夜明け前まで弱い雨が降っていたが日中は穏やかな晴天となる。
夜になり暴風注意報が発令され明日の朝はまたぐんと冷え込みそうだ。
二十四節気の「冬至」今日を境に明日から少しずつ日が長くなる。
古代には一年の始まりとされていたそうだ。
古代の人類にとって「太陽」は神でもあったのだろう。
「柚子風呂」「南瓜煮」が習いではあるが今年はどちらも無かった。
毎年山里の柚子農家さんが柚子を届けてくれるのだが
今年は土曜日でもあり手にすることが出来なかった。
柚子も不作だったそうで欲しがってもいけないのだろう。
丁度お歳暮で頂いた入浴剤に「柚子の香」がありそれで間に合わす。
寒さ厳しい折である。無病息災となれば越したことはない。
午前8時からまたE君とスペースを開始する。
毎週の恒例となり楽しみな土曜日であった。
それにしても便利な世の中になったものである。
電話だと通話料が発生するがスペースは無料でいくらでも話せる。
一昔前には考えられなかったことだ。
あまり長話をするのでE君の母上が通話料の心配をしていたらしい。
無料だと伝えても高齢者には納得がいかないだろう。
私はパソコンだがE君はスマホなので心配するのが当然である。
今日は途中から埼玉の詩人Kさんも加わり話が弾んだ。
Kさんは私と同年代だそうで落ち着いた声である。
SNSではあまり繋がりを感じることがなかったので
最初は緊張したが話しているうちに打ち解けることが出来る。
E君と二人きりとはいかない。今後も在り得ることだろう。
驚いたのは匿名のリスナーが数人居たことである。
誰なのかは全く分からず「話を聞かれているのか」と思う。
E君も少し戸惑っているように感じたがホストとしての務めを果たした。
もっと驚いたのはE君が豊中に住んでいることだった。
大阪豊中市は私にとってとても縁深い土地である。
ネットを始めたのは25年程前だが「たくちゃん」と知り合った。
掲示板やメールのやり取りも多くすっかり仲良くなったのだった。
たくちゃんはやがて結婚し3人の子供の父親になる。
その頃からメールが途絶え今ではもう音信不通になっている。
「けいちゃん」と知り合ったのは20年程前だが
なんと私の息子と同い年で某大学の大学院生だった。
精神的に不安定な病を抱えており少しでも支えになりたいと思う。
そんな彼も大学院を卒業し教職の道を歩むことになった。
もう私の役目は終わったのだと思い遠ざかる決心をする。
最後に手紙が届いたが私は返事を出すことをしなかった。
教職を続けているのか定かではないがきっと元気にしていることだろう。
そんな「たくちゃん」も「けいちゃん」も大阪豊中の人だったのだ。
その上にE君が重なり私は豊中に拘らずにいられない。
前世からの繋がりだとしたらなんだか奇跡ではないかと思う。
それ程までに「豊中」は縁深い土地だったのだろう。
ネットの世界は通りすがりも多いが魂の出会いもあるものだ。
顔が見えないからこそ魂が見えると云っても過言ではないだろう。
そこには確かな波長があり糸のように引き合う縁がある。
縁があっても去る人は去る。それも宿命なのではないだろうか。
E君とはまたこれから何度でも話すことが出来る。
私はそうして冥途の土産を頂いているのかもしれない。
朝の寒さが更新されまた今季一番の冷え込みとなる。
同じ四万十市でも市街地は氷点下だったようだ。
私の住む地域は海が近いせいか僅かに気温が高いのだろう。
山里は一面の霜。氷も張っており厳しい寒さだった。
早朝からもう隣地では塀の工事が行われており
作業員の人達の吐く白い息が見えていた。
新築住宅はもう完成しているようだがまだ入居していない。
子供が4人も居るのだそうで賑やかな家族のようだ。
塀は外部から見えないように境界線を覆うらしい。
おそらく子供の顔も知らないままに過ごすことになるだろう。
朝のうちに3台の車検。義父が待機してくれており大助かりだった。
書類を書き終えるなりまた田んぼへと走って行く。
訊けば朝食も食べていないとのこと。何とも憐れである。
午前中は来客が多く忙しかったが午後はゆったりとしていた。
同僚は通院のため午後から休みである。内科と眼科だそうだ。
年内には整形外科の通院もあるそうで気忙しいことだろう。
年末年始は29日から新年5日までの休業を決めた。
何とかしてボーナスを支給したいが今はまだ目途が立たない。
大口の入金が遅れており小口ばかりである。
このままでは月末の支払いも危うい状態であった。
「何とかなるだろう」と思いつつ「どうなるのだろう」と不安になる。
経理は全て私に任されており腕の見せ所かもしれないが
いくら太っていても細腕にしか思えなかった。
留守番がてら3時までと粘っていたがすっかり根気が無くなる。
「もう嫌になった」と呟きながら2時に退社した。
自動車専用道路を時速90キロで走り抜ける。
FMラジオからは母が大好きだった三山ひろしの歌声が流れていた。
「せられん」と云う歌で高知市在住の大野研二氏の作詞作曲である。
ちなみに「せられん」は土佐弁で標準語だと「してはいけない」であった。
最初私はてっきり大野氏の歌声だと思っていたのだ。
何とも懐かしく嬉しくてならなかったが三山ひろしがカバーしていたようだ。
大野氏は元気にしているだろうか。遠い昔の思い出がよみがえる。
私の詩に曲を付けて歌ってくれた唯一の恩人でもあった。
買い物を済ませ3時過ぎに帰宅する。
サニーマートでバウムクーヘンを買い食べながら帰った。
普段は甘い物を控えているので金曜日のご褒美である。
洗濯物を畳み終え「三匹が斬る」を見ようと炬燵に潜り込んだが
10分もしないうちに眠り込んでいたようだ。
大きな鼾をかいていたそうでよほど疲れていたのだろう。
夕食後、窓を開けて一番星を見た。
やはりそれは蝋燭のように見えたが微笑んでもいた。
「今週もよく頑張ったね」と声が聴こえて来る。
何と精一杯の日々だったことだろう。
誰も褒めてはくれないが一番星だけは知っているようだ。
冬晴れとなり陽射しはたっぷりとあったが冷たい北風が吹く。
全国的に冷え込んでいたようで東京にも初雪が降ったそうだ。
西日本でも各地から雪の便りがあり高知市でも雪と聞きおどろく。
真冬並みの寒さはしばらく続きそうで明日の朝は氷点下の予報だった。
年末年始には最強寒波とか高知県西部も雪になるかもしれない。
血圧は正常値が続いており不安は薄れているが
以前は雪を見るなりぐんと高くなったことがあった。
それだけ雪を怖れていたのだろう。追突事故の経験もある。
案ずるより産むが易しではないがあまり神経質になってはいけない。
それは「いま」ではないのだ。その時になってみないと分からないことだ。
今日も工場はてんてこ舞いだったが義父は農作業に出掛ける。
草刈りだそうで農業公社から「草刈りまさお」を借りて来ていた。
