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甲子園準々決勝、鳥肌の立つような試合が続いて、 俄然盛り上がっている中、創作エッセイをどうぞ… =========================
真夏の太陽よりも熱く、熱戦が繰り広げられている甲子園。 お盆休みに実家に帰省した彼は、朝から夕まで高校野球中継を眺めていた。 テレビ中継を観ているうちに、彼の記憶は20年近い時を超えていく。画面に映る 泥だらけのユニフォームが、グラウンドに這いつくばる自分の姿と重なっていく。
あの頃、夢の舞台に届かなかったことは、それはそれでいい思い出だった。 しかし、己を追いきれなかった当時の自分…それは今でも心残りだと彼は云う。
《僕は精一杯戦ったのか?》 《自分の限界まで、自分と戦ったのか?》
その自問に苦笑いしながら、彼はこう云った。
「自分の弱さを思い知り、一番大切なことを学んだ。 僕にとって高校野球は、そういうものでした。」
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1
自分への甘え。
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長野の高校で硬式野球を始めた彼だったが、入部当初は野球という世界の中で 自分の居場所を見つけるのに苦労した。彼は野球はお世辞にも上手いとは云えず、 未熟な技術を克服する前に環境への適応という課題があった。しかしながら、 人よりグラウンドに立ち、人一倍練習しなければ皆に追いつけないにもかかわらず、 彼は怪我が多く練習を休むことが多かった。彼にとってこれが悪循環となる。
下手なのは仕方ない。それで怪我をするのも止むを得ない。環境に慣れないことは 時間が解決する。経験不足もそうだ。彼が当時の自分に対して一番心残りなのは 「心ざし」の持ち方であった。野球へ取り組む姿勢である。
「要するに、自分に甘えてたんです」
彼は云う。
「当時の私は、怪我をした時に『ラッキー!これで休める!』と思ったことがあります。 今思えば本当に恥ずかしいし、あきれる。自分がどんな気持ちで練習をしていたか、 この一言がすべてを物語っている。だから上手くならないし、頻繁に怪我をした」
どこの高校の運動部でもそうだが練習はキツい。放課後や土日、学園祭期間、夏休みや 年末年始など一般生徒が羽を広げる時にこそ、運動部員は汗まみれになり地に這いつくばる。
「休みがほしい…、遊びたい…」
運動部に所属しながら本末転倒な願望であるが、どんなに強い意志の持ち主でも、 こうした弱い己が忍び込む。意志の強さは、弱い己を押さえ込めるかどうかの違い。
彼は、ヘタクソで、心ざしもなく、ケガばかりで、練習を休みがち。二年生の夏まで、 彼は自分に負けっぱなしだったのである。技術的にも精神的にも未熟であった彼にとって、 一年生から二年生にかけてのこのツケは、最後まで大きくのしかかった。
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2.
二年生の夏。
彼の二年上の先輩は甲子園を経験した。その同世代で、Kさんという先輩がいた。 ノックや球拾い、後輩の指導など部員全体の裏方役であった人である。
Kさんは裏方ながら最後の夏の県予選でベンチ入りを果たした。実は、彼の高校は 決して部員が多い野球部ではない。実力通りに各学年から選んでも三年生は全員ベンチ入り 出来てしまう。しかしKさんはあくまで「必要な戦力」としてベンチ入りした。チーム内で 最も信頼の厚い「選手」だった。
彼はKさんとは殆ど話したことがなかった。聞くところによると、Kさんは入部当初は レギュラークラスの力を持った選手だったが、足を怪我して選手生命を絶たれてしまった。 しかしその後も辞めずに部に残り、共に頑張ってきた同期のサポートに徹して、 再び甲子園を目指すことに決めたのだという。
彼は、この話を監督から聞かされた。 2年の夏、彼が「退部届」を持って監督室を訪れた時のことだった。
彼は野球も好きだったが、もう一つ昔から大好きなものがあった。それは「絵」である。 煮え切らないことをしているより、これから絵の勉強でもして美大を目指そうかと彼は 思ったのだ。しかし彼の話の中に「現実逃避」であることを監督に見破られていた。
「Kが何の為に、選手生命が断たれてからも部に残り続けたと思う?」 「そもそもお前は、何の為に高校時代に野球をやろうと思ったんだ?」
監督から投げかけられた問いに彼は、口ごもった。 少しの間の後、監督は彼の目を見て云った。
「これからの人生のために続けるんだ。とにかく辞めちゃいかん。 下手だとか怪我だとか、正直そんなことはどうでもいい。 どれくらい絵が好きなのかは知らないが、好きなものはやればいい。 でもな、一人でも出来る事は、これから幾らでも出来るが、 高校野球は今だけだ。今の仲間と一緒に頑張れるのは今だけだ。 もっと大切なことがある。だからKも辞めなかった。」
彼は黙ったまま、じっと空(くう)を見ていた。 監督は、彼の横顔に言葉を投げた。
「知らんかもしれんが、お前の親父さんとは何度か飲んだことがあってな、 お前、もうちょっと親父さんに野球の話をしてやれ。 グローブとかユニホームとか、それ以外にも色々助けてもらってんだろ。」
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3.
