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2004年07月30日(金) 匿名メール

作家のエッセイをこよなく愛する私であるが、プロって大変だなあとつねづね思っているのは、「話題を選ばねばならないこと」だ。
エッセイで陰気な話にはまずお目にかからない。日々の暮らしの中で、作家も私たちと同じ確率で夫婦ゲンカや失恋、肉親との死別といったことに遭遇しているであろうに、彼らは不満を露骨に表したり悲しみを切々と訴えたりするような文章は書かない。常に読者の存在を意識し、客観的に自分を捉える技。感情を抑制する力。愚痴めいたものがほとんどないのも、「自分のために書くのではない」がベースにあるからだろう。
クオリティについては言うまでもないが、この点についても、同じ「私」を語る文章でも私たちが書いているweb日記とはまるで違うところである。
しかし、プロであっても人間だ。不快の感情がこちらにはっきり伝わってくる文章に出会うことも、たまにはある。先日読んだ林真理子さんのエッセイの中に、読者からの手紙に関するこんなくだりがあった。

こちらにも何ヵ月かに一度、本当に嫌な手紙が舞い込むことがあるのだ。テレビに出たりしていた頃よりかなり減ったというものの、こういうものを送りつけてくる人間は後をたたない。
これらの手紙には特徴があり、必ずといっていいほど茶封筒が使われる。それもどういうわけか、皺だらけの薄汚れた封筒で、差出人の住所がない。
私はこういうのを見るとただちにピーンときて、そのままくず箱行きとしている。


匿名の読者からの不躾な手紙についての話は、他の作家のエッセイでもしばしば目にする。そのたび私は「世の中、いろいろな人がいるものなあ」とつぶやくのであるが、いまこれを読みながら「そのイヤーな気分、わかるわ」と頷いた方もおられるに違いない。
規模こそ違えど、見ず知らずの不特定多数の人に向かって文章を発表するのは日記書きも同じ。似たような経験をしたことがある書き手はきっと少なくないだろう。

私はときどきテキストの中で、読み手に協力を依頼して無記名アンケートを行う。つい先日行ったものは例外として、これまでにはたとえば「土俵の女人禁制の伝統」「女性専用車両の設置」「犯罪を犯した少年の顔写真掲載」といったテーマについて、まじめに賛否を問うてきた。
さて、このタイプのアンケートをするときは忌憚のない意見を聞くために匿名フォームを用意するのだけれど、驚くべきはそれを逆手に取る人がたまにいること。「チャンス!」とでも思うのだろうか、差出人のアドレスがこちらにわからぬようになっていることを利用して、アンケートとはまるで無関係のコメントが届くことがあるのだ。
書かれてあることはご想像の通り。メールは茶封筒では届かないから必然的に目を通すことになるのだが、「うん、たしかにこれはふつうのメールじゃ送れないわね」とつい頷いてしまいそうになる。しかしながら、内容にまで理解を示そうという気持ちになったことは一度もない。
群ようこさんが書いておられた。「結婚する必要を感じない」という彼女の発言を不愉快に感じたらしい読者から、名も住所も書かれていない手紙が届いた。それには「性格も根性も悪いお前みたいな女は男から好かれない」とボールペンで殴り書きがしてあったが、そのようなものを読んでも胸にぐさっと突き刺さるなどということはまったくない、と。
連絡先も明かさず、「自分さえ言いたいことが言えればいい」というスタンスで書かれたものが相手にされないのは当然であろう。
以前、私は「上手な苦情の言い方」というテキストの中でこう書いたことがある。

相手にとって耳の痛い話をするときほどていねいに接するよう努めなければ、いかにその主張が真っ当なものであっても百パーセント伝えることはむずかしい。「名乗りもしないで常識のないヤツ」「なんだ、この無礼なもの言いは」なんて具合に内容以前の段階で相手をカチンとさせてしまうと、肝心のことを伝えられずに終わってしまうのだ。


「相手が気分を害す可能性のある話ほど誠実に、慎重に」というのは、なにも客が店にクレームをつける場面にだけ当てはまる話ではない。名を名乗る。アドレスを開示し、返信を受け付けるくらいの誠意は持っていることをアピールする。「はじめまして」「こんにちは」のひとことを添える。
それを書くのに費やした時間や労力を“くず箱”に捨てたくないなら、敵意は上手に隠すべし。それが誹謗メールの利口な送り方だ。

※参照日記 2003年10月17日付け 「上手な苦情の言い方

【あとがき】
そのほか、作家が大変だろうなあと思うのは、やはり締め切りがあることですね。書けなくても書かなくてはいけない、でもクオリティは落とせない。このプレッシャーはどれほどのものがあるだろうと思います。エッセイには「ホテルに缶詰になっている」とか「徹夜で書いている」とか「何時までに何枚書かなきゃいけない」というような話が出てくるけれど、それを読むだけでこちらまで閉塞感に襲われます。


2004年07月27日(火) 私について(コメント一覧)

前回の日記「私について」(前編)(後編)にいただいたコメントの一部をご紹介。アンケートに参加してくださったみなさん、ありがとうございました。


順位イメージ得票選んだ理由(一部抜粋)
90p
(35%)