小さな耕運機のような機械である。運転しながら草を刈るらしい。
素人目にも面白そうだなと思う。誰が発明したのだろうか。
事務仕事は年賀状を書き終えほっとしていたが
お昼に来客が二人もあり休憩時間が取れなかった。
同僚も昼食を後回しにしてくれてオイル交換をしてくれる。
お客さんにとってはお昼休みなど関係ないのだ。
断る事などもっての外である。お客さんあっての工場だと思う。
3時前に義父がよろよろしながら帰って来た。
お腹が空いたら力が出ないのは当然のことだろう。
10分で昼食を掻き込みまた直ぐに出掛けて行った。
私も同僚に後を頼み3時過ぎに退社する。
眠気こそなかったがなんだかぐったりと疲れていた。
夕食の献立が何も浮かばない。頭の中は真っ白である。
昨夜のこともあり頑張る意欲も薄れていたようだ。
捨て鉢な気分となり「どうでもいいや、何だっていいや」と思う。
お炊事が私の役目だとしても何だかちっとも報われない気がする。
けれども家族のためにと思う。それが私の使命であった。
4時半に帰宅したら夫が傷だらけになっていた。
訊けば玄関先で転倒し名誉の負傷をおったらしい。
数年前にもそんなことが度々あり挙句の果てには脱衣所で転倒した。
その時に頭を強く打ち救急搬送されたことがある。
まさか再発ではあるまいかと心配だったが夫は笑い飛ばしていた。
「なんちゃあじゃない、足がもつれただけや」と言う。
老化の波は留まることを知らない。いつ何があるのか分からないのだ。
かすり傷で済んで幸いだったが頭を打っていたらと思うとぞっとした。
数年前の悪夢のような出来事が一気に頭に浮かんで来たのだった。
そろりそろりの日々である。夫も私ももう無理は出来ない。
私は私なりに毎日の日課を精一杯にこなしているが
それもある日突然に出来なくなる日も来るだろう。
「死」はそれ程までに身近なことである。
曇り日。陽射しは殆どなく山里ではにわか雨が降る。
最高気温も10℃に満たず真冬並みの寒さとなった。
朝のうちにお客さんのお宅へ車検証を届けに行っていたら
思いがけずに皇帝ダリアが咲いていておどろく。
薄紫の花だった。まだ少しも枯れてはおらず何と逞しい。
毎年咲いていたのだろう。今まで気づかずにいたのだ。
朝の発見は嬉しいもので心に花が咲いたような気持になる。
ATMへ通帳記帳に行っていたが何処からも入金がない。
まだこれからなのだろう。25日を過ぎればきっとあるに違いない。
嘆いていても何も変わらないのだ。気を強く持たねばと思う。
自転車操業なので足を止めてはいけなかった。とにかく漕ぎ続ける。
工場は目まぐるしい程の忙しさで同僚だけが頼りだった。
義父は今日もそわそわと落ち着かず田んぼに出掛けて行く。
あまりにも多い田んぼなので少しパニック気味になっているようだ。
「今日はあれをしてこれをする」と母親に報告する子供のようである。
いつものことで決して茶々を入れてはいけなかった。
好きなようにやらせてあげるのが一番である。
年賀状をやっと書き終えたがまだ50枚ほど必要だった。
明日郵便局へ買いに行くことにして今日は一段落とする。
一人一人のお客さんへ一筆を書き添えた達成感は大きい。
真心を込めてこその年賀状ではないだろうか。
2時半過ぎに退社し整形外科へと向かった。
先週は金曜日だったので随分と早く感じる。
予約はもう来年の1月22日まで取ってあるのだ。
週に一度のこととは云え猛スピードである。
療法士のU君に一昨日の夜のことを話してみたが
疼く原因は定かではないらしい。以前医師にも同じことを言われた。
自分なりに調べてみたら安静時に痛むことがあるのだそうだ。
昨夜は痛みがなくぐっすりと眠れたので不可解にも思う。
今夜はどうだろう。無事に朝を迎えられることを願うばかりであった。
今は運動療法で凌いでいるがこの先どうなるのかそれも不安である。
買い物をして4時半に帰宅。カーポートに娘の車がありおどろく。
めいちゃんが発熱でもあり早退したのではないかと思った。
訊けば病院の検査室が午後から休みだったらしい。
今朝から分かっていたはずなのに何も言ってはくれなかった。
嬉しかったのは洗濯物を畳んでくれていたこと。
台所の流しも綺麗に片付けてくれていた。
「夢に餅」とはこのことで思いがけずに楽をさせてもらった。
娘の帰りが遅いものと思い夕食は今夜も手抜きである。
それが不服だったらしくサニーマートへ買い物に行くと言う。
「好きなようにして頂きましょう」と文句の一つも言わなかった。
いつものように夫と先に食べる。二人には十分な夕食であった。
家族のようでいてちぐはぐな家族である。
会話が乏しいことが一番の原因にも思えるが
何か訊けばそれが過剰な干渉となってしまう。
なんだか常に線引きをされているようだった。
私は私なりに精一杯の日々である。
これ以上もこれ以下もないと云っても過言ではないだろう。
結婚前の優しかった娘のことが時々ふっと懐かしくなる。
今朝は今季一番の冷え込みとなる。
山里では初霜が降り初氷も見られた。
標高が高く山間部ならではのことだろう。
日中は冬晴れとなったが風が冷たい一日となった。
義父は今日もそわそわと落ち着かない。
今日こそは草焼きをするのだと意気込んでいた。
けれども工場の仕事が忙しくてんやわんやとなる。
義父なりに優先順位を決めているのだった。
「これだけは俺がしないと」と責任感は強い。
おかげで車検で入庫していた車が完了した。
外装修理も依頼されていたので義父にしか出来ない仕事である。
午後2時やっと田んぼへと送り出す。
まるで子供が遠足に行くように上機嫌であった。
やれやれと私も肩の荷を下ろし2時半に退社する。
眠気が心配になり禁断の煙草を吸いながらだった。
ここ数日咳は治まっているが声枯れは相変わらずである。
電話応対が多いのでお客さんに迷惑をかけてしまう。
「風邪かね?」と訊いてくれるお客さんばかりであった。
自業自得とは云え完治するには程遠いようだ。
美声が取り柄だったのだ。アナウンサーになるのが夢だった。
夢とは何と儚いものだろうか。今となってはもう幻である。
買い物を済ませ3時半に帰宅。いつもこの時間ならと思う。
洗濯物を畳み終えてから夫と「三匹が斬る」を見た。
炬燵に足を突っ込んだら夫に「足が臭いぞ」と言われた。
自分でも気になっていたのだが指摘されるとショックである。
まかりなりにも女性だがもう目も当てられなくなった。
お風呂で足先を洗うことが出来なくなって随分と経っている。
足の匂いはおそらくそれが原因なのだろう。
このままではいけないと取っ手の付いたブラシを購入したが
右足は洗えても左足は綺麗に洗えず四苦八苦していた。
さすがに夫に洗ってもらう訳にもいかず困り果てるばかりである。
昨夜は真夜中に左足がズキズキと疼き眠れなかった。
右に左にと寝返りを打ち足を曲げたり伸ばしたりである。
