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2004年06月30日(水) 無神経すぎます

朝、駅までの道のりは集団登校をする小学生と一緒になる。笛を吹いたり、友達とふざけあったりしながら元気に学校に向かう姿を見ていると、愛チャリ「小町号」のペダルを踏む足も自然に軽くなるというものだ。
しかし残念なことに、もう少し先に進んだところで毎回のように目にするある光景が、その爽やかな気分をぶち壊すのである。
小学校の目の前にある横断歩道で信号無視をする大人が必ずいるのだ。これが腹が立ってしかたがない。私も信号を悠長に待てる性格ではないが、子どもが見ている前ではぜったいにしない。どんなに急いでいても、車の影ひとつ見えなくても、「フリーズしてるんじゃないの」と言いたくなるほど気の長い信号であっても、子どもがひとりでもいたら青になるのをひたすら待つ。
ひと昔前の大人がしてくれたように、私が他人の子どもを叱ったりなにかを教えてあげたりすることはない。ならばせめてマイナスの働きかけはすまいと思う。これは前回のテキストに書いた“美意識”に通じるものだ。
子どもたちが赤信号を見つめる中、スーツ姿の若い男性が一旦停止もせず堂々と渡って行くのを見ながら、今朝も考え込んでしまった。いったいどういう神経をしているんだ。

朝刊に小学三年生の女の子のお母さんが書いた、こんな投書が載っていた。

近所の交番から電話がありました。娘が落とし物を届けたらしいのですが、それが小さなタオルだったため、『書類を作成しなくてはならないので、こういうものは届けないでほしい』と言われました。
あとで聞けば、お巡りさんは娘の前で私に電話をかけていたそうです。いいことをしたとはりきっていた娘の気持ちも少しは考えていただければ……と思いました。


お巡りさんにとっては「こんなものでも届けられれば書類を作らなきゃならないし、面倒だなあ」というところだったのだろう。たしかに落としたタオルを探して交番を訪ねる人はいない。
しかし、それを拾ったとき、落とし主が困っているか困っていないかを金銭的価値の程度で判断するのは大人だけなのだ。そして、それは子どもに見せるべきでない大人世界の“要領”だ。
「もしまたタオルを拾うことがあったら、今度は落とした人が見つけやすそうなところに置いておいてあげてね」
それでよかったのに。大人の都合で、子どものものを大切に思う気持ち、落とし主を思う優しい心をぺしゃんこにすることはないじゃあないか。
受話器を取りあげる前にほんの一瞬、子どもの頃を思い出してほしかった。たとえ十円でも拾ったら交番に届けなくっちゃ!と思っていた時代があったはずだ。
数日前の新聞で、男性教諭が算数の授業中に「七人で銀行強盗をして札束を山分けしたら二束足りません。そこで二人を殺しましたが、それでも二束足りません。札束は何束でしょう?」という問題を出し、厳重注意を受けたという記事をご覧になった方は多いと思う。その話を友人にしたところ、彼女は「それを言うなら、うちの子(小学二年生)の担任だってたいがいやで!」と声をあげた。
授業中に子どもから出た「ペットショップで売れないまま大きくなってしまった犬や猫はどうなるの?」という問いに、「海に流す」と答えたというのである。「かわいそう」と子どもが親に話したために事が発覚、四十代の男性教諭は冗談のつもりだったと保護者に謝罪したという。
なにを考えているのかわからない大人というのは新聞の中にしかいないというわけではなかったのだなあ。

ここで今日の日記を終えるとあまりにも哀しいので、スクラップブック(私は新聞で興味深い記事を見つけると切り抜いて取っておく習慣がある)の中から、ふた月ほど前に投書欄で見つけた文章を。

ひとりでに落ちたのか、心ない人に投げ捨てられたのか、川岸に猫の死がいがありました。多くの人の目に触れ、みんな気になっているようです。自分で処理する勇気がないので、市に処理してもらおうと電話をしました。
やがて市の河川課の方が来て、手際よくビニール袋に入れて見えないように箱の中に入れ、川から上がってきました。その様子を見ていた四、五歳の子供たちが「燃やすの」と尋ねると、職員は「お墓を作るんだよ」と答えていました。「そうか」と子供たちは納得し、安心して遊びに行きました。
実際は、生ゴミと同じ扱いなので、燃やすのだそうです。若い職員の心ある言葉、素早い対応をうれしく思いました。

(長崎県佐世保市・48才女性)


私はとっさにこんなふうに答えてあげられるだろうか。

【あとがき】
「銀行強盗をして札束を山分けしたら」「売れ残ったペットは海に流す」なんてまともな大人の発想だと思えない。こういう人が子どもにものを教える立場にいるなんて、とても不気味です。


