ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年11月24日(日) 小春日和に

気温は20℃に満たなかったが風もなく穏やかな小春日和となる。

SNSを見ていると「晩秋」と表現している人が多く

何となく違和感を感じるのは私だけだろうか。


立冬を過ぎ小雪を迎えたからには季節は「初冬」である。

「それは違いますよ」と決して云ってはならないもどかしさがあった。

季節は次第に真冬に向かっている。後一週間もすればもう師走なのだ。



毎年紅葉を見に行くのを楽しみにしているのだが

今年は夫の気が向かず即答で却下された。

近場にある「黒尊渓谷」であっても運転するのが億劫らしい。

さすがに独りで行けばいいとは云わなかったが寂しいものである。

年内のドライブはもう無理かもしれない。すっかり諦めモードになった。


ごろごろと寝てばかりいるのも飽きてしまって

断捨離を兼ねて衣替えをしていた。

秋物を仕舞い押し入れから冬物を引っ張り出す。

川仕事用の防寒着などは思い切って捨てることにした。

もう二度と着ることはないだろう。それも寂しいものである。

若い頃から着ていた物もあり懐かしくてならない。


断捨離の衣類は市のリサイクルに出すことにしている。

燃えるゴミとして出すのはどうしても抵抗があった。

リサイクルの仕組みには詳しくはないのだが

発展途上国へ送ったり他の何かに再生されているようだ。

日曜日でも受け入れてくれるのだが今日は持って行かなかった。

年末までにまた整理をすればもっと増えるだろうと思う。



午後は少しお昼寝をしてから夫と一緒に大相撲の千秋楽を観ていた。

十両から幕内までけっこう見応えがある。

夫は早くも相撲ロスになり掛けていて明日からの楽しみがないと云う。

「時代劇でも見れば」と告げると「それしかないな」と苦笑いしていた。

「破れ奉行」はもう終っていて次のドラマが始まっているはずである。

私も早く帰れた日には一緒に見れるので楽しみにしていよう。


例年なら海苔網を広げる作業をしている頃であった。

もう川へ行くこともないだろう。夫が少し憐れにも思える。

する仕事がないのだ。身体には楽だが精神的には辛いのではないだろうか。



夕飯は「水炊き」鶏肉と北海道産のタラをメインにする。

昨日搾った柚子と直七が役に立つ。とても美味しいポン酢が出来た。

あやちゃんは葛切りが大好物でにこにこの笑顔である。


昨夜は随分と遅かったらしく11時前に夕食を食べていた。

「待つけん」と言っていたあやちゃんも待ちくたびれたことだろう。

決して要らぬ口を叩いてはならず娘達の方針に逆らってはいけない。

けれども少しは気遣ってやって欲しいと願うこれも老婆心であった。


まあるくまあるく平穏であることが一番に思う。

例え家族であっても干渉してはならない。

何が正しくて何が間違っているかも口に出してはいけないのだ。


満天の星空であった。明日もきっと小春日和になるだろう。










2024年11月23日(土) 柚子と直七

冬型の気圧配置とか。その割に西日本は暖かく過ごし易かった。

札幌は雪。能登の被災地は冷たい雨だったようだ。


昨日は柚子農家さんから柚子をたくさん頂き

同僚は直七をこれもたくさん持って来てくれた。

勤労感謝の日でカーブスが休みだったので朝から果汁を搾る。

搾り機があれば簡単なのだが我が家にはそれがなく

半分に切っては手で絞らなければいけなかった。

けれどもそれが面白い。一時間程かかったが全て搾り終える。

柚子が五百ミリと直七は一リットルもあった。

これだけあれば一年は持ち美味しいポン酢醤油が出来る。

湯豆腐やしゃぶしゃぶには欠かせない物だ。


台所だけではなく家中に良い香りが漂っていた。

柑橘系の香りは心身ともに癒される気がする。

なんと有難く幸せなことだろう。




夫は高齢者講習のため自動車学校へ行っていた。

「とうとう俺もか」と苦笑いしながら出掛ける。

お昼には帰って来て誇らしげに終了証書を見せてくれた。

「次はお前の番だぞ」何だか少しも実感が湧かない。

もう2年もすればれっきとした高齢者なのだ。

車に乗れなくなったらどうしようと心細くもある。


このところ長距離運転が億劫になってしまった夫だが

