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2004年01月30日(金) 賽の河原に石を積むような

渡辺淳一さんのエッセイの中に、「自分は編集者泣かせの作家である」というくだりを見つけた。担当編集者から「渡辺さんの原稿は手直しが多い」とよく言われる。最初から完成度の高い原稿を渡せばよいことはわかっているのだが、書き終えてすぐは推敲する気になれず、そのまま編集者に渡してしまうためだ……という内容である。
結果、手書きの原稿をゲラ(仮刷り)にし、その後決定稿にするまでの間に毎回かなりの訂正を繰り返すことになるのであるが、それについて渡辺さんは「自分の字で原稿用紙に書いたものと活字になったものとでは雰囲気が違い、さらにきちんと印刷して組まれるとまた様子が変わり、その都度直したくなるのだ」と“言い訳”している。
それを読み、私は思わず「わかるなあ、それ!」と声をあげた。プロの作家と同じだと思うなんて図々しいにもほどがあるが、それはちょいと横に置いておき、私も手直しのものすごく多い日記書きである。えっへん。
私はまずワードで下書きをする。いつもだいたい一ページ半、文字数にして約二千字。二ページを超えたときは前編と後編に分ける。
たいていの人はパソコンに向かう前にその日何を書くか決めていることだろうと思うが、私もまたあらかじめキーになる言葉や挿話をテキストに挿入する順に頭の中に並べておく。私は自分のテキストをそのいくつもの“点”を結んでできた多角形だとイメージしている。下書きの段階ではそれはずいぶんいびつな形をしているが気にせず、夜のうちにとにかく最後まで書いてしまう。
そして翌朝、その粗削りなテキストの角を取るべく紙やすりをかけていく。「ごつごつ」具合が許せるレベルになったところでテキストをホームページ作成ソフトに移す。プレビューで実際にモニターに表示される姿を確認しながら改行などを加えていき、ようやく完成という流れだ。
渡辺さんの「書き上げたら読み返すことなしに編集者に渡してしまう」というのは、私がワードの下書き状態のテキストをアップするのと近いのかもしれない。
こんなことを言うのは「私はひま人です」と宣伝するようなもので恥ずかしいのだけれど、推敲という作業には毎回かなりのエネルギーを費す。時間の配分では下書き7に推敲3というところだろうか。
長文を読ませようとするなら、「できるだけ読みやすく」の部分に心を砕くのは当然だ。昨年末に開いたオフ会の席で参加者から「テキストがどんどん長くなってきてますね」と指摘され、うなだれた私。でも短くできないかわりにこういう形でめいいっぱい気を遣っているのよ……。
しかしここまでしても、アップしたばかりのそれをリンク集から飛んで読み返してみると、気にいらない点がぼこぼこ出てくるのだ。ついさっきまで、これでよしと思っていたはずなのに。しかたなくがしがし手直ししていく。が、悲しいかな、仕事から帰って読み返すとまた新たな不具合が見つかるのである。
ああ、まるで賽の河原に石を積んでいるみたい……といつも思う。
そういえば私はテストのとき、終了のチャイムが鳴る瞬間まで答案用紙を見直している子どもであった。

日記書きの友人と深夜にメッセンジャーで話をしていたときのこと。
私が「今日は日記書きがお休みだから気が楽だわ」と言ったら、書く日と書かない日を決めているの?とずいぶん驚かれてしまった。
私は更新を月・水・金の朝にすると決めている。月・木とか火・金だとなんだかゴミの日みたい。なので週三日。その日はいただいたメールに返信をするくらいでのんびりし、次の日の夜は新しい下書きをするというルーティンだ。
隔日更新。これは比較的無理が少なく、長文書きの私に適したペースだといえる。ネタもないのに書こうとすれば質が落ちるのは必至だし、それよりなにより遅筆な私が毎日そんなことをしていたら日記廃人になってしまう。
作家のエッセイには締め切りに追われてカンヅメになっているとか、徹夜して何十枚書き上げたといった話がよく登場するけれど、読んでいるだけでこちらまで疲労が伝染しそうだ。
こんな私が毎日更新なんて縛りを自分に課してしまったら、プレッシャーで続かなくなるのは目に見えている。よって書けない日は早々にあきらめるし、「さぼった」という気持ちになることももちろんない。
更新報告が午後にずれ込んでいたり、「今週はゴミの日更新になってる」と気づくことがあったら。下書きの出来が悲惨だったんだなと……いやいや、苦労したんだなと思って心して読んでいただきたい。
お。今日は八時台に更新できそうだ。

