ぶらんこ
index|past|will
クリスマス おめでとう
あなたもわたしも 平和な心でありますように
いつもお世話になっている方へ“そうだ。クリスマスだからちいさな贈りものをしよう。。。” そう思っていたのだけれど、 さてそれはいかがなものか?と考えさせられることが少し前にあった。
「贈る」という行為。 それはどんなにちいさなものであれ、相手に「何か」を与える。 その「何か」というのは、受ける人にとってのもの。。。
ひととひとにはバランスというものがあると思う。 たとえば、純粋に「好き」という気持ちを持っていたとしても、相手にとってはそれが重いものでしかない場合もあるし、そうでないこともある。 想いがおなじような深さ?であれば、お互い一緒にいて気持ちが楽になるだろうし、もっと深くもなる。のかな。。。 そして、片っ方の想いだけが深いと、それは相手にとっては重く感じるのかもしれない。 或いは、何も感じないかもしれない。それもまた、バランスが取れてない、ということでもあるのかもしれない。
「贈られたひとにとっては何らかの負担になる」 というようなことを言われ、はっとした瞬間、思いがけず、涙がこぼれてしまった。。。自分でも驚いた。何を泣く必要がある??? 笑 ― その言葉を聞くまで、そのような発想がなかった。 違うなぁ。。。あったかも。なのに、何も気付かなかった。考えなかった。 これまでにもそのような失敗?はあったのだ。相変わらずわたしは浅はかだ。。。
では、そのひとにとって負担にならぬような手だてを・・・と、考えもしたのだけれど、そうなると心がギクシャクしてしまった。 なんだか「計算」しているようで、自分が嫌になる。 「あげたい」という、あの純粋な気持ちがもうどこかへ消えてなくなってしまったような気がした。
クリスマス前にそんなことがあり、ちょびっと重い気分だった。あまり考えないようにしてたけど。。。
そして、昨日、ふと、心のなかに何かが入った。 こころに何か贈りものを・・・と、考えながら車を走らせていたときに。
彼女はきっと喜ぶだろう。 満面の笑みで受け取るだろう。 いつもそうだった。毎年、毎年。。。 ただ、「ありがとう!」と受け取る。マミィとダディにその分をお返ししなくちゃ、などという考えはない。 贈るほうだってそうだ。ただ喜んで欲しいだけ。そのほかには、何も、いらない。 その行為は、いつかどこかで何かに換わる。そのひとにとって、良いように。
それが世界の「バランス」なのかも。。。?
こどものような心で、素直に、贈り、いただく。 わたしは、そうありたいなぁ。。。と願います。
皆さまもどうぞ素敵なクリスマスでありますように!
夜の散歩へ出かける。 ぷーは相変わらず先を行き、わたしは彼について行く。
彼はだだだっと駆けていく。 わたしはその後をのろのろと歩く。 しばらく行くと、暗闇の向こうに、ぷーの白い首筋が浮かんでいるのが見える。 彼はわたしが来るのを、少し先でじっと待っている。 そして、わたしの姿を確かめてから、また先へ走っていく。 わたしはそんな彼の後姿を見ながら、のらりくらりついて行く。
ときにわたしが立ち止まると、ぷーは遠くから駆け戻ってくる。 はっははっは、息を吐きながら、彼はまっすぐな眼でわたしを見上げる。 そしてわたしの周りを飛び跳ね、やたらと付きまとう。 「マミィ、マミィ、マミィ!!」 わたしが返事をするまで、彼はわたしを放っておかない。
ぷーは夜の闇をいつも勢い良く駆けていく。 嬉々と。自由に。たくましく。 わたしは時々、自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。 何を求めているのかわからなくなる。 必要なこと。 自然なこと。。。 なんだろなぁ。考えてもわからない。 考えること自体、不自然なことのようにも思えてくる。 だからただ、ぼーっと星空を眺める。
そうすると、ぷーがわたしを迎えにやって来る。。。。
昔、登校拒否をしたことがある。 小学校の頃に2回。 保育園の頃に1回。(これは登園拒否?)
