そよ風


2005年06月30日(木) 靴まちがい

昨夜寝る前、昼に書いた自分の日記を読み返してみれば、
ずいぶんと要らぬことを書いているのにショックを受けてしまった。
よほど、気持ちがカリカリしていたのだろう。

それから、あわてて不要な部分を削除したり、書き直したりしたが、
何かイヤな事があった時には、すぐに日記など書かない方がいい、
少し時間がたって落ち着いてみれば、別にどうってことないのに、
なぜあんなに気持ちがイライラとすさんでいたのだろう、
などと、自己嫌悪に陥りながらも、いろいろ反省してしまった。 

が、後のまつり・・・(いまさら、というような気もするが・・)

ところで消えたお弁当はちゃんと発見できたものの、
私の靴の方は依然として行方不明。
念のために、こちらからお店に電話をしてみたが、
やはり、私のエコーシューズは戻っていないそうだ。

とういうことで、何処の何方かは知らないけれど
ポイと捨てずに、余命幾ばくもないマイシューズを、
少しは大事に履いて下さっていると信じることにした。


そうそう、靴の履き間違いで、ひとつ傑作な思い出があります。
もう十年くらい前のこと。

仕事帰り、電車を待っていた東岸和田駅のホームで、
隣の友人が小声でそっと打ち明けたのです。

「私、今日、右と左、別々の靴を履いてきた」

思わず友人の足元を見ると、たしかに左右で靴が違います。
色は同じ黒だけど・・・
しかも、それに気付いたのは、仕事が終わってからということ。
朝、職場で通勤靴を脱いだ時は全く気が付かず、
夕方、再び通勤靴に履き替えようとして、初めてわかったそうです。

それが、その友人、私のようにボーっとした性格ではありません。
俗に言う「シッカリした人」に分類されるべきタイプだと思います。
決して、そそっかしい、とか、抜けてる、とかいう表現は
微塵も当てはまらない人でした。(少なくとも、その時までは・・・)
その日を境にして・・・なんてことはありませんが、
「人は見かけによらぬもの」と、チラリとは思ったかも・・・

きっと、家のシューズボックスに収める段階で、
組み合わせを間違えて揃えてあったのではないでしょうか。

たしかに、私の足も左右で大きさが少し違うらしく
いつも右足よりも左足の方が、靴はキツク感じます。
だから、左右で履き心地が違っていても、全く不思議ではないのですが・・

でも、左右別々の靴を履いて外出した人の話というのは
私は、他には聞いたことがありません。今のところ・・・



2005年06月29日(水) 消えたお弁当

このところ、小さなゴタゴタが続く。
先日、行方不明になった私の靴はいまだに戻ってこない。

今日はお弁当が行方不明になった。
配食ボランティアでのできごとだ。
配達すべきお弁当が、最後に足りなくなってしまったのだ。

私の仕事はお弁当を各家庭に配達し、代金を受け取り
前回のお弁当箱を回収してくること。
各家庭から持ち帰ったお弁当箱を、きちんと洗浄されているか、
食器の数が揃っているかを中を開けてチエックすること。
そして、チエック後のお弁当箱をケースに入れて整理するのは
運転手のAさんの役目だ。

どう考えても、私が配達する数を間違えたとは考えられない。
二個配達するお宅もあるが、代金と引き換えるのだから、
余分に手渡すなんてことはあり得ない。

Aさんは、最初からお弁当の数が足りなかったのだと主張する。
お弁当の数はケース数で確認するが、たまにケースの中身が
満杯でないことが今までにもあったそうだ。

とりあえずAさんは、役場に連絡してお弁当の追加注文をしてもらった。
原因を考えるよりも、お弁当を昼食に間に合わすことの方が大事だと言う。
スムーズに配達しても時間はギリギリになる。

でも、その後、回収された前回のお弁当箱を全部調べたところ、
配達すべくお弁当が一つ混ざっていたことが判明した。
数を数えるとすぐにわかったことだと思うが・・・

ハッキリ言って、気が滅入った。

私は思う。お弁当箱の色をなぜ曜日で統一しないのかと。
ピンク、グリーン、ブラウン、三種類のお弁当箱がいつも無造作に混ざっている。
きちんと、その日のお弁当の色が決まっていたら、回収したお弁当箱と
配達するお弁当箱は間違うことは無いのに。

ちなみにお弁当箱は、頑丈な保温構造になっているせいか、
中の食器も含めて、それ自体が必要以上に重くて大きい。
手にした感触だけでは、中身が空なのかどうか判別が難しい。



2005年06月28日(火) 久々の母

母と三人で愛知万博に行ってから、もう十日以上たつのか・・・
あの時、早く決心して早々に出かけてよかったと、今つくづく思う。
最近のこの猛暑の炎天下では、八十歳の母はもちろん、私達だって
おそらくあの日の半分も動きまわることができなかっただろう。

一昨日の日曜日、母の所に写真を届けに行った。
写真を見ながら万博見物の思い出話に花が咲く。

これは何処のパビリオンだった? あれは何処の国だった?