【あとがき】
というわけで、手直しするたび、はてなアンテナからお越しの方には申し訳ないなあと思っているのですよ。あれはたった一文字直しただけでもリストの最上にあがってしまうものだから。果物の缶詰は作ってから一年くらいたったものが味がしみて美味しいというけれど、この日記もアップ後一日経過したくらいが読みどきかもしれません。


2004年01月28日(水) 寸止めの恋

先日、古賀潤一郎氏の学歴詐称について書いたところ、ある日記書きさんからメッセージをいただき、彼が二十代の頃にアメリカに留学していたことを知った。
青春時代をあちらで過ごしたと聞いて黙っている小町さんではない。私はすぐさま、「ということは、やっぱり青い瞳の女性との恋もあったのかしらん……ウフフ」と返信した。
それはほとんど冗談だった。その方(Aさんとしておこう)の写真を拝見したことがあるのだけれど、「実直」「誠実」といった言葉がぴったりの、日本男児な風貌をしておられる。学生時代、柔道で全国大会に出場したことがあるとも聞いている。そんなAさんがブロンド美女の腰を抱きつつストリートを歩く姿を、私はうまくイメージすることができなかったのだ。
しかし次の日、Aさんから一通のメールが。そこにはそれは素敵な恋物語が綴られていた。

「経営学修士(MBA)を取得してくるように」という会社の命令で、Aさんが渡米したのは二十六歳のとき。ニューヨークの大学院に入ってまもなく、たまたま参加したNPOのプログラムで三歳年下のジェニーと出会う。
ふたりが親しくなるのにそう時間はかからなかった。英語で話さなくてはならないのが苦痛で大嫌いだった電話はいつしか心躍るものに変わっていた。アメリカ生活が二年目に入る頃には、ジェニーの喜ぶ顔を見て幸せを感じる自分がいることに気づいていた。
しかし、Aさんはその気持ちを表に出すことはできなかった。なぜなら、日本に婚約者を残してきていたから。
「僕の帰りを待っている人がいるんだから……」
二年間の留学生活は無事終了。帰国が目前に迫ったある日、Aさんは勇気を出してジェニーをデートに誘った。ディナーの席で日本の風景がたくさん載った写真集をプレゼント。その中には故郷、岩国の錦帯橋の写真もあった。「Forget me not.」を彼女に強く伝えたかったのだ。
そして別れ際。アッパーウエストサイドの歩道の上で、ふたりは初めて唇のキスを交わした。いつものハグではなく。

ぐっときたのは、なんといっても最後のシーンだ。

あの時、彼女も間違いなく僕を抱きしめて離さなかった。お互いけっして「I love you.」を口にすることはなかったけれど。


互いに互いの気持ちに気づいていながら、「愛してる」を口にせぬまま別れるのだ。相手の人生を思い、尊重するがゆえに。
二年もそばにいながら、プラトニックラブで終わる----これはなかなかできることではないのではないだろうか。私は「うん、ふたりともよく堪えた、よく踏みとどまった」と、健闘を称えるような気持ちでつぶやいていた。

