ユミコのメモ箱
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くやしい・・・くやしいが、旧作のみベニヤに挟んで、四国方面に送る。
ペリカン便に取りに来てもらう。今日で2回目。 ペリカン便のいいところは、最大の(3辺合計の)大きさが170cmなところ。ゆうパックもそうなった。ヤ○トは160cm。この10cmの差は、結構大きい。 それからもひとついいところは、わがアトリエ地区担当のおじさん。いいひと。150cmほどの荷物を、本当なら170cm以内の値段なのに、ワンランク下の140cm以内の値段にしてくれた。軽いからね〜、いいよいいよ、だって。
ブラック・キャット・ヤ○ト便は、とてもうるさい。アクリル額のものとかは、梱包をちゃんとしました、といってもすご〜〜く嫌な顔をされる。だから最近は日通のアロー便かペリカン便にしている。親切だから。
くやしさも、いいおじさんのおかげで、ちょっと薄らぐ。
2004年10月28日(木) |
はああ〜〜〜っ(ため息) |
今日1日、無駄にしてしまったあ。 んん〜〜、まことに口惜しいけれど、いま途中まで制作中のリト新作は、この度の某公募展への出品を諦めることに。 こうなる予感はしてたんだけれど、ギリギリまで粘ってみた結果、やはり。 自分の怠惰さと間抜けさに、只今、自己嫌悪真っ最中。
2004年10月27日(水) |
届きはしませんが・・ |
ヨ◯バシでなかなかいい買い物をする。 ここでわからないことは、店員さんに聞くのが一番。 やさしいお兄さんが、親切丁寧にわけのわかっていない客(私)に教えてくれた。 ちょっとシャイな感じのお兄さんだったので、「さあ、これで私のアシストはおしまいです、あとはレジの担当者にお任せ下さい、さようなら」のタイミングがつかめず、あれだけ買う予定もないものの説明までしてもらったのにちゃんとお礼が言えなかったのが心残り。ポイントもすっかり上手く使い切ったので、今度はいつ行くかわかんないし・・この場を借りて感謝申し上げます。
久しぶりにリト版描画。…5ヶ月ぶりか? 今回は版も紙もつなげて、ちょっと大きめに。 うう〜〜ん、たのしいかも。
リト(版画)は、油絵のように描きながら結果が見えず、結果を想像しながら描いてゆくところが、いい。 (だから結果=刷り上がりを見て、そんなはずじゃ…ということもあるが、それもまたよし。)
川村記念美術館の『ロバート・ライマン展』を見に行く。
衝撃。 気持ちのよい空間。 ライマンの言葉、一言ひとことが、胸に刺さる。 もっと早くに見に来て、もう一度、見に来たかった。が、明日が最終日。 十年前の南フランス旅行で行ったシャガール美術館の時に匹敵する、衝撃。
表現って、なんだろう。 と、そんなことを考えさせられた。
偉そうに、「表現、表現」と言って、何をどんな風に描こうかなどということにとらわれて、そしてそこにあれこれ思想を詰め込むことに躍起になって、果たしてそれが表現と言えるのだろうか、と。
もう、後付けみたいな表現(とやら)は、うんざりなのだ。
もっと純粋なもの。 そうそう、子どもの描く絵のように。 そういう、作業的な、無心な、とらわれることのない線や筆跡に、 かなわないのはなんなんだろう、と、考えてしまう。
ライマンの『白』は『隠す』という意味合いがあるけれども、 新月が『無』ではないように、雲に隠された月明かりのように、 そこには何かが必ず存在していて、作家はそのことを知りつくしていて、 見る側がそこに何を見い出すか、もしくは『無』とみなすか、 そこが主題であり表現であり本質なのだと思う。 何かを伝えることではないのだ。存在を知らしめることでもない。 存在の可能性を提示すること。 もっとラフで、単純で、結論の一歩手前で、いいのだと思う。 『省略』や『削除』の行き着くところに本質があると思う、 表面的、技法的なところで、そう考えてきたが、 もっと、私(作家)自身の考えや思いをも、削っていかなければいけないのかも、 というところに辿り着いた。