焦り。
彼は一年の秋に、監督からピッチャーに転向するように命ぜられていた。 「今思えば、それは監督の作戦だったのでは、と思うんです」と彼は云う。 彼は地肩と下半身が強いものの、筋肉が固く関節が弱い。決して投手向きとは云えない。 投手転向指示は、モチベーションアップのために監督が意図的に仕組んだ育成作戦だったか どうかは、本当のところは分からない。しかし、どんな意図であれ、彼が進むべき道は投手 しかなかった。二年生の夏、もう最後の夏まで一年を切った。彼には時間がない。
二年生の秋。彼はひたすらブルペンで投げ続け、グラウンドを走り続けた。しかしながら、 やはり彼は怪我をしてしまう。彼は焦った。「なぜだ!」と悔しがり己を責めた。
『怪我をするのは下手だから。どこかに甘えがあるからだ。』
肩肘を痛めて投げられなければ走るのみ。土日にレギュラーが練習試合をしている時は、 炎天下のグラウンドの隅で走り続けて吐いた。怪我をしながらの練習はアンバランスな体力と 技術が蓄積されていく。基本的な動きを身体で覚えられない。練習時間が不足していた。
秋になると長野の野球シーズンは短い。11月の下旬にはボールを使った練習が出来なくなる。 焦る彼は肩が治るとブルペンで投球練習や夜にシャドーピッチングを繰り返し、残りの時間は ひたすら筋トレと坂道でのランニングに費やした。みんなに足らない時間を追いつこうと、 彼は無理に練習を重ねた。そして・・・
年が明けると、彼は壊れてしまう。運動選手として致命的な腰痛に襲われた。彼の投球 フォームであるアンダースローにとって、上半身をかがめながら捻り上げる動作となるため、 腰はもっとも大切な部位だ。投手にとって足腰は命である。雪国の投手にとって冬の季節は 走り込みながら土台をつくる時期にもかかわらず、それが出来ない苛立ち。それどころか、 投げる打つ守るといった技術的練習も出来ない。冬が明ければもう最後の夏はもうすぐだ。
彼は、整形外科、整体、針治療、灸治療…と、腰の治療に何万も費やした。 しかし、シャドーピッチング時に奥から響く腰の痛みが和らぐことなく、
ついに最後の春を迎えた。
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4.
