じ断られるのでも内面と容姿、どちらでアウトにされるのがよりつらいかといえば、私なら間違いなく後者だ。なぜなら、多くの人は恋人を探すにあたり、性格の不一致やフィーリングの悪さに目をつぶることはないが、容姿にはそこまでうるさくないからだ。
内面の好みはそれこそ千差万別だから、「俺、気の強い女性ってだめなんだ」「もっとこう、家庭的な雰囲気のコが……」と言われても、好きになる相手を間違えちゃった、と自分を納得させることは不可能ではなさそうだ。しかし、「見た目がタイプじゃなくて……ごめん」には立ち直りがたいショックを受けるだろう。
もちろん、馬鹿正直にそんなことを言う男性はいないと思うが、彼が気を遣ってどんなふうに取り繕ってくれたとしても、本当の理由は伝わってくるものである。書類審査で落とされては敗者復活戦を企てる気力も失う。
彼女と同じ状況に置かれたら、やはり私もみじめさのあまり一刻も早く彼の前から消えたくなるにちがいない。

ある日、自分に対する恋人の気持ちが右肩下がりになっているのに気づく。
「どうして?いつから?」
記憶の糸をたどっていくと、ある出来事にぶつかる。“それ以前の彼”と“それ以後の彼”を間違い探しの絵のように隣に並べ、比べてみる。彼は変わってなどいない、私の思い過ごしだ、と確認したくて。
……なのに。
「あ、ここがちがう。あら、あそこもちがう。そういえばあんなこと言い出したのはこの頃からだった」
そうか、あれがきっかけになったんだ……。愕然とする。
この“心当たり”はこちらのなにげない一言であったり思い高じての振る舞いであったりさまざまだけれど、「そんなつもりじゃなかったの」と弁解してもたいていは時すでに遅しだ。
悔やんでもしかたがない。これから自分にできることを考えよう、と思う。しかし、マグカップをどれだけ手の平で包んでみたところで、コーヒーが静かに温度を下げていくのを止めることができるだろうか。どんなにゆるやかであっても、相手の気持ちが下降曲線を描きはじめたら、あとは時間の問題だ。
彼自身、気持ちの変化に戸惑っているのだろう、こちらにそれを気取られまいと変わらぬ笑顔をつくろうとするけれど、そんな姿を見ているうちに「苦しめてはいけないな」と思うようになる。
自分が「あれが境になった」と思っている出来事が本当にそうなのかはわからないが、それが当たっているかどうかにもはや意味はないだろう。それでも、この悲しい心当たりはどれだけ時が経とうと、鈍痛として胸に残りつづける。
いまでも時々、失望させてしまったことに対するすまなさがよみがえり、言い訳したくなることがある。
「あれでも、めいいっぱいすみやかに解放したんだよ」
そんなこと、もう誰も気にしちゃいないと知りつつも。

【あとがき】
「許してね」というのは、なにも「私が悪かったの、ごめんなさい」という卑屈な気持ちからのものではありません。とても大切な人だったのに、自分自身の実力不足(魅力不足)で彼を長く幸せでいさせてあげることができなかったことに対する申し訳なさと無念です。私は自分を卑下する者ではないけれど・・・彼は私には過ぎた人でした。


2004年11月22日(月) 悲しい心当たり(前編)

