過去ログ一覧前回次回


2001年12月20日(木) 「今日の日記」が完成するまで

「毎日更新」を掲げている人を見ると、さぞかししんどいことだろうなあと思う。読者の期待に応えようと四苦八苦した跡の残るテキストを読むと、大変そうだなあと思う。
その点、私は気楽だ。誰かの期待に応えるものを提供しようと思ったところで自分には不可能なことを知っているし、サイト運営に関しては「お客が店を選ぶように、店もお客を選ぶべき」という考えなので、意に染まぬことをする必要もない。
おかげで「こんなことを書いたら嫌われるかも」「私のイメージが崩れるかしら」なんて心配をすることもなく、好きにしてこられた。
とはいえ、こんな私でもプレッシャーに襲われることがたまにある。その出会いを運命に感謝したくなるほど、魅力的な素材(テーマ)に出くわしたときだ。
「ああ、これよこれ!これを書きたい!」
そんなとき、私は仕事中であろうがカラオケの最中であろうが、家にすっ飛んで帰りたい衝動に駆られる。だがその反面、「思うように書けなかったら……」と妙に緊張している自分がいるのだ。武者震いするようなテーマに出会えることはそうあるわけでなく、もったいないことにしたくない。なんとか形にせねばと思うと、大勝負に挑む前のような気持ちになるのだ。

さて、おもしろいなと思っているのが、テキストを仕上げていくプロセスが人によって実にさまざまであることだ。
たいていの人は通勤電車の中で、あるいは家事をしながら、お風呂に入りながら、今日更新する日記の内容を考えていることだろう。私も生活の中のすき間時間を使ってテーマを探し、見つけた後はあたまの中で言葉の積み木を組み立てては崩し、組み立てては……をしているのだけれど、最近ある日記書きさんとのやりとりの中で、「今日の日記」を生みだす工程は人によってかなり違っていることを知った。
たとえば私の場合、パソコンに向かう前にすでにあたまの中で話の流れを完成させておく。キーワード(読み手に伝えたいこと)を取り出し、それらを結んで粗削りなストーリーを組み立てる。どうスタートし、途中どんなエピソードを挿入し、どう着地させるかまでおおまかに決めてしまってから、はじめてパソコンを立ち上げる。文字に書き起こす作業のイメージとしては、大きな粘土の塊(話のあらすじ)を全体を眺めながら少しずつ削っていき、徐々に輪郭をくっきりとさせ、最終的にあたまの中に描いた像に仕上げる感じ。
一方、自分の日記の書き方を「ビルを建てるイメージ」という方もいる。一階部分(起)から着手し、訂正の必要がないぐらいのレベルにまで作りこんでから、二階(承)、三階(転)、最上階(結)と積み重ねていくやり方。つまり、私のように話の大枠を書いてしまってから細部に手を入れていくのではなく、導入部から緻密に書き進めていくタイプである。また、書き始める前に用意するのはテーマだけで、それをどう加工するかはキーボードを叩きながら考えるという方もいる。
「今日の日記」が生まれるまでの工程は百人いたら百通り存在するだろう。もしあなたが「私はこう書く」をお持ちでしたら、ぜひ教えてください(サイト名も添えていただけるとなおうれしい)。

【あとがき】
「ああ、これこれ!」というテーマに出会ったときは、何かが憑りついたようにすごい勢いで、しかもものすごく満足のいくものが生まれます。ま、そんなことは数ヶ月にいっぺんあるかないかだけど。
「へええ、じゃあたとえばいつのテキストだい?そんなときがあったの?」ってツッコミはナシね……。