・やや姐御風味ではないかと。
・言いたいことをしっかり言いそうなタイプに見えるから。
・一見さばさばしてそう。
・自信ありげなところが……ごめんなさい。
・芯のしっかりしてそうな感じが、私の「小町像」にピッタリです!
・顎のアタリに意志を感じます。そこんとこが小町さん的かな〜と。
・物腰が丁寧な、でも気は強そうな女性といったイメージがあります。
・女である事をかなり大切にされているようなので色気のあるタイプかな……と。

84p
(33%)

・もっと笑顔のイメージではありますが、まとめ髪の印象が強いC!
・静かさの中の意志の強さ。私の中の小町さんはまさに、「この顔」です。
・一番しっかりしてそうな人を選んでみました。
・きりりっとしていそうだから。
・何かこう、抑制の効いた印象を、小町さんのテキストからもCの写真からも受けます。
・なるべく男らしい顔を選びました。ここを読み始めた当初は男性が書いていると思っていたので。

32p
(12%)

・元気で活発なイメージがするので!
・はっきりしてそう……な、雰囲気。
・優しいけれどしゃきっとしていて判断力がありそうな顔、に見えたので……。
・一番背中が「まっすぐしてそう」やから。

22p
(9%)

・書かれている思想が結構真面目なので、A型気質な感じのB。
・ちょっと古風なイメージ。
・芯がしっかりして、落ち着いている印象を受けます。
・女性としての媚のようなものがあまり感じられない、自然な感じだったからかなぁ。

15p
(6%)

・気の強そうな目をしているから。
・E以外の方は「ほんわか」ムードが前面に出てますでしょう?私の中の小町さんはもうちょっと「きりり」としたイメージが加わってますので、この中だったらEでしょうか……。
・小町さんの旦那さんは美人が好きに違いない。

14p
(5%)

・大人しそうに見えて、芯が強そう。
・意外と骨太そうな性格の顔(のイメージ)なので。


2004年07月26日(月) 私について(後編)

たしかに、私は前回のテキストにこう書いた。
「読み手の中で自分がどんな姿形をしているかを知ることができたら、どんなに面白いだろう?」
しかし、そんなことは不可能だ。だから、「この中にあなたのイメージの小町さんはいますか?」アンケートで何かがわかるかも……なんて期待はほとんどしていなかった。ただ、笑えるコメントがあったら紹介させてもらおうと思っていたくらいで。
が、日曜の夜、二百五十を超える方々からいただいた回答の集計を終えた私は神妙な気分でつぶやいていた。
「私ってこんな顔してるんだ」
それでは結果発表です。



私は予想を立てていた。「BとDがぐんと多くて、Eが極端に少なく、A、C、Fは同数くらい」というものだ。
六人が芸能事務所に所属する女性であることはすでに種明かししているが(そういうところからしか写真を集められなかったのよ)、その中でBとDは比較的地味でふつうの人っぽい。私自身はDの女性の笑顔が感じがよいなあと思っていたので、希望込みでの部分もあった。
逆に、もっともありえないと思っていたのがE。いろいろなタイプを網羅するためにラインナップしてみたものの、私の書いているものを読んでこんなに美人でオンナっぽい女性を連想する人はいまい。
Aはお嬢さんっぽいので、可能性薄。Cは物静かな雰囲気なので、これも違うだろう。Fは性格がよさそうだから、かえって票が集まらなさそう……。
が、結果はご覧の通り。

このアンケートをして知ったこと。それは、自分を客観視するというのは思うよりずっとむずかしいことなのだということだ。
コメント一覧を見ていただければわかるように、選んだ女性は違っても「選んだ根拠」は見事に共通している。
「芯がある」
「気が強そう」
「しっかりしている」
「はっきりものを言う」
「さばさば」
「意志が強い」
「きりり」
これらのフレーズがひとつも入っていない回答を探すのは困難だ。この結果に私は心底驚いた。こんなことを言うと笑われそうだが、たとえば「気が強そう」と言われるなんて私は夢にも思っていなかったのだ。
私は忘れていたらしい。私にとって“小町さん”は自分の一部分でしかないけれど、モニターの向こう側の人たちにとっては百パーセントなのだということを。

「顔」を尋ねたのは正解だった。自分が読み手にどんなイメージを持たれているかを知りたいなら、「私ってタバコ吸うと思います?」「部屋は片付いていそうですか?」なんて質問をするより、顔を選んでもらうほうが手っ取り早い上に正確だ。
この結果を見たら、自分がどんな女性だと人の目に映っているのかは疑いようがない。

最後に、お目にかかったことのある方々からのコメントを載せておこう。ひとりを除いた全員が同じ回答。

実際にお会いしているので本当は回答すべきではないのかも知れませんが、テキストからのイメージは知的でしっかりした物静かな女性という感じですよ。決して「関西系のよく喋るおば、おば、……お姉さん」ではありません。だからこの中から選べばやっぱりコレかなぁ。

【名古屋手羽先OFF2003参加/男性】


お会いする前のイメージはコレが近いかなぁ。意外にギャップが少なかったことを覚えてます。

【ボウリングOFF2003参加/女性】


雰囲気が似てるといえばコレかなと思いました。

【ボウリングOFF2003参加/女性】


小町さんとは一度お会いしたことがあるけれど、今でも自分の中ではこんな感じのイメージです!

