草原の満ち潮、豊穣の荒野
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56 チェリーボーイ





「いいか、人間ってのはな、ひとりで生きてくもんだ」


いつもの宿。ブルーはこれまでにない真顔で言った。
小さいルーはベッドに腰掛けてにこにこ笑っている。

「つまりだ。オレも当然ひとりだし、これからもそうだ。
お前といつまでも一緒にいるわけにいかない。
オレはもうすぐこの街から出て行く。お前はここに残れ」

ルーがにこにこ笑って頷いた。

「...意味わかってるか?」

就寝時刻を控え欠伸を連発している子供。
読み書きを覚え始めたとはいえ、素で何を考えているのか
見当がつかないところがある。

「なあ。お前がどっから来たのか、素性が何なのか教えてくれねえと
オレは明日あたりこわいおじさんにだな...」


「おい!ブルー!!客だ!!」


ブルーは顔の痣をなでながらがくりと頭を垂れた。


「...もう来やがったのか。くそったれめ」


二階の安宿に誰かが上がってくる足音がする。
約束だからまともに話すとしてもルーの事はわからない。海が絡んでいるような気はするが。
いっそ厄介払いに追い出してくれたら気が楽だ。
あの司祭には逆立ちしたって勝てない。オレはただのチンピラでロクデナシだ。
どうしようもない。じじいのような人物が前に立てばオレは下を向く以外にないんだ...

騒々しい音と共にドアが開けられた。
あの司祭にしてはずいぶん荒っぽい....


「げっ!!」


ブルーは思わずルーの顔を両手で覆った。

「デライラ、その格好...」

「うるさい!あんたの用事でわざわざ遠くまで行ったんじゃないさ。
全く道中ろくな商人がいやしない。クソみたいな服を着るくらいなら
脱いで歩いた方がマシよ」

「...お前その格好でずっと歩いて来たわけ?」

ルーを素早くベッドのシーツでぐるぐる巻きにしながらブルーは顔をしかめた。
旅用の外套の下はほとんど下着姿。
いや、普通にそれなら若い女だし悪いこっちゃない。ブルーの頭をよぎったのは
それでいったい何人の男がどんな気の毒な目にあったのかという事だった。

「風呂入んな。くせえよ」

「あったり前でしょうが。あんたは当然ドレスの一枚でも今すぐ
調達してくるのよ。話はそれから。あ、極上のワインも忘れないで。
のんびりしたいから、このせこい部屋に花のひとつでも置いてちょうだい」

「居座るのかよ」

「お黙り!あたしは旅の疲れで機嫌が悪いのよ。ガタガタ言う気なら
全部の話をパーにしてやる」

「...店なんか開いてねえから着替えはそのへんのもんですませろよ。
酒はマスターからもらってきてやるって。
あ、風呂は共同だから他の宿の客も入ってくる。気をつけな」

「入ってきたら殺す」

「...ルー、お前見張ってろ」

「あんたのシャツ、安物ばっかじゃないの。それにちゃんと洗ってる?」

「馬鹿言うな。一応客商売だぞ」


不機嫌な顔でドアを閉めた。下に降りればまだ店はやっている。
酒とつまみを見繕って適当に機嫌をとるか。
うまく行けば司祭から逃げられる。



「や、ブルー殿〜。おったんか」

「わあっ!!」


「わあっ、てなんや、酒場に酒屋がおって驚くこたないやろ。
...ってま、酒飲みもひとりおるけんどな、カーくん」


客も疎らな閉店間際、黒眼鏡の酒屋が黒衣の司祭の肩をばんばん叩いて笑った。
司祭は顔をしかめてグラスを呷っている。
ブルーは痣を髪で覆って横をすり抜けると、厨房へ向かった。