整形外科で痛み止めを処方されているが薬に頼りたくなかった。
それでなくてもどれ程の薬を服用していることだろうか。
幸い毎晩のことではないので今夜は大丈夫かもしれない。
こればかりは寝てみないと分からないことである。
夕食後、一番星を見つけてほっとした。
やはり蝋燭の炎のように見えて不思議でならない。
父だろうか母だろうかと思うが声が聴こえるはずもなかった。
一日がそうして暮れ私は黄昏人になる。
山里では時雨が降りまるで氷雨のように冷たかった。
一時間程で止み青空が見え始めたが暖かさもつかの間の事である。
晴れたり曇ったりで陽が翳ると一気に肌寒くなった。
義父は農作業に行きたかったのだろう。そわそわと落ち着かない。
田んぼの草を焼く予定だったようだ。雨で濡れたと空に文句を言う。
同僚は資格試験の受験のため高知市へ向かう。
「忘れ物はないかね」と子供に云うように送り出した。
簡単な試験らしいが不合格の人も居ると聞き気が気ではない。
還暦を過ぎてからの試験など出来る事なら避けたいものである。
午後、新車の納車があった。お客さんは首を長くして待っている。
先週の予定だったのが大幅に遅れてしまったのだ。
それでもお客さんは気を損ねることなく気長に待ってくれ有難いこと。
代金は即金で義父が分厚い封筒を提げて上機嫌で帰って来る。
滅多に手にすることのない札束であった。私も嬉しくてならない。
けれどもメーカーに支払うと儲けは僅かである。
せめて一割あればとつい欲張ってしまうのだ。
事務仕事が一段落していたので少しずつ年賀状を書き始める。
宛名だけなら早いのだが一筆添えるのが大変であった。
けれども手を抜く訳にはいかない。一筆が真心だと思う。
印刷のみの年賀状ほど味気ないものはない。
3時に退社。お昼休憩が無かったので少し疲れていたようだ。
高速運転をしている最中に眠気が襲って来て焦りまくる。
窓を開けて冷たい風を浴びながらやっとの思いで帰り着く。
サニーマートのお総菜売り場はもううんざりである。
とにかく手作りをと思いあれこれと食材を買った。
セルフレジで精算をしていたら義父から着信があり
取引先の中古部品店へ行かなければいけなくなった。
まだ家へは帰れない。もうひと踏ん張りだと車を飛ばす。
息子の職場のすぐ傍である。もう何ヶ月も顔を見ていない。
やっと帰宅したらもう4時半になっていた。
平野部では時雨が無かったそうで洗濯物はよく乾いておりほっとする。
夫が「三匹が斬る」を見ていたので一緒に見ながら洗濯物を畳んだ。
今日も沢山の悪者が成敗された。殺しても罪にはならないのだそうだ。
「どうして?」と夫に訊けば「ドラマじゃけんよ」と笑い飛ばす。
悪者の家来にも家族が居るだろうにと思うのは私だけのようだ。
いつもは見えている一番星が見えなかった。
なんだかぽっかりとこころに穴が開いたような気がする。
埋めるためには書くしかないと今夜もゆらゆらとこれを記した。
夜が明けた頃には少し時雨れていたが直ぐに青空が見え始めた。
冷たい風に負けまいと精一杯の陽射しである。
今夜は今年最後の満月とのこと。英語では「コールドムーン」だが
日本語では「寒月」冬らしい風情のある呼び名であった。
俳句の季語にもなるだろう。寒月や黄昏を待つ人恋し。
風流人には程遠い一句である。
今朝は夫が行方不明となり自分一人で大騒ぎをした。
9時前に出掛けた切りお昼近くになっても帰って来ないのだ。
電話を三回も掛けたが呼び出し音が鳴り響くばかりである。
不吉なことが頭を過った。作業場で倒れているのかもしれない。
居ても立ってもいられなくなり作業場へ様子を見に行ったが
夫の車も夫の姿も見当たらないのだった。
困った。いったい何処に行ってしまったのだろう。
行き違いになっているかも知れず一度帰宅しようとしていたら
やっと夫から着信があり「何を騒ぎよるがぞ」とお叱りを受ける。
訊けば今日は9時から地区総会があったのだそうだ。
「夕べ言うたじゃないか」と叱られたが私は全く憶えていなかった。
そう云えば先日回覧板が回って来ていたことをやっと思い出す。
結局は笑い話になってしまったが何と人騒がせなことだろう。
夫にそう言えば「おまえが勝手に騒いだがやろうが」と怒っていた。
物忘れが酷くなったとは云えこれは大いに反省すべきことであった。
午後3時からまたスペースでE君と話す。
いつもならごろごろと寝てばかりいる日曜日だが
何と有意義な時間を過ごさせてもらったことだろう。
心地よく波長が触れ合う。ぴったりと息が通う会話であった。
これまで誰とも詩の話をすることがなかったのだ。
それが当然のように思いながら書き続けてきた半世紀であった。
まるで海に流した手紙入りのガラス瓶のようである。
見知らぬ砂浜に流れ着いたそれを拾ってくれたのがE君であった。
きっと他の誰かではいけなかったのだと思う。
届くべき人に届いたのだろう。それは「かけがえのないもの」として。
そうして私の虚しさは救われていくような気がしてならない。
これまで以上に書く意欲が湧いて来る。
最後の最期まで命がけで書き続けたいと強く思うのだった。
それは「願い」でありそうして私の人生を完結させたくてならない。
陽射しはあったが風が頬を刺すように冷たかった。
四国も山間部は雪が降っていたようだ。
やがては平野部にも雪の日が来ることだろう。
今朝は暖かい布団から直ぐに出られずぐずぐずしていたら
いつも靴下を履かせてくれる夫に「もう知らんぞ」と言われる。
それは大変と飛び起きベットに足を投げ出していた。
毎朝のことで夫には本当に感謝している。
詩を書く時間も限られあたふたとしながらだったが
いざ書き始めてしまうとけっこうすらすらと書ける。
わずか20分で「がらんどう」と云う詩が出来た。
「空っぽ」とは違う「がらんどう」なのだ。
自分で書きながらその違いが何となく分かった。
いつまで経っても満たされることのない空虚のようである。
足るを知らない限りそれは永遠に続くことだろう。
8時を過ぎてからまたスペースでE君と話した。
2度目であったがやはりずっと昔から知っているように思う。
それが不思議でならない。懐かしいとしか言いようがなかった。
よほどの縁があったのだろうと感謝するしかない。
仕事の話をするE君の目がきらきら輝いている。
顔は見えないが感じるのだ。とても意欲的であった。
心から好きな仕事に恵まれているからだろう。
それはきっと今しか出来ないことなのだと思う。
詩の話が出来るのもE君だからこそである。
私はずっと一匹狼を貫いて来たので仲間がいなかった。
当たり前のように孤独で詩と向き合って来たのだと思う。
自分の詩の良し悪しも分からず虚しさだけが残った。
それでいてちっぽけなプライドを捨てきれずにいる。
種を蒔き続け芽が出るのを待つばかりの人生ではなかっただろうか。