【ボウリングOFF2003参加/女性】


小町さんとは一度お会いしたことがあるんですが、それまでの印象はこんな方でした。

【クリスマスパーティー2003参加/男性】


彼らが選んだのが




そして、あの中に本当に私がいると勘違いし、思いきり素で答えておられた愉快な方がひとり。

こんにちは〜!会った事あるのに思わず参加。ところでこの写真はどういうところから取ってきたんですか?もしや有名人?ワタシが知らないだけ??がーん。芸能オンチの○○でした。

【名古屋ひつまぶしOFF2003参加/女性】


彼女が選んだのが



(私、彼女の真向かいの席でひつまぶし食べてたんですけどねぇ……)



過去何度もアンケートものをやってきましたが、今回は完璧に自分が楽しむための企画でした。最後までお付き合いくださった方々に感謝します。
あの小さく書きづらいスペースにたくさんの言葉を詰め込んでくださった方もいらっしゃいました。すべて大事に読ませていただきました。本当にありがとう(コメント一覧はこちら)。
実物に会えばガッカリされてしまうこと必至の結果に、今後オフ会に参加するのが恐ろしい気がしないでもないですが、みなさんの好意によって思いがけず望みが叶い、とてもうれしい。
次回のテキストからまた通常営業に戻りますので、どうぞよろしく。

【あとがき】
今回は完全に自分の楽しみのためだけの企画で、私に興味のない方には恐ろしくつまらないだろうと思いましたが、まあ、たまにはいいかと遊んでしまいました。最後までお付き合いくださって本当にありがとう。何人かの日記書きさんから「うちでもアンケートやろうかな」というメッセージをいただいて、とてもうれしい。ぜひやってみてください。いろんなことがわかってすごく面白いよ。


2004年07月23日(金) 私について(前編)

ある日記書きさんから、このサイトをリンクページに加えたことを知らせるメールが届いた。不備があれば訂正しますのでご確認ください、とある。
その丁重さに恐縮しつつ早速見に行った私はひえーと声をあげた。紹介コメントの中に「優しい文章」「柔らかい口調」というフレーズを見つけたからだ。
驚いた。私は「優しい」とか「柔らかい」といった言葉は、自分の文章ともっとも遠いところにある形容だと思っていたのだ。
とはいうものの、こういうことは初めてではない。自分自身の評価と読み手のそれとがかけ離れているために、「ねえねえ、どうしてそんなふうに思うんです?」と尋ねてみたい衝動に駆られることが、実は時々ある。
私は自分の文章を男性的だと思っている。「だ」「である」の文体も書いていることも“強い”印象があり、ヒトガタにしたら骨太で筋肉質のがっしり体型という感じ。たおやかさや可愛げというものに欠ける。しかしながら、数日前にいただいた初めましての方からのメールの中にも「繊細」というフレーズがあり、私はひっくり返ったのだ。
「いったいどこが……」
モニターに向かって問い掛けつつふと頭に浮かんだのが、新入社員研修で習った「初頭効果」という言葉。最初に得た情報がその事柄についてのイメージを決定づける、というあれだ。
彼らがこのサイトを初めて訪れたときに読んだテキストがたまたまほのぼのとした内容のもので、その印象が私のデフォルトとして刷り込まれたのだろうか。
もちろんそれは私にとって光栄な誤解であるが、少々面映くもある。

誤解といえば、先日こんなことがあった。
男性の身長コンプレックスについて書いた前回のテキストのあとがきに、「私は身長百六十七センチです」と書いたところ、イメージと違うという内容のメールがいくつか届いた。
それぞれの方の脳内にいるどの小町さんも実物よりずっと素敵な女性っぽかったので、私はほくほくしながら読ませてもらったのだけれど、中にひとつ傑作なものがあった。
「私のイメージでは、小町さんは小柄で華奢な感じでした。髪はストレートで肩くらい、眼鏡なんかも似合っていつもスカートで可愛らしく、でも時には大人な雰囲気を醸し出している……」
それだけではない。彼女の中で、私は「花柄の壁紙、レースのカーテンのついた出窓のある部屋に住んで」おり、「うららかな日差しを浴びながらパソコンに向かっている」というのである。
ここまで読んで、私と会ったことのある日記書きさんたちがゲラゲラ笑っている姿が目に浮かんだのが悔しいが、当人も不思議でしかたがないのだから責められまい。
「はっきり言って、ものすごい妄想ですよ……」とキーボードを叩きながら、いったいどこをどう読んだら私についてこのようなイメージが湧くのかと思いめぐらせた。初頭効果といったって、そんな想像をさせるようなスイートなテキストは一度たりとも書いたことがない!と断言できる。
そこにある文章だけを頼りに像を作りあげる作業の中で、イメージは実物とは似ても似つかぬものになっていく。読み手のあいだでも、それはかなり異なっているだろう。彼らの中で自分がどんな姿形をしているのかを知ることができたらどんなに面白いだろう?と私はよく思う。

たとえば、ここに六人の女性がいる。もしこの中に私がいるとしたら、あなたはどれを選ぶだろうか。


「私は髪が長い」と以前書いたことがあるので、ロングヘアの女性をラインナップしてみたが、それでも票はかなり割れるに違いない。
よろしければ、【続きを読む】ボタンを押す前に、下の匿名フォームからあなたの回答を送信してください。あ、やだなあ、お遊びなので真剣にならないように!


