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2002年02月13日(水) 老いらくの性

カラオケの帰り、寂しそうにしている男性に思わず声をかけて喫茶店へ。おつきあい4ヶ月でラブホに行くようになりました。静かに体を合わせていると、胸の中からうれしい気持ちがします。
このことはお墓の中まで持って行こうと思っています。それが不倫をするときの礼儀だと思います。


これは朝刊の記事の中で紹介されていた、ある女性の書いた「手紙」の一部である。この文章を読んで、あなたはいくつぐらいのカップルを想像しただろうか。
私はこれを書いたのは四十代の主婦ではないかと考えた。「静かに体を合わせて」「お墓の中まで」「礼儀」なんてフレーズ、若い人は使わないだろう。
しかし、もう少し読みすすめたところで、私はエ!と声をあげてしまった。このカップル、女性が六十一歳、男性が八十三歳だったのである。
私がこれほど驚いたのは、それまで老人はセックスしないものだと思っていたから。差別でも偏見でもないつもりだが、そのくらいの年齢の人はそういうことからはとうに卒業していると思い込んでいたのだ。
だって、それはかなりのエネルギーを消耗する行為である。おばあちゃんはともかく、おじいちゃんの体は耐えられるのだろうか。いやそれ以前に、おじいちゃんやおばあちゃんが「したい」という気持ちになること自体、私には想像できなかった。
が、ちょっと待てよと思い出したのは、少し前にやはり新聞の中で見つけたこんな記事。悩み相談のコーナーに、妻と夫婦生活がないことを悩む七十歳の男性の手紙が紹介されていた。
「この八年間というもの、関係がまったくもてません。私がいくら強要しても、妻は背を丸めて寝てしまうばかり。ここ二年は欲求不満がこうじて不眠症になり、ノイローゼ気味です。どうすれば夫婦関係をもてるか教えてください」
私はこのおじいちゃんが特別なんだと思っていたのだが、そうではなかったということか。
早速、私は真相を明らかにすべくダイヤルを回す。十年以上老人介護の仕事をしている友人がいるのだ。事情を説明すると、彼女は事もなげに言った。
「お年寄りのセックス?そりゃあするんじゃないの、性欲はあるんやし」
「なんでそう思うの?」
「だって入浴介助のとき、元気になってるおじいちゃん多いし、私たちもよく触られるし。春画集めてるおばあちゃんもめずらしくないからねえ」
私は自分の認識の甘さ、ものの知らなさに驚愕した。

臨床心理士や産婦人科医らでつくるある団体が四十から七十代の男女千人を対象に性調査を行ったところ、七十代の半数が「性交がある」と答えたのだそうだ。
私の中にある種の感慨が湧き起こる。
「人間はいくつになっても男と女なんだなあ」
では私たちが老いる頃、老人のセックスはどうなっているのだろうか。
オプションいっぱいの派手なセックスを知ってしまった私たちの世代。より激しさを増していくゲーム感覚のセックス、テクニックの研鑚に励み、まるでスポーツを楽しむかのようなセックス。「ふたりがよければいいんじゃない?」と“ノーマル”の幅も広くなっている。
そんな貪欲な私たちが老人になったら、やっぱりいまのおじいちゃんたち以上に励むんだろうか。ラブホテルにシニア割引やシルバーDAYなるものが用意される時代が来るんだろうか。
いや、そうはならないんじゃないか、と私は思う。最初は1錠で効いていた薬が、体が慣れてくると2錠、3錠と増やさねば効かなくなってくるように、いまの若者は常により新しく、より強い刺激を求めている。そんな人たちが思うように体が動かなくなり、アクロバティックなセックスができなくなったら。若い頃のような美しい体でなくなり、どぎつい刺激を得られなくなったら。それに対する執着が、案外すーっと冷めてしまうのではないだろうか。
いま老人と呼ばれる年齢の人たちはセックスの中のゲーム性やスポーツ的要素、すなわち装飾の部分を私たちほどには知らない。彼らがいくつになっても“卒業”しないのは私たちのそれと違ってシンプルな分、「スキンシップ」というセックスの核を見失っていないからではないだろうか。
私たちが老いる頃には平均寿命はいまより短くなっているだろうと言われるけれど、セックスをしなくなる年齢もいまよりずっと早まるのでは……そんなことを思う。
それにしても、こんなことを半日考えている私っていったい。