今日、TVで山本容子が『消しゴムで消さない人生』について語っていた。 消しゴムで消さないことと、白で隠すこととは、矛盾しているようで、結局のところ同じことのような気がして、今日一日の私の収穫した情報が、ひとつの線に繋がったとひとり思い込み、妙な充実感。
10cm×15cm 鉛筆、木炭
「もうしばらく絶対に制作意欲がわかない気がする」と昨日人に断言したのに、今日はおもいっきり制作モード、スイッチ・オン。 どうしちゃったんでしょう、自分でもある意味コントロール不可能な部分である。
あ、でも、公募の締め切りが間近なんだけど。
久しぶりに本屋に立ち寄る。 欲しい本は特に見当たらない。 『クーヨン』と『こどものとも』の11月号を立ち読み。
台風・・・当たり年か。折角の秋が、雨続きでうんざり。
何かしたいんだけど、何をしたらいいのか、わからなくて悶々。 やらなくてはならないことは、いくらでもあるのだが・・・ しかたがないので、なんとなく『自分はどういう思いで絵を描くのか』について、ちょっと考える。先日の個展で、聞いてみたい、と人に言われたので、あたらめて。
で、とりあえず最近の興味は、そんな自分のためにやさしい環境づくり。 ま、テスト前に部屋を片付けたくなる高校生、みたいなもんだ。
悶々としていたことを話して、清々しい心持ちでまめぞうラーメンを食す。
この夏の猛暑を乗り越えられなかったかわいそうな苔玉にかわって、活き活きしたのを手に入れる。本棚に飾る。
絵を描きたい・・・という気持ちは日々高まりつつあるけれど、体も頭も最近眠い。脳みそがすっかり休んでしまっているようだ。
そういえばこのところ、TV番組から多くの刺激をうけている。 最近ではコシノジュンコのドキュメント番組やユーミンの番組、それから誰でもピカソで特集してた華道と茶道のお家元の話。金八先生もちょっぴり。 特に、お家元が次期家元に言ったひとことは、自分が言われているみたいでドッキリした。「行き詰まったときにどう過ごすかが問題だ」みたいなこと。あと、あややの歌う「ひこうき雲」とユーミンの歌うそれについて。これも痛い。
帰りの電車で、ななめ向側に座っていた女の子が正面の寝ている女性やその隣の本を読む女性を一生懸命スケッチしていた。久しぶりに見た懐かしい光景。
彼女につられて、一駅だけ、まだ手付かずの振作について思う。
昨晩、久しぶりにカッターナイフで指を切った。
今までのパターンは、紙を切る時定規を押さえる左手の親指が定規からはみ出していて、はみ出していた分だけ指先を削いでしまうような切り方が多かったが、今回は何十枚も重ねた紙に定規をあててひとすじ切り終えた瞬間、もう一回同じラインをなぞるために出発点に戻そうとしたカッターナイフが定規を押さえていた左手親指の根元のクリクリした関節のてっぺんを削ぐようなカタチで当たってしまった。傷口はL字型、深さはそれほどでもないが、一辺5mmほどでペロンとめくれ(はしないが、可能な状態)るから痛い。関節なので、親指をまっすぐにのばして傷口を固定できればきれいに繋がりそうだが、曲がっている状態のほうが自然だしそうなると傷が開いてしまう。そのうえ左手とはいえ気を付けていてもどうってことない動きでつい親指をグッと曲げてしまうとその度に塞ぎかかった傷口が開くらしく、痛い。場所的に自分の体やモノにぶつけやすく、それはもっと痛いし、2枚に重ねた絆創膏に血が滲む。洗顔洗髪風呂雑巾絞りその他水仕事、時間がかかるのが不便。重い荷物の出し入れ時など、意外な動きで皮膚がつれて痛かったりすると、ああ、今、ここの皮膚がつれてるつれてる、などと思ったりして、この連休の肉体労働で養った筋肉痛を感じる時もそうだが、自分の動態で使われている皮膚や筋肉のことを痛みによって考えたりしているのがちょっと面白い。
体調、昨日朝から急激に崩れる。 風邪か?肩凝り悪化のためか?