回答: A   B   C   D   E   F  

理由:




【あとがき】
どの女性に票が入るか楽しみです。私の予想は……いや、やめておきましょう。次回のテキストで集計結果を発表します。


2004年07月21日(水) 「コンプレックス」が厄介な理由(後編)

三十万円の入会金を払って結婚相談所に入会した友人がこのところ、「話が違う」「こんなはずじゃなかった」としきりに愚痴る。
月に何度も開催されると聞いていたカップリングパーティーは応募者多数のため毎回抽選で、ちっとも参加できない。「うちは結婚できない方が入るシステムではなく、きちんとした方がさらに良いお相手を見つけるためのシステムなんです」が謳い文句なのに、紹介されるのは「……」な人ばかり。
そんなわけで彼女は最近、“間口”を広げた。設定していた条件の中の「身長は百六十五センチ以上」を削除し、さらに出身大学を「不問」にしたのだ。
そうしたら紹介数は倍になった。が、その代わりプロフィールを読んで唖然とすることも増えた。身長欄を見ると〇・五センチ単位で記入してある、最終学歴欄の「△△大学」のあとに「○○大学を志望していたが、実力を発揮できず……」「家庭の事情により進路を変更し……」などの一文が添えられている、といったことは条件を緩める前には見られなかった現象だという。
懸命なのはわかるが、潔くない。人が劣等感を抱く事柄はいろいろあるが、「身長」と「学歴」は恋愛や結婚を望む男性にとってコンプレックスの双璧を為すものなのかもしれない、と思いに耽る私。

根深いコンプレックスを持つ人とだけは結婚すまいと思っていた。悩みよりさらに下層にあるのがコンプレックスだ。容姿や性格、学歴に起因するそれはそうたやすく克服できるものではなく、一生抱えて生きていかねばならないことが多い。
それが厄介なのは、コンプレックスというものが短所やウィークポイントの自覚ではなく、自己否定だから。「他人と比べて自分は劣っている」という思いは人を卑屈にする。
誰かを否定したくなったり、他人の話に素直に耳を傾けられない自分がいることに気づいたりしたときは、胸に手を当ててちょっと考えてみるといい。“面白くない気分”の根源に劣等感か嫉妬心が存在することを発見するに違いない。
コンプレックスを刺激されると人は不快な気分になる。たとえば自身の恋愛経験に引け目を感じている人は、概して他人の恋の話を聞きたがらないものだ。
深刻なコンプレックスを持たない人は天真爛漫で、他人に対しても寛容である。中には傲慢になる人もいるかもしれないが、「人間は外見じゃない」「勉強ができるからといって頭がいいとは限らない」なんてことを声高に叫ぶのは、たいてい容姿や出身校に劣等感を抱いている人だ。多くの人にとってそんなことは言うまでもないことである。
なにかをことさら強く否定したり嫌悪したりすることこそ、自分がそれにひどく執着し、囚われていることの証なのだ。
あらためて自分にも言い聞かせよう。

【あとがき】
「コンプレックス」と「悩み」は似て非なるものだと思うのです。コンプレックスは悩みが進行して劣等感を生み出すに至ってしまった段階、という認識です。悩みは人に相談して解決することがあっても、コンプレックスは「自己否定」だから、プライドが邪魔して打ち明けることさえむずかしい、というような。軽いコンプレックスはひとつやふたつ誰でも持っていると思うけど、重度になると厄介です。性格にまで影響を及ぼすから。


2004年07月20日(火) 「コンプレックス」が厄介な理由(前編)

新聞で、中学三年生の男の子のこんな悩み相談を読んだ。

ずっと好きだった同級生に思いきって告白したら、「性格は好きだけど、私より背が低い人はちょっと・・・」と断られ、すごいショックを受けました。僕は背が低いのがコンプレックスです。女の子って背の高い男じゃないとだめなんでしょうか。


