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2003年07月28日(月) ひとりでは気後れする場所(後編)

日記を書いている人はわかってくれると思うのだけれど、読み手からどんな反応が返ってくるかと胸をどきどきさせながらテキストを更新する日というのがたまにある。
たとえば何事かに対して少々きつい調子で意見したときや、賛否を問うたり意見を求めたりするアンケートを実施したとき。そして前回、私はやはり緊張していた。
なぜって?「ボタンを押してくれる人なんていないんじゃないか」が胸の中にあったからである。
「○○についてどうお考えですか」のようなアンケートをするときは、いつも「賛成派が多数だろうな」とか「こんな主張が出てきそう」なんてあれこれ予想を立てるのだが、あのボタンを押してくれる人がいるかいないかについてはまったく見当がつかなかった。
私はいまだかつてサイトを持たない読み手が参加したオフ会のレポートを読んだことがないのだけれど、日記書き同士だけでなく、書き手と(サイト持たずの)読み手が交流できる場もあったらすてきだなあ、と以前から思っていた。そこでああいった提案をしてみたわけだが、「いいわね、それ」と言ってもらえる自信はまるでなかった。
相手とほどよい距離を保つことでわずらわしさを回避できるというのがネットの中の人間関係の特徴であり魅力でもあるのに、「会う」なんていう面倒くさいことを望む人なんていないのではないか。ましてや私などに、という思いがあったのだ。
しかし、あんなふうにお伺いを立てた以上、結果は発表せねばなるまい。もしゼロだったらちょっとかっこわるいなあと、私はかなりどきどきしていた。
結果はどうだったか。ボタンを押してくださった方が32名、その他メールでもいくつかいただいた。「金曜に出張を入れます」「三連休のときを希望」なんて言ってくださった遠方にお住まいの方もいて、もちろん冗談半分とはいえ、とてもうれしかった。
ボタンには「最少催行人数に達したら、秋になにか企画するかも」と書いておいたのですが、喜んでやらせていただきます。といっても、あらたまったオフ会にするつもりはなくて、サイト持ちもサイト持たずも関係なしの、「日記の読み書きが好き」という共通項を持つ人たちが集まってわいわいするお気楽なものにしたいと思っています。
ひとりでお酒を飲む店に入るのって勇気いりますよね。場違いだったらどうしよう、自分ひとり浮いちゃったら、なんて思ってしまうので、私は無理。だけど、もしひとり客限定のバーがあったら。ちょっと立ち寄ってみようかしら……という気になりそうです。
入る前はドアの向こうは暗くてよく見えないから不安があったけれど、思いきってドアを押してみたら、なんだ、ほんとにみなさん初顔合わせなんですね(ホッ)、みたいな。この集まりにもそんなイメージを持っていただけるといいな、と一応マスターであるところの私は思っています。
九月の半ば過ぎまではぱたぱたしているので、下旬から十月の三連休あたりまでのあいだをねらっています。詳細は八月中にここでご案内しますので、「お、その日空いてる」という方はぜひ。

【あとがき】
私はいまけっこう自由な時間がある身の上なのですが、これがずっと続くわけではないことはわかっています。だからいまのうちにやってみたいことは全部やっておこうと思っていて、今回の件もそのうちのひとつ。
最近よく思うんです。「チャンスはめぐってきたそのときにつかまえないと」って。勇気が出なかったり気後れしたりしたとき、つい「また機会はあるだろう」なんて自分に言い聞かせてしまいそうになるけど、二度と訪れないチャンスもある。今回32名の方にボタンを押していただきました。実際に参加してくださるのはこの半分になるのか、三分の一になるのかわからないけど、いっぺんやってみるかという感じで思っています。よかったらいらしてね。


2003年07月25日(金) ひとりでは気後れする場所(前編)

仕事をしながら、ふと「ラーメンが食べたい」と思った。なぜか突然、無性に食べたくなったのだ。
終業のチャイムが鳴るや、左隣の席の仲良しの同僚に声をかける。
「Aちゃん。私、ラーメン食べたいんやけど」
「ふうん」
「……ってそれだけ?食べて帰ろうって誘ってるんやん」
「今日はだんなの帰り早いねん」
取り付く島がないとはまさにこのこと。いいもんと今度は顔を右に向ける。
「ねえねえ、B子さん。帰りにラーメン食べて帰ら……」
「ごめん、もう下ごしらえしてきちゃった」
そのとき、向かいの席のC君(二十一歳フリーター)と目が合った。するとなぜか彼は大慌てで首を振る。
「僕も今日はちょっと。おかんが晩はウナギやって言うてたんで」
悔しいっ、まだ誘ってもいないのに!
しかも、「ひとりで行ってきたらいいじゃないですか。うまいとこ知ってますよ、立ち食いですけど」としれっと言うではないか。あのね、行きたくても行けないからこうして頼んでるんじゃないの。晩ごはんにラーメンっていうだけで傍目にわびしさ満点なのに、そのうえ女ひとりでなんて。もし知り合いに会ったらどうしてくれんのよ。
すると、彼は素の顔で「ノープロっすよ。ねえさんならダスターでカウンター拭いてても違和感ナッシングだから」だって。この命知らずな発言で、彼はますます私の怒りを買った。
ひとりでのれんをくぐる勇気がない私にとって、店で食べるラーメンほど縁遠い食べ物はない。友人と食事の約束をし、ラーメン屋に行くことはまずない。提案しても「もうちょっとこましなものにしようよ」と却下されるのがオチだし、夫と外出した際に袖を引っ張ってみても「週末くらい別のものを食べさせて」と悲しげに言われてしまう。そんなこんなで、最後に外で食べたのはいつだったか思い出すことができない。
お持ち帰りもできないそれは、吉野家の牛丼よりも手の届かない存在といえるかもしれない。結局、その日私はまっすぐ家路に着いた。

