ぶらんこ
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午後の早い時間にひとりで町をぶらぶらと散歩している。 かつてのように、相変わらず人通りもなく閑散とした町並みだ。 ふと、角にある水色の壁のパン屋が目に入る。 おぉ〜こんなところにパン屋さんがあったなんて!これは見ないわけにはいかないでしょう。 わたしは嬉々としながら早速店内へ入った。
中へ入ると、5〜6人の若い子達が、忙しそうに作業している。 連中は、わたしの存在を気にすることなく、柱にペンキを塗ったり木の板を運んだりしていた。 ――あら。。。もしかして…開店前??? しかし、そのまま出て行くわけにもいかないようなバツの悪さがあり、何気なく店内を見てまわることにする。
床はまだなく、地面は剥きだしだった。 古い壁をぶち壊したような形跡があり、ところどころに柱が立っているだけなので、奥のほうまで見渡せる。 どうやら厨房もまだ出来ていないようだ。 見てまわるにも何もないような状態で、ここへ入ったことが明らかな間違いだと、なんとも所在無い気持ちになる。 誰か(例えば店主とか)が「すみませーん。ここ、まだ開店してないんですー」などと言ってくれるのを期待していたが、それもない。 皆、わたしのことを無視するわけでもなく、かといってフレンドリーな感じもなく、ますますバツが悪い。
とにかく何かアクションを起こさねば・・・という感じで、歩き出す。 自分でも馬鹿みたいだ、と思いながら、まるでパンを選ぶような感じで何もない店内を見てみる。 ちょうどバケツがあったので、ふふふーんと、その中も見てみたが、中には少しの水と雑巾が数枚入っていた。 雑巾を見た瞬間、これを逃がしたらもう出られなくなる!という気持ちになり、奮起して(でもふふふーんと歩きながら)店を出た。
わたしは、水色の壁のパン屋を振り返ることなく、通りを進んでいく。 実際にパン(店)はなかったのだが、なぜか非常に誇らしい気分である。 そうだ!ナイルに知らせなきゃ!と、思う。きっとナイルは知らない筈。。。
「文化町に、パン屋が出来たんだぜ」
・・・
その晩、たまたま一緒に寝ていたこころに、この一言を聞かれてしまった。 「何?もう〜寝言でしょう。しかも何なの、そのキザったらしい言い方!」
いやいや本当に誇らしかったのです。新しいパン屋。何も売ってなかったけど。というか、まだ店にもなってなかったけど。 それにしても「文化町」って、どこ???笑
調べてみると、岡山、富山にあるらしい。 過去の記憶かはたまた未来の断片か。ナイルちゃんにも訊いてみなくては。 わたしのメッセージは、彼女の夢の中でちゃんと届いているかもしれない。
ちなみに、こころの好きな夢占いによると、パンの夢には「幸福」の意味があるのだそう。 ―パンを焼く夢はあなたが幸福感に満たされているということ。 ―パンを買うときに商品が少ないという夢はあなたが自分の役割に不満を抱いているということ。 だそうだ。
では、商品が何もないというのは? でも、そもそもあの店がパン屋かどうかも怪しいんだけどね〜。
ある日。 動物に「判断力」があると思う?と、こころに訊かれ、あるでしょ。と即答した。
すると彼女は、 でしょう〜わたしもそう思う!でも、違うって言うのよ。動物にあるのはinstinctなんだ、って。 instinctって何よ。 えーと本能とか・・・勘とか、そういうの。
なるほど。彼の言いたいことがわかった。 つまり彼の言う判断力とは、思考による判断という意味なのだろう。
ふむ。じゃぁ動物には本来持っている「判断」能力と「経験」による「判断」とってあるのかもしれないね。 何それ。つまり「ある」ってこと?「ない」ってこと?
そんなやりとりをしながら、彼女はあきらかに不服そうだった。 人間がいちばん偉いって思ってるからそんな言葉が出るんだよ。そういう考えは大嫌いだ! とかなんとか・・・。
まぁそれだけじゃないんじゃないの?と言ってその話は終わったのだけれど、わたしはあれからずっと「思考」について考えてみた。
『思考』 (1)考えること。また、その考え。 (2)〔哲〕〔thinking〕意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。 物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。 狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。思惟。〔明治期につくられた語〕
goo辞書には上記のように書かれている。 読めば読むほど・・・ね、動物にはないでしょ。と、片付けられそうな気がする。 「人間の」知的作用。とまで書かれているしね。
しかし、なんだろか・・・やっぱり動物にもあるでしょう!という声がするのだ。 もしかしたらそれはわたしの「直感」の声?なのだろうか???
考えてもわからないので、もうそのままにしておこうと思った。 動物の判断力の有無については、人それぞれ自由な考えがあるのだから、いちいち反発する必要もないのだ。
さて、昨夜のことだ。 ふたりでだらだらしているとき、いきなりこころがこんなことを言った。
あ〜ジブリが見たい!なんかこう、感動するものを見て、思いっきり泣きたいって感じ。そういうときってない? なんか嫌なことでもあったの? いや、なんもない。だけどわかるでしょ?そういうときってない? ないね。 えーーーっ ないの!? ない。たまたま見たやつが凄く良くて感動して泣けた、っちゅうことはあっても、泣きたいから見たい、っちゅう気持ちはない。
すると彼女は、信じられない・・というような顔でわたしを見ながら言った。
まみぃって動物みたい。instinctだけで生きてるんだ。。。
はぁ〜???動物はinstinctだけじゃないって話だったんじゃ??? ・・・まっ どうでもいいけどね!
神よ わたしは母の病気のために なにを祈ろう あなたのみ旨を 母が受け容れるように あなたの恵みのなかで 母が病気を乗りこえられるように あなたの愛を 母が感じられるように あなたの手のなかで 母が心やすらぐことができるように 今わたしは わたしの祈りを あなたにまかせて祈る。 『母のための祈り』 〜マタイス神父・心の日記(10/26)より〜
「天にまかせる」というのはどういうことだろうか? 何が起こっても、それを受け容れるということだろうか。 それとも、その前の希望やら怒りやらあきらめやら嘆きやらのすべてを、受け容れるということだろうか。 ならば、「闘う」ということもまた然り。
「天にまかせる」とは、自身の選択を受け容れる。ということだろうか。 自身の願いを赦し、受け容れ、差し出す。ということだろうか。
わたしにはわからない。
それでも、わからないなりに、わたしの祈りを 天にまかせて 祈ります。
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