母はすこぶる機嫌が良い。
嬉しかった、嬉しかった、と何度も繰り返す。

お礼にと、主人には好物の麦焼酎を差し出し、
私には「アンタのとても好きな物を今、生協で注文してるんよ。
届いたら取りに来て!」と言う。
ニコニコとそれは嬉しそうに「アンタの大好きな物♪」と繰り返す。

私はできないけど、あんたは好きだから・・・

ということは、おそらくちょっと高級な花の苗かな? 

それにしても、そんな母はずいぶん久しぶりだ。
娘に向かって「あんたの大好きな物を買った」なんて、嬉しそうに・・・
はるか昔、まだ私がこの家の子供だった頃を思い出してしまった。

四十三歳で未亡人になった母は、それ以後、娘にとっては
あまり、そういう面を見せなかったというか・・・
そういう精神的な余裕が無かったということだろう。

私達と愛知万博に行ったことが、よっぽど嬉しかったんだなあ
と、こちらも素直に感動してしまう。
そういえば、主人の両親もとても喜んでいた。
八十歳を越えた年寄りだからといって、全員が「あの混雑がイヤだから
絶対に行きたくない」と思っているとは限らないのね。
昔と全く変わり映えしない田舎の家で暮らしている親達には
良い刺激となったのだろうか。

あまり喜ぶので、秋には「USJにいっしょに行く?」と
声をかけてみようかな。



2005年06月24日(金) 迷惑患者

今日の私は久々の病院デーでした。
九時の予約なのに、実際に診察室に入ったのは11時過ぎ、
相変わらず市民病院は、診察待ちの人達で溢れかえっていました。

二時間以上も待たされて、診察時間はわずか5分くらい、
しかも、担当の医師からは、かなり冷たくされました。

でも、それは当然です。
今年に入ってから、エコーと血液検査と診察を二度もキャンセル、
決して、すっぽかしたのではありませんが
けっきょく、三度目もキャンセルしてしまいました。
「ほんまに、患者としてヤル気はあるの?」なんて自問したいくらいです。
必ず一週間前には電話でキャンセルしていたのですが、
こうキャンセル続きだと、かなり迷惑な患者なのでしょう。

娘の結婚式を終えてから始めることになっていた治療も
今度は息子の就職がきまってからにします、なんて
ずるずると延期ばかりしているし・・・

ほんとうに、すこぶる元気な毎日を過ごしているのに
わざわざ、その日々の生活を中断する必要はあるのか?
と、インターフェロン治療に対して、最近はかなり消極的。

C型肝炎の患者が将来肝臓癌になる確率と
煙草を吸う人が将来肺癌になる確率と、
いったいどちらが高いのだろう、なんて考えるようになりました。

「では、治療を始める決心がついたら、来てください」

「定期的な検査は、どうすればいいのですか?」

「近くの医者でやってください、こちらではフォローできません」

いつもは優しいのに、とっても冷たくて素っ気ないような・・・
無理もありません。反省してます。
不良患者が市民病院を追い出された気分。ショボン・・・

診察待ちの間に、新津きよみ著「生死不明」を読み終えました。
面白かった! 
他人の過去や秘密を暴くのって、なぜこんなに面白いのだろう。
現実には起こりえない偶然が重なるのは、やっぱり小説だから。



2005年06月23日(木) 小さな災難

こんな出来事が「災難」と呼べるかどうかは、わかりませんが、
今日、ちょっとした災難に出会ってしまいました。

近所の友人と三人で、久々にランチを共にしました。
小さな畳の間で寛ぎながら、千円の和風定食をいただき、
さて帰ろうとしたところ、私の靴が見当たらないのです。
私達が最後の客でした。
一足だけ残っている黒い靴は、少し似ているけれど
明らかに私の靴とは違います。
私のはエコーの黒革のウオーキングシューズ、
残っている一足は、色もサイズも同じとはいえ
スェード調でデザインも違ってます。

普通、女性が靴を間違うなんてこと、あるでしょうか。
百歩譲って、もし間違えて他人の靴を履いたとしても、
すぐに気が付くはず・・・
そして、間違えた靴と自分のを交換するために
あわてて、お店に引き返してくるものでしょう。
でも、しばらく待っても誰も戻って来ません。

ちなみに、私の行方不明のエコーのシューズは
長い間履き込んでいて、底が磨り減り、かなりのオンボロ。
間違っても、誰も欲しいとは思わないでしょう。
新しい次の靴も、もう既に家の靴箱の中で出番を待っている状態なので、
実際には、戻って来なくても大した支障はありません。

でも、だからといって、今、裸足で帰るわけにも行きません。
けっきょく、徒歩三分ほどの駐車場までは、店のツッカケを拝借。
車の中にエアロビクス用の運動靴があるのを思い出したのです。

お店の人に私の電話番号を書いて渡してきました。
もし、私のオンボロシューズが戻ってきたら知らせてくださいと。
あれから、もう四時間以上たつのに、電話はありません。
留守中に電話のかかった形跡もなし。