ところで、ひとりでは気後れしてしまうといえば。
ときどきサイト上で「いついつオフ会やります。参加希望者は……」なんて告知をしているのを見かけるが、たとえばその書き手とそれまでに一度もコンタクトを取ったことがなくても、「私、参加します」と名乗りを上げる度胸のある人はどのくらいいるんだろうか。
先日日参しているとあるサイトでオフ会の告知を見つけ、思わず「わ、いいな」とつぶやいた私。そこには二種類の感情が込められている。
ひとつは「行ってみたいな」という読み手としての気持ち。
テキストが尋常な面白さでないことから、私は彼のことをやはり普通の人ではないにちがいないと踏んでいる。その途方もなさ加減というか、「どのくらいどうかしているのか」を実際にこの目で確かめてみたいと思ったのだ。
そして、もうひとつは「オフ会の参加者を公募できるなんてうらやましい」という書き手の立場から湧き起こった気持ち。
ネットの友人と話しているとしばしば思うことなのだが、どうやら私はモニタの向こう側にいる人たちへの関心が人一倍強いらしい。かねてより「日記の読み書き」という共通の趣味を持つ人たち、とりわけこのサイトを訪れてくれている人たちに会ってみたいという気持ちを持っており、カラオケとかボウリングとか、この時期ならバーベキューとかビアガーデンで騒ぐといったお気楽な集まりをたまにやれないものかしらと考えることがある。
いま私は日記の読み書き、メールやメッセンジャーのやりとりをめいいっぱい楽しんでいるけれど、ここで接点を持った人たちとのそういう形での“対面”はサイトを持つことで得られる楽しみの次なるステージ、いわばより進化した楽しみ方という気がする。
しかしながら、その実現はそう簡単ではなさそうだということは最近日記書きの友人と話したばかりである。彼女が言う。
「サイト上で参加者を募るってけっこうリスキーだと思う。ほんとはちっとも読んでないのに参加者の女性目当てで来るのとか、コイツ嫌いだからどこぞの掲示板にあることないこと書いてやれ、みたいなのが申し込んできたらどうするの。メールじゃ見分けつかないよ」
そういえば、女性主催のオフ会にその手の輩が来て困った、という話は何度か耳にしたことがある。
だけど、リスクのないところに可能性がないこともまた事実。じゃあ、たとえば以前にやりとりしたことがあることを条件にするとか。
「うん、そうしたほうがいいかもね。ところで、肝心の人数が集まるのかな」
痛いとこ突いてくれるわね、あなた。実は私もそれが気がかりだったの。こんな遊びを楽しそうだと考えるのは、私が特別お祭り好きだからって可能性大なんだもの。
「サイトを持ってない人なんてとくに気後れしちゃうんじゃない?横のつながりないし」
たしかに。知らない人だらけだとわかっている場所にひとりで参加するのはとても勇気のいることだ。私が先述のオフ会を見送ったのも、そのサイトが超有名どころであるうえにリンク集などにも参加していないため、きっと読み手の層が違うんだろうなと物怖じしてしまったからだ。
うん、でもほら、日記の読み書きってマイナーな趣味だから、実生活の友人の中に仲間を見つけるなんてまず不可能でしょ。だったら、同じ趣味の人がいたら知らない人でもしゃべってみたいと思わないものかしら。
「そりゃあ思わないことはないと思うけど、カラオケとかボウリングじゃ遠方からは来てもらえないでしょ。関西在住で読んでくれてる人、そんなにいる?」
あいたたた……。おっしゃる通りでございます。
【1】 大阪近辺にお住まいで
【2】 暇があって
【3】 こういうノリが好きで
【4】 会ってみたいと思う程度に小町さんに興味と好意を持っている
という条件を満たす人がそういるとは思えない。彼女のシビアな、いや、もっともなつっこみの前に私はうなだれた。

ま、とりあえず聞いてみましょうか。
「○月×日、梅田でボウリング大会やります」と告知したら、「あら、楽しそう」「日程が合えばね」という方いらっしゃる?もしいらしたら、下の緑色のボタンを押してくださいな。



平気、平気。これ、何人の方が押してくださったかをカウントするだけですから。
みなさんのメールアドレスはわかりませんので、「あなた、あのときボタン押してくれたわよね?責任持って来てくださいよ」なんてメールを送りつけたりはできません。安心して押してください。(結果は次回発表)

【あとがき】
実生活の知人・友人の中にweb日記の読み書きが趣味という人います?私はいないです。それどころか、web日記という言葉すら聞いたことがないのではと思います。私はこの日記の存在を実家の両親、夫を含め、実生活で私を知る人には誰にも明かしておらず、今後もそのつもりはないので、周囲の人がweb日記というものを知らないでいてくれるのはサイトばれを防ぐという意味では救われています。


