ふつうのおんな

2005年05月31日(火) 病院の夜 4

5/30

21:15
病院に着くと母は軽くいびきをかきながら寝ていた。
もう3時間近く寝ているらしい。
このまま寝ていてくれたら呼吸に気をつけて唇を湿らせてあげるだけでよいので ちょっと楽だなと思っていたら 叔父が帰る頃になって目を覚ました。
それから「うぅう〜」といううめき声が始まった。低いのならまだしも高音で。
日中も2,3時間やっていたらしい。
痛がるように顔をしかめるので痛み止めを入れてもらうことにした。

22:30
痛みではない表情で相変わらず唸り続けているので 母がコレまでずっと唱えていたお経のようなもの(母は最近父に教わったが私は子供の頃きいて覚えていた)を3回繰り返して母のそばで唱えてみた。
3回目が終わらないうちに母がカッと目を見開き
「あんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとね」
※方言で「あなたは一体何を言っているの」。責める口調。
とエンドレスでさらに高い声で叫びだした。
母のすさまじい形相とさっきまで唸るだけだったのがいきなり言葉で責め始めた状態に私は全身鳥肌が立ち 足が震えた。
父に電話して状態を伝える。
このお経のようなものは詫び・懺悔の意味あいで母は唱えていたのだが きっとつらかったのだろうね と。
私は「嫌なこといってごめんね」と見ていないかもしれないけど頭を下げて謝りつづけた。
だんだんと また ただの唸り声に変わった。

2:45
うとうとすると 母の唸り声で目が覚める。

3:00
最期に時計を見た時間

5:00
母の咳で目が覚めた。
痰が絡まる音だったのでナースをよんでバキュームしてもらうことに。
口は絶対にあけないので(水で湿らせてあげようにも綿や指をガチガチと噛んで阻止してくる)鼻から細いチューブを通してやることになったのだがものすごい抵抗。
1人が管を入れ 一人が母の頭を抑え 私が両手を抑えていた。
しかし抵抗がすごく、一旦止めようと管を抜いたところでイキナリ横をむいて真っ黒なものを大量に吐いた。
急いで器で受けようとしたが間に合わずかなりこぼれた。
タオル数枚と高さがちょうど良かった低反発枕もダメになった。

胆汁や腎臓で濾されずに残った毒素と胃液とこれまで口に含んだ水と血の混じったタールのような色の液体。

口の中は相当気持ち悪いはずなのにその洗浄もさせてくれない。
ただずっと喉をゼロゼロ言わせて歯を食いしばってにらんでくる。

鼻からの刺激で吐いてしまったのだろう。
この先なんどもこうやって吐くらしい。

これまでも何度か母が吐く場面に私はいた。大体2人だけの時だった。
そしてそのたび「あんたがいるときでよかった(=妹には見せたくない)」と涙目で「ごめんねごめんね」と謝っていた母。
「謝らないで」と背中をさすりながら答えていた私。
吐きそうになるときは 起き上がるそぶりをして口を手で抑えていたので 私はすかさずゴミ箱を出し ゴミ箱以外全く汚さず受け止めていた。
もう、そういうふうには できないんだね。

吐くたびに自分の吐瀉物を浴びつづけ なおかつそれを綺麗にすることも許してくれないんだね。

先週の木曜までずっと続けていた 寝る前の洗顔・化粧水・美容液・乳液・ナイトクリームでの手入れ も金曜からパッタリなくなった。
木曜の夜、痛みがひいていたらしい母は何もついていない手でいつものマッサージのジェスチャーをしはじめたのだ。
それを見て「あぁこの人はいつまでも身奇麗にしていたいんだな」と感心したものだった が。

6:10
病院を出る。
その10分後には妹が病室に入ったはず。

7:30
自宅に戻りシャワーを浴びて朝食を取り オットに夕べの様子を話す。
黙って聞いていたオットは「このままお母さんが亡くなってしまったら 悲しい気持ちより『あぁ 終わった』という気持ちが出てしまいそうで嫌だね」と言った。
まったく そのとおりだと思った。

10:00
電車の中でうたたねをした。
「あんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとねあんたなんばいいよっとね」
が急に聞こえた気がしてびくっと 飛び起きてしまった。

夢だった。

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少し調べてみた。母の状態は「譫妄(せんもう)」というものに該当するのではないか?

chick me

2005年05月30日(月) 病院の夜 2-3

5/28
5:20起床
着替えて身支度をして母が自然に目が覚めるのを待つ。

7:30
母が起きたので
「おはよう お誕生日おめでとう。お母さん58歳だよ。」
と声をかけたら
うれしそうに「あぁ えっちゃん」としがみついてきたので何度もおめでとうをくりかえす。
少し落ち着いたので一度自宅に戻る。