おそらくそれは今後も続くであろう宿命のようなものだ。
最後には詩ではなく「死」が待っているのだろう。
そんな宿命を背負って如何に生きるかである。
この世には何ひとつ残せないのかもしれない。
それこそが「がらんどう」なのではないだろうか。
ひっそりとした静寂がありその片隅に横たわる私が見える。
晴れたり曇ったり。陽射しさえあればぽかぽかと暖かい。
今夜から寒気が南下して来て明日は真冬の寒さになるのだそうだ。
まだ雪の心配はなさそうだが冷たい北風に晒されることだろう。
「焚火だ焚火だ落ち葉焚き」昔は何処の家でも見られた光景であるが
昨日はその焚火が原因で火事になり民家が全焼したらしい。
毎日必ずと云って良いほど火事のニュースが絶えないこの頃である。
隣家からのもらい火で焼け落ちた家も在り気の毒でならない。
火の元には十分に用心しているがいつ何があるか分からないものだ。
空気は異常に乾燥しており出火すればボヤでは済まないだろう。
考えれば考えるほどこんなに怖ろしいことはなかった。
仕事は後から後から舞い込んで来る。嬉しい悲鳴を上げているが
同僚の負担は大きく年末まで身体が持つだろうかと心配になる。
明日は午前中通院なのだそうだ。今月はまだ2回の通院があった。
義父は相変わらずの農作業である。農機具の修理にも忙しい。
けれどもいざとなったら助けてくれるのだ。それはとても心強かった。
工場の様子が気になっていたがリハビリのある日で3時前に退社する。
今日は殆ど咳が出なかったので失禁の心配もなかった。
それが整形外科へ着くなり激しく咳込み始め苦しくてならない。
患者さんも多くどんなにか迷惑だったことだろう。
看護師さんがお水を持って駆け付けて来てくれた。
お水を飲むと一気に咳が止まり直ぐに楽になったのだった。
病院の暖房が効き過ぎていたせいかもしれない。
それにしても何と激しい咳だったことか。息が止まるかと思った。
リハビリ後に診察があり今日も時間ばかりが気にかかる。
医師から「とにかく転ぶなよ」と注意があった。
転べば即骨折である。骨折すれば入院となり股関節の手術である。
それだけは何としても避けなければいけない。
「会社が潰れるぞ」と心配してくれる医師には頭が下がるばかりであった。
一歩一歩慎重に歩き続けている日々である。
ほんの少しの段差でも転ぶ時には転ぶのだ。
誰も守ってはくれない。こればかりは自分で守るしかないのだと思う。
買い物をして大急ぎで帰宅したがもう5時になっていた。
洗濯物を畳み終え「ぶり大根」を作る。
お惣菜ばかりではあまりにも見すぼらしくてならない。
「やれば出来る」と思う程ではないがやったら出来たのだ。
今週の仕事を無事に終えたがまだまだこれからである。
資金繰りも順調ではなくまた頭を悩ませていた。
とにかくこつこつと目の前のことを遣り遂げるしかないだろう。
師も走るのならば私も走らなければならない。
決して転ばないようにである。
北風が強くなる予報だったが穏やかな冬晴れとなる。
北日本や北陸では大雪となったようだ。
夕方のニュースで札幌の雪を見た。
今は音信不通になってしまった古い友人達を思い出す。
雪には慣れていると思うがどんなにか厳しい寒さだろうか。
もう糸を辿るつもりはなかった。縁とは儚いものである。
自ずから切るか切られるかである。不思議と寂しさは感じない。
午前中に近所に住む90歳近いご老人が訪ねて来てくれた。
特に用事がある訳でもなく散歩がてらに顔を見せてくれたのだろう。
よく畑仕事をしている姿を見かけていたが今日は休みのようだった。
冬野菜の事などを話していたが耳が遠くなっているらしく
すっかりちぐはぐな会話になってしまった。
「仕事の邪魔をして済まんかったのう」そう言って10分程で帰って行く。
話し相手が欲しかったのかもしれずなんだか後味が悪かった。
数年前に奥さんに先立たれ独り暮らしのご老人である。
その奥さんは私の母と同い年なのだそうだ。
義父の甥っ子が冬タイヤの交換に来てくれていて
義父と並んで話している姿を見てどきっとする。
若い頃の義父にそっくりでまるで息子のようであった。
母がもし子供を生んでいたらと思う。
男の子とは限らないが50歳位の息子が存在しただろう。
義父にとっては会社の後継ぎとなりどれ程心強かったことか。
好きな米作りだけに励む姿が目に浮かぶようであった。
しかし母はもう子供が生めない身体になっていた。
まだ20代の頃である。卵巣を摘出する手術を行ったのだ。
その時実父が「もう弟も妹も要らないな」と言ったことをよく憶えている。
実父にとってはまさか母が第二の人生を送るとは思いもしなかっただろう。
そこで運命の歯車が大きく狂ってしまったのかもしれない。
母も義父もどんなにか子供が欲しかったことだろう。
母が亡き今となって義父が憐れに思えてならなかった。
けれどもそれが運命だとしたらもう受け止めるしかないのだと思う。
つい決して在り得ないことを考えてしまったが
私を含め誰もが運命に翻弄されて生きて来たのだと思う。
そこに「間違い」はないのだ。予め決められていたことなのだろう。
だからこそ運命に逆らってはいけないのだと思う。
そうして誰もが死んでいく。それも運命であった。
冬晴れの予報だったが青空は見られずしゅんしゅんと寒い一日となる。
冬の優しい陽射しの有難さをつくづくと感じた。
昨夜は熱が出るかもしれないと思いつつ眠ったのだが
今朝はすっきりと気分が良く鼻水も治まっていた。
夜中に咳き込むこともなく久しぶりに熟睡が出来る。
その上に足の痛みもずいぶんと楽になっていた。
ゲンキンなもので「よっし、今日は楽勝だ」と思う。
ちょっとした不調で気分が滅入るものだ。
いつも元気溌溂とは行かないが身体の機嫌を取りながらである。
若い頃のような活力はもうないがやる気を出すことは出来るのだった。
それで十分に思う。欲を云えばきりがないのだもの。
朝の道の皇帝ダリヤがいつの間にか姿を消していた。
枯れてしまって切り落とされてしまったのかもしれないが
つい先日まで花を咲かせていたのが嘘のようである。
切り落とされてもまた来年咲くのだろうか。
詳しいことは調べてみないと分からないが
一年草には思えずひたすら来年のことを考えている。
職場のすぐ近くの銀杏の木もすっかり葉を落としてしまった。
寒空に裸木のなんと切ないことだろうか。
侘しい思いが込み上げて来てしんみりとするばかりである。
根元には黄金色の葉が一面に敷き詰められているが
それもやがては風に運ばれて消えてしまうことだろう。
ひしひしと冬である。もうどうしようもなく冬であった。
朝から仕事が忙しく師走らしさを感じる。
午後も来客があり残業になってしまった。
帰宅すればもう4時半を過ぎており横になる暇もない。
夫が洗濯物を取り入れてくれていたが生乾きであった。