不思議です・・・


ところで、先ほど、普通の女性は靴を間違えないと書きましたが
男性は・・・

息子が中学生時代の思い出です。
帰宅時間があまりに遅いので心配しているところに
電話がかかってきました。
クラブの後輩が息子の靴を間違えて履いて帰ってしまったとのこと。
「今日はもう遅いから、明日交換すれば?」と私。

でも、たった一足残っていた後輩の靴のサイズは25センチだったのです。
27センチのデカ足息子は、どう頑張っても後輩の靴は無理。
その後輩、2センチもデカイ靴を履いて、よく家まで帰り着きましたね。
しかも、クラブの顧問が家に電話をして下さるまで、
全く気付かなかったそうです。



2005年06月22日(水) 上海の友人

先日、珍しい人から主人に電話があった。
中国は上海の人、懐かしいT君からだった。

T君は上海の高校を卒業後、日本に留学生としてやって来た。
神戸大に入学するまでには、いろいろな苦労もあったようだが、
四回生の時、主人の会社で中国語を教えるアルバイトをしていた。
主人も生徒のひとりだった。
そんなT君が我が家に遊びに来たのは、もう六年くらい前のこと。
何が一番ショックだったかというと、中国人の彼の方が、言葉足らずな
家の息子よりも、はるかに気のきいた流暢な日本語を話すことだった。
話題も豊富で私達との会話に全く不自由しなかった。
そして、とても礼儀正しい青年だった。

東京の企業に就職が決まった時、主人はT君の身元保証人になった。
東京でのアパート探しは、中国人という理由で、すんなりと進まなかったようだ。
既に契約済みのアパートから、後日断られてしまったのだ。
再び上京する羽目になったT君は、そのために交通費や滞在費などが、
予算をかなりオーバーしてしまった。

「出世払いで」と言ったのにもかかわらず、T君は初めてのお給料で、
すぐに手紙とともにその全額を主人に返済してきた。
そして退職するまでの三年間、我が家へのお中元とお歳暮を欠かさなかった。

T君は退職して上海に帰って行った。
やはり、人間関係や仕事の面でいろいろな苦労があったようだ。
東京にいる間には電話もよくかかってきた。
ほとんどが職場での悩みのようだった。
T君からの主人へのメールをこっそり盗み見て(ごめんなさい)、
私までもが心を痛めたこともあった。

ある時、T君の電話の声があまりに深刻そうなので、東京出張の折に、
わざわざ一泊して、彼の悩みを聞いて帰ってきた主人、
「初恋の人が忘れられないそうだ」
「はぁ・・・それだけ・・・」 そんなこともあったのが懐かしい。


さて、久々のT君からの電話は明るいニュースだった。
上海で大手日本企業に就職したこと、
今、出張で東京に来ていることなどの報告だった。
主人はとても喜んでいた。

実は上海に帰ってからのT君、資格を取るために勉強中だったが
結婚、離婚、を経験し、以前に電話で声を聞いた時には、
全く元気がなかったそうだ。
でも、先日の電話のT君、とても元気で明るかったとのこと。

それにしても、我が家のほんとうの息子に言いたい。
T君の半分でもいいから、もう少し可愛い気のある息子らしく
振舞ってくれたら・・・
ほんとうの父と息子は、はるかによそよそしい。



2005年06月20日(月) 二度目の愛知万博は・・・

二度目の愛知万博に行って来た。
今回は八十歳の我が母が同伴、前回の主人の両親同伴の万博よりも
なぜか、はるかにハードだった。
気温も人出の多さも、前回とは比較にならないほど
ヒートアップしていたからだと思うが・・・

今回は障害者専用駐車場をネット予約できなかったため、
朝五時キッカリに我が家を出発、八時過ぎに西ゲートに到着。
この時間帯だと、西ゲートだとかなり前列部分になる。
九時開門まで、シートを広げて座って待った。
意外と涼しかったので、この待ち時間は苦にならなかった。

九時過ぎに西ゲートから入場、主人は当日予約をするために
すぐに企業パビリオン地区に走った。
私は母を連れて自転車タクシーで向かうことにする。
自転車タクシーは、「私が運転を交代しましょうか」と
思わず声をかけたくなる程、のんびり運転。
イライラ・・・イライラ・・・

停車駅で飛び降りて、大急ぎで母と二人で日立館を目指すも
なにしろ八十歳の我が母が、私のTシャツの後を必死に握り締めて、
「ぶらさがっているのでは?」と疑いたくなるほど重い。
半ば母を引き摺るようにして「速く、速く!」と鬼のように急き立てる私、
しかし重い荷物を背中に背負った荷馬車状態なので、
前進するのは必死な気持ちばかりなり、体はちっとも進まない。