週末、友人四人で中華のバイキングを食べに出かけた。
フロアを回る点心のワゴンを五回呼び止めたあたりで「ちょっと一服」となり、ジャスミンティーを飲みながら、話題はメンバーのひとりの就職活動ならぬ“結婚活動”に移った。
ホームヘルパーの仕事をしているA子は半年前に結婚相談所に入会した。ひとり暮らしのお年寄りを訪ね歩く中で思うところがあったらしい。以来、私たちは彼女に会うたび進捗状況を確認してはダメ出しをしている。
というのも、せっかくパーティーに出かけてもひとりの男性につかまって参加費五千円をパアにしたり、相談所歴三年の“大先輩”の女性から「活動のコツを伝授してもらった」とホクホクして帰ってきたりする。「費用もバカにならんし、なんとか一年以内に!」と意気込んでいるわりには逆のことばかりしているのだ。
だから今日もまた愛すべき失敗談を聞かせてくれるのだろう、と私たちは笑い転げる準備をして話を急かした。
スケジュールが合わずメールでやりとりをするに留まっていた男性とようやく会えたのが、十一月のあたまのこと。初めて連絡を取り合ってから約束の日までのひと月ほどのあいだに、彼女の中にはまだ見ぬ彼への好意がすくすくと育っていた。それはファースト・コンタクトが彼からのアプローチだったことが大きい。相手がこちらにいい感情を持っているとわかっていれば、安心できるものだ。
はやる心を抑え、待ち合わせ場所に向かった彼女はすぐに彼を見つけた。写真のままの人だったから。ホテルのティーラウンジでお茶を飲んだのだそうだ。
しかしほどなく、彼女は気づいてしまった。彼のテンションが、ゆるやかではあるけれど下降曲線を描いていることに。
「表面的にはぜんぜん変わらんのよ。笑顔でいろいろ話してくれるし。でも、なんとなくわかるやん、ほんまに楽しいと思ってるか、こっちに気を遣って楽しそうにしてくれてるかっていうのは」
このあと食事はどうします?と言われたが、行かなかった。行けなかった。優しい人だっただけにそれ以上無理をさせるのがしのびなく、また自分も悲しい気持ちでいっぱいで。
「たぶん……っていうか、それしか考えられんのやけど、私の見た目が好みじゃなかったんやと思うねん」
「けど、事前にプロフィールの写真見たうえでアプローチしてきたんやろ」
「あれはいろいろ修正してあるからなあ、皺も消してるし。私も会った人の中には写真のほうがいいと思った人もおったし……」
「ほかに心当たりはないん。粗相した覚えは?」
「というと?」
「コーヒーをずるずるいわせて飲んだとか、歩きながら道に痰吐いたとか」
「してませんっ」
彼女が「ボロを出す暇なんかなかった」と言うのだから、やはりそういうことなのだろう。彼女は美人というわけではないけれど、すらりとしていて四十にはとても見えないチャーミングな女性である。しかし、三つ年下の男性の目にどう映ったかはわからない。
「もしそうだとしても、人を見た目で判断する人なんてこっちから願い下げや」
誰かが言ったら、「それ、ぜんぜんフォローになってへんやん!」と彼女は怒るふりをした。 (後編へ)

【あとがき】
その男性とはそれっきりだそうです。しかたがないと本人も吹っ切っていましたけど、会うまでの期待が大きかった分、しばらくは落ち込んだろうと思います。相手から先に好意を表明してもらえるとありがたいってところ、たしかにありますよね。私は男性には自分から「好き」と言うけど、いちかばちかで告白したことはあっても、まったく脈のなさそうな相手にしたことはないです。


2004年11月17日(水) 批評する側に求められるもの(後編)

「店舗を増やす前と後、一度ずつしか行っていないが、変わってしまった印象を受けた。初回のほうがおいしかった」
こういうコメントを読むと、少しばかり店が気の毒になる。たった一度や二度食べただけで何がわかる、と言いたいのではない。同じ店に通いつめるなんて不可能なのだから、「自分が訪れたそのとき、どうだったか」でよい。しかし、私たちは自分がそれほど高性能な舌を持っているわけではないということを頭に置いておくべきではないだろうか。
人の味覚というのはきわめてあやふやなものである。その日の体調や空腹の度合い、心のコンディション、テーブルを共にする相手、メートルの応対の良し悪しにまで影響されてしまう。
同じものを食べても、再訪時の感激は初回時のそれには及ばない。見晴らしのよい窓際の席と出入り口に近いざわついた席とでは気分はずいぶん違うはずだ。勘定が自腹か他腹かということも採点に何らかの関わりを持つだろう。
そしてもうひとつ、私たちの舌に働きかけをするものがある。私はこれがもっとも厄介なのではないかと思っているのだが、それは“先入観”というやつだ。
フード業界の会社で企画開発の仕事をしていたとき、こんなことがあった。次季の新商品にどうかとあるメニューを営業部に提案したところ、「悪くないけど、一口めのインパクトが足りない。もう少し辛味がほしい」という答えが返ってきた。
パンチをきかせることはいくらでもできるが、そうすると味のバランスが崩れてしまう。そのことはうんざりするほど繰り返した試作の過程で明らかになっていた。しかし、一皿食べたときにどうかを考えたらいまがベストなんだと説明しても、相手は頑として譲らない。味の決定権はこちらにあるとはいうものの、営業をその気にさせられなければ売上は期待できない。やむなく、提案し直しますと言って引き下がった。
三日後の再プレゼンの席で、十数人いた男性は口々に言った。
「うん、やっぱりこのくらいでないと」
「これなら売れるよ」
その場で商品化が決まったが、私はホッとするやらがっかりするやら。なぜなら、そのときみなに食べさせたのは前回とまったく同じレシピで作った、まったく同じものだったから。彼らは辛味が調節されたものが出てきたと信じて疑わなかった。
味覚というのは、このくらい精神的なものなのだ。

