プープーの罠
2006年04月28日(金)

かたちのないもの

平日はぷらぷらとして
土日は早稲田君と遊ぶ日々。
時々会社に用事で呼び出された時は、
その後待ち合わせて一緒にご飯を食べたり。

二人が付き合っている
ということは、職場の人には特には言っていない。

勤務先が変わるとは言え
結局同じ会社に残ることになったからには
言ったところでやりづらくなるだけだし。

まぁ、職場にそういう話ができる
ような相手など私にはいないし、
そもそも私がそんな話をできる相手は
森君ぐらいのもんなのだ。

私と入れ代わりに入社した人のチームでの歓迎会
などには、元同じチームのよしみで私も呼ばれたりするけれど
並んで座ろうともまったく今まで通りのやりとり。
妙な動物的カンの利く新星さんが
「お前ら付き合ってんの?」
なんて唐突に言い出し
ても、周りが一斉に
「新星さんもう酔ってんですか?」
と、彼のお酒のペースを阻害するに留まり
誰も本気にしない。

大勢で飲む時の早稲田君はたいがい三枚目風情でしかし
二人となると妙に思慮深く落ち着いた物腰で話す。

理詰めで解明していきたいタイプらしく
 僕のどこが好き?
 %で言ったらどれくらい?
 最初の印象からどう変わった?
具体的に聞きたがりそれは興味があって知りたい
というよりは何だか分析に近い印象。
そうやって客観的に自分を鑑みる機会を与えられ
理性を引き戻される

けれど、私はそんなに深くものごとを考えて行動して
いるわけではなくむしろそういうものは
無意味
だと感じているのでそこで
正直に答えてしまうならばきっと私は

君が好きではない

ということになってしまう。

考えねばならない
時なのだなと思う反面、
散々一人で悩み続け、
考えない
というやり方で折り合いをつける
という結果に至っていた
己との対峙、を
他人に改めて問われたところで
ぱっと答えなど出るわけはなく、
強いて強引に導き出せば
私の人生は私が決めねばならなく、
それが見えていないのに
あなたという他人が介入した人生をどう
やって導き出せばいいのか解るわけがない。

私はただ、
 分からない
と首を横に振ることしかできない。

 一人で思い悩まないで、思っていることは何でも言って欲しい。

気持ちを隠す
気持ちを偽る
というのとは別に
あやふやにしておくべきことがある
というのはダメなのだろうか。

2006年04月14日(金)

Golden Week Month

さて、D社出向の件は会社間の契約で時間がかかるらしく
私は1ヵ月半の休みが与えられた。

次の仕事を探す手間がなくそれだけ休めるとは
これまたラッキーなことだ。

派遣が終了して実家に帰り、また戻ってきてしばらく
してから思い出したようにぷらりと会社に寄り、
契約の話を聞く。

当初は業務委託の予定だったけれど
それだと二重派遣になってしまうから、
ということで、形態も契約社員になることに。

これは一般的にはヨリヨイ雇用形態
なのかも知れないが、
一度話の流れた年末の件もあり、何となく
"不本意な契約"
として若干後ろめたそうに扱われ、
 こうなってしまいすみませんが、
 業務委託でもらえる予定だった手取り金額は保証しますので
とのこと、つまりその
"業務委託でもらえる予定だった手取り金額"から
自分で健康保険と国民年金を払うはずだったところを、
厚生年金、社会保険が差し引かれた状態で
"業務委託でもらえる予定だった手取り金額"なのだ。

実のところ、一度一定期間身を預ける覚悟をして
しまえば詳細はあまりこだわらないので
別にその金額を保証してくれなくてもかまわ
ないし、会社も会社たるものであれば
相手が雇用を希望してきたら手のひらを返したように
雇 っ て や る ぞ
くらいふんぞり返って強気に出てくれてもいいものを
律儀にこちらの希望を飲もうとする。
私はクライアントではない、
ただの雇われの身だ。
この会社は本当に"人がいい"なと思ったり
しながらも私自身の"人がよくない"ので遠慮はしない。

とりあえず
「半年契約ですよ、自動更新はなしです。」
と念を押せば人事部長は
「半年以上続けると有休がつくんですよ。」
と言い、私は
「そんなものはいりません。辞めたらいやというほど休みですから。」
と答える。

