ふつうのおんな

2005年06月24日(金) 小さな事からこつこつと

皆さんは恋人間 夫婦間で金銭の貸し借りをしていますか?

小銭レベルから保証人レベルまでさまざまあると思います。
オットが銀行にいってなくて貧乏だ というときに2,3000円渡したりすることがありますが それはあげたことになってます。

先日病院に検査に行く直前になって財布がみあたらないと言い出し もう受付時間が迫っていたので1万円貸し。
その前にも1万500円貸し。
そして今日も「お札がないの」とつぶやくので5000円札を渡し・・・た瞬間 にまっと笑ったので 「これはお小遣いじゃないよ 貸しだよ」と言うと「お小遣いじゃないの?」とすちゃりと財布にしまってました。
お小遣いじゃありませんよ
今日払おうと思っていた税金の一部ですよ。

1万500円はオットが負担することに意味のあるお金なので今も返してくれているのですがその返し方が・・・

既に5000円ほど返してもらいましたが 内訳が
1000円札*2枚
500円玉*2枚
100円玉*14枚
50円玉*2枚
残金620円のパスネット(地下鉄のカード)

チケット屋じゃあるまいしパスネットで返すなんて と抗議したら「それ領収書代わりになるから実質1000円以上返したことになる」なんて言うんですよ あなた。

毎朝お駄賃のように小銭を渡されていると なんとなく「もういいよ」と言ってしまいそうになるので心を鬼にして徴収してます。

作戦?

chick me

2005年06月21日(火) 昼と夜

昼は大丈夫。
会社の人と過ごしてると思い出すことはあまりない。
だけど夕方17時頃には必ず時計が気になる。

病院には朝直行するか 夕方17時過ぎに会社を出て通っていたから。

そして夜

そう遅くない時間に帰宅してオットが先に寝つく。
その寝息を聞きながら 母の寝息を思い出す。

母の寝息から誕生日の朝私にしがみついて28日まで生きられた喜んだときの姿が浮かび
モルヒネをふやしたころの錯乱の様子へとかわり
「えっちゃん たすけてよ」
と病室に入ってきた気配だけでこちらに背を向けたままそれを私とわかって訴えてきた声を思い出させる。

拘束した両手
苦しげな呼吸
吐き出すものの異様な色
唇の乾き

フラッシュバックのように浮かび「お母さん縛ったりしてごめんねごめんね」という言葉だけが頭に浮かび涙がとまらなくなる。

毎晩ではない

そういう夜の前に帰途の電車の中でふと母を思うと 夜その続きが来るのだ

3,4日に一回くらいのことだけど 思い出すたびに涙が出なくなるのはいつになるだろうか。

chick me

2005年06月19日(日) 遺品整理その2

籐のつづらのような箱から 私と妹が子供の頃から母に送ってきたカードや手紙の全てが出てきた。
母の日
誕生日
クリスマス
プレゼントをもらった御礼
親子喧嘩をした後のごめんなさいの手紙
果ては「今日は飲み会だからゴハン要らないよ」とか「だれだれちゃんちに行くね」などのメモがきまで。