2001年12月14日(金) ステディ持ちの恋愛

トム・クルーズが共演した新恋人のペネロペ・クルス(「ラックス・スーパーリッチ」の人)とともに、映画『バニラ・スカイ』のPRのため来日している。
自家用ジェット機で成田に降りたったふたりは待ち受けるファンの前でもずっと手をつなぎ、ときにはトムがペネロペの腰に手を回し抱き寄せるなど、まるでハネムーナーのような雰囲気だったらしい。
さて、少し前、彼らの熱い仲が報じられたとき、私の胸はある感慨に包まれた。「ハリウッドの住人ともなれば、離婚経験なんかモノともしないんだなぁ」ということだ。
ご存知の通り、トムはこの8月にニコール・キッドマンと離婚したばかりだ。にもかかわらず、もうペネロペとあのアツアツぶりである。そういえば彼は一番目の奥さんと離婚したその年のうちに、ニコールと再婚している。トムにとって離婚経験がその後の恋愛にマイナス要素になるなんてことはありえないのだ。
そして、それはペネロペにとっても同じだとみえる。トムの「バツ2」という履歴は、彼女が彼に恋するにあたってなんの戸惑いの材料にもならなかったようだ。完璧な美貌と確かな才能を持つ彼女なら、「彼がいま愛しているのは私よ。私は“いま”を愛する主義なの」なんてすました顔で言いそうだ。
彼らのように自分に自信のある人間は決して過去で未来を占ったりせず、いまこの瞬間を重んじて生きていくような気がする。だから相手の履歴を気に留めずにいられるのだろう。そういう生き方ができるのはすばらしいことだ。

さて、最近つくづく思うのが、「既婚者」や「彼氏・彼女持ち」が恋愛しやすい時代になったなあということだ。
言い換えれば、そういう人が恋愛対象から外される時代ではなくなったということである。「結婚している=恋愛卒業組」「恋人がいる=(他の人との)恋愛休止中」という公式はもはや成立しなくなりつつある。
以前なら、二股かけるときは本命の存在を隠す、もしくは「妻とはうまくいってないんだ」「彼とは最近会ってないの」なんて言いながら近づくのが定石だった。「だから君とこうしているんだ」と、浮気という行為になんとか理由をつけようとするのは相手へのマナーでもあり、自分への言い訳でもあった。
しかし、いまやどうだ。当の本人は、もはや自分の現在の状態が相手にひるみを与えないことを知っているから、恋を始める前になんのためらいもなく、ステディがいることを明かす。
現にロンブーの番組を見よ。『ザ・ブラックメール』は、女の子が自分の彼氏にメルカノを仕掛け、どうアプローチするかを観察する浮気調査のコーナーだが、彼女がいるかどうかを尋ねられ、「いない」とウソをつく彼氏はむしろ少ない。たいていは「いるよ」と答え、中には「超カワイイよ、マジで」なんて自慢する男の子さえいる。
一部始終を隠しカメラで見ている彼女はここで思わずホッとするのだが、実は喜ぶのは早い。彼女がいることを正直に申告したからといって、彼がメルカノによこしまな考えを抱いていないかというと、まったくそういうわけではないからだ。
彼は彼女の存在を明かすことが以後の展開の足を引っ張るとは考えていない。だから、正直に申告するだけなのだ。そして、そこには「彼女のことを隠しながら付き合うのはしんどい」「俺の状況を理解してくれるコでなきゃ、後々面倒だ」という気持ちも働いている。
つまり、「彼女いるよ」は「だから君とは友達だ」の意志表明でもなければ、こんな俺でもいいのかと相手にお伺いを立てるためでもなく、ましてや良心の呵責でなどない。自分にとって都合のいい相手かどうかを見るための最終チェックにすぎないのである。
「ずいぶんドライな人が増えたもんだなあ。こうポンポンポンポン好きな人が見つかったら、傷ついてる暇なんかないよね。恋愛もお手軽になるはずだわ」
と私はしばし感慨にふける……というのはもちろん皮肉だ。
さきほど、「“いま”を生きられるのはすばらしい」と言ったけれど、それは後先を考えないこと、欲望のおもむくままに行動することを指しているのではない。
「僕らは出会うのが遅すぎた」
「奥さんのいる人を好きなったんじゃないわ、好きになったのがたまたま奥さんのいる人だっただけ」
なんて話を聞くと、「じゃあ幸せになれるものならなってみなさいよ」と言い放ってしまう自分を、私は冷たいとは思わない。

【あとがき】
もうひとつ、世の中の見る目が変わったなあと思うのが離婚経験者に対しての認識。少し前までは離婚歴を持つ人に対する世間の目は決して温かいものではなかったと思う。「別れるからには何かよっぽどの理由があったはず。なにか人間的に問題があったんじゃないか」と見る人もいたし、本人も引け目のようなものを感じていたのではないか。それがどうだ。「バツイチ」という言葉が流行り始めた頃から、そこまでネガティブな見方をされることはなくなった。いまや「40で独身なら、結婚歴なしよりバツイチだと言われたほうがむしろ安心する」と言う人もめずらしくないほどだ。「たった一度の人生だもの。後悔したくない」とそれまでの人生を清算し、前向きに生きている人を私は何人か知っています。