シェフがマスコミに取り上げられて有名になったり、店が増えたりすると、「態度が大きくなった」「儲けに走っている」と思いたがる人は少なくない。
「この店を話題にすること自体、経営者の思うツボという感じなのであえて採点していなかったが、一応私見を述べておくと……」
なんて前置きしているコメントを読んで苦笑する。この人は何をもってそれが“思うツボ”だと思ったのだろう?
こういう感情が舌に与える影響はおそらく小さくない。そして、私たちがおいしさというものを数値化できない理由がここにある。舌の未熟さだけではない。味を評価するにあたって、自分を“精神的にニュートラルな状態”にすることができないからだ。
料理評論家の山本益博さんの、こんなエピソードが印象に残っている。天才シェフがいると聞いて、スペインに飛んだ。相手は自信作を用意して待っているという。が、その機内で山本さんは不安だった。
「出された料理がわからなかったらどうしよう」
結果はどうだったか。
「これまでの自分の経験を総動員しなきゃ負けちゃうって思いながら食べた。でもね、ぜんぜんわからなかった。いや、味はわかりますよ。だけど、その仕事がまったく見えてこない。四十歳という若さのシェフが投げた三十三球(皿)、全部見逃し。僕はバットを振ってもいない。まいった。素直に降参して帰ってきたわけですけど、悔しくってねえ」
フランス料理を四千回食べてきた山本さんが「まいった」である。私はその潔さに好感を持った。その後もスペイン通いを続け、最近になってその三十三皿が少しずつわかるようになってきたのだそうだ。
中には名声を得たことで味が落ちた店もあるかもしれない。しかし、「たいしたことない」のはこちらの舌である可能性だっておおいにある。
私たちはグルメ雑誌のフードライターではないから評価の正しさにこだわる必要はないけれど、シェフの腕に疑問を持つ前に一瞬、自分の舌を疑ってみるくらいの謙虚さは持っていてもよいのではないだろうか。相手は間違いなく自分より知識も経験も豊富な“プロ”なのだから。
「まずい!」と断ずるのはそれからでも遅くはない。

【あとがき】
前編に書いた『オテル・ドゥ・ミクニ』の三國清三シェフによると、「味覚の成長は十歳くらいで止まる。それまでに塩味、甘味、酸味、苦味の四味を覚えさせないと味に興味を示さない子どもに育ってしまう」のだそうです。だから、その時期に自然(本物)の味に触れず、化学調味料山盛りのコンビニの弁当とかインスタント食品ばかり食べていたら……あとは推して知るべし。
たしかに有名なシェフの生い立ちを読んでいると、「貧しい家に生まれたけど、海のそばだったから魚だけは新鮮なものを食べられた」とか「裏の畑で取れた野菜を食べて育った」とかいう人がすごく多いのです。


2004年11月15日(月) 批評する側に求められるもの(前編)

