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2002年07月28日(日) 甲斐性

テレビをつけたら、懐かしのアイドル、浅香唯が大勢のリポーターに取り囲まれていた。
どうしていまごろこの人が?と思ったら、歌手時代に知り合ったバックバンドの男性と十五年目の交際記念日に入籍したという。
はじめは「へえ、いまも芸能活動してたんだ」くらいでとくに感想もなく画面を眺めていた私であったが、会見の中の彼女のあるひとことを聞き、にわかに好意が湧いた。
「生まれてはじめて好きになった人と結婚できて幸せです。お互いに寄り道(浮気)はないと思います」
こういう話を聞くと、私は無性にうれしくなる。「いい話を聞かせてもらいました」とお礼を言いたいような気持ちにさえなる。
本当に「生まれてはじめて」かどうかはともかく、どんなときも相手を信じることのできる強さ、愛しつづける勇気、自分が大事にしなければならないものがなんなのかを理解している賢さ。そういうものを持ち合わせているのはすばらしいことだ。
そりゃあまあ、「その人しか知らないで結婚する」という部分についてはちょっと考えてしまうけれど。
私なら、イチゴやメロンやブドウと食べ比べをした上で、「でもやっぱりモモが一番好き」と選択したい。生まれてこのかたモモしか食べたことがないという状態での「果物といえばモモよね」ではなく。でも、もし彼女がこの先もモモ一筋で満ち足りた人生を送ることができるなら、それはそれで素敵だとも思う。
結婚前の十四年は長い。恋愛盛りの年頃の男と女がそれだけの期間、互いに相手の気持ちを自分に繋ぎとめておくことができたというのはすごいことだと思う。
さまざまな幸運が味方したのだろうが、それぞれにそれだけの魅力があったということだ。結婚していたって、そこまで持たないカップルは少なくないというのに。
そう思うと、たいした甲斐性だなあと感嘆のため息が漏れた。

この季節だからだろうか。最近、朝刊の読者投稿欄に、先立った夫や妻を偲ぶ年配の方の手記が掲載されることが増えた。

夫が逝って18年が過ぎた。夢でもいいから会いに来て、と願っていたら、昨夜はつらつとした姿で枕元に現れた。
「お父さん、帰ってきたん。ゆっくりして行きな」
「あかんねん。待ってる人がいるから早よ帰るわ」
そそくさと消える彼を見送りながら、嫉妬している自分に驚き、目が覚めた。
胸の動悸を抑えながら、「いいよ、あなたが幸せなら。まだそちらに行く気はないけど、私の席は空けておいてね。それまでは、彼女?その人と仲良くしててもいいわ」とつぶやいた。


胸に込み上げてくるものがあり、思わず顔を上げたらテレビの画面には高木ブーさんのド・アップ。しんみりした気分と対照的な絵面だわと思ったら、彼は妻のお手製だという一枚のアロハシャツを胸に当て、目を潤ませていた。
「僕は愛妻家っていうより、彼女に惹かれてたんですよねえ……」
投稿者の夫も高木ブーさんの妻も、予定よりずっと早く旅立たなければならなかったことは無念だったろう。でも亡くなってからずいぶん経っても、これだけ思われているなんて。生前も幸せだったに違いない。
私にはそれだけの甲斐性があるだろうか。何年経っても「たまには夢に出てきてよ」と夫につぶやかせるだけの、目を潤ませるだけの甲斐性が。

【あとがき】
死ぬときに、「この人と結婚してよかった。次もまたこの人としたい」と思えるような結婚生活を送れたらいいですね。そりゃあ相手にもそう思ってもらえることを望むけど、まず自分がそう思えることが大事で。だってそれは「幸せな人生を送れた」ということだから。
先日、新聞に「生まれ変わってもいまの夫・妻と結婚したいですか?」というアンケートが載っていました。詳しいパーセンテージは忘れましたが、「またいまの相手と」と答えた女性は男性の半分ぐらいでした。わはは!