登園拒否は最後まで遂行された。 何が理由だったのかは思い出せない。 たぶん、学校が休みかなんかで兄貴や姉たちが家にいたので、わたしも一緒に遊びたかったのかもしれない。 わたしは「行かない!」と兄弟たちに宣言し、押入れの中に篭った。 そこで兄貴は、わたしの代わりに弟を保育園へ行かせることを決めた。 (よくもそんなことが出来たモンだ・・・と、今になって思うのだけれど。) 弟はわたしの通園バックを肩から提げさせられ、嬉々として出かけて行った。 わたしはそれを押入れの壁の穴から見ていた。 ほんのちょびっとだけ、弟をうらやましく思った。こんなことしてるよりも、保育園に行ったほうが楽しいのかも。。。とも思った。 それでもやはり、これで確実に休めるんだ。。。という開放感で満たされた。 なのにその後、どうなったのかはまったく覚えていない。 どうやって押入れから出て行ったんだろ?笑
登校拒否の方は完遂されなかった。 二度とも、母に無理やり手を引かれ、学校に連れて行かれた。 大々的に遅刻したうえ、泣きはらした目で一日を過ごす羽目となった。 自分でしたこととは言え、かえって目立つようなことになり、後悔の気持ちでいっぱいだった。 そして、二度目の挑戦が撃沈されたとき、母には何をやってもかなわない。。。なんとなくそう思った。 だから三度目はなかったのかもしれない。たぶん。
学校を休む、ということはなぜか罪悪感を伴う。 大人になった今じゃ、そんなに悪いことでもないと思うのだけれど。 だから、おたふく風邪で休んだときなんか、幸福感でいっぱいだった。 正々堂々と休めるからね。 「ズル休みじゃないんです。わたしは病気なんです。」 身体はキツくても、なぜか嬉しい。むしろ、どこか誇らしくもあり。 なんとも不思議なこども心の葛藤。
「ズル休みは良くない」と、多くの人は言うだろう。 大体に、「ズル」という言葉自体がもう既にネガティブだ。 では何が悪いのか?というと、たぶん、第一に理由が「嘘」だから。かな。。。
たとえば、風邪でもないのに風邪です、と言ったり、熱がある、と言ったりする。これは真っ赤な嘘だ。 まぁ「わたしは今日ズル休みをします」と言ってもいいのだろうけれど、それでは相手も困る。 ズル休みをするときというものは、休むことを決めているのだから、その時点で「嘘」をつく覚悟でいる。 (そう考えると、「ズル」というのも、なかなか正直な行いであるようにも思えてくる。笑)
それから、第二に、簡単に休もうなんて考えず、もっと我慢することが(も?)必要。或いは大切だから。と、いうこと。 「ちょっと今日はだるいので休みます」では、誰も納得しないだろう。 だるいのはあなただけじゃないよ、みんな辛いし苦しいよ、とか。 そんな理由は「ズル」だ、とみなされるわけだ。 けれども、そもそも苦痛の度合いというものは人それぞれであり、万人に通用する数値に置き換えることは出来ない。 数値はあくまでも、その人自身の「感覚」でしかないわけだから。 なので、たとえ自分が10の苦痛がある、と感じていても、相手はそう受け止めてはくれない。 相手にとってそれは、2だったり5だったりするわけだ。 ということは・・・ 「我慢することも必要」という言葉もナンセンスに聞こえてくる。 あなたに我慢できてもわたしに我慢できるとは・・・そんなの誰にもわからないでしょ。
学校を休むためには正当な理由がいる。 ここで言う「正当」とは、学校という場所が勉学のために通う所、ということを第一である。ということを前提とした上でのもの。 簡単な例では、風邪をひいて咳が酷い、とか、熱が高い、とか、そういったことは「正当」だろう。 でも、熱があったって薬を服ませて行かせる、と判断する親もいる。 咳をしていてもマスクをつければ良い、と判断する親もいる。 となると、正当な理由というのは、 「親が子に対し、学校を休ませる必要がある、と判断した場合」 ということだと思う。 熱がなくても、これでは勉強にならないだろう、というのが理由で休ませることも出来る。 要は、親が責任を持って判断すれば良いわけだ。
と、まぁ。。。長々と能書きをたれたのだけれど。
たまには「休み」も良いもんだと、わたしは思う。何事も、経験するべきだと思うから。
でも、「ズル休み」というものは、非常に(!)気まずい。 まず、電話をかける時点で、思わず声がうわずってしまった。。。 嘘をつく覚悟がきちんと出来ていなかったのだろうなぁ。。。まいった、まいった。 はっきり言って、もう二度とこういったことはしたくない。笑
しかし、「我慢」ということに関しては、充分過ぎるほどに学んでいる。と、思う。 だからときには理由もなく休んだって良いように思う。 (とは言っても、理由は必ずあるのだろう。意識下であっても。) 今日、学んだことがあるとしたら、「嘘」をつくこと(つかせること)の後ろめたい気持ち。 それから、なんとも言えない開放感! そして「共有」!!
