鼠小僧白吉のうだうだ日記

2004年11月30日(火) 最近早起きなおいら。

と、言ってもここ2,3日のことであるが、朝7時30分くらいにおきるようにしている。ちょっと生活改善を行おうと思い、夜遅くまでおきているのではなく、朝早く起きよう、そう思いはじめてみたのだ。鼠小僧というと、夜遅くまで呑んでいるというイメージの人が多いが、決して呑んだくれているだけで、夜更かししているわけではない。意外とまじめに仕事をしてたりして夜遅くなっていることも多いのだ。

そこで、夜やるのではなく、朝起きてやろう! と思い早起きを始めてみたのだ。うむ。これが予想以上に朝ははかどるのだ。以外とおいら朝向きなのかも知れない!

しかし、ここ2、3日、なぜかものすごい疲れがたまってる……なぜだろう。

答えは簡単、夜寝る時間は変わってないのだ。朝早くからやってる分、夜は以外と余裕が出来てしまう。余裕ができたらどうするか。呑みに行くのである。結局昨日も12時まで、おとといは3時まで呑んでいた。うむ。これでいいのだろうか。

話は変わって……

最近、いろいろとドタバタしていて、非常に気ぜわしい。その上イライラの材料が次々と襲ってきて、かなり疲労気味……心の癒しが欲しい!

「そうだ! 京都へ行こう!」

年末時間作って絶対に行ってやるーーーーー。



2004年11月27日(土) 島田正吾の訃報にびっくり

土曜日だというのにドタバタした一日。あっちいったりこっちいったり。夜8時、一旦帰宅。新聞を見てびっくりした。

「島田正吾死去」

そういえば少し前、脳梗塞で倒れたとも聞いていたが……98歳、大往生である。しかしこれほどの名役者がいなくなってしまうのは残念でならない。

もう何年前だったか忘れたが、大学生のころ、おいらはよく祖父といっしょに歌舞伎を見に行っていた。まだ見にいき始めたばかりのころだったと思う。最初はじいちゃんがさそってくれるので、つきあいで行っていたのだが、徐々に面白くなってきてたころだった。その日の演目は「荒川の佐吉」。中村勘九郎が佐吉という若いやくざの役をやっていて、その佐吉がどんどん立派な大親分に成長していくというお話だ。その芝居に若さで突っ走りがちな佐吉をいさめる大親分「相模の政次郎」略して相政という役が登場していた。舞台の相政は年老いているのだが、その分重みを感じる。そして舞台上で相政を演じる役者は、充分すぎるくらい、やくざの大親分のオーラがでていた。その相政を演じていたのが、島田正吾だった。その当時でもう90歳を超えていたはずである。

その後テレビではひとり芝居などを拝見したことがあるが、生で見たのはその一度きりだ。しかしその大きすぎる存在感は、ものすごく印象に残っており、その一回きりの観覧で、おいらは島田正吾が頭にこべりついてしまった。

もう一度、島田の相政を見たかった。98歳の大往生。ご冥福をお祈りします。



2004年11月25日(木) 無責任の時代

もうたいていのおかしな事件でびっくりしなくなってしまったのは、あまりにも世の中のゆがみ、きしみが大きくなりすぎてるからだろうか。奈良の小1女児殺害事件を聞いても「またか」と思ってしまうし、水戸の鉄アレイ殺人事件を聞いても「あっそ」と思ってしまう。

前はそうじゃなかった。「人を殺す経験がしてみたかった」と言って3人の老女を殺害した事件がおきた時は、その異常さにぞっとしたし、酒鬼薔薇事件は特異な少年の犯罪だと思っていた。大学2年の時、教育評論家の尾木直樹先生の授業を学校で受けてて、「こういった事件はこれからどんどん起きてくる。まだ起きていない兄弟間殺人も絶対におこる」という話を聞いた時、「まさか」と思っていたが、半年もしないうちに兄弟間殺人が起きた時には、今、自分が暮らしているこの国の行く末を本気で心配したもんだ。今となっちゃ、小学生の女の子が友達を殺してしまう時代だから、そんなのでびっくりしていた時代が懐かしい。

今年に入って「自己責任」という言葉が流行した。おいらは実はこの言葉「無責任」の裏返しだと思っている。4月13日の日記にも書いたが、政府が「自己責任」と言って万が一の場合の保険を取るのは、政府や外務省の怠慢でしかない。ようは自らの無責任を自己責任という言葉でカバーしようとしているのだ。
本来この国にはそんな言葉は必要なかったはずだ。「助け合い」の文化、「いたわりあいの文化」がこの国にはあった。今は「助け合い」「いたわりあい」が下手したら「余計なお世話」と受け取られてしまう。そして他人のことには無関心になっていき、「自己責任」が蔓延するのだろう。