東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」というフレンチレストランがある。
迎賓館のそばの閑静な住宅街にある、それはもう雰囲気のある一軒家レストランだ。行ったことがある人なら、まずあのすばらしいウェイティングバーを思い浮かべたのではないだろうか。
オーナーの三國清三さんは私の憧れのシェフのひとりで、仕事とプライベートで二度ずつ訪ねたことがある。東京駅や名古屋駅、大阪駅の駅ビルにも氏がプロデュースした店ができているので、「ミクニ」の名を聞いたことがある人は少なくないだろう。
さて、先日のこと。同僚との忘年会をどこでしようかとネットで探していたら、有名レストランを対象にした批評サイトを見つけた。いろいろな人がその料理やサービスを星の数で評価しているのであるが、その中に「オテル・ドゥ・ミクニ」についての掲示板もあったので、のぞいてみた。
「多角経営にはおいしさを求められないということなのでしょうか」
「これはフレンチではありません。本場の味をぜひ学んできていただきたい」
辛口のコメントが並んでいる。何人もが「決して味は悪くないのだが」と前置きしながら、「料理に感動がない」「どう味わってほしいのかが見えない」「多店舗展開をして落ちていった店が頭の中を流れていった」などと続けていた。
読みながら、私はへええと声をあげた。自分の感想と彼らのそれが違っていたからではない。好きなシェフの仕事を否定されたからでもない。世の中には自分の舌に自信のある人がこんなにいるのかと驚いたからだ。
他のレストランの批評も読んでみたが、「料理にリアリティがない」「素人料理に毛が生えたレベル」といったコメントがそこここにある。私はすごいなあ……とつぶやかずにはいられなかった。
もちろんこれは皮肉だ。私の中に素朴な疑問が浮かぶ。巷の評判には迎合しないぞ、という姿勢はけっこうだが、その前にこの人たちは超一流と言われているシェフの料理を“批評”する資質が自分にあるのかどうかについては考えたのだろうか。
味がどうの、コストパフォーマンスが高いの低いのといったことは感想であるから、その店で食べたことがあるという条件さえ満たしていれば誰にでも言うことができる。しかし、「料理に核がない」「一時代前の味」「ネームバリューほどレベルは高くない」というようなことは、シェフの“作品”を理解できるだけの力量、すなわち知識や経験や味覚を持たぬ人が言っても「わかったような口を利いて……」でしかない。
たとえば、だ。もし私が「村上龍?最近ろくなの書いてないね。日本で彼ほど過大評価されてる作家はいないと思うよ」と言ったら、人は私を嗤うだろう。君に小説の何たるかがわかるのか?と。
特別な舌を持っているわけでもない人が生半可なことを言うのは、これと同じくらい僭越なことであると私は思う。私は村上さんの文章が好きではない。『すべての男は消耗品である。』というエッセイもどうしても最後まで読むことができなかった。しかしその魅力が理解できないからといって、「彼の書くものはたいしたことないよ」と言ったりはしない。自分に作品の巧拙や文才の有無を判断することなどできないと知っているから。私にわかるのは、それが自分と相性の良い文章であるか、否かということだけである。
私たちの「おいしい、まずい」も同じこと。自分の口に合うか、合わないかでしかない。
あの店が好きだ、嫌いだはおおいにけっこう。しかし、一緒にいる人がシェフの腕がどうの、店のレベルがこうのとやりはじめたら、私は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなる。 (後編につづく)

【あとがき】
おもしろくないなあと思っても、本を読むのを途中でやめてしまうことはないんです。「お金を出して買ったのにもったいない」という気持ちが働くから。でも、『すべての男は消耗品である。』だけはだめでした。……と以前日記に書いたら、「私もそうです」という方が何人かいらっしゃいました。


2004年11月08日(月) 「もやもや」の正体

突然隣席から聞こえてきた「申し訳ありませんっ」の声に、思わず全身を耳にする。受話器を握りしめた同僚がしどろもどろになりながら、謝罪の言葉を繰り返している。
どうしたんだろう、さっきまでふつうに話していたようなのに……と思っていたら、やっとという感じで電話を切った彼女が「聞いてえ、むかつくう」と話しかけてきた。外線を取ったら、営業の男性宛てのものだった。が、当人は会議中。彼女が「席を外しているようなんですが」と答えたとたん、相手が声を荒げたという。
「いい加減な言い方をするな、席にいるのかいないのか、はっきりしろ!」
揚げ足を取られたと彼女はその日一日腹を立てていたが、「〜しているようです」という言い方に人をいらつかせるものがある、というのは私にもわかる。
他社に電話をかけ誰かを呼び出してもらおうとすると、「○○はほかの電話に出ているようなんですが」と返ってくることがあるが、不親切だなといつも思う。ほとんどの場合、「電話中」と受け取って間違いないのだろうが、急を要するときはこの返答では心許ない。細かいことを言えば、「ようです」ではどのくらい確かな情報なのかということがわからないからだ。電話に出た人がろくに確認をせぬまま推測で答えている可能性がないとも限らない。実際、「外出しているようですが」と言われ、帰社時刻を尋ねたり伝言を頼んだりしようとすると、「……あ、おりました。代わります」なんてことがときどきある。
とはいえ、その頼りない返答に対する歯がゆさやいらだちを見ず知らずの人間相手にもぶつけずにいられない人がいる、ということにはやはり驚く。そういえば、最近読んだタレントの松尾貴史さんのエッセイにも、
「喫茶店でウェイターが『コーヒーになりまーす』と言いながら運んできたら、『いつですか?』と訊く。『コーヒーのほう、お持ちしました』には、『コーヒーしか頼んでませんが』と言う。われながら嫌な奴だが、そうでもしないとストレスがたまってしかたがない」
とあったっけ。
いや、私も言葉の好き嫌いははっきりしているほうだ。無意味な曖昧表現は好きでないし、誰かが口にしているのを聞いて耳障りに感じ、自分では使わないようにしている言葉もいくつかある。
しかし、たとえ「お会計のほう」や「一万円からお預かりします」が気になったとしても、レジ係の店員に詰め寄るほどイジワルではない。せいぜいこうして日記のネタにするくらいのもので。