2003年07月22日(火) そのひとことがうれしくて。

先日ある日記書きさんから、この日記を自サイトのリンクページに掲載してもよいかどうかを尋ねる旨のメールが届いた。
文中リンクを張ったりリンクページに登録したりする際に「かまいませんか」とお問い合わせいただける、あるいは事後にご報告いただけるのはとてもうれしい。私はすぐさま「張るも外すもお好きになさってください」と返事を送った。
そういう場合の先方への連絡を義務だとは思わないので、声高に主張するつもりはない。しかしながら、個人的にはそれは「マナー」という言葉を使ってもおおげさとは思わないくらい大切にしたいプロセスだ。
なくてもかまわない、むしろないのがふつうなのだろうけれど、そのひとことがあるとずいぶん心証が違ってくる……という事柄は世の中にはたくさんある。新幹線で前の席の人がシートを倒すとき、振り向いて軽く会釈などをしてくれると「遠慮なくどうぞ」と笑顔を返したくなるものだが、その感じと似ている。
たしかに私にリンクの承諾を求めるメールを送るというのは、結果だけ見る場合にはあまり意味のある作業とはいえないだろう。なぜなら仮に「ここにはリンクされたくないな」と思ったとしても、私が申し出を断ることはおそらくないから。そういう権利はこちらにはたぶんない。
でもだからこそ、私は相手の方が事前に連絡を入れておこうと思ってくれたことに感謝したくなる。
このサイトにリンクページなるものはないけれど、誰かの日記に文中リンクさせてもらおうと、先方にお伺いを立てることはたまにある。すると、たわいもない感想メールを送ったときよりもずっと早く返事をいただけることが多い。
「いまバタバタしているので、とりいそぎOKの旨だけお伝えしておきます。愛想なしですみません」
といった文面で返ってくることもある。こちらの更新のことを気にかけてくださっているのだ。
ありがたいなあとしみじみ思う。いい人だなあとますます好きになる。こういう発見ができる(可能性が少なくない)ことを思えば、一日や二日更新が遅れることなどなんでもない。惜しむべき手間ではないとつくづく思う。
もっとも、こんな悠長なことが言えるのはここが毎日更新でなく、私の中に「リアルタイムで書きたい、読んでもらいたい」という欲求が希薄だからなのかもしれないけれど。
この日記には「今日」という単語はまず登場しない。「昨日」でさえほとんど出てこない。他に適当な名称がないから“web日記”と称しているものの、私はここにアップするテキストに日記帳の役割は期待していない。
なにがあったか、どんなことを考えたかといったことは正確に記録しておきたいけれど、それが何月何日に起こったのかについてはさほど執着がない。過去ログを読み返したときに、「二〇〇三年の前半のことだったんだ」とか「三十一の夏の出来事だったのね」という具合にだいたいの時期がわかればよい。
よって、私はここ半年くらいの出来事はすべて「先日」「最近」「このあいだ」で片づける。本当に大切なことは“記念日”にして心にしっかり刻みつけるので、サイトの中で日付の正確性にこだわる必要はないのだ。

ときどき他の方の日記で、「明日は忙しくて更新できそうにありません。ごめんなさい」といった一文を見かけ、不思議な気持ちになることがある。
更新を楽しみに待ってくれている読み手に対する「期待を裏切って申し訳ない」であることはわかるのだが、私には口にできないフレーズだなと思う。
私にとって、「読まれることを想定して書くこと」と「誰かのために書くこと」は別物である。これだけ長い文章を読みにきてくださる方には心から感謝しているけれど、だからといってその人たちのためにと思いながら書いたことはない。
web日記の書き手として前者は必須項目だけれど、後者は私には無用だ。誰かのために書くなんてことが自分にできると考えるのはおこがましいし、それよりなにより、そういう心持ちは書く動機を不純にしてしまいそうでイヤだ。
とはいうものの。こんな私でも殊勝な気持ちになる瞬間がまったくないわけではない。
フランスのことわざに「なにを笑うかでその人がわかる」というのがあるが、「なにを読むか」もまた如実にその人を語る。仲間入りさせてもらったばかりのリンクページの紹介文を拝見しているときだけは、「この人の顔に泥を塗らぬよう、これからもきちんと書かなくっちゃ」なんて身の締まる思いがする。
そういう意味でも、リンクの際はひとこといただけるとうれしいなあと思うわけだ。

【あとがき】
中には「リンクなんか勝手にやってよ。いちいち返事するの面倒くさい」という人もいると思います。でも、すべての人にとって好ましいマナーなんてこの世にないわけですから、「リンクの連絡は不要です」と明記してあるところ以外には私はやはり事前に一報入れたいです。ネット上に公開されていて誰でも読めるようにしてあるんだから断りを入れる必要はないという言い分は間違っていないけど、私自身は黙ってというのは気乗りしなくて。


