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2003年09月29日(月) 年下の男(前編)

仲良しの同僚が年下の男性と付き合っていることは知っていた。彼女がしばしば口にする「彼とは世代が違うから」をせいぜい三つか四つの差だろうと思い込み、いままで尋ねもしなかったのだが、その年の差が十四と聞いてびっくり。
付き合って四年になる彼は、今年二十五歳になるという。思わずインターネットで出会ったのかと訊いたら、「そんなわけないやん」と一笑に付された。そうか、そんなわけはないのか。若い男性と知り合う場というとそのくらいしか思い浮かばない発想の貧困さが恨めしい。そのころ勤めていた会社に彼がアルバイトで来ていたのだそうだ。
いまどき姉さん女房なんてめずらしくもないし、実際五つくらいの差はなんでもないのだろう。が、それだけ離れていたらどうなんだろう。
「相手がお金持ってないってこと以外でとくに不都合はないよ。中途半端に二つ三つ違うより、このくらい離れてたほうが心の平静が保てるからかえっていいわ」
「心の平静?」
「『私と結婚する気はあるの?』ってことに悩み苦しまずにすむでしょ」
四十歳の誕生日を目前にした彼女は結婚に興味がないわけでもなんでもなく、「縁があったら……」と思っているどこにでもいる女性である。その彼女が「この先彼が結婚するとしたら、相手は私じゃない」ときっぱりと言う。
付き合いはじめたのは彼が成人して間もなくのこと。そんな、人生まさにスタートしたばかりの相手にいったいなにを求めることができるだろう。結婚をゴールに設定できないことは、彼とはじまったときから納得していたから、いまさらつらいだの寂しいだの思うことはない。そういう意味で「可能性ゼロ」に自分は救われているのだ、と。
私は独身のころ、結婚の可能性がない相手とは恋愛をする気にならなかった。「これ以上時間を無駄にしたくない」と別れたこともある。私はその恋愛が本物であるかどうかを、結婚にたどり着くか否かで測っていた。
それから私も少しは大人になり、いまでは結婚という名のゴールテープがなくても嘘偽りでない恋が存在することを理解している。そして、彼女が「そんなのはじめからわかってたことだしね」という境地に達するまでに、人知れずたくさんの涙を流してきたであろうことも。
人はそんなに簡単になにかをあきらめたり悟ったりすることはできない。(後編につづく)

【あとがき】
結婚というゴールを目指さない恋もこの世には存在する。長くは持たない恋が本物ではないというわけでは決してない。あのころにはわからなかったことです。


2003年09月24日(水) 焼肉オフ(オフレポ後編)

※ オフレポ前編はこちら

少人数でこじんまり行うオフの場合、それをどれだけ濃密なものにできるかは参加メンバーのキャラクター(つまりノリ)ともうひとつ、読んでいる日記がどれだけかぶっているかという点にかかっている。
web日記の世界がもともと「It's a small world」なのか、今回がたまたまラッキーだったのか。いずれにせよ、櫻屋の主人さん、あぐりさん、くりさんという顔ぶれはしゃべりを目的としたオフのメンバーとしては最高であった。
なにしろ、ジョッキを合わせて乾杯した瞬間から日記話がスタートしたのだけれど、「誰それ?読んだことも名前聞いたこともない」ということがほとんどないのだ。
それどころか、日記のタイトルのあたまの五文字くらいを口にするや、「ああ、○○さんでしょ、東京の」なんて具合に誰かしらから即座に書き手の名前が挙がる。彼女たちの脳内にインプットされている情報量の多さとレスポンスの早さは恐るべきもので、まるで早押しクイズだ。もし彼女たちに日記のタイトルを見て書き手の名前を記入するペーパークイズを実施したら、高得点をマークするにちがいない。
焼肉奉行不在のため、網の上はタン塩もタレのカルビも野菜もごちゃまぜになった、秩序のちの字も存在しない無法地帯。おのおのが無計画に載せていくので次から次へと焼きあがり、それを消費するのに忙しいわ、つっこみどころ満載のトークに黙っていられないわ。「猫の口も借りたい」なんてことを考えたのはたぶん生まれて初めてだ。「自分がいないあいだに面白い話が出てきたら悔しい」と、私は手洗いに立つ間さえ惜しんでしまったほどである。
そうそう。この席で彼女たちによって夢を破壊されたことがひとつあったので、披露させていただこう。
少し前の日記に「色気のある文章を書く日記書きさんがいる」と書いた。あれはいったい誰のことなのよという話になり、ある男性の名前を挙げたところ、三人が神妙な顔をする。私にとってその反応は意外だった。てっきり「それわかる!」と返ってくるものとばかり思っていたからだ。
そして私はあの色気が万人に読み取れる種類のものではなかったことを知った。そういえばその日記を書いたあと、「○○さんのことではないですか?」というメールをいくつかいただいたが、どれもハズレだったっけ……。
話を戻そう。私が「実物も色っぽい人なんだと思う」と言ったところ、ひとりがあっけらかんとこう言った。
「でもその人、見た目は“サエない係長”なんだって」
まあ、ひどい。ただの係長でもサエない部長でもなく、サエない係長だって言うの?
「うん、会ったことある人がそう言ってた」
実は私、彼に松田優作のイメージを抱いていたのだ。
「写真見たことあるけど、かっこいいとかセクシーとかじゃぜんぜんなかったよ♪」となぜかうれしそうに報告してくれる人まで出てきて、思わず頭を垂れる。その人とはコンタクトを取ったこともないが、私は知らず知らずのうちに「この文章に似合うのはこんなルックス」というものを持ってしまっていたらしい。
そこから話は「人は文章だけで恋に落ちるか」に移る。この手の話題は私と櫻屋さんの専門分野だ。「あんたらにはついていけんわ」とあきれまなこのあぐりさんとくりさんを尻目に、ふたり熱弁を振るった。
結論は、「『日記』という名の鏡に映る書き手に恋をすることは、ある」だ。