「なんやブルー殿、その顔どしたん」

カノンは素知らぬ顔で飲み続けている。グラスの中身は火酒のようだが
お茶でも飲むように流し込んでいく。

「ナタさんこそ、こんな遅くに来るなんて珍しいじゃないですか。
あ、オレ、今夜はちょっと客があって...」

「いんや、俺らもちょい飲みに寄っただけやき、かまわんて
なあ、カーくん」

「....」

カノンは黙って新しいボトルを開けた。


「なんなら一緒してもええで。あ、いやあかんか。こないな時間ちうことは...」

酒屋はブルーが抱えたワインを見て『来客』の性別を判断した。
カノンは黙ってボトルを半分空けている。
ブルーは苦笑いでチーズを皿に放りながらため息をついた。

「ちょっと何よ、あのひどい匂いの石鹸は!」

「うひゃ」「ぎゃっ」


階段の上から怒鳴る女に居合わせた客が全員顔を上げ
カノンは黙ってボトルを空にした。

明らかに男ものの大きなシャツを羽織った半裸の若い女。
ブルーは酒瓶とチーズを引っ掴んで階段を駆け上がると
女を部屋に押し込んだ。

「ちょっと何すんのよ!」

ブルーは部屋の外に椅子や大きな靴棚を引っ張って置くと
ひきつった笑顔で降りてきた。


「ええよ、ええよ、俺らの事はかまわんで。
ほれ、レディの機嫌損ねたら取り返すんは大変やで〜」

満面の笑顔の酒屋。

「ブルー殿もやるねえ。青臭いガキじゃと思うとったら」

「あ...青臭いって、ナタさんそんなじじくさい事を。
あなただってそんな年変わらんでしょうよ」


いささかムっとしてぼやく。カノンは無視して新しい酒瓶に手を
伸ばした。


「わはは!俺、もお90越えてるし、ブルー殿もカーくんもじゃりにしか見えんて。
ま、長寿の種族やから見た目はピチピチよ」

「...何がピチピチだ」

カノンがぼそりと言ってグラスを空けた。


「90...」

「ほれ、ブルー殿レディ待たせたらあかんがな。はよ行き」

「あ...ああ。すみません。気使わせちまって」

「俺も暇んなったらきれいどこ覗きいこ。ほならカーくん、帰ろか」

「ブルー殿」


カノンが立ち上がってブルーの背中に呼びかけた。


「約束を反故にしないように。そう言いに来ただけだ」

「............」


ブルーは聞こえない振りをしながらドアの前の椅子をどけた。
中から勢い良く開いたドアに思い切り頭をぶつけると
そのままもの凄い勢いで引きずり込まれた。


「ありゃあ。こりゃまたごっついレディやな...ルーくんどうする気じゃ」

「ほっとけ」

マスターに支払いをしながらカノンが面倒そうに呟いた。
司祭ながら瑣末な事には本当に興味すらない。

「ブルー殿も逃げんとちゃんと元気におるやん。ええこっちゃよ。
知ってもうた以上、手は打たんと面倒増えるき」


「僕は本当に面倒で仕方ないよ」

「まあ、そう言わんと、また酒奢るき」

「支払ったのは僕だが」

「ええ、また次じゃ次...」






ブルーは二人が夜の街に紛れて行くのを窓から見ていた。

「はん、あんた張られてんじゃない」

ベッドを陣取ったデライラがワインを舐めながら呟く。
キャンドルの暗い灯りに黒髪の南方美女が浮かび上がる。
散らばった本や汚い壁は暗がりに隠されて別世界に見える安宿。



「だから街を出るって言ってるんだ」

「じゃ、早いとこ話進めるわ。このおちびちゃんも寝ちまった事だし」

「あんた疲れてんなら明日にしたらどうだ?」

「そのつもりだったけどさ...あんたあいつらに何か喋ったら
死んでもらうからそのつもりでいてね」

デライラが耳元で囁きながら彼の顔の痣に指先を添える。
不機嫌な顔でブルーはその指を取りくちづけた。

「よろしく、レディ。オレは死にたかないよ」

『レディ』は飲み干したグラスを置くともう一度窓に目を向けた。


「...それにしてもさ、あのふたりなんかきな臭くない?
男を見るのは得意なのよね」

「さあ、オレは何も知らねえよ。マジでさ」

「あんたお子様だもんね」

「なんでだよ」

『レディ』の肩に回しかけたブルーの手が止まる。
にんまり笑って彼女が言った。

「ストーカーやってんじゃないわよ」

「...えっ...」

「あんたの行動はとっくにチェック済みってコトよ。
妙な奴なんか引っ張り込んじゃアルファルドにあたしが殺されちまうもの。
それにしてもあんた、駄目。
見てるだけで口もきけないんだものねえ」


「....ほっといてくれ」

がくりと肩を落としてブルーは俯いた。


「さあ、とにかくあんた、今後の事話そうじゃないの。
アルファルドがあんたに物件も用意してくれてるわ。
潰れた街道沿いの店なんだけどさ、そこを拠点にしてそれから...」


ブルー、推定23歳。
デライラが彼を『チェリーボーイ』というコードネームで呼び
アルファルドと話をしてきた事は知らない。



55 負け犬〜Don't you fucking know what you are?