2003年07月19日(土) 青春の終わり

村上春樹さんのエッセイの中に、胸がきゅっとなるこんな話があった。
打ち合わせの場に現れた女性を見て、あっと息を呑んだ。昔とても好きだった女の子にそっくりだったのだ。
目の前の彼女と記憶の中のガールフレンドは別の人間。これは幻想であり、ふとすれちがって消えてしまうべきものなのだ------それはよくわかっていた。なのに、別れ際彼女に言ってしまった。
「あなたは僕が昔知っていた女の子にそっくりなんです。本当にびっくりするくらい」
心のどこかにこのまま終わらせてしまいたくないという気持ちがあったのだ。
でも、言ったとたんに後悔した。彼女は美しい笑顔でこう答えた。
「男の方ってよくそういう言い方するのね。洒落た言い方だと思うけれど」

そうじゃないんだ、これは洒落た言い方なんかじゃない、僕は何も君を口説こうとしているわけじゃない、君は本当にあの子にそっくりだったんだよ、と僕は言いたかった。でも言わなかった。何を言っても所詮は無駄だろうなと僕は思った。


その瞬間、村上さんは自分の中の何かが失われてしまったと感じたという。これまで大事に大事に守ってきた「彼女の記憶」がその短い会話によって一瞬にして消えてしまった、と。
そしてそのとき、自分の青春に幕が引かれたことをはっきりと認識した。三十のときのことだったそうだ。



あれを青春の終わりとみなすべきなのかはいまのところわからない。けれど、自分の中でたしかに何かが失われ、何かに終わりを告げたのだと悟った瞬間というのは私にもある。
二十代の前半、別れを告げられたあとも長いあいだ、私はその彼を思いつづけていた。本当に好きだったからであるのは言うまでもない。しかし、忘れようにも忘れられる環境ではなかったことも大きい。
新卒で入社した会社で、現場研修を終えた私が配属されたのは本社営業部。初出社の日、人事部の人にOJT上司となる先輩社員のところに連れて行かれた私は紹介された男性を見て、あっと声をあげた。
どうした運命のいたずらだろうと思った。目の前にいる男性は顔や体格、雰囲気まで心の中の彼にそっくりだった。
その人は呆然としている私を見ておかしそうに笑い、そして言った。
「よお、ひさしぶり」
それはひとつ年上の、彼の従兄だった。
その人には何度か会ったことがあった。つきあっていた彼の親戚であるというだけでなく、私を含めた三人は大学のゼミの先輩・後輩の間柄でもあったから。まったくの偶然で私がその人と同じ会社に入社することが決まったときも、ふたりで報告に行った。
だけど、まさか同じ部署で机を並べて仕事をすることになるなんて……。
私はその後、彼らが外見のみならず笑い方や口癖、書く文字まで似ていることを知ることになる。家が近所で兄弟のように育てられたと言っていたし、彼は「にいちゃん」に憧れてもいたから不思議はなかったけれど、私にはせつなくて、せつなくて。ことあるごとにその人の中に彼の面影を見つけては、胸のうずく日々を送っていた。
それでも、“日にち薬”とはよく言ったもので。何年かの時が流れ、私はようやく彼の記憶を上書きしてくれそうな恋にめぐり会うことができた。
そんなある日、仕事中にその人がふと思い出したように言った。
「あいつから聞いてる?」
彼とは別れてから連絡を取っていない。聞いてるってなにを?
そう訊き返そうとして、心臓がどきんと音を立てた。私の「その先は言わないで」は間に合わなかった。
「あいつ、結婚するねんてな」
彼とのことはすでに終わったことだ。長い長い時間がかかったけれど、私の中でもう決着のついたことだった。それなのに、全身から力が抜けていくのがわかった。
私ははじめて、「ああ、これで本当に、今度こそ本当に彼と終わるんだ」と思った。ここでふたりの糸は完全に……永遠に切れてしまうんだな、と。
その瞬間、私は自分の人生にひと区切りついたことをたしかに感じたのだ。

青春のはじまりはこうだった。
高校三年生の秋、ある視聴者参加番組を見ていた私は出場者のひとりが画面に映し出されたとき、雷に打たれたようなショックを受けた。そう、ひと目惚れというやつだ。
こういうとき、ファンレターを送ろうと考えるのがふつうなのかもしれない。しかし、私は「この人に会いに行こう」と思った。彼の大学と所属しているサークルはわかっている。ならば、この人の後輩になって正攻法で出会おう、と。
そして、私は推薦で決まっていた地元の大学を蹴って受験勉強を再開、翌春その大学の門の前に立った。
いま思えば、テレビの中に彼を見つけたあの瞬間に私のタイムウォッチは押されていたのだ。

ときどき、あの頃の自分を懐かしく思い出すことがある。
かつて母に「あんたはほんまにイノシシ年の子や」と言わしめた、こうと思ったら迷うことなく突き進むあの瞬発力、あの推進力はいまの私にはもうない。
それを思うとき、終わってしまったかどうかはともかくとして、「青春」という名の数値軸の真ん中付近にいないことだけはたしかだな、と思うのだ。

【あとがき】
で、そのひと目惚れの君とはどうなったかって?ちょっと計算違いがあって、「再会」を果たしたのは2年後でした。その人とは特別な関係にはなれなかったけれど、「よく会いにきてくれたな」と言われたときは涙がこぼれました。「この人に出会ったことで自分の人生が変わった」と思える人は、夫をのぞけば私にはふたり。そのうちのひとりがこの先輩です。