やっと日立館が見えてきたと思ったら、このうえなく残酷な放送。
「日立館、ただいま待ち時間4時間です」

ええっ!!! どういうこと??
今、入場したばかりなのにー
「私だけだったら、速く走れたのに〜」と背中にくっついている母を
ちょっとだけ恨めしく思ってしまう。

母は母で口を尖がらして「前回の時も、こんなんだったの?」
と、それは不服そうに尋ねる。

いえいえ、前回は主人の両親です。
お互い、そんな手荒い真似などできる筈もありません。
ゆっくり、ゆっくり、気遣いながら、ペースを合わせて歩きましたよ。
実の母娘になると、どうして、こんなに、遠慮がなくて
ワガママ(?)になってしまうのかな。

ということで、この日はけっきょく、待ち時間なしで入ったガスパビリオン、
当日予約した三井東芝館、グローバルハウスのマンモスラボ、
終了間際のワンダーサーカス館、
夜九時キッカリまで会場にいたので、外国館もたくさん訪れた。

我が母、何処でも、私のカバンかTシャツの裾にシガミついて離れない。
たしかに、携帯電話の持たない母、あの人込みの中で迷子になると大変だ。
しかし、両者の歩くペースには歴然とした差がありすぎた。
気が焦る私に常に引っ張りまわされて歩いた母。
ずっと母を後ろに引き摺って歩いた疲労困憊の私。

でも、二人とも朝から晩までよく歩き回ったと感心する。
母は「ちょっと自信ができた」なんて言っているが・・・

ランチはメキシコ館で、ディナーはチェコ館で頂いた。
どちらも少し割高感はあったが、私は満足。
冷たいビールが最高に美味しかった。



2005年06月16日(木) 二十年後には?

人生には山あり谷あり、決して平坦な道ばかりではない、
そんなこと、誰でも知っていること。
だから、ちょっと躓いたからといって、今までの歩んできた道を
すべて否定しないで頂きたい。

「やっぱり、○○にしておけばよかったのに」

いいえ、○○ではなく、それを選んだのは本人の強い意思。
無理やり、行きたくない道を強制したところで
彼の人生が今より良くなったとは思えない。

彼がどんな道を選んでいたとしても、途中で何かに突き当たり、
悩み苦しむ時は多々あっただろう。
また、これから先の人生の歩みの中でも、いろいろな出来事に
遭遇することだと思う。
不器用で決して要領の良いタイプではないので
きっと、悩まなければならない機会も人より多いかも知れない。

その度に、その子の親を叱責したり愚痴るのはどうかと思う。
親がいっしょに悩んだり、グっと堪えて見守っている時に。
「親がシッカリしていないから」
「やっぱり他の道を選ばせておけばよかったのに」と。

今までの彼の頑張りも喜びも、すべて否定するのですか?

なんだかんだ言っても年寄りのグチ、
上手に聞き流せる人間に成長したいと願うけれど・・・

でも、やっぱりちょっと頻繁でシツコイかと・・・
グチというよりは説教かな。
いつまでも元気でカクシャクとしているのは良いことだけれどね。
二人というのは、良くも悪くも、とにかく強い。

ただし、孫を心から心配してくれる気持ちには、素直に感謝です。

私達は、二十年後には、好好爺、好好婆になろう。

とか何とか言って、その時になれば、昔そんな決心をしたことも
すっかり忘れて、同じことを繰り返すのかしら。

さて、今日かぎりで、私のこの種のグチ日記は、お終いにしようと思う。
次からは、そよ風のようなムードで頑張ろう。(大丈夫かな?)



2005年06月15日(水) いよいよ二度目の・・・

二度目の愛知万博旅行が近付いてきた。
今度は、私の八十歳の母がいっしょだ。

五月に主人の両親と四人で万博に行ってきたのだが、
それを知った我が母、「私も行きたい」と強く主張。
「どうして、私だけ仲間はずれにしたの?」
「私、怒ってるのよ!」という雰囲気で、かなりスネスネモードだった。

それを聞いた主人、すぐにシニアのチケットを買ってきてくれた。
遅くなればなるほど暑さも厳しくなり、入場者数も増え続けるだろう、
ということで、バタバタと今週行くことになった。
ほんとうに行けると知った時、我が母の喜びようは想像以上のものだった。

感激した母の言葉。

前にね、「私、万博に行ってみたい」と言って、
○○さん(我が亭主のこと)の顔を見たらね、ちょうど目が合ってね、
その時、○○さんはウンウンと頷いてくれたんよ。ああ〜やっぱり〜
きっと、連れて行ってくれると思ってたわ〜♪♪
アレ! 嬉しいよ〜〜♪♪ (「アレ」は強調ナリ)

「・・・・・・・・」

へーーー、そんな場面、あったの〜???
いったい、二人はどういう関係なのだ?
(小学生の女の子と父親みたいな・・・)

さて、昨日の電話では、打って変わってシオらしいことを言った。

「あの時は、娘のアンタには、ついつい気を許して
エライ強い口調でワガママを言ってしまったんやけど・・・
今になって、○○さんにも会社を休んでもらって、
いろいろ迷惑かけるし、ほんまに悪かったなーと、反省してるねん。」

(そう言うわりには、やっぱり嬉しそう・・・)