大切にしてもらってたんだなと 胸が痛くなった。

『親思う心にまさる親心、今日のおとづれ何と 聞くらむ』
月並みだけど吉田松陰の辞世の句が浮かんだ。

私と妹は病気を知らされてからの2年半 その時々でできることを頑張ってしてきたつもりだけど それが母にとって心から満足だったかはわからない。

解からないけれどあの人の子供に産まれて本当によかったと思う。

私が小学生の頃 母に「この詩は大好きだから覚えて」といわれて暗誦した詩がある。

------------- 
山のあなた [カール・ブッセ]/上田敏『海潮音』より

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ。
  
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ
------------- 

いま 調べて初めて意味を知った。

「幸せは彼方にあると聞き、求めて行ったが、むなしく泣いて帰った。
それでもなお遠くに幸せはある、と人は言う。」

この詩を母はどんな気持ちで私に教えたのだろうか。

chick me

2005年06月15日(水) 母の洋服

いくつかリサイクル業者にあたってみたけど やっぱりミセスのものはむずかしいね

母の服で一番多いブランドは詩仙堂や志村雅久なんだけど 若い世代はあまり着ないし・・・。
一点一点結構なお値段なのでおいそれと捨てるわけにもいかないしね。

換金したいわけではなく 大事にしてくれる人がいたらゆずるのが一番いいと思ってるんだけど
点数が多いからリストをつくるのも大変。

困った

chick me

2005年06月13日(月) 遺品整理その1

遺品整理の第一回目として母のアクセサリーとバッグを分けた。
バッグに関しては数が多いので大体は実家に置いておいて借りたいときにとりに行くようにした。

母が指がむくみだす直前までしていたリングがふたつあり、妹とわけるようにいわれていたのだが内側を見たら「S49.7.27」と刻印があった。
刻印がないほうは父のもので母がサイズを変えて二つともしていたようだ。(父はよくなくすので)
これは父にあげることにした。
妹はサイズを変えて父もすればいいといったが 間違いなく父はなくすので私は家に置いておくようすすめた。
父がなくなったとき 一緒に持たせればいいと思う。

それと母のお花の免許。
母は池坊の確か表で、1級とあったけど脇教授1級准華綱 なのか 准教授1級華監 かはよく見てこなかった。
次いった時に見てこよう。

母の源氏名(たぶんこんな言い方じゃないと思う。師範名?)は「仁昇」だった。

真珠や鼈甲・象牙・宝石をどう分けるかというのは適当。
鼈甲と色石とゴールドなどに分類してどうしてもコレはほしい というのを片方が一つ選んだら次はもう片方が一つ選び としたので全くもめない。
ふたりとも欲しいと思わなかったものは従妹たちに形見分けで送ろうかと思う。
またゴールドは一度溶かして姪っ子のものにつくりかえようということになった。

選びながら妹が「どうして姉妹で遺品や財産の争いをするのか解からない」と言った。
なんとなく より思い入れが深いほうを選ぶ感じだったので この石は高いからとかそういう理由では選んでいないし「このネックレスはお母さんにしか似合わないよね・・・。でも粗末にしたらきっと化けて出るから私が引き取るよ。でも一体いつする機会がくるんだろう。」とか「このリング可愛いけど入らないからそっちにあげる(母の指は多分7-9号)」などと言いながら決めていったので それらをつけていた頃の母を思い出しながら楽しかった。

「でも何十億もあったらもめるのかもよ」
と私が言ったら妹は「私はそれでももめないと思う。」と言った。

片方がそんなだと恥かしくて強欲になれないと思うから 私と妹はきっと 何十億あってももめないだろう。
きっちり分けて、端数が出たら多分妹は「おねえがとりなよ」って言うと思うし。
そして私は「ありがとう」とそれをとるだろう。
姉としては恥かしいことだが 円満。

2時間かけてバッグとアクセサリーしか整理できなかった。

これから山のような洋服と着物をどうするかなのだが まずリサイクル業者とレンタルスペース(我が家には物置がないので
クローゼットがぱんぱん。オットにお前のものだらけだから捨てろといわれている(;;)トホ)を決めてからにしようということになった。
来週までに決めなくちゃ!

しかし母156センチ 私164センチ。
ジャケットやコートとか肩幅もあわなくてダメだろうなあ。
しかも詩仙堂とか志村雅久とかばっかりなんだよね・・・。

chick me

2005年06月08日(水) 悲しみの表し方


ご飯を食べてないんじゃないかとか
眠れてないんじゃないかとか
しょっちゅう泣いてるんじゃないかとか
いっぱい心配してくれてます。

でも 私 自分でも母に申し訳ないくらい ちゃんとしてます。

時折病院のベッドで母が弱弱しく笑ってくれた顔を思い出して
胸の奥がぎりっときしむけれど
会社の同僚の変な髪形をいじめたり
おなかが鳴ったり
煙草を吸ったり
しています。

ただ、携帯の電池残量や着信の有無、電波の具合をしょっちゅう確認する癖が残っています。

chick me

2005年06月07日(火) 別れのあと

6日
6時ごろ冷たいお茶を飲んだらおなかが痛くなってきた。
トイレにいきながら「こういう時でもでるもんはでるんだなあ」なんて思ってた。

妹が買ってきた朝ごはんを食べて身支度をしてまた母の前に座る。
今日で最後か
今日で母の肉体と別れるんだ
そう思いながら

告別式にはまた会社の人が来てくれていたが「今日月曜日なのにチームミーティングはどうしたんだろう」などと課長の顔を見ながら考えたりもした
結局事業部としてではなくチーム全員が来てくれた
ありがたいと思った

