そよ風


2005年07月28日(木) 明日から・・・

パートの仕事に出かけることになったので
二月から始めた配食ボランティアは、昨日が最終日となった。
このボランティアは、ちょうど今、私が直面している家庭内騒動の結果を
様々な形で垣間見ることとなった。

親元を離れて、進学や就職をする子供達、
年老いた親だけがポツンと暮らす大きな家、
独居老人のお宅もあれば、どちらかが病気で寝たきりのお宅だったり、

運転手のAさん(たぶん70代)は、その度ブツブツ文句を言われる。
「ほんとうに、どうなってるんでしょうね。働いて苦労してせっかくこんな
立派な家を建てたのに、息子は二人とも東京で働いているんだから。」

「仕方ないじゃないですか。今どき家から通勤できる所に必ず就職できる
なんて保障はないんですから。親が子供を縛るのはダメですよ。
どうしても助けが必要になった時は、家を売って自分達が子供の側に行けば
いいじゃありませんか。」と、私はそのつど冷たく反論する。
「先祖伝来の広い土地や田畑があるわけでもなし、自分達もまたかつて
親元から離れてそこに新しく家を建てたのだから」と。

私達夫婦と主人の親との間で息子(孫)の就職先をめぐって
幾度となく繰り返された同じ口論が、ここでもまた繰り返される。
長男夫婦である私達は、少なくとも自分の子供には同じ思いをさせたくない、
という気持ちばかりが先行する。

でも口論といっても、そこは他人同士の気楽さ。
ヨソ様のお舅様と、どこぞの嫁との会話だから、
ケンケンガクガクとはならないようだ。
お互いにそれぞれの主張を冷静に聞くことができる。
で、やっぱり、この年代の親達はみんなよく似た考え方なのだ、
というところでいつも私は落ち着くのだった。

気難しく思えた配食先の人とも、ちょっとはニコニコと
世間話もできるくらいに顔見知りになったところなので、
配食ボランティアを辞めるのは、少し残念な気がしないでもない。


でも、でも、明日から、私はお金儲けに頑張るのだ!!
大きなことを言って、ほんのこずかい程度ではあるが・・・
それに、どこまで続けるか(続くか)、全く未定。



2005年07月26日(火) 女が歳をごまかす時

もともと、年齢をごまかそうという気持ちなどサラサラありません。
いまさら、ごまかしようもないのが現実なのですが、何年か前に
パート募集の面接を受けるに当たって、私は年齢制限スレスレでした。

「応募者が多い時は、やっぱり年寄りからハネられるのかなー」
「私の知ってる人、七歳も歳をごまかして、そのままずっと働いてるよ。」
「パートだから、少しくらい若く言ってもええんとちがう?」

友人達のいろいろと親切で有益な(?)アドバイスに基づき
私は初めて履歴書にウソの年齢を記入しました。
といっても、ごまかしたのは、わずか二歳。
今から思えば、十代、二十代ならイザ知らず、五十代の人が二歳ごまかして
いったい、どういう意味があるのでしょう???

でも、職場で二歳若返った私は、けっこう張り切りました。
会話の中でうっかりバレないように、生年月日、干支、に至るまで
新年齢に合わせて、スラスラ言えるように訓練しました。
突然尋ねられて、一瞬でも答えに詰まったりすると怪しまれる故。
(幸か不幸か、私の歳に興味を持つ人なんて誰もいませんでしたが)

でも、わずか二歳といえども、自分を若く偽っていると思うと
ついつい無理をして、必要以上に頑張ってしまいます。
単純なところで、妙にムキになってしまう変なオバサンでした。
たとえば、高い所から無理して飛び降りたり(脚力に自信あるのよ)
重い物を平気な顔で持ったり(まだまだ腕力も負けないワ)という具合です。
その行動こそが、若くないという証拠だったのですが。
誰ひとり、私の年齢など気にする人のいない職場の中で、
ひとり「年齢詐欺をしたのだから、少しでも若く見られなければ」と、
必死に汗を流して、あがいていた私でした。