「そんなはずはない乾いていたぞ」と云うので一悶着ある。
いつもなら乾燥機に入れてくれるのにと文句を言ってしまった。
仕事の疲れもあり苛々していたのだろう。夫には悪いことをした。
「一日中遊んでいるくせに」そんなことは口が裂けても言えない。
サニーマートのお惣菜ばかりの夕食であった。
娘が帰宅し詫びれば「別にええよ」と笑顔を見せてくれる。
その後が驚きであった。娘婿が伊勢海老を調理し始める。
娘はパスタを湯がきペペロンチーノであった。
そっか、そうなのかといささかショックである。
買って来たお惣菜には一切手を付けないのだった。
それなら何も買って来なければ良かったといじけてしまうのである。
伊勢海老が食べたかった訳でもパスタが食べたかった訳でもないが
なんだか踏みにじられたような敗北感を感じた。
しかしこれくらいのことでめげていては先が続かないだろう。
私は私の出来ることをせっせとやるしかないのだと思う。
もう寝室に行っている夫がこんこんと咳をしている。
日中も咳が酷く私の咳止めを服用したのだそうだ。
あまり長引くようなら病院で診てもらった方が良さそうだ。
日に日に寒さが厳しくなっている。体調を崩し易い季節であった。
家族がみな健康に。毎日そればかりを祈っている。
昨日程ではなかったが今朝も厳しい冷え込みとなる。
寒さのせいか足の痛みが酷くなり何とも辛いこと。
家の中では杖なしで歩けていたのに今朝は歩けなくなっていた。
何のこれしきと思う。嘆いたとて痛みが薄れることはない。
夜が明けるのを待ち兼ねて洗濯物を干す。
両手を使わないと干せないので一苦労だった。
足を引き摺りながらやっとの思いである。
いつもは運転中に痛むことはないが今朝は痺れたような痛みがあった。
とにかく我慢である。仕事を休むわけにはいかない。
何とか職場に着いたが平野部よりも2℃程気温が低かった。
咳は相変わらずだが風邪でも引いたのか鼻水が止まらない。
踏んだり蹴ったりである。なんだか微熱もあるような気もする。
馬鹿は風邪を引かないと云うが嘘っぱちなのだろう。
負けるもんかと仕事に励んだ。これくらいのことでと思うばかり。
咳き込めば失禁がありナプキンも役に立たない。
とうとうお昼までにズボンを濡らしてしまい笑い話のようだった。
こればかりはどうしようもなく笑ってごまかすしかない。
お昼休憩は在って無いようなものだが今日は車で少し仮眠する。
陽射しが降り注ぎ何と暖かかったことだろう。
陽だまりはまるで天の贈り物のようだ。
市内のauショップに行かなければならず2時半に退社した。
ずっとカード支払いにしていたのが未納になっており
カードの更新手続きをしなければならなかった。
今後も在り得ることなので預金引き落としに変更する。
店員さんのアドバイスで12月分も支払って来た。
1月からの引き落としだがもう未納になることはないだろう。
夕食後いつものように入浴をしたがやはり不安が押し寄せて来る。
まずどんなふうに死ぬのだろうと思う。
心地よく湯船に浸かりながら意識が薄れて行くのだろうか。
その時に備え付けの呼び出しブザーを押せるのだろうか。
押せなかったらそのまま湯船の中で息絶えてしまうのだろう。
今夜のお風呂は長いねと娘が様子を見に来る。
その時にはもう遅いのだ。私の魂は狼狽えるばかりであった。
いやだいやだそんな死に方はしたくない。
ゆっくりと湯船に浸かるのも怖くカラスの行水となってしまう。
パジャマを着ながら「よし大丈夫だった」とほっとするのだった。
毎晩こんな有り様では身が持たないだろう。
不安はそのうち薄れて行くと思うがもうしばらくの辛抱である。
元来入浴は一日の疲れを癒す至福のひと時であるべきだった。
それがいつから不安の種になってしまったのだろう。
老いるばかりのこの身をこの命を何としても守らなければいけない。
今朝は一段と寒く全国的に今季一番の冷え込みだったようだ。
「北国のおじさん」が何処に住んでいるのか定かではないが
氷点下10℃と聞けば北海道の内陸部ではないかと思われる。
雪も20センチ程積もっているらしく厳しい寒さであった。
根雪となればまだその上に雪が降り積もるだろう。
毎朝「雪はね」をしてから仕事に行くのだそうだ。
南国土佐では想像もつかない暮らしを強いられている。
四万十市も今朝は1℃まで気温が下がっていたらしい。
4時に目覚めた時には5℃だったのであまり気にならなかったが
車のフロントガラスが凍る寸前であった。
しかしまだ初霜は降りていない。それも直ぐに霜の季節になるだろう。
血圧は幸い正常値であったが用心に越したことは無く
とにかく暖かくして過ごすことを心掛けている。
光熱費を気にせずに電気も灯油も使い放題であった。
貧困家庭ではあるが我慢は命取りになるだろう。
暑ければ熱中症。寒ければ心臓麻痺と命は常に危険に晒されている。
午前中は目まぐるしい程の忙しさだった。
段取りが悪いとまた義父の雷が落ちるので気が気ではない。
同僚に指図するのも気が引けるが伝えなくては前へ進めない。
同僚がまるでロボットのように思えて憐れでならなかった。
義父は田んぼの草刈りに行きたくてそわそわと落ち着かない。
私が段取りさえちゃんとすれば行けるのにと言わんばかりであった。
ばたばたしながらではあったがお昼前に田んぼへと送り出した。
やっと一息である。なんだか「隠れストレス」ではないかと思う。
午後は郵便局へ行き年賀状を購入した。
取り合えず百枚にしたが何と高いことだろう。
今年は取引先から次々に年賀状廃止の連絡が届き戸惑っている。
我が社もと思うのは当然だろう。しかしそこは思い切れない。
義父に相談したらお客さんだけには出すべきだと云う。
私もそれに賛成だった。やはり礼を尽くすべきだと思う。
筆ぐるめで作成した年賀状をプリントする。
明日から少しずつ宛名を書き込むつもりであった。
宛名も印刷ではあまりにも手を抜くため毎年手書きを心掛けている。
そうして出来る限り一筆添えるのが習いであった。
最近の郵便事情はとても悪くなるべく早めに出した方が良さそうだ。
年賀状の準備を始めた時点で気分が押し詰まって来る。
カレンダーを見ながらまだまだと思っていてもあっという間だろう。
急がず慌てずであるがなんだか背中を押されているようだ。
私は今年も達成出来ず完全燃焼には程遠かった。
いくら命を楯に書き続けていても手ごたえは殆ど無いに等しい。
きっと欲深いからだろう。もっともっとと求めるばかりである。
その上に老いが重なり諦めることが随分と多くなった。
来年はいったいどんな年になるのだろう。
生きてみなければ分からないことがどんどん増えていくばかりである。
晴れの予報だったが朝方みぞれのような雨が降る。
もう少し気温が低ければ雪になっていたことだろう。
何とも冷たい雨に真冬の訪れを感じた。
昨夜は夜中に酷く咳き込み眠れない夜となる。
