ぶらんこ
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"We love rain!" 夕方から絵を描いて遊んだ。 ちまちまちまちま描いてるうちに だんだん眼がチカチカチカチカ・・・ 雨の雫がぐるぐるまわりながら 川になって流れてった感じ。
『家庭訪問』 学校の教師が、児童・生徒の家庭環境を理解し、家族と密接な連絡を保って、児童・生徒の教育に効果をあげるためにその家庭を訪問すること。
こころの学校の家庭訪問があった。 すっかり忘れていた。母子ともに初体験。内心、家庭訪問なんてまだやっていたのかーーーと思ったり。。。
学校教育における「家庭訪問」というシステムは日本独自のものらしい。 確かにアメリカではなかったし、夫にこのことを説明するのにちょっと手間取った。 いつ頃から始まったのかな?よくわからないけれど。 先に挙げた家庭訪問の主旨は理解できる。素晴らしいことだと思う。でも、それってどうなの?という気持ちもある。 なぜって、親は招待するつもりもなかったのに先生が家に来るわけでしょう。 ましてや「訪問してもよろしいですか?」と聞かれたわけでもない。 もちろん訪問するときのスケジュール調整はある。こちらの意向も聞いてくれた。 でも、学校側が「家庭訪問」という形を提示した時点で、「訪問」は暗黙の了解となり、拒否したくとも出来ないような、そんな感じじゃないかなぁ。 殆ど強制的なもの・・・かつ、流れ作業的な。 それは如何なものか、と。。。 教師側も大変だろうなぁ、と思う。ものの15分〜20分程度じゃ、相互理解が深まるどころか時間の割り振りで頭がいっぱいだろう。
なーんてことを例えばPTAなんかで発言したら目立つだろうなぁ。。。。
でも、検索していてこんな言葉を見つけた。 『全国的に見てみると、保護者の価値観の多様化やプライベートゾーンの広がり,また社会の変化などの影響でこの家庭訪問が大きく変化しています。 それは,家庭訪問をとりやめ地域訪問に切り替えたり,「家庭訪問」「個人面談」「グループ面談」から保護者が選択するといった学校もあります。 さらに,後者については家庭訪問を希望した者は,1人というクラスもあったと言います。』 これは、和歌山県教育研修センターの機関紙かなにかでの巻頭言。平成13年となっている。→こちら
学校の家庭訪問を受ける直前に、世のお母さんがたは大掃除をする。たぶん。 そしてシミュレーション。お茶かな。珈琲でもいいかな。お菓子は出したほうが良いのか? などなど。 訪問する教師も大変だけれど、迎える親も大変なのだ。年に一度のイベント。この日を乗り切るために。
わたしは先週から「訪問看護」の仕事を始めた。 医療保険とか介護保険とか個人情報保護法とか法人とか、いろいろいろいろなことが絡まりあって、「訪問」という形が出来る。 もちろん、患者さんやご家族は「訪問」を希望してくださっている。 病院や施設における医療或いは介護を「在宅」でやっていきたい、と希望されて、「訪問」というサービスを受けている。 それでも、常に忘れてはならないことがある、と思う。 それはイベントでもなんでもなく、「家庭」という「日常」のなかに、わたしたち看護師が「入っていく」ということ。 そのことをいつも謙虚な気持ちで心に留めておかなければ・・・と思う。おなじ家庭訪問でも、そのところが全然違う。
ところで、こころの先生の訪問は3時半頃から5時頃まで行われた。 玄関では座ってお迎えするべきなのかな・・?などと馬鹿げたことを考えながら待っていたのだけれど、そんなことはもちろんなく。 こころも一緒に3人でいろんな話が出来て、非常に貴重な時間を持てたと思う。 こころの先生はひとことで言うととっても「柔和」なひと。そして、心のなかが自由なひと。 わたしはお会いして、大好き!!になった。 こころ自身も今回の訪問で先生への印象が変わったみたい。 良かったよかった。。。。
The weather is beautiful, he enjoys sitting in the backyard, sniffing the breeze and listening to sounds.