2003年07月17日(木) サイトの中の私

先日、うれしいことがあった。少々自慢っぽくなるのだが、ええい、書いてしまえ。
ある日の日記に、「おバカなテレビばかり見て夫をあきれさせている私。そのうち愛想を尽かされたらどうしよう。それでなくても、ふだんからなにも考えていないと言われているのに……」と書いたところ、「なにも考えていないと言われているですって?日記を読んでいるととてもそうは思えません」というメッセージがいくつか届いたのだ。私は感激のあまり、プリントアウトして夫の枕元に並べてやろうかと考えたほどである。
というのも、夫と話していると「この人は私という人間を大きく誤解している」と思う瞬間にしばしば出くわすから。彼には妻を全般的に不器用な人間だと思っているフシがある。
たしかに、お金の管理は苦手、車の運転はできない(免許はある)、政治経済に疎い、方向感覚のなさは救いようなし……など、なんでも卒なくこなす彼の目に鈍くさい女に映っていてもしかたがないと思う部分もある。が、妻を運動音痴だと思い込んでいる点についてだけは心の底から憤慨しているのだ。
夫の前ではじめて自転車に乗ったとき、彼は驚愕の面持ちでつぶやいた。
「自転車、乗れたんだ……」
当たり前だ。ウィリーだってできるわい。
しかし、彼は一事が万事その調子。なぜだか知らないけれど、私を金槌だと信じて疑わないし、十年つづけているエアロビクスのことも盆踊りに毛の生えたようなものと考えている。私としてはドラえもん音頭よりは武富士ダンスに近いと思っているので(まあ、ちょっとちがうけど)、とても悔しい。
たとえば見た目がものすごく華奢だとか、逆におデブだとかいうなら話はわかるが、私はどちらでもない。じゃあなにが彼にそう思わせるのか。
どうやら彼の脳には、過去スキー場で何度となく目にした私の醜態が強烈にインプットされているようなのだ。
私に言わせれば、スキーなんて高校の修学旅行でしかしたことがないのだから、板がひとりでに天を向くのも転んだ拍子にありえない方向に手足が曲がるのも、運動神経うんぬんの問題ではない。にもかかわらず、彼は雪だるまと化して、絶叫しながらゲレンデを落っこちてくる私の姿をつい何事にも重ね合わせてしまうらしい。
しかし、これがまた屈辱で。その手のことを言われるたびに大人げないと思いつつも、
「十二年間、体育では5以外もらったことがないんだから」
「器械体操以外はいつもクラスのお手本だったんだから(あれだけは体が固くてだめだった)」
「帰宅部のあなたより百倍は運動してきたんだから」
とまくしたてるのであるが、そんな姿はどうしてもイメージできないと首を振られてしまう。無念だ。

が、そううなだれつつも、私は夫にちっともいいところを見せていないのだからしかたがないのかもしれないな、とも思ったり。私の趣味はひとりでやるものが多いため、生き生きとなにかをしていたり得意分野で活躍しているところを披露する機会がほとんどないのだ。
エアロビクスはイイ線いっているのではないかと思うが、彼の前で踊ることはまずない。私がインターネット上でどんな文章を書いているか知らないから、妻だってたまにはまじめにものを考えることもあるというのをアピールすることもできない。これはかなり不利な気がする。
いただいたメッセージを読み返しながら、「ほれ見ろ、出るとこ出れば私だって」とつぶやいてはみたものの、実際のところは二年半も一緒に暮らしてきた相手に「あなたのそれは誤解だ」もない。彼の中にあるのはイメージではなく、実物そのもの。彼が妻を不器用だと思っているなら、やはりそうなのだろう。百%イメージでできているのは「小町さん」のほうなのだから。
そういえば、サイトを長くやっていると読み手の中で自分のイメージが固まってくるのでだんだん息苦しくなってくる……という話をよく耳にするけれど、いまのところ私にそういう感覚はない。それどころか、書けば書くほど私の中のある側面が強調されてゆき、結果として小町という人物のキャラが立ってくるのを興味深く感じている。
私はフィクションは書けないし、別人格を演じる器用さも持ち合わせていない。が、意図的にではないにせよ、実物の私のある部分が突出することによってつくられている「小町さん」はやっぱり架空の人だと思っている。
以前は読み手に本当の自分を知ってもらいたいと思ったこともあったが、自分の書くものでそれを望むのはむずかしいと知ってからはそんな気負いはない。それよりもいまはサイトの中に住む「小町」という名のキャラクターがテキストをエサにしてすくすくと育ってゆくさまを観察するのがおもしろい。
何かを書いて、「小町さんらしい考え方だなと思いました」なんて言われるのもまた楽しからずやだ。

【あとがき】
家族を含め、実生活の友人知人は誰ひとりここを知りませんが、もし読んだら驚くのではないかと思います。実生活ではあまり見せることのない側面がサイトの中では強く表れていて、「小町」という人の特徴になっているような気がしているので。実物の私はこんなにきつくないですから(もうちょっと可愛げあるもん)。サイトで知り合い、その後個人的に親しくなった方がどの程度ギャップを感じておられるのかはさだかではないけれど。