専業主婦になって約一年と八ヶ月、
先日、「またパートに出よう!」と、突然思い立ちました。
今の私には、有り余る時間は苦痛です。
新聞の求人チラシを探し、電話で面接を予約し、採用が決まりました。
パタパタとアッという間でした。

今回の履歴書、モチロン正真正銘の真実の年齢です。
歳をごまかそうなんて元気、もう何処にもありませんから。



2005年07月18日(月) 高い友情

先日、今は途絶えてしまったけれど、かつてのメールフレンドから
長い英文メールが届いた。
英語は得意ではないが、そこはそれ、いつも私のために簡単な英語で
書いてくれている。

しかし残念ながら、今の私・・・
かろうじて読むことは出来ても、書けない。
漢字の書き取りと全く同じ状況だ。

でも、文通が途絶えていた数年間、お互いにいろんな出来事があった。
彼女に孫の誕生があったように、私には娘の結婚があった。
こちらだって、報告したいことはいっぱいあるのに。

でも、悲しいかな・・いまさら英文メールを書くパワーは湧いてこない、
というか、既に源泉から枯れ果てているのが現状。
そこで登場するのが、インターネットの翻訳サービスだ。
必死なネット検索の結果、4百字で2千円チョットというサービスがあった。
できるだけ文字数を減らすには、それなりの工夫はいるが
4百字もあれば、なんとか最小限は伝えることができる。
もったいないけれど、自分で書こうなんて思っていたら
一生、そのまま書かずに終わってしまいそう。
ということで、さっそく制限文字数内の日本文を書いて送信したところ
あら、ま・・千円アップの料金請求が届いたよ。

こちらは、2千円余しだと思ったから依頼したのに・・・
どうやら、2,150円〜の(〜)を見落としていたようだ。
「どういう場合に基本料金より高くなるのですか?」という質問に
「翻訳に費やす時間と労力によって値段が変わる」との返答。

でもね、私の手紙文には、特殊な専門用語は一切登場しない。
もちろん高尚な文章とか、難しい言い回しなども一切ない。
ハッキリ言って、非常に簡単な文章の寄せ集めだと思うよ。
これが基本の文章でなくて、何が基本なのか、と言いたいくらい。

やっぱり依頼するのを中止します。自分でやります!
と言えたらいいのだけど・・・そんなパワーはありません。

で、丸一日待って、出き上がってきた英文は基礎英語のテキストのよう。
たしかに、もとの日本語の文章も中学生並みだったからな〜
これだったら、自分で書けばよかった・・・なんて、

何ごとも、読むは易し、書くは難し。 



2005年07月15日(金) 三度目の涙の理由

先日の日記の続きです。

我が子が声をあげて泣きながら家に帰ってきた時、
または帰ってきた途端、母親の前でワッと泣き出す時、
母親は子供の身の上に思いがけない出来事が
起こったことを知るのです。

一度目、二度目の時も、それは私にとってはかなり強烈な
できごとでした。
三度目は娘が志望校に合格、楽しい高校生活がスタートして
三ヶ月が過ぎようとしていた夏の日でした。
夕方、高校から帰宅した娘が、ワッと泣き出したのです。
正直、私がすぐに心配したことは

「また、クラスの誰かを負傷させたのか?」
「それとも、また学校の大事な何かを破壊してしまったのか?」

普通、年頃の娘を持つ親が心配するようなこととは、
程遠いことを真っ先に心配してしまった私です。

三度目の娘の涙の理由は・・・

高校に合格して、初めて買ったばかりのコンタクトレンズ、
それを装着したまま、プールに入ってしまったということです。
最初だからと、近所の眼科医できっちり検査を受けた上で
購入したコンタクトレンズ、ヤケに高価だったのです。
当時二枚で五万円余りもしました。わずか三ヶ月の命でした。