走馬灯。
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三年生となった。高校最後の年。高校のチームは春季大会が終わると、夏の予選に向けて 準備に入る。信州の遅い桜が散り始めた四月のある日、練習後のミーティングを終えた後、 主将を勤める同期のHが、ベンチで用具を片付けている彼を呼んだ。
「おう…ちょっとさ…、あっちの、体育館まで来てくれや」 「ん?、・・・お、おう」
二人とも黙ったまま校庭を歩いた。校庭を横切って体育館の隣にある柔道場へ入っていった。 柔道部は今日は早めに練習を終えたらしく、中には誰もいない。月明かりが照らす畳の上に、 彼とHはゆっくりと座った。暗闇の中にほのかに照らし出されるHの顔。ふと彼の目の辺りに 何かキラキラと光るものが見えた時、Hがこれから話そうとしている内容を彼は悟った。
・・・
彼の代の主将・Hはアツい奴だった。彼は野球を愛し、野球に愛され、克己心に優れた人間だ。 身体は小さかったが、心技に卓越した素晴らしい野球人だった。Hの話が終わった時、何故か 彼の方が嗚咽するHをなだめていた。落ち着いた後、彼はHに伝えた。
「まー気にしないでよ。少し一人でいたいから、先に部室へ戻ってて」
Hが去った後、彼はユニフォームのまま畳にごろんと寝転んだ。 彼の高校野球がこの日終わった・・・、その意味を咀嚼した。
今年は彼等の代の三年生と下級生を含めて人数が多い。また今年のチームの選手起用を 考えると、少しでも実戦的な選手をベンチに入れたい監督の意向で、彼を夏のベンチから 外さざるを得ないとのことだった。どうやらHは、当然三年生の彼もベンチに入るだろうと 思っていたらしく、監督に食い下がったが、最後は監督の意向を飲んで彼に伝えたのだ。
彼の去就に関して、Hよりも当人の彼の方が比較的冷静に受け止めていた。監督の立場から すれば至極当然だからだ。実力的にも順当で怪我も完治していない。妥当な判断だった。
「ふぅー…、間に合わなかったか・・・」
畳に寝転びながら彼は思った。それは、怪我の完治が間に合わなかったというよりも、 野球に対して甘えていたツケを取り戻しきれなかった…という意味だ。ヘタクソで甘えて ばかりだった頃に自分の甘さに気づき、自分を追いつめては怪我をする繰り返しの二年間
…と思い始めた時だった・・・
「走馬灯」という言葉を、彼は初めて体感した。
入部してからの日々がリアルに頭の中を駆け巡っていった。ヘタクソ!とバカにされ、 甘ったれるな!と怒られ、よく投げた!と褒められ、怪我をして焦り、試合で自滅して 悔しがった日々。ひたすら走った冬の雪の道。そして、栄養を考えた食生活や野球用品 の用意など、野球漬けの生活をサポートしてくれた家族・・・すべてが駆け巡った時、 脳裏に浮かんだ言葉は「後悔」の二文字だった。そして自分の内から問いかける声を聞いた。
「下手は下手なりに自分と戦い、限界まで頑張れたか?」
彼は顔を畳に突っ伏して、震えながらうずくまっていた。
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5.
最後の夏。
五月から彼は、ユニフォームを着た「裏方」となる。フリーバッティングで球拾い後、 ポジション別ノックでは外野のノッカーを勤める。ゲームバッティングでは走者役として ひたすらベースを駆け抜けた。投手だったが、走塁やスライディングには自信があった。
シートノックでは再び球拾いや用具の片付けをして、練習の最後の締めで全員で行う ベーラン(ベースランニング)は一緒になって走った。練習を通じてずっと新一年生の 動きを見るのも彼の役目。タラタラと走っている一年生を一喝し、練習後の一年生だけの ミーティングでは新人達を叱り飛ばす(たまに褒める)指導役であった。居残り練習では、 同期のレギュラーに付き合って、ティーバッティングのトスを上げたり、ピッチングマシンに ボールを投下したり、また柔軟運動の相手を買って出るなど、サポートに徹したのだ。
皮肉な事にこの頃には腰もかなり治り、打つ・走る動作では全く痛みはなかった。 投げる動作も20〜30球ならばそれほど痛みは出なかった。一軍メンバーが遠征する間に 居残りの二軍で練習試合を組むと、たまに投手として登板もする。これまた皮肉な事に、 妙にカーブのキレが抜群で過去二年間の中でも指折りのナイスピッチングだったりする。 (相手も一軍半だったりするからだが…)さらに皮肉な事に、試合後に相手高校の監督が 彼を指して「今日投げたあのピッチャーは何年生?」などと云ったりする。 それを聞かされた彼は、「間に合わなかったってことだね…」と苦笑いした。
選手としての夏は終わっていたが、彼は夏までは紛れもなく高校球児であった。自分で プレーをするかプレーヤーを支えるかの違いで、最後の甲子園を目指すことには変わりない、 …あの日、月夜の道場で思ったことだった。脳裏に浮かんでいたのは先輩・Kさんの姿だった。 三年間、一緒に頑張って来た同期を夏のスターにしてやりたい…。夏の予選までの日々、 彼はその想いを込めて球を拾い、ノックを打った。
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6.