こういう話を聞くと、本当にすごいなあと思う。というのは、私は恋愛において気持ちの「寸止め」というやつができないからだ。
「好き」「会いたい」といった気持ちを長く胸の中に押し込めておくのは苦しくてたまらない。お付き合いした男性のうち半分は(業を煮やして)こちらから告白した人であるし、一緒にいられるようになってからはなおのこと感情に正直でいたがった。八分目にしておくのがよいのは胃袋だけではないと知りつつも、「ここはちょっと引いたほうが得策だ」と頭では理解しつつも、気持ちを出し惜しみすることができない。積極的とか素直とかいうより、堪え性がないというべきだろう。
いい年をした大人なのだから、感情のバルブをつねに全開にしておくのではなく、時と場合によって締めたり緩めたりして供給量を調節することを覚えなくっちゃ。そう思ってはいるのだけれど、なかなかうまくいかない。
「君の心がどこにあるかわからなくて不安だよ」
なんてセリフ、一生に一度くらい言われてみたいものだが、私にはちょっとむずかしいかもしれない。

寸止めの恋。あまりにも素敵なエピソードだったので、うらやましかったのだろうか。「ニューヨーク恋物語」を読み終えたところで、私はAさんにちょっぴりイジワルな質問をしたくなった。
「でももし留学期間があと一年長かったら……どうなってました?」
すると。
「婚約者を呼んで、アメリカで結婚式をあげてたと思います」
ハイ、小町さん、完敗です。

【あとがき】
手持ちのカードをすべて出さずにいられない、この性分は書く文章にもよく表れています。たとえばこの日記。胸の中にあるものを残らずアウトプットしたがるため、私の文章は長いだけでなく、読み手に想像の余地を残さぬほど過保護ですね。
ちなみに、Aさんはご自分のサイトでこの話を公開しておられません。なぜかというと、アップする前に奥様にサイトバレしてしまったからだそうで。なるほど、たしかにちょっぴりマズイかもしれませんね。いや、どうだろう?当時ならともかく、十数年たった今なら最後のキスも苦笑して許してくれそうな気もしますが……甘いかなあ。


2004年01月26日(月) 「0」と「1」の差

「テストで九十九点を取った人と百点を取った人がいるとすると、ふたりの差は単に一点っていうだけではないんだよ」
小学生の頃、母からこんな話をされたことがある。
え、「一点」以外の違いが存在するってどういうこと?意味がわからず訊き返した。
「百点の人はこの先もずっと満点を取りつづける(実力を持っている人である)可能性があるけど、九十九点の人はそうではない。わかる?」
まだピンときていない私の顔を見て、母はたとえ話を探した。
「ここにイチゴが五個ずつ入った皿がふたつある。一個残した人と全部食べた人。その一皿で見れば違いは一個だけど、もしもう一皿あったとしたら?四個しか食べなかった人はもう食べられないけど、全部食べた人はもしかしたらまた平らげるかもしれない。さらに一皿あったら、それも食べちゃうかもしれない」
ここまで聞いて、娘の顔がぱっと輝いた。その「1」は単なる一個の違いではなく、可能性が「尽きている(0)」か「まだ残っている(1)」かの違いでもある。うん、この差は大きい。
以来、私はいろいろな場面で、いま自分が置かれているこの状況はある事柄に対して0であるか1であるかということを考えるようになった。

私たちは一生のうちにいったいいくつの別れを経験するのだろう。
失恋や死によってもたらされるような大きな別れはそう度々訪れるものではないけれど、卒業や退職で一気に何十、いやそれ以上の数の知り合いと「これっきり」になってしまうことはちょくちょくある。もっとささやかなレベルの喪失となると、私たちはかなりの頻度で立ち会っているはずである。
先日、風太さんの『BOKUNCHI』を訪ねた私はもう少しでキーボードを涙浸しにしてしまうところであった。
一月二十四日付の「空家になったホームページ」というタイトルのテキストだ。大切なサイトを閉鎖という形で失った寂しさを書いたものであるが、私にも代わりのきかない存在があるから、気持ちは本当によくわかる。たとえいまが旬のサイトだとしても、何年もつづいているサイトだとしても、「明日も読める」という保証はどこにもないのだ。
以前、日記サイトの寿命について考えたことがある。そのとき私は「半数は立ち上げて二年持たない」と書き、実際にこの手の別れをしばしば味わっている。
「日記」というテキストの性格上、それと書き手を切り離すことはむずかしい。何度経験しても慣れることがないのは、こんなにもせつないのは、それが文章という「モノ」ではなく「人」との別れだからであろう。