それとぎりぎりにお知らせしたにもかかわらず飛んできてくれた方もいた
暑い中汗をかきながら
母は晴れ女だったから昨日も今日もかんかんに晴れちゃってすいません

母が火葬場にいく車に乗せられたとき「まだ間に合うんじゃないか」とふと思ったとたん涙が止まらなかった。やっぱりダメなのか もうダメなのかとおかしな焦燥感に駆られていた。
炉に入れるとき妹がきっとこの先こんなふうにはもう泣かないだろうという子供のような大泣きをした。私と妹はずっとずっと扉の閉まった炉を見つめていた。

火葬を待っているときオットと建物の外に出てた。
青い空に白い雲 暑い夏の空気
「この空の青さは忘れずにいなくちゃだね」
とオットが言った。
天に昇る というけれど 煙は確かに空に昇る
いま変換して気がついたが私の母は「昇子(のりこ)」という。
その名のとおり昇ったのだな といまそう思った。

母の骨はかなりしっかり残っていた。
祖母や祖父とはくらべものにならないほど原形をとどめていた。
最初に私と父が入れた。
二人一緒に入れるのだが奇数だったためオットが最後に残った。
結局最初と最後を私たち夫婦で納めたことになる。

父は弔辞の中で「華のような人生」と母を語った。まさに色んなことが絶え間なく押し寄せ安らかだったのは孫が生まれたときから病気が悪化するまでの2年。つまり病気になった期間と同じだけ母は幸せだったという、ちょっと皮肉な最後だった。

入院中母が「これまでの2年間が人生で一番楽しかった。一番うれしかったのは(悦子が)一緒に死んでもいいよ と言ってくれたこと。」と言ったことがある。
ふつうの状態の母なら「一緒に死ぬなんて」と怒るところだが 母は「悦子が一緒なら」ともしかしたら何度か思ったのかもしれない。
妹のことは素直に愛し案じ 私のことは案じるのと同じくらい頼っている人だったから。

経和院綸美光華大姉(けいわいんりんびこうかだいし)

母の美しい響きの戒名は寺ではなく父が尊敬する人からつけていただいた。
母にふさわしいと思う。

精進お年やほかの雑務を済ませた後自宅に戻った。
喪服や衣類の整理をしていると友人から電話があった。

そのとき彼女は「ホームページの様子と普段のメールや会ったときの態度とのギャップがありすぎて心配だ」といった。
この日記は父にも妹にも会社でもオットの前でも出せない出さないようにしている鬱々とした暗い気持ちをぶちまけていたので いざ対面したときはそういうものを少し置いてきているから 普通に見えるのだろう。
それが空元気だったらどうしよう と心配させたようだ。

目を閉じるとたくさんの母の顔が浮かぶがどれも病院でのことだ

病院食が食べられなくて だけどおなかがすいてすいて困り果てていたときに私がひょっこり顔を出したら「えっちゃあぁん」と泣きそうな笑顔で空腹を訴えてきたこと
御衣黄(みどりのさくら)を見たい見たいというので手に入れたら喜んでくれたこと
旅行の思い出をうれしそうに話してくれたこと
苦しくて苦しくて吐いてしまったときに「あんたのいるときでよかった」となみだ目で言ったこと
お誕生日の朝「おかあさんいきてるよぉ いきてるよねぇ」と両手で私にしがみついてきたこと
血圧を測るために母の腕を押さえつけたとき「死にたいのよ」と絶叫したこと
焦点の合わない目でにらまれたこと

どれを思い出しても「ほんの少し前のことなのに」と悲しくて悲しくて
もう母のためにしてあげられることが何一つないんだ
病院に行かなくてよくなってしまったんだ
携帯の圏外を気にしたり 妹や父からの着信におびえたり
そういうことは全部なくなってしまったんだと 自分をもてあましている