「閉店の時間ですので、そろそろ」と店員さんから声がかかるまで三時間半、文字通りしゃべり倒した。
くりさんのオフレポには私と櫻屋さんが猛威を振るっていたかのように書かれてあったが、そんなことはない。あの日私は聞き役だった……とはさすがに言わないけれど、三人のマシンガントークに相槌を打つのが精一杯という場面は何度もあった。もし「私たち、今日初めて会ったんです」と言ったら、店員さんは驚いたにちがいない。
終電の時間さえなければ、どれほど四次会にお誘いしたかったか。だから大阪駅で解散するとき、誰からともなく「今度みんなで温泉行って、朝まで語り明かすってのはどう?」「賛成!」と声があがったのはうれしかったなあ。
盛り上がるだろうかという心配はしていなかったけれど、ここまで面白くなるとも予想していなかった。三年間コツコツと書きつづけてきたことのご褒美をもらったような一日だった。

【あとがき】
オフレポは馴れ合いっぽくて好きじゃないって人もいるみたいですけど、私は書くのも読むのも好きです。ミーハーだから、自分が参加したものでなくても読みに行っちゃいます。そこにふだん読ませてもらってる人が登場していたら、なおさら面白い。それにしても焼肉オフは楽しかったです。こういう素敵な出来事がたまに起こるから日記の読み書きってやめられないのよね。


2003年09月22日(月) 焼肉オフ(オフレポ前編)