本音は苦手になったのだろう。自信もないのかもしれない。

ドライブも近場が多くなり遠出をすることも全く無くなった。

元気なうちにと思うが「思い出作り」にも限界が生じる。


20代の頃には四国一周もした。

子供が出来てからは九州旅行にも行ったことがある。

別府の温泉街で一時停止を怠り反則切符を切られこともあった。

それさえも思い出となり随分と長い歳月が流れてしまったようだ。


高齢者の事故が後を絶たないこの頃である。

リスクを避けることを一番に考えなければいけないのだろう。




娘達がめいちゃんのダンス教室から「一条さん」に行くようで

まだ帰って来ておらずあやちゃんは夕食を食べられずに居る。

憐れに思い声を掛けたが「待つけん」の一点張りであった。

3年前までは家族揃って出掛けていたのが嘘のようである。

娘達も諦めているのかあやちゃんを誘うことをしなくなった。

もう留守番が当たり前になっているのだろう。

いつまでこんなことが続くのだろうと思うが

私達祖父母が口出しは出来ずそっと見守るしかなかった。

永遠は在り得ないと思うのだ。それにはきっかけが必要に思う。

そのきっかけは誰が作るのだろう。母親である娘なのではないだろうか。


老婆心ばかりがつのるが愛情には違いない。

背中を押すことが許されないのなら手を繋ぐことは出来るだと思う。

そこには大きな「拒絶」があるが手を差し出すことを諦めてはならない。


どんな気持ちで待っているのだろう。

娘達よどうか早く帰って来てやって下さい。



2024年11月22日(金) オムライス

二十四節気の「小雪」寒さが進みそろそろ雪が降る頃とされているが

北海道以外はまだ初雪も観測されてはいない。

温暖化の影響もあるのだろう今日も思いがけない程の小春日和となった。


四万十市では「一条大祭」が始まり今夜は前夜祭となっている。

昔からこの頃は厳しい寒さとなり雪がチラつくこともあった。

ここ数年は暖かい日が多く冬の風物詩とも呼べなくなっている。


「お客」と云って各家で無礼講の宴会をするのが習いであった。

無礼講なので案内がなくても勝手に上がり込みお酒をご馳走になる。

それはすっかり伝統行事になっていたのだが

コロナ禍からこっち自粛する家が多くなっているらしい。


随分と昔のことだが結婚する前にガソリンスタンドに勤めていた。

その頃はまだ飲酒運転の取り締まりも緩く

ガソリンを入れに来たお客さんにお酒を振舞うこともあった。

社長の家では大宴会をしており押し掛けるお客さんも多い。

今では考えられないことだがその当時はそれが普通のことだったのだ。


スタンドは男性陣に任せ女性陣は皆社長宅に手伝いに行かされていた。

皿鉢料理はもちろんだが大鍋で「おでん」を煮込んでおり

具が残り少なくなると近くのスーパーに買い出しに行かされる。

竹輪でも蒟蒻でもいいとにかく鍋に放り込めば良かったのだ。

思い出せば愉快なことであるが任務を果たすのに必死であった。


「一条大祭」は「一条さん」と呼ばれ市民に親しまれている。

思い出は数々あるが一番はこの「おでん騒動」であった。

毎年一条さんが来るたびに真っ先に思い出している。





金曜日だったが整形外科のリハビリのある日だった。

おまけに三週間に一度の診察もあり時間が気になってしょうがない。

リハビリは直ぐに終ったが診察までの待ち時間が長いのだ。

以前は遅くなると「ほか弁」を買い求めていたのだが

普段の手抜きにそれ以上の手抜きは出来ないと思う。

娘の帰りが遅くても一人でやれるだけのことを頑張っていた。


四時過ぎに診察が終わる。薬局で薬を受け取ると直ぐに買い物に走る。

タタキ用の藁焼き鰹。お総菜売り場できつね色の鯵フライを買う。

メインはオムライスだった。卵を買い忘れてはならない。


帰宅したらぎりぎりセーフである。大急ぎで洗濯物を畳む。

「さあ作ろう」台所で奮闘していたらあやちゃんが来てくれた。

手伝う気は全くない様子で「今夜は何?」と笑顔で訊いてくれる。

昨夜もそうだったが声を掛けてくれるだけで嬉しくてならない。

「オムライスよ」と応えると「やったあ」と喜んでくれた。


ほっこりと優しい気持ちになる。それはあやちゃんも同じだろう。

つんつんしたり無視したりされたら誰だって辛くなる。