先日テレビで、ヤンキースの松井秀喜選手との交際について質問された女優の酒井美紀さんが「去年の夏から何度か食事をさせていただいています」と答えているのを見た。
芸能人は熱愛が発覚すると判で押したように「○○さんとは親しくお付き合いさせていただいています」と言うが、私はそのたびふーむとうなる。これは交際相手を立ててのへりくだりなのだろうか。それとも、視聴者に「みなさまのおかげで」のニュアンスを伝えようとしてのそれなのだろうか。
いずれにしろ違和感を覚えることに変わりはない。前者であるなら恋人関係にある男女のあいだで謙遜しすぎは白々しいし、後者であるなら恋愛まで「ファンあってのもの」ではないのだからそこまで遠慮したり卑屈になったりする必要はない。
不快感とも呼べそうな、このもやもやした感情は用法を誤っていること自体ではなく、その人が自分が用いる言葉の意味にあまりに無頓着であることに起因しているのだと思う。礼の言葉代わりに使う「すみません」や必要性のない「失礼ですが」が好きになれないのもそういうことだ。
もしその人がそれを正しい言葉だと思い込んで、「○○は本日は退社させていただきました」や「そこのお醤油、取ってもらってもいい?」を使っているのであれば、私はここまでの気持ち悪さは感じないような気がする。

夕食のあと、ソファでごろごろしている夫になにか飲もうかと声をかける。コーヒーと紅茶、どちらにする?と訊くと、彼はいつもこう言う。
「コーヒーでいいよ」
私は彼が無意識に使う、この「で」を聞き流すことができない。言葉狩りのような真似はやめようと思いつつ、毎度言ってしまう。
「べつに妥協する必要はないよ、あなたは好きなほうを飲むことができるんだから。さあ、『コーヒー・が・いい』のですか。それとも、『紅茶・が・いい』のですか」
夫の答えも決まっている。
「コーヒー・いい」
私も可愛げがないけれど、意地でも「が」を使わない彼とはなかなかいい勝負をしているのではないかしら。

【あとがき】
先日ニュースを見ていたら、新潟でボランティアをしている若い女の子がリポーターの「ここでの食事はどうしているんですか?」の質問に、「自分でお店で買ってきたり、こちら(避難先の施設)の食事を分けていただくこともあります」と答えていました。「分けていただくことも……」の部分はすまなさそうな口調ではありましたが、卑屈には聞こえなかった。この「いただく」には彼女の自然な感情が表れていて、とても感じがいいなと思いました。


2004年11月05日(金) 窮屈に暮らすつもりはないけれど(後編)

……という話を(前編)、先日友人四人と会った際にしたところ、予想外の反応が返ってきた。同僚の女性ほどではないとはいえ、友人たちも食品の安全性にはかなり神経を遣っていることがわかったのである。
そういうことに特別関心を持っているようには見えなかったので、少しばかり驚いた。
「子どもがおったら、やっぱり気になるで」
そう言いながら、彼女たちは「食品添加物や化学調味料以外にも日頃から不気味だと感じ、警戒しているものはある」として遺伝子組み換え食品、野菜や果物の残留農薬などを挙げた。
なかでもとりわけ悪評だったのは中国産の食品だ。どんこ(椎茸)は信じられないような安さだし、うなぎの蒲焼も国産の半分くらいの値段だけれど怖くて買えない、あの国のものは信用できない、と口を揃えて言う。
ひとりはメーカーに問い合わせたこともあるという。スーパーの特売で野菜ジュースがふだんの半額になっていたので手を伸ばしかけたが、「中国産の野菜を使っているのでは?」と気になり、お客様相談窓口に電話をかけた。回答を聞いて、買うのをやめたそうだ。