もちろん「助け合い」の精神が行き過ぎたばかりに、その弊害があったことも事実だ。企業のなかにあった「護送船団方式」なんていうのは日本でしか通じない常識だったかも知れない。でもそれをくずした今の日本が幸福な国かどうかを考えた時、行き過ぎるグローバルスタンダードはいかがなものかと思ってしまう。社員の首切って、血流した会社から株価が上がっていくなんておかしな話だ。

水戸の鉄アレイ事件。親にとやかく言われたのがむかついたらしい。しかしいい歳した若いもんが、家でぼーーーーっとしてたらそりゃなんか言うわな。「家族を皆殺しにしようと思ったけど2人やったところで気がなえた」。NEETはどうやら犯罪すらも最後まで達成することができないらしい。働かなくても家にいつけば食っていけるからNEETが増えて行くというのは当たり前の話。そんな状況は10年も20年も前から変わらなかったと思う。高校生の就職率が80%を割って久しい。就職できない人がどんどん増えていき、その状況があたり前になり、働かなくてもいいやというやつが出てきたのだ。そんなヤツがクラスに何人かいたら、その状況も当たり前になってしまう。

どこかで何とかしなくては、本当に日本は漂流してしまうかも知れない。まあ、無責任の小泉に何か出来るとも思えないが。




2004年11月19日(金) なんなんだこの寒さは

寒い! 本当に寒い! 朝、飯田橋の事務所についてから今の今まで(19時40分)フリースを着たままだ。風邪ひくんかおいら? って、ほどである。

この秋からつかい始めたソフトを使って、あれやこれやと作っているのだが、使い慣れてないソフトは色々と不都合が多い。しかし「こんなやり方があったんだー」と後から後へ、とても便利な方法に気がついていく。うーん世の中の進歩ってすごいゾ!



2004年11月16日(火) そろそろ通常版のうだうだ日記に戻ろう!

ふと気が付けば10月以降ちょっとイレギュラーなうだうだ日記が続いていたが、そろそろ通常版に戻ろうと思います。

しかし、人がいろいろあって黙ってたのをいいことに(って、誰も気にしちゃいないか)わが国の周りでは可笑しなことが相次いでいる。

中国の原潜に領海侵犯されようとも、ただひたすら押し黙り為すすべなし。抗議の為大使を呼んだならば、「今日はちょっと東京にいないので行けません〜」ってはぐらかされ、でどこに行ってたかと思えばこんなところにいたのである。もうアホかと。政府が呼んで「行かれません」と言ったその理由が、落選中のアホちょんまげが主催する、政府与党の関連イベントに出席していたのだ。本末転倒もいい加減にせい。その場には現役の某大臣も出席してたはずなのだが、ここでその件に関し何か話し合われたという話を一向い聞かない。というか、こんなお粗末で、徹底糾弾しなくてはならない話をバカマスコミはどこも取り上げていないのだ。おいらがこの話を知ったのは某フリーライター氏のサイト。ふざけんのも大概にせい! と言いたい。

そして昨日は昨日で、北の阿呆どもが「遺骨」などというものを不躾に突き出してきやがった。小泉首相よ! わが国が戦わなければならないテロリストはイラクなんかではないはずだ。バカブッシュのでっち上げの尻馬には乗れて、なぜ証拠のそろっている国家犯罪には立ち向かえないのだ。

と、通常版に戻ったらいきなしこんなんですいません。久々に怒りの乱筆!



2004年11月15日(月) 感謝!零文学 感謝!文学フリマ

自分で作った本を自分たちの手で販売するイベント、それが「文学フリマ」だ。このイベントの存在を知ったのは確か1年前だったような気がするが、イベントに参加してみたくなって「零文学」という雑誌を作った。

いや、雑誌……というか同人誌を制作しようという構想は学生時代からあった。しかしなんだかんだでのびのびになっていて今日まで形になってこなかった。

「零文学」を作ろう! が先か、「文学フリマに出よう!」というのが先か、どっちの気持ちが重たくて、どっちの気持ちが先に生まれたのか、はっきりとは忘れてしまったが、2004年の11月に開催される文学フリマに零文学を出すということで、プロジェクトはスタート、「文学フリマ」という明確な締め切り日が設定され、「やらなくてはならない」状況が生まれた。

