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2001年11月22日(木) 大食い・早食い番組に思う

テレビをつけたら、おデブタレントの内山君がド・アップで映った。「大食い伝説」という企画に挑戦しているところで、その内容は三日間でファミリーレストランのメニュー全百二十七品を食べきるというもの。
寿司の次は丼物、その次は麺類というふうにメニューを前から順に食べなければならず、かなり苦戦している様子。三日目に突入したところで「次週に続く」となったのだが、二日間の摂取カロリーは四万キロカロリー(成人男子の一日に必要なエネルギーは二千キロカロリー)、なんと九キロの体重増である。
このところ、大食い・早食いを競わせる番組がやたら多い。先日も挑戦者たちが握り寿司やハンバーガーを飲み込んでいるのを見かけたし、別の番組では若い男性がチンパンジーとバナナの早食い競争をしていた。
これだけしょっちゅうやっているということは、視聴率を稼ぐ人気企画なのだろう。
しかし、私はこの手の番組がとても苦手だ。痛々しいわ、馬鹿馬鹿しいわで見ていられない。「体をなんだと思ってるんだ」という腹立たしさもある。
小さい頃に親から「消化に悪いからミカンの皮は食べないほうがいい」とか「お茶漬けは意識して噛むようにしなさい」と言われたことを覚えている私は、水で流し込んだり胃袋に押し込んでいくような食べ方を見ていると怖くなってしまう。
食道や胃、腸にどれだけ負担がかかっていることだろう。後で吐くにしろ体内に留めておくにしろ、体にとってものすごく悪いことに変わりはない。体脂肪率四十六%という内山君を見て、思わず「この子は長生きできないだろうなあ」とつぶやいていた。
私が子どもの頃、テレビの中には食べ物を使って笑いをとる芸やコントがあふれていた。パイを顔面に押しつけたり、料理を投げつけ合ったり。とくにドリフターズの番組でひどかったように記憶している。その後、視聴者からの抗議でその手のコントはぱたりとなくなったが、いまの大食い・早食い番組はあれと同じくらい食べ物を粗末にしていないか。
まるで機械のように、手はひたすら皿と口のあいだを往復する。掴んでは口に押し込み、また掴んでは……。あれでは味わうことはおろか、いま口に何が入っているかさえわからないはずだ。こんな食べ方をされたら、食べ物がかわいそうだ。
どうしても食べられなくなってしまった内山君がつぶやいた。
「限界がきてるんですけど……僕にできるのは食べることだけじゃないですか。だから……食べますよ」
芸のないタレントは哀しい。健康を切り売りしなければ仕事にありつけないのだから。
しかし、素人がどうしてそんなことをするのか。いったい何を得られるというのか。
「すごいねー」と言われること?じゃあ、その「すごい」の後に続く言葉は何なのか。(すごい)体に悪そう、(すごい)苦しそう、(すごい)まずそう、(すごい)醜い。私が思い浮かべるのはこれくらい。尊敬の意味の「すごい」はひとつもない。
健康と引き換えにする価値のあるものなどありはしない。胃袋を広げるトレーニングをしてまで事に臨むなんて、ぜったい馬鹿げているよ。

【あとがき】
昨年ニューヨークで行われたホットドッグ早食い大会で、12分間で25個という成績で世界記録を作った日本人男性のコメント。「観客が手品を見たように興奮していて、『どうだ、見たか』って感じでうれしかったです」。それは健康と引き換えにするようなものかなあ。


2001年11月11日(日) 奪われた人生

目の前に三人の男性が座っている。
左端の男性の唇はまるでねじ曲げられたように横にゆがんでいる。口の中からこぼれてくる液体をしきりにぬぐう、その手には指がなかった。真ん中の男性は手首が不自然な方向に曲がったまま固まっている。ほとんど視力がないという一番右の男性は義足だった。
京都の某大学で学祭の催しとして行われた、ある講演会を聴きに行ってきた。テーマは『ハンセン病元患者の叫び〜隔離の悲劇とらい予防法〜』。
三人の男性は十代でハンセン病を患い、「患者を終身強制隔離して療養所で絶滅させるための政策」によって、人生の大半を人間として生きられなかった人たちだ。
ハンセン病というのは、「らい菌」が末梢神経を犯すことで知覚麻痺や運動麻痺が起こる感染症である。そのため顔面や四肢の変形、皮膚のただれなどが起きる。伝染力は極めて弱いが、外見上に表れる症状ゆえに、「天刑病(前世での悪業による病)」として激しく嫌悪、差別されてきた。そして一九三一年、先進国の仲間入りを果たそうと考えていた日本は、ハンセン病の存在が欧米人の目に触れることを嫌って『らい予防法』を施行、すべての患者を療養所に強制収容したのである。
一九五〇年代には特効薬のおかげでもはや隔離の必要のない病になったが、この法律は改廃されることなく一九九六年まで生き続けた。

