2005年01月29日(土) |
小春日和のスノーマン |
数日、外に出ることのなかった子どもたちでしたが、とても天気のよい日だったので、大学の庭まで散歩に行きました。 久しぶりに雪に触れた子どもたちは嬉しそうに、雪だるまを作りはじめました。 すこし離れたところに、若い男女がやってきました。まるで、はじめて雪を見たかのようにはしゃぎ、雪をかけあったりしています。 しばらくすると、男の人がやってきて、 「エクスキューズミー」と英語で話しかけてきました。自分たちは雪のない国から来て、はじめて雪を見ました。大きなスノーボールの作り方を教えてほしい、とのことでした。どこから来たのですかときくと、台湾からでした。ぼくは、小さな雪玉を握って作り、それを転がしてだんだん大きくするのだということを教えてあげました。それを見て、とても喜んでいました。 「ぼくたちは作ります。スノーボールを二つ重ねて、」とぼくが言うと、彼は 「スノーマン」と言ってにこにこしました。 それから彼らは、雪だるま作りにとりかかりました。はっきり言ってとても下手でしたが、とてもほほえましい光景でした。 子どもたちは上手に雪だるまを作り、枝で手と顔をつけました。 「ばいばーい」と子どもたちが手をふると「ばいばーい」と手をふりかえしてくれました。
帰って妻にこのことを話すと、「その人たちにはいい思い出になったね」と言われました。
2005年01月27日(木) |
水ぼうそうと家事と仕事の両立 |
今週、子どもたちが2人とも水ぼうそうにかかり、苦しんでいました。最初の発疹があってから、ゆっくりと体全体に広がっていきました。発熱もなかったので、保育園でかかった子がいたという水ぼうそうを疑いつつも、どうも違うようだと思っていました。 ところが、水ぶくれができてとてもかゆいことになり、皮膚科に行くと、まちがいなく水ぼうそうであると言われました。それから熱に苦しみました。夜中じゅう、熱とかゆみにうなされる日が続きました。 最初は有給休暇をとって仕事を休みました。翌日は、朝の様子を見て出勤するかどうか決めようと考えていました。 「休んで休めないことはないよ」とぼくは言いました。 朝、妻に出勤するともしないとも言っておらず、「仕事に行ってくるよ」と急に言うと驚いてしました。昨日は休んでもいいと言ったのに、朝になると行かなければならないような気がしてきて「大事な会議があるから」と言いつつ、出かけました。 前の晩は、ぼくも妻もほとんど眠れず、家の掃除も昼食の支度も何もしていませんでした。 昼休みに電話をかけると、お昼の支度にまで手が回らないと、とてもたいへんそうだったので、ぼくは上司に「一度帰りますが、また、戻ってきます」と言って、帰宅しました。 帰宅すると、昼食の支度や子どもたちの世話で忙しくなり、結局「早退します」と職場に電話をかけました。すると、上司に「プロだろう。たいへんなのはわかるが、仕事に対して甘いんじゃないか」と言われました。
結局、ぼくは、妻にも職場にも迷惑をかけてしまいました。仕事に行くならば、家のことを整えておかなければなりませんでした。それができないのならば、仕事を休むべきでした。 だから、ぼくは、確かに、家事についても外での仕事についても甘く、中途半端でした。 今日の場合、堂々と「もう1日休ませてください」と職場に伝えるべきでした。
家事と仕事の両立を考えるならば、両方に対して真剣にならなければならなかったのでした。
2005年01月19日(水) |
「家事は楽だ」と言ったこと |
これまで妻は、周囲の人から幾度となく、「なぜ家事をしないのか」と問われてきました。たいていの人は、ぼくのほうが料理がうまいから、などと理解しようとします。けれど、実際には、ぼくよりも妻のほうが料理も上手だし、そうじも丁寧だし、洗濯物をたたむのだって、きっちりとしています。 妻は体が弱いからとか、妻は完璧主義だからやりはじめるととことん突き詰めてしまうから、などと答えたこともありました。
妻は先日、辰巳芳子さんが出演していたテレビを観て以来、家事のことを考えていました。そして、その問いの答えがわかりました。それは、数年前のぼくの発言にあったと言うのです。 当時、1人目の子どもがうまれて、ぼくはアルバイトをし、妻は家で家事と育児に追われていました。そんなとき、ぼくは妻に 「三食昼寝つきで楽でいいなあ」と言ってしまったのです。 それなら、やってみればいい、ということになり、妻と交代して、妻がアルバイトをして、ぼくが家にいた時期もありました。実際、家にいて家事と育児をやっていると、ちっとも楽ではなく、むしろ、オンとオフがなくて間断なく続く仕事なのだということがよくわかりました。