これに対する読者の意見もいくつか載っていた。
「背が高くてうらやましいとよく言われますが、服を選ぶのに苦労しています」
「芸能人でも背が低くて人気のある人はたくさんいるじゃないですか。気にしなくてよいと思います」
ひとつを除いたすべてが「背が高いからといって……」という内容だった。が、すべて読み終え、私は思った。
「はたしてこれらは相談者の男の子の心に届くだろうか」
服や靴のサイズがなく、長身であることのメリットをそう実感できずにいるのは本当だろう。身長の高低と内面の魅力の有無には関係がないというのも正論だ。しかし、自分が相談者だったら、そう言われて「うん、そうだよな」と納得するかしら。
「僕は身長百八十センチですが、メリットといえば満員電車で息苦しい思いをせずにすむことくらいです」と言われても、おそらく鼻白むだけだろう。「背が高いとたしかに包容力がありそうに見えますが、それだけで判断はしません」と女性に言われても、“キレイゴト”という五文字が頭をよぎるのではないか。
そんな中、ひとりだけ「なんだかんだ言っても、女性は背の高い男性が好きなのです。あきらめないで努力してみてください」と書いている女性がいた。彼女の夫は背が低いが、息子はぜったいに背を高くしてやりたいと思い、味噌汁は必ず煮干しでダシをとり、勉強よりもとにかくよく眠らせた。その甲斐あってか、中学までは小さかったのに百八十センチまで伸びたそうだ。
現実的かどうかはともかく、私にはこのアドバイスが一番本音、言い換えれば“回答者にとっての真実”が伝わってくるもののように思った。
それにしても、こんなふうに背が低いことを気に病んでいると他人に明かすことができるのもこのくらいの年齢までだろうなという気がする。コンプレックスが心に根を下ろしてしまったら、いよいよ口にすることもできなくなるものだ。(後編につづく)

【あとがき】
女性の長身もコンプレックスになりうる要素ですね。以前、松嶋菜々子さん(公称172センチ)が雑誌のインタビューで、「子どもの頃から背が高いのがコンプレックスで、猫背で歩く癖がついてしまいました」と語っていましたが、へええ、こんなきれいな人でもそんなことを思うのかと驚きました。ちなみに私は身長が167センチあります(えー、イメージじゃないーと思った人、どんな風に想像していたかを添えてメールで申告するように)。女性に「背が高くていいね」とお愛想を言われると、「小さいほうがかわいいよ」と返すし、それは嘘ではないのだけれど、じゃあもっと低いほうがよかったのかというとそうではなくて。一番のメリットは「着る服を選ばない」ということでしょうか。それを上回るデメリットというのが浮かばない。まあ、私より背の低い男性には好かれないというのはあるかもしれないけれど……あ、そうか、それが最大のデメリットだったのか!


2004年07月16日(金) 男性と食事に行くと必ず苦悩すること

仕事帰りに同僚と寄った居酒屋を出るときのことだ。
出入り口のあたりがやけに混雑しているなと思ったら、男女六人グループがレジの前で頭を突き合わせ、なにやらしている。ちらとのぞくと、携帯電話で「合計÷6」をしているのであった。
ほどなく輪の中から「ひとり三千九百七十円ねー」という声があがり、彼らは立て替えた男性に支払いをはじめた。店員に両替を頼む者があるかと思えば、三十円の釣りを受け取る、受け取らないで押し問答をしている者あり、とそれはもう騒がしい。
傍迷惑というよりかなりみっともない図で、「そういうことは店を出てからやりなさいよ」と私は思わずつぶやいた。

とまあ、ちょっぴりえらそうに言ってみたが、会計時の振る舞いについては実は私にもかれこれ十数年、人知れず悩んでいることがある。
オンナ稼業をいったい何年やってるんだ!と言われそうだが、恋人未満の男性とふたりで食事をしたとき、レジの前をどんなふうに通ればよいのか、私はいまだによくわからないのである。
どんなに楽しい時間を過ごそうとも、店を出るときには必ずこの「居心地の悪さ」を味わわねばならない。おおげさなと笑われるかもしれないが、決して冗談ではなく、学生の頃はそれが嫌なあまり外食を避けた時期もあったほどなのだ。
一般的にそういうシチュエーションで財布を開くのは男性である。あとで女性が自分の分を出すことになっていてもそうするのは、レジの店員や周囲の客の手前、男性に花を持たせるためだろう。そういう気持ちは私にもあるので、「そろそろ行こうか」となったときにテーブルの上の伝票を自分が掴むことはない。
ではいったいなにが私に気詰まりを感じさせるかというと、「男性が支払いをしている最中の自分のポジショニングがわからないこと」なのだ。
と言ったら、「そういうときは女は先に店を出て、外で待っているものよ」という声が聞こえてきそうだ。うん、それがもっとも粋な方法とされていることは知っている。
しかし、私はこれがどうにも苦手なのだ。ひとりで先に店を出る、ということに、私はスマートさより「愛想なし」「水くさい」「キザ」という印象を持つ。そのため、「先に出てるね」をさりげなく言うことがどうしてもできないのである。
この“常識”は、男性が領収書を切るところを見ないようにという女性側の心遣いから生まれたものだと思われる。しかし、実際に食事代を経費で落とそうとする男性がどれだけいるだろう。私はおそらく経験がない。
それでもそうすることに意味があるのだろうか。出入り口の混雑緩和に貢献する、ということ以外に。
金額というのは、男性にとってそれほど知られたくない情報なのだろうか。カードにサインをしたり釣りを受け取ったりする姿を見られるのはそれほど決まりが悪いものなのだろうか。
女性が隣りに突っ立っていくらになるかをまじまじと見つめていたら無粋だと思うが、ちょっと離れたところで待っているくらいがわざとらしさのない、もっとも自然なあり方ではないかしら……。
そんなふうに私は思っているのだけれど、その男性がこの件に関してどう感じる人かわからないため、レジに向かって歩を進めながら毎回、先に外に出るべきか否かを苦悩するのである。