もし私が経営者なら、
こんな横柄な人間は雇わない。

なんて思いながら契約書にサインをする。

2006年04月02日(日)

年輪の何枚か内側

祖母の葬式も一段落し、
実家に戻ると家族4人、
ささやかに再会を祝して飲む。

仕事の話になり、父と弟にも
顛末を告げると、母親がカラッと言った。

 あんたが
 登校拒否をして
 中学校も高校もいかないで
 家庭教師をつけて大検を取る
 なんて言い出した時は絶望したもんだけど
 人生どうにかなるもんね。

そんなこと、忘れていた。

私は登校拒否をしたことがあるのだ。

両親が家を買ったのを機に
隣町に転校して通過儀礼のごとく
私はいじめの対象になった。

いじめなんて小学生の頃から普通にあったし
女の子が複数集まれば、仲間
外れなんてローテーションで必ず回ってくる
くらい、取り立てるほどもない日常と習性でしかない
と思っていたけれど、転校する前から知っていたこの中学校の
ガラの悪さはウワサ以上のもので、
クラスレベルではなく、学年全クラスの
不良ぶった目立つ男子総動員だった。

全クラスの黒板に大きく名前を書かれ、
帰り道ひたすら靴投げの的にされ、
周りの女子もつられて私を敬遠するようになった。

とある日の移動教室から教室へ戻る時、
「浅田さん早くこっちに来て」
と、珍しく声をかけられて少し嬉しかった
が、連れていかれた教室の人だかりの中心、
机の上にはカバンが引き裂かれて散っていた。
名前なんて書いてないし学校指定でみんな同じカバン
だけど、真新しいからまぁ私のだったものだろう。
これを一刻も早く見せるために呼んだのか。

みんなが見ているのはカバン
ではなく、私の表情だ。

人だかりにまぎれていた担任はいきなり私の腕をつかみ、
そのまま強引に人だかりから連れ出されて早退となった。
担任の車に乗せられ家に送られる途中、
担任は新しいカバンを買ってくれた。
PTAがやっているであろう学校指定の販売店で
店員のオバサン相手に憤慨しながら
 いやぁこの子いじめにあってカバン壊されましてね
なんてこぼしていた。

みんな、なんて無邪気なんだろうと思った。

次の日の学級会で担任は
匿名で私のことを話題にし、
さらにその翌日には全校集会で校長が同じ話をし、
周りの人にあからさまに凝視されながら
私は他人事のようにそれを聞いていた。

その夜、とても地味な男の子が親と一緒にうちに来て
ごめんなさいと頭をさげた。
同じクラスなのかすらよくわからなかったし
何となく本当はこの人じゃない
んだろうなぁと思った。
この人もこんなことを押し付けられて
いじめられているんだろうか。
でも真犯人なんて誰でもよかった。
みんな一色汰でかまわない。
個々の判別なんかしたくもなかった。

私の中で静かに何かが切れた。

それがきっかけ
ではなかったけれど、前後して学校へ行くのをやめた。

私はその
転校生
というだけでここまでの仕打ちを受ける
ばからしさに、がんばって学校に行く意味を見出せず、
それでも将来のことを考え抜き、

「私はデザイナーになりたい
中学校なんて義務教育なんだから行かなくても卒業できるけど
デザイン学校に行くには高卒でないと入学資格がない
だから、高校に進学するために家庭教師を!」

なんてことを声高々に宣言し
両親に一蹴されて4日目には強制的に家を追い出され
学校に行かざるを得なかった
ので私の登校拒否は3日で幕を閉じたのだが、
母親にはかなりのダメージを与えたエピソードであったらしい。

その3日のダメージは多分母親だけでなく
校長をはじめとした教員にも大きく響いていたようで
それから校長は私とすれ違う度に
めげるなよ、と同情の言葉をかけ続けたし、
教員はみんな私を腫れ物のように扱い、
遅刻も早退も保健室によく出入りしていたのも実際のところは
偏頭痛が原因
だったのですが、登校してきただけマシだ
とばかりに咎められることはなく、
保健室に行けば、サボる口実で保健室に屯している
不良達と鉢合わせたが、私はその存在そのものを無視し通し、
不良達の方がすごすごと出ていくようになった。

