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2002年03月28日(木) 知らないほうがよかったかもしれないこと

三十年生きてきたが、いまのところ「知らないほうがよかった」と思うことには出会っていない。
酒もタバコもやらないし、ギャンブルには興味がない。ドラッグも知らなければ、男の人に溺れたこともない。ひとり暮らしは長かったけれど、余計なことを覚えずにすんだのはよかった。
しかしながら「知らないほうがよかった」の後ろに「かもしれない」をつけたら、ゆらゆらと胸に浮上してくるものがある。それは「インターネット」だ。
一日分のテキストを書きあげるのに三時間はかかる、という話は以前にもしたことがあるけれど、私はときどき、それに充ててきた膨大な時間を思い、空恐ろしくなることがある。
今日のこの日記は二百九十四本目のテキストだ。ということは、少なく見積もっても九百時間を、私はひとりパソコンに向かって過ごしてきたわけだ。他のサイトのテキストを読んだり、メールを書いたりする時間を加えれば、それはもうシャレにならないほどの時間になる。

いまさら「日記を書く意味とは」なんて手垢のついたテーマについて書くつもりはないが、私がweb日記を書く「好きだから」以外の理由をひとつ挙げさせてもらうと、「文章を書く力を衰えさせたくない」というのがある。
スポーツというのは現役から退くとまたたく間に能力が落ちてしまうが、「文章を書く」もそれと同じだ。書かなくなると、すぐに書き方を忘れてしまう。
起承転結とまではいかずとも、導入、展開、結論を組み立て、ひとつのテキストに仕上げていく過程はかなりの力仕事だ。が、その日々の作業はたしかに「書くための筋肉」を落とさぬためのいいトレーニングになっている。
おまけに、たくさんの人と話したりすてきなサイトにめぐり会ったりといううれしい副産物もある。
だから、書きつづけてきたことには意味があると思っているし、書いてきたものにも満足している。
が、その一方で、「こんな生活、間違ってるんじゃなかろうか」という気持ちが心のどこかに存在しているのも事実なのだ。
私の場合、細切れな時間がいくらあっても書けないため、まとまった時間を捻出しなければならない。が、そのために他にすべきことをないがしろにしているのではないか。この年頃の女としてやっておいたほうがいいことがもっと他にあるんじゃないのか。もし九百時間を別のことに費やしていたら……と自分に問いかけたくなるときがあるのだ。
私は日頃から、子どもにテレビゲームは与えたくないと思っているのだが、パソコンもまた然りだ。帰宅するとなによりもまずパソコンの電源を入れるとか旅先でもついネットカフェの看板に目が行ってしまうなんていうのは、どう考えても健康的ではない。
しかし、私ばかりではないらしい。サイトめぐりをしていると、失礼ながら「これでは仕事にも家庭生活にもずいぶん支障をきたしているだろうな」とお見受けする方が少なくない。
大人でさえ“ほどほどに”ができなくて困っているのだ。外で遊ばないような子どもになってしまったら……と思うとぞっとする。私は自分の学生時代にインターネットが普及していなくて本当によかったと思っているのだ。

懐かしい友人からメールが届いた。
もう何年も会っていないが、風の便りに最近彼女が喫茶店を開いたと聞き、お祝いを贈ったのだ。そのお礼だった。
「今日届きました。本当にありがとう。とてもうれしかった」
そうか、喜んでもらえたのね、それはよかった。
でも正直言うと、電話のほうがよかったかなあ。「ありがとう」を伝えるときはやっぱりね。

【あとがき】
要はバランスなのよね。だけど、そのバランスをうまくとるのが難しいのねえ。私の友人で私みたいな「三度の飯よりネットが好き」な人はいないけど、代わりにみんなゲームが大好き。私はゲームにはまったく興味がないのだけど。


