ぶらんこ
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「まみぃがサンタクロースを信じなくなったのはいつから?」 と訊かれたことがある。こころが小学校5年生の頃だったと思う。 この年を最後に、彼女にはサンタさんからの贈りものはなくなった。 「本当のことを教えて。わたしは大丈夫だから。」と言われたとき、正直なところ、やっとこの日が来た!と安堵した。 ショックとか淋しいとか、そんな気持ちはなかった。そうそう・そうなんだよ。実は親のわたしたちが用意してたのさ。 あっさりと白状した。別に感傷的になることもない。夫は(ちょっぴり)淋しそうにしていたけれど。 これでサンタ物語から解放される。娘よ、よくぞ質問してくれた。そんな気分だった。
で、先の質問だ。 「ねぇ〜。それでまみぃはいつ本当のことを知ったの?」 「いつっちゅうか・・・んーーーサンタクロース、知らなかったからなぁ」 「えっ!?サンタさんからプレゼント貰ったことなかったの?」 「ないさ。あるわけないじゃん。プレゼントなんてもんも知らないし、大体、サンタさんのこと自体知らなかったって」
本当に、まったくもって、知らなかった。知る由もないではないか。
でも、よくよく思い出すと、いつ頃か・・・確か小学5年とか6年の頃にその姿を見たな。 クリスマス近くになって、チープな軽トラックがじゃらじゃらと音楽を鳴らしながら通ったとき。 おもちゃ屋さんの行商だったのか、或いはただの宣伝だったのか? よくわからないが、その軽トラに、赤い服を着た外国人の老人が笑っているポスターが何枚も貼られていた。 あれはきっとサンタクロースだった。 うん。あれが、初めて、わたしの意識に入り込んだサンタだったのだと思う。
その外国の老人がこどもたちに贈りものを届ける存在だということは、わたしにとってはおとぎ話でしかなかった。 外国にはそんなお話があるのか〜!と、ちょっとばかりの驚きはあったかも。 そりゃ凄い。面白い話があるもんだ。考えというか発想が違うね。 それは何もわたしだけじゃなく、友達もみんなそうだったと思う。 島にはサンタは来ない!雪も降らない! ・・・いや、もしかしたらハイカラな家には、サンタは来ていたのかもしれないが。
サンタを知らなかった。という話は、こころにとっては非常に新鮮だったようだ。 「じゃぁまみぃがこどもの頃って、クリスマスはどんなだったの?」
クリスマス。 それは、イブの夜中に母に(叩き)起こされて、眠いのに教会へ行く日。 翌日(クリスマス)には家族でバタークリームのケーキを食べる。 早く食べたくてウズウズして、バタークリームの綺麗な薔薇の花をパクリと口に入れ、げっ、失敗、、、と思う。 それからはバタークリームをよけながらスポンジだけを食べる。 あまり美味しくないなぁ、、、と、決まって全部は食べきれない。 午後になって教会のパーティーへ行く。 こどもたちの聖劇、歌、大人の歌なんかが披露され、食べたり飲んだり出来る。
「そっか・・・プレゼントとかなかったんだね。。。」
いや。あった! クリスマスのミサ用に、と、クリスマス前に新しい服を貰った。 深夜ミサへ行くのは辛かったけれど、新しい服を着れるのが嬉しかった。 年に一度きりの新しい服。 買ったものなのかどこかからいただいたのか? 母はどのようにお金を工面したのだろう?
『クリスマスじゃないねクルシミマスだね』 とはよく言ったものだが、これは我が家だけの話か?
