ぶらんこ
indexpastwill


2005年03月30日(水) 春の海

無料の入浴券をいただいたので、早速、午後から出かけた。
車で20分くらいの、山の中にある町営温泉。
田舎の農道を通っていくのだけれど、わりと広く、きちんと舗装されている。
その両端にだだっ広い田畑が拡がっているのが、ちょっと不思議な感じ。

黄色い菜の花。
白い大根の花。
長靴をはいて遊ぶ子供たち。
いつの間に、田んぼには水が張られている。
おじさんが田植え機を上手に動かしている。

春の雲ってどんな感じだったっけ・・・
そう思ってふと空を見上げたら、雲がひとつもなかった。
田んぼには、うす青色の空が映っている。
お日さんがきらきらと反射して、なんだか眩しい。
まるで、海みたい。。。






2005年03月24日(木) 響き

話せば話すほどに、これまで知り得なかった、その人の一面を知る。
それは思いもよらぬことで、新鮮な驚きで。
へぇ。。。。と思ったり、えぇぇぇ、、、とがっくりしたり。
自分とよく似ている・・と感じていたものは、少しずつ、ゆっくりとほどけていき、新しい何かが作られていく。わたしのなかで。
たぶんそれは「その人らしさ」みたいなもの・・なのかもしれない。わたしのなかの。

人を知る毎に、自分とは違う「何か」が増えていく。
決定的な違いを見つけることもある。
それは頼もしいような、頼りないよな、嬉しいような、淋しいよな・・・。
掴めそうで、はかない何か。

それが、ときになにかの拍子で、心地よい音がする。
心の奥深く、普段は気付かないようなところに、ちょうど良く置かれたように。
コトリ、と、音が聞こえてくる。
トクン、と、心は応える。
そんなとき、あぁわたしはこの人が好きだなぁ・・・と、思う。
知らされたいろんな違いも、知らないいろんなことも、すべて忘れてしまう。
どうだっていい。関係ない。
それくらい、素敵な響きがする。

そんな友人が何人かいる。
彼らは、それぞれにさりげなく、わたしを見てくれている。
知らん顔しながら、放っておきながら。。。。
彼らにとってのわたしも、そんな存在でありたい、と思う。
ありがとう。いつも感謝しています。



人は、自分のことがいちばん好きなのに、いつも自分以外の誰かを求めている。
自分のことで手一杯なくせに、いつも自分以外の誰かを気にかけようとする。
どうしてだろう?
自分に不足しているものを、その誰かで補おうとしているのかな?


自分とまったくおんなじな人なんて、いないだろう。
なのに、この世界のどこかに、そういう人がいるような気がする。
馬鹿げた考えかもしれないけれど、心のどこかで、そんな風に信じている。

その人と一緒にいると、どんな音が聞こえてくるのだろう。
心はどんな音で応えるのだろう。

それはそれは、素敵な響きだろうと思う。
ちいさな聞こえないくらいの音だけれど、それは始終、響いているような気がする。
お互いに出ない音を補い合うかのように、優しく響きあうような、そんな気がする。




2005年03月22日(火)

大きな洋館の前に立っている。
わたしは友人と一緒に、海へ続く道を歩いていた。
この洋館は、以前もあったような、なかったような・・・なんとも不思議な気持ちで見上げている。


高い鉄門はとても重々しい感じがしたが、よぉく見ると葉の模様が施されている。ところどころに小鳥がとまっているのが、なんとなく愛らしい。
ふと、門の右側に掲げられた飾り看板のようなものに目がいった。
楕円形のそれは、鉄門と同じ素材で作られている。そこには、大きな一本の樹が美しく彫られていた。
惹きつけられるように見入っていると、ほどなく、中央に「楡」という文字が浮かび上がってきた。
楡(にれ)?
わたしは、この立派な樹木が楡の木なのかもしれないな、と思う。でも、もしかしたらこの洋館に「楡」という人が住んでいるのかもしれない。


「ねぇ。楡の木って、どんなだったか覚えてる?」
友人に聞いてみた。と、同時に、その看板(表札?)の中がぐぅん、と動いたような気がした。

楡の樹に風が吹き、葉がざわめき、膨らみ。。。。


それは、全体としては楡の木なのだけれど、部分的に見ると違っていた。
まず、右上半分に建物。その手前には鉄門。
建物の左手には森が拡がっている。
そしてその森を抜けると岩場があり、そこにはアスレチックのような遊具があった。
その遊具は、複雑ながらも岩場から坂のようになって空き地へと繋がっている。
空き地には大きな楡の木が立っている。
そこを抜けると、鉄門。
その門をふたりの人間が見上げている。

わたしたち???