なんだかんだ言っても、明日から我が家で一泊、
翌朝、前回よりも早く5時出発の予定だ。
一泊旅行というよりは、小学生の遠足のような・・・



2005年06月14日(火) 親子関係の裏と表

親と子の不毛な戦いが続きそうだ。
今、息子は就職活動に苦労している。
数学という科目、あまり社交的でない性格、
いろいろな理由があると思うが、予想はしていたことである。

そして、そのことに関して、親の私達に対する主人の両親からの叱責や
グチを予想はしていた。
今までの人生の中で、常に繰り返されてきた我が家の歴史だ。
親と子の戦いは、私達と子供との間で起こるものではなく、
常に、私達と主人の両親との間で繰り広げられる。

「親がちゃんとレールを敷いてあげるべきだ!」と、義父は事あるごとに言う。
私が大嫌いな言葉だ。それは、たいてい親の身勝手なレールであり、
子供はロボットではない。
息子二人が大手メーカーで働いていることが主人の両親の自慢だ。
そして孫である我が息子の就職が決まらないのは、私達のせいだと非難する。

休日ごとに、雨が降ろうと槍が降ろうと、朝から我が家に来る両親。
いかに自分達が立派な親だったか、という自慢話。
そして私達の子供が躓くたびに私達への非難とグチ。
それは、何の力にもなり得ない。

先日は温厚な主人までもが「うるさい!!」と怒鳴った。
私も「もう、来ないで!!」と発した。

それも、また何度か繰り返されてきたことだ。

でも、次の土曜日には何事もなかったように、また二人はやって来る。

どちらの近隣からも、私達親子はとても仲が良いと思われているらしい。
毎週毎週、息子夫婦のところへ出かける両親、
毎週毎週、ニコニコと両親をむかえる息子夫婦、

しかし、その実態は・・・・

私は、今、テレビで話題を独占している相撲界の家族を思う。
物事には美しくカバーされた表面があり、
その下には、それを支える様々なドロドロとした精神や人間関係が
ゴチャゴチャの状態で鬱積している。
表の部分だけ誇張して宣伝されていたら、
押さえ付けられて隠れていた裏側部分が突然、我慢できなくなって飛び出してくる。

こんなことを書いている今日の私は、裏側の私である。

しかし、ほんとうに仲の良い時もある。
両親の孫達への愛情の深さに、心から感謝する時だってある。
それも、また偽りのない事実。
裏も表も、お互いにどちらもほんとうなのだ。

考え方のちがいで、双方とも熱くなってケンカ別れする時もあるが、
「ありがとう」と言い合い、お互いの存在に感謝し、
その親心に感動する瞬間も確かにある。

裏も表も、どちらもあって、当然だと最近は思う。
表が出たり裏が出たり、結婚三十年間はそれの繰り返しだった。
それでも切断されることのない絆だった。

しかし、お互いのエネルギーの消耗は、けっこう大きかった。
これも、ひとえに元気な証拠と感謝に思うことにする。



2005年06月13日(月) 義理堅い人

和歌山県は岩出町の山の中に、そのお店「桜の里」はある。
採れたばかりの新鮮野菜やお花が売られている小さな店だ。
日曜日にたまたま車で通りかかって立ち寄った。

60代と思しきリュックを背負った女性が、
野菜で満杯になった手提げ袋を持って、バスを待っておられた。
駐車場の警備員さんとの会話の内容が耳に入ってしまった。
JRの駅までバスに乗り、そこからまた電車に乗られるそうだ。

ついつい親切心満載の主人が声をかけた。
「もし良ければ車に乗って下さい。ちょうどJRの駅を通りますよ」
「ほんとですか! ありがとうございます。」
大喜びのその人と車内での会話も弾む。
はるばる大阪は堺市から野菜の買出しに来られたそうだ。

我が家はJRの駅のすぐ近くにある。
その人を駅までお送りするのに、何の苦労もない。

駅に着いた。
しかし、その人は車から降りようとされない。

「住所と名前を書いて下さい。」
「えっ? そんな大げさな・・・こちらは、ただのついでだったんです」
「いいえ、このままでは、私は絶対に下りることができません。」

なんとしても私達の住所と名前を教えてほしいと粘られる。
書いてくれるまで、私は絶対に車を降りない、
こんなにお世話になって、そのままで引き下がる訳にはいかない、
そう言って、デンと後ろに座ったまま、断じて動く気配なし。

「いいですよ。ほんとうについでだったんですから」
「いいえ、教えてくれるまで私は下りません」

何度、同じ会話が狭い車内で繰り返されたことか。

こんなことで、すったもんだするとは予想外のこと。
ほんとうに15分間以上、意地の張り合いが続いた。
こんなことなら、乗って頂かないほうがよかったのかな?

さて、どっちが勝ったでしょう?
私達です。
やっと諦めて下さって、車を降りて下さいました。
どっちみち、筆記用具を所持されてなかったのですから、
結果はこうなるのはわかっていましたが・・・

おかげで、太極剣の練習に遅刻してしまいました。



2005年06月10日(金) あなたなら、どうする?

