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神殿の朝。
カノンは早朝の職務を済ませた後、軽い朝食を取った。
今日はブルーが先日指定した約束の日だ。
彼にとっては時折起こりえる出来事のひとつに過ぎないせいもあってか、
とりたててその行動に変わりはなかった。
ただ、無鉄砲で考え無しに見える約1名の街人に多少イラつかされているだけだ。
いや、街人と言うには、連れているものが尋常ではないのだが。
それでもその『尋常ではない』ものは毎日神殿に通って来て、
子供達の中で問題なく過ごしている。
勿論、ひとたび何かが起これば即座にしかるべき処置を取れるよう、
注意は怠っていない。
そうして何気にずっと『ルー』を見ているが、
それは普通の子供としかいいようがなかった。
体の構成、魂の有無ですら問題にならないくらい、子供らしい子供。
ひとつだけ挙げるならば、彼には悪意がなかった。
普通ではありえない程に、善意と好意しか持たなかった。
それはそれで好ましい事ではあるが、例の連れがああだ。
こんな出来過ぎた『子供』が何故....。
一体彼は何故、こんな『ひとがた』を連れている?
侮っているつもりは無いが、彼はどう見てもただの獣人だ。
特に闇だの魔術的な要素も見当たらない。
だがルーの胸にあるものは普段の自分の目ですら眩ませて、
密かに燃えていた。
そしてブルーの太陽光への異常な反応。
もっとも、それが彼とルーの間に種族的、血縁的な繋がりが
全く無いだろうと思われる根拠であり、証明のようでもあるのだが。
仮に、魔術師が人工的に『生命体』を作り出したとしても、
ここまでのものは国家レベルでしかあり得ない。
それでさえも、大半の例が失敗に終わっている事をカノンは知っている。
数少ない成功例も、希に要人の影武者や重要な機密に従事させる事はあるが、
必ず秘密裏に全てが運ばれ、それが一般の目に晒される事などほとんど無い。
あんなに堂々と街中を歩いているなんて、とんでもない話だ。
仮説を立てるなら、盗み出されるか逃げるかしたものを
プルーが何処かで拾った、というのが妥当なところだろう。
どう考えても彼が盗み出したとか、直接関連している気配はない。
あの青年はあまりにも迂闊で、先のことを考えなさすぎる。
魔鳥の幼生の時も、あの様子では何処かの悪い商人に騙され、
押し付けられたというのがオチだろう。
殺されたものへの反応を見れば、大体その人間の本質はわかる。
人間ならまだしも、動物で狼狽えているようでは――――――
生き死にの仕事に関わってなどいられまい。
普通程度の『善人』ではあるのだろうが、彼は自覚の無い愚か者だ。
放っておけば同じ愚を何度も重ねるだろう....
「大バカ者には口で言ってもわからないか...」
カノンは銀色の棍を取り出し、磨いた。
チンピラや小悪党など『普通』の人間の相手は、そもそもカノンの管轄ではない。
町の治安を守る専門の組織は別に在るのだし、多少のもめ事程度ならば
本来そちらに任せてしまうのが常だ。
だが、この件については、連れているものに問題が在りすぎる。
何か面倒が起きる前に、相応の手は打っておいた方が無難だ。
そのためにはまず、あの自覚の無い馬鹿者からきちんとした事を聞き出し、
『子供』の事を調べなければ。
既にそれとなく問い合わせは出してある。
『裏』に関連する機関で人工の生命体の不始末がなかったかどうか。
この街は穏やかで、何もやる事などないと少し油断があったか...。
カノンは軽く銀棍を振った。
無駄がひとつもない、流れるような動作。
完全に己と一体化した武器。
ブルーへの自信は奢りではない。
自分の未熟さを知らない子供に突っ掛かかられたような気分で、
カノンは溜め息をつき、棍を下ろした。
ブルーは『武術の手合わせ』などと言っていたものの、
その内容が喧嘩レベルでしかない事ぐらいは明白だ。
相手が素人で『普通』のヒトであろうと、手を抜く気は一切ない。
手加減は必要だが…それも相手の出方によってはどうなる事やら。
迷惑な申し出に幾度目かのため息を吐きながら、
カノンは子供達の教室に目を向けた。
笑い声と歌が聞こえる。
問題はないようだ。
多少歌詞の内容が無茶な気もするが、困るような事でもない。
他の司祭なら真っ赤になって怒りだすようなシロモノでも、
カノンにとっては微笑ましい程度でしかないものが多い。
注意すらせず済ませてしまう事もしばしばだ。
その辺りが、カノンと他の司祭達との明確な違いだった。
夜、街で暴漢に出くわした時の方が、日中神殿での務めを果たしている時よりも
目に生気を宿している。
にこやかな司祭に一度でも『注意の実力行使』を受けた暴漢は、
彼の姿を見ただけで逃げ出していく。
神殿の司祭の一部はカノンをこう呼ぶ。
『破戒司祭』と。
ブルーはここ数日機嫌が良かった。
ぞんざいな名付けのまま定着した『ルー』に悩みもするが
取り立てて腹を立てる程じゃない。
特に神殿へやってから、かたことながら
言葉や意味も理解しはじめたようだ。
但し、時折良からぬ単語がとんでもない場で飛び出しては
酒場の人間やブルーをあわてさせた。
それでもブルーは年の離れた弟を持った兄のように
辛抱強く手や足が出るのを我慢できた。
つまり毎日に不満がないという事だ。
「ブルー、お前最近よく歌ってるなあ」
酒場の店主が夜の開店準備をしながら声をかけた。
ルーはそろそろ神殿から戻る頃だ。
「あのじいさんの楽器の調子がいいんですよ。
オレも芸術には理解を示す人間だから
いい音聞きゃ歌いもするさ」
「なぁにがお芸術かね。歌はいいとして酔っぱらって
脱ぐのはやめてくれ。昨日はあのじいさんまでやりやがった。
それでなくともあの子の教育上よろしくない」
「乱闘、イカサマよりはマシでしょうよ。女性客は喜んでた」
「...お前、そういう奴なのか?」
「そうだよ」
「女性ってお前な...