また、ぼくが洗濯物を干してたたむと、いつだってしわしわでした。そのことを妻に指摘され、「もっと丁寧にやってほしい」と言われたときのことです。ぼくはこう言いました。 「それは家事に対する基準が違うということで、ぼくは、そこまで求めていない。だから、これでいいと思う」
今にいたるまで、ぼくは自分の「三食昼寝つきで楽でいいなあ」という発言について、取り消して謝ると言うことをしていませんでした。 日々の忙しさの中で、そのことを気にかけることなくきてしまいましたが、妻の中ではそのことが、まるで炭の「オキ」のようにくすぶって燃え続けていました。無意識のうちに、ぼくが「謝るまで家事をしないぞ」と思っていたのだろうと、今思い返すとそのように理解される、とのことでした。
妻は、いっしょうけんめい家事をしていました。ぼくはそのことを理解していませんでした。それどころか、完璧にやりとげようとする妻に対して、そして、「そこまで求めていない」と言って否定しました。そして、「三食昼寝つきで楽でいいなあ」と言ったのです。
今、ぼくは、身にしみてこう思います。 「家事もひとつの仕事。育児もひとつの仕事。きちんとやることは、とてもたいへんなこと。そして、とても大切なこと。」 だから、今、あのときの発言のことをあやまりたいと思います。
「三食昼寝つきで楽でいいなあ」だなんて言って、ごめんなさい。それから、いっしょうけんめいやってくれてありがとう。ぼくも、もっと、きちんとできるように努力します。これからも、一緒にやっていこうね。
この話をしてから、妻がメールをくれました。気づいたこととして、 「子どもは親のする家事、育児について、決して『そこまで求めていない』などと言わないこと。手をかければかけるだけ喜んでくれます。」
2005年01月16日(日) |
冬山の一夜 (後編) |
タクシーでたどり着いたぼくたちを、主宰者が迎えてくれました。 「皆さん、まだ、ついていなくて、集まったらここからヒュッテまで遊びながら歩いていくんですよ。先に行かれてもいいですが」 なんと、ぼくは勝手に道の脇にヒュッテがあるのかと思っていたのですが、まだ、ここから歩くのだということでした。まずは子どもたちを休ませてあげなくてはと思い、先に行かせてもらうことにしました。 雪をかきわけて重い荷物を持ちざぶざぶと歩いていきました。子どもたちも何とかついてきます。20分ほど歩くと、ヒュッテにつきました。 主催者もまだ、着いたばかりのようで、これから火をおこすところでした。すっかり冷えた体を温めてあげることもできなかったのですが、持参したお湯で、インスタントのスープなどを作ってあげました。昼食用にと思って昨晩焼いてきたあんぱんを、こどもたちは2つも平らげました。まだ、10時をまわったばかりだというのに、消耗していたのでしょう。 台所の火のそばで少しでも暖をとろうとしましたが、なかなか温まりませんでした。このままではいけないと思い、外に出ることにしました。天気はよかったので、日の光の下のほうが暖かそうに思えたのです。身支度をして外に出ると、室内よりはいくらかすごしやすかったのですが、それでもじっとしていると寒いので、もときた道を歩いていると、すぐに他の参加者の一団がやってきました。
主催者が豚汁を作ってくれたので、それぞれがもちよった昼食を、暖まりはじめたヒュッテの中で食べました。もう、あんぱんはそんなに残っていなかったので、豚汁はありがたくいただきました。 ぷーちゃんは「足の親指が痛い」と言いました。靴下を脱がせると足先が冷えていたので、ぼくのおなかに足をつけて温めてあげました。今思うと、このときに、お湯をわかすなどしてもっと、しっかり温めてあげればよかったのです。 主催者の話からわかったのですが、昨年から毎月、このヒュッテに来て、子どもたちを遊ばせており、何回か参加している常連が多いようでした。 昼食後は、おまちかねの雪遊び。子どもたちはすっかり元気になって、巨大なそりですべり、倒木の上に登り、雪のトンネルを掘り、めいっぱい遊びだしました。スタッフには、若者も何人もいて、体当たりでたくさん遊んでいました。ぼくも、そりに乗ったり、トンネルをくぐったりしました。 子どもたちも、自由の天地の中で、底抜けの笑顔とともに何の屈託もなく遊んでいました。