そして、「ごちそうしてくれるつもりなのかもしれない」と感じたときは、さらなるプレッシャーが私を襲う。
私の中に「もしそうなら、その日の終わりではなくその場でお礼が言いたい」という気持ちがある。そうしようと思えば、必然的に店を出たときに確認しておかなくてはならない事柄が発生する。
するとさっきまでのはしゃぎぶりはどこへやら、私は借りてきた猫のようになって、「えっと、あの、さっきの分は……」ともじもじしてしまうのである。
ここで男性が「今日はごちそうさせて」と言ってくれればワーイと素直に喜ぶし、「じゃあ次の店で出してもらおうかな」にも私の顔はぱあっと晴れる。
しかし、こんな私は野暮の極みで、彼らはもっとスマートな“精算の仕方”を望んでいるのかもしれないとも思う。ごちそうするにせよ割り勘にするにせよ、男性はこういう場面で女性にどんなふうに振る舞われるのが一番心地よいのだろうか。
ちなみに私は「今日は奢っちゃう!」というとき、彼にそばにいてほしくないとはちっとも思わない。
「細かいの、あるよ」と言われても恥ずかしくないし、興ざめもしない。それは相手の男性がただの友人でも憎からず思っている人でも変わらない。
私はふたりで食事に行くような男性とは、クールであるよりフレンドリーであることで親密になりたいのだ。

それにしても最近、手の内を晒すようなことばかり書いている気がする。食事に行ったら相手の食べ方や店員への態度をわりとよく見ているとか、ひとこともなく奥のソファ席にどっかと腰掛けてしまうような男性とは未来がないとか。
「マズイナー」と一瞬思ったが、よく考えたら(人妻である私には)なんの差し支えもないのであった。

【あとがき】
今日はごちそうしてくれるのかもしれない、って雰囲気でわかるじゃないですか。そんなとき、店を出たところで「帰りに払うねー」にできないのです。別れ際に「え、ごちそうしてくれるの?ありがとう」じゃなくて、そのときにお礼が言いたいのです。でも奢るほうの男性はどうなんでしょうね。自分以外の女性の気持ちもそんなにわからないけど、男心というのは本当にわかりません。


2004年07月14日(水) 勘弁してあげる。

週末は夏恒例のバーベキュー大会だった。
夫の会社には社員が家族や恋人を連れて参加する行事が年に何度かあり、私はそれらをかなり楽しみにしている。夫がバーベキューの幹事を担当した回は当日早起きして、数十人分のとうもろこしを湯がいたりソーセージに切り目を入れたり、とはりきって下ごしらえをしたものである。
この会は炭に火を起こすところから片づけまですべて男性が仕切ってくれるため、妻たちはビールを飲みながらおしゃべりしていれば、じきに「焼けたぞー!」と声がかかる仕組みになっている。
しかしながら、家庭科の調理実習以外で包丁を握ったことがないという人を夫に持った私にとって男性が料理をする姿はもの珍しく、始終炉の横に張りついてその仕事ぶりを観察してしまう。四年前に初めて参加したとき、男性だけでちゃんと焼きそばを作ったことにとても驚いたものだ。
なんて言ったら、そんなの常識だろう!と叱られてしまうだろうか。
しかし、夫に「この材料で焼きそば作ってみて」と言ったら、なにもかも一緒に鉄板にのせてしまいそうである。ケーキを焼いたことのない女性がバター、砂糖、玉子、小麦粉を前にしても、なにをどうすればよいのかわからないのと同じに。
週末は一緒にキッチンに立ちたい、なんてことは望まないけれど、嬉々として“バーベキュー奉行”を務めている男性を見ながら、一生にいっぺんくらい夫の手料理を食べる機会があってもよいなあと思った。

過去にお付き合いした男性の中にひとりだけ、料理好きの人がいた。
といっても、グルメとか味にうるさいとかいうのではなく、自炊が苦にならないという意味だ。私はこの彼に「二ヶ月」というスピード失恋をしたため(もちろん私の恋愛史上最短記録だ)、思い出は数えるほどしかないのだけれど、とっておきの記憶がひとつある。
ひとり暮らしをしていた部屋に彼が初めて訪ねてきたとき、私ははりきって夕食を作った。
その頃私は惣菜メーカーに勤めており、月に二度、外部からシェフを招いての料理講習会に参加する機会があった。イタリア料理の回ではフェットチーネ(きしめん状の幅広パスタ)から作ったり、ジビエ(野禽)料理の回ではウサギの血を使ってソースを作ったり、とわりと本格的に習ったのであるが、彼が来たときには前の週に習ったばかりの和食メニューを再現した。
女性にはわかっていただけるだろう、初めて手料理をごちそうするときのどきどきを。和風のねぎソースをたっぷりかけた豚肉の唐揚げに彼が「うまい!」と声をあげたとき、私は思いきり相好を崩した。
とはいえ、冷静に考えたら、これは狂喜乱舞するほどのことでもない。そのシチュエーションではたいていの男性がそう言ってくれるものである。私が思わずうるっときたのは、「うまい」のあとにこんな言葉がつづいたからだ。
「ねえっ、この作り方教えて!」
こんな反応が返ってきたのはもちろん初めて。これには感激した。「そんな大層なメニューとちがうよー」と大いに照れながら、「おいしい」を十回言われるよりうれしいと思った。
その後まもなく、「仕事が忙しくて、小町ちゃんの彼氏を務められそうにない」と言われて私は振られてしまうのだが、この出来事はいまでも私の顔をほころばせるすてきな思い出だ。