晩御飯のときにこころが「今日マミィのぶらんこ読んだよ」と言う。 驚き。。。それから、何書いたんだっけ?と一瞬思ったが、「あっpossibilityかー」と笑ってしまった。 でも、こころが読んだのはそれじゃなかった。 「おばあちゃんとおじいちゃんの話してるやつと、わたしがモデルになりたいって言ったやつと、それから・・・」 どうやら彼女は古い日記をいくつか拾って読んでいたらしい。タイトルで選んだのかな?どうしてだろ?聞くのを忘れた。不思議。。。
ウェブに日記らしきものを書くようになって、どれくらい経つのかはっきりと覚えてはいない。 4年くらいか?えー、そんなに?なんでだろ???自分でもよくわからん。 でも、こころがいつか読んでくれるかもしれない・・・いつ頃からか、ぼんやりとそんなことを思いながら書くようになったなぁ。 それがこんな早く実現するとは思わなかった。 なんで読む気になったんだろう?不思議。。。。
仕事を始めて2日目。 昨夜はこころにオイルマッサージをしてもらった。 今夜もこれからしてくれるらしい。 こころは最高。 母は甘えん坊。
possibility
1 a chance that something may happen or be true: 2 something that you can choose to do in a particular situation: Cambridge Advanced Learner's Dictionary
1 the fact that something might exist or happen, but is not certain to: The Oxford Phrasal Verbs Dictionary
1 if there is a possibility that something is true or that something will happen, it might be true or it might happen 2 an opportunity to do something, or something that can be done or tried 3 if something has possibilities, it could be made into something much better Longman Dictionary
なるほど「可能性」という言葉は前向きな意味で使われるのだな、と。。。。
来週から仕事を再開する。 勤務先は、地域の病院。 以前から興味のあった訪問看護の仕事だ。 正直なところ病院はやっぱり好きじゃないし、西洋医学への疑問もあるのだけれど、将来に繋がる何かになると信じている。 理想とのギャップとかいろんな矛盾とかもあるだろうけれど、第一に『対象は患者さん』 このことを忘れずに。 常に謙虚な気持ちで向き合っていきたい、と思う。
さて、どんなことが待っているんだろう。 しばらく怠けてたから、たくさん勉強しないとなぁ。。。。。
Can you feel it?
都井岬・幸島 04/04/2005
庭の隅にあったトゲトゲの木を切った。
トゲトゲの木は金柑の木の後ろ側にあった。幹も枝もトゲだらけの木。 名前がわからないので「トゲトゲの木」とわたしが命名した。
トゲトゲの木は、もの凄い勢力で伸びていた。 金柑の木の上に覆いかぶさり、四方八方、枝は不恰好に宙に向かっていた。 時々剪定したのだが、どうしてもトゲに刺さりまくるので、途中で投げ出してしまう。 そうやって、トゲトゲの木は成長したのだろう、と思う。
でも、この春に母が来てから、あの草を切れ切れ、と、口やかましい。 草じゃないよ、木だよ。とわたしが言うと、いや、あれは草だ。と、母は言い張る。 「あんなに太い幹の草はないよ」 「ほったらかしにしてたからあんなになったんだよ、草が。あれじゃ金柑の木が死んでしまうよ、あの花壇の花も」
せめて花が咲いたら名前がわかるかも・・・と思ってそのままにしておきたかったのだけれど、これ以上放っておくと、母自身が動きかねない。 そんなことになったら、トゲトゲの木を切る前に、母の脚が折れてしまう。
と、いうことで、今日は奮起して始めた。 トゲトゲの木を見上げ、「ごめんなさいね。」と言って。