男性たちは十代で収容されてから、今もなお療養所で暮らしている。在園は五十年以上に及ぶ。その話は「この日本で、しかも戦後に本当にそんなことが?」とにわかには信じられぬほど残酷さと悲しみに満ちていた。
当時十二才だったひとりの男性は、療養所に着くなり職員に言われた言葉をいまでも忘れないという。
「あれが火葬場、その隣が納骨場、その隣が監房だ。おまえは一生ここから出られない」
そんなはずはない、病気が治れば家に帰れると思ったが、その言葉は本当だった。患者の出た家は真っ白になるまで消毒され、家族は村を追われた。激しい差別によって親子の縁を切らざるを得ず、骨になっても故郷に帰れない仲間がたくさんいた。この男性も母親から「他の兄弟たちが結婚できなくなってしまう。もう帰って来ないで」と言われ、肉親と絶縁した。
また別の男性は治癒後に療養所を脱走し、五年間社会に出て暮らしたという。しかし、ハンセン病だったことが知れると連れ戻されてしまうため、まわりの人には四肢の変形を原爆症だと説明した。どんなに親しい友人にも打ち明けることができないこと、大阪生まれの自分がそのような嘘をつかねば生きていけないことが情けなく、ただただ悔しかったと涙を流す。
結婚は療養所内での結婚、つまり患者同士であれば認められた。ただし、男性が「断種手術」を受けることが条件で。少し前、ハンセン病のドキュメンタリー番組を見たとき、テレビの中の男性が泣いていた。
「結婚するためにね、私、断種手術を受けたんですよ。だけど、私を手術したのは医者ではありませんでした。豚や牛を診る家畜の獣医だったんです」

強制隔離政策で人権侵害を受けたと主張し、入所者ら元患者が国を相手に訴訟を起こした。その判決がこの五月に下り、国は「隔離政策は誤りだった」と認めた。
しかし、全国の療養所に入所している四千四百人のうち、社会復帰を希望しているのは八十六人。たったの二%だ。
隔離による肉親との断絶、社会生活の経験のなさ、差別・偏見に対する恐怖、高齢化------さまざまな問題が彼らを押しとどめている。里帰りすらできないでいる。隔離政策は彼らと家族の人生をめちゃくちゃにし、法律を廃止しただけでは消せないほど強固な社会的差別・偏見を生んだのだ。
政策が誤りであったという謝罪とハンセン病に対する正しい認識を啓発すること、元患者の人間性の回復と今後の生活の保障、社会復帰を望む者への支援制度を充実させること------もはや、こういうことでしか償いようがない。
しかし、彼らは失ったもの、いや奪われたものを何ひとつ取り戻すことはできない。

講演が終わり、建物から出た私にあちこちから威勢のいい声がかかる。
「タコ焼きいかがっすかーー」
「おねーさん、みたらし団子どう?負けときますよー」
まわりを見渡すと、お母さんに綿菓子をねだる子ども、ベンチにはひと舟の焼きそばを仲良く食べるカップル。どの顔もこの世にこれ以上楽しいことはないと言っているかのようだ。
「ふつうに勉強をして、ふつうに恋をして、ふつうに就職をして、ふつうに結婚をする。私はそんな暮らしがしたかった」
その言葉を思い出したら、視界がぼやけた。

【あとがき】
チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー』という映画を見たことはありますか?ベン・ハーの母親と妹は「業病」で死の谷に入れられていたのですが、字幕スーパーで「業病」と訳されていたその病気がハンセン病のことなんですよね。全身を布でくるんで隠し、人に姿を見られることを恐れて生活しているシーンに、「現実にこんな恐ろしい残酷な病気があるなんて」と戦慄しました。講演会で男性が言っていた、「後遺症が残っているのと菌があるのは別なんです。私たちはもう治っているんです」と訴えていたのが心に残っています。