それから六年後、サークルの創立記念パーティーで私たちは再会した。
別れた人とは音信不通になるのが常なので、彼が毎日のように午前様だった会社を辞め、地元に戻って転職していたことを初めて知った。いまは十も年下の彼女と仲良くやっているとのろけてもくれる。それから、私がワンピースにつけた名札に視線を落とし、「名前、変わっちゃったんだね」と言った。
私はふと、あることを尋ねてみたくなった。
「ねえ、ひとつ訊いてもいいかな」
「なんだろう」
「私って、あなたの中で“元彼女”としてカウントされてるの?」
若気のナントカというやつだろう、体当たりの告白で彼に考える間を与えなかった、というのが実際のところ。私の中にほんのちょっぴり負い目のようなものがあったのかもしれない。
が、私のその卑屈ともいえる質問に彼は気色ばんだ。
「そんなの、当たり前じゃないか!」
反応によっては、「ほんとは最初からそんなに好きじゃなかったんでしょ」って、もっと困らせてやろうと思ってたんだよ。だけど、勘弁してあげる。
「なにを言い出すのかと思ったら……」とぷりぷりしている彼の隣りで、私は満面笑みでうなづいた。

【あとがき】
週末に一緒にキッチンに……とはとくに望まないけれど、夫が「食」にもうちょっと興味のある人だったら、と思うことはあります。「晩、なにが食べたい?」と聞いて、リクエストが返ってきたことはないですね。味にうるさくないのは私にとっては都合がいいけど、いつも「なんでもいいよ」じゃあちょっと張り合いがない。あれ食べたい、これ食べたいと言ってくれる人なら、スーパーに買い物に行くのももっと楽しいかな?なんて。


2004年07月07日(水) 目立たせないで。

電車がホームに到着するや、列の後方にいた老人が手にした杖で人を払うようにして扉の正面に立ち、降りてくる客を待つのももどかしく、真っ先に乗り込んだ。
女子高生たちは「なにあれ、ムカツク」とささやき、中年の女性はあっけにとられていた。私も思わず「そんなことしなくても、誰もあなたを差し置いて座りませんよ」とひとりごちたが、これも「人をアテにしても無駄。席は自力で勝ち取るもの」という学習の結果なのだろうかと思えば、少し神妙な気分になる。
しかし言い訳をするわけではないが、気持ちよく席を譲ることのなんとむずかしいことよ。
先日、仕事帰りにこんな光景を見た。途中駅から乗り込んできたおばあさんが、座って雑誌を読んでいたスーツ姿の若い男性の前に立った。彼はそれに気づいて席を立ったのであるが、どういうわけか、おばあさんは曖昧な笑みを浮かべたまま座ろうとしない。
といって、その男性の前から移動するわけでもない。周囲の視線が集まる中、彼は座り直すこともできず、困惑した表情で隣りの車両に移ってしまった。そのあともおばあさんは数駅先で降りるまで、まるで“蓋”をするかのようにその空席の前に立っていた。
一部始終を見ていた私は「そりゃあないよ」とつぶやいた。
「人の厚意を無駄にして……」ということではない。その必要がないのであれば、「すぐに降りますので」「健康のために座らないようにしてるんです」ときちんと断ってあげてほしかった。そうすれば、彼は再び腰を下ろすことができただろう。どうぞと声をかけるのは、けっこう勇気がいったはずだ。
席を譲ってあげたいと思っている人は決して少なくないと思う。しかし、私たちを尻込みさせるのはこういう反応ではないだろうか。

とはいうものの、大げさに喜ばれるのも勘弁してほしいのだ。
林真理子さんは、あるとき電車でおじいさんに席を譲ったら、「ありがとう!ありがとう!いまどきお嬢さんのような優しい人はめずらしいですよ!」と車両中に響き渡るような大声で叫ばれたという。「お嬢さん」の部分に乗客からしのび笑いが漏れ、人に親切にしてどうしてこんな恥ずかしい目に遭わされなくてはならないのかと憤っておられたけれど、気持ちはわかる。
私も以前、おばあさんに「最近の若い人は本当に席を代わってくれないのよ。シルバーシートにも大きな顔して座ってるしねえ」というようなことをとうとうと語られ、困ってしまったことがある。おばあさんは私を持ち上げるつもりだったのかもしれないが、周囲の人が聞き耳を立てているのがわかり、居たたまれなかった。
ふだんは目立つことが苦手ではない人でも、できるだけ注目を浴びたくないと思うのが電車で席を譲る場面ではないだろうか。当然だという顔をされるのは寂しいから、「まあ、どうも」と会釈をされるくらいが過不足なくちょうどよい。