野良猫達の求愛の季節がやってきたようです。
家の周辺が、ずいぶんと賑やかです。
そのうち、可愛い子猫が姿を現すようになるのでしょうね。

そんな子猫を子供達が拾ってきたのは、ここに引っ越してきて
まだ間もない頃、ざっと20年ほど前です。
可愛いトラ猫でした。が、新築の家の中で飼うのには抵抗がありました。
そこで濡れ縁の上の小さなダンボール箱が、子猫の家になりました。
昼間はそのダンボール箱の中で眠ったり、子ども達と庭で遊んだり。
しかし、猫は本来夜行性の動物だったのですね。
ミーチャンと名付けられたその猫は、どうやら人間達が深い眠りにつく
真夜中、こっそり活動を開始していたらしいのです。
毎朝、庭の芝生の上に、小さなネズミや虫の死骸が転がるようになりました。
箱の中に、大きな牛蛙の死体を発見したこともありました。
「ぎゃぁ〜〜!!!」

可愛くて獰猛なミーチャンとの楽しい生活は、そういう状態でいつまでも
ずっと続くかのようにみえたのですが・・・

ある朝、いつも戻っている筈のミーチャンの姿がありません。
子供達は心配しながらも、小学校に行きました。
近所の人の知らせで、ミーチャンが交通事故に遭って死んでいるのを
見たのは、そのすぐ後でした。
活発で行動範囲の広いミーチャンの最後でした。
ダンボール箱に入れて、すぐに役場に持って行きました。
子供達にその姿を見せるわけにはいきません。

そこからが問題でした。
義母は、絶対に子供達に真実を喋らないようにと言います。

「きっと、どこかでお友達と幸せに暮らしているよ」と言ってあげなさい。

私は迷いました。子供達はその言葉にほんとうに納得するだろうか。
小学校低学年の子供には、ペットの事故死はあまりにも衝撃的で
受け止められないものだろうか。

学校から帰宅した子供達には、ひとまず、義母の
「きっと、お友達を見つけたので、何処かに」説を採用することにしました。
しかし、二人とも何度も縁側の戸を開けては「ミーチャン! ミーチャン!」
と呼びます。でも夜になっても、当然ミーチャンは帰って来ません。
娘が突然、我慢ができなくなったのか、泣き出しました。

その時、私は娘には事実を伝える決心をしました。

ミーチャンが死んでしまったことを知るのは悲しい。
でも、いつまでも行方知れずという状態もやっぱり悲しい。
そして、たとえ、今、どこか別な場所で幸せに暮らしていると仮定しても
あんなに可愛がっていた仲良しのミーチャンが、自分のもとから黙って去って
帰って来ないということも、ある意味、許しがたく悲しいのだから・・・

後で「可愛そうに・・・言わなくてもいいのに」と義母は言いました。

でも、下の息子には、皆で黙っていることにしました。
だから、その後もしばらくの間、息子はフと思い出したように、縁側を開けて
「ミーチャン! ミーチャン!」と呼んだり、
「今日ね、僕ね、原っぱでミーチャンを見かけたよ!」などと
報告してくれたものです。
たしかに、ミーチャンはありふれたトラ猫でした。

彼の中ではミーチャンは、義母の思惑通り、何処かでずっと
元気に生きていたのでしょうね。
義母説を素直に受け入れたのは、彼がまだ幼かったからでしょうか。
それとも男の子だったからでしょうか。



2005年06月09日(木) オシャレな人

昨日はヤンママ時代の仲間三人が友人宅に集合しました。
複雑なお年頃の私達です。
子供の幼稚園時代の思い出話に、ゲラゲラ笑いこけたかと思うと、
突然、みんな額のシワを深くして、深刻な顔つきで介護や老後の
話題に飛び移ったりと、ほんとうに有意義(?)で楽しい時間を
過ごしました。

オシャレな友人宅は、家具や小さな調度品に至るまで
すべて、こだわりのある一品というのでしょうか、
実用性と値段に重点を置く我が家とは、全く異なった
優雅でハイセンスな空間という感じです。
その友人が、最近、新しいパジャマを用意しておきたいと思い立ち
デパートとかいろいろ捜しまわっているのだと言います。

なんで、わざわざ今頃パジャマなのでしょう。

友人いわく、
私達は、事故や病気で、いつなんどき、突然倒れて病院に
運ばれるかも知れない。
そんな時、自分でパジャマを買いに行くことはできない。
病院のベッドに居ながら、主人にパジャマを買ってきてくれるように
頼んでも、どんなパジャマを買ってくるかわかったものではない。
息子達は言うに及ばず、お嫁さんだって年齢が離れ過ぎているので
私の欲しい好みのデザインの物を買ってきてくれそうもない。