2時間半ほどたつと、もちつきがはじまりました。そのときに気づいたのですが、他の子どもたちはヒュッテの中で休んでいました。もちつきをやるというので、外に出てきたのです。 ぼくは、まーちゃんとヒュッテに入って休むことにしました。ぷーちゃんは「まだ、遊ぶ」と言うので外で遊ばせておくことにしました。 そのまま、ぷーちゃんは外でもちつきに参加し、それをまーちゃんは窓から眺めていました。 もちつきが一段落した頃、ぷーちゃんが戻ってきました。 「足が痛い」と涙を流しながら言っていました。ぼくは、大変驚いて、ストーブのそばにぷーちゃんを連れて行きました。スタッフや他の参加者も集まってきてくれました。とても幸いなことに、参加者の中に看護婦をしているという方がいて、 「うちの子もなったことがあるけど、遊びすぎて冷えたのだと思います。ゆっくり温めましょう」と言って、お湯を持ってくるように指示し、ぷーちゃんの指を温めはじめました。 ぼくは、泣きじゃくるぷーちゃんを見て、すっかりおろおろしてしまいましたが、主催者の方と看護婦さんがつきっきりで看護してくれました。30分ほどもそうしていたでしょうか。カイロなども使って、だいぶ温まってきたと言うので、地下の、もう1つ薪ストーブがある部屋に行きました。そこでは、別の団体が「なだれ講習会」をおこなっている最中だったのですが、一番暖かい場所を空けてくれました。そこに、冬用のシュラフを置いて、足を靴下とカイロでくるんで寝かせました。 そして、「なだれ講習会」は明日の朝に再開するということにしてくれました。 ぷーちゃんは横になると、すぐに寝入ってしまいました。それまで心配してそばにいたまーちゃんも少し安心したようで、行ったり来たり、遊び始めました。退屈そうにしていたので、スタッフの方が遊びに連れて行ってくれました。 やっと一息つけたので、妻に電話をかけました。ぼくは、このまま寝かせておいたほうがいいかなと思いましたが、妻は、「夜中に眼が覚めてもかわいそうだし、起こして夕食を食べさせたほうがいいと思う」と言いました。しばらく、そばにいると、じきにぷーちゃんは目を覚ましました。 階上では、子どもたちのピザ作りが始まっており、参加したいというので連れて行くと、もう、かなり回復していました。ぼくとまーちゃんにピザを作ってくれ、食後は子供たち全員での「はないちもんめ」にも積極的に参加していました。 「よくなってよかったですね。心配したでしょう」と口々に言われました。そのとおりでした。
翌朝は、まだまだやる気だった子どもたちでしたが、控えめに遊ぶことにし、一番に下山しました。 バス停まで送っていただき、バスと電車を乗り継いで帰宅すると、心配していた妻がほっとした様子で迎えてくれました。 子どもたちは「また行きたい」と言っています。 ぼくは、適当なところで休ませることも親のつとめだということを、身にしみて知らされました。未熟な親でした。 でも、元気になって、ほんとうによかった。
2005年01月15日(土) |
冬山の一夜 (前編) |
NPO主催の「森のようちえん 冬の森でお泊り会」というものに、子どもたち2人と参加しました。手稲山パラダイスヒュッテというところに、就学前の子どもと親が土曜日の晩に泊まる、というイベントでした。山小屋ときいてはりきる子どもたちにせがまれて、妻も行こうかという気になりましたが、寒いだろうから妊婦さんにはよくないと、思いとどまりました。
手稲駅から出て、バス停に向かいました。手稲山パラダイスヒュッテは、手稲山のスキー場の近くにあるため、スキー場行きのバスに乗ればよかったのです。バス停の前まで行ったとき、まーちゃんが「おしっこ」と言いました。まだ、バスは来ていませんでしたし、8分ほど時間がありました。急いで駅にひきかえし、トイレに行きました。 バス停に戻ってくると、すでにバスは来ており、その中にはスキーをかかえた少年少女たちがぎっしりとつまっていました。今日は、快晴の土曜日でした。3歳、6歳、32歳のチームではとても乗り込むことすらできませんでした。しかたなく、タクシーで行くことにしました。 でも、スキー場のバス停から、いくらか歩かなければならなかったので、タクシーに乗るメリットもあるのでした。まあ、それに、快適に行けるのだからよしとしましょう。