贈る言葉。
最後の夏、彼の高校は甲子園には届かなかった。
試合後のベンチ裏、みんな分かっちゃいるのに涙が出る。 その日、同期の仲間が流していた涙は、彼が春に道場で流した涙と同質のものだった。 その日、彼は同情の涙ではなく、満面の笑みで仲間を迎えた。 彼の高校野球生活が終わりを告げた。
試合に負けた翌日、三年生全員が集まって、下級生に最後の挨拶をした。 その時の挨拶を、彼は今でも覚えているという。
======================================== 自分が昨日流すべきだった涙は、夏のベンチ外を伝えられた春に流し尽くしました。 後悔の涙です。三年間、自分は自分に甘えて練習してきたことを後悔しました。 しかし五月から今日までの三ヶ月間、大事なことを学びました。 それは、「裏方」の存在です。「自分を支える人がいるから自分がある」ということです。 自分を支えてくれる人のことを思えば、自分に甘えている場合ではなかったはず。 Kさんのような裏方に徹してチームを支えていた人を見ていながら、 自分が裏方役になるまでその意味に気づけなかったことがとても悔しいです。 それでも、今それに気づけたことは、今後社会に出た時、または大事な人を想い遣る時、 これから必ず自分の役に立つことだと思いました。 下級生の皆は、支え合うことを強く思ってほしい。それがチームという姿だと思います。 そして必ず、将来の自分のためになると思います。 来年こそは甲子園へ行ってほしい!燃え尽きるまで頑張ってください。 ========================================
・・・
当時の記憶をめぐらせていた彼が、
最後に云った。
「野球をやってよかったと思ってます」
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060817 taichi
※慌てて書いたので、語彙や語尾の調整が出来てない乱文ですが、 最後までお読みいただきありがとうございます。時間が出来たら 少しずつ直しますので・・・
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小泉首相が、昨日8月15日の終戦記念日に靖国神社を公式参拝した。 中韓関係、A級戦犯の分祀など、様々な問題がある中の強行参拝であった。
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■外交問題としての「靖国問題」
参拝後、中国政府と韓国政府は予想通りの声明を出した。
=========================================== 《中国政府》 「日本軍国主義による侵略戦争の被害国人民の感情を深く傷つけ、 中日関係の政治的基礎を破壊する行為に強く抗議する」 《韓国政府》 「日本の首相が、8月15日に過去の日本の軍国主義と侵略主義の象徴である靖国神社を 参拝したことに深い失望と怒りを感じる。国際社会が重ねて伝えてきた憂慮と反対の声にも かかわらず、国粋主義的な姿勢で靖国神社を参拝したことで、韓日関係をぎくしゃくさせ、 北東アジアの友好協力関係を損なってきた点を厳重に指摘する」 ===========================================
このような中国と韓国に対し、「日本国内の問題。内政干渉するな」という意見と、 「アジアでの政治的・経済的安定を構築する上で日中韓の協力体制を重視するならば、 外交的判断として首相・閣僚の公式参拝は辞めるべき」という両方の意見がある。
しかし、これはいわゆる「靖国問題」の中の一つの側面に過ぎない。
中韓の抗議が始まったのが、85年に中曽根康弘が首相として初めて公式参拝を表明してからである。 「内政干渉だ」という主張は正論だが、一国の首相が公人として過去の諸外国の歴史的問題にふれる 行為をする以上、一概に内政問題ともいえない。小泉首相が「参拝は『こころ』の問題」と語るのと 同様に、中韓にとっても「こころ」の問題だ。私が中韓の国民だったら彼等と同様の抗議をするかも しれないとさえ思う。国民感情の問題だ。だから中韓の抗議内容の正当性を議論しても仕方ない。 小泉首相が中韓の反応を知ってて参拝している以上、その外交的意図を論じるべき。 「外交問題としての靖国」は「靖国問題」の一部であり、これだけで論じられる問題ではない。
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■そもそも「靖国神社」とは何なのか?