たまには「ズル(?)」も良い。のかもしれない。。。笑
使命感とか義務感ではなく
地位や立場といったものは
無に等しい
姉のお店ではいつも穏やかな曲が流れている。 どこまでも優しく、静かで心地良い。。。 曲じゃないときもある。 1/f(ゆらぎ?)とか呼ばれる音。 森に流れるせせらぎや鳥のさえずり。波の音。波と遊ぶイルカの声。。。 こういった音は、疲れた体と心に良いのだろうと思う。 休息を求めてやってくるお客さんにはきっと必要な「癒し」の音。
時々わたしも(お客さんのいないときに)ひまし油パックをやってもらっている。 温かいひまし油パッドをお腹に当てるのだが、ベッドに横になって音楽を聴いていると、とろとろといつの間にか眠ってしまう。 疲れてるわけでもないのに。。。と、不思議に思う。 でも無自覚なだけで疲れているのだろうな。。。たぶん。
「癒しの音楽」といったようなことが書かれているCDを聴いていて、思い出した場所がある。 ナウシカが呼び寄せられた幻の庭。 今、手元に原作本がないので、その場所の名前が思い出せない。。。 (全7巻の漫画版「風の谷のナウシカ」に出てくるシーン。映画には登場しない。)
そこは、きらきらとした光が降り注ぎ、そよ風の吹く平和な「護られた」場所だった。 外界からは見えない。つまり、存在しない場所だとも言える。 ナウシカはそこへと入り、そして、いつまでもそこにいたい、と願う。 すべてが調和に満たされたその場所に。
けれども、ナウシカはやがてそこから出て行く。自分の力で。 引きとめようとする強い存在に、彼女はきっぱりと言う。 「無駄です。オーマに名前を与えたときから、わたしは心を閉ざしました。」
わたしは映画になったナウシカの曲たちが大好きだ。 わたしにとっての「癒し」の音楽だと思っている。
腐海の中で、胞子の結晶が雪のように樟気の森に降り注ぐときの、どこまでも透明で静かな、美しい音楽。 蟲たちがざわめき始め、森が異様な雰囲気になるときの緊張した音楽。 ナウシカが怒りに燃え上がり、闘い、人を殺めるときの、荒々しい力強い音楽。 王蟲が登場するときの、神々しくも重厚な音楽。 ナウシカの心をあらわす、深いふかい悲しみの音楽。 風をつかみ、空を飛ぶ、優しくてとても自由な音楽。
いろんな音に、メロディーに、サウンドに、自分の心が重なる。 憤り、苦痛、自責、抗い、激しさ、悲しみ。。。 自身の中の感情が、音楽とともに体中の細胞ひとつひとつにしみわたっていき、ほとばしる。 そして最後に、心は静かな喜びに満たされていく。 希望。しあわせ。祈り。。。 そういった言葉が心に浮かんでくる。 なぜかわからないけれど、いつもいつも涙が出てしまう。
音楽というものは本当に美しいなぁ。。。と思う。 それに響きあう、ひとの心も美しいのだろうな。。。と思う。
そして、「癒し」ということもまた、そういうものなんじゃないかなぁと思う。 優しいだけでない、静かなだけではないもの。 交響曲のように。 出会い、経験、共有、変調、放出、受容。。。
一連の流れがあってこその、美しさ。
ひとには、たくさんの水と風があれば良い。そして、少しの火。 多過ぎる火は何も生まない。
・・・
「風の谷のナウシカ」を見た。 先の言葉は、ミト爺(たぶん)がクシャナに言ったもの。
水と風。火。
わたしは「水」の星座。
今日は雨降り。。。
すれ違いざまに、こんな言葉をかけられた。
「もう少しですよ。」
なんて良い言葉なんだろう。。。
これまでずっと、自分に言ってきた言葉。 これからもきっと、ずっと、言い聞かせるであろう言葉。
もう少し。 もう少し。
テレビで30人31脚?というのをやっていた。 全国各地から選出された小学生の全国大会ということだった。 各チームの練習方法やメンバーの紹介などもあり、思わず真剣に見てしまう。 それぞれのチームに、こちらの気持ちが入ってしまう。。。