ほんのささやかなことではあったがオムライスにケチャップで

「あや」と書いた。



2024年11月21日(木) 遅咲きの秋桜

日中はたっぷりの陽射しが降り注ぎ小春日和となった。

遅咲きの秋桜だろうか。山里の県道沿いにひっそりと咲いている。

それが赤みがかった葡萄色の花ではっとするような鮮やかさなのだ。

そんな道をお遍路さんの鈴の音がちりんちりんとこだましていた。


職場に着くともう隣の敷地へ大工さんが来て仕事を始めている。

今年中には完成すのではないだろうかとても立派で大きな家であった。

今後はお隣さんとしてお付き合いをしなければならないが

まだ若者らしく礼儀知らずなのだろう。一度も顔を見せたことがない。

子供が4人いるらしい。これからはさぞかし賑やかになることだろう。



今日は車検の予約が入っておらず同僚ものんびりであった。

工場内の片づけや整理をしたりして過ごす。

違反行為ではあるが燃えるゴミはドラム缶で焼く。

お隣さんが住むようになるとすぐに苦情が来ることだろう。

昔は工場周辺は田んぼばかりだったそうだ。

新しい県道が出来てから少しずつ様変わりして来た。

長閑な田舎であるが県道の交通量も多くなって来ている。


私が子供時代を過ごしたのは9歳から3年間であったが

その当時住んでいた官舎はもう取り壊され更地になっている。

ブロック塀と植木だけは残っており当時の面影が僅かに残っていた。

南天の木があるのだ。雪が降ると雪うさぎの赤い目になった。

弟とキャッチボールをした庭の辺りには砂利が敷かれてある。

父も母も弟もいた。「ゆう」と云う名の猟犬もいた。

遠い日の記憶が鮮やかに蘇って来るとても懐かしい場所である。





来客もなく特に急ぎの仕事もなかったので2時で終わらせてもらう。

夫のパジャマを買い求めたくて「しまむら」に寄っていた。

冬のパジャマはあるのだが薄手の秋物を欲しがっていた。

もしかしたら半額品があるかもと期待していたが全て冬物である。

あれこれと見て回って長袖Tシャツとスエットパンツを買う。

これでやっと今夜から夏の恰好を止めてくれそうだ。

帰宅して見せたらまるで子供のように喜んでいた。


3時半には帰宅していたので洗濯物を畳んでから横になる。

大相撲を観ているつもりだったがいつの間にか5時まで寝ていた。

炬燵はまだ通電していないが足を突っ込むだけで天国のようである。



玄関のチャイムが鳴ってあやちゃんの担任の先生が来てくれた。

いつものように夫が応対しあやちゃんを呼びに行く。

今日こそはと思っていたのだが気が向かないのだそうだ。

夫が説得していたが無理で先生を待たせるばかりである。

仕方なく帰って貰ったが何とも気の毒でならなかった。


夕食の支度をしていたらあやちゃんが笑顔で傍に来て

「おばあちゃん今夜は何?」とケロッとした様子である。

先生に会うのがよほど気が重かったのだろうか。

それをを吹っ切ったような安堵の気持ちが窺われた。


些細な事のように思えるがあやちゃんにとっては重大なことなのだろう。

ノルマとして受け止めてしまえば自分を追い詰めてしまう。

それを避けるために自我を守り続けているとしか思えなかった。

あっという間の一年である。きっと「これから」なのだろう。

随分と長いトンネルであったが出口から射し込む光があるのに違いない。



2024年11月20日(水) ニラのナムル

朝の寒さは日毎に強まっているようだが日中はずいぶんと暖かい。

今日は特に風がなかったのでぽかぽかの小春日和になった。


国道沿いの皇帝ダリアのなんと逞しいことだろう。

車が停められたら写真を撮ってみたいのだが

交通量の多い朝のことで他人様に迷惑をかけるだろう。

四万十川と国道の間にある小さな畑の片隅である。

朝陽が川面に光り皇帝ダリアもきらきらと輝いているのだった。

おそらくすぐ近くの民家の畑なのだろう。

育ち始めた冬野菜と皇帝ダリアはとても相性が良さそうだ。


写真を撮らなくなってずいぶんと経った。

目がそのままシャッターならどんなに良いだろうかと思う。




朝一で車検の車を引き取りに行く。

もう80歳が近い高齢のお客さんだった。

息子さんも長い付き合いで私のパソコンの師匠でもある。

四万十市内の電器店に勤めていたが今年の春に閉店となってしまった。