2004年06月28日(月) 萎える理由

年上の友人が二ヶ月後の四十歳の誕生日を前に結婚相談所に入会した。
ホームヘルパーの仕事をしている彼女。ひとり暮らしのお年寄りを訪ね歩く中で、思うところがあったようだ。
「三十九っていうのと四十っていうのとでは印象がぜんぜん違うと思うねん」
と意気込みを見せ、先日もある男性と二度目のデートをしてきたばかり。その彼と初めて会ったときの報告を「外見も条件も悪くない。前向きに考えようと思ってる」と聞いていたので、私はてっきり今回で正式にお付き合いしましょうという話になったのだろうと思っていた。
が、彼女の表情がいまひとつ浮かない。
「私が神経質なんかもしれんねんけど……」
ひとつ引っかかる点があるのだという。タバコを吸わない彼女に「吸ってもいいですか?」と断ってくれるところまではよいのだが、吸い終わるとなんのためらいもなく地面に落とす。飲み終えたジュースの缶をベンチの足元に置き、「行きましょうか」と立ち上がる。一緒にいると楽しいし、仕事熱心そうだし、他に文句をつけるところはないのだけれど、彼女はそういうところが気になってしかたがない。
「普通のサラリーマンやったらここまで気にならんかったかもしれん。そのうち注意すればいいかと思ったかもしれん。けど彼、小学校の先生なんよ」
話を聞きながら、私は最近読んだ内館牧子さんの「別れる理由」というエッセイを思い出していた。内館さんの友人が恋人とドライブ中、彼が灰皿にぎっしり詰まっていた吸殻を窓から捨てたのを見て「この人とは結婚できない」と思った、という話だ。

女たちはたぶん、男が想像しているよりはるかに、公衆道徳に敏感なものである。好条件に目がくらんで結婚したとしても、そのマナーの悪さが結婚生活のストレスになることを予測している。

(『女は三角 男は四角』所収「別れる理由」 小学館文庫)


と内館さんは書いておられたが、まったくそのとおりだ。マナーの悪さは知性の欠如、それは生活のさまざまな場面で顔を出すだろう。一緒にいる者はそのたび恥ずかしい思いをし、ため息をつかねばならない。
彼は四十年近く、吸殻や空き缶のポイ捨てになんの疑問も抱くことなく生きてきた。いまさらたしなめられたところで、彼女の戸惑いは理解できないに違いない。私は「そんなのささいなことだよ」とは言えなかった。
恋人のそういうところに目をつぶりながらだましだましやってきたという記憶は私にはないが、ちょっといいなと思っていた男性とふたりで出かけ、彼の言動に気持ちがぷしゅーとしぼんでしまった経験は何度かある。
それはマナーの悪さ云々の話ではなく、美意識のようなものが自分とは違うことが判明したためだ。
そういう場面で、私ははしゃぎつつも男性のテンションの変化や店員への態度、食べ方などをわりと冷静に見ている。小洒落たイタリアンレストランで、ある男性は迷わず奥の席に腰掛けた。私はボーイさんに椅子を引いてもらって座ったが、カップルがずらりと並んだテーブル席でソファに座っている男性は彼ひとり。そんなことにはまったく気づかず、終始無邪気だった彼とはこの先もどうにかなることはないと確信した。また別の男性はタクシーで家まで送るよと言って私を感激させたが、自分の親ほどの年齢の運転手さんにタメ口で行き先を告げた。そのときも私はとても残念に思ったものだ。
なんて言ったら、そんなことくらいでがっかりするのかと驚かれてしまうだろうか。
たしかに私はそのあたりは少しシビアかもしれない。しかし、傍にいる人間の目に自分がどう映っているかに思いが至らない人に知性や色気を感じるのはむずかしい。

週末、夫と夕飯の買い物に行く。いつものようにスーパーの袋は私が持つ。
「ねえ、夫が手ぶらで奥さんが重そうな袋を持って歩いてるのって、傍から見たらすごいかっこわるい図やと思うんやけど」
私には、駐車場までの短い距離なんだからいいじゃないかという問題ではない。よせばいいのに、「昔からこうだったかなあ?」を思い浮かべ、私は頭を垂れる。

【あとがき】
レストランで奥のソファに座るとか、電車でひとつしか空いてない席に自分が座るとか、スーパーで袋がふたつみっつになったとき、どれが重い軽いということを考えずに手近にあるのを掴むとか。そういう男性には萎えます。


2004年06月25日(金) 「患者様」に思う

仕事帰りに立ち寄った百貨店で、こんな店内放送を聞いた。
「白いお靴をお履きになったリナちゃんとおっしゃる五歳のお子様がお母様をお探しになっておられます。お心当たりの方は一階サービスカウンターまでお越しください」
放送洪水”のおかげですっかりザルと化してしまった私の耳だが、この迷子アナウンスにだけはいつも敏感に反応する。それは私が子ども好きだから、ではなくて、呼び出しのフレーズが耳に引っかかるから。右から左へ、音声がスムーズに通り抜けてくれないのだ。五歳の子どもと「お履きになった」「お探しになっておられる」という言葉の組み合わせは不釣合いに思えてならない。
「白い靴を履いたリナちゃんという五歳の女の子がお母さんを探しています」
のほうがすっきりしてずっと感じが良いと思うのだが、「お客様は神様です」の国では客からクレームがつくのだろうか。
最近、男がすれ違いざまにベビーカーにタバコを投げ捨て、生後四ヶ月の赤ちゃんが軽い火傷をしたというニュースがあったが、偶然その場に居合わせたという中年の女性がテレビでそのときの様子を語っていた。
「赤ちゃんは泣いたりとかはなさってませんでした」
大人が敬語の使い方を知らないばかりに、世の中には「愛子さま」がいっぱいだ。

