ぶらんこ
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2010年03月16日(火) 静寂の声

その人に何か訊くと、何かしらの答えが「得られる」という。
それはその人自身からではなく、その人を媒介して伝えられるものなのだそうだ。
(与えられた言葉によって質問者は答えが得られる)
たぶん霊能者とかのイメージに近いのかもしれないが、実際にそのような方々とわたし自身が会ったことがないのでわからない。
答えはそのまま差し出されるのではなく、会話のなかで導き出されるといった形らしい。

カウンセラーはカウンセリングという知識と技術を習得している。
スピリチュアル・カウンセリングとは、通常の心理学で勉強するのとでは領域が違うのかもしれないが、技法としては似ているのだろうか。
その人は、自分はカウンセラーではないと言うらしいが、答えを自ら得られるよう手助けしているという点では同じだなーと思う。
まぁ呼称などは(その人にとって)どうでも良いことなのかもしれない。



さて、では何か訊きたいことはある? と自問してみた。

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それがなかなか。。。どうなのよ?

知りたいことは・・・ある。ような気がする。
それは、調べても調べようがないことだったり、科学的に証明できないようなものだったり。


奇抜(?)な類いでは「宇宙人の存在」とか「タイムトラベルの可能性」とか「死後の世界」とか。
身近なものでは、「魂の成り立ち」とか「脳の世界」とか。
「男」とか「女」とか「その中間」とか「両方」とか。
「犬の気持ち」とか「病気の正体」とか。



でも、そんなんが本当に知りたいことだろうか???
宇宙人がいてもいなくてもわたしの暮らしに何か影響があるだろうか?
タイムトラベル出来ますよと言われたら、やってみたいか?
前者は、興味はあれど、現実的にはどうでも良いような気がしなくもない。

どちらかというと、身近な問題のほうを訊きたい。
でも、興味本位にそんなことを訊くのもいかがなものか、、、と躊躇う気持ちがある。
ゲイの友人の本当の心を知ったからとて、どうしたいのか。
その人そのままを受け入れれば良いだけなのじゃないか? とか。
脳に損傷を負った患者さんとその家族とのコミュニケーションがなんらかの形で出来るようになればどんなにか幸せだろうか。
と、以前、訪問看護をしていたときに真剣に考えたことがあった。
たとえば霊能者のような人が来て、「息子さんはこう言ってますよ」と伝えたとする。
それがその家族の望むことなのかどうか。。。それはわたしにはわかりようがない。
超能力者と言われる人々が、難病と言われる病の治療に貢献できたら。。。
そういうのは、何か大事なことを見落としているような、どこかステップを跳ばしているような違和感がつきまとう。

犬に言葉が必要かというと、それもまた違う。
人間の言葉を持たないからこそ、彼らとの関係がより深く、優しくなれるのではなかろうか。
あなたの感じる、想像する「犬の気持ち」で良いのでは? と思ってしまう。




エンデの「はてしない物語」で、「ウユララ」という存在が登場する。
ウユララとは南のお告げ所の「静寂の声」である。つまり、声だけの存在だ。
彼女(?)からの声を聞くには、韻を踏んだ詩で語りかけなければならない。


「詩にする」とはなんぞや?



詩というのは・・・言葉をただ並べるのとは違う。
(自分の)心の昇華した形。たぶん。。。




というところで、先の「知りたいことって何よ?」と繋がっている。



答えは自分の中にある。 とはよく聞く。
おぼろげながらも、本当にそうだよなぁーという感じはある。


訊きたいこと=知りたいこと

という式は簡単には成立しない。なぜなら、答えを得る方法は色々あっても良いからだ。



今のところ、その人に質問したいことが見つからない。
それは、自分で見つけたいという積極的な気持ちの表れなのか、誰からの手助けも要らないという偏狭な天の邪鬼ゆえか?

或いは、まだ「詩」に至っていないわたし自身の未熟さか?











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