土曜日の午後は日頃愛読している日記の書き手さんをお誘いしてのオフ会であった。
オフ会の幹事をするのは初めてだ。にもかかわらず、盛り上がらなかったらどうしよう……なんてことをまるで考えなかったのは、私の神経が図太いからではない。お集まりくださるのが「これで寒いオフ会になるわけがない!」と私に確信させるに足る、最強の顔ぶれだったからだ。
貴重な関西在住の日記書き仲間である櫻屋の櫻屋の主人さん、王様の耳はロバの耳のあぐりさん、そして九州は佐賀から「ものもの−monomono」のくりさん。このいかにもしゃべりそうなメンバーが集結するというのに、なんの心配をすることがあるだろう。
待ち合わせは梅田の喫茶店で。くりさんとは一年ぶりの再会であるが、櫻屋の主人さんとあぐりさんとは初対面。どうやって「小町」を見つけてもらおうか。
こういうとき、相手を探してきょろきょろしなくてはならないほど照れくさいことはない。目印は迷いようのないものにしなくてはと思い、「店内で一番エレガントな女性を探してください。それが私です」と言っておいた。そうしたら、店一番乗りは櫻屋さんだったのだけれど、シナモンスティックで優雅に紅茶をかき回している私を視界に捉えるや、ウェイトレスをなぎ倒さんばかりの勢いで私めがけてツカツカツカーッ。
念には念をと思い、「ピンク色のハンカチをテーブルの上に置いておきます」とも言い添えていたのであるが、その様子を見て、いらぬ気遣いだったわ……とつぶやいた私である。
なんて冗談はさておき、こういう集まりの面白いところは自己紹介や「はじめまして」のあいさつがほとんど必要ないことである。ふだんから日記を読み合いメールのやりとりをしていると、初めて顔を合わせるという気がちっともしない。それこそ「顔は後からついてくる」なのだ。
ほどなく、あぐりさんとくりさんが到着。四人でお茶を飲みながら、軽くお口のウォーミングアップ。そして、私は筋肉がほぐれてきた頃合いを見計らって、「さあ、次はボウリングですよ」と三人を向かいのボウリング場にお連れする。
本日のスケジュールは周到に組んである。このあとのビールをうんと美味しく飲むために、みなさんにはここで適度な運動をしていただくのだ(強制)。
頭上のスコアボードに四人のハンドルネームが並んでいるのを見ると、不思議な感じ。マイ日記才人のリストの中で縦に並ぶのとはちょっとわけが違うのだ。
ところで、ゲームのほうはというと。くりさんの球は毎回同じ弧を描いて左にカーブし、「ほら、私って性格がまっすぐだからー」と体をくねらせるあぐりさんの球はたしかに一直線ではあるものの、きまって斜め方向、早い話が溝に向かって突進していく。
櫻屋さんはというと、プレイよりも気をとられることがおありのようで、ねえねえと私を肘でつつく。
「こういうときに素敵な男性に『ほら、こうやって投げるんだよ』なんて手取り足取り教えてもらいたいわあ」
「それ、漫画の読みすぎ」と冷たくあしらいながらも、ついあたりを見渡してしまう私。「だって見てよ、すんごい不作……」と声のトーンを落としてつぶやくと、隣のレーンのずんぐりむっくりの男性を見つめながら彼女も弱々しく頷いた。
そんなバカ話に花を咲かせていたからだろうか、それとも不作呼ばわりされた男性たちの呪いだろうか、気がつけば私のスコアは散々なものであった(それでも一位だったのは、他の三人がさらに散々だったからである)。二十日後のボウリングオフに備えて練習しておこうという目論みは、完全に失敗に終わった。
そんなこんなでにぎやかに二ゲームを終えた私たち。今度はあぐりさんの車に乗り込み、いよいよ大阪のコリアンタウン・鶴橋へ。『鶴一』で焼肉を食べながら大いに語らうというのが、本日のメインイベントなのだ。
「おなかすいた!おなかすいた!」のシュプレヒコールの中、意気揚々と走り出したのも束の間、あぐりさんが素で言う。
「ところで私、道知らんけど」
車内に響き渡る、「うそーー!!」。
「京橋のほう行ったらええんちゃうん」
「それってどっち?」
「そんなこと私に聞くんじゃない……」
「大阪城公園やったら行き方わかるけど」
「じゃあとりあえずそこまで行こ」
こんな具合だったにもかかわらず、きっちり予約時間の五分前に店に到着してしまうのだから、空腹女の執念には恐れ入る。
そして、本当のオフはここからはじまった。(後編につづく)

【あとがき】
不思議です、初対面のときの緊張感というか遠慮というか、そういうものがほとんどなかったんですよね。メールのやりとりがあるということもひとつでしょうが、それよりも「日記を読んでいる」という部分が大きかったのでしょう。待ち合わせの喫茶店でも「はじめまして、〇〇です」「どもども、いつも読んでます」なんてあいさつはなし。「すぐここわかりましたー?」なノリでしたから。
さてさて、いよいよ『鶴一』で四人のパワーが炸裂します。書けない話が多いのですが、その場の雰囲気がどんなにけたたましかったかだけでも味わっていただけたらと思います。次回乞うご期待。


2003年09月16日(火) 女性にはわからないこと

世の中には理解しようと努めてもどうにもむずかしい事柄というのがある。
たとえば、マラソン好きの人の気持ち。私はたいていのスポーツに対してはそれを趣味にする人がたくさんいることに疑問を持たない。自分はとくに感じないけれどなにか面白みがあるのだろうな、と想像することができる。
しかし、マラソンだけはわからない。走り終えた後の爽快感や達成感と、ゴールに到達するまでの間の苦しさを秤にかけたら、私の場合後者のほうが圧倒的に重くなる。
夫は毎秋十キロの市民マラソンに参加する人だ。先日などわざわざ札幌まで飛んでハーフマラソンを完走している。十二月には那覇でフルマラソンに挑戦するんだといまからはりきっているが、彼をかき立てているものがなんなのか私には皆目見当がつかない。
また、飛行機が全席禁煙になったために海外に行けなくなってしまったと嘆く知り合いがいる。ぜったいに吸えない状況に置かれてみたら案外乗り切れるんじゃないの?と思うのは浅はかな考えのようだ。禁煙のつらさならダイエットの苦しみと通じるものがありそうなのでわからなくはないけれど、たった半日やそこいらさえ我慢できないというのはやはり理解しがたいものがある。