あまりの苦しさに息が止まるのではないかと思った。
夫も起こしてしまって迷惑をかけてしまう。
寝る前に龍角散を服用していたのだが効かなかったようだ。
一度布団から出て咳止めシロップを飲んだが
かなり古い物で消費期限はとっくに切れていた。
それでも効き目があり何とか咳が治まる。
自業自得なのは承知していて煙草と飲酒が原因なのだろう。
寝る前に喉を刺激してはいけないのだそうだ。
分っていても止めることが出来ない。病的なほどの中毒である。
4時に目覚めたが声枯れが酷く声が出難い。
以前のように声が出なくなることも在り得るだろう。
今ならまだ間に合う。重症化しないうちに何とかしなければと思う。
しかし私は制御不能であった。自分ではもうどうすることも出来ないのだ。
この大馬鹿者めと自分を責めつつ今も飲酒と煙草を続けているのだった。
いったいどうなってしまうのだろう。大きな落とし穴が見えている。
気分転換を兼ねて朝のうちに美容院へ行っていた。
予約制ではないので待ち時間は長かったがさほど苦にはならず
さっぱりと短くカットして貰い少し明るめのカラーに染めてもらう。
美容師さんは娘の同級生で会話も弾み良き気分転換となった。
白髪でぼさぼさだった髪もすっきりし生まれ変わったような気分である。
サニーマートで買い物をしていたら娘達と会い「見て見て」と思う。
めいちゃんが直ぐに気づいてくれて嬉しくてならない。
お昼に茹で卵と大根を茹でておでんを煮込み始めた。
大好きな餅巾着も忘れずに入れる。
ことことと弱火で煮込んでいたら家中が「おでん日和」になった。
ドラッグで新しい咳止めを買って来たので枕元に置く。
おまじないのようでもあるがきっと役に立つだろう。
今夜は少し安心して眠れそうである。
飲酒は深酒をすることはないが煙草は一晩で一箱吸う時があった。
決して愛煙家ではない。吸いたくて吸っているのではないのだ。
それならば直ぐに止めてしまえば良いと誰もが思うだろう。
それが出来ないから苦しみ喘ぎ続けなければいけない。
これ程までに愚かな人間である。
けれども生きたくてならずもがき続けているばかりであった。
二十四節気の「大雪」本格的に雪が降り出す頃である。
北海道は雪。能登の被災地も雨が雪に変わったようだ。
季節はもう真冬となり遠く遥かな春を待つばかりとなった。
今朝はSNSのスペースで大阪の詩人E君と話すことが出来た。
繊細な「光」のような詩を書く人で私の好きな詩人さんである。
不思議だったのは初めて話すような気がまったくしないこと。
なんだか古い友人のように思えて懐かしくてならなかった。
詩は「独り」で書くものであり誰かと群れながら書くものではない。
私はまるで一匹狼のように書き続けて来たように思う。
そうしてそれは評価をされることもなく地に埋もれ続けて来た。
道端の石ころのようなものである。時には蹴られることもある。
口惜しい思いも沢山しながらであったが嘆くことはしなかった。
劣等感のかたまりであっても自分を見失わないことである。
そんな石ころのような私をE君は見つけてくれたのだ。
蹴りもせず投げもせず手のひらに載せてくれたのだった。
今日ほど石ころで良かったと思ったことはない。
これからも石ころで在り続けようと心に誓う。
先日「是非に詩集を」と言ってくれたのもE君だった。
私は百歳になったらと応えたがおそらくそれまでに定命が尽きるだろう。
焦る気持ちもあったがそこにはもう諦めしかなかった。
石ころはどんなに磨いても宝石にはなれない。
しかし今朝E君と話して少し目の前が明るくなった気がする。
経済的な余裕がなくても詩集を出すことが出来るのだそうだ。
E君は既に9冊の詩集を出しておりそれが何よりの証拠だと云う。
夢のような話であるが夢ならば叶えなければと思った。
「いつかそのうち」ではいけない。私にはもう時間がないのだ。
ひしひしと死が迫って来る。どうにも逃れられそうにない。
この大きな不安は得体の知れない沼のようなものである。
そんな沼をどうして見て見ぬ振りが出来ようか。
引き摺り込まれる前に成し遂げなければいけないことがあるのだ。
大げさな表現をするが命を楯に立ち向かうべきだろう。
死んでしまえば全てが終りである。
その終りを見ることは出来ないからこそ「いま」見なければならない。
冬晴れとはいかず雲の多い一日。幸い風がなく過ごし易く感じる。
日中の気温は15℃程。明日から次第に低くなりそうだ。
帰宅してから中山美穂の訃報が舞い込み衝撃が走る。
浴槽に浸かったまま亡くなっていたそうで憐れでならない。
はっきりした死因はまだ発表されていないが
「ヒートショック」ではないかと噂が流れている。
もしそうだとしてもあまりに若過ぎるのではないだろうか。
ちょうど更年期の年頃で日頃から血圧が高かったとも考えられる。
体調不良だったようで今夜予定されていたコンサートは中止になっていた。
仕事に追われかなり無理を重ねていたのかもしれない。
ある日突然の死。それは私の一番恐れていることでもあった。
ただただ冥福を祈ることしか出来ないが残念でならない。
入浴イコール死の恐怖は最近薄れていたのだが
またぶり返し神経が擦り減ってしまいそうになる。
以前のように動悸がすることもなくなっていたが
今夜はさすがに怖く脱衣所と浴室の暖房を点けた。
用心に越したことはない。今夜死ぬわけにはいかないと思う。
父方の伯母が二人揃ってヒートショックで亡くなっていた。
その伯母の命日も近くなり厳しい寒さだったことだろうと察する。
独り暮らしだった伯母は浴室で息絶え朝まで発見されなかった。
なんと憐れなことだろう。なんと孤独な最期だったことか。
親友のMちゃんも8年前に浴室で亡くなっていたが
彼女は「くも膜下出血」が死因であった。
たまたまご主人が出掛けており発見が遅くなってしまったのだそうだ。
早期なら助かる病気である。もう運命としか云いようがない最期だった。
どんな死に方をするのか自死でない限り選ぶことは出来ない。
闘病の末なら覚悟も出来るがそれもどれ程の辛苦だろう。
運命だとしてもあまりにも残酷に思えてならない。
私はとことん長生きをして老衰で死にたいと思うが
それが「夢」なのだとしたら叶うとは限らないだろう。
神様も仏様も夢を叶えることは苦手なのだと思う。
じゃあどうなるかであるが「死」は身近であり避けられないことだ。
永遠の命など在り得ずひとは必ず死ぬのである。
だからこそ与えられた生を全うしなければならない。
「ああいい人生だった」そう思えるような生き方をしなければならない。
志半ばで絶たれることもあるだろう。もっともっと生きたかったと。
その時に少しでも生きた証を残して置ければと願って止まない。
晴れの予報だったが雲が広がり肌寒い一日となる。
陽射しがあるとないとでは随分と違うものだ。
