草原の満ち潮、豊穣の荒野
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52 Something to Talk About 4 野良犬





「すみませんがオレの事はほっといてもらえませんか」

ブルーは仏頂面で一枚のシーツを頭から被り直した。


「ここが神殿でなく余所なら、そうしてやりたいところだけれどね。
君も別に泊まっていきたいわけじゃ無いだろう。
そろそろ起きなさい」

司祭の言葉にしぶしぶとブルーが野良犬のように顔を出した。
口の中で誰がこんなとこ泊まるかよと悪態をつきながら。



「帰る。ガキはどこです」

「ルー君なら陽が沈む頃までナタクと遊んでいたよ。
今は、外で君が来るのを待っている」

ブルーは司祭の顔を見ずに自分の外套を拾い
ドアに向かった。


「ブルー殿、同じ事を何度も言う気はないぞ。
あの子を魔物の幼生の二の舞にするもしないも、君次第なんだ」

「司祭様。あんた確か武術もそれなりにやってたんだっけ?」

「カノンでいい。それが何か?」

「手合わせ願えないですかね」

「....。」

カノンは顎に手を添えるとしばし考え
聞き返した。

「何故そんな事がしたいのか、一応訊こうか」

「いいかい、司祭様」

ブルーがゆっくり振り返ってカノンを睨む。

「未知の人間は腕で判断する事にしてますんでさ」

「...なるほど。だが、やめておいた方がいいと思うよ?」


ブルーがせせら笑った。

「だろうね。だがこれは実戦じゃねえ。
オレだってバカじゃない。あんたのあの時の気配を一度でも感じりゃ
逆らわねえ方が利口だろうよ。だから
武術の手合わせ、ってコトで頼みますぜ。
妙な呪文やらはナシだ。それで文句なしに強ければ
オレはあんたに敬意を払うし話すべき事も話す。
オレはそういうルールでしか動かねえ。
それでどうだ?」

「それで本当に君の気が済むのならいいさ。
もっとも、敬意はいらないよ」

「勝つ前提かよ」

「最初から負ける気で受ける馬鹿がどこにいる。
自分のルールを掲げて粋がるのは君の勝手かもしれないが
人が多く暮らす場所に入れば、相応に周囲に併せる事も覚えて欲しい。
それだけだ」

「ふん、ひとりじゃルールもクソもねえだろうよ。
文句がありゃ叩きのめされる事くらい承知の上さ。
但し、簡単にゃやらせねえ。ま、なんでもいい、承諾だな。
あんたはあの棒みたいな奴を使ってくれ。その代わり
こっちは獣人なりのやり方でやる」

「場所は?」

「森だ。泉のある場所でどうだ。7日後の深夜に」

「了解した」


ブルーは馬鹿丁寧な仕種で礼をして見せると
薄笑いで部屋を出て行った。
真っ暗になった部屋でひとりカノンが呟く。

「僕のルールを通していいなら
即座に大人しくなるまでぶちのめした後
人の話を聞く気になるように炎天下の砂漠に
放り出してやるところだがね......。
判ってないにも程がある」





