ぶらんこ
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2009年04月02日(木)

大昔・・・たぶん12か13歳くらいの頃だったと思う、ある夏の日、母にこんなことを訊いた。

「お盆っちゅうのは仏教の考えでしょ?じゃぁなんでまぁこ達もお盆するわけ?」

で、母の答えは以下のとおり。

「なんでそんなこと言うのね、やっちゃいかんちはどこにも書いとらんよ」

いや不思議じゃやーち思ってのことよ、と言ったが母は一蹴。

「そんなの仏教だからとかキリスト教だからとか区別しようちする方のがおかしい。ぐじゃぐじゃ言わんで、早くハカザレして来い」


ハカザレとは「墓ざれ」である。(ザレはたぶん洗い清めるという意味か)
お盆の前に、墓石を綺麗に洗い磨いて墓所に新しい白砂を敷き詰めておくのだが、この砂採りがまた大変な作業なワケで・・・。
(現代は墓石だけでなくその周囲も大理石?が敷かれているので、白砂を敷き詰める作業をするのは少なくなった)

暑いテダの中、眩しく光る白砂を集め、墓所まで運んで敷き詰める。
花瓶を磨き洗い、新しい花を挿し、そこらに咲いているクロトンの葉を付けたし飾る。
墓石を水をかけながら磨き、拭きあげる。
(作業の後は(一応)手を合わせて祈る)
最後に、竹箒で白砂をならし、墓所の周囲は箒の綺麗な線で敷き詰められる。

以上が「ハカザレ」である。



・・・主題から逸れてしまった。


「区別しようちするほうのがおかしい」という母の言葉に、当時のわたしは
質問の答えになっとらんが・・と思ったのだが、ハカザレしたくない言い訳と取られるのが癪だったので、それ以上追求しなかった。

そのうちに、深く考えることもなく、毎夏、お盆を迎える前にハカザレし(ハカザレは年に何度かあったけど)、堤燈を飾った。
それは暮らしのなかに充分に滲みついていたから、特別に意識することもなくなった。
亡くなった父の霊が我が家に帰ってくるという想いや感覚はなかったが、お盆には父や先祖の霊を思い起こした。


そして、だいぶ後になってから、お盆というのが仏教の行事でもないらしい、ということを知った。
確かこれを知ったのは、日本人の宗教観について調べていたときだった(30歳くらいの頃だったかも)。

そのときに先の母の言葉を思い出し、なるほど。。。と妙に納得したのだった。

これは、西洋文化(西洋思想)からすれば、非常に矛盾したものかもしれない。
けれども、その矛盾こそが日本人の良いところなんじゃないの?と思う。
矛盾を抱えることをよしとする何かがあって、さまざまなものを取り入れ、融和させていくことが出来た。のか?

残念ながら、適切な文章で表現できないのがもどかしい。


あ、だから母の返事も強引だったのかも?
日本人たるゆえに、ということか(これこそ強引か?)






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