【あとがき】
男も女もいつまでも若々しくあるためには恋は不可欠。とは思うけど、セックスはどうなのかなあ。自分がおばあちゃんになっても「したい」と思うかなあ、ちょっと想像できないや。


2002年02月11日(月) 夫婦別姓

連休3日目、友人宅を訪ねた。マンションの一階まで来て、何号室だったかなとずらりと並ぶ郵便受けに彼女の名前を探す。
「あった、あった」
しかし不思議なことに、彼女の姓と一緒にもうひとつ別の姓が記載されている。彼女が自分の両親と同居しているという話は聞いたことがない。首をかしげながらドアの前まで行くと、やはり表札にもふたつの姓が仲良く並んでいた。
「知らなかったわ。ノリコさんが自分の親と同居してるなんて」
すると彼女は紅茶を淹れる手を止め、きょとんとした顔で言った。
「同居?してないよ?」
「表札とかポストにふたつ名字があったでしょ。ダンナさんが“マスオさん”してるんじゃないの?」
それを聞いて、彼女は笑いだした。
「あれ、言ってなかったっけ。私ら籍入れてへんのよ」
日本では男女は婚姻届を出して初めて「夫婦」と認められる。入籍していないということはすなわち、「結婚していない」ことになる。
しかし、手土産のケーキを食べながら、「晩ごはんが遅いから二キロも太った」「義理の両親が子どもはまだかまだかってうるさくて」と愚痴をこぼす彼女はどこから見ても立派な若奥さん。パートタイムの仕事に出かけ、食事の支度をし、Yシャツにアイロンをかける。会話中にも「独身時代はさ」「やっぱり結婚すると……」といったフレーズが自然に登場する。
私は心の中でポンと膝を打った。そうか、これが「事実婚」なのだ。

先日、あるニュース番組で「夫婦別姓を考える」という特集をしていた。長く事実婚でやってきた一組のカップルがやむを得ない事情で籍を入れることになったという。
「おなかの子供を非嫡出子にしないために、一時的に法律婚にしておく必要があるんです。でも、私は公認会計士としてのこれまでのキャリアを改姓によってリセットするわけにはいきませんから、出産後すぐにペーパー離婚します」
確固とした主義主張もないのに結婚を「紙切れ一枚の問題」と言う人がたまにいるが、ああいうのは好きになれない。しかし、ここには考え抜いた末の苦肉の策として、婚姻届・離婚届を「紙切れ」にする夫婦がいる。彼らは自分たちの望む生き方をするために、戸籍に“キズ”をつけてまで妻の姓を取り戻す。
これまで私は改姓に異議を唱えたり拒んだりできるのは限られた女性だけだと思ってきた。職業人として確かなビジョンを持っている人や家名を継がなくてはならない事情のある人が主張するからこそ聞く耳を持ってもらえるのであって、ふつうの女性がなにを言ったところで無駄だろうという冷めた気持ちがあった。
そういう意味では、この公認会計士の女性の毅然とした態度には「すごいな、さすがポリシー持って仕事してる人は違うな」と素直に頷くことができた。
だから、ノリコさんの婚姻届を出さない理由を聞いて驚いた。私たちの出会いは職業訓練校だったぐらいだから、彼女は独身時代から継続する職業を持っているわけではない。それに兄弟もいる。にもかかわらず、彼女は屈託なくこう言ったのである。
「だってなんで私が変えなあかんの?小町ちゃんは名字変えるのイヤじゃなかった?」
私自身は姓を変えるとき、「どうして私が」とはほとんど考えなかった。本籍地をどこにするかで夫と少々もめたときに「結婚において男と女は平等ではない」を痛切に感じたが、どちらの姓にするかを話し合おうということは思いつきもしなかった。
私は結婚におけるさまざまな男性優位の風潮に歯ぎしりしながらも、「そういうものだからしかたがない」と無意識のうちに考えることを放棄していたらしい。