試行錯誤もあった、大幅なスケジュールの遅れもあった、でも出来た、そして文学フリマに出店できた。

買いにきてくれるのは仲間内だけだろうな〜、それ以外に1冊でも2冊でも売れたらいいな〜。

当日はじまるまではそう思っていた。でも、まったくしらない人が、初めて会う人たちが、うちらの本を買っていってくれた。こんなに嬉しいことはない。

「零文学さんて法政の方々なんですよね〜、僕も法政です」
「飯田橋特集かあ、今飯田橋で仕事してるんで読んでみたいなーと思って」
「小笠原先生と関係あるんですか? 僕も先生にお世話になったことがありまして……」

ネットとカタログのわずかな情報しか発信していなかったのだが、そのわずかな情報を目にして、「零文学」をたずねてきてくれた人がいたのは驚きだった。

零文学が出来たことに感謝!
零文学に興味を持ってくれた人がいることに感謝!
文学フリマに来てくれたことに感謝!
そして零文学を買ってくれたことに感謝!

我々の「零文学」はまだまだ始まったばかりです。
今後も長い目で応援していただけるとありがたいです。

暫くは感謝の余韻に浸らせていただいて……
年内には次号に向けて動きだしたいと思います。



2004年11月12日(金) 宣伝も兼ねまして

11月14日、東京・秋葉原の東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室で開催される「第3回文学フリマ」に「無頼舎・零文学」として出展します。できたてほやほやの「文学インディーズマガジン・零文学」を販売しますので、お暇ならいらっしゃってくださいませ。
くわしくは文学フリマのホームページをごらんください。

で、当日こられないと言う方は通信販売を受け付けています。くわしくは零文学通信販売のページをごらんください。

ぜひ1冊、いや2冊3冊……

今日は宣伝日記でした。



2004年11月02日(火) いろいろあった10月のあれこれ。

以前にもここにちょこっと書いたかも知れないが、神楽坂文学会のメンバーや、法政大学文学部出身者が集まって「零文学」という雑誌を作っておりました。発売日は11月14日。無頼舎のトップページhttp://home.s03.itscom.net/burai/より通販承りますのでよろしく。

でー、だ。その原稿書きと校正作業に、本業の方のどたばたも重なっててんてこまい。そんな状況でありながら予定していたダイビングの講習にはちゃんと1泊2日で行ってくるし、と、まあ、自業自得といえばそんな感じなのですが、10月はてんてこ舞い。書きたいこともいろいろあったのですが、書けずにいたので、今日は十月のあれこれをまとめてドン!

1・福島泰樹さんに会ってきた
前回のうだうだ日記の続きです。小笠原賢二先生の葬儀で読経したのは、歌人の福島泰樹さんでした。福島さんと言えば知る人ぞ知る「絶叫歌人」。日本におけるポエトリーリーディングの先駆者で、まあ叫ぶ詩人の会の元祖だと思っていただければいいのですが、今でも月1ぐらいのペースで「絶叫短歌」というライブをやっています。ちょうど小笠原先生の初七日の日、吉祥寺の「曼荼羅」というライブハウスで、絶叫短歌のライブがありました。で、友人Tと一緒に出かけてきたのです。途中のMCで先生のことに触れたり、追悼歌を読んだりと、そんなライブをしんみりと聞いていました。ライブ終了後、福島さんに会いに行ったところ。「良く来てくれた! 穴があくまで小笠原の本を読んでやってくれ」と福島さん。死んでしまっても作品が残ってて、そうした作品といつまでも触れ合うことができるのは幸せなのだと思いました。

2・八丈島に行ってきた
 先生の件があり、書きそびれていたのですが、10月の冒頭2,3と八丈島にダイビングに行ってきました。ここまでずーっと伊豆大島でもぐっていたのですが、おいらをダイビングの世界へ誘い込んだK書店のHさんいわく「世界で一番美しい海は八丈島」の言葉に惹かれ、八丈に行ってきました。

いやーホント海はすばらしかった。あっちを見ても亀、こっちを見ても亀、そっちを見るとまぐろ、と大物の連続。

宿の料理も最高! ってことで詳しくは近日中に旅日記の方に書きます。

3・またまたまた大島へ
でもって、10月下旬は大島へ。今回は遊びではなく、「アドバンス」のライセンスを取るための講習。今まで持っていた「オープン」だと、場所によってはもぐれないところがあるらしく、良くわからないのだ、取りにいってきました。雨の日、波が高いという悪状況のなか、土曜3本、日曜2本とちょっと疲れたかも。でも中で写真とったり、夜もぐったりと、けっこー楽しんできました。

と、まーこんなところで。イラクの日本人拉致殺害事件、アメリカ大統領戦、外国人参政権問題、この10月も書きなぐりたいことがたくさんあったのだが、まーそれは後日ということで。


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