(↓Wikipedia「靖国神社」より) 靖国神社とは、近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び 日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社。
幕末の坂本龍馬なども祀られるこの神社は、かつて国によって運営され「国家神道の象徴」であった。 しかし戦後は憲法20条に基づいた政教分離政策に基づき宗教法人化して、日本政府との関係はないと されているが、上記の「首相の公式参拝問題」や、1969年〜74年にかけて、靖国神社を国家管理に 戻そうとする「靖国神社法案」問題など、政教分離の原則に反する動きも見られてきた。
ワタシはまず、靖国神社の在り方そのものに問題があると思っている。欧米の一部から 「Military shrine(軍事神社)」と呼ばれても仕方ない独自の歴史観を明らかにしている。 太平洋戦争は正当なものだとし、東京裁判(極東国際軍事裁判)は国際法に反した不当なものとする 歴史観である。神社敷地内施設の展示物には、戦争美化と捉えられても仕方がないものがあるという。
もし靖国神社が、戦死者の英霊を祀って世界平和のメッセージを発信する場所として 日本の首相が参拝する場所でありたいならば、神社は上記の歴史観を語ってはいけないと思う。 ただの国立慰霊施設として黙ってそこに存在していればよいのだ。そして日本の現首相は、 靖国神社が前述のような歴史観を有する施設である以上、公人として参拝してはいけないと思う。
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いわゆる「靖国問題」に関して、 ワタシが疑問なのは次の2点。
1.なぜ靖国神社はA級戦犯を分祀しないのか?
2.なぜ小泉首相は頑なに公式参拝しようとするのか?
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1.なぜ靖国神社はA級戦犯を分祀しないのか?
政府要人の公式参拝に関して、中韓の反発も国内の反発も、そして天皇の不参拝理由も、 すべては靖国神社にA級戦犯が合祀されているからである。 「即分祀すりゃいいじゃん!」とワタシはずっと思っていたのだが、前述した靖国神社の 歴史観からすれば、「あ〜これはなかなか分祀出来ないわ〜」と思ってしまった。
8月8日のTBSのニュースで、靖国神社の幹部が語った「分祀できない理由」。 「分祀すべき問題を誰がどうやって選ぶのか、ということだと思います。 もし(合祀対象として)東京裁判のいわゆるA級戦犯を認めるならば、 東京裁判を認めるのかということになります。東京裁判は絶対認められない」 (靖国神社総代 小田村四郎 元拓殖大総長)※記事内より一部抜粋
「ああ、そうか」と思った。そもそも靖国神社は、A級戦犯もそうでない軍人もすべて同一の 太平洋戦争の英霊として合祀したという解釈なのだ。つまり「全英霊から東京裁判のA級戦犯 だけを分祀せよ」という主張をのむならば、「東京裁判自体を認めないと出来ない」というのだ。 靖国神社が東京裁判を認めない立場であることは前述したが、「分祀問題」はそこに繋がってくる。 だがワタシは、神社側が分祀できないと主張するのは、ロジカルな理由よりも、もっと人間的で 宗教的な問題だと思う。あまりはっきりと書けませんが…。
しかし例の「富田メモ」以来、騒がしくなってきた「分祀問題」は、長らく日本が抱えてきた 重要な国内問題であり、同時に外交問題にも影響を与える(分祀して靖国がクリアになっても、 中韓との関係が解決するとは思えませんが…)大事な問題である。政教分離と謳っていながら、 日本が内包している「宗教問題」と同等のような気がする。
中韓北3国と日本が「靖国」に起因して関係を悪化させ、仮に最悪の事態を迎えたならば、それは 中世から現代まで、欧州や中東で行われてきた数々の宗教戦争と大差ないと思う。A級戦犯の英霊は、 中韓北3国にとっては「邪神」と同等だろう。それを国の要人が参拝するのは、国の悪魔信仰に映る かもしれない。このような問題は幾ら我々日本人が「それはおかしい!行き過ぎだ!」と指摘しても 解決しない。それが宗教的な問題に等しいという理由だ。「靖国問題」は、自国内から見ても他国 から見ても理解を得られるような解決を導くべき。前述したように靖国神社の在り方が問われている。
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2.なぜ小泉首相は頑なに公式参拝しようとするのか?