遅めの夏休みを取っていたフリーターのA君と職場でひさしぶりに顔を合わせた。髪型が変わっていたので、「ま、男前になっちゃって」と声をかけると、彼がいつになく真剣な顔つきでこう言った。
「正直に言ってください。僕の髪、だんだん少なくなってきてると思いませんか」
なにを言い出すのかと思ったら。あなた、まだ二十一でしょう、そんなわけないじゃないの。
しかし、彼は最近シャンプーをするたびにぞっとするくらい髪が抜け、排水溝が三日で詰まる、風呂上がりに鏡を見ると以前より頭皮が目立つ気がする、と言い張る。
「僕、顔は母親似なんですけど体質が親父なんです。親父は二十代後半からきたって言ってましたから、冗談じゃないんです」
そう言われてみれば、いかにも柔らかそうなネコっ毛だ。彼はすらりと背が高くおしゃれにも余念がない、いまどきの男の子。コンビニのレジの女の子を見初め、会計の間にデートの約束を取りつけたことがあるというくらいだから、ルックスにもかなりの自信を持っている。だからなおさら気にかかるのだろう。うーんと黙り込んだ私を見て、彼は「やっぱり否定してくれない……」と肩を落とした。
そういえば、二、三日前の朝刊の読者投稿欄のテーマが「白髪」だったのだが、六十代の男性が(とうの昔に)失われし己の髪に対する哀愁と白髪への憧憬を語っていた。
テレビでマイク真木さんが白髪をポニーテールにしているのを見ては、「天は二物も三物も与えるものだな」とひがみ、若い女性に「ロマンスグレーという言葉はあるけど、ロマンスハゲはないですね」と言われてはしょげる。帰宅し、妻に「ショーン・コネリーはいまだに二枚目の役をやっているし、バッハもモーツァルトもかつらなんだぞ」と開き直れば、「才能のある人は髪なんて関係ないのよ」と返されてしまう。
ハゲることへの恐怖、薄毛のコンプレックスもまた、女の私には親身になることのできない事柄のひとつである。
これは女性にとってなにに相当する恐怖なのだろうと考えてみる。その切実さ、免れたい加減で言えば十キロ、いや、二十キロ太るのと同じくらいだろうか。
そうそう、私はつねづね思っていたのだけれど、女性にとっての「生涯ダイエットから解放されないこと」だって精神的には相当ヘビーなものがある。たしかにハゲる心配はしなくてよいが、レストランのメニューを見てなにが一番美味しそうかよりまずカロリーを思い浮かべてしまう切なさだって、男性にはわからないものだろう。
……と言ったら、「男だって太るのはイヤですもん。酒飲んだ次の日は一食抜いたりしますし」だって。
そういえば、少し前の日記に「日本の男性は女性の体型にうるさすぎる。だから、女の子がわれもわれもと痩せたがるのだ」というようなことを書いたら、「男だけど年中ダイエットを気にしてます」という内容のメールをいくつかいただいた。ある男性の日記で、「スタバのチョコレートケーキが食べてみたいけど、あとで後悔するのがわかっているから注文できない」とあるのを読んだときは、一緒なのねえ……と少々驚いたっけ。
私もときどき、無性に『ハードロックカフェ』のホームメイドブラウニーが食べたくなって難波まで飛んで行こうかと思うことがあるのだけれど、なかなか実行に移せない。特大サイズの焼きたてブラウニーに、大人のこぶしほどもあるアイスクリームがふた玉と生クリームがてんこもり。あれほど人を幸せにし、同時に悔やませる食べ物を私はほかに知らない。
人は禁煙に成功するととたんに喫煙者に厳しくなる、なんて話を聞くけれど、街におしゃれでスタイルのよい女性が増えるにつれ、男性も昔のように「体型なんて関係ないもんね」と安穏としていられなくなったのかもしれない。スタイルを気にするのは、もはや女の専売特許ではなくなっている。
遥かなるブラウニーに思いを馳せる私にA君が言う。
「でもね、そうやって自分の意志で食い止められることにはまだ救いがあるんです。ハゲとED、この悩みは女性にはぜったいわかりません」
なるほど、たしかにそうかもしれない。

【あとがき】
『ハードロックカフェ』のホームメイドブラウニーを知っていますか?焼きたてブラウニーの上でアイスクリームがほどよく溶けて、それはもう人を最高に幸せにしてくれるデザートなんです。たしかに量がものすごいということもあるけれど(三人前くらいある)、それ以上にカロリーが気になっていつもどうしても最後まで食べられない私。やはり太るのを気にして好物の甘いものを控えているとおっしゃる男性の日記書きさんとこんな約束をしているのですよ。「いつかお目にかかる機会があったら、その日はダイエットのことは忘れてホームメイドブラウニーを思いっきり味わいましょうね」と。ああ、あれを最後に食べたのはいつだったかしら……。


2003年09月12日(金) 最悪の事態(後編)