パッと消えた五万円は痛かったけれど、ホッとしたのも事実です。
ワザとではないにしても、他所様の大事なお子様や車に傷を
負わせるというのとは違います。
いっしょに謝罪に行く必要もないですし・・・


あの涙はけん制球のような役割を果たしたのです。
過去の事例がパッと頭に浮かび「またか・・」と思ってしまった私は
理由をきいて「なんだ・・そんなことか」とホッとしてしまいました。
今から考えると、やっぱり物凄〜い痛いですけど。

最後に娘の名誉のために追記しておきます。
お転婆なのは隠しようがありませんが、実は手芸、裁縫、料理が大好きな娘。
でも、午年(うまどし)のシシ座はピッタリ!
(いつも前向きで突進しているイメージ)



2005年07月14日(木) 安否

ロンドンでの爆破テロのニュースを見た時、
かつて、メール交換をしていたイギリス人のメールフレンドを
すぐに思い浮かべた。
彼女の二番目の息子が、ロンドンの大学に入学して学んでいたはず・・

メール交換を始めた頃、高校生だった彼女の息子が受験期になった時、
目標とする大学のことや、高校での成績のことなど
母親の彼女は、かなり熱くなっていたので
「いずこも、受験生を持つ母親はみな同じなんやー」と感じたもの。

英語には全く自信がなくても、単語の羅列と写真交換だけでも
きっと楽しいだろうと始めた文通、
たまたま、子供の年代が同じで家庭環境がよく似ていた。
息子が志望大学に合格した喜びと、親元を去ってロンドンに行ってしまった
母親としての寂しさ・・・
ちょうど我が家も同じ状況だった。

約3年間続いた文通は、
しかし、少しずつ私の返信メールが遅れるようになった。
特に、パート先を変えた頃から、グッタリと疲れるようになり、
日本語のメールさえ滞りがちになった。
とても英語のメールなどに取り組む気力は無い。
それに、ストレスも溜まり始めた。
拙い英語力では、思い通りに自分の気持ちを表現することはできない。

返事を待ちかねた彼女から「How are you ? 」というメールが届くと、
やっと重い腕を上げるという状態が続くようになった。
しかも、数行の英文しか書けない。

2002年の秋、長い間同棲生活をしていた彼女の長男が結婚、
喜びのメールと結婚式の写真が届き、私もお祝いメールを送信した。

それが、ほぼ最後だっただろうか。

今は仕事をやめ、時間もたっぷりあるのに、再び挑戦する気力はない。
歳をとったものだと思う。
でも、文通が途切れたからと言って、私は彼女を忘れたわけではない。
日本語で書けるのなら、決して終わっていなかっただろうと思う。

だから、メールを送った。
ロンドンにいる彼女の愛する息子が無事なのかどうか、
安否を尋ねる短いメール。
もう届くかどうかもわからないが・・・

長〜い英文メールがすぐに返ってきた。
とにかく彼は無事だった。たまたま無事だったそうだ。



2005年07月13日(水) トレーニング好き

「アゴが痛くて食べ物が噛めない。晩御飯はお粥にしてくれ」
と、会社にいる主人から電話があったのは月曜日のこと。

それって、ひょっとして、顎関節症とちがう??
ちーずさんのHPにある顎関節症治療日記を読んだ時は
「へぇ〜、こんな病気があるんだー」と他人事と思っていた。

翌日、紹介書を持って口腔外科に行った主人、
案の定「顎関節症」という病名をもらってきた。

とにかく不便だ。
柔らかい物しか口に入らない。
今が旬の大好物の水ナスや瓜の漬物も肉も野菜もみじん切り、
柔らか〜い煮物や魚や玉子が数日続いただけで
ガブッとかぶり付くような歯応えのある晩御飯にしたくなる。

私は顎関節症の原因は、過剰なトレーニングのせいだと睨んでいる。
あの重いダンベルを両手に持つのは、50代という年齢にチとハード過ぎる。
きっと自分では気付いてないけど、ダンベルを持ち上げた瞬間、
顎にギギギッと力が入って、奥歯をクッと噛み締めてるんよ。
だから物凄い加重が顎にかかって、結果、アゴ関節がやられたんやわ。
と、私は主張する。