というようなことを考えた数日後、新聞の投書欄でこんな文章を見つけた。投稿者は六十八歳の女性だ。

電車やバスで座っているとき、前にお年寄りが立たれたら席を譲るようにしています。ところが、近ごろは年配の方も若々しくおしゃれをしているため、自分もそこそこの年になった今、目の前の人が自分より年が上なのか、下なのかわからないときがあります。
もし年下だったら失礼になるし、「いくつぐらいだろう」とチラチラ見ながら座っていると、本当に落ち着きません。私自身、譲っていただいたときに「まだそんな年ではないのに」と思ったことがありますから。


「そこそこの年」と書いてあったことにとても驚いた。そうか、六十八でも「まだそんな年ではないのに」と思うのか。「自分より年配の人には席を譲るべき」と思っているのか。
もしかして決して座ろうとしなかった件の女性も、「年寄り扱いして」という気持ちだったのだろうか。だとしたら、席を譲るって本当にむずかしい。

【あとがき】
高齢者に席を譲るより、妊婦さんや子ども連れの若い人に席を譲るほうが気が楽です。後者に断られたことはなく、素直に喜んでくれるから。まあ、ときどき「あの人は妊婦さんかな、それともふくよかなだけかな」と悩むこともあるけれど。


2004年07月05日(月) 欲求不満なのはどちらか

数日前の新聞でサラリーマンの帰宅時間について書かれたコラムを読んだ。
それには「割合がもっとも高いのは十九・二十時台」とあり、私はずいぶん驚いた。その時間に家に着くということはほとんど残業をしていない、あるいは定時のチャイムが鳴って二時間以内には会社を出ていることになる。
過去にお付き合いした男性の中に、その時間帯のテレビを見ることができた人はひとりもいなかった。彼らがいまも同じ会社に勤めているなら、もしパパになっていたとしても小さな息子や娘が起きているあいだに帰宅できる日は年に数えるくらいしかないだろう。
そうか、世の男性ってけっこう早々と店仕舞いしてるんだなあ。
とはいうものの。みながみな、「家に早く帰りたい」と思っているわけでもないらしい。そのコラムにはこんなつづきがあった。

テレビ局の幹部から聞いたことがある。ある日、いつになく早く帰宅すると女房の様子がいつもと違う。妙に艶めかしい。子供達は旅行中。これはヤバイと思い、眠気をこらえて、新聞をくまなく読んでも時計はなかなか進まない。ついに諦め、ベッドへ。いびきをかいて寝たふりをしていると、隣からは溜め息が……。朝まで一睡もできなかったそうである。次の日、帰宅が大幅に遅れたのは言うまでもない。
くれぐれも、帰宅時間には気をつけなきゃと思った次第である。


実は以前から疑問に思っていたのだ。とかく男性は「女房相手じゃそんな気になれないよ」というふうに語りたがるけれど、これはただのポーズなのか。それとも、まじめに言っているのか。
これを聞くたび、私は心の中で「奥さんが溜め息?そんなわけないじゃない」と突っ込まずにいられないのである。
自分はすでに妻を女として見られなくなっているのに、自分のほうはいまも妻の目に男に映っている、などとどうして信じることができるのだろう。私はそれが不思議でならない。ずいぶん能天気じゃあないか。
一方がパートナーとのセックスに飽きているとしたら、もう一方も同じだけ飽きている。夫が「女房と?カンベンしてよ」であるなら、妻の口からも同じセリフが出てくる。そう考えるのが自然ではないだろうか。嫌っている相手から好感を持たれることがないように、これだってお互い様であろう。
いや、それどころか、私はこの件に関してより“不憫”なのは夫のほうではないのか?とさえ思っている。女性は子どもが生まれると夫どころではなくなるという話を聞く。そちらに手を取られるからというだけでなく、出産後に分泌される母性ホルモンの影響で実際に性欲が減退するからである。
妻が出産のために里帰りしたまま三ヶ月たっても戻ってこない、と愚痴をこぼす友人がいる。「帰ってきたらその日にするからな」と言い渡してある、と彼が言うのを聞いて、私はうっかり口を滑らせた。
「あ、わかった。奥さん、それが嫌で帰ってこないんだよ」
浮気をしたり風俗店に通ったりしている夫がマジョリティであるとは思えない。男性の性欲が女性のそれの三十倍だというならば、「してくれない」と妻がふてくされるより、「させてくれない」と夫がスネる図のほうが理にかなっており、現実的である。
……と私は考えているのだけれど、どうだろうか。
なんて皮肉のひとつも言いたくなるのは、私が「欲求不満」の四文字が枕詞のようについてくる“人妻”の立場にいるからかしら。

【あとがき】
以前、派遣社員としてしばらくお世話になった会社は残業というものが存在しないところでした。定時十分前になると女性は制服を着替えに、男性はロッカーに入れてあるカバンを取りに行くのですね。終業直前に持ち込まれた仕事はもちろん明日。「もう時間だから」これが通用するのです。で、チャイムが鳴ったら室長からパートの女性まで一斉に席を立つ。こんな会社もあるのだなあと思いました。