週末にかけて寒気が南下してくるらしい。
まだ雪の心配はなさそうだが用心に越したことはないだろう。
二十四節気の「大雪」も近い。季節はもう真冬である。
SNSでは北海道の雪。今朝は20センチ程積もったようだ。
北海道も広いので南と北とでは違いがあるはずだが
まるでSNSの決まり事であるかのように住んでいる地域は非公開だった。
個人を特定出来ないように自分のことを「北国のおじさん」と云ったりする。
個人情報は守られるべきだが本名ではいけない理由があるのだろうか。
不信感がつのる程ではないが堂々と名乗って欲しいといつも思う。
とにかく色んな人がいる。そんな場所にふっと疲れを感じる時も多い。
私のように個人を特定出来る場合にはありのままではいけない。
そのせいか上辺だけの「いい顔」をする時もある。
そんな日々の中で詩や短歌だけは自分らしさを貫こうとしているのだった。
仕事は今日もあたふた。飛び込みのタイヤ交換もあり引き受ければ
段取りが悪いと義父に叱られてしまった。
かと云ってどうして断ることが出来よう。何とかなると思ったのだ。
けれども結局は同僚に負担を掛けてしまい車検整備が止まってしまった。
義父も忙しく苛立っていたのだろう。いつ雷が落ちるか分からない。
午後は何とか順調に仕事が捗る。もう大丈夫と2時半に退社した。
本来なら3時までなのだが最近は早めに帰ることが多い。
日も短くなり帰宅してからの家事も待っている。
10分でも横になりたいと願う私の身勝手な都合でもあった。
すっかり日が暮れた頃、あやちゃんの担任の先生と保健室の先生が
来てくれたのだが今日も会いたくないと言って断らねばならなかった。
保健室の先生は来週から産休に入るのだそうだ。
しばらく来られないから是非に会いたいと言ってくれたようだ。
「赤ちゃんが生まれるがぞ」と夫が言い聞かしてくれたが駄目である。
まだ12歳の子供なのかもしれないが「ひと」としてどうだろうと思う。
なんだか日に日に大切なことを失っているような気がしてならない。
娘からは決して厳しく言ってはならないと釘を刺されているが
云うべきことを言わずにいては心の成長も在り得ないように思うのだ。
あやちゃんはまるで「会わない」ノルマを達成したかのように笑顔になった。
「俺たちの出番はないからな」夫も複雑な気持ちを抱え込んでいる。
今夜は少しふっくらとした三日月が見える。
すぐ近くで輝いている星は木星なのだそうだ。
「月の近くで輝く星」とネットで検索したのだった。
検索すれば何でも分る世の中になったが「こころ」は永遠に謎である。
その「こころ」に右往左往しながらみんな生きているのだろう。
陽射しはたっぷりとあったが午後から冷たい風が吹く。
最高気温が昨日よりも6℃も低かったようだ。
明日はまだ低くなるそうでいよいよ本格的な冬となるだろう。
今朝は55年前の朝の事を詩に書いた。
私にとっては決して封印出来ない記憶である。
陰鬱な詩にならないように心掛けたつもりであるが
なんだかお涙頂戴みたいな詩になってしまった。
けれども書きたくてならなかった詩であることには違いない。
記憶は死ぬまで付きまとうことだろう。それで良いと思っている。
やがては心から母を赦せる日が来るのかもしれない。
特別な日であることが頭から離れず今日ほど不安な日はなかった。
通勤途中に事故を起こし死ぬかもしれないと思う。
ハンドルを握る手が小刻みに震えていた。
無事に職場に着きみい太の姿を見ると安堵の気持ちでいっぱいになる。
いつもと変わらない朝なのだ。いったい何に怯えていたのだろう。
いざ仕事を始めると悪夢から覚めたように生き生きとして来る。
来客も多く笑顔で会話が弾む。話し相手が欲しかったのかもしれない。
お客さんが愉快な話ばかりして笑わせてくれたのだった。
冬タイヤ交換の予約も入いりまたまたホワイトボードがいっぱいになる。
くたばるわけにはいかないのだ。とにかく仕事が一番だと思う。
天下の回り物である「お金」のことで頭がいっぱいになっていた。
まるで金の亡者のようであるが稼げる時に稼がねばならない。
整形外科のリハビリがある日で3時前に退社する。
駐車場で古い友人のお母さんに会いしばし話し込む。
もう30年近く通っているそうで途方に暮れるような話であった。
私はまだ2年目だが先が長いことだろう。覚悟が必要である。
リハビリ室に向かうエレベータの中でU君が「誕生日ですね」と
言ってくれ「おめでとうございます」と笑顔を見せてくれて嬉しかった。
ちっともめでたくなんかないと思っていたのだが有難くてならない。
55年前の記憶が一気に薄れる。いったいどれ程の拘りなのだろうか。
生前の母は既に封印していたようだった。
そのせいか一度も謝罪したことはなかった。
母にとっては人生最大の汚点だったのだろう。
触れられたくない過去は誰にでもあるのだと思う。
最後に今朝書いた詩をここに残して置きたい
霜柱
十三歳の誕生日であった 目覚めると母の姿がなく 寒々とした部屋の片隅に 置手紙さえなかったのだ
外に出ると一面の霜である 弟を起こし伯母の家へ行く
霜柱を踏むさくさくと踏む
離れて住む父に知らせなくては そればかりを考えていた
霜柱を踏むさくさくと踏む
伯母の家がやたら遠く感じる 優しい伯母の顔が目に浮かんだ
弟は歩きながら泣いていたが 私は涙ひとつこぼさなかった
霜柱を踏むさくさくと踏む
母は私を生んだその日に 捨てることを選んだのである
霜柱を踏むさくさくと踏み続けた
連日の小春日和。今日は昨日よりも暖かくなり汗ばむ程の陽気となる。
紅葉の季節は晩秋だが今年は全国的に遅れているのだそうだ。
見頃は12月の中旬だと聞きおどろくばかりである。
樹々も戸惑っていることだろう。それだけ寒さが必要なのだった。
山里は杉や檜が多く山が燃えるように紅く染まることはないが
銀杏の木やもみじはあちらこちらに植えられており目を楽しませてくれる。
決して遅れているようには見えないのだがまだこれからなのだろう。
師走の紅葉もまた風情があり見応えがあるものだ。
冬の花は山茶花。ほぼ満開となり心を和ませてくれている。
隣家にも薄桃色の山茶花が咲いておりまるで我が家の庭のように思う。
奥さんはもうかなり高齢になり滅多に姿を見ることはないが
山茶花が咲いていることにはきっと気づいているだろう。
すぐ近所に住む亡きご主人の弟さんがいつも庭の手入れをしているようだ。
仕事は今日も一日車検が入庫していた。
義父の友人の息子さんの紹介で初めてのお客さんである。
午後には車検が完了し義父が納車に行ってくれた。
決して失礼があってはならない。丁重に感謝の気持ちを伝え
今後のお付き合いへと発展さす為だった。
同僚には任せられず「俺が行かんとな」と社長の任務を果たす。
今日ほど義父が頼もしく思ったことはなかった。
田舎の小さな車検場である。新規のお客様はとても貴重であった。