数日前の日記に「環境ホルモンが気になって、カップ麺の中身をラーメン鉢に移して湯をかけたら三分後、麺はまったくもどっていなかった」という話を書いたが、私もまた食品の安全性に無関心、無頓着でいられるほうではない。
三年前に国内でBSE感染牛が見つかったとき、「いちいち気にしてたら生きてけないよ」派と「しばらく牛肉はやめておこう」派に分かれたが、私は後者である。
たとえば、化学調味料は極力使わない。最近、新聞の投書欄に主婦歴一年の若い女性が書いた、こんな文章が載っていた。
「結婚するとき、味噌汁のだしは手を抜かず昆布やかつお節からとると心に決め、守り通してきた。が、先日夕飯の支度が遅くなったためやむを得ずインスタントのだしを使ったら、一口飲んだ夫は『今日の味噌汁はいままでの中で一番おいしいなあ』と言った」
私にもまるで同じ経験がある!と笑ってしまったのだけれど、そのほうがおいしいと言われようと、だしの素は煮物の味が決まらないとき以外、出番はつくらない。
味の素やハイミーにいたってはわが家のキッチンには存在すらしない。あの白い結晶は私に「薬」を連想させる。事実ではないだろうが、実家の母が「味の素は石油からできている」と言っていたのをいまだに覚えていて、レシピの「味の素、少々」はいつも飛ばす。
中国産の野菜や魚介はやはり買わない。それらから「安全基準値を超える○○が検出された」という記事をいったい何度目にしたことだろう。
ちょうど二年前、私の会社が全国のお得意様宛てに松茸を贈った直後に、中国産の松茸から殺鼠剤が検出されたことがあった。それから三日間は問い合わせの電話が鳴り止まず、仕事そっちのけで「検疫をパスしていますので心配ありません」を繰り返したことを思い出す。
アメリカ産の柑橘類もしかり。プライスカードの「このグレープフルーツには防カビ剤のOPPを使用しています」の文句を見たら、カゴに入れる気にはとてもなれない。そういえばアメリカンチェリーも長いこと食べていないなあ。
私はスナック菓子が好きだし、ときにはハンバーガーも食べる。友人と外で食事をする機会も多い。食品添加物の年間摂取量を三キロから二・九キロにするために、そういった楽しみを制限しようとは思わない。
しかし、ふつうに生活していく中で「これは気持ちが悪いな」と感じたもの、ことははねていく。無着色タラコを選ぶ、カップ麺は家に置かない、冷凍肉をレンジで解凍するときはパックから皿に移すといったことは、私にとって暮らしを窮屈にすることでもなんでもない。

マーブルチョコのパッケージには、おおよそ自然界には存在しない色がひしめきあっていた。
「やっぱりやめといたほうがええわ。これから子ども産むかもしれん人は」
そう言って同僚はスナック菓子の詰め合わせを私の手からもぎ取り、自分のバッグに放り込んだ。

【あとがき】
厚生労働省の調査では「日本人は一日に約10g、年間約4kgの食品添加物を摂取している」とのこと。ふつうに暮らしていく中で私たちはもう十二分に、からだによくないものを取り込んでいるのですね。「焼け石に水」に見えても、そういうことを少しでも気にかけている人とまったく無頓着でいる人とでは、一生という単位で見ればずいぶん違ってくると思うのです。


2004年11月03日(水) 窮屈に暮らすつもりはないけれど(前編)