11時ごろ
妹より 今日が28日だとどうしても信じない と連絡アリ。
「だまされない」「あんたたちが間違ったことは許す」など新聞を見せても信じないらしい。
軽くランチをとってから病院に戻ろうかと思っていたら「はやくきて」と妹より。
ギャーギャーないてる妹の長男@7ヶ月のオムツをむりやりはいだり 長女@2歳半 のオムツを見せろ くさいから絶対もらしてる と言い張ったりしているらしい。
子供が二人とも泣いてしまうと妹もどうにもならない。
黒い靴@言いたくないけど喪服用 を買うつもりだったが直行する。
キヨスクで朝刊を5冊買った後八王子駅の日比谷花壇で妹と落ち合う。
赤い薔薇2本と白い薔薇4本を買う。両親と私たち姉妹 その夫たち で6本。

病室にはオットが来てくれていた。

オットがきた ということはかろうじてわかってくれた。が。

何度言っても信じなかった誕生日。部屋にくる人くる人皆に「今日は何日だと思ってる?」と問いただす。
あんなに待ち望んでいた誕生日なのに どうしてここまでかたくなに受け入れようとしないのだろう。
誕生日まで生きていたら が目標だったからそれが失われるのが怖いから?
それとも本当に日付がわからなくて?
でもなぜ皆がうそをついていると思うのだろう。


父が来て「今日は28日だよ。おまえの誕生日だよ。」というと少し信じた様子。
妹が買ってきた小さなケーキをもってハッピーバースデーを歌った。
歌いながら皆泣いた。

今日・明日は叔父1が病室に寝泊りするので私と妹は近くのビジネスホテルを取った。
私は23時半過ぎ 妹は1時ごろチェックインした。

5/29
5:45 起床
先に支度を終えた妹が私の部屋で待つ。
「おねえちゃん 前にマル(ネコ)が瀕死だった時に安楽死させようかっていう話があったの。
絶対助からなくて長くないなら苦しめたくなくて。でもそのときお母さんが 苦しめたくないというのは
周りの者が苦しむのを見たくないというだけでマルは生きたいんだから逃げなさんな って言ったの。
だからお母さんも今苦しくても生きたいんだよね。」
と妹が話していた。

7時過ぎにチェックアウトして妹とファミレスのモーニングを食べる。
焼き魚のセットを前にして オットにこういう朝食を久しく出していないことを思い出し申し訳なくなる。

8:30 病室

容態が落ち着いていたので一度自宅に戻る。
洗濯と着替えをしてでる。

15:00
病室に戻る。ナースが血圧を測ろうとして母に引っかかれたと聞く。
声だけで「えっちゃん たすけて」と私がきたことに気がつく。
叔父が昼食を取りに出る。

痛くて動いてしまうので体の位置がずれてしまい 首の位置が悪かったので直すことにした。
私と若いナースでやろうとしたら母は身体に触られることをひどく嫌がり暴れる。
その際点滴の管を握り締めて引っこ抜こうとしたので母の両手を押さえつけてもう一人ナースを呼ぶ。
たぶん30代のいつもテキパキとした学校の先生のような親しいナースが飛んでくる。
ベッドを一度倒し(母は垂直に座りたがるがこれだと首構えに倒れて息が詰まる)背中のクッションをなおそうとすると「ちょっとまって!」と絶叫して母がいやがる。
ここでいくら待っても「いいよ」とは言われないので一気に直すことにしたのだが 叫びながら私の手に爪を立てる。
私はこういうとき優しい気持ちや悲しい気持ちよりも怒りが勝つほうなので ついこんなやりとりになった。
「なんできいてくれないの」
「イタイイタイ」
「お母さんのためにやってるのに点滴なんて引っ張ったらだめじゃない」
「イタイのよ!」
「死にたいの?」
「死にたいのよ!」
母はかっと目を見開き私を方を見ているが目はもう私のほうをちゃんとは向けず左右別の方向を見ている。
「そんなに苦しいなら 一緒に逝ってあげるよ!!」
私は涙があふれてきて 母の抵抗がおさまったところで病室を飛び出し 待合室で頭を抱えて号泣した。
1,2分後 ベテランのほうのナースが私を追いかけてきた。
ずっとずっと我慢していたけど 初めて病院でナースの前で 声をあげて泣いた。

私はさっき何を言おうとした?
「じゃあもう楽になっていいよ。」
って言いそうになったよね。生きていて欲しいのに 苦痛ばかりだけどマルのように最期までお母さんにも戦って欲しいのに。

ナースは私の背中をさすりながら 母がどれだけ私や妹のことを他のナースに自慢してるか どれだけ私たちに感謝してるかをいつも聞いてたんだよ 今は意識が飛んじゃってああなるけど 根底は違うんだよ
と一生懸命に言ってくれた。