同じ空の下に息づくあなたに心からありがとう。いつまでもお元気で。
そしていつかどこかでまた会いましょう。星の数ほど存在するHPの中で偶然に出会ったあの時のように……

1月24日付 「空家になったホームページ」


ああ、本当に。
だけど、私たちはそれが叶わないであろうことを知っている。またの偶然を望むにはこの空はあまりにも広すぎる。
「サイトが見つかりません」が表示されたとき。メールが宛先不明で舞い戻ってきたとき。私はいよいよ「0」を感じて、泣きたくなる。

※参照過去ログ 2003年8月6日付 「日記サイトの寿命

【あとがき】
「ホームページ」とはうまく言ったもので、更新の途絶えたサイトはまさに「空家」を髣髴させます。家屋は人が住んでいないと傷んでしまうというけれど、主を失い、来客のなくなったサイトも同じ。最終更新日は毎日確実に遠ざかり、何度訪ねてももう明かりが灯っていることはない。とてもとてもせつない情景です。


2004年01月23日(金) 自分の居場所

民主党の古賀潤一郎衆議院議員の学歴詐称疑惑が巷を賑わせている。
米カリフォルニア州ペパーダイン大学は二十日、「古賀氏は在籍していたが、学位は与えていない。学生だったが卒業生ではない」と正式発表したが、「ほーら、やっぱり」という感じだ。
この数日前に古賀氏が「(卒業)証書は受け取っている。それをもって卒業したと認識している」「証書はアメリカに置いてきた」と話しているのをテレビで見、こりゃあ間違いないなと思っていた。実際に卒業していたら、「私自身はそう認識している」なんて言い方をするものか。渡米も「自分は今日までそう信じていた」をアピールするためのポーズであろう。
有名人の学歴詐称が発覚するたび、「まったくいじましいことをするものだ」と思っていたが、古賀氏のそれも相当みっともない。なんといっても、その「嘘」のスケールの小ささ、地味さ。ペパーダイン大学?今回のことがなければ、ほとんどの日本人はその名称を一生耳にすることがなかったに違いない。
金持ちの子弟が通う大学らしいが、日本での知名度はきわめて低く、私たちは「聞いたことのない、あちらの大学」という印象しか抱けない。卒業したと言われても、せいぜい「じゃあ英語しゃべれるのね」くらいのものである。公職選挙法違反で信用失墜、議員辞職というリスクを冒してまでそれを掲げるメリットがあったとは思えず、それがさらなる嘲笑を招いている。野村サッチーの「コロンビア大学卒」くらい派手にやってくれていれば、その厚顔に拍手のひとつも送ろうというものだが、インパクトゼロの大学ではこちらもどうしようもない。
お金を積めばたいていのものは手に入る世の中だが、学歴はどうにもならないのだなあとつくづく思う。
企業の社長自らが自社製品をPRする広告のチラシを見ていると、プロフィールの欄に「○○高校卒業後、早稲田大学受験に失敗し……」なんて一文を見つけることがある。
日本の大学は出るより入るほうがずっと難しいから、「中退」であれば「へえ、入れたことは入れたんだ」ということで彼の経歴として受け入れることができるが、「受験に失敗」を臆面もなく書いてしまうセンスはいかがなものか。「運悪く不合格になっちゃったけど、そのくらいのあたまはあったんだ」を伝えたいというのが見え見えで、潔くない。ここで無名の大学を挙げている人がいないのは言うまでもない。
将来有名になろうという野心を持っており、かつ自分は見栄っ張りだという自覚がある人は、若いうちに苦労して見映えのよい大学を卒業しておくべきだろう。

