週末、買ったばかりのエッセイを読みたくて、ランチの客が退ける頃合いを見計らって喫茶店に入った。
われながら神経質だなと思うのだが、私はちょっとまじめになにかを読んだり書いたりしようとするとき、音楽がかかっているとだめ。漫画喫茶でさえ有線が邪魔だなあといつも思うし、日記を書くときにCDやテレビを消すのももちろんである。
が、幸いなことに店内を流れるBGMのボリュームはかなり控えめ。よかった、これなら気が散ることもなさそう、と私は心の中で手を叩いた。
しかし、意外なところに落とし穴があった。注文したミルクティーがやってきて、さあとページを開いたら、ふいに隣席の女性客ふたりの会話が耳に入ってきた。
「で、彼とけっこういい雰囲気になってて。これはひょっとしたらひょっとするかも、とか期待してんねん」
「ふうん、そうなんや」
学生時代、授業中机に突っ伏して寝ていても、先生に自分の名前や出席番号を呼ばれるとはっと目が覚めたものだが、あれと同じようなものだろうか。隣のテーブルで私の好物であるところの愛だの恋だのの話がはじまったとたん、私の耳は「本に集中したい」という意思に反してその声を拾ってしまったのである。
こうなってしまうともういけない。彼女たちが話題を変えてくれないかぎり、再び神経を本に向けることはできない。私は観念してページを閉じた。
どうやら彼女は合コンでその男性と知り合った模様。メールで話す仲になっているらしく、自慢とも惚気ともつかない話を目の前の友人に延々聞かせていた。
……と思ったら、突然「今日は家にいるとか言ってたし、ちょっと呼んでみよっか」と言いだし、本当に携帯から電話をかけてしまった。
彼女が電話に出た彼と嬉々として話すのを聞きながら、私は心の中でうへーとつぶやいていた。こういう人、ときどきいるんだよね。
自身の恋愛話を一方的に誰かに聞かせることほど野暮なことはないのに、彼女はそのことにはもちろん、聞き役の友人の反応にもまったく気づいていない。友人の女性が「その話はもういいよ」とうんざりしているのは、表情を見なくてもその相槌を聞いているだけで隣席の私にまで伝わってくるというのに。
「空気を読めない」とはまさにこのことだろう。運動神経ならぬ会話神経のずいぶん鈍い人だなと思いながら、私は席を立った。
「空気を読めない」といえば、最近内館牧子さんのエッセイの解説を読んだときにもその言葉を思い浮かべた。
内館さんの相撲好きはつとに有名だが、彼女はエッセイの中でもやはりその話題をよく取りあげる。それについて、歌手の辛島美登里さんが巻尾の解説の中でこんなふうに書いていた。
一言書いていいですか?あの。相撲のこと、あんまり書かない方がいいんじゃないかと。 ワタシ、別に相撲嫌いじゃないですけど、何というか、度を越していると言うか。「外国人横綱」のページ、内容は全く私も同感なんですけどやっぱり「星安出寿」とか「星誕期」とか、いきなりその漢字見ちゃうと思わず、(ヘンなオバサン……)と思っちゃうんです。
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「なんか場違いな文章だなあ」というのが、全文を読んでの私の感想。解説ページというのは著者と親交のある人がはなむけの言葉を贈る場だと思っていたが、こんな“エール”もありなのかと驚いてしまった。
そうしたら、最後に追伸として、
カドカワの編集者から電話が入りました。『もうすこし、内館先生の良い点も書いていただけませんか?』ですって。
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という一文が載っていたので、やっぱりねと納得。
解説というのは著者の人柄や作品を褒めちぎるのが通例だから、そう面白いものではない。しかし、だからといって書いた本人が、
なんだか不安になってきた。内館さんはここまで読んで怒っちゃうだろうか?だ、だ、だいじょうぶ、ですよね、ね。
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なんてフォローを入れずにいられないような文章はもっと読みたくない。その人が好きで読んでいるこちらまで小馬鹿にされたような気になるから。辛島さんは親しみを込めて、あえてこういうおちょくったような文章に仕上げたのだろうが、内館さんの読者がそれを読んでどんな気分になるかまでは思い至らなかったらしい。
たしかに彼女は本音を書いた。が、解説ページというのがどんな場で、自分がどういう文章を求められているかについては考えなかったのではあるまいか。
こういうのもまた、「空気を読めない人」というのではないだろうか。