「さま」といえば、昨日同僚から面白い話を聞いた。
彼女が通っている歯科医院では、患者は「様」づけで呼ばれるのだそうだ。といっても、鈴木様、田中様、ではない。「患者様」と呼ばれるというのである。
「駐車場にも患者様用って書いてある」と彼女が言うのを聞きながら、そういえばと思い出したのは、少し前に読売新聞で読んだ記事。医療現場での「様呼び」について書かれたもので、「九十年代半ば頃から医療の質を向上させる取り組みの一環として、『患者さん』ではなく『患者様』と呼ぶ病院が増えてきた」とあった。
私はうーんと首をひねった。その言葉の不自然さ、「様」をつければ丁寧になるとでも思っているのだろうかという疑問もさることながら、もし自分が深刻な病気を抱えた患者であったらと考えたとき、医師や看護師に「患者様」と呼ばれることを歓迎するとは思えないからである。
耳慣れなくて、なんて理由ではない。過剰な敬意の表現は距離や壁を感じさせるものだ。不安も悩みも打ち明けたい、信頼関係を築きたいと思っている相手から「様」づけで呼ばれたら、一線を引かれている感じがして不安になるのではないか。気弱になっている患者が望むのは形だけの敬称などではなく、密なコミュニケーションと医師の「一緒に闘いましょう」という気持ちなのではないか。
そして、もうひとつの危惧。それは、「患者様」は患者に自分たちが「客」、すなわち営利の対象とみなされているような、媚びを売られているような印象を与えるのではないか、ということだ。
「医者は治療の技術を売って金を稼ぐ商売だ」と財前五郎は言った。たしかにそうだが、それを患者に感じさせてしまうのはどうか。
記事には「様呼び」を採用しているいくつかの病院のコメントが載っていた。
「医療現場もサービス業。これまでそういう認識がなかったのがおかしい」
「サービス精神を大切にし、一流ホテルのフロントのような対応を心がけています」
が、私はこれらに頷くことができなかった。
「金八先生」は現実にはいないとわかっていても、子どもの担任に「教師もやっぱりサラリーマンなんだなあ」を感じる瞬間があったら、やはり私はがっかりするだろう。それと似て、病院が「商売」であること、医師や看護師の中に「(患者に)サービスしている」というニュアンスは感じ取りたくない。それは「お金」を連想させるから。「先生」と呼ばれる立場の人には私たちが安心して頼れるよう、温かさと自信、そして奉仕の心を持っていてほしい----そんな思いが私の中にある。
病院は百貨店やホテルとはちがう。苦楽を分かち合い、ともに病気と闘う医師と患者のあいだで「様」は必要ない。やはり「患者さん」がいい。
……それに。「待ち三時間、診察三分」の不満の声が消えることはないし、最近は「ドクハラ(ドクターハラスメント)」なんて言葉も耳にする。そのあたりがちっとも改善されないのに「様」だけつけられてもね、と鼻白む人も現状では少なくないのではないだろうか。

【あとがき】
これも新聞のコラムに載っていたのですが、最近は百貨店やホテルで「ここにお名前様をお願いします」「お名前様をお伺いできますか」なんて言い方がされることもあるそうです。何にでも「お」や「様」をつければいいというものではないと思うのですけどね。