神殿の中庭。

「ルーくん、届くか〜。ほれ、おっとっ」

ナタクがルーを肩に乗せ何やら叫んでいる。



「すみません、待たせちまったみたいで」

「おー、ブルー殿。もうええのか?あ、ちょい待っててな。
今そこの赤い実ぃ……どわっ」


木になった果実をもごうとしたルーの手から
赤い実が滑り落ち、酒屋の口に飛び込んだ。

「ぐぇえ!ルーくんアカン、これめちゃすっぱマズ過ぎるわっ」

青い子供を肩から下ろすと半分になった果実を見せた。
ルーはまじまじと見ている。

「あの...ナタさん...さっきは..」

「あああ!!ルーくん、食えん云うたそばから口に入れんなーー!!」

「.....」


大人二人が子供を覗き込む。
こともあろうに彼は受け取った果実半分を丸ごと口に
放り込んだのだ。りんご半分くらいはある。

「ルーくんぺっや、ぺっと出し!不味い上にそんな塊
喉につまったらどーすんねんっ」

「お..おい、こら。吐き出せって」

子供は頬をげっ歯類のように膨らませ何度かもぐもぐと咀嚼すると
飲み込んだ。

「あ〜〜……食うてもうた…。無茶やなぁ、大丈夫かいな」

子供がけらけら笑い出した。
大人二人は不安そうに顔を見合わせている。

「...なんか嫌な笑い方しやがるな」

「なんや笑い茸でも食うたみたいな......って、どないしたルーくん」

笑いまくる子供の目からぼろぼろ涙がこぼれて
鼻も頬も真っ赤になってきた。


「...笑いもって泣いとる...。しゃーないなぁ」

ナタクは子供の頭を慰めるように撫でる。

「多分、よっぽどまずかったんだ...」

「ブルー殿、やっぱルーくんにはちゃーんといろいろ
覚えさしたらなアカンで。
ナリはおっきいけんど、中身が幼児並であぶなっかしいわ」

「...オレもそう思います。もうこんなガキ付き合いきれねえよ。
せめて意志の疎通くらいは..」

わんわんあははと奇怪な泣き方をしている子供を宥めながら
酒屋が帰ろう、と歩き出した。

「まあ、何か美味いもん食うたら泣きやむやろ」

「....」


ブルーは歩きながら酒屋を見ていた。
彼は何も聞かない。
ルーのやった事と自分の状態を彼は見てたんじゃなかったのか。
だが聞かれても困る。
わからないとしか言い様がない。
気を使ってるのか酒屋はずっと何もその事には触れなかった。
道すがらくだらないバカ話やルーのスカート姿の事など
そんな事ばかり話して彼は宿へ帰って行った。








いつもの酒場宿。
ルーはとりあえず赤くて甘いシロップ入りのソーダ水をもらって
泣き止んだ。酒場の主人が用意してくれた食事をすませ、いつも通り
伴奏屋と軽く唄い、商売物を広げる。
ルーは厨房で時々物を運びささやかに手伝っている。
弦楽器の音と賑やかな常連達の合唱が響く。

ブルーはそれを聞きながらほくそ笑んでいた。

あの野郎を、やっとボコれる。奴はどうかすると自分より細身だ。
身長はあるが格闘で作った体には見えねえ。
となると多分、呪文だの小細工を併用しているに違いない。
それさえなきゃ勝てる。


ブルーはどうしてもカノンを殴らない事には気がすまなかった。
理由はない。
ただムカつくのだ。物言いといい、やる事なす事
全てが気に入らない。そんな人間に一番見られたくないものを見られた。
どのみちルーがいて、ナタクもいる以上、話すしかないだろう。
せめてムカつく司祭を一発ボコればすっきりするかもしれない。
これはプライドの問題だ。

まともに突っ掛かれば得体のしれない術でやられる。
森での気配は尋常じゃなかった。そこで奴の術を封じる。
あとは体力と格闘センスの問題だ。こっちは10人相手までなら
場数だって踏んでいる。場所も水場だ。


「へっ、あの司祭野郎バカ正直に要求を飲みやがった。
お上品な育ちの連中にケンカでやられるようならオレも
もうダメって事さ。要は勝てばいいんだ。勝てば」




姑息な手だがどうせいなくなるからかまわない。
それでもナタクにはあまり迷惑はかけたくない。
ルーも彼に懐いて見える。適当に話して
後は問題を起こさないようにおとなしく過ごせばいいか。
どうせひと月だ....




「おい伴奏屋、頼むよ」


楽器を抱えた男に声がかかる。彼はもう伴奏しない伴奏屋では
なかった。毎日大忙しで演奏しまくる。
疲れるとブルーが引っぱり出された。

「おい、ブルー。お前代わりに弾いてくれ」

「承知」


ブルーは楽器を弾けなかった。それでも。
歌う酔っ払いの親父達に合わせて美しい音色が追っていく。
伴奏屋の時よりもそれは完璧だった。

「おい青小僧、その楽器手で弾かねえのか」

酔っ払いが赤ら顔で尋ねてきたが、ブルーは笑って答えない。
彼は『唄って』いた。
楽器の音と同じ波形を作って吐き出しながら。


その夜ブルーは上機嫌でいつもより多く唄った。
ルーはそれを聞きながらすやすやと眠り、店主がそっと抱えて
ベッドに連れて行った。



今日は悪くない日だ。













51 Something to Talk About 3 No, I don't have a …

その朝、彼はいつものように娘の歌を聴いていた。
人魚の娘。
移民の夢を歌に託して彼女は歌った。
様々な言葉を選び抜き、繋ぎ合わせ
祈り、願い、希望を歌う。
彼はそんな朝のひとときが好きだった。

「愛してます」

「...えっ!?」


人魚の娘の唐突な言葉。正しくは『歌詞』
彼は長い銀の髪をくしゃくしゃにかきながら狼狽した。
くすくすとまわりから笑い声が漏れる。

「あの若先生はあの子が好きなんだよ」

小さな子供が囃し立てるように叫んだ。

「これっ。失礼だよ。お黙り」

「だって怪しいよ。なんか真っ赤になってるし」

「すみません、まだ子供ですから...」


子供の口を塞いで毋親が詫びたが彼女の目も笑っている。

「...いや...その私は別に...」

「別になあに?」

人魚が銀の髪の若者に詰め寄った。


「あはは!若先生が逃げ出したよ」

「恥ずかしがらなくてもいいだろうにねえ。
若い者同士なんだから」


人魚を囲んで座っていた人々が笑い合った。
地上へ行く日が近付いてくる。
海を思いきって離れ新天地を目指すのだ。
銀の髪の若者は密かながら壮大なプロジェクトに
携わる研究者のひとりだった。
度重なる海底の変動で海で暮らす者達は追い詰められていた。
乏しい食料、厳しい環境での生活、病の蔓延。