とにかく主人は大のトレーニング好き。
なんだか最近、暇さえあればトレーニングに励んでいる。
「もう歳なんだから、そんな激しいトレーニングは体に毒よ!」
と言えば
「この歳になれば、鍛えなければ筋肉はどんどん衰退する」
と、親切な忠告を無視する。
早朝から夜遅くまで働きずくめの主人に、ちょっとでも休養してほしいと
心から願っているのに。

でも病院から帰ってきて、主人は勝ち誇ったように報告した。

口腔外科の医者は「もっと鍛えなさい。」と言ったそうだ。
歳をとり筋力が弱ってくるから、関節や軟骨がやられるのだと。

そうですか。ではこれからは、顎の筋肉を鍛えるべく、
顔面トレーニングにおおいに励んで下さいな。



2005年07月12日(火) 涙の牽制球

我が子が激しく泣きながら家に帰ってきた時、
「いったい、この子の身の上に何が起こったのか」と
一瞬、親は本当に驚き心配するものだ。

あれは娘が幼稚園か小学生になったばかりの頃だろうか。

その日、娘は泣きながら走って帰ってきた。

なんと、ご近所の方の車の窓ガラスを割ってしまったというのだ。
友達三人、広場で小石を上に軽く放り投げて遊んでいたらしい。
しかし手元が狂ったのだろう。広場に停めてあった車の窓に見事に命中、
無残にも車の窓ガラスは粉々に割れてしまったのだ。

もちろん当方は平謝り、そして清掃代も含め全額弁償した。
ボディーに傷がなかったのと、車の持ち主が優しいお方だったのが
せめてもの幸いだった。

泣きじゃくり帰宅の第二弾は、小学校6年生の時。
学校から帰るなり、ワッと激しく私の前で泣く娘。

何? 何? どうしたの? いろんな意味で不安になる母親に、
予想もしない答えが返ってきた。

クラスの男の子に怪我を負わせたなんて・・・そんな・・

始業ベルが鳴ったのにもかかわらず、教室内をドタバタ走り
まわっていた男子生徒の前で、娘は通せんぼうをしたらしい。

本人の弁では「ちょっと片足を上げただけ」だったが、
後日担任から聞いたところによると、生徒達の証言では
ゆうに机の高さまでピンと片足が上がっていたそうな。
さすがにバレー(踊り)の得意な娘だけのことはある。

しかし、それを果敢にも飛び越えようとしたH君は見事に失敗。
彼は激しく足と顔を床にぶつけてしまったらしい。
すぐに先生が車で外科医院に行ったが、たまたま留守だったそうだ。

その話を聞いて、娘を連れてH君の家に謝罪に行った。
が、半ズボンから出ているH君の膝小僧は、明らかに腫れ上がっていた。
しかも片足をまだ痛そうに引き摺っているではないか。

けっきょくその日、車でH君を外科と歯医者に連れて行った。
レントゲンの結果、足の骨には異常はなかったが、強い打ち身による内出血。
そして前歯にはヒビが入っていた。

二日間、H君の登下校の専属運転手をした。
小学校はかなりの高台にある故、あの足では無理だろうと。


まだある。
娘の泣きじゃくり帰宅の第三弾。
それは高校一年生の夏。

何? 何? 何をやったの?
(普通、娘の母はこういう風な心配の仕方をしないと思うが・・・)
 
それにしてもあの三度の涙、私は「涙の牽制球」と名付けている。
(わかる?)

