鼠小僧白吉のうだうだ日記

2004年10月14日(木) 雨は続く……(小笠原賢二先生と呑んだ空の下で)

10月になってからかっらと晴れた空を見ていない。狂ったような嵐がやってきたり、止んだかなと思ってもまた降りだしてきたり。この国には「秋晴れ」という言葉があるのに、今年はどっかに行ってしまったらしい。しかし雨が続くからと言って、日常の時間の流れが止まるわけではなく、朝になると飯田橋の仕事場に出かけ、夜になると武蔵小山で呑むという、パターン化された行動はいつものように続いている。

昨年の暮れから仕事で通っている飯田橋だが、ここにくるようになった理由のひとつに、多かれ少なかれ場所が飯田橋だったからということがあったと思う。1997年からの4年間、おいらは飯田橋の大学に通っていた。その4年間、毎日のように友と語り、先生と語り、そして朝まで酒を呑んだ街。それが飯田橋だ。大学で何を勉強したかは、おいらにとってそれほど重要では無く、多くの人と出会い、多くの酒を呑んで、そうした出会い、そうして過ごした時間と空間、そういうことがとても大切だった。思い出というほど大そうなモノではないけれど、なんかそういった感じのモノがこの街のあちらこちらに散らばっているのだ。

大学を卒業してから何年間かは、ほかの場所にある会社につとめたり、フラフラしたりしていたので、飯田橋にくることはあまりなかったのだが、それでも年に数回はこの街に来ていた。その用事の大半は大学時代所属していたゼミナールのコンパだった。

おいらの所属していたゼミは、文学部日本文学科の現代日本文学作品作家研究のゼミナール。主に戦後の日本文学を題材にしていた。石原慎太郎、柴田翔、川端康成、耕治人……。本が好き! ということで入った文学部だったが、それまで偏った読み方をしていたので、ほとんど読んだことの無い作家ばかりだった。それらの作品の出会いは衝撃だったと言ってもいい。こういった面白い作品をなぜ今まで読んでいなかったのだろうと思った。例えば柴田翔。当時の社会情勢と、若者の青春とが微妙に重なりあって展開する作品の世界には衝撃を覚えた。その後柴田の作品は神保町でほとんど集めて読んだ。柴田論を記したいと思っているのだが、残念ながら、これにはまだ手がつけられていない。

ただこれらの作品に出会っただけでは、ただ読んで終わりだったと思う。そこにいい指南役がいたからそれらの作品世界にのめりこんでいけたのだ。その指南役とは、ゼミの指導教官だった文芸評論家・小笠原賢二先生だった。

ゼミが始まる時、先生が一番初めに言ったのは、作品をただ読むだけではなく、作家の背景、その作品が書かれた時代の背景もあわせて読めと言うことだった。本来、文学部にきて文学を学ぼうとする学生は、当然、こうした読み方を知ってなくてはならなかったのかも知れない。おいらはただ本が好きというだけで文学部に言ってしまったので、そんな文学への接し方は知らなかった。と、いうよりもそれまで、文学について書かれた論文を1枚たりとも読んだことがなかったし、本への感想といったら面白かった、つまんなかっただけで終わっていた。唯一、太宰に関しては例外で、彼の生い立ちとかが気になり、津軽まで足を運んだりしていたが……。

大学のゼミは、それまでの二十数年のおいらの本への接し方を、一気に変えてくれた場所だった。そしておいらを、さらに本好き、文学好きへと変えてくれた場所だった。そしてそれを教えてくれたのが小笠原先生だった。

大学を出てまでゼミのコンパに足を運んでいた一番の理由は、小笠原先生に会いに行くことだった。会っていろんな話をするのが楽しみだった。と、言ってもおいらは臆病で、自分の持つ文学に対するさまざま考えに自信が無かったので(まー実際稚拙なものなんだが)、先生に対して文学について話を戦わせたことはほとんど無かったと思う。一方的に聞いていたことの方が多かった。