2001年12月10日(月) 掲示板に棲む人々

webサイトは星の数ほどあれど、カウンタもアクセス解析も掲示板もチャットルームもどれもないというサイトはきっととても少ない。
サイトを持ったことのない方はご存知ないと思うけれど、それらはたいていそういったサービスを提供してくれるサイトからレンタルしてきて設置する。そのため、それらのツールの利用中は「ユーザー専用掲示板」なるものにアクセスする機会がしばしばある。
ユーザー間で情報交換したり問題を解決したりするための助け合い広場のようなもので、不具合や疑問が生じたときはそこで親切な誰かにアドバイスを求めるのだ。
しかしこの掲示板、本来なら「それはこうしたら解決できると思います」「やってみます。ありがとう」といったやりとりが交わされるはずなのに、一部の人たちのために妙に緊張感の漂う場になってしまっていることがある。
一部の人たちとは、長くそこに棲息しているヌシのような存在のこと。この手の掲示板にはまるでサポートスタッフのように、すべての投稿にレスをつけていく人がひとりやふたり必ずいる。
もちろん百%親切心での人もいる。が、中にはなにか勘違いしているとしか思えないような人もいて、木で鼻をくくったような物言いの回答をしばしば目にする。
ある事柄について教えてほしいという依頼に「その問題はすでに話題に上がっています。投稿前に過去ログをチェックするのは常識です」とか、ちょっとした要望を書き込んだ人に「そう思うなら、レンタルではなく自分で作成して設置しましょう」とか。
なんて嫌な言い方をするんだろう。自分が言われたわけでなくともムッときて、じゃあそれはいつの話なのよ?とログを辿っていったところ、たしかに同じ内容を見つけることができた。ただし、何十ページもさかのぼった半年も前の日付の投稿に。
思わずつぶやく。あのね、みんながみんな、あなたがたみたいにここに常駐しているわけじゃないから、半年も前の書き込みは知らないし、目を通せるわけもないの。気に入らないなら自分で作れって言うけど、それができないからお金を出してサービスを利用しているの。それを知ってて意地の悪いこと言うんじゃないわよ。
どうやら彼らは初心者がうろちょろして幼稚な質問をするのが我慢ならないらしい。

思わず眉をしかめてしまう書き込みは他にもある。
「http://www.*****.ne.jp/***-***/1234/ このサイトはバナーをフレームで隠すような貼り方をしています。このまま放置しておいてよいのでしょうか。ちゃんと貼り付けている人たちに失礼だと思い、書き込みました」
こういうのを読むと、背筋がぞくっとする。たしかに、広告バナーを貼り付けるという条件で無料レンタルしているのに、そういうことをするのはせこい。しかし、メールでそのサイトの管理人に抗議するなり、サービスのサポートに報告するなりすればすむ話ではないか。わざわざ掲示板にリンク付きで書き込むあたり、「晒してやろう」が見え見えである。
メモライズやジオでスペースを借りているサイトがアダルトネタを書いたら通報され、テキストが削除されたという話をよく聞くが、以前からあれも気持ちが悪いなあと思っていた。ガイドラインに触れるようなことをしたのだから、削除された人が「ちくられた」と怒るのはおかしいが、「どこそこのサイトはこんな規約違反をしています」と連絡する人はかなり不気味だ。
バナーを隠しているだの、アダルトな内容を書いているだの。ズルしてやがるとカチンとくるのはわかるが、そんなメールを書き送るのは面倒くさくないのだろうか。何が彼をそこまでさせるのだろう。
それは正義感かと尋ねてみたい。人が要領よくやっているのが悔しいだけではないのか。うらやましいだけではないのか。
もし正義感だというならば、それはそれで怖い。何の義務もメリットもないのにそれだけの煩わしさも厭わない、その奇妙なマメさと潔癖さがね。

【あとがき】
私はこのサイトに掲示板をつけていません。自分のサイトの一部であるのに、自分でコントロールしきれないところがイヤなのですよ。無礼な書き込みをしていく人がいたり(そういうのはたいてい書き逃げだ)、意見の違いから書き込んだ人の間で口論が始まったり。そういう荒れた掲示板をいくつも見てきました。掲示板を健全に保つのってなかなか難しいんだなあと思います。私はそんなことに貴重な時間と労力を割きたくはありません。