月が出ている。
うっそうとした森の木々の隙間から足元を照らす月光。
ブルーは足早に目的地へ歩いていた。
遅れてしまったのだ。司祭に自分から要求しておきながら。

「あのクソガキ!」

ルーがいつまでも眠らずついて回ったのだ。他の用事ならともかく
今日ばかりは。あの上品な司祭を殴って気分爽快のつもりが
これではのっけから司祭に嫌みのひとつでも喰らうのは間違いない。
ああいうタイプは遅刻なんかありえない。
ブルーは走り出した。
ケンカの前に謝らなきゃならないなんて出ばなをくじかれるにも程がある。
小一時間程遅れたかもしれない。


泉のほとり。
昼間よくカップルが待ち合わせては遅れた遅れないと
ささやかなケンカになるのを人ごととして眺めていたが
選りに依って相手は...。

「申し訳ない!」


想像した通り、司祭が立っていた。
銀色の棍を持ち、感情は見えないものの冷ややかな目を
ブルーに向けた。

「落ち度はこっちにある。待たせちまって申し....わあっ!」


いきなり薙がれた棍。
咄嗟に飛び退ったつもりがそれでも脇腹を掠めブルーが怒鳴った。


「クソ!人が話してるってのに何考えてやがる!!」

「君が、僕の腕前を見たいと言ったんだろう。
待たせて悪いと思うなら、言い訳をしている暇に構えるんだね」


「あんた根に持つタイプだろッ!」


舌打ちしてブルーが水場まで退がった。
武器は持っていない。丸腰だが忘れてきたわけでもない。

「面倒くせえ!」

泉の中に踊り込んでブルーが叫んだ。

「来いよ!それとも足場が気に入らねえかい?」


カノンは迷わず水場まで進んだ。
足場から崩してくる考えか、と想像はつく。
そんな小細工が通用すると思っているならば、本当に子供以下だなと、小さく呟いた。


「不利な条件は君も同じだろうに」

「オレは獣人だって言わなかったっけ?」

ブルーの口元が耳まで裂ける。
水の匂いに細胞がざわつくのをいつもなら抑えていた。
だがこの時ブルーはそれを一切しなかった。
獣化の苦痛を高笑いに摺り替え水面に立つ。

「説明なんか面倒だ。コレならバカでもわかるだろうよ。
オレはそういう種族だ。水場じゃあんたの負けだね」

半獣の半ば化け物じみた形相でブルーが吠えた。
泉の水が荒い波を立て生き物のようにカノンの足を襲った。
間合いは取らせない。離れた位置にいてもブルーには切り札がある。
海と同じわけにはいかないが水さえあれば、操る事はまだ出来る。
少なくとも相手の動きを封じるくらい楽勝だ。


「悪く思うなよ。オレはあんたをブン殴らない事には気がすまねえ。
ただそんだけだ。ま、死なねえよう気をつけてな!」

忠告は咆哮に変わり水面がカノンの背丈を覆う程立ち上がる。
激しい波がカノンの全身を叩き続け、さながら嵐の中に立っているようだった。


「ひとつ、問う」

激しく水に打たれながらも、ひたとブルーを見据えたまま、カノンが尋ねる。


「なんだよ?」

「君は『人』かい?」

「そんなこと知るかよ。獣人を人間扱いしねえ奴はザラにいるがね」

「獣人か人間かの問題じゃない。
君が、広い意味で『人』かどうかを聞いている」


ブルーの下半身から尖った尾鰭が衣服をあちこち突き破って覗く。
水面に鎌首を上げた蛇のように彼は『一本足』で立っていた。

「あんたこそ『規格外』の連中をどう思う」

ブルーの目が軽蔑の色を浮かべて司祭に吠えた。
こいつもあの連中と同じだ。選ばれた奴らだけの為に世界があると
思っていやがるクソだ。





「君の言う規格とやらが『人』を指しているなら、僕はその敵を滅する者だ」


カノンが恐ろしく無表情な声で答えた。


「....」


ブルーが僅かに退いた。
彼ははじめて自分がとんでもない間違いを犯した事に気付いた。
この男に『化け物』で脅しをかけたようなものだ。
負けたくなかっただけのつもりが、何故こんな事になったんだ?
カノンがその気になれば勝負は一瞬で着くだろう。


「....おい。これは手合わせだろ?」


ブルーの感情の変化を現すように波が引いていく。
自分でも不様な言葉を口にしていると眉をひそめた。
ハンデをもらって勝つ事のみっともなさにも気付いてしまった。
恥ずかしさと恐怖が襲いかかってくる。

この男はまともじゃないんだ。以前見て感じたはずだ。
そんな奴になんだってオレはケンカを売ったんだ?