ところで、こういう話を聞くと思わずにいられないことがある。等身大の自分でいられることの幸福について、だ。
長くサイトをやっていると、「会いたい」と言ってもらえることがたまにある。光栄だなあと胸にじいんとくるが、とくに過去にお目にかかったことのある人から言われたときの喜びはひとしおである。
なぜなら、「ありのままの私」にOKが出たということだから。「どんな人が書いているんだろう」と興味を持ってもらえるのももちろんうれしい。が、文章だけでなく外見や物腰や人となりといったものを了解したうえでの「また会いたい」は、私を心底安堵させる。
古賀氏はプロフィールの中で、問題となっているペパーダイン大学のほかにUCLAの名も挙げているが、こちらは在籍の記録自体がないことが判明している。これについて彼は「大学の略称を誤って記載していた。ただの勘違いだ」と説明しているが、涙なしには聞けぬほどお粗末な言い訳である。また、テニスの「西海岸大学選手権優勝」についても主催者側はそんな事実はないと主張している。
これらの経歴詐称が本人の考えによるものなのか誰かの入れ知恵によるものなのかはわからないが、いずれにせよそれを掲げて総選挙に出たのだから、彼自身「等身大の自分では通用しない。下駄を履かせる必要がある」と認識していたということである。これは実にみじめで哀しいことではないだろうか。
本来の自分では受け入れられないとするならば、そこは自分のいるべき空間ではないのかもしれない。住む世界ではないのかもしれない。これはあらゆる人間関係について言えることである。
「ああ、自分らしくいられてないなあ……」と思ったら。そこが本当に自分の居場所かどうか、見つめなおす必要があるような気がする。

【あとがき】古賀氏の公式サイトのプロフィール、テキストをアップする前まで「UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)」となっていたところが、さっき見たら「CSULA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)」に変わっていました。「略称を間違えただけ」って……ぜんぜん違うやん。


2004年01月16日(金) 来世ではなく、今生で。

大阪・キタの曽根崎に露天神社(つゆてんじんじゃ)、通称「お初天神」という小さな神社がある。
地名を聞いてピンときた方もおられるかもしれない。そう、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』の舞台となったところだ。元禄十六年に天神の森で実際に起こった心中事件をもとに書かれたのである。
先日近くを通りかかったので、ぶらりと境内を歩いてきた。

堂島新地の遊女「お初」と醤油屋の手代「徳兵衛」は深く愛し合う仲だったが、徳兵衛に主人の妻の姪との縁談が持ち上がる。この話を断った徳兵衛は主人の逆鱗に触れ、大阪追放と徳兵衛の継母が主人から受け取っていた持参金の返却を求められる。
が、その金を友人の九平次に騙し取られ、窮地に立たされた徳兵衛は死を決意する。お初も愛する男と運命を共にすることを望み、ふたりは曽根崎の天神の森で抱え帯でからだをひとつに縛り、心中する。


恋に殉じたお初と徳兵衛は「恋の手本」と謳われ、露天神社の境内には恋の成就を祈願する絵馬がたくさんかけられている。
しかしながら、私はどうしても腑に落ちなかった。どうしてここで恋の願掛けをする気になるのだろう。たしかに彼らの純愛には胸を打たれる。が、今生では結ばれなかったふたりなのである。かわいそうになあと思いこそすれ、彼らにあやかろうという気には私はならない。
世間からはとうてい認められることのない遊女と商人の恋。過酷な時代を生きた彼らに「生きてさえいればいいこともあったかもしれないのに」なんて言うつもりはない。「死ぬ気になればなんだってできたのでは」なんて言えるはずがない。ふたりにはそれしかなかったのだろう。
しかし、たとえそうであっても、死んでしまったらおしまいであることに違いはない。私は長いこと、「あの世に行かなきゃ結ばれないなんて縁起でもない」とさえ思っていたのである。

しかし、その思いはいつしか私の中で変化していた。心中、それはふたりが選び取ることができた中でもっとも幸福な「生き方」だったのだろうと思うようになっていたのだ。
主人に返す金を失い、「男の一分(体面)が立たなくなった」と死の意思を伝える徳兵衛に「わしも一緒に死ぬるぞや」と答えたとき、お初は決して不幸ではなかったはずだ。「苦界」と言われる遊女の世界。借金に追われ、病に冒され、若くして亡くなる者も多い。愛する人に「われとそなたは女夫(めおと)星。かならず添うとすがりより」と言ってもらい、来世で結ばれることを夢見ながら死ぬことができるとしたら、つらく苦しい日々を生きるよりどれほど幸せだろう。
愛する男との永遠の愛を手に入れられるのである。これ以上望むことが彼女にあっただろうか。