いじめの中で無視というのは意外にキツイ。
いじめている方ですら無視されるのはツラかったのかもしれない。

以来、いじめと呼べそうなものは尻すぼんでゆき、
2年から3年になる春に異例のクラス替えが行われ
暗黙で特定されていたであろういじめの主犯達は
合同授業でも一緒にならないほど私と分離されて、
新しい転校生が入って私の「転校生」という肩書きがとれた
頃には完全に消滅していた。

とはいえ、新しい転校生に標的がスライドした
わけでもなく、残りの学校生活は至って平和なものだった。

そして、卒業間近に知った
いじめの真実はいわゆる
好きの裏返し
だったらしい。

異例のクラス替えをするほど全校問題にされたいじめが
好きの裏返し?!
とても幼稚でくだらないその理由に脱力したけれど
確かに陰湿というよりは誰から見ても分かりやすいものばかりで
(だからこそ簡単に全校問題になった)
いやな思い出ですら美化される傾向にあるからには
今現在の私には
中学校2年生の少女Aが体感していた辛さのディティール
なんてもうわからないけれど、

そんな登校拒否をした私を経て
今の私が形成されているわけです。
(強引に〆)

2006年04月01日(土)

幸福論

3月も最後の日、
早朝に父親から連絡があり、
祖母の訃報を受ける。

タイミングがよい
というのは不適切だろうが、
私は仕事の最終日であり、
翌週から休みだったのでちょうど帰省しよう
かと思っていたところで、
日付的にも
土曜日に通夜
日曜日に葬式の運びとなり
単身赴任の父もちょうど帰宅するところだったし
比較的スムーズに一同が会した。

いっそ一命を取り留めない方が幸せだったのではないか
と思っていた
先が見えなくて曇り
空のようだった祖母の容態は
こうして見ればとても大切な時間を与えてくれ、
母は半年かけて気の済むように介護をし、
そして少しずつ別れの覚悟を決めることができた
のか、だいぶ晴れ晴れとした表情をしていた。

祖母の顔は安らかで
とても病気をしていたようには見えなかった。
筋肉が衰えないように
と、日々母や従姉妹が頬をさすっていたのだ。
それにしても滑らかで綺麗な肌。

最近の葬式は結婚式とそう変わらず、
セレモニーホールを借りて行えば
その従業員が送迎から引き出物から料理から手配してくれる。
えらく事務的なその取り仕切り感はしばし感傷を忘れさせてくれ、
しかしその物腰はどこまでも遺族に優しい。
妙に俗っぽい雰囲気の若い住職の読経を聞いて
下手っぴな文字の卒塔婆を眺めながら葬式は進行していき、
不意に母親が泣き出した時はぎゅうと手をつないでなだめる。

核家族の象徴的な
両親と一姫二太郎な4人家族で育った私は、
祖父母との思い出は盆暮れ正月しかなく、
そんな帰省の習慣も私が中学生になる頃にはもうなくなっていて
実感的な悲しみというのは直接的な祖母の死
よりも母親が泣いている方に大きくあった。

それでも献花の時に
赤らんだ頬と、薄紅色の唇に化粧された
祖母のきりりと口を結んだ顔を見た時には込み上げてくるものがあった。
生前は、まったく化粧気がなく、
私の顔を見るなり破顔して呼び掛けてくれたおばあちゃん。

まるで生きているみたいな
というには、生前の祖母とは正反対の風情だったけれど
それがかえって祖母の死を実感させた。

東京で就職が決まらないままこの春卒業した従兄弟は
祖母をきっかけに実家にUターンすることを決め、
祖父の面倒を見ながら働くそうだ。
私と同い年の従姉妹も
祖父を介護施設や病院に送り迎えできるよう、
冬が来る前に免許を取り、
真ん中の従姉妹も家を出て住み込みのバイトを転々
としていたのを実家近くで勤め始めた。

 この葬式で久しぶりに勢揃いだな、
と叔父さんが笑う。
 あぁ、おばあちゃんがいなくなっちゃったけどね。

祖母の棺桶をみんなで囲むように座り、
 ほら全員揃ったねぇ
なんて言いながら、

祖母は最期まで幸せな人だったなぁと思った。

索引
「プープーの罠」 written by 浅田

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