2004年06月18日(金) ヒトゴトじゃない

友人とカウンターに並んで食事をしていたときのこと。
グラスワインが回ったのか、彼女が「熱くなってきた」と言いながらカーディガンを脱いだのだが、そのタンクトップ姿を見て、私は小さな悲鳴をあげてしまった。あらわになった肩から二の腕にかけて、大きな焦げ茶色の斑点がびっしり並んでいたからである。
海が大好きで、毎年必ず南の島に出かける彼女。燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びながら青い水に浸かり、白い砂とたわむれる……を繰り返しているうちに、デコルテ一帯をそばかす畑にしてしまったのだ。
しかしながら、彼女に気にしている様子はまるでない。「恋人ができたらどうすんの」と愕然とする私とは対照的に、「できてしもたもんはしゃあないし」とのん気なものだ。
その大らかさに降参しつつ、私はふと、少し前に読んだ酒井順子さんのエッセイを思い出した。
「夏服の女性」というタイトルのそれは、
「知人の男性が、『夏は女性が綺麗になるからいいよねえ……』としみじみ言った。それは女性の露出度に関係しているのだろう。いままでコートやタイツで隠されていたものをやっと見ることができた喜びを、彼らは『綺麗になる』と表現するのだ。しかし、私はその反対だと思う。汗で化粧は崩れ、薄着のため脂肪やムダ毛が目につく。夏は女性が汚く見えるから、なんだか嫌だ」
という内容であった。
うん、酒井さんらしい、ヒネたというか可愛げに欠ける発想だ。そうつぶやいたあと、思わず苦笑い。私も同じようなことを感じていたからである。
色合いという点ではたしかに華やかになるけれど、夏服の薄い生地や露出度の高いデザインは、本来人様に見せるべきでないものまであらわにする。二の腕の肉が揺れ、肩からはブラジャーのストラップがのぞき、トップスの丈がますます短くなってローライズの背中からは下着どころかお尻の谷間が見えそうだ。
先日ショックだったのは、電車で座って本を読んでいたときのこと。ふと視線を上げ、私の前で吊り革を持って立っていたノースリーブを着た女性のワキが目に入った瞬間、絶句した。とっさに視線をそらし、そのあとは恥ずかしくて顔が上げられなかった。怒りのようなものまで込み上げてきて、「そういう服を着るときはちゃんと気をつけなさいよ!」と叫びたくなった。
いまとくに欲しいものはないけれど、もし三十万ポンとくれる人が現れたら、私はすぐさま永久脱毛に行く。こういうことに無頓着でいられる人が信じられない。
電車の中で出くわした光景に、当人に代わって羞恥を感じることはしばしばあるが、人前で化粧をする女とムダ毛に気づいていない女なら、私は同性として後者のほうが百倍恥ずかしい。
私たちのウィークポイントやだらしなさを容赦なく晒す、油断ならない季節だよ。夏が来るたび、そう思う。
街で見かける薄着の女性に「眼福、眼福」と目を細める男性は少なくないと思うが、その視線はぴったりしたニットの胸やミニスカートから伸びた足にしか行くことはないのか。背中のニキビやかかとの角質にげんなりすることはないのだろうか。

髪をバッサバッサとかきあげながらラーメンを食べている女性を見ると、「バレッタくらいバッグに入れときなさいよ」と思う私は、夏は髪をアップにしていることが多い。汗をかいた首すじにまとわりつくのが嫌だからなのはもちろんだが、カラーリングをしていない長い髪をおろしていると傍目にもうっとうしいだろうというのもある。
真夏に黒いストッキングを履いている人がいたら、見ているだけで汗が出そうだと思うだろう。気温だけでなく視覚的な暑さ、つまり「暑苦しさ」も周囲の人間の体温や不快指数を上昇させるのである。

近所のスーパーの肉売場には「おさかな天国」の肉バージョンの音楽が大音量、エンドレスでかかっている。
「にくにくにっく、にくにくにっく、にーくー大好きぃー♪」
夫はいつもこれが聞こえてくると、テープに合わせて口ずさみながら私の脇腹をムギュと掴むのだが、先日は歌詞を間違えた。
「にくにくにっく、にーくーつきすぎぃー♪」
暑苦しさがヒトゴトでないことを知った、週末の夕べ。

【あとがき】
私の職場は服装の規制がかなり緩いんですね。よってこの季節はノースリーブを着る女性もかなり多いのですが、私はいつもどきりとします。袖のある服を着ていたときにはまったく気にならなかったのにノースリーブになったとたんハッとするのは、二の腕のたくましさではなくバストの豊かさ。体がスリムだと胸が大きくても健康的でよいのだけれど、色白でむちむちした人だったりすると、女の私でさえなんとなく目のやり場に困ることがあります。いくら男性でも仕事中に「眼福、眼福」なんてやっている余裕はないだろうし、仕事しづらくてありがたくないんじゃないか?と思うんだけど、どうなんでしょうか。


2004年06月16日(水) 高嶺の花

先日、「大切な日記が明日もそこにあるとは限らない」という話を書いたところ、胸がきゅっとなるようなメールが届いた。
「当たり前にあると思ってたものが急になくなる感覚。サイトの世界ではとくにそれを感じます。自分では双方向だと信じていた、というか信じたかったけど、一方通行なんだなと感じました。それは切ない切ない瞬間でした」
読み手としてのキャリアは私もかなり長い。だから、この失望と寂しさは本当によくわかる。
事情があってのことなんだ、それにそんなの、初めからわかっていたことじゃないか……。そうつぶやきながら、書き手にとって自分たちが「手離すことのできる存在だった」ということにしっかり傷ついている。何度もコンタクトを取ったことがあり、親しく話せる間柄であると思っていた場合は、そのショックはさらに大きい。
彼、彼女にとって自分は大勢いる読者のひとりにすぎなかった、という事実。時折振り返って笑顔を見せてくれたのは、こちらが声をかけたからだったんだなあ。あれは“公”の顔。通じ合えたような気がしたのは、願望からくる錯覚だったんだ。
そういったことを読み手が思い知らされる場面のひとつが、突然の閉鎖だ。