わかってます
私が泣いてるのは母の死を願った一瞬の自分の情けなさです
とは、言えなかった。

その後は母は攻撃的になり唇を湿らせようと買ってきた持ち手の長い綿棒をうばって折って懐に隠したり、血圧を測るのを嫌がったりした。
私が「私のことわかる?」ときいたら横に首を振ったので(わかってるくせに答えたくないらしい)「じゃあもういいよ」と突き放す言い方をしてしまった。

相手にとって結果としてよいことに結びつくのであれば それまでの過程における相手の反応はあまり重視しない。
たとえば母の腰や背中の位置が悪くて痛みがあるとする。
それを和らげるためには一度ベッドを倒し クッションを全部抜いて母の体の下のバスタオルの位置を直してから もう一度起こし、ひとつずつ手早くクッションをタオルとベッドの間に差し入れていく。
これをすれば首も腰も楽になるのだから たとえどんなに嫌がっても強引にさっさとやってしまえばいい と思っている。
途中でどれほど痛がってもだ。

下半身の浮腫がすごいので思うように身体を動かせず(指にまできました) また 浮腫があるとモルヒネの効果は落ちる。
さらに呼吸障害が起こるのを防ぐためモルヒネの量もまだまだ増やす余地があるそうだ。
担当医に「御家族の方が痛がるのを見ていられないというのであれば モルヒネを増やすことはできます」といわれた。

しかし いくらモルヒネを使っているからといってここまで母が変わってしまうのがどうしてもわからない。
帰ろうとする父にいきなり絡んだり なんともいえない表情でにやにや笑って見せたり 攻撃的になったり。
私なりにいろいろ調べた。
「通常はモルヒネは使っている間は苦痛が取り除かれて 切れるとくるしむわけでしょ。
実際 モルヒネで痛みを抑えながら2年間ふつうに会社に通ったサラリーマンの例もあるし。
じゃあ お母さんはなんでここまでになってるんだろう。腎臓や肝臓に障害があると効きがさまざまなのはわかるけど。」
と言ったら妹は あきれたように
「本に書いてあることが全てじゃないでしょ。お母さんの体の中は何がおきてるかもうわからないんだから。」
と言った。

私の真意は伝わらなかったらしい。
なんだか頭でっかちなひとを諌めるようなことを言われてしまった。
私が言いたかったのは

「この狂人のような変貌は脳への転移があるのか
腎疾患で尿も一日100mlを切ってるためアンモニアがまわり始めているのか
モルヒネが本来意図した効果ではない作用をしているのか
痛い痛いというけれど 浮腫みが圧迫されて痛いのか 内臓が痛いのか
どれなんだろう」

ということだ。
言ったところで
「そんなの全部でしょ」
と返答されそうだが。

なんていうのかな

「気力」「(おそらく)NK細胞の作用」など 目に見えにくいものに理由を求めるのではなく 一番苦しめているものはなんなのかを追求して まずはそれを抑える ってことをしたいのよ。
その検査が苦痛を伴うものであってもね。
但し それはその後の生活が期待される人のすることだよね。

はっきり言って母に「無事生還」というのはもう望めないと思っている。
もしかしたら「生き長らえる」ことはできるかもしれない。奇跡で。

だから じゃあ その時間どう過ごす?ってなったとき 母は「苦痛を取り除く」を選択したのだ。
そして「できれば最期まであんたたちに話し掛けながら逝きたい」と言う矛盾。
余計な知識が一杯詰め込まれてる私にはそれが矛盾だとわかるが 母には解からない。
自分に点滴されている薬 自分の体の状態 考えられる可能性 展開
私はすぐに調べて ひぇぇとおののくタイプなのだが 母は「知らないで戦ってる」わけだ。
そのほうが恐怖が大きいかもしれない。

苦痛を除くのなら もう呼吸障害云々も超えて まったく痛みがなくなるほど投与すればいい。
マッサージも体位交換も本人の深刻で行うのではなく1時間に一回くらい付き添ってる人間がしてあげればいいんだし。
完全なる寝たきりだが それが「苦痛を取り除く」ということでは?
今は手に触れるだけで痛いことをされると思い「痛い!」と叫ぶ状態だ。

お母さんは今の状態でほんとうに いい?
苦しみ半分 意識も半分 という状態は本意?

まあ それぐらいぶっとんだことをしても妹の長女が「ばーばぁ」と駆け寄るとにこーっとわらうのだ。
「あーくしゅ」と母に手を伸ばすと手を差し出すのだ。自分から。

母にとっては最後に育てたコドモだから すべての愛情を注いだといっても等しい存在
まだ2歳半だから母に喜びしか与えていない存在

それにひきかえ私ときたら
最後の最後に母に怒りをぶつけてしまったよ

妹は痛みを訴えている母を悲しみに満ちたまなざしで見つめている。
私は自分の表情が厳しいものであることを恥じる。


5/30
4:40
東京の干潮時間(人が亡くなりやすい時間帯だそうで)がちかいので一度起きる。
病室の叔父から電話が来ないことを祈り30分待った後もう一度眠る。

6:00
起床

7:00
母がずっと「会いたい 会いたい」と言っていると連絡がきて 妹が先に向かう。

7:20
病室に行くと母は眠っていた。
手を握り「私だよ」と言うと軽く親指を握り返してくる。
「会社に行くね。夜戻ってくるまで頑張るんだよ」と続けたが反応はなかった。