次の勤め先も決まらないままの理不尽な解雇だったらしい。

ハローワークに行っても特技を活かせる仕事が見つからず

悩みに悩んだ挙句とうとう精神を病んでしまったのだそうだ。

母親であるお客さんから相談を受けたが何の手立てもなかった。

とにかくゆっくりと休ませてあげることが一番に思える。

明るく朗らかな青年だっただけに残念でならない。

仕事さえ見つかれば気力も湧いてくるかもしれないが

全く畑違いの仕事に就くのも憐れに思えるのだった。


2時過ぎには車検が完了し同僚と納車に行く。

庭の小菊が満開になっており陽射しを浴びていた。

息子さんには会えなかったがどうかどうかと手を合わす。

きっと光が射す日が来るだろうと信じたくてならなかった。



3時前に退社し帰り道のお客さんに車検証を届けに行く。

車が見当たらず何処かに出掛けているようだったが

玄関が開いていたので下駄箱の上に置いて来た。

ボックスティッシュとかぼすジュースを添える。

お孫さんのベビーカーが置いてあり何とも微笑ましい。


買い物を済ませ4時に帰宅したら夫が心配顔で「めいがまだ帰らん」と。

水曜日は短縮授業なので下校時間がいつもより早いのだ。

校庭で一輪車の練習をしているかもしれないと思い見に行こうとしたら

お向かいのご主人に会って今日は通常通りの授業なのだそうだ。

お向かいのせりちゃんとは仲良しでいつも一緒に帰って来る。

「もうそろそろ帰ってくるよ」と言ってくれてほっとした。


娘が帰宅してから話したら娘もすっかり忘れていたそうだ。

「そう云えばそんなこと言いよった」と母親とは思えないセリフである。

けれども何事もなかったのだから良しとしよう。


めいちゃんは「ニラのナムル」が大好物で一人で全部平らげる。

流し台の前で並んだらずいぶんと背が高くなっており驚いた。

来春にはもう5年生なのだ。信じられない程の成長である。


泣き虫でかん虫で甘えん坊のめいちゃんであったが

両親の期待を一気に引き受けているように感じる。

最近あやちゃんと一緒に夕食を食べなくなった。

子供心に気を遣っているのだろう。

その健気な姿にほろりとせずにはいられない。



2024年11月19日(火) きつね色のコロッケ

今朝は今季一番の冷え込みとなる。

日中もあまり気温が上がらず師走並みの気温となった。


詩人の谷川俊太郎さんが亡くなったニュースが流れる。

92歳の天寿を全うしたようだった。

「空に小鳥がいなくなった日」と云う詩集を持っているが

いつから私の手元にあったのだろう。

ずいぶんと若い頃に買い求めていたようだ。


夫に亡くなったことを話したら「はあ?誰やそれは」と訊かれた。

夫にとっては全く無関係なのだ。いや無関心と云うべきか。

どれほど有名な詩人であっても知らない人もいることに驚く。

生涯を書き尽くした人である。多くの人の心にその詩は残るだろう。




同僚も出勤し頭数が揃うと「さあやるぞ」と気合が入る。

早速オイル交換と車検のお客さんが来てくれて有難いこと。

義父も例の厄介な修理に力を尽くしていた。


オイル交換のお客さんに珈琲を淹れてしばし語り合っていた。

義父の親戚に当たる女性なのだがとにかくよくしゃべる。

これは血筋かもしれないと思うと少し愉快でもあった。

話しが諄いのもよく似ている。義父の実の娘ではないかと思う程だった。


車検は一日車検なので今日中に仕上げなければいけない。

2時には整備が終わっていたが車内の清掃、洗車に時間が掛かる。

3時過ぎに検査を終え書類を整えてやっと完了であった。

4時前に退社。今日はすっかり遅くなってしまう。

サニーマートへ行って驚いたのは「きつね色のコロッケ」であった。

つい先日まで「たぬき色」だったのが嘘のようである。

あまりに美味しそうだったので6個買い求めた。

どうやら私のクレームを真摯に受け止めてくれたようである。

要らぬ口を叩いたのではと気になっていたのだが

まさかこんなに早く改善されるとは思ってもいなかった。

他の揚げ物をゆっくり見る時間はなかったが明日からが楽しみである。

クレーマーと呼ばれようと言ってみるものだなと思った。


5時前に帰宅。もう横になる時間はなく洗濯物を畳む。

めいちゃんのランドセルが玄関に在り姿は見えなかった。