2003年07月14日(月) お詫びの言葉は

朝刊の投書欄に載っていた、二十代の女性が書いた文章が目に留まった。
書き出しが「シートベルト未着用で違反切符を切られたのですが、どうしても納得のいかないことがあります」であったので、取り締まりの方法や罰則金についての不満が書かれてあるのだろうと思っていたら。

それは取り締まりをしていた警察官が終始、私に謝っていたことです。
まず、停車した時に「忙しいのにすみません」。次に「では大変申し訳ありませんが、あちらの方へ行ってください」。最後は「お忙しい中、申し訳ありませんでした」。
さて、私は何のために警察官に呼び止められたのでしょう。そして、悪いことをしたのは誰なんでしょう。


発車の際には「申し訳ありませんが、シートベルトをお願いします」と言われて送り出されたというのだから、苦笑してしまうではないか。彼女は「社会のルールを破った者を取り締まっているのだから、もっと毅然とした態度で接してもよいのではないか」と書いていたが、まったくそのとおりだと頷いた。
というのも、先日こんなことがあったのだ。友人と食事をしたあと、最寄駅まで帰り着いた私は階段をあがり地上に出たところで愕然とした。
「こ、小町号がない……」
駅前に停めておいた愛車(愛チャリ)が忽然と姿を消していたのである。
もしかしたら停めた場所を勘違いしているのかもとあたりを見渡してみたが、希望はすぐに打ち砕かれた。脇に見慣れぬ立て看板が置かれてあり、「ここは駐輪禁止区域です。自転車の引き取りについてのお問い合わせは……」と書かれていたのだ。私は悔しさのあまり歯ぎしりしながら夜道を歩いた。
翌日、出勤前に保管場を訪ねた。「自転車を受け取りにきました」と声をかけると、見るからに定年退職後、第二の職に就いているといった風情のおじさんがすみやかに探し出してきてくれたのだが、私は礼を言いながらも、このあとのことを思いうんざりしていた。電車で来たから帰り道がわからないし、この暑さである。無事に家までたどりつけるだろうか。たまたま停めた日にかぎって撤去作業があるなんてついてない……。
そうしたら。私がなにを考えているのか伝わったのだろうか、私から保管料を受け取りながら、おじさんが穏やかな口調ながらもきっぱりと言ったのだ。
「あそこは停めちゃいけない場所だから。近隣の住民から苦情が出てるから、もう置かないでね。それに盗難に遭ったら自転車もかわいそうでしょ」
はっとした。
「この暑いのに、あんなへんぴなところまで取りに行かなきゃなんないなんて」
「引き取りは平日のみ、しかも十九時までなんて。こっちは二十一時定時なのに」
「一万円で買った自転車に千五百円の保管料。ばかばかしいなあ」
「小町号がないと買い物にもフィットネスにも行けない。困ったなあ」
昨夜から半日間、自分が被害者のような気でいたことに気づいたのだ。そしてそのとき、私の口から「すみませんでした。以後気をつけます」という言葉が自然に出た。
もしおじさんに「こんな遠くまで来させて悪かったねえ。それと申し訳ないけど、保管料ちょうだいできるかなあ」とぺこぺこされていたら、私はなにかを勘違いしたまま保管場を後にしていたにちがいない。

私はいま、クレジットカード会社でテレコミュニケーターをしているのだが、仕事中によく疑問に思うことがある。
月末に口座振替ができなかったお客様にその旨をお伝えするのが業務なのだが、同僚が「申し訳ありません」をやたらと使うのである。
「申し訳ございませんが、○日にお引き落としすることができませんでした」
「大変申し訳ないのですが、当社指定の口座にお振込みいただけますか」
いつもひっかかりを覚える。大切なお客様ではあるが、あちらに手落ちがあったために発生した事態なのだ。誠意のある対応は「恐れ入りますが」「お手数ですが」で十分できるのではないのだろうか。
早急にお願いしたいと言っているのに「ハイハイ、そのうちね」なんて答えが返ってくるのは、相手が「これからは気をつけなくっちゃ」という気持ちをまったく持っていないことの表れである。こちらの必要以上のへりくだりが彼らを鈍感にさせているのではないか。
社員さんのトークにはその言葉がほとんど出てこないことからも、今後きちんと約定決済してもらうためには考えなしの「申し訳ございません」は逆効果だと思えてならない。
食品メーカーに勤めていた頃、お客様電話を取る機会があったのだが、先輩からしつこく言われたのは「お詫びの言葉を口にするときはくれぐれも慎重に」ということだった。いったんそれを言ってしまうと、あとになってこちらに非がないことが明らかになっても「でもお宅、あのとき謝ったじゃないか」と言われ、引っ込みがつかないからだ。
「恐れ入りますが」「お手数ですが」「失礼ですが」はそれぞれ意味が違う。言いにくいことを切り出さねばならないときや相手が怒っているときは、厄介なことにならぬようとりあえず下手に出ておけ、と考えがちだけれど、なんでもかんでも「申し訳ありませんが」で代用するのは長い目で見たとき、こちらのためにもあちらのためにもならないことが多いのではないだろうか。
どんな言葉にもいえることだが、とりわけ「申し訳ありません」は私にとって軽々しく使いたくないものだ。その言葉を心から誰かに届けたいと思ったとき、それがなんのありがたみもない薄っぺらい言葉に成り下がっていたら、そんな不幸なことはない。