ぷーちゃんは乗り物酔いをしやすい性質だったので、道が山道になってくるにつれ、気分が悪くなってきました。まーちゃんは静かにしていました。「手稲山」パラダイスヒュッテというくらいですから、道はくねくねと曲がりながら登っていくのでした。 おでこを前のシートについている手すりに押しつけて、下を向いていたまーちゃんが、突然、 「げぼ出た」 と言いました。見ると、少し、吐いていました。ぷーちゃんはあいかわらず、ぐったりとしています。まーちゃんは、かわいそうなことに、まだ、少しずつ吐き続けていました。 タオルでふいてあげているうちに、車がとまりました。しかし、そこは、目的の山小屋ではなく、研修場と書かれた大きな建物でした。運転手さんに 「ここではないです」と言うと、「あれっ、違うの」と言って外にいた駐車場の係りの人に聞いていました。 どうも通りすぎていたようで、登ってきたくねくね道を今度は下っていきました。そして、やっと着きました。山小屋は、道沿いにはなく、道の脇にはワゴン車が止まっていました。 「着いたよ。着いたよ」と言って、へろへろになった子どもたちを車の外に出し、運転手さんに車を汚してしまったことをわびました。
たどり着くまでがたいへんでしたが、これはまだ、この波乱万丈の小旅行の幕開けにしかすぎなかったのです。 つづく
ぼくの職場では年に一度、上司が職員の評価をするために個人面接をおこないます。その場では、職員の希望を言うことができます。 そこで、育児休暇を取得したいと考えていることを伝えました。まず、3月に妻が出産予定であり、自宅出産をするので、生まれたら残っている10日程度の有給休暇をまとめて使いたい。その際に、もちろん、妻が出産したときにとれる3日間の特別休暇もとる。そのために、3月におこなう予定である調査を早めにやっておきたいと、言いました。 それらは、可能だということでした。 次に、4月1日から4月30日まで育児休暇を取得したい。理由としては、まず、自宅出産であること。転勤が予想され、そうなると子どもの保育園が変わる。その際にはならし保育が必要であるが、それはぼくがしなければならないこと。家族全員の生活環境が変わるので、そのケアをしたいこと、を伝えました。 それに対する上司の返事は 「難しいだろうな」でした。 「どうしてですか。育児休暇制度はちゃんと明記してありますよね」 「それはそうなんだけど、1人が1か月いないと、その分、まわりの人がカバーすることになるだろう。その人が回せないんだ」 「でも、それは、育児休暇をとらないという前提で、人と仕事を配置しているということになりますよね。今までとった人はいないんですか」 「そうなんだ。いないんだよ。まあ、出してみて、もしだめだということになったら、労働組合でとりあげたほうがいいよ。1人でやると、実現できないかもしれない」 どうも、納得がいきませんでした。制度がないのなら、職場全体の問題として、制度の確立を求めていく、ということになるでしょう。でも、すでに制度はあるのです。それなのに、取れないなんて、おかしな話です。
話は変わって、ぼくの評価という話になりました。 「仕事はよくやっているし、まちがったらすぐ謝るし、とてもいい評価だ。でも、ひとつだけ、低い項目がある。協調性だ。家族を大切にするというのは、正しいと思う。そして、おれはそれを理解しているけれど、それを理解していない上司もいるから、心配だ」 どうも、仕事よりも家族を優先して、飲み会にあまり出ないとか、そういうことを言っているようでした。でも、上司の言った評価は、まさにぼくの目指していたスタイルだったので、内心、嬉しく思いました。 仕事は頑張る。家庭の事情を仕事に持ちこむ。 結局、育児休暇をとるということは、家庭の事情を仕事に持ちこむことになり、「協調性に欠ける」と評価されるということのようでした。
家に帰って、妻に言いました。 「今日、上司との面接があって、とてもいい評価だったんだけど、ひとつだけ低い項目があったんだ。それはね、」 「協調性」 と二人の声はぴったりあいました。 「どうしてわかったの」 「そりゃあ、わかるよ」 2人して、笑ってしまいました。
昨日の自宅出産日記に、「妻が体重があまり増えていないのを気にしてエコーを見に行った」と書きましたが、それはまちがいでした。実際は、「骨盤位かどうかを気にしてエコーを見に行った」のでした。
お詫びして、訂正します。
これからは、もっと勉強し、正確に書こうと思っています。
2005年01月11日(火) |
妊婦さん、病院へ検査を受けに行く |