携帯といえば母の携帯はもう2週間も充電していないのだが少なくとも昨日見た時点まではまったく電池が減っていないのだ
ずっと電源が入りっぱなしだというのに
父が「自然に切れるまでこのままにしておこう」と言った。
そのうち解約するが着信と発信履歴は家族のものばかりで5月からこっちは一度も発信していない。
病室に電話があったこともあるが母が自分で電話をする力がなくなっていたことを物語る。

電池が切れるときが 母のこの世へのかかわりが切れるとき
そう思っている。

私を支えてくれたたくさんの皆さんに 心から御礼申し上げます。

chick me

2005年06月06日(月) 通夜を終えるまで

4日
実家に昼に行って黒いワンピースに着替えて弔問客の対応。
すべての人に母の病状となくなる前の様子を話す。
何度も何度も。
いくら話してもあの地獄が伝わるわけもなく 今穏やかに眠る母を見たら鬼の形相も想像できるわけもなく。
ただ 母は戦った 精一杯戦った ということを伝えるのみ。

この日の夜中母が一番かわいがっていた姪、Y子が事故で痛む体を押して足を引きずるようにしながらやってくる。
母の顔を触りながら
「先週やったら間にあっとったとにね」
と静かにないていた。
そうだね
会えるはずだったんだもんね
でも見ていたらもっと切なかったよ
めがねをかけないと読めないお誕生日電報をずーっとひざに置いたまま スイッチが止まったように寝ていたあの日の母

あの日が最後のまともな会話のできていた日だ。

5日
再び弔問客の相手をしつつ通夜の前の腹ごしらえを買ってきたサンドイッチで済ませる。
私はおなかがすくし 何かを食べられる。
あと3時間で家を出る となってから買ったばかりの靴がないことに気がつく。
実家に持っていってもらってたはずなのに と1時間ばかり探すがない。
仕方なく養父に電話して適当な靴を持ってきてもらって通夜の前に履き替えることにする。

最後に家を出る母を棺おけに入れたとき涙が出た。
「おかあさん」
と棺にすがって泣く私を見て姪っ子が「えっちゃん!」と呼んだのが耳に入った。
私の様子がおかしいと思って呼んだようだ。
ごめんね えっちゃんは いまお母さんとこの家でのお別れをしてるの
とふと横を見ると私と同じ格好で泣きまねをしながら棺にすがる姪
私は泣きながら笑った

通夜の会場ではセッティングがちゃくちゃくと行われ集まった生花が飾られていく。
花輪がないこの斎場ではすべてが生花だ。
花が好きだった母に似つかわしい。

斎場のお通夜というのは初めてなのだが東京って夜になったら電気もろうそくもお線香もダメなんだって?
長崎のお通夜しか知らないので初耳だ。
そこで叔父たちが担当者に吼える。「暴れるぞ」と叔父1が言い出す。
父は「喪主が騒ぐわけにいかないから代わりに言ったれ」と小さく加勢。
担当者が床に正座している姿を見てちょっとかわいそうだと思ったが 母を真っ暗闇に一人になんてできない。
粘ったあげく 電気は祭壇の周りだけずっとつける&ろうそくお線香ともに11時までOK をかちとった。
ふん お線香はつけちゃうもんね
誰かがいればいいんでしょ
通夜っていうのは「夜を通す」から「通夜」なんだからさ

通夜ではたくさんの人がきてくれた。
母はただの主婦だったのに後になって「奥様は何のお仕事をされていたのですか?」と聞かれた。
弔問客の多さと母の化粧した寝姿と写真の様子で仕事のある人だと思ったという。
お母さんよかったね
そういう風にバリバリに見られるの喜んだもんね

私の仕事関係の人・昔からの友人たちが多く見られたのだが 顔を見るとなけてしまう気を許した人が続けてお焼香だったので私は途中涙が止まらなかった。
「何でそんな頭に?」という散髪を週末にしたらしい会社の仲良しのF@ひとつ上 が焼香してくれたのだが緊張のあまり笑いそうになっている表情を見て こちらまでふと笑みが浮かんでしまった。
ダメだよそんな頭そんな顔したら・・・・・・

最後にずっと母を励ましてくれていた親友Yとそのお母さんが私と話そうと待っていてくれた。
Yのお母さんを見たら号泣してしまいすがり付いて泣いた。Yは私の頭をなでてくれた。
その方も7年間がんと闘っているのだ。
なのに母が3年足らずで亡くなってしまい さぞ不安だろうにこう言ってくれた。
「先になくなってしまった方の分もがんばっておばさん生きるからね!」
ありがとう ありがとう おばさんからの手紙はお棺に入れました。