仕事が一段落し3時に退社する。
今日はサニーマートのお総菜売り場をスルーした。
いつもいつも手抜きなのだ。今日こそは頑張ろうと思う。
5時半には間に合わなかったが6時には夕食の支度が整う。
娘が帰宅し「やるじゃん」と褒めてくれて嬉しかった。
「明日は何にする?」と訊くので特に考えてもいなかったのだが
私の誕生日なのを覚えていてくれたのだった。
夫は例の如くですっかり忘れていたらしく「そうか、そうか」と喜ぶ。
娘が「ステーキにしよう」と云うのでそうすることにした。
自分では少しも祝う気持ちなどなかったのだが有難いことであった。
嫁いでから初めての誕生日を思い出す。
その日夫と私は入籍をしたがいつもと変わらない夜であった。
何と寂しかったことだろう。婚家には誕生日を祝う習慣が無かったのだ。
偶然だったが姑さんが私専用のお箸を買って来てくれていた。
誕生日とは知らずにふっと思いついたことだったのだろう。
そうとは分かっていてもそのお箸がとても嬉しかったことが忘れられない。
姑さんには良い思い出が殆ど無いが唯一それが「宝物」のように思えた。
67歳最後の夜である。今のところ夢も希望もない。
ただまた一歩「死」に近づくのだなと思うばかりであった。
なんだか「生きたい」欲に圧し潰されてしまいそうだ。
最高気温がほぼ20℃。昨日より更に暖かくなる。
このまま暖冬かとも思うがそうは行かないようだ。
予報では週末にかけて真冬並みの寒波が到来しそうである。
寒さほど怖ろしいことはないが過剰に不安がってはいけないのだろう。
寒さからしっかりと身を守り体調管理を怠ってはならない。
今朝はここ10年で初めてではないかと思うほどの洗濯物であった。
10キロの洗濯槽に入りきらずぎゅうぎゅうと押し込みスイッチを入れた。
故障するのではないかと思う。洗濯機も苦しかったことだろう。
夫が庭先まで運んでくれたが「こりゃあ重いぞ」と苦笑いしていた。
夜が明けるのを待ち兼ねて干し始めたが干場が足らないくらいである。
愚痴を言ってはならないが面白半分に放り込んだとしか思えない。
干す者の身になれ。畳む者の身になれとぼやかずにいられなかった。
けれども私がやらないで誰がすると思えばこれも辛抱である。
日中はたっぷりの陽射しが降り注ぎ洗濯物も嬉しかったことだろう。
仕事は一気に車検予約が舞い込み嬉しい悲鳴である。
あっという間にホワイトボードが埋められて行く。
同僚には負担を掛けるが何としてもこなして行かなければならない。
25日までが勝負だと思っている。それがまた大きな山となり聳える。
経営も同じく資金繰りさえ順調であれば無事に年を越せるだろう。
寸志であってもボーナスも支給したい。荷は重いが負けるわけにはいかない。
毎年のことであるが師走の波に押し流されてしまいそうだ。
試されているのだろう。それならばとことん試して頂こうではないか。
一日車検が入庫していたので完了を待ち3時前に退社する。
FMラジオではピンクレディー特集をしており何とも懐かしい。
丁度二十歳の時だったと記憶している。二人は同世代であった。
夕飯の献立もそこそこに帰宅すれば洗濯物の大山である。
「三匹が斬る」を見ながらちまちまと畳んだ。
大量の洗濯物を取り入れるのも大変だったことだろう。
夫の手助けが今日ほど有難いことはなかった。
自力では出来ないことが日に日に増えて行くこの頃である。
それでも出来る事を精一杯にやり遂げなければいけない。
ある日突然と思う不安はいつまで経っても消えずにいる。
毎日が奇跡なのかもしれないのだ。一日の終りには命が愛しくてならない。
2024年12月01日(日) |
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる |
風もなく穏やかな晴天。今日こそ小春日和なのだろう。
とうとう師走になってしまったが北風小僧も一休みである。
今朝は朝刊が届かず。これまでも何度かあったが
配達員はかなりの高齢女性なので気遣うことの方が多い。
噂ではあるが認知症になり掛けているのだそうだ。
数年前から新規の配達員を募集しているが未だ見つからないようである。
雨の日も風の日も嵐の日も雪の日も。その苦労は並大抵ではなかった。
気の毒でならないが毎朝夜明け前に届く新聞のなんと有難いことだろう。
今朝のように届かなかった日には販売店へ電話するようにしている。
直ぐ川向なので届けてくれるのだがそれも気の毒なことであった。
中には直接高齢女性の家へ電話をし怒鳴る人もいるらしい。
それはあまりにも配慮に欠けるのではないだろうか。
毎朝届くのが当たり前ではない。感謝の気持ちを忘れてはならないと思う。
日曜日の朝刊には「高新文芸」が掲載される。
毎週短歌の投稿を続けているが今朝も敢えなく落選であった。
たまに忘れた頃に入選することもあるが自信作とは限らない。
いったいどんな基準で選んでいるのだろうかと不可解にも思える。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」である。ようは諦めないことだろう。
ぽかぽか日和に誘われて何かしなくてはと思うだけであった。
結局また炬燵に潜り込み朝寝もすれば昼寝もする。
すっかりトドのようで自分でも呆れ返ってしまうのだった。
3時に目覚めふと苗屋さんへ行ってみようかと思ったが行動に移せない。
庭の片隅に娘婿が葱を植えており二度ほど収穫をした。
そのプランターにまだ空きが在りリーフレタスを植えてみたかったのだ。
車で5分の苗屋さんに行けない。何とも情けないことである。
ずっと気になっていたのだが娘がやっと孫達の衣替えをしたようだ。
二人とも昨日まで夏の恰好をしており寒そうでならなかった。
サイズダウンした衣類が多かったのがごみ袋に入れていたので
ストップを掛け市のリサイクルに持って行くと言ったら機嫌が悪い。
「生ごみと一緒に焼くのは可哀想やろ」とつい声を荒げてしまった。
着ていた頃の孫達の姿が目に浮かび懐かしくてならない。
どうしてそれがゴミだろう。娘とは価値観が異なるようである。
夕飯はめいちゃんのリクエストで「しゃぶしゃぶ」にしたが
娘夫婦が食べ始めても孫達は二人揃って顔を見せなかった。
また後から食べるのだろうか。老婆心が疼くばかりである。
余計な口出しをしないこと。夫からも強く言われており我慢しかない。
娘夫婦の子育ての方針は全く理解出来ず戸惑うばかりであった。
夕暮れ時に窓から一番星が見えていたが今は真っ暗である。
晴れているはずだが雲の悪戯かもしれなかった。
明日は今日よりも暖かくなるのだそうだ。
たっぷりの陽射しを浴び師走の道を歩み出して行きたい。
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