ああ、そう言えば最近デライラはどうした?」
「ああ、あいつなら獲物漁りじゃないですか」
「は?なんでもいいがどうせ踊ってくれるんならこう
キュッとボーンの...」
「聞かれたら殺されますよ。こないだ声かけた奴が
返事抜きで股間蹴り上げられてた」
ブルーがふざけてその時の男の様子を真似た。
「やめないか、ルーが真似るだろ」
「あいつはルーよりサルだ」
「ああ、なんて気の毒な子供なんだ...こんな親父」
「オレはそんなヘマやらねえって。あいつは朝起きたら
頭から生えてたんだ」
「お前、開き直ってるだろ」
店主は肩を竦めると、火にかけた鍋を見に行った。
ブルーはニヤつきながらフードを被り直すと手斧で薪を割りはじめた。
力仕事を引き受けて嫌な顔ひとつしない。
重い瓶が入ったケースも担いで歩き店主に喜ばれた。
夜になれば伴奏屋と歌で客を盛り上げる。
申し分のない店員だった。
空いた時間があればブルーは体を鍛え、隣でルーがそれを真似る。
腕立て伏せをするブルーの隣でルーがお尻だけを
ひょこひょこやっても好きにさせていた。
スポンジが水を吸収するようにルーはいろんな事を覚え始め
ブルーのあとをついてまわる。
そんな寛大なブルーだったが一度だけルーを殴った。
浴室でシャワーを浴びている時だった。
ルーが浴槽の縁に顔を乗せ、ブルーの後ろ姿をじっと見ていた。
宿泊用の浴室には数人の客もいる。ブルーは地上の習慣に従って
水も浴びるようになったが髪を洗え、と石鹸を渡された時
海の名残りを残した呼吸器官に大ダメージを与えて以来
水だけを頭から浴び続ける。そんなブルーの背中を見ていたルーが
突然大声で叫んだ。
「ブルー!お尻割れてる」
居合わせた客がブルーをはがい締めで止めながら笑い転げ
ちょっとした乱闘騒ぎとなった....
もうすぐ例の日だ。
あの上品な司祭を一発でもボコれれば...。
彼の言う事は百も承知だが黙って従うのはプライドが許さない。
ルーや自分の事も話せ、と言われて何から話せばいいのか
考えるのも面倒だった。はい、人を喰いました、なんて未知の人間に
ぺろっと喋るバカはいないだろう。
そんな事を考えながらブルーは毎日準備に余念がなかった。
オレは普通に毎日を送りたいだけだ。
司祭も一発殴ればそう突っ掛かる気もしないだろう。
平和的解決だ。
今じゃ人喰いの記憶も曖昧でこのまま地上人として生きていけそうな
気がしている。もしかしたらもうアレさえも
じじいがなんとかしてくれたのかもしれない......
デライラが戻ればルーを連れて自分にふさわしい場所へ行くのだ。
例えばスラム。
もう子供じゃない。
大人達に左右される弱い存在ではないし、『自由』がある。
ブルーは泣きたくなる程嬉しかった。
過去は捨てていいのだ、と登る太陽に叫びたかった。
お前になど邪魔はさせない、と。
隣で眠るルーの横顔に自分の幼い日を思い出しながらブルーは
過去を思い出していた。
強い事が全てだ。弱ければ御される。
強ければ....
顔が半分崩れた少女の事やしつこく付きまとった人魚の言葉を思い出す。
『...だけどぼくには勇気がない....』
弱虫め、と小さく呟いて夜空を見た。
そうだ、幼い頃憧れた獅子の心臓。
もう後に戻れない場所にいる。あとは行くしかない。
一番最初の壁はあの司祭だ。
オレの過去を彼は引っぱり出そうとしている。
そう簡単に従うと思ったら大間違いだ。
オレは自分の意志で生きている。もう人なんか喰わない。
いや、もう誰にも騙されないし、いいようにもされるものか。
片腕の男の立っていた位置にオレが立ってやる。
騙される奴が悪いんだ....
ルーがシーツを蹴り落とした。
お腹が覗いている。
拾い上げて戻すとひとり机に肘をついて
リラの事を思い出して祈った。
海流の神殿にいた頃覚えさせられた死者への祈祷。
まだ彼女が死んでから一度も祈りなどあげていなかった。
ブルーは明け方までずっと去って行った人を偲んで祈り続けた。
あの頃のリラの目に映っていた自分はこんなだったんだろうか、と
時折ルーを眺めながら。
星は明け方のドーンコーラスに変わり白々と明けゆく空。
太陽が昇って来る。
ブルーは窓に拳を叩き付けると大声で叫んだ。
「Fuck You!!」