母を知る友人たちは皆「寝てるだけとしか思えない。昔のイメージの中にあったお母さんそのまま」と言ってくれた。
お母さん メイクほめてよね。皆変わらないって言ってくれたよ。

夜残ったのは私と妹と姪Y子と叔父12の5人。
しかしあんなに吼えた叔父2は飲んで騒いで(叔父1と歌ったりしてた)10時過ぎにダウン。
怪獣のようないびきをかきながら寝てしまった。
「11時までがんばろうよ」とY子が苦笑していた。

2時ぐらいを境にぱらぱらと寝て線香守を交代し 私は5時ごろから起きてついた。

chick me

2005年06月03日(金) 午前4時3分

昇圧剤をはずして1時間足らずで母は眠りにつきました。
私と叔父がうとうとしていた間にそっと呼吸は止まり 気がついたらナースが心臓マッサージをしていました。

こういうのも死に目に会えなかったというのかな

けど妹が言いました。
「明日からまた大変やけん ねとかんね。お母さんいくけん。」
ってとこじゃない?と。

そうかもしれませんし「何で寝とっとね あんたたちは。」と呆れて逝ったかもしれません。

どちらにせよ 母は58歳と6日でこの世を去りました。

妹と父を呼び葬儀屋と一緒に家につれて帰り 顔を拭いて丹念に化粧をしました。
派手にならないよう 丁寧に。
爪も切らせてくれなかったおかげで少し伸びて マニキュアが似合う形になっていたので塗りました。

妹にヘアセットを頼んでトイレに行って戻ると 妹が号泣していました。
化粧をした顔は昔の母の顔で少し閉じ切れなかった口元も笑顔に見えるのです。
「おねえちゃん お母さんの顔をきれいに戻してくれてありがとう ありがとう」
と突っ伏してないていました。

その後親戚や母の友人が飛んできてくれ、そのたびに闘病生活を語りました。

寝るところもなさそうだし明日からは実家に詰めるので一度家に戻ることにして今これを書いています。
1週間ぶりくらいのベッド。

家を出る前に父に正座で頭を下げて「お疲れ様でした」といいました。

昇圧剤をはずすことは父にとっても勇気のいることだったでしょうが「お母さんはプライドの高い人だからこれ以上の苦しむ姿はかわいそう過ぎる」と言ったそうです。
母を守るために父は苦しい選択をしてくれました。

母がいなくなった実感はまだありません。

でも母の笑顔のような眠る顔のおかげでここ数週間の般若のような母の顔は少しずつ頭から消えていき、よいことばかりが思い出されます。

「お父さん今日眠れる?」
「一杯飲んで寝るよ おまえもそうしなさい」

そうだね

お母さん
お疲れ様
一緒にビールを飲もう

chick me

2005年06月02日(木) 私のいま&病院の夜 6

私の家族は私のこの日記を知りません。オットは知ってるけどね。
妹が知ったら なぜここまで細かく書くの?お母さんのプライバシーは?って怒るかもしれない。
でも 私は今回のことで 使う薬や病状・進行度合いなど色々ネットで調べたときに「その薬はなんなのか」だけでなく「その薬を使って自分はこうだった」「家族はこうなった」という経験談を知ることができた。
それはすごく参考になったし 母親がこれほどに病気で苦しむのはうちだけじゃないんだと ちゃんと認識することができた。
だから 病状や 母が言ったこと 私が思ったこと をこまごまと書いている。

私の日記であり、同じように苦しむ人に「こういうケースもありますから」と知ってもらいたくて書いているもの。です。
ちっとも参考にはならないだろうけど。

また、私の書き方だと 私がすごく参っちゃってるように思えるらしく 友人たちが心配してメールをくれますが
すいません 多分 皆が拍子抜けするくらい私自身は普通です。
会社で席についた瞬間から【いつもどおりの私】に なろうと意識しなくても なってるし。
会議の内容にぶつくさ言ったり データの取得方法が難しい と駄々をこねてそれを考えた人に「これあげるから頑張れ」とチョコレートをもらったり。
どんなときも携帯を持ち歩き 誰かと話している最中でも電話がくれば必ず出る ということ以外何も変わってない。