永遠の愛。それを確実に手に入れるには「死」に頼るしかないのかもしれないなあ。そんなふうに考えるようになったのはいつ頃からだったろう。
生きるとは、変化しつづけるということ。人は誰も同じ位置に留まっていることはできず、時の流れはすべてのものに老いを与える。恋心とて例外ではない。「不変」を可能にするのは、死だけなのだ。
互いへの思いが絶頂にあるときに、心中という手段で不滅の愛を手に入れる。もっとも美しく咲いた瞬間に摘み取り、水中花にした花のように。ガラスの中でそれは永遠に散ることも枯れることもない。
私たちは大きな幸せを感じたとき、「このまま時が止まればいいのに」と願うが、お初と徳兵衛はそれを実現してしまった。

誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞え。
取伝へ貴賤群集の回向の種。
未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり。

『曾根崎心中』より


しかし、それでもやっぱり私は生きて、この世で恋をしていたい。来世で恋の手本となるより、今生にしがみついて、思いのたとえ半分でも三分の一でも叶えたい。
私たちは江戸時代の遊女でも商家の手代でもない。自由な恋愛のできる時代に生まれ、国に生きている。それは、「いまいる場所」は己の意志で選び取ってきたものの結晶にほかならないということだ。気に入らなければ気持ちひとつでなんとでもできる中にあってなお「そこにいる」ということは、自分の選択に納得しているということなのだ。
ならば、たとえそれがどんなものであったとしても、私たちは自分の人生に落とし前をつけながら生きてゆく、それしかないではないか。
白無垢の死装束をまとったふたりが歩いた梅田橋から天神の森までの道行は三百年後、大阪・キタでもっとも賑やかな場所となった。
お初二十一歳、徳兵衛二十五歳。会うことすらままならなかった彼らがいま、まばゆいばかりのネオンの中を楽しげに行き交う恋人たちを見たら、なにを思うのだろう。

【あとがき】
同じく近松門左衛門の『心中天網島』もせつないせつないお話でした。これも実話なんですよね。遊女小春と妻子ある紙屋の治兵衛の恋もまた心中という形で幕を閉じるのですが、「男の一分」が立たなくなって死を決意する『曽根崎心中』より、こちらのほうが現代の私たちには理解しやすいような気がします。