長くなったので続きは、また後日に・・・



2005年07月11日(月) 大事なのは・・

先日、実家に帰った時、母がメモ帳を持って私に尋ねた。

「愛知万博で昼食を食べたのは何処の国だった?」
「アレは何ていう料理やった?」
「夕食を食べたレストランは何処の国?」

私の答えに、「ふんふん」と頷きながらメモる母。
入館したパビリオンのことなども、あれこれ思い出しながら
いろいろ質問しては、また書き留める。

どうやら、「愛知万博」と称して、一席ぶつつもりのようだ。
たった一度行っただけなのに。

母の年代の女性が集まる「ひまわり会」のメンバーは
私にとっては昔懐かしい名前ばかりだ。
私が子供だった頃、皆、○○チャンのお母さんと呼ばれた人達。
年寄り世帯ばかりになってしまった貧乏な町で、
昔のお母さん達が年老いて、楽しく仲良く暮らしているのは
ほんとうに心強いこと。

40代前半で未亡人になってしまった母だけど、
今、80代になって周りを見渡せば、いつの間にか皆同類になっていた。
だから、あの頃よりも、今の方が仲良しだと私は感じてしまう。

歳をとって一番大事なのは、「友達」ではないかしら。
女のお喋りは、長生きの秘訣、ボケ防止の栄養剤だと思う。
これが身内だと、甘えが出る、グチになる。

母の趣味は昔から読書だ。
プレゼントは図書券が一番嬉しいという。
ゲートボールや家庭菜園などには、全く興味を示さない。
でも足腰が達者なのは、先日の愛知万博で立証済み。
毎日の掃除、洗濯、炊事、その他諸々の用事が
ちょうど良い運動になっているのだそうだ。

母を見て、自分の老後のことをいろいろ考えてしまう。

自分のことは、可能な限り自分ですること。

そして友達、いつでも会える友達、
(歳をとっても、自分で歩いて訪問できる距離にあること)

毎日、楽しいお喋りができる近くの友達が大事。


あら、主人は?・・・・・・・・・・・モチロンです。



2005年07月07日(木) 失言

最近は反っ歯の人をあまり見かけなくなった。
今でも母と親しいKさん、昔はかなりの反っ歯だったらしい。
そのKさんに向かって、幼い私は言ったそうだ。
「オバチャンの歯、なんでそんなに飛び出してんの?」

私はいっこうに記憶は無いが、その時のことを母は
今でも忘れられないそうだ。
昨日、所用で実家に帰った時の母との会話だ。

幼稚園時代の記憶は割りとシッカリしている方なのに、
それに関しては全く覚えていないところをみると、
ほんとうに悪気もなく、見たままを口にしてしまったのだろう。
(しかし幼いとはいえ、なんと思慮深くない子供だったのか)

成長してから母に何度か聞かされたが、我が家の玄関先で立ち話中だった
二人は、突然の私の言葉に、まさにどちらも固まってしまったそうだ。
「ほんとうに顔が青くなった」と母は言う。

今では92歳になったKさんと80歳の我が母、
どちらも一人暮らしの元気なおばあちゃん、近所づきあいも昔のまま。
相変わらず、あの時のようにお互いの家に行っては、
タイガースの話や孫達の話で盛り上がっているらしい。

Kさんは、もうとっくの昔に総入れ歯になっているが
先日、話の中で「昔、私は反っ歯だった」とのKさんの言葉に、
母の心臓はドッキ〜ン! 飛び上がるほどビックリしたそうだ。
(両手で胸を抑えて、飛び上がる仕草をする母)

あの時のことを思い出してしまったから・・・

・・・って、もう50年前のことやん。半世紀も昔やのに・・・

今でも母をドキッとさせるなんて、そんなに重大な過失だったのかなあ。

たしかに、親しいとは言っても12歳という年齢差、
当時三十代になったばかりの母は、とても気を使ったのだろう。

ご当人のKさんは、覚えておられるだろうか(きっと、覚えているよね)



2005年07月06日(水) お守りの効用

最近の私の心模様、今日の灰色の梅雨空と同じだ。

誰でも、どんな場所にいても、暗い時もあれば、明るい時もある。

最近、家に居る時、ポケットの中にある物を携帯するようになった。
それは小さなハンカチのような布だ。
濃い藍色の生地に、人生教訓のような言葉が白い文字で染め抜かれている。
あまりに落ち込みそうになった時、そっとポケットを押さえて
その言葉を意識する。
まるで心の平安を保つためのお守りのような存在だ。