密かなこのプロジェクトは口べらしでもあった。
それでも知恵あるものはなんとか生き延びる事を
考え続け、ありとあらゆる手段を試してきた。
成功すれば地上で生きのびられる。
海と地上に別れて、安定した頃に戻るのだ。
それが自分の生きている間なのか子孫の代なのかは
誰もわからなかったけれど。



古い童話をシンボルに彼等は祈り、危険に臨んだ。
海に残っても餓えか寒さで死ぬ。
ある毋親は3人の子供のうち2人目が死んだ朝、
末の子の手を引き海を捨てる決意をした。
ある男は息子夫婦に黙って志願した。
またある若者は新しい未来に胸を弾ませやってきた。
誰もが絶望的な未来から少しでも光を掴もうと願っていた。


そして、銀の髪の若者もまた、その重さを若いながら
背負い、宿命として人生を捧げようと決めていた。
小さなどんな可能性でも偶然でもいいから必ず彼等を
地上に、と強く願っていた。

あの人魚の娘の為にも。




彼の上司は黒い髪で背の高い男だった。
あまり喋らず冷たい感じすら漂わせている。
銀の髪の若者はいつも彼に従って働いた。
無駄のない的確な采配。ただ従っていても何ら問題などない。
信頼と使命感で送る毎日は彼にとって充実したものでもあった。
ほのかな恋心まで加われば人は無敵にすらなり得る。

尤も人魚の方が彼をどう思っているかはわからなかった。
思わせぶりな恋の歌でからかっているだけかもしれない。
彼は時に高揚と失望に揺れ動きながら日々を送った。
生体実験に突入した時すら、人々は恐れなかった。

背後には死。
それよりは遥かにましだと少々の勇気を焚き起こし合い
神の加護を祈った。
そこにいる全ての人々が皆同じように。

結果はまだ出ていない。



銀の髪の若者は眠る度に南の浜辺を夢見た。
人魚の歌でそれは彼の胸にいつか訪れる現実の風景として
刻み込まれていた。

移民。壮大な計画、無謀な夢...熱い焔...見開かれた瞳の赤...

『むかしむかし.....』




「わあっ!!」

叫び声と共にブルーが飛び起きた。
数枚かけられたシーツが床に散らばる。


「ブルー殿、具合は?」

カノンが声をかけた。
夕刻、薄暗い神殿の待ち合い室。
ソファで眠り込んでしまったのか目の前には応接用のテーブル。
夢を見ていたんだろうか。思考がよくまとまらない。


「ブルー殿?」

カノンがもう一度声をかけた。

「あ...そうだったっけ...」

ブルーが小さく舌打ちした。
そうだ。この司祭の前でオレは...
くそ、なんてヘマをやらかしたんだ。


「すみませんがオレの事はほっといてもらえませんか」

ブルーは仏頂面で一枚のシーツを頭から被り直した。



ひでえ目覚めだ。








50 Something to Talk About 2  Remembrance Day


ある記憶。



月が出ている。
波の寄せ返す音だけが響く。
乾いた潮風がひりついて痛い。

ここはあのじじいの海のようだ。
幻の浜辺。
ずっとずっと昔から聞いて夢見た浜辺。
いつしかその夢は子供時代の
記憶の彼方に放り込んでいた。

誰もいない。
じじいも人魚も海人も。
二本の足で歩いてみる。重い。
砂地は今までいた所と似ているが
とてつもなく体が重い。
引き摺って歩いてみる。
やや離れた場所に死体が転がっていた。

手を空に伸ばし開いた口。
目玉は飛び出し人相も変わり果て...

自分もこうなるのか?
たまたま運良く無事地上に出ただけなんだろうか。
もうひとりの囚人も何処かで死体になっているのだろうか。

暗い海。
月明かりの下以外暗闇。
星もない。
白い波だけが化け物のようにうねる。

熱い。全身がひりつき浅瀬に倒れ込む。
そのまま深い沖を目指した。
戻ろう。こんな幻の海から元の場所へ。
生まれた深海へ。

「!」

長い手が絡み付いてくる。
影のような長い、長い手ばかりの....


「こいつらは...」

その手は全身を絡め取って波間に押さえつけてきた。
口から気泡が溢れ出して行く。
何かがおかしい。
苦しい...?
息が出来ない.....