そして 病室に近づくに連れて 少しずつ 胃が痛くなるのです。
-------------
20:50
痛々しかった。
両手の拘束はタオルケットで見えないものの右の鼻からの管は胃まで入っており、胆汁や胃液 唾液を常に排出しつづける。
この管は鼻の穴のところを右ほほでテープで固定してあるので顔が引っ張られる感じが絶えずある様子。
管を入れるとき妹は立ち会ったそうだが 母は嫌がって嫌がって、管を入れながら二回吐いたそうだ。
その前に一回だから三回か。

左の鼻の管は気管までで、痰の除去のためだ。
この左のほうは小さい漏斗が差し入れてあり、そこから痰除去用の細い管を出し入れするのだ。
これのため、喉の奥のほうの音がよく聞こえる。

母にしてみれば鏡を見ていないので自分の顔に何をされたか解からないし 両手は少ししか動かせない。
手が動かないということは寝返りを打つことすらできないということで、今はナースが数時間に一度クッションの位置をずらしてくれるのに頼るのみだ。

行ったときは熱が出ていて少し寝ていたのだが 目が覚めた後は苦痛をこらえるように顔をゆがめつづけていた。
また その漏斗のせいで自分の鼻の奥や気管で唾液や痰が絡む音が大きく聞こえる。
母には頭の中でその音が響いているだろう。

鎮痛剤を一切使っていないのでどれほど痛がるかと怖かったが、声を出さない。
たまに小さく唸るが 後は歯を食いしばったり目をぎゅうっと閉じたり 下あごを突き出して辛そうな目をしたり。
じゃあ日曜にモルヒネを増やしてからこっちのまる3日間続いた奇声とあの形相は一体なんだったの?

この絶え間なく吐き出される体液が苦しかったということ?
そして、痛みを取り除くためのモルヒネが多くて母をおかしくしていた?

一度使った鎮痛剤を使わない というのはかなり思い切った決断なのだが このままでは呼吸抑制と血圧低下が続いてショック死してしまうので 父が担当医と相談して決めた。

とても不自由で苦しそうだが 突発的に吐いたりすることがないだけでも 負担は少ないと思う。

22:40〜3:00
叔父がくる。しばらく母の様子について話した後「あの奇声がないだけマシやかね(=マシじゃないか)。」と言った。
私はちょっと気分を害した。
確かに聞いているこちらもおかしくなりそうな叫び声だったけれど なにかを訴えたくてあげていた声かもしれないし今となってはモルヒネが多すぎたせいかもしれないのだ。
母の言葉にならない何か を聞いてきて辛いからなくなってよかった で切り捨てないで欲しい。
そして、前夜は殆ど徹夜だった叔父はソファに座って10分しないうちに完全に寝た。でっかいいびきつき。

今日はさ 新しい対処をした初日の夜でしょ?
お母さんも管が苦しくて全然寝付けず ずっと首を動かしたり 辛そうにしたりしてるの。
その横で来るなり大いびきで爆睡するって すごく可哀相なことじゃないかな。お母さんは意識が戻ってるから多分苛ついてるはず。
今日だけで3度吐いて3回着替えて 管まで入れられて 手も拘束されて 体力も落ちててすごくきつい状態なのに眠りたくてもなかなか眠れないのに、せめてお母さんが寝付くまで見届けてあげなかったら あまりにかわいそうだ。

大体呼吸がおかしくなったりしたときにすぐ気がついてあげるために病室に泊まってるのに呼吸どころか 痰の絡む音が大きく聞こえる状態であっても叔父のいびきで聞こえないよ。

もうホテル代あげるからその辺に泊まってくれ!って何度も起こしたい衝動に駆られた。
私だって昨日先に寝たけどさ それでも1時半過ぎるまでお母さんの様子をうかがってたよ。
叔父がソファを占領したら私は横になることもできやしない。

と、大変情けない思いで母のそばのいすに座っていた。

見回りのナースが「すこし娘さんも休んでね。今日はナースが多いから、なんだったら話し相手にもなれるわよ。」と言ってくれたがこんな熟睡してる人間を残して病室を空けられるんなら 泊まらないよ。