「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した」
というコメントだけで解釈すると、小泉純一郎はなんて独善的な人間なのかと思ったりする。 小泉個人が「参拝したい」と思う「心」には、なんの異論もない。好きにすればいいと思う。 しかし、内閣総理大臣という肩書きは小泉だけのものではない。首相の意思決定は国民の意志 でなければならない。だから上記の「公的私的こだわらず」というコメントには拒否感がある。 「そこはこだわれよ!」と云いたい。こだわった上で確信犯で国内外の政策の一つとして 参拝しているなら、政策としての「首相の靖国参拝」の是非を論じればいいのだが、その前に 「公人私人」にこだわってくれないのは、首相としてあまりに自分勝手で無責任過ぎると思う。
さて、小泉純一郎個人のこだわりはともかく、 首相参拝にこだわっているとして、どうして頑なに参拝しようとするのかを考えてみる。
(1)国内の政治的理由
小泉首相に限った話ではないが、過去に何人もの自民党総裁が公式参拝を繰り返している のは、自民党の集票組織として後ろ盾となっている日本遺族会の影響があるという。 日本遺族会と自民党遺家族議員協議会によって69年に「靖国神社法案」が提出された。 これは前述した靖国神社の国家管理を可能とする法案である。しかし74年に廃案となる。 75年の三木首相の時に、政府要人の公式参拝を含む「慰霊表敬法案」が出されたが、これも 廃案となる。日本遺族会への配慮を踏まえて三木首相が8月15日に「私人参拝」を行った。 この時初めて「公的参拝・私的参拝」という言葉が出来たと云われている。これ以後、 法案化に失敗した自民党に対して日本遺族会は継続的な閣僚参拝を求めた。自民党は参拝の 合憲性を主張しながら、日本遺族会に配慮して時の閣僚たちが参拝に踏み切っていく。
78年の福田内閣の時、この度総裁選に立候補する安倍晋三の父・安倍晋太郎官房長官が、 靖国参拝に関する政府統一見解を出した。閣僚の参拝も私人参拝として合憲だとする見解だ。
さらに、80年、82年と鈴木首相が参拝。84年には自民党が公式参拝合憲を討議決定。 そして85年に中曽根康弘が8月15日に首相として公式参拝に踏み切った。これ以後、 77年のA級戦犯合祀の事実公表と合わせて中韓からの抗議が始まる。国内でも司法判断の 議論が活発化して以後の首相は公式参拝を見合わせて来たが、96年7月27日に橋本龍太郎が 首相として11年ぶりに公式参拝を行い、そして01年8月13日に小泉首相が公式参拝をする。 以後、毎年公式参拝を欠かさず、中韓との外交問題に発展。小泉首相が昨年の総選挙時に 「来年9月退陣」と語ったのは、昨日の8・15公式参拝の公約を果たすためであったのだろう。
このように以前から自民党は、「靖国法案提出」→「閣僚の私的参拝」→「首相の公式参拝」 という流れで、靖国神社との関わりを日本遺族会へアピールしてきたのだ。首相就任当初、 派閥という大きな基盤を持たなかった小泉首相は、自民党の大集票団体である日本遺族会を 無視するわけにはいかず、「8月15日公式参拝」を公約にブチ上げるなど、最大限にアピール しなければならなかった理由は、こうした背景がベースとして存在する。
(2)外交的理由
前述したように小泉首相は、靖国公式参拝による中韓の反応は分かり切っていながら、 参拝を強行している。単に日本遺族会へ配慮するだけの理由と、近隣諸国との良好な関係維持 という外交問題との事の軽重を鑑みれば、意志表明や行動の仕方はもっと方法があると思う。 さらには、小泉個人のこだわりだけで、ここまで強行していると考えるのも不自然だ。 やはり外交的に確信犯的な理由がある。それは中韓と日米関係というパワーバランスだ。 それに関しては、国際情勢解説者・田中宇氏のブログ「田中宇の国際ニュース解説」の 「短かった日中対話の春」という記事を読んでみてほしい。 ======================================= 【田中 宇(たなか さかい)氏】 共同通信社を経て97年マイクロソフト入社。「MSNジャーナル」を立ち上げて ネットジャーナリズムの流れを創り上げた一人。00年〜01年までハーバード大へ遊学。 現在はフリーの国際ジャーナリストとして活躍。多数の著書を出版。 =======================================