キズだらけになりながら、トゲトゲの木を切った。 切った枝たちは、裏の雑木林へと引っ張って行った。 枝は金柑の木の枝にからみついていたので、何箇所もノコギリを引き、ぶつ切りのようにしてはずし、持っていった。 トゲに刺されながら、10往復くらいした。 両手・両腕・両脚、どこもかしこも切り傷だらけになってしまった。 頭にこそ刺さらなかったが、かぶっていた帽子は何度か枝と一緒に投げられ、慌てて拾った。 「イタタタタ、イター!」 馬鹿みたいに叫びながらの作業だった。
でも、トゲトゲの木は、こんなに沢山のトゲを持ってしても、それも、わたしのような貧弱なヤツに切られてしまった。 自分の身を護るためにつけた鋭いトゲだったろうに。
トゲに刺され血を流し、それでも枝を運んでいたら、なんだか自分の姿が重なってしまった。 わたしもこんなトゲだらけなんだろうなぁ。。。とか思ってしまう。 誰も寄せ付けない人間なんかもなぁ。。。とか。 なのにこーんなに弱いんだね・・・なんて。 なんだか、どっちが切られたのかわからなくなる。 トゲトゲの木の悲しみを感じたのかなぁ。。。。
ところで、直径4cmくらいの幹をまずノコギリでギコギコ切ったのだけれど。 そのとき、いったい何歳だったんだろう・・と思って切り口を見たのだ。 そうすると、驚いたことに、そこには「輪」がなかった。 木の持つ、あの、何年生きてるかわかる、あの輪っか。あれが、ない。 切り口は、真ん中に白く小さな丸があり、そこから放射状に筋がいくつも伸びていた。
草だったんだーーーー、、、、
「やっぱり木じゃなかったよ」 母にそう言うと、母はあっさり、「知っとったよ」と言った。
トゲトゲの木はもうない。 でも、少し前にトゲトゲの木のちっちゃいやつを鉢に植えておいたので、花が咲くのを待っている。 野薔薇かなぁ。。。と、思ったりもするけれど。
2005年04月12日(火) |
perspective |
良好!
高千穂の峰 04/05/2005
友人から「もうお花見に行った?」と聞かれて「もちろん」と答えそうになったのだけれど、ちょと違う。 お花見=宴会 ということであれば、まだ行ってないんだなぁ。。。。 なんだか。忘れてたよ、そんなこと。
お花見なんて内地の人間のすることだ、という感覚があったので、ここらの人はしないモンだと思ってたのだけれど、ここも一応「内地」だった。 会社のお花見、友達とのお花見、何かの集まりのお花見・・・いろいろあるんだろうな。うへー、大変。 でも、皆さんそうやって楽しんでるわけだから、実は大変でもなんでもないのだろうな。
わたしは、基本的に人と集うのは苦手だ。 ここ最近、もっと苦手になってきた。 きっと仕事をしていないせい。社会生活から離れているせい。 これは、良くない。
というのも、実際、気楽で結構なことなのだけれど、何かの集まりがあるときになんだかギクシャクしてしまうからね。 どうも落ち着かないし、ガチガチに力が入ってしまったりする。 知ってる人ばかりだとそうでもないのだけれど。(まぁでも似たようなモンかも。。。) それなのに、周囲からは「どこ吹く風」のように見えていたりするらしい。 威張っているようにも(!)見えるらしい。 そんなーって感じ。 でも、わかるような気もする。。。。 わたしはきっと、人と合わせようという意識が薄いのだろう。冷たいヤツだ。。。 自分から話しかけることは殆どない。そこらへんが「ふんぞり返ってる風」なのかもね。 そのくせ、誰かから話しかけられたりすると有難いなぁ・・と心から思う。 そして、気持ちがうまく入っていかないことを申し訳なく思う。 これでも本人は努力しているつもりなのだから、ちゃんちゃらおかしい。その場にいる、ということの努力。 つまり「幼い」っちゅうことだなぁ。 「くゎっか(こども)」と言われたことがあるけれど、本当にそうだなぁと、思う。 集団の中で他者とうまく関われない、というのは社会生活を営むうえで問題だ、とは思わない。 けど、障害にはなるよ。。。。厄介なモンです。
ところで「お花見」。 桜の花を見上げてぽわわん。。。というのはしてるけれど、宴であるお花見はしてない。これからも予定はない。 でも、庭の木々が芽吹いて、いろんな花があちこちに咲き始めてとっても綺麗。 集いに出かけるのは苦手だし面倒だけれど、宴は(大)好きなので、そのうち我が家の庭でお花見をしようと思う。家族で。 さて、何を作ろうかなぁ。。。楽しみだ〜。