現在の法律のもとでは結婚に際し、男性または女性のいずれか一方が必ず姓を改めなければならない。
しかし、改姓する側に発生するさまざまな不便や不利益が問題になっている。そこで、現在国会で導入が審議されているのが「選択的夫婦別姓制度」である。夫婦は同じ姓を名乗るとする現在の制度に加え、夫婦が望む場合には、結婚後もそれぞれが結婚前の姓を名乗ることを認めようというものだ。
私はこの選択的夫婦別姓制度にはおおむね賛成である。機会は平等であるとはいうものの、現実には女性の改姓が九十七%を越えている。妻の改姓を当たり前だとする風潮は、「妻は夫の家に入ること」「女は家を出て嫁に行くもの」という封建的な時代の結婚観の象徴であり、女性は社会的活動を行わないという決めつけからくるものだ。この状況が続く限り、夫や義理の両親の中に「○○家の嫁」という意識は生き続けるし、女性はいつまでたっても社会的にセカンド・クラスでしかいられないだろう。
夫婦別姓に反対する意見の中には「家族の一体感の喪失」「子どもへの影響」を懸念する声がある。しかし、家族というのは姓で結ばれるものだろうか。結婚して親・兄弟と姓が変わったら、愛情や絆まで弱くなってしまったという人がいるだろうか。
また、「親と名字が違ったら子どもがかわいそう」と言う人がいる。血と愛情で親とつながっている子どもを「姓が違うから幸せでない」とする見方は、一方的で傲慢な押しつけのように思えてならない。
世の中にはさまざまな価値観があり、生き方がある。「夫婦別姓は父さんと母さんが一緒に考えて、一番いいと思って選んだんだよ」と両親が教えてやれば、子どもは十分理解できるのではないだろうか。そもそも同姓夫婦と別姓夫婦、どちらが上でどちらが下ということはないのだから。
「同姓が家族の一体感を強める」と考える人は同姓を選べばよい。この制度は夫婦別姓を強制するものではないのだ。

夫婦別姓の実施によるメリットはいくつもあるだろう。「自分が自分でなくなるようで悲しい」「名義変更の手続きが面倒」「職場などで戸籍名と旧姓を使いわけるのは大変」といった精神的苦痛、社会的不便の改善もそのひとつだ。
しかし、選択的夫婦別姓制度導入の最大の意義はそんなことより、日本国憲法にうたわれている、結婚における「夫婦が同等の権利を有すること」「個人の尊厳と両性の本質的平等」が長い間ないがしろにされてきたことに人々が気づくきっかけになるところにあるのではないかと思っている。
夫婦別姓が社会に浸透すれば、「嫁に出す」「嫁をもらう」という意識は変わるはずだ。「そういうもんだ」の一言で、女性が枠にはまった嫁の役割を押しつけられることも当たり前ではなくなるかもしれない。
そんな期待を込めて、私はこの法案を支持したい。

【あとがき】
参考までに、平成13年に行われた「選択的夫婦別氏制度」に関する世論調査の結果の一部を紹介しておこう。「希望する場合には、夫婦がそれぞれの婚姻前の姓を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」と答えたのは42.1%の人だったが、「そのように法律が変わった場合、あなたは別姓を希望するか」と聞いたところ、「希望する」18.2%、「希望しない」50.3%、「どちらともいえない」30.5%という結果であった。これは、「自分のこととして考えている」人よりも、「自分はどうするかわからないけれど、そういう選択肢があってもいいと思う」と考えている人が多いということだ。
さて、もし制度が施行されたら私はどうするか?正直、そこまでは思いが至らない。子どもがいるかどうか、夫婦間・親の状況などを鑑みる必要があり、そのときにならないと答えを出せる問題ではない。しかしひとつ言えるのは、私は1年と3ヶ月使ってきた現在の姓にも愛情を感じているということだ。