よく見ると、アスレチックでは小さな者たち(小人?)がせっせと動いていた。
彼らは坂を下りて行くうようにも登っていくようにも見える。まるで安野光男の描く世界。見れば見るほど、わからなくなる。からくりの坂。
右上にある建物は、目の前の洋館。今になって、洋館の向こう側に実際、森が拡がっているのが見える。
きっと、中へ入ると池もあるに違いない。
その池を取り囲むように家があり、森があり、坂があり、空き地があり、楡の木が立っているのだ。


絵のなかの池に目を向けると、いきなり竜があらわれた。
竜は、ゆるぅりと頭を出し、音もなく(聞こえないのは当然だけれど)すすっと左へ進み、全貌は見せずにまた水の中へと消えていった。
「ちょっ、ちょっと今の、見た?」
思わず大声で友人に聞くが、彼は「ん。。。」と言っただけだった。
わたしはもう一度、じっと池を見つめてみる。
するとそこに、「楡」という字が浮かんできた。美しい大きな楡の木と。


(もう一度。。。)
わたしは頭を振り、目を閉じ、心に念じてから、また目を開ける。

鉄門は閉まっている。
洋館の窓は開けられている。
森がざわめく。
からくりの坂では小人がせっせと動いている。
池には悠然とした竜の姿。
楡の木。


やっぱりここは楡の世界だ。心に念じていれば、きっと入れるはず。

「じゃ。。。行くしかないみたいだね。たぶん。。。」
友人に言われて、わたしは鉄の門に手をかける。

海風が吹いて楡の木が膨らみ、わたしたちを迎え入れてくれる。





2005年03月20日(日) Heal yourself

自分に嘘をつかないこと
自分を誤魔化さないこと
自分を見つめること
自分のなかの いろんな気持ちを知ること

 「忘れたい」と思うこと
 「忘れない」と思うこと
 「どうだっていい」と思うこと
 「どうにかなりたい」と思うこと
 「なんとかなる」と思うこと

あきらめること
受け入れること
拒むこと
求めること


そんな気持ちを 
抱きしめること


自分を許すこと
   認めること
   信じること

   愛すること

愛すること


すべてを信頼し 
すべてをまかせること



2005年03月18日(金) sorrow

寂しさや悲しみは薄れていないのに、あの子の笑顔だけが次々と浮かんできて・・・



「喪失」の悲しみはとてもとても、深い。
愛するひとを失ったひとの悲しみを理解することなど出来ない。
出来ることがあるとしたら、ただ、そのひとの心に添う(その気持ち)だけだと思う。


悲しみは長い時間をかけることによって癒される。(その時間はひとによって違うだろう)
また、表面上は普通の生活を送っていても深い悲しみを抱えたままの場合もあるし、そのひと自身さえ、それに気付いていないこともあると思う。


それでも、悲しみはいつか癒される。
それは生の営みであるように思う。
魂の成り立ちであるように思う。



わたしの悲しみも、いつか癒されるだろう。
悲しみは、悲しみのなかから生まれる何かに変わり、

忘れないけれど、忘れるだろう。
痛むけれど、痛まないだろう。




2005年03月15日(火) いかそうめん

夕飯の準備をしていると、「あっマミィ、今日『いかそうめん』が来た!」と、こころが言う。
「いかそうめん?来た?」
なんのこっちゃい、と思いながら「これはいか納豆なんだけど・・」と言う。
ちょうど昨夜の残りのいかを使って「いか納豆」をこしらえていたので。
「いか納豆?」
今度はこころが首をかしげる。
「わっ、くっさーーーい!何それ!」・・・だから・・・いか納豆だってば。。。。