それにしても、チームというものはいろんな色を持っているなぁと思う。 それぞれが地区大会を勝ち残ってきたのだから、皆、力を持ったチームばかりだ。 きっと皆が、ほぼ同じくらいの力なのだろうと思う。 それでも、それぞれのチームの色がある。 それは「感じ」とか「雰囲気」といったもの。 そしてそれは、たぶん、率いる先生(コーチ)の色なのかなぁ。。。と、ぼんやり思う。
真剣に、ひたむきに、鋭い目で、こどもたちが叫ぶ。 「気合いだー!!」
わたしは、ただただ、感嘆している。 それと同時に、自分があの中にいなくて良かった。。。なんて思ってしまう。 こころがあの中にいなくて良かった。。。なんてことまで思ってしまう。
彼らは夏休みの間も、毎日欠かさず練習してきた。 毎日、だ。 たかだか10歳や11歳なのに。 そんなこどもたちを統率する先生の熱意も、すごいものがあるなぁと思う。 わたしには出来ない。 出来ないし、したくない、と思うだろう。 でも、「したくない」なんて言えるのだろうか? 『みんなの気持ちをひとつにして、頑張ろう!』 そんな言葉が頻繁に叫ばれる中で、「わたしはやりたくない、、、」なんて、言えるだろうか?
たぶん、やりたくない、、、と思いながらも「やらされてる」こどもが、あの中にはいる(いた)だろうと思う。 どんなに頑張っても足の遅い子もいるだろうし、 どうやったって、リズムの合わない子もいるだろう。 他の子に比べたら背が高過ぎる子もいるだろうし低過ぎる子もいるだろう。 太っている子。 体力のない子。 いろんな子がいるだろうと思う。
でも、そんなこどもたちも、練習を重ねていくうちに気持ちが「ひとつ」になっていくのだろう。 それはたぶん、ちょっとした「洗脳」のようなものでもあるように思う。
それが悪い、と言いたいのではなくて。。。
教師は、そのようなこどもたちひとりひとりの持つ色を知っていて欲しいと願う。 いろいろな色があって、ひとつの色を創りだす、ということを知っていて欲しい、と願う。 みんなみんなそれぞれが違ういろんな色、ということ。
そして、こどもたちもそのことを知っていて欲しい。
何かに、純粋にひたむきに熱心に力を注ぐということは、とてもとても素晴らしいことだ。 そんななかで、自分の持っている色があること。 その色もまたどんどん変わっていくこと。 いろいろあって良いんだ、ということ。
そんなことを思いながら見ていた。。。
生まれたてのすすきを覚えてる? そうっと開いてみたらしっとりと濡れていて 固くかたく抱き合うようにしてた。 まっすぐなのと、くるくるしたのと。
見つけたときの喜びを覚えてる? 世界中がこの一瞬を祝福してくれてるような こんなしあわせなことってない、ってくらいに 熱心に何本も何本も取っては家に持ち帰った。
でも その後はすっかりと忘れてしまって 新しい何かを見つける。 すすきは枯れていったのか 母が捨ててくれたのか。
とてもちいさなことがすべてで でもそれだけがすべてでなくて。
ふとしたことから幼い日の記憶がみずみずしく流れ出る。 あの頃の自分は、今でも心のどこかにいる。
その手に握ってるのは 何?
友人から天使が届いた。 なぜか、わたし『そっくりの天使!!』というメッセージ。。。笑 『お店をぷらぷらしていて見つけた』のだそう。 うーん。。。どこが似てるんだろう??? もう髪は短く切ってしまって、まるで小坊主のようなんだけど、、、笑
夕焼けのよに赤い色の服を着た天使と 星空のよな群青色の服を着た天使。
ふたりとも、大きな翼を拡げ、すっと立っている。 まっすぐに顔をあげて。 にっこりとした笑顔で。
何か言い出しそうな口元。 なんて言ってるんだろう・・と、しばし眺めてみる。
「12月ですよ。」
・・・
ちょうど12月のお祝いをしていた夜でした。 いつもありがとう。
|