2002年07月23日(火) プロポーズのときに指輪はいらない

ふだんアクセサリーの類をほとんどつけず、時計さえあまりすることのない私。
が、昔から指輪だけは大事にしてきた。私にとってそれは、装飾品でしかない他のアクセサリーとは明らかに異なる存在だ。
男性に「誕生日に恋人からもらいたいプレゼントは?」と尋ねると、挙げられるアイテムはかなりバラけそうな気がするが、妙齢の女性だったらどうだろう。答えはダントツで「指輪」ではないだろうか。私はそうだ。
「人形には作り手やそれをかわいがっていた人の魂がこもる」とよく言うが、私にとっては指輪がそう。指輪ほど人の気持ちがこもるものは他にないと思っている。だから、本当に好きな人からしか望まないし、そうでなければ価値もない。
ゆえに、それをくれた人とサヨナラしたら、たとえデザインがどんなに気に入っていようと使いつづけることはできなくなる。
「指輪に罪はないしね」と言ってのける女性も少なくないけれど、私は指輪だけは贈ってくれた人の気持ちと切り離して考えることができない。愛情を感じていたいと思うから身につけるのであって、それを失ったからといって単なるモノとして見たり扱ったりすることはできなくて。
それが指輪がバッグや洋服のプレゼントと横並びにはならない理由だ。

結婚指輪に話を戻す。
私は結婚指輪をつけっぱなしにはしていない。窮屈感があるとか料理するのに清潔でないということもあるけれど、最大の理由は傷つけたくないからだ。
長く付き合っていたにもかかわらず、夫は結婚するまで指輪だけはプレゼントしてくれなかった。私がそれに並々ならぬ思いを抱くように、彼も「女の子に指輪をあげる」という行為に特別な意味を見出していたのだろう。
そういうこともあって、私は結婚指輪をとても大事に思っている。そのため、ちょっと近所のスーパーへ、ひと汗かきにスポーツクラブへ、なんてときにはもったいなくてつける気がしないのだ。ファッションリングと同じ感覚で、おしゃれをして出かけるときだけにしている。
ちなみに、私は結婚指輪をしている男性が好きだ。指輪をしていないからよからぬことを企んでいるんだろうだとか、しているから奥さんへの愛情が垣間見えるだとか、いまどきそんなことは思わない。ただ単純におしゃれな感じがしていいなあと。
ええ、わが夫の結婚指輪は傷ひとつないさらっぴんのまま、箱の中でピカピカ光っております。

ところで、結婚式場『ザ・ベルクラシック』のCM。ユースケ・サンタマリアが台所で夕飯の支度にとりかかろうとしている彼女に「これ、もらってくれないか?」とエンゲージリングを差し出すというやつね。
私はあれがどうも好きになれない。彼女がブリッコっぽいのが苦手だし、ユースケのあのオドオドも気持ちはわかるがあまり見たい姿じゃない。
それともうひとつ、「こんなふうにエンゲージリングを用意されるのはぜったいイヤ」と思うからだ。
ユースケ(が演じている男性)のあの風貌と話し方からその性格を推測すると、彼が「彼女の指にはぜったいコレ」というこだわりや自信を持って選んできたとは思えない。そのへんのセンスもありそうにはない。人のよさそうな彼はきっと宝石店の店員に勧められるまま買ってきたに違いないのだ。
そりゃあ差し出された箱の中身が自分好みの指輪だったら、プロポーズは最高に盛り上がるだろう。しかし、現実にその可能性はどれほどあるだろう。
女の子が箱から指輪を取り出す。「は、入らない……」ならサイズ直しすれば済む話だが、もし「に、似合わない……」だったらどうしたらいいのだろうか。
断言しよう。いかに「オレは彼女のすべてを知ってるぜ」な彼であっても、指輪とブラジャーは選んであげるのは不可能だ。だって本人でさえ試してみるまでわからないのだから。
だから、私は百貨店のアクセサリー売場で男の子がひとりで買いに来ているのを見かけると、「ま、可愛い」とニッコリしながらも、「けど、ネックレスかピアスにしときなさいヨ」と念を送ることにしている。
もしエンゲージリング付きの突然のプロポーズで彼女をびっくりさせたいとお考えの男性がいらしたら、彼女がどういうタイプの女性かはっきりさせてから買いに行くことをお勧めいたします。

【あとがき】
プロポーズのときに指輪はいりません!男性はあげたらおしまいかもしれないけれど、女性にとっては正真正銘の一生もの。私なら、プロポーズのときのロマンティックな一瞬よりも、ジュエリーショップを何軒もハシゴして、自分に最高に似合う指輪を探すほうがいい。私なんて、妹と一緒に十何軒ハシゴして「これ!」って決めてから彼を連れて行きましたから。そりゃあ現実的すぎてムードはないですけどね、そのかわり100%満足できるものだから大事にしますよ。結局、男性もそのほうがうれしくない?