どうも噛み合わない会話になってしまったが、「いかそうめん」というのは、個人成績表のことだった。
そこには、各科目の点数、3科目・5科目・総合点数、クラス順位、学年順位、偏差値等々が書かれている。
たぶん、全体の表から、名前のラインに沿って切り、各生徒に渡すのだろう。
幅が1cmにも満たない細長い紙きれは、いかそうめんに見えなくもない。
先生がネーミングしたようだが、ジョークとしてはいまひとつ。。。(余計なお世話)


「で?どうだったの?」
するとこころはにかっと笑ってわたしに近づき、「あのね・・・」
なぜか内緒話のように耳うちしてきた。しかも息の声。


「えええええ?すっごぉーーーい!!!」
「えへへへへ〜〜〜〜〜」


でも、こころはその大事ないかそうめんを学校に置き忘れてきたらしい。
だからわたしは実物をまだ見ていないので、本当のところはよくわからない。
まさか見間違いだったりして。。。。
それよか、もうなくなってたりして!




2005年03月14日(月) ホントの気持ち

お酒は毒だと思う。
毒だから、飲みたくなる。
毒だから、美味しい。


もちろんわたしは、お酒が好き。です。
ビールは飲めないし、飲まない。けれど、ワインは大好き。
焼酎も好き。お湯割りなんか、素晴らしく美味しいと感じる。
それでも昔に比べると弱くなった。しかしながら、今でもまぁまぁ「飲める」ほうだとは思う。



お酒を飲むと、陽気になる。
酒を飲んで、暴れたことはない。(たぶん)
泣いたことは・・・・・ある。(もちろん)
でも、大体が楽しいお酒だ。歌ったり踊ったりする。結果、余計にぐるぐるマワッてしまう。
それくらい、しあわせなお酒になる。


お酒を飲むと気持ちが大きくなる。
それは、心を開いてしまってるような気分でもある。
いろんな呪縛がなくなって、思うままに喋ってる感じ。
普段は言えないようなこととかも、口からするすると出てくる。
それは「本心」と呼べるものに近い(ようにも思える)。
もし、周囲も酔っているのならば尚のこと。


でも・・・

酔っ払いの言うことは、本当は本心なんかじゃない。
ホントの気持ちなんかじゃない。
心開いてるわけじゃない。
それはたぶん、毒が吐かせただけの言葉。
薄っぺらな気持ちの、そのまた、うわっつら。

聞いている酔っ払いだっておんなじ。
実際のところ、彼らはなぁーーーーんも聞いちゃいない。
うんうん、なるほどと聞いてる姿・・・それは毒が見せる、ただの幻。



わたしはお酒が好きです。
お酒を飲む人も酔っ払いも大好きです。


けれども、もしも何か伝えたいことがあるのなら、
もしも何か聞きたいことがあるのなら、
酒なんか飲んでないときのほうが良いのです。


心は毒に支配され、魂はそこを離れるからです。
開かれた心と感じたのが、実は空っぽの心だったりするからです。





2005年03月13日(日) ひとり、ふたり

寒い一日。
天気は良かったのだけれど、風がとっても冷たい。
朝、高隈山には雪雲がかかっていた。
山の上が雲のなかにすっぽりと隠れていて、幻想的。。。。



母が遊びに来て一週間になる。
今回は比較的、身体の具合いが良さそう。気持ちも上向きな感じだ。
そういうのは見ていてよくわかる。そして、こちらまで嬉しくなる。


母は父に死なれてから、ずっとひとりでいた。
再婚なんて考える暇もなかった、と言う。
結婚は(父との)一回限りで充分!とも言っていた。
でも、ひとりでいることを淋しく思うこともあるようだ。
特に老夫婦を目にしたときなど、父のことを思い出すらしい。


わたしも、今、父が生きていたらなぁ・・と思うことがある。
そうしたら母は、どんなだったろう・・と思うことがある。
夫婦ともに年老いていくことの素晴らしさを思うことがある。
母はもっと笑っているだろうか。
もっとしあわせに感じるだろうか。