「たとえ、突然の病気や事故で病院に運ばれたのだとしても、
私は自分の選んだパジャマを着ていないとイヤなの」

身に着けるすべての物に、こだわりを持っているオシャレな友人、
病気や事故で痛々しい姿になっても、せめて身に付ける物くらいは
自分の気に入った美しいものを着ていたいのだ、
病気の顔でも、できるだけ肌を美しく見せる色というのもあるのだ、
などと言います。

だから、自分の選んだこだわりのパジャマと下着の新品セットを
常に箪笥の中に用意しておき、イザという時、その場所を言って、
誰かに持ってきてもらうのだと。

そういう彼女は昔からほんとうにいつ見てもオシャレな人です。
ウエーブのかかったセミロングの髪の毛も乱れていたことがありません。
スラリとした体型も二十代後半の頃と全然変わっていなくて、
羨ましいな・・・と思っていましたが、きっと努力しているのでしょうね。

ちなみに、もし私が突然入院したら、
主人に千円札数枚を手渡して頼むと思います。
「ジャス○か、しま○らでテキトーなパジャマ買ってきて」



2005年06月07日(火) 優しい人とは?

優しい人とは、どういう人を指すのか、
それは、なかなか難しい問題だ。

しかし、私の主人は優しい人だと思う。
いつ、私がそれを一番感じるかといえば、
年寄りや親に対して、いつもとても親切だから。

私の(ヒガミがいっぱい混ざった)独断と偏見によれば、
若くて美しい女性に親切なのは男性の本能であって、
必ずしも、それは優しい人とは言えないのだ。

また、我が子に対する愛情に満ち溢れた行動も
親としての本能であり、それは普通の人なのだと思う。

主人は昔から敬老精神が発達している。
学生時代、アルバイトで貯めたお金で、やっと買った中古の
軽自動車に、当時80歳近い祖母を隣に乗せて二人で
大阪から日光、鬼怒川方面へ旅行に行ったという。
私と結婚した後も、祖母と息子の関係は非常に愛情深いものだったが
幸か不幸かヤキモチ戦争が勃発するのには、ちょっと歳が離れすぎていた。
そしてグランドマザコンだと主人をなじる間もなく祖母は亡くなった。

今、双方の親達が80代になった。
年寄りに優しい主人の人柄は、いまだ健在だ。
毎週我が家に来る義父母の時代遅れの言葉やお説教に
嫁の私が内心カッカッしていても、主人は根気強く
親を説得しようと努力し、決して態度を荒げることはない。

それは、私の母親に対しても同じだ。
雨戸が閉まり難いと我が母が訴えれば、
休日には大工道具や工具箱を持って私の実家にかけつける。
サッカーの試合中に「オフサイドって何?」と電話で尋ねてきたら
面倒くさがらず丁寧に年寄り向きに説明をする。

年寄りはさすが年の功、優しい相手を逃さない。
私から見れば、図に乗って甘えてくる。

さて、昨日の日記のつづき・・・

「私も愛知万博に行きたい」と駄々をこねる母のことを話したら、
嫌な顔もせず、「連れて行ってあげようよ」という。

ちょっと大変だと思うよ。
私の母は携帯電話を所持していないし・・・

でも、つい今しがた、主人から電話があった。
「シニアの入場券、会社で買ったから」

はや〜・・・



2005年06月06日(月) 元気なことは良いことだ。

元気であるということは、良いことである。

ついつい、当たり前のことを自分に言い聞かせてしまう
そんな今朝のできごとだった。
電話から流れる声の主は満八十歳の私の母だ。
用件はいろいろあったが、大きな課題がひとつあった。

「私も愛知万博に行きたい」と。

先日、主人の両親といっしょに車で愛知万博に行った。
そのことを何気なく私は母に言ったのだ。
こういう反応を我が母が示すとは予想していなかった。

「なんで、その時、私も誘ってくれへんかったん?」

厳密に言えば、今月で82歳と81歳の義父母、
80歳の我が母が一番若い。
その母だけ、なんでいっしょに連れて行ってくれなかったのか
と、本人はかなり御不満な様子。

しかし、あの日産マーチに五人でギューギュー詰めの
三時間の高速ドライブ、想像しただけでグッタリとなる。
後部座席で、揃いも揃ってよく肥えた母達に挟まれて、
真ん中で小さくなって長時間耐えられるだろうか・・・私。
名古屋に到着するまでに、疲れ果ててしまいそうだ。

日帰りバスツアーでも、と思ったりもしたが、
11時から4時過ぎまでの万博会場滞在なんて、
ただ並びに行くだけみたいなものである。

それでも、よかったら・・・と我が母に尋ねると、
そんなんだったらイヤだとごねる。
暑くても雨でもかまわないから行きたいと。

歳をとっても、いつまでも元気でいるのには、
胃腸が丈夫であること(二人の母は、かなりふくよか体型)
好奇心旺盛であること(たのもしいかぎり)
気が強いこと(ちょっと鼻息荒過ぎ)
などと、元気な三人の親を見て思う。