2002年03月21日(木) 囚われの連鎖

電話の向こうで、A子がため息をつく。なんでも、彼女の友人がおなかに赤ちゃんができてからというもの、何かにつけてA子に「子どもの予定はまだ?」「なんでつくらないの?」と言うようになったのだそうだ。
その友人、妊娠するまでは義理の両親から孫を催促されるたび、「夫婦の問題なんだからほうっておいてほしいわ」と憤慨していたという。
「なのに子どもができたとたん、この変わりよう。いったいなんなんやろう」
話を聞きながら、私もつい最近、A子と同じため息をついたことを思い出していた。
近々結婚する友人の二次会の打ち合わせで、何人かの友人と会ったときのこと。その中に昨年ひとりめを出産したのがいたのだけれど、ひととおり話を済ませ、みなでお茶を飲んでいると、彼女は「子どもがいかにかわいいか」を語り始めた。
私はとくに子ども好きというわけではないが、「子どもってね」な話はいくらでも聞こうと思う。後学のためにもなるし、友人の“親”の顔を見るのは悪くない。しかし、今回は「子どもはかわいいよ」の後に、「小町ちゃんのところはまだ?」「いつ頃にとか考えてるの?」がつづいたものだから閉口してしまった。
「うちはまだ考えてないわ。お盆に海外行くし、来年はイタリアにも行きたいし」
しかし、彼女はなおも言う。
「でも、いますぐ妊娠してもひとりめが三十一やろ。ふたりめは三十四、五になるんやで。そろそろ考えたほうがええんとちがうの」
私は傷ついたのでも腹を立てたのでもない。「子どもを生むのがそんなにエライのか」などという方向に話を持っていきたいわけでもない。ただ、本当に驚いたのだ。子どもができるとこうもあっさり、苦悩した日々を忘れてしまえるものなのか、と。
結婚してから何年間か、彼女が不妊治療に通っていたことを、私はおしゃべりな彼女の夫から聞いていた。周囲には「まだ遊びたいから子どもはいらない」と言っていたが、彼女は同時期に結婚した友人がひとりふたりと出産していくのを見て焦り、彼の前で泣いたこともあったという。が、その頃の記憶は彼女の中から跡形もなく消え去っているようだ。
たまたま私の場合、子どもをつくらない理由が「まだほしくないから」だからどうということはなかったけれど、もしできなくて悩んでいる状態だったら……。あなたはその辛さを十分知っているはずではなかったか。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とはまさにこのことだな、と私は軽い失望を感じていた。

人はある時期から、己の固定観念や世間の風聞に囚われながら生きるようになる。それは言うなれば、「〜するのがふつう」「〜しなければかっこ悪い」という強迫観念だ。
高校を卒業したら大学に行かなきゃ。大学を出たらそれなりのところに就職しなきゃ。三十までには結婚しなきゃ。結婚したら子どもを生まなきゃ。ひとりめを生んだら、ふたりめを。
私も人並みに適齢期というものに囚われてきたクチだ。しかしいま思うのは、「長い人生のうちのほんの三年や五年ではないか。私はなぜああも切羽詰まっていたんだろう」ということだ。あの頃の漠然とした切迫感、悲壮感を思い出すと、吹きだしそうになる。
そして、思う。女が「そろそろ子どもをつくったほうがいいのか」と人知れず頭を抱えるのもきっとそれと同じなんだろうな、と。
「子どもはまだか」のシュプレヒコールや「できないと思われるのは嫌だ」という思いに囚われ、悩まされるけれど、ひとり生んでみたら、「なあんだ。母親になるのを二年や三年遅らせたって、どうってことないじゃない」に気づくことができるのだろう。
「人間、経験が大事だ」というけれど、それはなにも思い出づくりのためだけじゃない。自分がその立場を経験することによって、あの頃はわからなかったことが理解できるようになる。いままで気づかなかったことが見えてくる------成長するとは、大人になるとは、そういうことのはずだ。
苦悩してきた人が自分の呪縛が解けるなり、今度はその最中にいる人に負荷をかける側に回るというのはやっぱりおかしい。

人は親になったらなったで、子どもが立派に成長し、結婚し、孫のひとりも生まれるくらいまで、「みなに後れをとらないこと」を意識して生きていくのであろう。それどころか、死ぬまでたえず何かによって「囚われの身」でありつづけるのかもしれない。
しかし、私は少なくとも子どもをつくることに関しては毅然としていたいと思う。周囲の雑音をプレッシャーに感じることの愚を、いま一度自分に言い聞かせよう。

【あとがき】
「結婚はまだ?」「お子さんは?」にさんざん悩まされ、デリカシーがないと憤っていたのに、いざ自分がそこから脱出すると他人に同じことを言うようになる。なんなんだろうな、このカラクリは。「結婚っていいものだよ」「子どもはかわいいよ」くらいにとどめておいてくれれば、「へえー、そうなの」と素直に聞けるのに。「優越感持ってるだろ」なんてひねくれたことは思わないけれど、たしかにひと言ふた言多い気はする。