2002年02月07日(木) 記録好き

もうすぐ一緒に香港を旅行する、仲良しの先輩から電話。ひとしきり、あちらで何を買う、どこへ行くといった話をしたあと、彼女が言った。
「そうそう、私カメラ持って行かんから小町ちゃん頼むな」
「え、持って行かないんですか?」
「だって重いやん」
苦笑してしまった。いるんだよなあ、こういう人。
何人かで出張や旅行に行くと必ずひとりはいるのが、ドライヤーやシャンプーを持ってこず、人が使っていると貸してと言ってくる人。忘れたわけではなく、「誰かが持ってきてるだろうから借りればいいや」と最初から持ってくる気がない。相手がそう親しい間柄でない場合は、正直いい気はしない。どうぞと手渡しながら、いちいち貸してと言うのは気も遣うし面倒だろうに、どうして持ってこないんだろうと思ったものだ。
が、私にとってそれより不思議なのは旅先にカメラを持って行こうとしない人だ。

私の特徴のひとつに「記録好き」というのがある。なんでも記念にとっておきたがると言い換えてもいい。
実家に行けばいまでも中学・高校時代の友人との交換日記や授業中にまわした手紙を読むことができるし、大学時代に観た映画のチケットの半券や旅館の箸袋なんかも後生大事にとってある。また、これを言うといつもびっくりされてしまうのだが、留守番電話の録音テープさえ保管しているぐらいである。昔の留守電は電話機にセットされた小さなカセットテープで録音する方式だった。そんな電話機はもうないので、メッセージを再生することもできないのだけれど、当時好きだった人や友人の声がこれに詰まっていると思うと処分できない。
こんな私にとって、旅先の写真をアルバムに仕上げることはれっきとした旅の楽しみのひとつなのである。たしかに手間はかかるが、道程を思い出しながら写真を選び、パンフレットや乗り物の切符を見栄えよく並べ、こまごまとコメントを書いていく作業は旅を「一粒で二度おいしく」味わう感じで、とても楽しい。面倒くさがり屋の私が生活の中でマメさを発揮する、数少ない場面のひとつだ。
それだけに、写真は他人まかせ、もしくは「いらない」という人に出会うと驚いてしまう。以前、一緒に旅した友人が「写真は撮らない」主義だった。
「この光景って、この地にこの瞬間だけに存在するものでしょう。あとから写真で見られるものと、今見ているものとは別物だから、撮っても意味がないと思う。だから、私は記憶に焼きつけるだけでいい」
言わんとすることはわかるのだけれど、いつまでも記憶の輪郭をくっきりさせておくために私はやっぱり写真にも残したいと思う。家族とも感動の一端を共有したいと思う。
が、やはり彼女の隣でパシャパシャやるのは気が引けて、その旅のアルバムがずいぶん薄いものになってしまったのは残念であった。

私がモノをなかなか捨てられないのも、過ぎた日を懐かしむためにアルバム作りに凝るのも、自分の軌跡に対する執着が強いからだと分析している。
こうして書いているweb日記だってそうだ。更新したら自分の手を離れたものとして興味を失い、とくに読み返すこともないという人もいるようだが、私は推敲を終えて更新したあとも何度でも読む。一字一句違わずまた同じ文章が書けるんじゃないかというほどに。
私は昔から書いた文章を捨てるということがどうしてもできなかった。人に言うと、「そんな価値のあるものか」「ナルシストか」と笑われそうだが、ボツにした日記であれ投函しなかった手紙であれ、いったん自分の中からひねりだした文章を捨てるのは忍びない。たとえ出来は悪くとも、生まれたものへの愛着は深い。書くことそのものよりも、書いたものを集める楽しみ、後から読み返す楽しみのほうが勝っているとさえ思う。
インターネット上に公開しているからには、この日記が多くの人に読んでもらえたらうれしいとは思う。しかし、「どうしたら喜んでもらえるだろう」を考えることはない。私にとって文章を書くという行為はマスターベーションだから。この先もそうありつづけたい。
得られるものが何なのか。それは「書く」のが好きな人にはわかってもらえるのではないかな。

【あとがき】
写真好きなわりに、撮るのは下手くそ。たまにいるでしょ、背景の風景はきれいに入ってるんだけど、「肝心の人物の頭が切れとるやんケ!」な写真撮る人。ここぞという写真は全部ブレてるとか。それが私です。力みすぎなんでしょうか。それが怖いので、最近は見知らぬ人にシャッター押してと言われたら、友人に「撮ってあげて」と頼むようにしています。で、私はその隣で「笑って笑って〜。お、いいねえ、その笑顔ちょうだい!」などと言って盛り上げる(下げる?)係です。