地上と海の間にはだかった『影の手』
海に戻るのを拒絶するかのようにゆらめいている。

....拒絶?いや違う。
オレはさっきの死体を思い出した。
何故オレだけが生きている?
ごぼり、と息を吐く。
呼吸器官の一部でもある髪だけが僅かに
己がこの海で生まれ育った事を忘れていなかった。
まるで地上の両棲生物のように。


『タチサレ』

長い手が再び砂浜へと押し戻して行く。

「やめてくれ!オレは海の者だ!
海から出て生きてはいけない!」

海面に顔を出し空気を飲み込む。
叩き付けられるように砂地へ打ち上げられた。

....戻れない。
波の音が『影の手』の言葉を投げ付けてくる。

『タチサレ、チカヅクナ....』

「じじい!いったいどうしろって言うんだ!!」

届くはずのない叫び。答えはない。

生きておけだと?帳尻が合うだと!
そんなはずがあるものか!
こんな乾いた場所で立っているだけでも...

オレは思い付く限りの悪態をつきまくった。
答える者もない。
星すら出ていない。青白い月だけがよそよそしい光を落とすばかり。
オレはじじいから渡された皮袋をこじあけた。
手が震える。

オレは素っ裸のまま嫌な記憶を思い出していた。
あの時も『月』だけが見ていた。
スラムを去り、血まみれの皮袋を握りしめ歩いたのだ。
あの時と何も変わらない。
ひとりただ歩くしかなかった。
誰も声などかけなかったし、自分も求めなかった。
ただどうにもならない衝動で女神を叩き壊しただけだった。

皮袋には様々な物が詰め込まれていた。
宝物殿にあった秘宝の数々、高価な装飾品...
オレはそれを放り投げて吠えた。
海の彼方へむかって。
声は響かず振動だけが波を打って行く。
だがそれも深海の者が耳にするにはあまりにもか細すぎて
届く事はない。

叫びがやがて嘆きに変わる。オレは三日三晩泣き喚いた。
始めての朝、その太陽の強さに絶望し、夜は恐ろしい孤独に
泣いた。ガキの頃のようにみじめで情けない姿で。
転がった死体の方がよっぽど幸せだ。
ガレイオスの言葉が甦る。べろべろじいさんの
酒臭い地上の大冒険物語が甦る。

オレは膝を抱えてずっと海の事を思い出していた。
波打ち際から離れる事も出来ず、昼は暗い洞くつへ隠れた。
あんなに辛かった事ですら懐かしさを伴って思い出された。
母の仕打ちさえ許せる気がした程に。
憎しみを持てるだけでも自分に近いのだ。
今はなにもかもが遠い。


じじいの言う事を何故もう少しよく聞いておかなかったのだろう。
何故もっとうまく立ち回れなかったのだろう。
後悔ばかりが押し寄せて今まで生きて来たうちで
一番みじめだった。


そして三日目の晩。ひとつの記憶に行き当たった。
血。臓物。断末魔の痙攣。激しい餓え。
そして嘔吐。
断片でしか思い出せない記憶を孤独に任せて辿る。
化け物は追放されたのだ。
いっそこのまま化け物になってしまえばまだ楽かもしれない。
だが今こうやって考える事ができる。
己で考えていられるうちは化け物ではない。

そう思わねば耐えられなかった昔。
じじいの薬はなんだったんだろう。あの老人が自分を
あの境界線で引き留めていた事だけは理解していた。
何者だったんだろう...
何故、化け物まがいのガキを....

4度目の朝。
太陽が登った時、オレは打ち上げられていた襤褸布を引っ被って
砂浜を歩いていた。少しは耐えられる。
不思議なのは限界にくると何かの笑い声のようなものが聞こえる。
どんなに焼かれて死にかけようとまた元に戻るのだ。

5度目の夜。
泣くのに飽きた。
ようやくまわりの風景に目を向け、音を感じるゆとりが生まれた。
砂地に立つ足も感触に慣れてきた。
6度目の朝、オレは登る太陽に向かって叫んだ。








くそったれ!!!







朝が来たのだ。
オレは漁師小屋に潜んで地上の人間を観察した。
やがて言葉や習慣が近い事を知り、少し気が楽になった。


「おい!誰かいるぞ」

「難破でもしたのか、素っ裸で」


オレは黒い肌や白、褐色の肌をした漁師達に引きずり出され
黒い肌の男が白い歯を剥いて笑った。

「お前さんもおいらと同じクチかい?」

「奴隷船が遭難するおかげでここらは人種のるつぼだな」

「とりあえず服着せてやれ。ま、こいつが人間で男だっつう
事は間違いないな」

褐色の大男が豪快に笑った。
誰も何処から来たのか聞こうともしない。
オレは皮袋を砂の中に隠して遭難者になった。

地上。
オレはその日から太陽に中指を突き立て罵るのが日課になった。

海には二度と戻らない。