2002年07月12日(金) 呼び捨て

ジャニーズの若いアイドルが、街で見かけた女の子に声をかける。
「ねえねえ、君たち、ちょっといい?」
「うっそお、剛じゃん!えー、なにこれ、テレビ?」
「そうそう。名前教えてよ」
「エリカ」
「あたし、ユイ」
私がジェネレーションギャップという単語を思い浮かべるのはこういうやりとりを目にしたときだ。時代が違うなあと哀愁のようなものが胸をよぎる。
私と同年代で、人に名前を尋ねられたときにとっさに下の名前が出てくるという人はかなりめずらしいだろう。私の答えは「山田です」か「山田花子です」だ。相手が誰であろうと、どういうシチュエーションであろうと、「花子です」がぽんと出てくることはない。
私たちは「下の名前を呼び捨て」に慣れ親しむ機会が、いまの子よりもずっと少なかった。いまなら学校の英語教師はネイティブで、授業中はクラス全員が下の名前で呼び合うなんてこともふつうだろうが、私たちの頃はそうではなかった。学園ドラマで教師が生徒を「アキラ」「ミユキ」と呼んでいるのを見ると体がむずがゆくなるのも、自分の時代には存在しなかった風景に違和感を覚えてしまうから。私たちの名前がたいてい「子」がついた地味なものであったことも、呼び捨て文化が育たなかったことと無関係ではないかもしれない。
そんなわけで、身内や同性の友人といったきわめて近い存在からしか呼び捨てにされることがなかった私は、三十年の付き合いになるというのにいまだに下の名前を単体で使うことに慣れることができない。
どうも照れくさいのだ。自分のことを「花子ねえ」というふうに言ったことももちろんない。その一方で、なまじ呼ばれ慣れしていないために呼び捨てに憧れを抱くようになったのも事実である。
ティーンエイジャーの頃、彼ができたらしてみたいと憧れていたことがいくつかあった。彼と一緒にスーパーで夕食の買い物をする、ふたりで共同のお財布を持つといったささやかな事柄ばかりだったのだけれど、その中でひときわ輝いていたのが「下の名前を呼び捨てされたい」というものだった。
私は男性に呼び捨てにされたことがない。私の名前が花子だとするなら、いつも「花ちゃん」か「花」。夫と出会って、「花子さん」というバージョンが加わったくらいである。
どのカップルにも付き合いはじめの頃に「なんて呼んだらいい?」「じゃあねえ」という会話が存在するはずだが、私はリクエストしなかったのだろうか。
……しました、もちろん。
が、そのたびに「なんか言いにくい」「女の子を呼び捨てにはできない」「妹と同じ名前だから呼び捨てはちょっと」などと言われ、チャンスを逃がしつづけてきたのだ。
恋愛に関して「結婚前にこれだけはしておきたかった」的な思い残しはないつもりだったが、そういえばこれだけは叶えられなかったな。

友人の家に電話をかけたら、彼女の夫が「ママー!小町さんから電話ー」と叫ぶのが漏れ聞こえてきて、受話器を取り落としそうになった。
昨年家を訪ねたときは「チカコ」と呼ばれており、うらやましく思っていたのだ。でも子どもが生まれたら、生活といっしょに夫婦間の呼び名も変わっちゃうのね……。
夫に呼び捨てにしてもらうのはとうの昔にあきらめた。が、せめて「小町さん」は死守しよう。「あなたを生んだ覚えはない」なんてへ理屈が言いたいのではない。ただ、あまりにも色気がなくてイヤなの。
これから何人子どもを生もうが、押しも押されぬ立派なオバサンに成長しようが、夫に「ママー(orお母さーん)、バスタオルとってー」なんて呼ばれてもぜったい持って行かないんだから。うん。