読み手が書き手に憧れや敬意を抱くのはまれなことではないと思うが、それが高じて「別世界の人」のような存在に感じてしまうこともめずらしくなさそうだ。
ある男性日記書きさんは、初めましてのメールに返信すると決まって「返事が来るとは思ってませんでした」と驚かれるという。それは読み手が「返事などしそうにない人」とイメージしていたからではなく、人気のある書き手であるその人に「雲の上の人」的なものを感じていたからだろう。
冒頭のメールをくださった男性は、とても有名だったテキストサイトの書き手とメッセンジャーで話せたときのことを「信じられませんでしたよ。彼女は自分にとって芸能人みたいなものだったから」と言っておられた。
文章に惚れるという経験をしたことがない人は、「ずいぶんおおげさね。人気があるとか有名とか言ったって、所詮相手はシロウトじゃない」と笑うかもしれない。しかし、その天にも昇るような気持ちは私にはとてもよくわかる。
しかし、ここから悶々とする日々がはじまるのである。
「私(のメール)なんかが目に留まるわけがない」と思っていたら、思いがけない幸運に恵まれた。夢みたいとつぶやきながら、遠慮がちにお礼のメールを送る。するとまた返事が届く。うれしくてうれしくて、また感想を送る。返事が届く。やりとりを重ねるうちにプライベートな話やちょっとした軽口が出るようになり、私たちはいつしかこんなことを思いはじめる。
「もっと親しくなりたい。本音で話せるようになりたい」
しかし残念ながら、ほとんどの場合、それより先には進めない。読み手以上の存在であることを求められることはないからだ。どんなに真剣に望んでも、自分に光るもの----それはメールを送る頻度の高さでも文章のうまさでも熱意でもない----がなくては、懐の内にまで入ることはできない。「一読者」から「友人」になるのはとても、とてもむずかしいのだ。
「やっぱり手の届かない存在なんだなあ……」
自分がOne of themであることに納得し、その人を少し離れたところからまぶしく見つめているしかないというのは、本当に切ないものだ。

そして、読み手であると同時に書き手でもある私は、もうひとつ別の切なさも知っている。
「あの人はうちを読んでくれてはいないだろう」
この想像がおそらく外れていないことを思うとき、私はかなりシリアスに寂しくなる。

【あとがき】
高校生の頃、私はバレーボール部に所属していたのですが、練習試合で出会った二学年上の他校のキャプテンに憧れていたんですね。彼女が卒業する前に自分の存在をどうしても知ってほしくて、その学校の文化祭に出かけ、写真を一緒に撮ってもらいました。それは生徒手帳に入れて長いあいだ宝物にしていましたね。日記書きさんへ憧れも、自分にないものを持っていた彼女へのそれと同質のものでしょう。


2004年06月14日(月) 褒めてあげる。

先々週の週末は北海道にいた。
パソコンが使えないのに家にいてもつまらないからだ……ではもちろんなくて、夫が千歳で行われるマラソン大会に出場するので、沿道で旗を振るために機上の人になったのだ。
彼は毎年会社の同僚とこの大会に参加しているのだが、私が応援に駆けつけるのは初めて。というのも、今年はフルマラソンを走るからである。
ハーフに出た昨年は夜中の三時まで飲み、睡眠三時間で走ったらしいが、今年はそんな無茶はさせられない。しかし、「前の晩は二十二時には布団に入るように」と送り出したところで、学生時代の友人がわんさかいる土地で夫がそんな言いつけを守るわけがない。
うーむ、これは私が目付け役になるしかない。というわけで、ついて行くことにしたのだ。

当日の朝、スタート地点でロープの向こうにいる夫に言う。
「完走しようなんて思わなくていいからね。もうあかんって思ったら、いさぎよくあきらめるんよ」
無理をしてまで妻にいいところを見せようなんて考えないだろうとは思ったけれど、念のため。ふだんは休日に家の周辺を軽くランニングするくらいの人がぶっつけ本番で走るのだ、いくら心配してもしすぎることはない。
午前十時、ピストルの音と同時に二百人が一斉に走りはじめた。八千人が参加する大きな大会だが、フルに出場する人はさすがに少ない。
リタイアしたら、夫から預かっている携帯に連絡を入れてくれるよう言ってある。完走はまず無理だが、折り返し地点までは走るとして二時間はのんびりできるな。私は会場の周辺を散策したり、本を読んだりして過ごすことにした。
が、どうしたことか、三時間経っても電話が鳴らない。
「もしかしてまだ走ってるの?それとも……」
救急車が通るたび、あれに乗っているのではないかと胸をどきどきさせながら、着信を待った。リタイアを望んでいたわけではないけれど、一刻も早く無事の知らせを聞きたかったのだ。
しかしスタートして四時間後、うんともすんとも言わない携帯が彼が完走する気であることを私に教えた。
人を待つ時間の、なんと長く感じられることよ。状況がわからないというのは、人をこんなにも不安にさせるのか。ランナーたちが倒れ込むようにゴールゲートに入ってくるのを拍手で迎えながら、数百メートル向こうのコーナーに夫の姿が現れるのを待った。
そして五時間を過ぎた頃、見覚えのあるウェアが目に飛び込んできたとき、私は思わず名前を叫んだ。
小さな子どもたちはパパの姿が見えると道路に飛び出していき、手をつないでゴールしたりしているが、まさか私がそんなことをするわけにはいかない。人ごみをかきわけながら沿道を逆走し、何十メートルか手前からゴールまで並走した。
この人のこんなに苦しそうな顔を見たのは初めてだと思ったら、ぽろりと涙がこぼれた。