夫に訊けばお友達と一輪車の練習に出掛けたらしい。

放課後は一度帰宅してから校庭に行かなければいけないようだ。

日はすっかり短くなり直ぐに薄暗くなってしまう。

下校後に遊んでしまえばもちろん宿題は出来なかった。

老婆心に他ならないがどうして毎日宿題を出すのだろうと思う。

勉強は学校だけで十分なのではないだろうか。


夫に云わせれば土曜日が休みになっているからだそうだ。

その分学習不足になるので宿題で補っているらしい。

それも納得出来なくもないがそれほどに学習が大切とは思えなかった。


夕飯時も宿題である。娘がトレーに載せて二階へと運ぶ。

もう8時になるがまだ終わらないようで可哀想でならない。

こればかりは例え私がクレーマーでも改善することはないだろう。

けれどもせめて一日だけでも自由にさせてやって欲しいものである。


「きつね色のコロッケ」は好評で全て完食であった。

これが私の手作りならもっと喜んで貰えることだろう。

もう何年も作ったことはないが孫達に食べさせてやりたいものである。








2024年11月18日(月) 明日はどうしよう

陽射しはたっぷりとあったが北風の冷たい一日。

西高東低の気圧配置となりとうとう冬の訪れである。

夕方から気温が下がり始めておりちゃんちゃんこを羽織った。

娘達が暖房を点けており少しでも節電しようと我慢している。


入浴後の夫はまだ半袖と短パン姿であった。

寒くはないそうでまるで若者のようである。

年寄りの冷や水にならなければ良いがと気遣わずにはいられない。


血圧は正常値。少しずつ寒さに慣れなければと思う。

急激に血圧が高くなり死ぬことはないと主治医は言ったが

どうしてそんなことが信じられようか。

おそらく医師は私の不安症を和らげるためにそう言ったのだろう。

暗示に掛かるのが一番危険である。「大丈夫、大丈夫」と念じよう。





月曜日であったが同僚が高知市へ出張のため開店休業となりそうだった。

整備の講習会に参加しなければならず早朝から出掛けたようだ。

義父はてっきり農作業だと思い込んでいたのだが

長いこと預かっている厄介な修理に精を出していた。

おそらく開店休業にする訳にはいかないと思ったのだろう。

それが何と驚くほど働くこと。昼食も食べようとはしない。

これまでも手を尽くしてきたがまだ完璧ではないのだそうだ。

お客さんが様子を見に来たら80%と応える。

あと20%なのだ。何としても直そうとする意気込みを感じた。


事務仕事は一段落していたので2時半で終らせてもらう。

帰り際に「ちゃんとお昼を食べたよ」と言い残して帰路に就く。

後ろ髪を引かれるような気持であったが早く家に帰りたかった。

炬燵に潜り込んで横になることばかり考えていたのだった。


娘の休みは一週間だとばかり思い込んでいたのだが

私の聞き間違いだったのだろう。今日から通常通り出勤していた。

また全ての家事が圧し掛かって来る。こればかりは仕方ないことである。

如何に手を抜くかだがそれにも限界があり出来ることをと思う。

夕飯はホットプレートで鉄板焼きにして急場を凌いだ。

明日はどうしよう。悩みの種がどんどん増えて行きそうであった。


話しが前後するが帰宅した時に夫が作業場に行ってみるかと言う。

先日から娘達が片付けていたので私も気になっていた。

「これを見てみろ」夫が指差した先に大きな冷蔵庫がある。

中古品のようであったが中は綺麗でまだ上等に見えた。

いったい何のために。それが一番の疑問だったので

夫とあれこれと詮索せずにはいられなかった。

私は近いうちの別居のために準備をしているのではないかと。

夫は娘婿の友人達の溜まり場になるのでビールを冷やすのだと言う。

どちらが正解かは分からないが何だか不可解なことであった。


私達の知らない処で何かが動き出しているような気がしてならない。

娘との会話は殆ど無く何を考えているのか全く分からない。

同じ一つ屋根の下に暮らしながらもはや2世帯の我が家であった。


別居は覚悟しているが「いま」であってはならないのだ。

今日もあやちゃんは何度も茶の間に下りて来て夫と話したそうだ。

きっと炬燵が嬉しかったのだろう。ほんわかと優しい気持ちになる。


一番に何を守るべきか。娘達には言えないことが多過ぎるこの頃であった。