助産婦さんに血液検査を受けに行くように言われたので、病院へ行きました。また、胎位は27から32週くらいまでに決まり、もし骨盤位ならば、すぐに逆立ちをする、と『分娩台よ、さようなら』に書いてありました。現在29週であり、頭が下になっているかどうか、エコーでしーちゃんの様子を確認したいということもありました
道が凍っていてすべるので、朝、ぼくが出勤するときに一緒に出て病院まで送り、昼休みに待ち合わせをしました。 血液には特に異常はありませんでした。「クラミジアの検査を、この病院ではこの時期におこなうのですが、どうされますか?」ときかれたので、お願いしたということでした。ぼくは、病院での検査が好きではない妻が、どうして検査を受けたのかなと思いました。 そして、エコーの画像も見たとのことでした。写真を見せてもらうと、しーちゃんの顔がはっきりと写っており、妻は、ぼくに似て「たれ眼」であると言いました。頭は下になっていました。 10月にも血液検査をしてもらった女性のお医者さんに、妻は、こんな素敵なことを言われました。
「自宅に助産士さんが来てくれるんですか。自宅で分娩されるんですか」 「はい」 「家族みんなに囲まれて分娩ですね。いいですね」
これを聞いて、ぼくは、少なからず感動しました。自宅出産に理解のあるお医者さんに出会えることを、そもそも期待していなかったからです。そして、このお医者さんだから、妻も提案された検査を受けようという気になったのだとわかりました。
それから、ちょっとおいしいところで、二人でランチを食べました。とても優雅な昼休みでした。
3歳8か月のまーちゃんが 「しーちゃんがうまれたらおむつがいるから、まーちゃんはおむつをしないで寝る」と言いました。 まーちゃんは、ずいぶん前から、起きている間はおむつをつけないで、トイレかおまるで用を足していました。しかし、夜、寝る間だけはおむつをつけたままで、たいてい夜中に2回ほど、おむつ替えをしていました。 そんな状態が1年以上も続いていたのですが、まーちゃんがそう言うので本人の意思を尊重して、夜、パンツで寝ることにしました。 布団の上に、遠足の時に使うシートを敷こうとも考えましたが、妻が 「気づいたらプライドを傷つけてしまうよ」と言うので、いつもどおりに寝かせました。 もちろん、寝る前には必ずトイレに行かせます。それから、ぼくが寝るときにも起こしてトイレに行かせます。起こすというよりも、実際は、寝たまま抱っこして便座に座らせ、そうすると、おそらくトイレの脱臭装置の音にうながされて、寝たままおしっこがでて、そのまま布団に戻しています。それから、午前3時くらいに目覚まし時計をセットして、再度、トイレに行かせる計画でした。 ところが 「おしっこ出ちゃった」という声に起こされました。時計をみると、2時半でした。パンツ、パジャマズボン、下着のシャツ、パジャマの上着、シーツ、ふとんが濡れていました。すぐに着替えさせ、布団にはとりあえずタオルをかけ、その部分から離れた場所に寝かせました。 翌日は、まだ、ぼくの起きている時間に 「おしっこ出ちゃった」と言われ、急いでかけつけると、まだ、パンツとパジャマズボンしか濡れておらず、布団は大丈夫でした。 その翌日は、タイミングが合わず、2回布団が濡れてしまいました。 4日目になって、初めて何も濡れない夜がやってきました。 安心したのもつかの間、その翌日には、ぼくがすっかり眠りこけている間に 「濡れて冷たい」と泣いているところを、妻に起こされました。しかも、朝、ぼくが先に起きた時、トイレに連れて行かなかったら、また、濡れてしまいました。
あれから特に本人は、パンツで寝ることを話題にしていません。布団を濡らさないようにするために、2時に目覚ましをかけています。毎晩どきどきしていますが、これもいつかは通らなければならない道です。 それに、まーちゃんも、まーちゃんなりに、しーちゃんのことを考えて、頑張っているのだと思うと、じーんとしてきます。
考えてみると、ぷーちゃんがうまれてから、この正月で6年になりますが、その間、おむつを使わなかった日はありませんでした。ぷーちゃんがおむつがとれる前にまーちゃんがうまれたのです。しーちゃんがうまれるまでのこれから3か月間が、6年ぶりにおむつのない生活です。 洗濯干しにおむつのひるがえっていない光景が、なんだか物足りないような気持ちがします。また、すぐに、そんなことを言っていられない、おむつだらけの日々がやってきます。