わたしはどうだろう。
自分が老いていくことをうまく想像できない。
そんなに長く生きていないような気もするが、きっとひとりでいるんだろうなぁ・・・と、思う。
淋しいかな。。。。? まだよくわからない。




2005年03月11日(金) 開放

3月になってすぐ、いつも行く窯元へと出かけていった。
5、6年くらい前にこの場所を知り、彼の焼く陶器に魅せられ、機会があれば訪ねている。
この窯元さんはとても素敵だ。作品も、ご主人も。


彼に、以前買った陶器のことを話す。
こんな感じのヤツで、ここがこうなってて、これくらいの大きさで。。。あの形はもう焼いてないんですね・・・みたいなこと。
すると、彼は決まってこう言う。
「思い出せないなぁ。。。」

最初はちょっと驚いてしまった。
「忘れる」なんて!そんなことって!
でも本当に彼は覚えていないのだ。おぼろげには思い出したりもするらしい。でも、殆どの場合、まったく思い出せない。

こんなことも言う。
「なんだって、そんなモン、創ったんかなぁ。わからんなぁ。。。」
えぇぇぇぇ??? ・・・思わず笑ってしまうようなお言葉じゃないか。


これが、職人としてどうなのか、或いは芸術家としてどうなのか、素人のわたしには全然わからない。
わからないけれど、でも、もしかしたらそれってすごいことなんじゃないかな・・・、と、最近、思う。

その窯元に行くと、工房の庭先に彼の古い作品が無造作に捨てられている。
もしかしたらそれはオブジェとして配置されているのかもしれない。わからない。
でもどう見ても、捨てたように、置かれたままだ。もちろん、雨ざらしで。
誰かが盗んで行ったとしても、彼は気付かないかもしれない。気付いたとしても、たぶん気にしないだろう。


彼はときどき、古い作品を「くれる」。
「捨てようと思ってたやつだけれど、良かったら持ってって。」と、さらりと言う。
以前どこかのコンクールに提出したようなやつも、いただいてしまったことがある。
「この作品のタイトルは何ですか?」
そのときそう聞いたわたしに、彼はちょっと恥ずかしそうに言った。「タイトルは、言えない。」「無題。なんとでも。」と、笑った。
可笑しくなってわたしも一緒に笑った。なんでもいい、だって。なんてまぁ。。。


古い作品に対する「こだわり」がない。ということ。
こだわらない、というのは、執着がない、ということ。
執着心がない、ということは、自由、ということ。
自由というのは、いつも、常に、新しい、ということ。



わたしは、自分には信念がある、と思っている。(へぼ信念だけれどね)
でも、本当はそんなものも要らないような気がしてくる。
「信念」というのは、ある意味「執着」みたいなものでもあるような気がする。
(あ、でも、へぼ信念くらいだったらちょうど良いのかもしれないな。。。。笑)


この数日間、書きたいなぁ・・と思ってたことがいくつかあったのだけれど、今となってはもう書きたくないというか、意味がない、というか。
時間が経つともうどうでも良かったことのような、今このときに書くにはそぐわないような。

しばらくPCが使えなくなって、ちぃっとばかり、いろんなこだわりから解放されたような気がした。
それは、開放、でもあったのだと思う。

日々、へぼ信念をぶち壊せ。  だな。。。




2005年03月05日(土) FAITH



 

  FAITH IS LIKE
  WIND UNDER
  YOUR
  WINGS
          Carol Endres





3月。
友人から貰ったカレンダーに上記の言葉が書かれている。
なんて素敵な言葉だろう。
添えられた絵もまた素晴らしい。
風になびく枝葉の下、天使が羽根をひろげて飛んでいく。(上の絵ではなく)



今日、こころの学年末テストが終わった。
本人曰く、まぁまぁの出来かな・・・といった感触らしい。
というか、終了した途端、元気になった感じだ。
「進級出来るかどうかの判定になる」という先生の言葉に脅えて泣いた日が夢のよう。。。。笑



FAITH

風のように自由なものでありたい。
だからこそ飛べる。
愛する。
与え、与えられる。



marcellino |mail