「同じ釜の飯を食った仲間」という表現があるように、食のシーンを共有することで人と人のあいだに育つものはとても大きい。だからだろう、私は誰かに興味を持つと、ものすごく素直に切実に「ああ、この人とごはんが食べたいなあ」と思う。
実はいま、同僚の中にそういう人がいる。業務の合い間に軽口を叩き合うだけでなく、もっと親しくなりたいなあとこちらはひそかに思っている------五つ年上の、さばさばした気持ちのよい女性だ。
そんなわけで、私は半年も前から彼女に「帰りにごはん食べてこー」と声を掛けたくてうずうずしているのであるが、ずっと実行に移すことができずにいる。
女性相手に「断られたらどうしよう」なんて怖じ気づくわけがない。ではなぜか。彼女は口にできる食べ物が非常に限られている人だからである。
土産のまんじゅうが配られたり、営業の男性が帰社途中にシュークリームを買ってきてくれたりすることがよくあるのだが、彼女は一切手を出さない。
ダイエット中でもなければ、アレルギー持ちでもない。甘いものが苦手というわけでもないのに、いったいどうして?
食品添加物や化学調味料といったものにかなり神経質なのである。そのため、彼女は外食をまったくしないし、市販の弁当や惣菜、パンも食べない。
少し前に上期を終えての慰労会があったのだが、派遣社員のほとんどはそういった飲み会には出席しない。そんな私たちのために後日、缶ジュースと子どもが遠足に持って行くようなスナック菓子の詰め合わせが支給されたのであるが、彼女は私に「もらってちょうだい」と言う。
小学生の娘さんに持って帰ってあげたら?と言うと、首を振りつつ菓子袋の裏の成分表示を指差した。原材料の欄には「キサタンガム」「ソルビトール」「二酸化チタン」といった、いかにもな名称がずらずらと並んでいた。
「こんなもん食べさせられへん。癌になるわ」
いまいましそうに言いながら、それを笑顔で私に差し出す彼女。「ちょっとォ、それって私のからだはどうなってもいいってこと!?」と一応つっこんでおいたが、増粘剤、膨張剤、強化剤、乳化剤、光沢剤、着色料、着香料……と列記されているのを見ると、彼女でなくてもぞっとする。
そういえば、料理番組でもおなじみの服部栄養専門学校の校長、服部幸應さんが「日本人は年間三キロの食品添加物を摂取している」と言っていたっけ。

ダイエット中で口を開けばカロリー、カロリーと言っている女性と食事に行っても、「食べられるもの、ある?」「目の前でこんなの食べたら悪いかな」なんて具合に気を遣ってしまい、気分はいまひとつ盛り上がらない。
あるいは。好き嫌いが激しいうえに自分より小食だったことに嫌気がさし、恋人と別れた友人がいるが、私は「ええっ、そんなことで!?」とは思わなかった。「愛情がなくなると、まず食べ方が鼻につくようになる」と言うけれど、逆のパターンがあってもちっとも不思議ではない。
食のシーンを楽しく共有できる、すなわち文字通りの意味で相手が同じ釜の飯を「おいしく」食える人であるということは、誰かと親しくなりたい、長く付き合っていきたいと考えたとき、決して馬鹿にできない項目なのである。
そんなわけで、彼女を食事に誘えないことを、私はとてもとても残念に思っているのだ。 (後編につづく)

【あとがき】
先日、食事の約束をしていた友人と会ったんですね。で、なに食べに行く?と訊いたら、彼女は間髪入れず「そば!」と言いました。ええええ、なにが悲しくて金曜の夜にそば屋なわけえー?と渋ったら、「ダイエットをはじめたから」と。しかたなく定食屋みたいなところに入りましたよ、だってサラダしか食べない人の前でひとりでもりもりごはん食べてもつまらないもの。
ところで、ダイエット中の人がよく人が食べているものを見て「それ一切れで○キロカロリーくらいだな」とか「水泳30分分食べたね」とか言うじゃないですか。あれはちょっとイヤですね。