【あとがき】
不思議なことにハンドルネームは別なんですよね。「小町」に名字をつけようとはまったく考えませんでした。以前のサイトをしていたときは別のハンドルを使っていましたが、それも漢字2文字で和風な名前でした。サイトリニューアルなんかでハンドルを換える人はめずらしくないけど、ローマ字の人はまたローマ字、名字つけてる人はやっぱりまた名字つき、というふうに、新ハンドルも方向性は同じような気がします。そりゃあそうか、ハンドルほど個人の趣味嗜好が反映されるものはないんだから。


2002年07月10日(水) 「ありがとう」

七月に入ってから、某百貨店の中元ギフトお問い合わせセンターで仕事をしている。
ひとり一台ずつ電話とパソコンを与えられ、中元を注文したお客様や受け取った方からの電話での問い合わせに応対する業務なのだが、これがけっこうおもしろい。
女性がズラリ並んで仕事をしているさまは壮観だし、「さっきのお客さん、先方が亡くなってたから注文をキャンセルしてほしいって」
「そんなことも把握してないような間柄の人にも贈るんやねえ。気持ちもなにもこもってないね」
なんて電話の合い間にちょこちょこと交わす会話も楽しい。
さて、電話はひっきりなしにかかってきて、問い合わせの内容も多岐に渡るのだが、圧倒的に多いのが依頼主からの「先方から届いたという連絡が来ない。到着しているか調べてほしい」というものである。
パソコンに伝票ナンバーを入力すればその荷物がいまどこにあるかがわかるようになっているのだが、すでに先方に届いている場合がほとんどだ。
「お待たせいたしました。○○様には七月一日にお届けにあがっております」
すると、電話口の人はきまって一瞬押し黙る。
「……ほんとに?向こうからは何も言ってこないんだけど」
「はい、お認めのサインもいただいております(認め印の画像もパソコン上でみられるのだ)ので、たしかにお届けは完了しております」
「そう、わかりました……」
一日に何十本も受ける電話のうち半分以上がこのやりとり。そのたび、電話の向こうのため息が伝わってくる。今日など「一週間経つのにいまだにお礼を言ってこないなんて非常識じゃないか」と十五分も愚痴を聞かされてしまった。
そりゃあ腹も立つわなあ、「産地直送・特選天然黒まぐろ大トロセット(三万円)」を贈って無のつぶてじゃあ。
私なんて以前、喫茶店を開いた友人にちょっと奮発してお祝いを贈ったところ、「ありがとう。うれしかった」と短いメールで返ってきて軽くがっかりしたくらいだから、その憤りの気持ちはよくわかる。

なにかを贈られてお礼も言わずに平気でいられるのはかなり特殊な人にちがいないが、日常生活に目をやると、誰かからちょっとした好意や親切を受けてもとくになんとも思わない人は意外といることに気づく。
たとえば人に道を教えて、「ありがとう」まで聞けることは少ない。たいていは「あ、そうですか」とひとり納得して去って行く。ひどいのになると、説明している途中で見当がつくや、少し離れたところで待っている連れのところに駆け出して行く。
「礼を言わんかい」という話ではなく、ただただ不思議なのだ。人になにかを頼んだり、自分のために誰かの手を煩わせたりしたときに、「ありがとう」が自然に出てこないのが。店で会計を済ませたとき、外で食事中に水を注いでもらったとき、バスを降りるとき。こっちは金を払ってサービスを買っているんだ、なんてそのときは考えないし、黙りこくっているのは“手持ち無沙汰”な気さえする。
「ありがとう」は、人がそれを言うに値するようなことが自分の身に起こったと認識して初めて、口の端にのぼる。
ふたりの人間がまったく同じ一日を送ったとして、一方は他人の好意に敏感で、“小さな感謝”をいくつも集め、もう一方はなにを感じることもなく通り過ぎてしまうとするならば、前者のほうが明らかに喜びが多いわけで。これを一生の単位で考えたら、両者のあいだにはかなりの差が出るのではないか。
だから、「すみません」なんていう使い回しのきく便利な言葉もあるけれど、私は「ありがとう」のかわりには使わないようにしている。

【あとがき】
私はいただいたメールの99%に返事を書かせてもらっています。その内容がうれしいものであれ耳の痛いものであれ、この人は私になにかを伝えたいと思って(まじめに)キーボードを叩いてくれたんだなと思えるものに対しては、こちらも気持ちを伝えたいのです。つまり、残りの1%はそれが感じられなかった特殊なものということね。