2002年02月04日(月) 自意識過剰

ひどくつまらないことが気になってしまうときがある。
こういうシーンを思い浮かべてほしい。あなたは友人と喫茶店で雑談している。
「あはははは」
「でね、夫が私にこう言うわけ……」
あなたがまさにこれから話の核心に触れようとしたそのとき。間の悪いことに、テーブルの上に置かれた友人の携帯が歌いだす。
「あ、ちょっとごめん」と彼女は言い、電話に出る。その間、あなたはメニューを眺めたりストローの袋で人形を作ったりして退屈そうに見えないよう気を遣いながら時間を潰す。しばらくして、電話が終わる。
「ごめんごめん。彼からだったんだけど、なんか週末に仕事が入ったみたいで予定を変更してほしいって」
そう言いながら彼女はバッグからシステム手帳を取り出すと、スケジュールをチェックしはじめた。
こういうシチュエーションに出くわすと、私は心中穏やかでいられない。電話は終わった。「さて、どうやって話を戻そうか」を考えあぐねるからだ。
こういうとき、私は自分から「で、さっきの話のつづきだけどね」と切りだすのは気が進まない。いかにも「電話が終わるのを待ってました!」「聞いて聞いて」という感じがして、なんとなくはずかしい。私としては、相手から「で、さっきの続きは?」と促され、さもそれで思い出したかのように「そうそう、それでね」「えっと、どこまで話したっけ」というふうに話を再開するというのが理想なのである。やっぱり“乞われて”話したいではないか。
しかし、熱心に手帳とにらめっこをしている彼女は私の話が途中だったことなどすっかり忘れているかのようだ。
「いまいち興味がないから、あえて話に触れないのかな。だったらここで私が強引に話を戻すのはしゃくだなあ」
私は氷をガリガリ噛み砕きながら、そんなことを考えたりする。
もしここで、あなたが無言のひとときに耐えられず、「休日出勤?彼も忙しいのね。じゃあデートはお流れになりそう?」などと相手の話に合いの手を入れたなら、ほぼ百%の確率で話は戻ってこないだろう。
「もうガッカリ。映画観ようって言ってたのに。彼があれ観たいんだって、えーと、『オーシャンズ11』。でも、私ジュリア・ロバーツ好きじゃないんだよね。ま、ジョージ・クルーニーが渋いからいいけど。小町は最近なんか観た?」
という具合に、会話は次なる話題へ完全に旅立っていくのである。
こんな話をすると、「そんなこと考えたこともなかったワ」と言う人がたくさんいるのだろう。われながら、つまらないことを考えるものだと苦笑してしまう。
けれども、私が聞く側のときに「で?」とつづきをうながすと相手の表情がパッと明るくなり、かなりうれしそうに話しはじめるように見えるのは気のせいではないと思う。
先日とある場所で、「なぜ本にカバーをかけるのか」の話題が盛りあがっていたのだが、その中に、

「自分はこういう本を読んでいるんだってのを人に知られるのがすごくイヤ」よりも、「自分はこういう本を読んでいるってことをみんなに知ってほしがってるようなやつだと思われることがイヤ」


という意見を見つけて、笑ってしまった。私がカバーをかけてもらうのは「本が汚れるのがイヤ」以外の理由はないのだが、世の中にはそこまで考えてカバーを求める人もいたのかと。
インターネットの中では人のさまざまな「自意識過剰」に出会うことができる。誰もが共通して持っているようなメジャーな自意識ではなく、言われてはじめて「へえ、なるほど」「そういう考え方もあったのね」と思えるようなこと。
私の「中断された話をスマートに戻したい」もかなりマイノリティな自意識のひとつなんだろうな。

【あとがき】
相手が夫や親しい友人なら、たとえ耳をふさがれても「ちょっと、人の話聞きなさいよー」と無理やり話を戻すけれど、そこまでの関係でない場合、ひそかに考えてしまいます。相手からつづきを促されないかぎり、やめてしまうこともけっこうあります。わざわざ自分から話を戻すほどの「聞かせる価値のある話」でないのが大きな理由ですけどね。