※ 前編はこちら

ブックマークしている日記の書き手さんの中に、私が勝手に「この人はさぞかしモテるだろうな」と思っている男性がいる。
私はその方のプライベートも容姿も知らない。だから、この「モテる」は読み手からという意味である。取りあげる話題に関わらず、文章になんともいえぬ色気があるのだ。
有るものを隠すより、無いものを有るかのごとくそこに並べて見せようとするほうがずっとむずかしい。おそらく実際に色気のある人なのであろう。
もしこういう人が「今度出張でどこそこに行きます」と日記に書いたら、「よろしければお食事でも」なんてメールが一通や二通舞い込むのではないかしらん。つい想像力をたくましくしてしまう私だ。
しかしながら、色気や可愛げといったものが欠如した文章にも取り得はある。前編に書いたような事態に遭遇するリスクを下げてくれる、ということだ。「文は人なり」とはよく言ったもので、おかげで私はその手の厄介事とは無縁できている。
そんな私がいつわが身に起こっても不思議はないと想像する中で、もっとも避けたい事態はなにかというと、サイトばれである。
先日、私はアクセス解析のログを見ていて心臓が止まりそうになった。このサイトの存在は家族を含め、実生活で関わりのある人間には誰ひとりとして明かしていない。にもかかわらず、あってはならないところからのアクセスが記録されていたのだ。
なぜそれがわかったかをここで話すことはできない。しかし、私がもっとも知られたくないと思っている人物のうちのひとりがここを訪問したことは間違いない。
「これはまずいぞ」
マウスを持つ右手が硬直する。汗が背中をつたう。気づかれただろうか。「サイトばれ」「移転」「閉鎖」「長い間ありがとうございました」「404 File Not Found」といった文字が次々とあたまに浮かぶ。
このサイトに費やしてきた時間とエネルギーは、「しかたがない」とあっさりあきらめられるほどささいなものではない。なんとかここまで育てたというのが今の思いなのだ。そう簡単に手離せるわけがない。
友人のひとりが恋人と別れたくない理由をこんなふうに説明する。
「また新しい人探して一から恋愛するのってエネルギーがいるやん。恋人になってからも落ち着くまでには時間もかかる。若い頃はそこに到達するまでの過程が楽しかったけど、もうそんな体力ない。面倒くさい」
なにを言うの、好きな人と結ばれるまでの紆余曲折こそ恋愛の醍醐味ではないか、と私などは思うのであるが、この「新しい人と一から」を「新しい日記で一から」に置き換えたら、あら不思議。とたんに彼女の言うことに頷けるではないか。
うちは間違ってもデビューと同時にブレイクしたサイトではない(もちろん今もブレイクなどしていない。言葉のアヤというやつです)。
一週間メールボックスを開かなくてもなんの支障もなかった日々。さぞかし更新のし甲斐がなかっただろうと振り返る時期は決して短くなかったけれど、「書くのが楽しい」それだけで乗り切った。いや違う、「これだけ労力を費やして、こんなちょびっとの人にしか読んでもらえないなんて割に合わない」と思ったこと自体なかった。
しかし、もしここを畳むことになったら、私は「心機一転、またがんばろう」と思うだろうか。別人として出直そうと考えるだろうか。
想像するかぎり、答えはノーだ。立ち上げてからしばらく続くであろう、実績を作ってゆくためのあの日々を乗り切ることはもうできない気がする。賽の河原に石を積むような報われなさを、きっと私は感じてしまう。

問題の場所からのアクセス。救いだったのはリンク元が検索エンジンだったことだ。
このサイトには「結婚」「出会い」「男と女」といった恋愛系のキーワードで飛んでくる人がとても多いのだけれど(どんなサイトなんだ、うちは)、件の人物もそうだった。
ものすごく低い確率のはずだが、たまたまヒットしたと見てよさそうだ。ひと月経っても再訪の形跡がないところを見ると、ブックマークされた可能性も少ないだろう。
ログの中にそれを発見したときは生きた心地がしなかった。日記リンク集から飛んできたものでなくて本当によかった。
今日もこうして日記が書けて、モニタの向こうには読んでくれる人がいて。ああ、幸せ。

【あとがき】
知人、友人に見られることのなにがイヤって、「一方的にこっちのことを知られること」なんです。私がここに書いているのはわざわざ人に話したりしない、頭の中にある事柄であることが多いので。われながら潔癖だと思いますが、日記を通じて知り合った人がリアルの友人になるのはうれしいことだけど、リアルの友人・知人が日記の世界に入ってくるのは生理的にイヤ。不快で耐えられないと思います。