なぜに中国は抗議して、なぜに小泉首相は公式参拝にこだわるのか?…という理由について、 一つの見方を提示している。とりわけ日中のパワーバランスについての話や、同じ敗戦国 であるドイツと比較した日本外交の話は、詳細に読みとれて面白い記事だと思う。
上記記事によれば、超親米外交を続ける小泉内閣にとって、「靖国公式参拝」は一見 対米政策とは無関係な話かと思いきや、実はアメリカを意識した外交策の一つであった、 ということだが、うーん、そこまで深読みしていいものなのか…という疑問もある。
でも確かに、日米同盟があるからこそ「靖国参拝強行」という対中韓への態度なのだろう。 経済協力は惜しまず行いながらも、中華圏側には組みさないという明確な一線を引いている。 「靖国」は中韓に外交カードを与えているのではなく、日本が自ら切っているという見方だ。
しかし、ワタシはこの深読みをあまり信じたくはない。
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■とにかく、今のままではダメ。
仮に、日米同盟のための外交カードとして日本が「靖国」利用しているのであれば、それは 出来る事なら「靖国」以外のカードで行ってほしいと思う。外交カードにしてはダメ。 また、中韓への影響を問う議論は、この解決は単に「靖国」だけの問題ではないと思うので、 この理由のためだけに公式参拝の是非を議論することはナンセンスと思う。もっとトータルな判断だ。
ワタシが問題にするのは、首相参拝による国としての世界に対する戦争認識態度である。 そもそも靖国神社の歴史観はワタシ個人は非常に気持ちが悪い。しかしそれは、政教分離を前提 に100歩譲ってヨシとして、その施設に太平洋戦争で戦没した軍人が祀られていることもヨシとして、 それを閣僚が戦没者哀悼の目的で私的参拝することもヨシとする。しかし、A級戦犯も祀られた 戦争美化施設に国の代表が公式参拝するのは、どう考えても国の態度としてマズい。
「A級戦犯の分祀」と「閣僚公式参拝中止」、この二つは絶対に必要と考える。 これならば日本国内はもちろん、世界各国から見ても、飲めないところもあるけど基本的には理解を 得られるカタチなのではと思う。中韓は当然、靖国そのものがある限り揚げ足をとってくるだろうが、 国際世論的に理解を得られる反論が出来るので痛くも痒くもない。そもそも議題に上がらなくなる。 この話を飲めない団体は、自民党内の参拝推進派もいるだろうが、そもそもは日本遺族会との関係で 仕方ない面もある。本質的に反対なのは、靖国神社と日本遺族会、そして右翼だけかもしれない。
※書かれた内容については、不勉強・認識不足の部分も多々ありますので、 至らぬ箇所についてはご指摘ください。
060816 taichi
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先日、花火を見に行って来ました。
そこで一句。
真 夏 の 宴
煌 め き 惑 う
華 酔 う 夜
色 移 り に け る
寝 て も 覚 め て も
お粗末です。
060810 taichi
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AIR〜the pulp essay〜_ハラタイチ
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