2004年01月14日(水) じらさないで。

地下鉄の自動改札を通り抜けようとした私の腿に鈍い感触。一瞬たじろぎ、ゲートが開くのを待って飛び出す。
これは私にとって日常茶飯なシーンである。勢いよく歩きすぎるのだ、と気をつけていてもついうっかりやってしまう。切符が出てくるのをその場で(もちろん一秒にも満たない時間ではあるが)待たねばならないこともしばしばだ。
そう、私はせっかちなのだ。
バスに乗ると、運賃箱の脇で小銭を探してもたもたしている人をよく見かける。駅の切符売場には券売機と向かい合ってはじめて運賃表を見上げる人が必ずいる。私はあれが不思議でならない。どうして順番待ちをしているあいだに準備しておかないのだろうか。
私は来たるべき場面に備えて歩きながらバッグから財布を取り出したり、列に並びながら運賃を確かめたりする。後ろの人を待たせると悪いというのもあるが、なによりそんなことのために余計な時間を割くのが嫌なのだ。
レジでキャッシャーが棒金を崩したりカード精算のレシートが出てくるのを待っているわずかな時間にも、カゴの中の品を袋に詰めたいという衝動に駆られる。横断歩道の向こうに子どもがいると、反射的に「しまった」と思う。ああ、信号待たなきゃ。北欧を旅行中、エレベーターに乗り込むたびに警報ブザーを鳴らしてしまいそうになった。四ヶ国訪ねたが、「閉ボタン」のあるエレベーターにはついにお目にかからなかった。公衆電話のスタートボタンは必ず押す。
そうして稼いだ刹那をなにか有意義なことに費やすかというと、そんなことはまったくない。そんなに急いでどこに行くのかといえば、スーパーやスポーツクラブだったりする。一分一秒を惜しまねばならないような多忙な生活を送っているわけでもないのに、なんの役にも立たないと思われる事柄に時間を奪われるのは損な気がしてならない。時間の使い方に関して、私はケチなのかもしれない。
こんな私であるから、電話の自動音声案内はもちろん苦手だ。プロバイダのヘルプデスクやチケット予約センターに電話をするとかなりの確率で出くわすが、音声ガイダンスに従ってボタン操作をしていくあれは本当にじれったい。
「料金に関するお問い合わせは数字の『1』を。各種変更手続きは数字の『2』を。サービス案内は数字の『3』を……」
運が悪ければ、この後に英語の説明がつづくこともある。すぐに自分は『1』だとわかっても、「それではどうぞ。ピーッ」まで辛抱強く待たねばならない。私のような堪え性のない人間にはけっこうつらい。そんなわけで係員対応の電話番号が併記されていれば、必ずそちらをダイヤルすることにしている。
しかしながら、近ごろは人間相手にももどかしさを感じることが少なくない。昨日も再配達をお願いしようと宅配業者に電話をかけたところ、
「それではお客様のお名前をお伺いさせていただいてもよろしいですか」
「不在票の右肩にあります伝票ナンバーをお読みいただいてもよろしいでしょうか」
ときた。
「○○してもらってもいいですか」
この言い回しを最近本当によく耳にするが、どうしてそんなまどろっこしい話し方をするんだといつも思う。「ではお名前をお伺いできますか」「ナンバーをお読みいただけますか」で十分ではないか。個人的には「お伺いします」「教えてください」がすっきりしていてよいと思うくらいである。
「ちょっとそこの醤油、取ってもらっていい?」なんて具合に友人にさらりと言われる分にはどうということはないが、見知らぬ人間からの意味のないへりくだりである場合は耳に心地よくない。
勧誘の電話にいらいらさせられるのも、「そんなものいらないわよ」以外に、そのバカていねいなもの言いによるところも大きい。ひとつのことを言うのにやたら時間を食うからだ。
「○○様のお宅でいらっしゃいますか。お忙しいところ申し訳ございません。わたくし、ホニャララ会社の××と申します。失礼ですけれども奥さまでいらっしゃいますでしょうか。ああ、いつもお世話になっております。本日お電話させていただきましたのは、このたびわたくしどもが……」
これだけペラペラと流暢に話すのに、「お時間少々いただきたいのですが」がすっぽり抜け落ちているのはどういうわけだろう。

私はクレジットカード会社で約定決済できなかった顧客に電話連絡をする仕事をしているが、努めて端的に話すようにしている。「失礼ですが」「申し訳ありませんが」もむやみに使わない。自分に落ち度があったためにかかってきた電話であっても、顧客はできるだけ短く済ませてほしいと思っているだろう。
マニュアルには「口座準備を忘れていたと言われたときは、驚いたそぶりで」とか、「期日までに用意できないと言われたら、一呼吸置いて残念そうな感じで」なんて書いてあるが、そんな悠長なことをしていたら「あー、ハイハイ」でガチャン!だ。
昨日、隣りの席の同僚のトークを聞いてひっくり返った。私たちは誰とどんな会話をしたかを記録しなくてはならないのだが。
「失礼ですが奥さまでいらっしゃいますか。あ、ではお母さまで、え、ちがう、ではお嬢さま……お姉さまで?では妹さま……」
だあああーーー。
「奥さま」でないと言われたら、「家族女性」と書いておけばいいんだってば。じれったいのよ、もう!

【あとがき】
改札口ではたまに勢い余ってゲートを破って通り抜けちゃうこともあります。自動ドアが開いてないのに突進しそうになることも。私ってばなにをそんなに急いでるんだろう。信号待ちしている時なんて損な気がしてしかたないんですよね。そんなことないですか?
ところでタイトルで色っぽい話を期待した方がいらしたらごめんなさいネ。