13:30
仕事を休んでついていてくれる叔父から
「着替えをさせたらものすごく痛がったので痛み止めを入れてもらった」とメール。

ボルタレン座薬かと思ったら モルヒネの量を20ml→30ml/day?12h?にしたらしい。
これからは更に呼吸器抑制に気をつけなくてはならない。

15:30
叔父から電話
ひざやももの浮腫みが減ってひざの皿がわかるようになった
下半身も自由に動くし 背中のクッションもはずして枕だけでベッドを倒して寝られる
会話はまともにできないけど いってることがわかるって
口の中の乾燥もじぶんでもごもごして唇もなめてる
おじさんには良くなってるように見えるよ

ということは、これまで痛みが強くて精神的に参ってた ということ?
痛みが緩和されることによって 少しでも楽になったのならよいけれど
見えない力ですこしだけ母が元の母に戻って 穏やかに逝けるようになっている その準備に思えて 叔父のように気楽な気持ちにはなれない。

chick me

2005年05月27日(金) 病院の夜1

昨日から病室で寝泊り。
夜間は一度入ったら外出はできないので かるく食事をしてペットボトルのお茶を買い 煙草を一本吸って病院に入った。

21時:
病室に行くとちょうど座薬の鎮痛剤を入れていたので退席。
今日から腎臓のための点滴(ソリタT1)と鎮痛剤が一つにまとまるとのこと。
二つあるとトイレへの移動などが大変だかららしい。
普通の下着はもう着用できずT字帯になっていた。(むくみがすごいのですれて痛い)

21時半〜23時:
なにをどうして欲しいのか全く解からない。
横向きになりたいらしいというのは解かるのだが タオルを身体の下にいれて云々という母の説明がわからない。
身体の向きを変える説明をしていたと思ったら、何故か下半身の寝巻きの前をはだけてT字帯の説明を延々とされる。
結局身体の下にタオルをいれてタオルごと母の体位を変えれば動作が楽だろう ということが言いたかったらしい。
やろうとして母の身体の下に手を差し入れたとき背中とおしりの間あたりがぶよぶよになっていることに驚いた。
腹水が回っているのか 浮腫みなのか
強く持ったらつぶれるんじゃないか(いまスネのところは皮膚下で保持しきれない体液が染み出しているので)と思った。
ナースを呼びにいき 体位変更のやりかたをよく見る。
見ていると母がナースに言った。
「この子がいるのにどうして呼んだかって言うと、この子にやり方を覚えてもらおうと思って。
さっきから言ってるのに伝わらなくてちょっとイライラするのよ。」
イライラして怒鳴りつけそうになったのは私のほうだというのに。

介護 看病というのは体力以上に忍耐力精神力が強くなければ勤まらない。というのを強く実感した。

23時〜23時30分頃:
どういう体勢をとっても腰・足が痛いという。
点滴で痛み止めがはいっているし座薬の痛み止めもいれて2時間ほどだがもう効果が切れたのか。
通常6-8時間は効くらしいが。
ナースに言ってもう一度座薬を入れてもらい 睡眠導入剤をもらう。

薬を待っている間に母が言ったこと
「耳に電話の電波が入ってきてかゆい」
「あんたのお母さんに会わせてあげられなくてごめんね」
「言いたいことが伝わりにくいのは口が渇いてるせい」

23時40分〜:
睡眠導入剤を飲むのにうまく嚥下できない。
なんどか少量のお茶を口にしているものの乾ききっているため落ちていかない様子。
「口の中で溶けた!」と騒ぐので「水を含んでしばらく舌で薬と水を口の中で混ぜてみて。大丈夫。睡眠薬なら舌下吸収でも効果はあるから。」と落ち着かせる。
おとといはこの薬を飲んだ後吐いたというので 飲んでしばらくは身体を完全に起こした姿勢で5分ほど待った。

水を大目に飲んだ後よく吐くのは 寝た姿勢のままだと胃から食道に水が流れないのだろう。
げっぷを出させて余計な空気がある程度抜けたのを確認してからベッドを少し倒す。完全に平らだと腹部が伸びきって余計に苦しいらしい。
電気を消して母の寝息が聞こえてきてから20分待ってから私も目を閉じた。

真夜中:
どう考えても私の身長(164センチ)がおさまるわけの無い硬いソファで 楽な姿勢など取れるはずも無い。
応接セットの2人がけのソファに敷ふとんをひいているのだが(枕は自前)ひざを身体につけるくらい曲げて横向きでないと足が落ちてしまう。
さらにこのいすの手すりは座る部分との高さの差が大きく手すり部分が木なのだ。
スプリングは古いものなので悪い。
明け方までなんとか横向きでうとうとしていたが途中体が痛くなって仰向けになり 手すりに足を乗せて寝た。