2001年12月02日(日) 複雑な気持ち

そのニュースを知ったのは梅田の百貨店で買物中のことだった。ウィンドウに「慶祝 新宮さまのご誕生を心からお慶び申し上げます」の垂れ幕が張られるのを見て、「生まれたんだ!」。
店を出ると号外を配るおじさんがもみくちゃにされており、私もなんとか一部入手する。知りたいのはもちろん、皇子か、それとも内親王かということだ。
私の目に飛び込んできたのは「雅子さま 女児ご出産」の特大見出しであった。

その瞬間、胸に広がったのは二種類の感情だ。
ひとつは、単純でわかりやすい「わあ、よかったなあ」である。ひとりの女性が出産という一大事を無事に終えたことに対する素直な安堵の気持ちであり、「母子ともにおすこやか」への反射的な「Congratulations!」である。
ではもうひとつはというと、正直に言うと「複雑な気持ち」。文字でこのニュアンスを伝えるのは難しいが、「ガッカリ」ではなく「複雑」。皇子ではなく内親王であったことに対しての感情だ。雅子さまの立場と心境を考えると、そう思えてしまうのだ。
「お子さんの予定は?」と聞かれることに多くの女性が苦痛や抵抗を感じるということは、いまや周知の事実だ。「赤ちゃんはまだ?」がデリカシーに欠ける質問であるという認識は誰でも持っている。
しかし、雅子さまに対してだけは、国民は「一日も早くお子さまを」という要望を無邪気に、露骨に表してきた。「お世継ぎを生むことが皇太子妃の最大の公務だ」と言ってはばからない人さえいる。
それゆえ、妊娠がわかったとき、雅子さまにとってもっとも気がかりだったのは高齢出産であることなどではなく、「男の子かどうか」ではなかったろうか。「母」としては元気な子であればどちらでもという気持ちであっても、「皇太子妃」としては皇子であることを願わずにいられなかったのではないか。
まだご懐妊の兆しもなかった頃、皇太子さまは「コウノトリ問題」について、「このことに対する国民の期待の大きさ、事の重要性についてはよく認識しております」と会見で述べておられた。雅子さまがその身にどれほど重たいものを感じておられたかは想像に難くない。
だから、このたび生まれてくる赤ちゃんが皇子であったなら、雅子さまは世継ぎ問題に関わるさまざまなストレスからようやく解放されるだろう------私はそんなことを思っていたのだ。

九年前、小和田雅子さんが皇室に入ることが決まったとき、「なんてもったいない!」が口をついて出た。ハーバード大卒、五ヶ国語を話し、東大在学中に外交官試験に合格するほどの才媛である。職業人として確かな未来を持ち、若さと自信で光り輝いている女性がどうして……と思ったのだ。
その一方で、「この人ならこれまでの皇室のイメージを変えるかもしれない」とちょっぴりわくわくした気持ちになったことも事実である。
しかし、現実はどうか。「雅子さん」が菊のカーテンの向こうに消えて以降、私たちはあのきびきびとした、はっきりとモノを言い颯爽と歩くかつての姿を見ることはできなくなった。数年前、『ニューズウィーク』が「金の鳥かごに入ってしまわれたプリンセス」と書いたことがあったが、皇太子さまの隣で不得意なアルカイックスマイルを浮かべようとしている雅子さまを見るたび、私はなんともいえない気持ちになった。
が、号外を読み終え、ふと思ったのだ。皇太子さま四十一才、雅子さま三十七才。第二子への期待は残るものの、今回本当に皇室典範が改正され、女性の皇位継承が認められるようになるかもしれない。
憲法が保障する男女平等に基づき、女性天皇誕生への道が開かれる------もしそんなことになったなら。かつて「男女間格差のない仕事に就きたい」という理由で外交官という職業を選ばれた雅子さまのご出産がその呼び水になったとしたら、日本の皇室の歴史において、図らずもなんと大きな役目を果たしたことになるか。
それが雅子さまの望むところであるかどうかは別として、私は「めぐりあわせ」という言葉を思い浮かべずにいられない。

【あとがき】
テレビや新聞で皇室の方々の暮らしや活動を見聞きして、「自分もああいう家に生まれたかった」と思う人はどのくらいいるでしょう。雅子さまは「子どもを産むこと」に複雑な心境ではなかったかと想像してしまいます。