「まったく無理をして……」と目を潤ませる私とは対照的に、夫はサービスのじゃがバターを頬張りながらケロリとした顔で言う。
「もうね、途中でおなかが空いて、空いて!」
ランナーにとって大きな楽しみが給水ポイント。バナナやおにぎり、カロリーメイトなどが置いてあり、彼は立ち寄るたびにそれらをもりもり食べていたのだが、折り返しを過ぎたあたりで順位がぐっと落ちてしまった。そのため、以降のポイントではたどり着いたときにはフードはすでに食い尽くされ、スポーツドリンクも切れているという有り様。水、それもずいぶんぬるくなったものしかなく、がっくりした夫は後半とぼとぼと走ってきたのだそうだ。
走っているあいだはつらくて苦しいだけだろうと思っていたが、そんな楽しみを見つけていたのかと、ちょっぴり安堵する私。へええ、給水ポイントにバナナかあ。チョコバナナみたいに棒に刺してあるのかしらん。
「来年は私も走ってもいいよ。三キロの部だったら」
「言っとくけど、三キロに給水ポイントはないよ」
「……。」
どうやら来年は十キロを走ることになりそうだ。

【あとがき】
その後、小樽にお寿司を食べに行きました。もちろん回らないやつよ。たらふく食べて、しかも私なんてウニ丼二杯も食べたのに、ふたりで八千円。や、安い!食べ物が美味しい土地っていいよねえ。だから北海道大好き。


2004年06月12日(土) 「明日も読める」保証はどこにもないから

八日ぶりにメールボックスを開いて、驚いた。感激のあまり、しばらく言葉が出てこなかった。「更新が止まっているので心配しています」というメッセージがいくつも届いていたからだ。
月・水・金の朝九時ごろ。その判で押したような私の更新ペースを知っている何人かの方は、あるべき更新が二回飛んだ時点で「なにかあったな」とぴんときて、気をもんでくださっていたのだ。
結局、三回更新を休んだのだが、その間に留守電に吹き込むかのように何度もメッセージを送ってくれていた方もいて、私はもう少しでぽろりとやってしまうところだった。
テキストが「前編」のまま放置されていた不自然さも一因だったろうと思うが、こんなに早い段階で“異変”に気づいてくれたなんて、と胸が熱くなった。
と同時に、「大したことがなければよいのですが」「書くのに疲れたのなら、ゆっくり休んで」といった優しい言葉の前に、居たたまれなくなる私。そんな、そんなシリアスなことじゃないのよー。
あわててキーボードを叩く。
「心配かけてほんとにごめんなさい!事故に遭ったわけでも身内に不幸があったわけでもなくて、実はパソコンが壊れてたんです……」

私は今回のことで思い知った。モニターのこちらとあちらのつながりというのが、なんとひ弱でデリケートなものであるかを。
私はぴんぴんしているよ!といの一番にメールを送った友人が、「よかった、生きていて」と言ってくれたのだけれど、これはあながち冗談ではない。
自宅のパソコンが故障し、ひとたびメールの送受信やサイトの更新が不可能になると、モニターの向こう側の人たちに生きていることを伝えることすらできなくなるのだ、と私は知った。職場でネットができないことをどんなに恨めしく思ったか。
そして私にも、連絡を待つ立場で「一体なにがあったのだろう」とやきもきした覚えは何度かある。
仕事でトラブルが起こったのだろうか、それとも不幸があったのか。まさか病気になって入院したなんてことは……。
こういうとき、日記どころではなくなった理由にハッピーな想像はひとつも浮かばないからつらい。「ほかに楽しい趣味を見つけたのかも」とつぶやいてみようとするが、うまくいかない。
これからもずっと読ませてもらえるものだと思っていた。この日々がいつまでもつづくと思い込んでいた。しかし、いまが旬のサイトであろうと、何年もつづいているサイトであろうと、「明日も読める」保証は実はどこにもなかったのだ。

少し前、友人とメッセンジャーで話していたら、ある懐かしい日記書きさんの名が出た。わりと目立つ存在だったが、なにがあったのか突然サイトを閉じ、ふっつりと姿を消した女性だ。
あれから噂もまったく聞かないけれど、どうしているのだろう。
「また日記書いてるみたいだよ。ハンドルも変えて、リンク集とかにも登録してないらしいけど」
やっぱりなあ。書くことの魅力を知っている人はこの世界からそうあっさり足を洗えやしない。
新しい日記は誰かに聞けばすぐに見つかるだろう。だけど、そんなふうに探したりはしない。日記との出会いは人との出会い。縁があるなら、またどこかで出会える。
日記サイトは星の数ほどあるけれど、代わりのきかない存在がある。最終更新日がどれだけ遠ざかろうと、私の中で居場所は変わらない。オンリーワンとはそういうもの。
ちゃんと、元気でいてくれてますか。