そうして、夏までにはガーデンテーブル&チェアーを買いたい。梅雨が明けてからがいいかな。 その時季はどんな花が咲いてるんだろう。 まぁ、花がなくてもお月さま見ながらわいんをば。。。。うーい。これまた楽しみ〜。
我が家の庭にも春の訪れを感じる。 この庭で春を迎えるのは初めてのこと。 暖かくなり始めてから草取りばかりの日が続いていたのだが、春が来たおかげで、庭の先住人たちにあらためて会えたような気がする。 それがすごく嬉しい。
抜くのが勿体無くて放っておいたクローバーたちに小さな黄色い花が咲いた。 何度か植え替えたマンサクの木には可愛らしい赤い花。(初めて見た。) 名前のわからない木に、鮮やかな紫色にも見える桃色の花がつき、その隣には(驚いたことに)薄桃色のイワツツジの花が咲き始めた。 イワツツジが植わってるなんて今まで知らなかった。 芙蓉の木はとうとう芽吹き、もみじの葉は日に日に色を変えながら膨らんでいく。 そんな庭で、座ってちまちまと草を取ったり植物に水をやったりしていると、時間を忘れてしまう。 陽射しが案外強いときもあるし、花粉症なのか鼻水が出たり顔の皮膚が赤く痒くなったりもするけれど。 とてもとても、気持ちが良い。 いつまでもこうしていたい、と思うしあわせなひとときだ。
いつの間に増えた鉢植えの植物たちも、むくむく、しっかりと育っている。 冬の間、お日さまに当てるためにいちいち外へ出しては、夕方、冷え込む前に中へ入れる、という作業を繰り返していた。 正直なところ、ひょっとして無駄なことをしてるんじゃないかなぁ・・・と思ったこともあったので、今になってちょびっと申し訳なく思う。 枯れちゃってるのかも・・と思った子も、ちゃんと新しい芽を出してくれたし、株分けした子たちもそれぞれ元気。
そんな彼らの姿を見ていると、すごいなぁ・・・と、心から思う。 彼らは季節を感じ取り、成長していく。 たとえ死んでしまう種子だったとしても、その成長の過程のなかで、他の生命を育む。 それはきっと、自然の法則に身をまかせているのだろうなぁ・・・と思う。 自然の流れのなかで、自らの伸びゆく姿を信頼し、ただ、それに向かっていく。ということ。。。なのかなぁ。
「自然にまかせようと思う。」 昨夜そう言ったときに、こころは目を丸くして驚いていた。 そうして、うーん。。。と考え込み、そうだね、それが良いよね、と言った。 ・・・何を感じたのだろうね?
自然にまかせよう、と、思う。 何かを無理に進めるのではなく。我慢するのでもなく。 いつも、自分のなかで大切にしていることを中心にして。心を開いて。 そうしたら、わからなくてもわからないなりに、進むべき道を見出すだろう。自然に道があらわれるのだろう。
もしかしたら、自然の法則って「愛」なのかな・・・と思う。
愛はすべてにかなう。 すべてにふさわしく、すべてを含む。
わたしは愛するひとになりたい。 自分の伸びゆく姿を想像し、それを心から信頼し。。。。
「いい女」って、どんな女性のことだろう。。。 それは、「いい人」と言われるのとは、ちょっと違った感じがある。 いい女。良い女。
それはきっと、性的な魅力を感じている場合に使うのだろうと思う。 異性であれ、同性であれ、性的な対象として見たときに感じる魅力。 そうでないものが「いい人」。とも言えるのかなぁ。。。 よくわからない。
「いい女」と言われたら普通、嬉しいのだろうなぁ。 というか、たぶん、嫌な気持ちはしないだろう。 実際、そういう経験がないので、わからない。 ちなみに・・・想像してみても、わからない。 嬉しいかな?どうだろう。。。 よくわからないけれど・・・なんだか違和感を感じるような気がする。 なんだ、そら? って。
「いい女」ってなに? 女性として魅力がある、ということ? つまり、愛を交わす対象として? それは、抱きしめたい、という感覚だろうか。 抱きしめられたい、という感覚だろうか。 束縛したい、という気持ちだろうか。 自由でいて欲しい、という想いだろうか。
わたしは、いい女なんて言われたことはないし、この先もそんなことを言われることはないと思う。 でも、そんな言葉は欲しくない。 そんなのちっとも要らない。
わたしは「好きだ」という言葉のほうが嬉しい。 「愛してる」という言葉のほうが欲しい。
形容は要らない。 ただの「想い」が欲しい。
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