人生五十○年、あまりそういうことをする方ではなかった。
よほど精神的に追い込まれているのだろうか。
いいえ、たぶん、単に歳をとった証拠なのだと思う。
若い頃から、諺、格言などは好きだったが、
実際に言葉を携帯しようとは思わなかった。
記憶力低下の影響もあるが、何かに縋り付こうとする気持ちの
表れなのだろうか。

ただ、この新しい習慣は、ちょっと困った事態を招いてしまった。
洗濯の時に、うっかりポケットにそれを入れたまま、
いっしょに洗濯してしまうことだ。
もともとハンカチではないので、藍色の染料の威力は強烈なようだ。
洗濯機の中でその威力は遺憾なく発揮される。
室内着はモチロン、バスタオル、Tシャツ、ブラジャーなどまで、
不規則な青い地図模様がしっかり染め上がってしまった。

室内着は毎日洗濯する。
その布を携帯するようになったのは、一ヶ月前くらいから。
約三十日間で、お守りごと洗濯してしまったのは今日で三回目。
確率としては、九割はちゃんと洗濯時にポケットから出しているのだ。
(全然、自慢にならない。)
でもその一割の物忘れのせいで、我が家の箪笥の中身は、
青い不規則模様に侵された衣類が、笑えないくらい増えた。

洗濯物を干す時、「ああーっ! またやってしまったー」と気付く。
ハンカチに書かれた大事な白い文字も、すっかり青く染まり、
今では何が書かれているのか不鮮明だ。

ということで、今日かぎり、お守りをポケットに入れるのは中止です。



2005年07月01日(金) 辞書の秘密

ついさっき、思わぬミスをしてしまいました。
絵日記がすべて消えてしまいました。。
一日分の絵日記だけを一旦削除するつもりだったのに・・・
どうりで、何度も「削除しますか?」「ほんとうに削除しますか?」と
しつこく尋ねてきたのね。
ああぁ・・・今頃わかっても後のまつりです。
気を取り直して、今日の絵日記をこちらに書くことにしました。



ボロボロの私の辞書です。四十年以上、今でもずっと使っています。
最初のページに、昭和三十六年三月と記されているのですが、
この国語辞典を父が買ってきた日のことを覚えています。小学生の時でした。
同時に買ってきた漢和辞典と二冊、我が家で初めての辞書だったので、
嬉しかったのです。そんな時代でした。

大きさは文庫本くらいのサイズ、1100ページの薄い柔らかい紙に
細かい文字がギッシリ詰まっています。
手紙や日記を書くのが好きだった私は、この辞書には長い間大変お世話になりました。
小学校高学年の頃には、ランドセルに入れて通学しました。
いつの間にか私の机の本箱が定位置になり、それからは結婚後もずっと私の物。

さて、この辞書にはある秘密が隠されていました。
数年前に発見したのですが、ある言葉が鉛筆で囲まれていたのです。
鉛筆の色が薄く、あまり目立たなかったせいか、
何十年もの間、私は気付かなかったようです。
何だと思います??

「ストリッパー」です。
意味は「ストリップショーに出演する踊り子」だそうですが、

誰?? こんな言葉を調べて鉛筆で囲ったのは?

昔は家族全員で使っていたけれど、まさか両親だとは思えません。
犯人は子供の時の私か兄か・・・(兄が絶対あやしい)

四十年以上前に編集された辞書は、今でもじゅうぶん役に立ちます。 
今まで、私が調べたいと思った言葉や文字が、この辞書に載ってなかったことって・・・
なかったように思います。
言葉の意味の説明や例文なども、私にはピッタリくるのです。
きっと、私とこの辞書は同年代だからなのでしょうね。
実際は、私はもっと古いのですが・・・


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