2005年01月03日(月) |
妊婦さんの不安と前向きな姿勢 |
家族でデパートに行った帰りに、ぷーちゃんが下りの階段で転んでしまいました。そのときは、ぼくがまーちゃんの手を引いていました。妻は、自分のことで精一杯だったので、ぷーちゃんと手をつないでいませんでした。 ぷーちゃんは階段を2、3段落ち、幸いなことにそこで止まりました。特にけがもなく、ほっとしました。 妻は、このことに大きなショックを受けました。自分は、子どもたちと一緒にでかけたときに、責任を持って気を配ってあげることができないのだと思ったのです。 現在、8か月になり、いよいよ妊娠後期になりました。おなかもぐっとせりだしてきて、自分でズボンをはいたり靴をはいたりするのにも苦労しています。
そのことがあり、妻は、予定していた一つの計画をあきらめたいと言い出しました。それは、「子どもによい映画を見せる会」主催の新春おもちつき大会のことでした。 ぼくたちは、昨年この会の会員となり、一度、映画会に子どもたちを連れて参加しました。その会からおもちつき大会のお知らせが来たので、連れて行ってあげようかということになっていたのです。しかし、1/7(金)の昼間であり、ぼくは1/6からは仕事があるので、妻が行くつもりでした。 「タクシーに乗れば、だいじょうぶ」と言っていたのですが、ぷーちゃんが階段で転んだことにより、すっかり自信をなくしてしまいました。 「タクシーに乗り降りするとき、地面が凍っていて危ない。そんなとき、自分のことでせいいっぱいだったら、子どもを連れてなんていけないよ」
子どもたちを喜ばせることの大好きな妻は、そう言いながらも、残念そうでした。
でも、前向きな報告もあります。自転車こぎ機をもくもくと続けてきた妻は、 「最近、負荷が軽くなってきたので、こぐ時間を長くしようかとも思ったんだけど、そうするとどんどん時間がかかってしまうから、負荷を重くしようかな」と言いました。 体が鍛えられているとはすごい。ぼくは 「あまり長い時間同じ姿勢をしているのもよくないんじゃないかな。負荷を重くしたほうがいいよ」と提案しました。 安産に向けたトレーニングは、外が凍りついた世界になっても、たんたんと続けられています。
2005年01月01日(土) |
ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2005 |
テレビ部屋を作ったら、そこに行ってわざわざ見るのは、映画館に行くようなものになりました。つまり、観るときは積極的に時間を作って観るようになったのです。 元日の夜、妻が「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートを観てもいい?」と言いました。そこで夕食後、家族そろってテレビ部屋に入りました。このコンサートは、お正月に毎年やっているのはなんとなく知っていましたが、観たことはありませんでした。 ウィーンのすごいホールで、オーケストラによって楽しいワルツが次々と奏でられました。子どもたちはじっとしていられなくなり、楽器を取ってきました。気分はすっかりオーケストラの一員、というよりもオーケストラ全体のようで、まーちゃんは、口にはラッパをくわえ、左手では鈴をもち、右手でばちを持ってたいこをたたき、キーボードをひいています。ぷーちゃんはバイオリニストになったようで、たいこのばちでウクレレの弦をこすっています。じつに楽しそうに演奏していました。 テレビの画面では、音楽に合わせて、バレーダンサーたちがくるくる回りはじめました。すると子どもたちは一転し、ひらひらしたスカートをはき、踊りだしました。ぼくも誘われて、一緒に飛び跳ねました。そして、曲が変わると子どもたちはオーケストラに戻ります。そんなことが2時間近く続きました。
ぼくも妻も、ウィーン・フィルの素晴らしさと子どもたちの楽しげな様子にすっかり満足しました。これは、皆が惰性ではなく、積極的にテレビを観たからこそこうなったのだと思います。 来年もみんなで観ようね。
それから妻は言いました。 「明日の朝は8:15からムツゴロウサンの番組をやるよ」 「それなら、それまでに朝ごはんを終わらせなきゃ。7:30には食べよう」 これからは、テレビを観ながらご飯を食べるということがなくなるのです。これは、とてもいいことですね。
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