2003年09月10日(水) こうして面が割れてゆく

本日は「最悪の事態(後編)」をお届けするつもりだったのだが、前編をアップしたあと、「私も不気味な思いをしたことがあります」というカミングアウトメールをいくつも頂戴し、すっかり驚いてしまったので、急遽差し込み。
送ってくださったのはすべて女性の日記書きさんだ。尋常でない長さのメールが毎日のように送られてきて困った、しつこく食事に誘われた、社名など明らかにしていないのに「今日あなたの会社の前を通りました」とメールが届いた、さらにひどいのになると見知らぬ人から突然自宅に電話がかかってきて「いつも読んでます」と言われた、というものまであった。
どの方が書いておられるのも、OLであったり子育て中の主婦であったりする一女性の日常の一片を記した日記である。過激な性描写を売りにしているだとか、読み手の劣情をそそるような過去を赤裸々に告白しているだとか、いかにも議論好きで好戦的な匂いがするだとか、そういう意味で「目をつけられる」テキストはひとつもない。
それなのにどうして……とつぶやきかけて、いや、そうじゃないなと思い直す。
平凡な毎日を飾らずに綴るタイプの日記だからこそ、書き手の属性が透けて見えてしまうのだ。そしてときに、どのあたりに住んでいる、どこの会社に勤めているといったことを突き止められてしまうのである。
一週間も読み続ければ書き手の家族構成や生活リズムは掴めるし、過去ログをその気で漁れば通勤や通学に利用している交通機関や乗降駅を特定するのもそうむずかしいことではなさそうだ。
なんというスーパーを利用しているとか犬や猫を飼っているといった情報も絞り込みの手がかりになるし、サイトに書き手や子どもの写真が掲載されていればこれ以上のヒントはないだろう。
ファッション誌には「お嬢様のおしゃれ拝見」なるコーナーがある。いかにもお金がかかっていそうなファッションに身を包み、立派な自宅の庭でポーズを作って微笑む彼女たちは、
「大学の入学祝いにパパに買ってもらったベンツCL500が私の愛車。ドライビングシューズはもちろんエルメス」
「カルティエのジュエリーラインがお気に入り。だけど一点ものにも憧れるから、カスタムオーダーすることもしばしばです」
なんてことを実に自慢げに……もとい、無邪気に語っている。
が、私はこれを見るたび思う。誌面には「芦屋市在住のオカネモチコさん(××女子大三年)」とばっちり明記されている。お金に困って悪いことを考えている人がこの雑誌を目にすることはないと誰が言えるだろうか。「愛犬シナモン(ミニチュアダックス)と毎朝近くの公園を散歩するのが日課です」なんて載せて大丈夫なんだろうか、と。
そしてきまって、子どもたちに登下校のときは名札を外すよう指導している小学校の話を思い出すのである。

「自己顕示欲が強いからやってるんだろう」なんて言われることもある日記書きだけれど、さすがに顔を知られてもかまわないという人は少ないと思う。
メールをくださった中に、オフ会参加を躊躇する理由のひとつとして「写真が出回ったら怖い」を挙げている方がおられた。画像の流出は氏名や住所を知られるのと同じくらい、いや、ある意味ではそれ以上に恐ろしい。なぜなら出所が限られているから。もしそんな目に遭ったら人間不信に陥るだろうとさえ思う。
しかしその一方で、人は誰も「自分は見る側(流す側寄り)にはぜったいに立たない」とは言えないのではないか、とも思う。
憧れの日記書きさんが参加したオフ会に自分の仲良しが居合わせたと知ったら、オフレポに書かれていなかったことまで聞いてみたくなるだろう。メールやメッセンジャーで素敵な人だったかと根堀り葉堀り聞きながら、「ちょっと画像送ってよ」と口にしてしまう可能性はゼロではないのではないか。アルバムに貼りつけられた写真をその場限りで見せてもらうのとはわけが違う、それは重大なモラル違反であると知りながらも、好奇心に駆られて。私のところで止めるからいいよね、と自分に言い訳しながら。
小学生のとき、母に言われたことを思い出す。好きな男の子ができてもラブレターで告白するのはやめなさい、後々まで残るものの扱いには慎重にならなければいけないよ、と。
画像の流出に悪意は必ずしも必要ではない。「ここだけの話」が決してここだけではすまないように、こうして本人の与り知らぬところで与り知らぬ人たちに面が割れてゆくのだ。
このサイトをはじめてもうすぐ三年になる。幸いにもいまのところ、個人を特定された、もしくはされかけたためにサイトの休止や移転をせざるを得なくなったという憂き目には遭わずにすんでいる。
それでも、「顔」を含めた個人情報の流出には注意しなくては、という思いは大きくなることはあっても小さくなることはない。
設定を多少デフォルメしようが私生活を公に晒すなどということをしているかぎり、この手のリスクはつきまとうということは常に心に置いておく必要がある。かといって、起こるかどうかわからないことのために出会いの芽を片っ端から摘み取ってしまうのは、突然歩行者が飛び出してきたら……を恐れて車に乗らないのと同じことのような気がする。つまらないし、あまりにもったいない。
世界は広げたい、されどトラブルは怖し。多くの日記書きさんをモニタの前だけに留まらせているのはこのあたりの事情ではないだろうか。