【あとがき】
言葉って、実感もないのに気安く使っているとだんだんその意味に鈍感になってくるんじゃないかと思うんです。スポイルされてしまうんです。言葉は自分の内面にある目には見えないものを相手に伝えるためにもっとも有効な手段じゃないですか。固いこと言うつもりはないんですけど、書き言葉はもちろん話し言葉でも、あんまりいい加減な言葉の選び方はしたくないなと思います。


2003年07月04日(金) 「共有」がもたらすもの

会社帰りの人で賑わう梅田のデパ地下を歩いていたときのこと。ある店の前を通ったら、「でしたー!」という元気のよい声が耳に飛び込んできた。
振り返ると、帰り支度をしたアルバイトとおぼしき男の子が店から出てくるところだった。忙しそうに立ち働いているほかの男の子たちが早上がりする彼に向かって、口々に「でしたー」「でしたー」と声をかけている。
その光景に、私はとてもうれしくなった。むかし、私はその店で一年半ほど働いたことがある。新卒で食品メーカーに入社した私と百人の同期は、まず「現場」であるところの全国の百貨店の中にある自社店舗に販売実習に出されたのであるが、私が配属されたのがその店だった。
そして当時、そこで日常的に使われていたあいさつ言葉のひとつに「でした」があったのだ。
それは、お疲れさまでしたの略。一足先に上がる人が「お先に失礼」の意味で「でした」とあいさつすると、ほかのみなも「(お疲れさま)でした」と返す。
誰が流行らせたのか、いつから使われているのかを知る者はいなかったが、社員もアルバイトも当たり前にそれを使っていた。その店で働く人間のあいだでしか通用しないその符丁は、なにかこう一体感のようなものを覚えさせる不思議な言葉だった。
あれから八年近くたつ。いっしょに働いていた人たちは誰ひとり残っていないけれど、あの言葉だけは受け継がれていたんだな。
そう思ったら、前を行くコック帽と前掛けを外した男の子の肩をぽんと叩いて、「でした!」と声をかけたくなった。

糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』というサイトの中に、「オトナ語の謎。」というコーナーがある。
あなたのまわりにもプライベートで使うことはまずないのに、ビジネスシーンでは日常的に口にする言葉や表現があるのではないだろうか。オトナ語とはそういった、まるで社会の常識のような顔をしてオフィスを飛び交う謎めいたビジネス会話のことだ。
たとえば、
ざっくり見積もって四千万ですね」
「この項目はマストです」
「では、早速現場に落とし込みをして……」
「じゃあ営業と制作にも加わってもらって、せーので始めましょうよ」
「営業さん、ここはひとつ泣いてもらえませんか」
「なんとかお互いハッピーになるような形をめざしてですね」
ほかにも「叩き台」「すり合わせ」「前倒し」「ネゴる」「ウェルカムです」「仲良しクラブじゃないんだから」などなど、思わず「ある、ある!」と声をあげたくなるものがわんさか。
私は企画部門にいたので、よく営業から「夏はどんなタマが出てくるの?ぜひともウルトラCを頼むよ」なんてプレッシャーをかけられたなあと懐かしくなってしまった。
人は仲間内でしか通用しない言葉や特定の環境下でしか使われない言い回しを口にするとき、なぜかそれを理解する人たちとの連帯が強まったような気がしたり、テンションの高揚を感じたりするものである。

……のだが。
ニュースを見ていたら、プロ野球オールスター戦のファン投票で、嫌がらせ投票によって一位が確定した中日の川崎投手が出場辞退を発表した、と伝えていた。
騒動の発端はインターネットの掲示板。「サボリ選手を球宴一位に」の呼びかけに、おもしろそうと乗った人間がたくさんいたらしい。そのうちのひとりが、
「みんなでなにかしてありえない結果つくるのって、なんか楽しいじゃないですか。全国に同じこと考えてる仲間がいるんだなとか思ったら」
とインタビューに答えていたが、奇妙な共犯意識が彼らを“団結”させたのだろう。
「はじめ十位ぐらいに名前があがったときは、故障で一昨年から一軍登板していないけど応援してくれている人がいるんだなとうれしかったが、事態を知って悔しい思いをしています」
本当に気の毒な話だ。
「一部の人間にしか理解できないなにかを共有している」は親密さを増すのに貢献するが、ときに好ましくない形で人を結びつけてしまう危うさもはらんでいる。

【あとがき】
他にも「さくっと」「投げる」「ブラッシュアップ」「キックオフ」「ペンディング」など、それ使うよねえ!と頷いてしまうものがたくさんあっておもしろい。よかったら「オトナ語の謎。」のぞいてみてね。