【あとがき】
私が日記をやめるときは、まる一日分の日記を使って感謝の気持ちとか思い出とか語るだろうなあ。お世話になった人たちには別れを惜しむメールも送るでしょう、いま手の中にあるつながりの多くは私が書き手であるからこそ成り立っている関係だと思うから。で、いつかまた日記を書きたいと思うようになったときは、まったく別人としてゼロから始めるような気がします。小町さんであったことは誰にも言わないで。


2004年06月10日(木) 私たちに人が裁けるか(後編)

私が「国民の参加によって、公正でより納得のいく裁判を」を楽観視できないのは、この日本に「人を裁く」資質を持った人が無作為抽出が可能なほど大勢いるとはどうしても思えないからだ。
ひとつは、「一般人に事実認定能力があるのか」という疑問。
私たちが関わることになるのは法定刑に死刑か無期懲役を含む事件、あるいは故意の犯罪で人を死亡させた事件。つまり、重大な刑事事件について有罪か無罪か、刑罰の内容を判断しなくてはならないのだ。
その方法は裁判官三人と裁判員六人による多数決。それは一票の重さが職業裁判官のそれとまったく同じであることを意味する。
だから、私は恐ろしい。なんの訓練も受けていない人間にその証言が信用できるものであるかそうでないかを見分ける力があるだろうか。有罪者を見逃さず、無実の人を罰さない、そんなことが可能なのだろうか。
十二人の陪審員によって無実の罪でショーシャンク刑務所に送られたアンディ・デュフレーンを私たちは生み出さない、と言えるか。
イメージしてほしい。ある日、あなたの自宅に裁判所から一通の手紙が届く。開封して驚いた。
「このたび、あなたは和歌山・毒物カレー事件の公判の裁判員に選ばれました。つきましては○月○日に△△裁判所に出頭願います」
と書いてあるではないか。
あなたはもちろんその事件を知っている。「林真須美」という女性が近隣の住人ともめていたこと、彼女の自宅の台所の排水溝からヒ素反応が出たこと、夫やマージャン仲間に多額の保険金を掛けていたこと。彼女が笑みを浮かべながら報道陣にホースで水を浴びせたり、カメラを取りあげたりする姿をワイドショーで見、性格の異常性を感じたこともある。だから、逮捕されたときも「やっぱりな」とつぶやいたものだ。
しかし、その公判の裁判員に選ばれた。
さて、あなたはその先入観と偏見を一切消し去ることができるだろうか。ここまでさんざん「容疑者」が真犯人であることを前提とした報道に晒されてきたけれど、真っ白な心で彼女の「私はこの事件には関係しておりません」を聞くことができるだろうか。
そして、もうひとつの疑問。それは「私たちに量刑についての適正な判断が下せるのか」ということだ。
罪は法によってのみ裁かれねばならず、私情をはさむことは許されない。被害者の心情を汲んで刑を重くすることはできないのだ。しかし、それがどれほどむずかしいことであるか。
日本は義理人情の社会だと言われている。「加害者の人権が守られすぎている」という声は事件が起こるたびに聞かれるし、私たちが被害者やその家族の痛みに敏感で感情移入しやすいことは、以前「フォーカス」アンケートをしたときに実感した。
この「情の厚さ」は日本人の良さであるが、裁判員制度の施行においては不安材料になる。それは「感情に流されやすく、論理的思考を得意としない」と言い換えることができるからだ。
あるいは逆に。身代金目的の誘拐事件や放火殺人事件も対象になるため、極刑に値すると思われる事件の裁判員に当たる可能性がある。そのとき、私たちは毅然とその意思表示をすることができるだろうか。
金銭(罰金)や自由(懲役)ならまだしも、命を奪うことになる決断をする勇気を持てるか。そのプレッシャーは生半可なものではないだろう。千分の一でも百分の一でもない、「死をもって償うべし」とする九分の一を担う覚悟ができるか。あなたなら「損なわれた正義を回復する」という使命を果たすことができそうか。
感情でなく法で人を裁ける自信は、私にはない。ゆえに、自分が“素人”に裁かれることにも恐怖を感じる。
それに、「面倒くせえなあ、なんで俺がこんなこと」「早く終わらせて帰りたい」なんて考える人が裁判員に選ばれないとも限らないではないか。
主要八か国の中で、国民が司法に参加できない国は日本だけだという。
しかし、「国民性」という名の土壌がちがう。個性より協調が尊ばれ、みなと同じであることを求められる中で育ってきた私たちは自己主張が苦手だし、議論も下手だ。法意識も低い。
そんな、なんの基盤もないところに「外国でやっているのだから我々にもできるはずだ」とひょいと制度を持ってきて、はたしてうまく動作するのだろうか。
私はこれは日本人には向かない制度である気がしてならないのだ。

ところで、「和をもって尊しとなす」に当たる言葉は欧米にあるのだろうか。

【あとがき】
諸外国でもやっていることだというけれど、「そういう制度がある」と「あるべき姿で機能している」とはまったく違います。アメリカでは被告が陪審裁判か、(日本の裁判と同じ)職業裁判官による裁判かを選べるのですが、「無実なら陪審員を選べ、有罪なら裁判官を選べ」という言葉があるそうです。陪審員制度が後者で存在できているかどうかはかなり疑問です。