5時20分:
携帯のバイブの目覚ましで起きた。
母が気が着いた様子はない。
そっと起きて立ち上がると首から肩 背中にかけて激痛のような凝りが・・・。
いまも上を向けないほど首が痛い。とほほ。今晩は座って寝よう。

音を立てないように着替え、化粧水で顔を拭き 布団をたたんで母の様子を確認する。
よく寝ている。
いつも7時ごろまで寝ているらしいのでそのままにしてナースセンターに帰る旨を伝える。
廊下から母の部屋の様子に耳をそばだてると寝息が聞こえてきた。
1分ほど聞いた後 自宅に戻った。

7時35分:
マンションに着き、部屋のドアをそっと空けるとオットが巣のように散らかしていて すやすや眠っていた。

シャワーを浴びて朝食を一緒にとり、化粧をして家を出たのが9時45分。

こういう生活が平日は続くことになる。
肩こり以外は特に問題なさそうだ。

chick me

2005年05月26日(木) 嫌だけど確認しておいたこと

万が一の場合は葬儀はどこに頼むつもりでいるのか
通夜・葬式は自宅なのか斎場なのか

今日 初めて 夜中から明け方の母のそばにつくんだけど
もしも もしも逝くときは お願いだから私がいるときであって欲しい

自分の手帳を読み返して驚いた。
5/13から食事が全面禁止になって5/15に腸閉塞の恐れがあると解かり
5/16ぐらいからモルヒネを多量に使うようになった。
そしてこの日を境に母の意識の混濁が始まったのだが まだたった10日しか経っていない。

10日前までちゃんと会話ができていたのだ。
「おなかすいた気がする。なにか食べたいな」
って言ったり。

5/1に撮った写真では母は昔のままの母の姿だというのに
今 命の火は ちらちらとゆらめき 何かの弾みで消えてしまいそうになっている。

なにより 母のにおいが 母のにおいではなくなってしまった。
20年近く前に祖父(母の父)が亡くなる少し前にお見舞いに行ったのだが あのときの祖父の姿とシンクロする。

おじいちゃんのあの部屋の匂い おじいちゃんのにおい
病気のにおいだ

母がずっとしてきた寝る前の顔の手入れのジェスチャーを始めた。
「やってくれ」と催促しているのではなく習慣で手が動いているのだ。
まだ手についていない乳液を両手でこすり合わせ顔に丁寧に刷り込む母。
私はいつもの順番どおり母の手に化粧品をつけて 手入れが終わるのを待った。
昨日までは「顔しようか?」と私が聞いて母が同意してからやってあげてたのにね・・・。

母の唇を湿らせながら涙がこぼれることがあるが 母はもう私が泣いていても わからない。

chick me

2005年05月25日(水) 良くないことは続くものなのですね ほんと

母方の従妹が3姉妹だというのはこのあいだ書いたとおり。
ひとつ上のY子
ひとつ下の双子のRとK

16日にRの子が事故死
翌17日 Kの次女が生まれた。双子の妹の子の通夜の日というわけだ。
そして今日。
今週の土曜日母の誕生日に上京してくるはずだったY子姉ちゃんがバイクで出勤途中車にぶつかられた。
反対車線まで吹っ飛んだものの ほんとうに幸いなことに全身打撲と脳震盪ですんだそうだ。

しかし土曜日は来られないだろうな

今日母が「Y子がくるのをとりあえず生きる目標にする」と言ったばかりだった。

2週間の間に母方のN家では女ばかりがみんな

もう目の焦点も合わないことが多く 下半身の浮腫からは水が染み出てきている。
意味不明な発言に対して妹はどう答えていいかわからないというので
「お母さん いま一瞬寝てたよ。夢見たんだね。」と言うように教える。

母は水ももう飲めない。
ある程度のむけど 適量たまったところで全部はいてしまう。
口の中を湿らす程度 ティースプーン1杯分くらいを含んでやめればいいのだろうが やはりごくりと飲んでしまう。
でも水も飲むななんていえない。

たとえ吐いても水くらい好きに飲ませてあげたい。
後が苦しくても。

明日からはお見舞いという形ではなく 仕事が終わった後そのまま病院に行き 病室に泊まり翌朝早くに家に帰ってシャワー&着替えと朝食を取って 出社 というふうにする。
もう夜中も1人にしないでくれといわれているのだ。
父が「僕と交代にしよう」といったけれど父ももう体力が限界なのでおそらく叔父と週末と平日で交代にする。