寝たきり症状、認知症などのお年寄りの介護で、毎日明け暮れている
方々のことを考えると、私は幸せなのだと、つくづく思うが・・・
しかし、自分の母だからといって、うかつに何でも喋らない方がいい、
なんて感じてしまったことが、少し寂しい。
以前の母だったら、ちゃんと事情を察してくれたのに。
ということで、今日もまたグチ日記になってしまった。



2005年06月03日(金) こんな時には・・・

昨日とはうって変わって、真夏のような陽射しの中、
窓ガラスを拭く手に力がこもる。
サッシの汚れを拭き取ったら、次は網戸をゴシゴシこする。

不安やストレスを払拭させるため、今日は掃除に励むことにする。
キッチンとか居間とかではなくて、普段サボっているところ、
ということで、まず、義父母の部屋から始めた。
将来同居するための部屋だけど、いまのところ、たまに泊まるだけ。
家具もない和室の八畳は、最近はもっぱら主人のトレーニング部屋だ。
私も時々太極拳の練習などをさせてもらっている。
縁側と反対側の窓の周辺が汚れていた。
それならば、まじめに掃除をさせていただこう!

私が心配していても、どうすることもできない。
不安やストレスを抱え込んで、神経をキリキリすり減らすことで
事態が好転するとは思えない。

こういう場合、私のような五十女の思い付くところは、掃除! 
もっとも、ふだんからキレイ好きのピカピカ主婦は
また、ちがうことに挑戦されるのだろう。

私の場合は掃除だ。毎日の掃除ではない掃除だ。
好きでないから頑張って真面目にやってる気分になれる。
ちょっとは神様も助けて下さるかも・・・
なんてね、要するに、苦しい時の神頼みなのだ(ヘヘヘ・・)

たとえ、結果が思い通りにいかなくても、掃除してキレイに
なっただけでもエエやん。

そう思って、子供達の受験の時も、いつも特別掃除をした。
(何度も書くけれど、ピカピカ主婦にとっては普通の掃除だと・・)

いつの試験だったか、廊下と縁側にワックスをかけてピカピカにした。
でも、終わってから、フと気付いた。
「ワックスがけなんかしたら、スベル、スベル、受験なのに・・」

でも、今までのところ、子供達の受験はいつも順調だった。
この掃除のお陰なんて思ってませんヨ。モチロン!!

掃除は、母の気休めなり。(現実逃避かも・・・)
専業主婦になったのだから、ほんとうはもっと掃除に頑張らなければ
いけないところなのだ。
こんな時にしか、真面目に頑張れないヶ所がまだまだあるよ。
ふだん、意識して視野に入らないようにしている所が。

とか、なんとか言って、今はパソコンに向かって日記を書いている私。
日記を書くのが好きな私は、人様の日記を読むのも好きだ。
そして、とても励まされて助けてもらっている。
弱っている時ほど、言葉は心に染み入る。
時には「良薬、口に苦しか・・・」と感じることもあるけれど。



2005年06月01日(水) ストレス発散の時

今年の二月から始めた配食ボランティア、
今のところまだ続いている。
二週間に一度だけの二時間前後の仕事量、
エネルギー蓄積傾向のある私は全く苦にならない。
先月いっぱいでスポーツジムを退会した私としては
もう少し、エネルギー発散(ストレス発散かも)の
機会を増やしてもいいかな、と思う。

自宅の掃除や整理整頓に励んで汗を流すのが、
エネルギー発散方法としてはベストなのだと思うが、
家に閉じこもっていると、どうも精神状態があまり
芳しくない今日この頃。

本日はAコース、(ディナーだったらいいのにナ)
最初の出発から遅れ気味。
まず、お弁当の到着がいつもより遅かった。
そして、何軒目かの配達が終わり出発しようとした時、
コンコンと車窓をたたく人あり。

もう81歳というその御婦人、年上のご主人と二人暮しで
私達もそのようなお弁当を受け取りたいが、どこに申し込
むのか、という質問。
運転手のAさんが、車を降りて親切に丁寧に説明をする。

延々と続く会話に少し時間が心配になり始めた私、
案の定、福祉事務所からAさんの携帯に電話がかかった。

これから配達するお宅から「お弁当が遅い」と、福祉事務所
に電話が入ったらしい。
遅れているといっても、私の今までの数少ない経験から判断
して、わずか五分から十分ほど。
お弁当が多い曜日には、もっと遅くなる日もあるそうだ。

運転手のAさんはちょっとカンカン!
その日の諸事情や道路事情もあるのに、そんな五分や十分
の遅れを福祉事務所に訴えるなんて・・
あのJRの事故のように、遅れを取り戻そうとあわてて運転して
交通事故でも起こしたら、どうしてくれるんや!

ほんとうに、そのとおりだと思う。
もともと、お弁当の配達を受けるお宅は、体の不自由な人、
食事作りが困難な家庭ということだから、玄関の呼び鈴を
鳴らしても、すぐに出て来てくれることの方が少ないのだ。

けっきょく、今日も11時40分頃に24個の配食を終了、
この時期、町内の住宅地周辺はどこも庭の花や木が美しく、
狭い町といえども、車で走り回るのはかなり良い気分だった。


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