2004年06月02日(水) 私たちに人が裁けるか(前編)

朝刊の投書欄に四十代の男性が書いたこんな文章を見つけた。

このたび裁判員法が成立し、二〇〇九年までに裁判員制度がスタートすることが決まったが、制度に対する企業の関心は薄く、我々会社員の不安は募る。「裁判員休暇制度」導入を訴える声もあるが、まったく同感だ。
裁判員に選ばれ、休業を余儀なくされた社員が勤務先で不当な扱いや精神的苦痛を受けるのを防ぐために、国は雇い主や上司に対し、そうした措置を行わないよう働きかける責務がある。裁判員を国民の義務とするなら、我々が安心して裁判に参加できる環境を作ってもらいたい。


私はまるで張子の虎のように大きくうなづきながら、これを読んだ。まさに同じことを考えていたところだったのだ。
二十歳以上七十歳未満の国民から無作為に選ばれた「裁判員」が殺人などの重大な刑事事件を裁判官とともに審理し、有罪か無罪か、量刑について判決を下す----それが「裁判員制度」だ。
各公判の審理は裁判官三人、裁判員六人で行われる。アメリカの陪審制では被告の有罪、無罪を判定するのが陪審員、それを受けて量刑を決定するのが裁判官という役割分担があるが、日本の裁判員制度はそのどちらもを九人が多数決で決める。すなわち、評議・評決にあたっての両者の権限はまったく対等ということだ。
この制度の対象になりうる刑事事件は年間約二千八百件。よって、一生のうちで一度以上裁判員を務めることになるのは六十七人に一人という計算になる。この数字をどう見るかはそれぞれだろう。が、私にとっては「自分には関係ないや」と無関心でいられるほどには低い確率ではない。
五年以内に制度導入というニュースを聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは「出頭要請を受けて、ハイ、そうですかと応じられる人が世の中にどれだけいるだろう?」ということだ。
たとえば会社員。裁判員は国民の義務だから、「仕事が忙しい」という理由での辞退は認められない。しかし、三十八度の熱があっても這ってでも会社に行く彼らが「明日裁判なんで、休ませてもらいます」と上司に言えるものだろうか。言ったところで会社は快く送り出してくれるだろうか。
審理に必要な日数は公判によってまちまちだ。数日で済むこともあれば、長期に渡ることもある。その間、交通費と日当(額未定)は支給されるが、休業補償はない。アメリカでは企業が陪審員になった社員の給与補償を行っているというが、それは日本でも可能なのだろうか。
年間二万五千人が裁判員を務めることになる。取引先との商談を代理の者に頼んだら契約がまとまらなかった、稼ぎどきに留守にしたため自営の売り上げに響いた、といったケースが出てくることは想像に難くない。義務を先送りできる延期制度も検討する必要があるのではないだろうか。
国が「事業主は裁判員に選ばれた社員の休業による不利益な扱いを禁止する」についての現実に即した具体策を提示しないかぎり、裁判員に選ばれることは会社員にとって「招かれざる負担」にしかなり得ないのではないか。
会社側が「この忙しいときに傍迷惑な」という認識でいるかぎり、それを名誉ある権利として受け止めることはむずかしいだろう。

国会議員や自治体の長を選挙で選ぶのと同じように、司法の領域にも国民が参加してこそ真の民主主義国家と言える、という考え方がある。
また、裁判官が世間知らずだというのはよく言われることであるし(勉強に明け暮れる学生時代を送り、会社勤めの経験ももちろんない。“法の番人”として生きると決めてからは社交関係まで限定されるのだから、無理もない)、「週刊文春」の出版禁止処分をめぐって「業界や言論というものにあまりにも無知な裁判官による、ひとりよがりの判決」という怒りの声が噴出したことも記憶に新しい。
裁判員制度はこれまでお上任せにしてきた“社会の正義”を回復する役割を国民自らが担い、その価値観と常識を反映させることでより納得のいく裁判を実現させようというものだ。その理念は十分理解できる。
しかしながら、私はこの制度が意義のあるものになるかどうかについては懐疑的である。上に書いた「国民が裁判に参加しやすい環境整備ができるのか」うんぬんの話ではない。私はもっとずっと根本的なところで引っかかっている。
それは、あまりにも素朴な疑問。「はたして私たちに人を裁くことができるのだろうか」ということだ。 (後編につづく)

【あとがき】
私のまわりには裁判員制度についてほとんど知らない人が少なくありません。先日会った友人は「なにそれ、聞いたことない」と言っていたし(新聞をとっていないから当然か)、病気療養中とか介護、育児でどうしても家を空けられない人以外は辞退できないんだよと言ったら、「そんなことで仕事休めるわけないやん」と一言。そう、“そんなこと”という認識の人が現時点では大半なのではないかと思います。国はまず国民のその意識の啓蒙から……いや、その前に制度の周知徹底から始めなければならないでしょう。