母が痛みで心細いときにひとりにしたくない

chick me

2005年05月23日(月) あと5日

アンモニアがまわっているのか もう発言がめちゃくちゃな母
(※モルヒネの影響だと後でわかった。腎不全が進んでいて 検査で、とある正常値の数100倍の値をマークした項目があった。ろれつが回っていない上に言っていることが意味不明なので会話がすごく難しい。)

「材料を買ってきたのならここでお鍋つくっていきなさい」

「XXさんが今日来たんだけど(今日どころか何年も会ってない人)」

きていない というと「絶対にきた」といって手帳を確認しようとする

あのかくしゃくとした母が よろよろと人につかまらないと歩けず
少し離れたトイレには歩いていくことすらできない
寝ているときは苦痛に苦しむか意味不明なことを言うか 薬で寝ている

寝ている母のそばを抱きしめて「じゃあ私会社いくよ」と耳元で言うと
「もうそんな時間?おかあさんがんばるからね」

頑張って欲しい
けど
頑張って苦しいなら もう少し せめて目標だった28日をクリアしたら
あとは楽になってもいいよ

という気持ちが交錯する。

chick me

2005年05月18日(水) 納得と諦め

今朝のニュースで 同じ日に別のところでRちゃんの子と同い年の子が用水路で亡くなったと知った。
そしてRちゃんの子がおちた用水路の映像を見た。

5歳じゃあがれないような高さ。

こわかったよね
見ていた友達もきっとこわかったよね
かわいそうに

それをみてから 何だかずっとおかしな感じなのだ。

死は、命を持つものすべてに平等に訪れる。
5歳の子にも
57歳の母にも
いつの日か私にも

それを心から感じた。
なんていうか、心の深いところで すごく納得したというか・・・。
死は、避けられない・どうしようもないことなのだと 諦められた感じ。
うまく言えないけれど。


足をマッサージすると母は最近よく転寝を始める。
というか、以前より格段にうとうとすることが多くなった。鎮痛剤のせいだろうか。
その母の顔をみていると57歳はまだ若いとはいえ ああ 年をとったなあと 苦痛は人を老けさせるというのは本当だなとしみじみ思う。
微笑む顔より 涙にゆがむ顔より 今一番最初に浮かぶ母の顔は疲れた寝顔だ。
ここ1週間ほどは母が何を言っているのか聞き取れないほど 母の口調が弱くろれつが回っていないことが多くなった。

もっともっと元気になって 一緒にふたりで旅をしたい
美味しいものをちょっとずつ食べて ゆっくりと美しい景色を眺めたり

でもきっとそれは叶わない。

腸のガスと下半身の目を覆いたくなるようなむくみさえなくなってくれれば もう少し気力がわくだろうか。
痛みと戦う気力
生きてやる 元気になってやるという気力

自分の身体が変形していく恐怖というのは経験したものでなければわからない。
私は5年前 左眼窩床骨折をしたのだが、バルーンを顔から抜いた後10日間の顔の腫れはすさまじく、それが顔であったがために殊更恐ろしかった。
「私は醜くなった」
同時期 精神的にダメージを受けることが他にもあり、私の髪はごっそりと抜けた。

母の顔にむくみがきたら 母にもあの恐怖がやってきてしまう。

痩せて頭蓋がうっすらと浮き出てきた母の顔

ここまでなら
ここまでなら化粧で隠せる

そう思いながら母の体に気休めの痒み止め(また痒みがきてしまいました)を塗り 自分の祈りが母の健康回復よりももっと小さなことばかりになってきていることに気がつく。

今日は夕方も病院に行くつもりなのだが、腰とひざを乗せるクッションを探してきて欲しいと父から電話があったので少し早めに会社を出る。
生きている時間と苦しむ時間がイコールなのであれば できる限り辛さを和らげてあげたい。


泣けない私の代わりに泣いてくれる友達がいることは ありがたいです。
ほんとにありがとう
心配かけてごめん
時間がうまく作れなくて会えない子が多いけど想いをかけてくれる存在がいることを うれしく思います。

chick me

2005年05月17日(火) 命が消えた日と命が生まれた日

母方の従妹は全部で4人。
母のすぐ下の弟の子が3人 一番下の弟の子が1人。(諸事情により音信不通)
この3人は私の一つ上のY子お姉ちゃんと一つ下の妹と同い年の双子のRとK。みんな女。