とりあえずのどの痛みは『イソジンのどスプレー』と『はちみつきんかんのど飴』で集中治療し、肩凝りは酒と湿布でごまかす。
2004年10月07日(木) |
ジョアン・ジルベルト |
in 東京国際フォーラム。
大当たり。 開始が3〜40分遅れただけで、噂に聞く中断も無く、ダダ−ッと15曲ほど。アンコールでは7〜8曲も。ジョアンおじいちゃんノリノリ。2時間があっという間だった。
途中、ギターの音か、ジョアンの声か、わからない響きが3回ほどあった。うっとりした。
手首や指が疲れたようで、後半の曲の合間に手を何度ももぞもぞとやっていた。アンコールも半ばでは、声がかすれて力も薄れ、ギターのキレが無くなってきたけれど、そういうところがまた実に人間味があってよいと感じた。神様も人間。ラストのイパネマはやはりちょいと嬉しかった。
ああ、なんか生音楽って、やっぱりいいね。
昨晩寝る直前に、PCがフリーズした。 朝、PCを立ち上げたら、見たことも無い画面があらわれ、それ以上うんともすんとも言わなくなった…という夢を見た。
リプトンのリモーネ500MLペットボトルについてくる、ムーミン・フィギア、全6種。 昨日、とうとう最後のひとつムーミンママをめでたくゲット。もちろん中にどれが入っているかわからないので、手探りで「これはスナフキン、これはミィ・・」と見分けてきた。初めの頃手探りを怠り、続けざまにパパを3つも揃えてしまったが、その後は慎重にカタチを捉えて、重なること無く揃えた。ムーミンとママの見分けがつきにくいのがミソですな。
元来あまり生活に変化を望まない質である。
子どもの時から、クラス替えとか、席替えとか、新学期とか、中学進学、高校進学、大学進学とか、が、嫌いだった。幼稚園の時に親の転勤で園を変わった、それもすごく嫌だったことを、それなりに憶えている。登校拒否こそしたことはないけれど(大学のときは登校を拒否して画廊や美術館巡りに出かけたことしばしば)、特に春はそれに近い心理状況で過ごしていた。
大学を出てから、そういう『生活の変化』が、極端に少なくなった。 数年おきに仕事場はすこしづつ増えたり減ったりしているが、基本的な内容に大きな変化はないし、制作や展覧会に関しては自分の意の通りに進めていることだから『生活の変化』という点では、どうということではない。
だがしかし、前進という名の変化とは、無縁ではいられない。 でも今までの『前進』は、なにはともあれ楽しいものであったような気がする。
今、『前進という名の変化』に大きく窓を開こうとしているポジティブな自分と、物凄く拒んでいる元来の自分とが、共存していてなんだかこまる。
今日の月を見た人はいるでしょうか? 低くて、大きくて、赤い月。 ちょっと、怖いくらいです。魅惑的です。
これって、時間帯によって、変わっちゃうのかな? ちなみに私が見たのは、20時ごろ。 今はどうか・・・ベランダからは見えない。
見えました。北向きの窓から、東の空に。 程よい高さに、程よい大きさ、色も普通でした。
赤い月は、貴重なのね。
2004年10月01日(金) |
目を瞑って、前向きに。 |
個展中なので、毎日のように自分の作品に囲まれて過ごしている今日この頃。 言ってみれば自分自身と向き合う日々だから、嫌でもいろいろな思いに駆られてしまう。 自分(作品)が、どういう方向に行こうとしているのか、どこへ行きたいのか、なにを求めているのか、なんかちょっと見えなくなっているのは気のせいだと言い聞かせながら、今月久しぶりにリト新作を作る予定。
先日、マッサージをしてもらった先生に、「あなたの肩凝りの原因は、疲労じゃなくて、神経。頭の使い過ぎよ」と言われた。思ってた以上に全身ガタガタで「かわいそう」とも。ふふふ。
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