2002年07月07日(日) 心変わり

今日は七夕。遠距離恋愛のカップルの記念日だなと思ったら、以前よく訪れていたあるサイトを思い出した。
遠い支社にいる同期の男の子にひそかに思いを寄せている女の子の日記。彼からかかってきた電話を取り次いだといっては「声が聞けた」とはしゃぎ、プライベートでちょこちょこ交換するメールの返事が来ないといってはうなだれて。
片想いに一喜一憂した日々なんて、私には忘却の彼方。彼にその気はないかもしれないなあ……と思いながらも、このピュアで可愛らしい女の子の行く末を見守るような気持ちで通わせてもらっていた。
ここ半年ほどご無沙汰していたことにとくに理由はない。「まだサイトあるかな」と思いながら久しぶりにアクセスしてみたら、驚いた。
なんだなんだ、とても幸せそうではないか。最後に読んだ日記には彼への届かぬ思いがせつせつと綴られていたのに、今日は「私、幸せです」が行間からあふれだしている。
毎日言葉を交わせる喜び、週末のデートへの期待、ちょっとしたやきもち。スキンシップもあるようだし(お、いつになく控えめな表現)、どうやら恋が実ったらしい。
が、私はあることに気がついた。彼女が愛しげに呼んでいる彼の名が、私の記憶にあるそれと違っている。過去にさかのぼって読んでみたが、あの彼の名はどこにも出てこない。
ああ、そうか。彼女は別の人と付き合っているのか。いま彼女の心の中にいるのはあのときの彼じゃないんだ。

どう頑張ったってどれだけ粘ったって、実らない恋は実らない。片想いで得られるものには限りがある。やるだけやって(ここがミソ)それでもだめなら次行け、次。
基本的に私はこういう考えだ。「人間、引き際が肝心」とはよく聞く言葉だけれど、恋愛においては「見極めが肝心」ではないか。
私にだって振られてからも未練がましく思いつづけていた人もあれば、気持ちを伝える勇気を持つまでに長い時間かかったこともある。しかし、いつだって根っこにあったのは「最終的には必ず一番の人とめぐり会えるんだから心配するな」という達観のような気持ち。
願いが叶いそうにないのにいつまでも待ちつづけるとか、「この人以外考えられない」状態をむやみにつくりだしてしまうのは、ものすごくもったいないことだと思う。
人は「忘れる」という能力を持っているから、何十年も生きていられるのだと聞いたことがある。つらい記憶を薄めることができなかったら八十年も生きることはできないそう。それと同じで、気持ちを変えられることで人が救われている部分も、実はとても大きいのではないだろうか。
日記の彼女の、あの彼へのせつない気持ちはいったいどこへ行ってしまったんだろうとは思う。たった半年やそこいらのあいだにこうも状況が変化しているのを目の当たりにすると不思議な気さえする。
でも、それが恋愛というものだろう。わが身を振り返っても、月日をかけてゆっくり気持ちを育んだというものより、突然降って湧いたような恋のほうが多かった。
その人が自分にとっての“ONLY ONE”かどうかがわかるのは気持ちを通わせ、肌を重ね、いっしょに過ごすようになってからの話。その境地にたどり着く前に早々と「私にはこの人しかいない」と思い込む必要はない。目を閉じて、心の赴くままに身をゆだねればいい。
いまの彼との始まりがどんなものだったかは知らないけれど、この選択は彼女をきっと幸せにするだろう。
私は静かに画面を閉じた。

ただし、「心変わり」は独身のうちだけの特権で。
今日の朝刊に掲載されていた、まだ若い女性からの投書。
「パパ、お元気ですか。私を捨て、幼いふたりの子を捨てて、新しい家庭を築けて幸せですか?」
こういう心変わりはたとえ見ず知らずの人のものでもかなりせつない。

【あとがき】
投稿者はふたりの子を持つ32歳の女性。「15年もそばにいたのに、2ヶ月程度のあいだに数回会っただけの人に本気になってしまうなんて。念願のマイホームを手に入れてわずか9ヶ月でこんなことになるなんて」。
朝からなんとも言えない気持ちになりました。見ず知らずの人の話でもこういうのはたまらなく悲しく、悔しい。