年も近いことがあって、私たちはすごく仲がよかった。

双子の1人Rちゃんは先週母のお見舞いに飛んできてくれた。

Rちゃんは数年前住んでいたアパートが火事で全焼したのをきっかけに旦那さんの実家に同居している。
5歳の長男 3歳になる次男 7ヶ月の三男。

Y子姉ちゃんは4歳になる長男と3歳になる長女。
Kは今朝 次女を産んだばかりだ。

この3人も母に可愛がられた。

夕べ この3人の父親である叔父1から電話があった。

「Yの長男が死んだ」

「は?」

「友達がタニシをとりにいって楽しかった話を聞いて自分も行きたいって言ってて。
Rが大人と一緒じゃないとダメって言ってたのに友達といったらしく おぼれてしんだ。」

Kは陣痛がきて、今さっき入院したという。
ショックではやまったのか。

Rちゃんの長男はRちゃんにそっくりで 次男は旦那さんにそっくりで 三男は二人のミックスの顔。

母には内緒にしよう と皆で決めた。

叔父2と妹は今日のお通夜に駆けつけるそうだ。
妹はKの病院にも行って こんなときだけど おめでとうは別で祝ってあげたいと言った。

出産祝いとお香典を同じ日に出すのは初めてだ。

Rちゃんの長男とそれほど交流があったわけではない。
ただ、 子供の頃から3人の中で一番まじめで人生を堅実に歩んできたRちゃんに どうしてそんな不幸が起こるのか
とRちゃんのことを考えると頭ががんがんする。

双子なのに片方の長男の命日の翌日が片方の次女の誕生日なのだ。
この先3人はこの2日間をどんな思いでむかえるのだろうか。

夕べは久しぶりに睡眠薬を飲んで 泥のように 寝た。

悲しいことなど もう充分だというのに。

chick me

2005年05月16日(月) 母の命

リンパ腫から腸閉塞を起こしかけているかもしれない とのこと。
血液検査の結果はあまり悪くなっていないというのに!

普通は手術なのだが 今の母は手術ができないので 破裂したらアウト。
そしてそれはいつくるかもしれない。

腸が破裂したときの痛みと苦しみは地獄だ。
母の父親は腎臓が悪くて入院したが虫垂炎を起こし、いくらおなかが痛いといっても医者は治療せず結局腹膜炎が破裂してなくなった。
そのときの痛みは祖父の正気を奪ったらしい。

だから母は具体的に 腸が破裂するとどう苦しむかを知っているのだ。

妹が「地獄の苦しみを味あわせたくない。もうダメだってわかったら全身麻酔をかけてもらって楽にしてあげたいとも思う。」と。

私は「お母さんの寿命を私たちが決めることになるよ。その思いを一生背負えるのでなければやめたほうがいい。そしてお姉ちゃんは背負えない。」といった。

どこまで苦しめばいいんだ。

chick me

2005年05月13日(金) 母のおなか

またかゆみがきたというので気休めにしかならない薬を塗っていて驚いた。
母の身体のむくみかたときたら・・・。

父は「浮腫だろう」といい その説明に「死ぬ前になる」などと言ったらしい。
そんなことはない!
なんでそんなこと言うんだろう

母の弱弱しさとは対極に母の身体はおかしな硬度をもってむくんでいる。

腹回りは硬い。
明らかに身体の中の何かが硬くなっているのがよくわかる。
先週まではぷよんぷよんだったのに。

急速に恐怖がやってくる。

私が「おはよぉ」とドアを開けることが毎日の楽しみになってきた と母が笑う。

そうやって笑っていてくれ

chick me

2005年05月12日(木) ひろく。

いたわる気持ちやさしい気持ちというのは 自分に余裕のあるときでないともてない。

もてないからといって 刺だらけのままでいていいわけもない。

解かっているけど 刺がひっこまない

引っ込まないジレンマが余計に刺の先を鋭くしているようだ。

自分に疲れた

chick me

2005年05月10日(火) 久しぶりの食事は

母が口をおさえた瞬間立ち上がってゴミ箱を差し出した。
まる2日間点滴だけで固形物を口にしていなかった母は3分粥と刻みおかずを少し食べたところで全部吐いた。

食べた分全部。

いまだ常に吐き気が付きまとうため、点滴にしていたのだが抗癌剤をやっていないのに吐き気が続くのが解からない。
担当医も父もわからないという。
血が 汚れているからかもしれない。

一緒に買ってきたパンを食べていたので 母は「ごめんね 汚いもの見せて」ってすまながった。
私は「ぜんぜん」といってまた食べ始めたが 喉を通らなかった。

母の汚物を見たからではなく 母の弱弱しさに泣きそうになったからだ。
私は食べてる振りして殆ど残した。

少しして母はまた食べ始めた。
おかゆとお吸い物のはんぺんとかぼちゃのサラダ。
吐いた分を差し引いても全部食べた。

ほっとした。

だが 昨日父との会話で、家族は母がもう長くないと思っていることを知らされてしまったらしい。
なんでそんなことをっ
「娘と話したいことは今のうちに話しておけ」なんてさー。

まあ あとで後悔しないようにってことなんだろうけどね・・・。

バルーン(尿の出が悪いので小さな風船のようなものを尿道に入れて道を広げ管を通してある)は抜くようすすめたが 担当医は楽ならそのままでいいと言ったという。
それに慣れてしまったら はずしたときにしばらく筋肉の力が戻らなかったら尿漏れで大変だと思ったのだがはずすことはないということなのか?