2003年07月02日(水) 許してね。

北川悦吏子さんのエッセイの中におもしろいくだりを見つけた。北川さんといえば、『愛していると言ってくれ』『ロング バケーション』などを書いた売れっ子脚本家であるが、彼女は過去に書いたラブレターはすべてドラマの中に収録済みだという。
最初の頃こそ、おなかを痛めて生んだわが子を荷馬車に乗せて売りに行くような気持ちで胸が痛んだが、締め切りを前にするとそんなセンチメンタルなことは言っていられない。そうして必要に迫られているうちに次第に慣れ、いまでは書きあげた瞬間から「これはいつか金になるかも」と思うことさえあるのだそうだ。
私は思わず、「あ、それわかるなあ」と頷いていた。もちろん日記書きとプロの仕事をいっしょにするつもりはない。が、北川さんの「プライベートなラブレターを公に晒す」は趣味で書いている私にもズバリあてはまることである。
私はつねづね思っている。読ませるテキストを書くことができる人は必ずといってよいほど、絶好のポイントで過去の経験や適切な情報を上手に引っぱり出してきて、エピソードとして挿入する能力に長けている、と。
文法的に間違いのない文章を綴ることができるとか、語彙が豊富であるなんてことはたいして重要ではない。例え話の上手な人の話がわかりやすいように、そのテキストが骨太で身の詰まったものになるかどうかは、書き手のキャラや主張を裏打ちするような挿話を絶妙のタイミングで盛り込むことができるか否かにかかっているのだ。
そんなわけで、私も書くときには必ず「使えそうなネタはないかしら」と記憶の貯蔵庫を漁ることにしている。
ご承知のとおり、私はここで愛だの恋だのについて書くことが多い。思えば、相当な量の「ラブレター」を放出してきたものだ。もっとも、波乱万丈な恋愛人生を送ってきたわけでなし、過去に書いてきたあれやこれやは誰でも身に覚えがあるのではないかしらと思うほど、ありきたりなものばかりであるが。
たとえば、「スペア取ったらいいことあるかな」「じゃあキスしたるわ」(2003年5月12日付「ボウリングの思い出」)とか、「手の平がさみしいナー」「しゃあねえなあ」(2003年6月21日付「フェチ・コメント発表」)といったエピソードを万が一彼らが目にすることがあっても、書いているのが私であると知らなければ、自分のことだとは気づかないにちがいない。
しかし、もし気づいたとしたら。「よくも人のことを無断で」と怒るだろうか。「すぐに削除してくれ」と言うだろうか。
いや、そんなことはないのではないかしら……。図々しくも、私はそう思っている。
「だって嘘は書いてないもん」とか、「ドラマで何千万人にお披露目されるのに比べたら、罪は軽いでしょ」なんてことが理由ではない。「あなたがたのことはいつも愛情と感謝を込めて大切に書かせてもらっている。テキストの中で不当な扱いをしたことは一度もない」という思いが、苦笑いですませてもらえるのではないかという楽観を生んでいる。
北川さんは「こうして私は過去のラブレターを何度か売ったが、実際にそれを渡した相手には、バッサリ切られる覚悟をしている」とおっしゃっているが、私が彼らに殴られたり絶交されたりすることはたぶんない。

……と思っているのが、これはもしかして私のとんでもない勘違いなのだろうか。実は先日、そんな不安がちらりとあたまをかすめた出来事があった。
お時間のある方は読んでくださるとうれしいのだけれど、ある女性がご自分のサイトで、私が以前に書いたテキスト(2003年6月11日付「ひとこと言わせて。」について、「夫の悪口を書いた日記」と表現しているのを見つけた。
「悪口」の二文字を見て、私は心底驚いた。そんなものを書いた覚えはまったくなかったからだ。それを辞書で引くと、「人を悪く言うこと」とある。しかし、実際には日常生活の中のネガティブな発言すべてを「悪口」という言葉でひと括りにする大人はあまりいないのではないだろうか。
多くの人にとってのそれは、たとえば「正当性に欠ける」「悪意に満ちた」「面と向かって言えないことを陰でこっそり」といったニュアンスを持つ、非生産的でかなり低次元な代物ではないかと思う。
あれは夫に対する不満であり、抗議であり、要求である。私にとって、それらは悪口とはまるで質の異なるものだ。愚痴や文句だと受け取られるのは無理ないとしても、悪口とは心外だと思った。もし彼女のほかにもあのテキストを読んで「どう見ても悪口でしょ」と感じる人がいるならば、私は言葉の選び方のまずさ、表現の未熟さにあたまを抱えなければならない。
私たちは自分の書いたものが読み手にどう読まれたかを知ることはほとんどできない。しかし、それは案外幸せなことかもしれない。もし解釈の行方がわかったら、「なんだ、ちっとも伝えられていないじゃないか」といちいち自分に腹を立てたり落胆したりしなくてはならないだろう。

<追伸>
過去におつきあいのあった何人かの男性と、今後もおつきあいのつづくひとりの男性へ。
「悪口なんか書かないよ。だからこれからもちょくちょくご登場願うこと、許してね」

【あとがき】
だから、挿話の原材料となる経験と知識の貯蔵庫が充実している人の書くものは読み応えのあるものが多いですね。自分が書いていても思うのだけれど、当時は気にも留めなかった瑣末な出来事が、小さなエピソードとしてテキストに差し込んだとたん、鮮やかに発色することがあるんですね。それのあるなしではテキストの厚みがまったくちがってくる、という不思議な現象。私は文章を書いているかぎり、人生に無駄な経験などひとつもないと心から思うことができます。