小笠原先生は文芸評論家になる前は、文芸紙の記者をしていた。その時、多くの作家・詩人・歌人を取材しており、呑んでる時、そうした人たちを実際に取材した時の話をしてくれた。深沢七郎は……とか、磯田光一は……とか。おいらにとって、そうした話はとっても貴重で、面白かった。飯田橋をテーマにしたある本で、先生が居酒屋のならぶ神楽坂を「もう一つの教室」と書いていたが、まさしくおいらたちにとって、そこで繰り広げられる授業こそ、多くのことを学んだ空間だった。

神楽坂での最後の授業はおととしの忘年会だったと思う。現役のゼミ生とともに、「満月」という居酒屋で呑んだ。満月での呑み会が終わった後、現役生は帰し、先生とOB数人で新宿に2次会へ向かった。結局その日は朝まで呑んだのだが、その時だったと思う、先生が「なんか最近変なセキが出るんだよな」と言っていた。「風邪ひいたんじゃないですか」とか言って、その時はほとんど気にしていなかった。と、いうよりその時はおめでたい話があって、おいらたちはそのことで盛り上がっていたのだ。

それは小笠原先生が晴れて、大学の正式な教授になるという話だった。お祭り好きのおいらは、「じゃーみんな集めてお祝いしなくちゃいけませんね」などと言っていた。

3月ぐらいになって、教授就任パーティーを具体化させなくちゃと思って、先生に電話した。そしたら「その話が保留になった」というではないか。健康診断で影が見つかったというのだ。そしてしばらくしてそれが癌だということがわかった。暮れの忘年会の日、ゴホゴホやっていたのは肺癌の影響からだったのだ。

暫くして入院したという連絡を受けた。おいらはあわてて、立川の病院に飛んでいった。面会時間はとうに過ぎた、夜遅い時間だったと思う。その日見た先生はベットに横たわったままで、かなり具合が悪そうだった。これからという時に癌が発覚し、教授の話が保留になってしまって、でも、きっとすぐに良くなって、ちゃんと教壇に立ってくれると思っていたのだが、その姿を見た時にはかなりショックを受けた。いつも力強い先生しか見ていなかったから。

だけど数週間後、先生を見舞に行った時はかなり元気な様子で、「こんなことで負けちゃいられない」と言って、あの方法、この方法、といろいろ癌に立ち向かう作戦を話してくれたので、これなら大丈夫、大丈夫だと思って先生を見ていた。

そして何ヶ月か立ち、小笠原先生は病院を退院した。その話を聞いた時とてもうれしかった。「じゃあ先生9月から教壇に復帰ですね」と言うと、「しばらくはゆっくり様子を見て」とか言っていたが、東京新聞に力強いエッセイを書いたりしていたので、この様子なら大丈夫だ、きっとまた教壇に立って、たくさんの評論を書いてくれるだろうと思っていた。

年があけて今年2月くらいのことだったと思う。今年おいらんちは喪中で、先生に年始の挨拶をしていなかったので、一度会いにいこうと思い、電話をかけた。そしたら「2月29日に中井英夫の虚無へ供物の出版40周年の記念展覧会と、パーティーがあるから一緒に行くか」とさそわれ、ついていった。

その時だ。「頭がクラクラする」と言ったのだ。パーティー会場でワインが振舞われていたが、あんだけ酒が好きな先生が、そのワインに一口、口をつけただけで呑むのをやめてしまった。「最近ちょっと弱気になっているみたいでね……」と先生の奥さんは言っていたのだが……

5月だったと思う。電話があった。「私、また入院したんですよ。転移してしまってね。学校の方も全部辞めました」

4月から教壇に復帰し、週2回授業を受け持っていたと聞いてただけに衝撃だった。先生がまた癌で入院してしまった。

5月、6月と立川の病院まで行った。思えばここまで病院に行く度になんか先生に怒られていた気がした。「お前ら来て何もしゃべんないでどうすんだ」。先にも書いたがなんか先生と話すこと、特に文学に関してはドキドキしてしまって、あまり話すことができなかったのだ。病院じゃ酒もないし。