2002年03月05日(火) 生きていてこそ

消費者金融の武富士弘前支店で起こった強盗殺人・放火事件の容疑者が逮捕された。
連日流れるニュースを見ながら、思うところはいろいろある。あれだけ似顔絵がそっくりだったにもかかわらず、勤務先や近所の人からの反応がなかったことには驚いたし、「従業員が警察に通報しているのを見て、火をつけて捕まらないようにした」という思考はあまりにも浅はかで、針の先ほどの理解もできない。
しかし、そういうこととは別にもうひとつ、どうしても解せないことがある。それは「店長はどうして金を渡すことを拒否したんだろう」ということだ。
これまでの調べで、容疑者は弘前支店に押し入り、持参した金属製容器に入れたガソリンをカウンター内にまきながら、「金、出せ。出さねば火つける」と要求。店長に拒否されたため、やはり持ち込んでいた新聞の一部に火をつけてカウンター内に投げ入れ、放火したことが判明している。
容疑者が入店してから逃走するまでの時間はわずか四分間。この短いあいだに店側が身元を照会し、目の前の客があちこちの消費者金融から借金を重ねているブラックリストに載った男だと判明していたとは思えない。仮にそうだったとしても、相手は店内にガソリンをまきながら、「金を出せ」と脅しているのだ。こういうときは相手を刺激せぬよう、とにもかくにも金を包む……というのが自然な行動ではないのだろうか。
起こってしまったことに「たら、れば」は虚しいだけだが、犯人に抵抗して殺されたなどというニュースを耳にするたび、私の中に「おとなしくしていれば助かったのでは」という思いがよぎる。
店長の行動を責めているわけではないけれど、こういうときは身の安全だけを考えて黙って金を渡さなければ、とつくづく思う。
恐怖に身がすくみ、とっさにNOと言ってしまったのかもしれない。しかし、もし店を守らねばという使命感からであったのならば、命を危険にさらしてまで守るようなものではなかったろうに……とますますやりきれない思いがする。

昨年、JR新大久保駅で、ホームに転落した人を助けようとした見ず知らずのふたりの男性が巻き込まれて犠牲になるという痛ましい事故が起こった。
捨て身で線路に飛び降りた彼らの勇気に多くの人が胸を打たれ、正義感を称え、死を悼んだ。私もニュースを聞いて、思わず涙した。
しかし、このとき私の胸になによりも強く刻まれたのは「だけど、やっぱり人間は生きていてこそなんだ」という思い。溺れる人を助けるために海に飛び込み、その人までも溺死してしまうという悲しい事故は毎年起こる。「ここで助けなければ後から非難される」などという理由で、線路に、水に飛び込む人はいまい。危険だと知りながら、いや、それさえ感じる間もなく反射的に体が動いているのだと思う。
しかし、ぜったいに自分が死んでしまってはいけないのだ。
人は自分のためだけに生きているのではない。家族や自分を愛してくれる人のために生きていなくてはならない。たとえその後、助けられなかったことに苦しむことになっても。
「ヒーローになんかならなくていい。あなたにはただ、生きていてほしかった」
韓国人青年の恋人の言葉に胸が締めつけられた。
勇気は尊い。正義も優しさもまた然り。しかし、命はたったひとつ。正真正銘、かけがえのないものだ。
大切な人たちに一生癒えない深い悲しみを背負わせてまで、守らねばならないものがあるだろうか。命と引き換えにしても守らねばならないものはただひとつ、「家族」だけだ。
この世で一番尊いのは、「生きていること」。私はそう思う。

【あとがき】
こういう事件が起こって「気の毒になあ」と思うのは、亡くなった方やその遺族に対してだけではない。犯人の家族にも「かわいそうになあ。これからの人生、どうなっちゃうんだろう」と思う。容疑者には妻と中学生の娘がいるという。コンピューターグラフィックスの似顔絵、気味が悪いほどそっくりだった。現場から三十分と離れていないところに住んでいること、手配中の車と同じ車を持っていること、事件当日勤めに出ていないこと。家族はただの一度も夫に、父親に、「まさか」という思いを抱かなかったんだろうか。思っていたとしたら、苦しかっただろうな。