3:00過ぎ
血圧は上は90を切り、下は50台。下がってきてしまった。
母はようやく苦しげながらも寝息を立て始めた。
全然眠らなければ今晩困るな と思い 背もたれのあるパイプ椅子に座って 足を同じ高さの椅子に乗っけて 目を閉じた。

4:00
叔父が起きる気配で目が覚めた。
「ソファ占領しちゃってごめんね」
とか言うのかと思ったけど 何も言わなかったので もういいや と思った。
叔父が出るまでまだ少し時間があったが ただ病室にいるだけで何かした気になってる叔父にアレコレ言っても無駄だと思い私はさっさとソファで横になって寝た。

去年 既に体調が悪くなりつつあった母にストレスを与えた叔父。
母は免疫治療中に解かったことだがNK細胞がすごく多かった。多分孫を育てている充実感もあったのだろう。

>>NK細胞(ナチュラルキラーさいぼう 免疫細胞の一つ)
ストレス状況下で、免疫能の低下し、感染に対する抵抗性や、免疫能が低下する。
事例は以下のとおり。
1.NK細胞(natural killer cell)は、ガン細胞、ウイルス、細菌をやっつける。
 NK細胞活性を医学生10人について、卒業式験の最中と試験終了2週間後に測った。
 試験中のNK細胞活性は全体に低値であった。
 ストレスによって、NK細胞活性は容易に変動することが明らかになった。
2.ストレス状況下、リンパ球数およびリンパ球幼若化能を経時的に調べたところ後者は低下。
3.うつ病スコアとNK細胞活性との関連:うつ症状の強いほどNK細胞活性の低下が著明。
4.試験中はEBV−VCA(Epstein−Barr virus viral capsid antigen)抗体価の上昇
 γ一IFN(γ−interferon)の産生低下
 上気道を中心とした症状の発生頻度が増す

(出典)PTM Vol.9, 13(1) FEB., 1998 聖マリアンナ医科大学 星 恵子
(文献)1)星 恵子:ストレスと免疫,講談社,東京,1993,55−57.、6)星 恵子:ストレスと免疫.炎症と免疫 3:81−87,1995.
ストレスが強いとアレルギーの原因となる(朝日新聞1998.4.23)

微妙なバランスで日常生活を保っていた状態に石を投げ込んだのは叔父のした とある事だ。
私も父も妹も それを忘れても許してもいない。
母は、許すといった。だから今こうして病室に詰めるのは叔父なりの罪滅ぼしなのだろう。母のそばにいたいのだろう。
気持ちは解かるけれど。
だけど「土日もずっと朝から晩まで病室にいて、今は毎晩病室に泊まるまでしていて もしも死に目にあえなかったら嫌だ」という理由ってどうなんだろう。
それをいうなら父も妹も会えないことになるんですけど。

二人は会えなくてもいいと思っているとでも?

家族の待機者が入れ替わる不在の時間をついて母が逝ってしまったら それはもう諦めるしかないと思っている。
ただ、皆それぞれに「逝くなら自分のいるときに」って思っているだろう。
それを単に死に目に立ち会いたいだけでいるんだったら 夜は帰っていいから。ほんとに。
そのうち私と交代で泊まるとか言ってるけど 日中いられない分夜はいたいんだよ。
なんで散々お母さんに苦労かけた叔父さんに私の時間を譲らないといけないのか解かりません。

察して欲しい。

5:00
起床。
母ももう目が開いている。そしてあのグロロロロという絡む音をさせて辛そうにしている。
唇の内側と舌を湿らせる。嫌そうだが 我慢してもらった。

chick me

2005年06月01日(水) 病院の夜 5

22:00
あわただしく夕食を済ませて病室に行くと父が残ってくれていた。
今のサイクルは

6:30〜 妹
14:00〜 父
21:30-22:00〜 私/叔父
4:00 −叔父(出勤)
6:00 −私(出勤)