波が完全に治まった。
カノンは浅瀬に顔をまっすぐ上げて微動だにしない。
かたやブルーは目を反らし俯いてしまった。

「君が『人』なら手合わせの約束だ。応じるさ。
ただし、そちらこそ死なないように気を付けるんだね。
手加減する気も失せた」

「......」

後ずさりすら出来ないままこの場をどう逃げ出そうかと
そればかりがブルーの頭の中で駆け巡る。
今の半獣の姿がとてつもなく滑稽に思えて仕方がない。
完全に負けている。上品で育ちの良い最も嫌いな人種に。
みじめさが獣化の痛みを倍増させブルーはその場に座り込んだ。


「君を見ていると、呆れを通り越して怒りさえ覚えるよ」

カノンが情け容赦なく言い放った。棍を上げる事もないまま終わったのだ。
ブルーは答える事もできなかった。
自分が最も軽蔑していたはずの『弱虫』に成り下がった今、負け惜しみや減らず口すら出なかった。
この感触は前にも確か....


「……今判った。
どうやら僕は無意識下で、君の中に古い友人の姿を見ていたようだ。
―――だが。
勘違いも甚だしい。
君のような未熟者と彼を重ねるなぞ、彼に対する冒涜だ。
どうしてそんな事を思ったんだが、自分に腹が立つよ」


「....クソじじい....」

「……?」

俯いたブルーの不穏な一言にカノンが顔をしかめた。

「やる気がないのなら、僕は帰らせてもらう。
これ以上君のルールに付き合って時間を費やすのもごめんだ。
君が『人』だろう事もよく解ったよ。『世間知らずの子供並』だとね」

ブルーがぼそついた声で言った。

「あんたにムカついてた理由が...やっとわかった...」

「ああ、そうかい」

「あんた、あのじじいそっくりだよ。上から物を言いやがる所が特にだ」


ブルーがゆっくり立ち上がった。威勢も自信も消し飛んで力なく拳を握る。
これはプライドの問題だ。ブルーのちっぽけな絶対感。
消えそうな程弱ったそれを握りしめ彼はカノンに近付いた。
おどおどと。

「.....」

カノンのうんざりしたような溜め息の後、鈍い音が静かな夜の泉に響いた。












数時間後。
ブルーは顔に大きな痣を作ってこっそり酒場の宿に戻ってきた。
恥ずかしそうに痣を隠し、獣化でボロボロになった衣服はまるで
寄って集って殴られでもしたかのようだった。


「くそったれめ...」

夜明け前、人気のない洗面所でブルーはひとり顔を洗って毒付いた。

「手加減しやがらねえとこまでそっくりだ」


この街を今すぐにでも出たい。
デライラはまだ戻ってこない。
明日にでもあの司祭は自分にいろんな事を話させるだろう。
何から何までみじめだ。

ブルーは音を立てないように慎重に着替えると痣を隠すようにフードを
深く被り宿から出た。まだ出て行くわけではない。
ただ、歩きたかった。頭を冷やす為に彼は夜明け前のまだ暗い街を
とぼとぼと歩いていた。

知らぬ間にその足はある方向に向かっていく。


小さなパン屋。勿論開いているはずも無い。
ブルーはしばらく店の前に佇んでぼうっとしていた。
開いていればあの娘が見られただろう。
パン屋は早朝から仕込みを始める。もしかしたら...

白みはじめた東の空。
店に明かりが灯る。うろうろしながらも
はっとして顔を上げたブルーに店の中から声が響いた。

「なんの用だ!こんな時間に人の店を覗きやがって盗人か!?」

ブルーが待っていた声ではない。
彼はよけいにみじめな気分で逃げるようにその場から走り去った。


オレは世界中で一番情けない男だ...


彼はその朝、太陽に中指を立てる気すら起きず昼すぎまで
ベッドに潜り込んで出てこなかった。