2004年11月01日(月) 女たるもの……

酒井順子さんのエッセイの中に、最近生まれて初めてコンビニ弁当を食べたという話があった。
長いあいだ、コンビニ弁当だけは買わない、食べないと心に誓って生きてきたという。できあいの惣菜を買うことに罪悪感を感じる世代より下であるとはいえ、やはり「女たるもの、手を出してはならない」ような気がしていたのである。
しかし仕事が立て込んでいたある夜、禁を犯してしまう。「いい年をした独身女が金曜の夜にコンビニ弁当を買っている」という図が恥ずかしくて後ろめたくてレジではおどおど、人目を気にして慌てて帰った……という内容だった。
ふふ、それわかるなあ、と忍び笑いが漏れる。
といっても、私はコンビニ弁当が好きでないし、最後に食べたのももう何年も前の話である。店頭で温めてもらい、家に持ち帰った私は蓋を取ってぎょっとした。揚げ物用のソースの小袋が白いごはんの上で溶けていたのだ。業務用の電子レンジはものすごく強力だから熱に耐えられなかったのであろうが、それを見た瞬間、頭の中に「環境ホルモン」という単語が浮かんだ。以来、私は冷凍しておいたパックの肉を解凍するときは必ず皿に移し、ラップを取り替えるようになった。
そうそう、こんな失敗をしたことがある。カップ麺を作ろうと思ったのだが、あの発泡スチロールの容器に熱湯を注ぐのはためらわれた。いかにも何かが溶けだしてきそうではないか。そこで、私は麺と具をラーメン鉢に移し変えた。三分後、麺はまったくもどっていなかった。
世界初のカップ麺「カップヌードル」の生みの親である日清食品の創業者、安藤百福さんが湯が冷めにくい“保温性”と手に持っても熱くない“断熱性”を兼ね備えた容器の開発には大変苦労したと語っておられたのを、このとき思い出したのだった。

おっと、話がそれてしまった。
で、コンビニ弁当を買わない私がどうして酒井さんの気持ちがわかるのかというと、街の弁当屋でホカホカ弁当を買っていた頃のことを思い出したからである。当時の私の中にも「女たるもの……」は存在し、それは“ホカ弁”にもばっちり適用された。
大学のそばでひとり暮らしをしていた学生時代のこと。彼が家に来るとなると嬉々としてあれこれ作るくせに、自分ひとりの食事のために手間をかける気にはまるでならなかった私は、マンションから三十秒のところにあった「かまどや」にしばしばお世話になった。
しかし、ひとつ問題があった。その店の前にはバス停がある。運が悪いと、弁当ができあがるのを待っているあいだにバスから学生がどっと降りてくるのである。
こんな私にも「結婚早そう」「いい奥さんになりそう」と言われた時代があったのだ(コラそこ、ここは驚く箇所ではない)。そんなところで知り合いに出くわすほどバツの悪いことはない。会釈などされようものなら駆け寄って、「いやー、まいっちゃった、ごはん炊こうと思ったらお米が切れてて」なんて言い訳したくなったものである。
よって、「いまからお揚げしますので少々お待ちください」の五分間がどれほど長く感じられたことか。揚げ待ち嫌さに大好きなカラアゲ弁当を断ち、意に染まぬシャケ弁当ばかり頼んでいた時期さえあるほどだ。

コンビニ弁当にはこれほどの羞恥を感じる酒井さんだが、吉野家や立ち食いそば屋に出入りするのは平気だそうだ。しかし、私はそれらもだめだった。
無性に牛丼が食べたくなってテイクアウトすることはたまにあったが、私はそのたび「彼に頼まれて買いに来たんです」という顔をつくった。どぎまぎしていることを店員や他の客に悟られると、恥ずかしさは倍になる。一刻も早くここから立ち去りたいと思っていることなどおくびにも出さず、悠然と注文した(つもり)。
十代から二十代にかけての、自意識が服を着て歩いているような年頃ゆえの小細工である。
と言いたいところだけれど……。
先日、突然おでんが食べたくてたまらなくなった。夫は出張で明日まで帰らないが、「おでんは二日目がおいしいのよ」とうそぶき、スーパーへ。しかし、一本五百円の大根を見て断念。
その帰り道、コンビニの前を通ったら、「おでん」と書かれたのぼりを見つけた。コンビニのそれはいかにも煮込みが浅そうで、おいしそうだと思ったことは一度もない。が、このときばかりは気がついたら玉子やじゃがいもなどあれこれピックアップしていた。
うわ、これじゃまるで大食らい……とどきっとしたそのとき、レジの男の子から声がかかった。
「お箸は何本おつけしますか?」
「二本ください」
すまして答えた後、愕然とする。私ってばあの頃とぜんぜん変わってないじゃないのー!

【あとがき】
実家の母ができあいの惣菜を買う人ではなかったんですね。お菓子もよく手作りしてくれました。「家で作ったものが一番おいしい」と思って育ったからでしょう、私はスーパーとかデパ地下で買ってきた惣菜を罪悪感(手抜きしちゃった……)なしに食卓に並べることができないのです。