なので、私と妹の間に30分くらいの空白ができている。
が この間断をぬって母が逝ってしまったら それはもう 仕方がないと思う。皆精一杯だ。

23:00
叔父がやってくる。ていうか、夕方の電話では21:30には行くからゆっくり仕事してきていいよとか言ってなかった?
遅れるんならメールして欲しい。

私は別に夜1人でもいいんだが(っていうか、ソファに自由に横になりたいのでむしろ1人が楽)叔父はついていたいらしい。
正直言って 1人で静かに本でも読みつつ母を看ているほうがいいと思うときもある。
私のオットは 寝ているときに私が物音をたてるとすぐ起きてしまうので そういう生活騒音はなるべくたてないよう染み付いているため他人のたてる物音がすごく気になるのだ。
雑誌をめくる音 ドアを開け閉めする音 話す声の大きさ

叔父にとってはこれまでの母にかけた迷惑の罪滅ぼしの意味もあるのだろうけれど。

叔父が母にしてきたことを妹は許していない と叔父に言ったそうだ。
叔父は 母という繋がりがなくなったら もう出入りすることはないといった。
それを話すことによって私に何を言ってほしいのだろう。

今は考えたくない。

痰が絡んでいたので吸引したらショックで少し吐いた。今回は殆ど受け止めてあげられた。

6/1
0:20
母が喚いていても 私は眠くなってきたのでうとうとしていたが 叔父が「痛いのはとってあげたい」としきりに言うのでナースに言いに行く。
痛み止めを入れてもあまり効き目がないのを知っていたので それよりも呼吸障害のほうが気になるからあまり使いたくなかったけど 使ってもらう。
(あとで聞いたら お姉さんがお母さんの奇声に耐えられなくて痛み止めを依頼した ということになっていた。まあいいけど。)

1:00
効かない

1:20
効かない

ある程度効いたら途中で眠り薬の点滴にシフトしたいのだがなかなかできない

多分3:00
ナースが点滴を交換しながら何かを言っているのに半分寝たまま返事したのだが 何を答えたのか覚えていない。

5:20
起床。叔父はもう仕事に行っていた。
少し声を出してうめくが 口内を湿らせておく。

以下 妹からのメール。
9:51
着替え中に多量嘔吐した。

10:59
嘔吐物を吸引する管を固定したらしい。それでも口からあふれてくるので3回着替えたという。

12:51
舌が喉の奥に落ちてきているので父が病院にきたら気道確保の管も入れるらしい。

13:01
先ほど入れた管にすぐ手がいく。

13:15
父到着。両手は抑制することにした。

父は一旦顔は見にきたものの1時間ほど用事を済ませなくてはならないらしいので 妹も一度家に帰って食事の支度をしてからまたもどるとのこと。

抑制もそれからかな。

・・・・・抑制まで きたか。というのが正直な感想だ。
会社の喫煙室で誰もいなかったので少しだけ泣いた。


今朝 学生時代のトモダチからメールがきた。
彼女のお祖母さんも似たような状態になったが 体位交換などの際に昔の話をしたり歌を歌ったりしてあげていたらおとなしく言うことをきいてくれた こちらのことを解かってくれた きっとえっちゃんのこともわかってくれるよ。
というメールだった。

うん
こっちの声は届いていると思う。誰なんだか解かっていると思う。
だけどその一瞬後には解からないんだろうね。
「悦子だよ わかる?」に反応してくれたのは30日の朝までだ。
以降「わかる?」ときいても無反応か首を横にふられてきた。
私を私と認識して笑顔を見せて抱きついてくれた28日の朝が遠い昔のようだ。
あれが 母が私だけにくれた最期の笑顔なのか。

その後は 母の苦痛にゆがんだ表情と止まることのないような長い長い悲鳴のような奇声。

誰が自分の母親の両手を縛り付けたいもんか。
認知症が進んだ徘徊癖のある超高齢 ってわけじゃないんだよ?
やっと58歳になった 大事な 大好きな母親なんだよ?

生きるための管。意識と自覚さえあればどんなに苦しくても自ら抜くはずがないものを 抜こうとする状態。
たとえばずっとそばについていたとしても トイレで場をはずす2,3分の間に抜いてしまわれたら?
点滴なら問題ないけど それがまさに生命線となるものだったら??

やりたくない
そんな姿見たくない

だけど そういうアクシデントで苦しませて逝かせる事はしたくない

どうしようもないってこういうことか


すでに血圧は昇圧剤を限界まで使っても上90しかないらしい。
今晩からは呼吸と漏れる嘔吐によりいっそう注意が要るだろう。

chick me
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etsu

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