母の足をお湯で洗い 背中を拭き そんなことを思いながら 唇を強くかんでこらえた。

まだ、母の前で声をあげて泣いたことはない。
妹はこの間家に帰っていたときベッドの母にすがって子供のときのようにわぁわぁと「死んじゃ嫌だ」と大声で繰り返して泣いたという。
それを言いながら母は思い出し泣きする。

だから私は絶対に それはすまい。
最後の最後まで しないよう がんばりたい。

だけど 歩いているとき ひとりでぼんやりしてるとき 発作のように悲しい気持ちがこみ上げてきて涙を押し上げる。
それだけは止めることはできそうにない。

chick me

2005年05月09日(月) 母の日

午後から別の予定を入れていたがキャンセルした。

今日母方の従妹(妹と同い年)が従妹を代表して お見舞いにきた。
「おばちゃんがちゃんと話せるうちに」
と 文字通り飛行機で飛んできた。
彼女は3人の男の子の母親で 一番下の子を連れてきたので妹の子2人と合わせて3人の子供が集ったことになる。
わあわあとにぎやかで母は少し疲れたようだったがうれしそうだった。

彼女が帰った後母は泣いた。

担当医に昨日いまの状況を聞いた。
数値の悪さはとりあえず落ち着いているが ビリルビン値は10.58ある。
これはまだこれからあがる。
便と尿がリンパ腫に圧迫されて自力で出ていない。

そして

急に起き上がったり転んだりして体位を変えたりすることによって体内で出血する可能性がある。
この出血が起きたら1分と持たず亡くなります
と言われた。

先生の先輩の受け持った患者さんでそういう例があったと。

御家族は「さっきまで普通にしてたのに」と思われるでしょうが 少しの出血も命取りなんだと解かってくれ と。

そして 今後痛みがひどくなってきたときは モルヒネを使う許可を得てきた。
父は「お願いします」と言った。

私は 病院の帰り 歩きながら声を出して泣いた。

最後の母の日にしたくない。のに。

chick me

2005年05月06日(金) 長い休みのようですが

4/29 病院へ
5/ 1 一時退院のため母自宅へ。自宅へ行って父と母の衣替え。
5/ 2 出勤
5/ 3 母は旅先から病院に直で戻ったので私も病院へ。
夜は大学時代の友人たちと会ったが太ったと責められる。
ストレスによる過食です。しくしく。
5/ 4 病院へ。夕方オットもくる。一緒に帰って地元で数ヶ月ぶりのパチンコ。
5/ 5 一時退院のため母自宅へ。自宅へ行って妹の長男の初節句を祝う。
5/ 6 出勤
5/ 7 母病院に戻る。妹が車で送ってくれる予定なので私も病院に直行予定。
5/ 8 病院へ の予定

自分の衣替えやおうちの大掃除をするヒマがありません。

chick me

2005年05月05日(木) 幻聴

腹水が少し溜まってきているらしい

幻覚 幻聴があるようで 妹は傍から見ていてはっきりと「幻聴がひどい」とわかると言う

一人で勝手に何かに返事をしているのか

吐き気止めの副作用であればいいが

chick me

2005年05月02日(月) 母の旅

休薬期間に入って3日ほどで母のビリルビン値は8を超えました。
急激に黄疸が進み 体力を失う母。
そして初めての高熱。今は平均して37度3,4分をキープしてますが。

ものすごく こわい。

抗癌剤のせいで肝臓が悪くなってるんだ
TS-1は肝臓には効かないんだから飲んだって肝臓には関係ない

解かってるけど 抗癌剤を拒否する以上 こういう事態はあるかもしれないと思っていたけど

28日の誕生日まで もつのか?というくらいの急速なる弱り方です。

今日から1泊、河口湖の温泉に妹夫婦といったのですが昨日一時退院してくるときも よろよろだったそうで。
私と叔父で父と母の衣替えをしてあげたのですが 母が自分の夏服を出さなくていい と言った時泣きそうになりました。

この人は 夏の装いをすることはない と思っているのか。

おとといTVでさだまさし原作の解夏というドラマをやっていました。
これは長崎が舞台なので母に見るように勧めていたのですが
「活水短大とかうつってたの。母校が見られると思わなかった。懐かしかったあ。」
とうれしそうに話してくれてたけど あれって難病がメインテーマなんだよね。

今日は少し曇り空だけど どうか明日は晴れてください。
そして母の大好きな富士山が見られますように・・・。

明日旅先から直行で病院に入って、また5,6,7と一時退院をする予定ですが 無理かもしれません。

最後の一時退院にならないよう
母にもっと時間と体力が授かるよう

何かに祈らずにいられません。

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夕方 「1時間半くらい前に着いた。目の前が富士山で最高。」とうれしそうな声で母から電話。
熱は37度8分あるらしいが。

出掛けはあわただしかったらしく


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それも母の笑える思い出になってくれたら。

chick me
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etsu

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