でも8月25日、病院を訪ねた時は違った。先生は本当に具合が悪そうで、奥さんに10分程度と言われて面会に行ったのに、1時間もいろいろな話をしてしまった。出たばっかりの先生の著書について、詩について、コトバについて……何か今話さなくちゃと思ったのだ。おそらく先生と文学の話でちゃんとキャッチボールできたのは、この日が始めてだったのではないだろうか。

「ちょっと早いと思うが人間には寿命というものがあるんだし。しょうがない。でも1000度の炎で焼かれ無になることを考えると、まだ怖いけどな」

そんなことを言う先生においらは思わず叫んでしまった。

「そんなこと言わないでくださいよ。そんなこと先生が言ったら、うちら何も言えなくなっちゃうじゃないですか。まだまだ、俺たち、先生にいろんなこと教わりたいんですから」

その日、先生はずっとベットの上で横たわったままで、苦しそうな顔をしながら僕たちと話していた。でも、おいらがそう叫んだ後、先生はその日初めて笑顔を見せてこういった。

「悪かった悪かった。でもな君たちが俺と話したいと思ったら、おれの本を開けばいいじゃないか。そのために私は何冊かの本を残した。本を開けばいつでも俺と対話できるじゃないか」

この会話が、先生と最後の会話になってしまった。

10月4日朝、偉大な文芸評論家、僕たちに多くことを教えてくれた先生、小笠原賢二先生は次の世界へ旅立っていった。翌日、通夜の前に奥さんにお願いし、先生の顔を拝ませてもらった。いい顔だった。穏やかな顔だった。降り続く雨は涙雨か。でもお焼香の間だけは不思議と雨が止んでいた。先生が濡れないようにと気を使ってくれたのか。6日告別式の日はここ数日では珍しく、雲は出ていたが晴れていた。告別式の最中ふと空を見上げると、お寺の上だけ、円状に雲が途切れ青空が見えていた。まるで天へ続く道のように。

天国にはたくさんの作家がいる。今頃、お酒片手に文学談義に花を咲かせているのだろか。

もし癌にかからず、教授になっていたら、これから5年、10年の間でどんだけ多くの仕事を残してくれたのかと思うとあまりにも残念でならない。「セカチュー」が文学としてもてはやされるこの今の状況を、どうぶった切ってくれたことか。群れず、属さず、自分の信念にもとずき、真摯に文学に立ち向かっていった小笠原先生。その姿勢は何事にも通じるし、おいらも見習っていかなくちゃならないと思う。

あーもう一度、神楽坂で先生と酒が呑みたかった。もっといろんな話が聞きたかった。言ってもしょうがないことだが。今日は部分日食ということで、フィルムの切れ端を片手に外に出てみたが……どんよりとした雲が飯田橋の空を覆っている。だめだ、今年の天気は何年に1回かのイベントまで包んでしまうらしい。先生、先生のいる方では太陽は見えてますか? そして、おいしいお酒呑めてますか……



2004年10月05日(火) ナミダアメ

雨がしとしとと何日も降り続くのはいったいいつ以来だろう。

昨日は本当にたくさんの電話をした。色んな人と話した。結局最後の電話が終ったのは深夜3時30分。みんな突然のことに唖然としていた。悲しいというのはもちろんだけれども、それ以上に無念、残念、悔しいという気持ちの方が強い。

せめてあと10年、いや5年でも生きてもらえたら、日本の文学界にどれだけ大きな功績を残したことだろう。

雨はまだふり続いている。もうすぐ18:00。そろそろジーパンを脱いで黒い服に着替えて出かけよう。



2004年10月04日(月)




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