【あとがき】
「ここだけの話にしてね」と言われて聞いた話を、一度たりとも口外したことがないという人はいないでしょう。カテゴリーの違う友人には話したり、そのときは黙っていてもしばらく経ったら勝手に時効を作って「昔のことなんだけどね」なんてやったことはありませんか。人の口に戸は立てられないと言いますが、画像の流出もそれと同じだろうなと思うわけです。容認しているというのとはまったく違いますよ、ただ「止めようがない」に近いものがあるという意味。
悪名高き某掲示板に貼りつけられる、なんていうのは流出の中でも最悪のパターンだけど(過去にそこで三人の日記書きさんの写真を見たことがあります。本当に本人だったのかは知りませんが)、仲間内で画像が飛び交うというのはきっと普通にあるんだろうなと思います。ビデオをダビングして家庭内で楽しむ、みたいなノリで。画像に関しては、自分で用心する(撮らせない)か、そういうこともあるかもと覚悟はしておくか、それしかないと思います。


2003年09月08日(月) 最悪の事態(前編)

サイトを持ったことのある人ならば、読み手からの反応のあるなしが更新意欲をかき立ても削ぎもするということをおそらく否定しないだろう。
私は日記リンク集の得票ランキングには参加していないが、「今日の日記があなたの心になにか残したときにだけ押してください」という、このサイト専用の読了ボタンをつけている。メールアドレス不要の匿名ボタンなので、押したところで「読んだよ」をアピールできるわけでもお礼のメールが届くわけでもないのだけれど、それでも一文の得にもならないそれをぽちっとやってくださる方がいる。その得票数を見るのは私にとってささやかな楽しみなのだ。
読み手への迎合はサイトの寿命を縮めるだけなので、「ウケがいいのはどういう話題か」なんてことはどうでもよい。しかし、自分の感覚や主張がどの程度一般性、共有性のあるものなのかについては関心がある。その数が日によって著しく増減するところを見ると、「読んだら押す」派よりも「内容によって押したり押さなかったり」派のほうが多そうなので、目安にはできるだろう。
それで「正しい」「間違っている」の判断が下せるわけでないことはもちろん承知している。が、実生活の中でこれだけの人の反応を確かめられることはまずないので、自分の立ち位置を知るよい機会になっている。

しかしながら、それにも勝る楽しみがある。見ず知らずの方から興味深い話を聞かせてもらえることだ。
私はいただいたメールを読みながら追体験させてもらうことがしばしばある。これは日記書きで得られるうれしい副産物である。
最近もおもしろい話(といっては申し訳ないのだが)を聞いた。数日前の日記(9月2日付「思い込む人々」)に、
「著名な作家にはひとりやふたり、自分がその人の配偶者や恋人であると信じ込んでしまっている困ったファンがいるらしい。林真理子さんのエッセイにも、彼女の書いた小説の主人公はすべて自分がモデルであると思い込んでいる男性読者から週に二回ラブレターが届くとあった」
と書いたところ、ある女性日記書きさんから「私も似たような経験をしたことがあります」とメールをいただいたのだ。
昨夜見た夢について書けば「その夢にでてきた男性というのはもしかして僕ですか?そんな気がします」と言われ、サイトを閉鎖しようか迷っていると書いたあと、思いとどまれば「僕の言うことを聞いてくれてありがとう」と喜ばれてしまう。
私も過去には一般論として書いたことに「それは私(の日記)のことですか」というメールが届き、自意識過剰だなあと辟易したことがあるけれど、ここまでおめでたい人には出会ったことがない。この男性、彼女の自宅から徒歩一分の場所から「旅行の土産を渡したい」と突然電話をよこしたり(彼の自宅はそこから四百キロ離れているのだそう)、白いスカートを風になびかせ草原に立つ彼女の絵を郵便で送ってきたりしたというから、ちょっとふつうではない。
その後完全無視を決めこむことで関係は断てたとのことだが、ずいぶん気味の悪い思いをしたという。本当にお気の毒な話である。
が、その一方で「現実にこういうことってあるんだなあ」となにやら感心したりして。
色気のかわりに勝気な文章ばかり書いている私。その手のトラブルに巻き込まれたことはもちろんない。(後編につづく)

【あとがき】
海を渡って四百キロ彼方からやって来たそうな。しかも一度でなくネットで知り合った間柄で、たとえなにかのきっかけで住所や電話番号を教えてもらったとしても、まともな人なら自宅を探しあてたり電話をかけたりはしないだろう。私はたまに絵ハガキ企画なんてものをやるのでサイトで知り合った人の住所や名前を知ることがありますが、今度近県まで行くから訪ねてみるか、なんて考えたことはもちろんありません。彼は彼女のことが好きだったんだろうけど、そういうことをしたら相手を怯えさせるということがわからなかったんだろうね。そんな当たり前のことがわからない鈍さが怖い。