わたしの幼少時代のそんなこんなを、ことある毎にこころには話すのだけれど、彼女にとってはこれこそおとぎ話。 かもね。
昔むかしの話。わたしがまだ中学生だった頃のこと。。。
どういうわけか、校内弁論大会の弁論者に選ばれたことがあった。 なぜ自分が選ばれたのか、皆目見当がつかなければ、正直なところ、どのようなことを書いたのかさえ、まったく覚えていない。 きっと適当に原稿用紙のマスを埋めただけのものだったのだろう。 当時(今も変わらないが)、人さまに向かって「弁論」したいことなどなかった。 仮に意識の奥のほうに何かあったとしても、それを紙面上に表すことは決してなかった。 逆に、本当の自分の気持ちは出来るだけ他人に悟られないよう、心がけていたとさえ思う。 だから、わたしが書いたものは、「それなりに」見せた当時の自分の気持ちの一部でしかなかったのだな。と、今になって思う。
さて、弁論大会の日。わたしは、逆らう術なく壇上に座っていた。 あまりよく覚えていないが、「ただ前へ出て原稿を読めばいいだけ」と言い聞かせていたような気がする。 ちいさな学校だった。演者は僅か6人だったと思う。
何番目に発表したのかも覚えていない。 極度に緊張していたことは確かだ。出来ることなら発表せずに済むかも・・とろくでもない希望を抱いていた。 が、気持ちとは裏腹に、刻一刻と自分の番が近づいてくる。 そしていざそのときが来た。 立ち上がり、前へ進み、原稿を置いて開き、なるべく前を向いたまま・・・と顔を上げたところで。。。
こともあろうにわたしは・・・ ふっ と、笑ってしまった。
どうして笑ってしまったのか? 今でもわからない。 けっして、ふざけていたわけではない。 咄嗟に、笑っちゃいけないと思った。笑わないようにも努めたつもりだった。 が、発表の間、何度も笑ってしまった。 自分でもどうにもならなかったのだ。強いて言えば、発表し(笑って)いるのが自分ではないような気分だった。 一種の現実逃避でもあったのかもしれない。 自分が笑った顔をしているのか、或いは泣いたような顔なのかもわからなかった。 人がどう感じるか。など、思う間もない。 もちろん、どうやって終えたのかも覚えていない。
すべての弁論が終わって、学校長からの感想が述べられた。 学校長の話なんて、頭に残ったことなどこれまで一度もないのだが、この日だけは違った。 彼は、名指しこそしなかったが、わたしの態度を痛烈に批判した。 「非常に残念なことに、発表者のひとりは、にやにやしたりもじもじしたりして、とてもふざけていましたが・・・」 まだ壇上に座っていたわたしは、学校長の後姿を見ながらこの言葉を聞いていた。 飛び出してってどこかへ隠れ、思い切り泣きたい気分だった。 あの後、どうやって教室へ戻ったのだとか、友達と何か話したかとか、殆ど覚えていない。 きっとふざけて笑ってみせて、ひとり家に帰ってから泣いたのだろう、と想像する。
そして、あれから30年もの歳月が流れようとしているのに、わたしは、自分がなんら変わっていないような気がしている。 つまり、もしも同じような状況に置かれたら、わたしはいまだに同じ過ち(?)を繰り返しそうに思うのだ。 きっと、自分のなかでこの過去が癒されていないのだろうな。 もっともっと思い出しては掘り起こし、反芻しなさい、ということか。
だらだら書いたが、こんな自分なので、最近の「謝罪会見」なるものの批評を読むと、非常に胸が痛い。
頭の下げかたが足りない とか ふてぶてしい とか ふざけている とか おちゃらけている とか 責任感がない とか これらはみんな、今まで何度もわたし自身に向けられた言葉でもあるので、聞いてるだけで心が苦しくなる。
ふざけてなどなかった おちゃらけてなんかなかった ふてぶてしくしてるつもりはなかった
でも自分の心の奥のおくを見ようとすると、それすら自信がなくなってくる。 ふざけて見せたほうが、おちゃらけたほうが、開き直ったほうが、気持ちが楽だった。ということか???
わたしは、今も、心のなかの鏡の中の鏡。を覗いている。 「自分」を見るのは、自分以外の、誰でもない。 まわりは関係ない。自分だけだ。
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