2003年09月02日(火) 思い込む人々

フィットネスクラブのエアロビクスのクラスでちょっぴりおもしろいことがあった。
照れがあるのだろうか、エアロビをする男性はそう多くない。割合で言えば女性の一割ほどで、彼らはスタジオの後ろのほうでおとなしく踊っているのが常である。
しかし、今日は五十代なかばとおぼしき見慣れぬ男性が最前列中央のインストラクターの隣を陣取った。
ふだん躍っているときに正面の鏡に映る他人の姿が目に留まることはまずない。振り付けやステップを覚えるのに必死で、それどころでないのだ。が、今日ばかりは違った。
というのは、その男性がときどきTシャツの胸や脇のあたりを引っぱるように、妙な具合に手を動かすのである。そんな「手」をつけろという指示はないのに……と不思議に思っていたら、なんのことはない、インストラクターの女性が飛んだり跳ねたりしているうちに胸があがってくるのが気になるのか、ウェアのトップス(スポーツブラみたいなやつ)を時折くっくっと直すのを振り付けのひとつだと思い込み、忠実に模倣していたのだ。
「それは振りじゃないのよー」と思ったが、教えられるわけもなく。彼は六十分間、一番目立つ位置で三十人ほどの女性の注目を一身に浴びながら、そのまま躍りつづけた。
インストラクターの女性も真横で、しかも男性に胸を定位置に戻す仕草まで真似をされ、さぞかし恥ずかしかっただろう。

さて思い込みといえば、著名な作家にはひとりやふたり、自分がその人の配偶者や恋人であると信じ込んでしまっている困ったファンがいるらしい。エッセイを読んでいると、そういった話にしばしばお目にかかる。
北杜夫さんや遠藤周作さんもそのようなことを書いておられた記憶があるし、林真理子さんのエッセイにも、彼女の書いた小説の主人公はすべて自分がモデルであると思い込んでいる男性から週二でラブレターが届くとあった。
このレベルになると思い込みや勘違いというより妄想というべきであろう。わが身に起きたらと思うと肌寒いものを感じるが、他人事であるうちは「ほんとにこういう人っているんだ」とおもしろがって読むことができる。
そういえば、前回の日記に「私はこういう理由で着信拒否をしたことがあります」という内容のメールをいくつかいただいたのであるが、その中にこの手の妄想にとりつかれた女性から追い回されてやむなく、という男性からのものがあった。
なんでも、彼女のあたまの中では彼に強姦されたことになっており、責任を取ってよということだったらしい(もちろん事実無根)。妻の手前もあり、昼夜を問わぬ電話攻勢には困り果てたとその方はおっしゃる。
「嘘も百回言いつづければ真になる」と言われるけれど、思い込みもまた貫き通せば彼、彼女の中で現実になるようだ。こういう女性が警察に被害届を出したら、男性は身の潔白を証明するのにかなり難儀するに違いない。

先日テレビで、ユニバーシアード大邱大会の応援のために韓国入りした北朝鮮の美女軍団が金正日総書記の写真の入った横断幕に激昂しているのを見た。
韓国側が北朝鮮の選手団を歓迎する気持ちで掲げていたものだったのだが、移動中、窓の向こうにそれを見つけた美女たちはバスのブレーキを踏んで急停車させ、横断幕を引き剥がしたという。
「私たちが敬愛し、恋する将軍様をこんな丸太に吊るさないで!」
「将軍様のお顔に皺が寄っているなんて我慢できません!」
「肖像画が雨で濡れているではないですか!」
ある者は柳眉を逆立て、またある者は涙を流している。そんな彼女たちの姿に韓国の人たちはあっけにとられていたが、私は崇拝というのもまた思い込みのひとつの形だものなあと思いながら見ていた。
前述のメールの男性が「何度か話し合おうとしたけど、不可能だった」と書いておられたが、不思議はない。街角で「あなたの血をきれいにしてあげます」「あなたの健康を一分間祈らせてください」と言ってくる人を言い負かすことができるだろうか。
正しいとか間違っているとか幸とか不幸とか、そんな話ではない。ただ、それがなにに因るものであるかは関係なく------信仰であれ、教育であれ、病であれ------私たちは百万言尽くしても、「思い込んだ人々」に新たななにかを与えることはできないだろうとは思うのだ。

【あとがき】
夫婦である宗教を信仰している知人がおり、あるとき「勧誘ってつらくない?話聞いてくれる人は少ないでしょう、邪険にされたらムッとしない?」と訊いたことがある。すると彼女は「ううん。ああ、かわいそうな人だなって思うだけ」と答えた。思考の次元というか、コミュニケーションをとるのに必要ななにかが根底からズレているというか。投げたボールと違うボールが返ってくるような感じを受けました。うまく説明できないけれど。