2024年11月17日(日) 走馬灯のように

雨上がりの晴天。陽射しが降り注ぎぽかぽかと暖かい。

「小春日和」は冬の季語だがまだ冬とは思えず

「秋晴れ」と云った方が相応しいだろう。


夫に手伝ってもらって炬燵布団とカーペットを干した。

明後日から冬らしくなるようなのでもう冬支度である。

朝の温度が低くなると温風ヒーターも必要になるだろう。

そろそろ灯油の準備もしておかなければならない。



ほうれん草の種蒔きどころではなくごろごろと寝てばかり。

3年前までは川仕事に出掛けていたのが嘘のように思う。

夫も私も楽になったがこの上なく怠惰に過ごすようになった。

長年頑張ったご褒美だと思えば有難いことである。

あとどれ程の老後が残っているのか分かる由もないが

ゆったりと穏やかに過ごしたいものだと思う。





午後の昼寝から目覚めてふと思い立ち3年前の日記を読み返していた。

青さ海苔の収穫が僅かにあった最後の年の事である。

他の誰でもない私が「嘆いてはいけない」と書いてあった。

まだ希望を捨ててはいなかったのだ。翌年こそはと思っていたのである。

その頃はまだ足の痛みもなくお大師堂にもお参りに行っていた。

手を合わせどれ程の事を願ったり感謝したことだろうか。


すべてが過ぎ去ったことであるが「歩み」だったのだと思う。

長い人生のほんの一部分かもしれないが掛け替えのない日々であった。


一年生になったばかりのめいちゃん。三年生のあやちゃんもいた。

色んなやり取りや会話が記されており懐かしくてならない。

もう保育園の送り迎えをしなくても良くなった私にあやちゃんが

「おばあちゃん楽になったね」と言ってくれた日もあった。

優しくて思い遣りのある子だったのだ。それは今でも変わらないと思う。


ぐるぐると回り続ける秒針。そうして時が刻まれて行く。

決して後戻りが出来ないけれど思い起こすことはいくらでも出来る。

今この時も二度とないが書き残すことは出来るのだ。


この日記も22年目となったが私達家族の歴史のように思う。

まだ嫁ぐ前の娘のこと。結婚すると言って突然家を出た息子のこと。

私は恋をしていてまだほんの少し「おんな」だったこと。

父の死。夫の失業。愛犬あんずの死。姑さんの死。母の死。

数え切れない程の出来事が走馬灯ように浮んで来るのだった。


何よりもこの長い年月を寄り添ってくれた人達が居ることを忘れてはならない。

読んでくれる人達のおかげで今まで書き続けることが出来たのだった。


あやちゃんの願いでSNSのリンクを外してしまったので

今後は家族の目にも触れることはないだろう。

死後のことを考えるとなんだか儚くてならないが

私の存在が消えてしまうのではないのだと思いたい。


明日も書けるだろうか。まさか最後ではあるまい。

いつもいつもそう思いながら一日を書き残している。





2024年11月16日(土) しゃぶしゃぶ日和

小雨が降ったり止んだり。まるで梅雨時のようであったが

明日は快晴の予報でほっと胸を撫で下ろしている。

炬燵布団を干して冬支度をしなければならない。


畑はあっても耕すことが出来ず荒れ放題であるが

プランターにほうれん草の種を蒔いてみたらどうだろう。

そんな突飛なことを思いついたりして可笑しくてならない。

素人の考えそうなことだが試してみる価値はあるかもしれない。

それに行動力が備わるかどうかがモンダイである。



土曜日は「カーブス休暇」私だけ仕事を休ませて貰っているので

疎かには出来ずほんの少し気合を入れて出掛けていた。

思いがけず友人の娘さんに会えて嬉しい。

メンバーは年配者が多いが若いメンバーも居るのだった。

若いことは素晴らしいことだと思う。活き活きとした笑顔が輝いている。

皆さん筋トレコースを二周するのだが私は一週にしている。

足が不自由なのもあるが心拍数が異常に高くなるのだった。

それでも汗が噴き出して来る。今日も心地よく汗を流すことが出来た。


帰りにサニーマートへ寄ったら駐車場で「おはよう」と声がする。

いつもガソリンを入れているスタンドの女の子だった。

車も顔も覚えてくれているのだなと嬉しく思う。

私も結婚前はガソリンスタンドに勤めていたが

お客さんの車はすっかり覚えており道で会ってもよく手を振っていた。

「覚える」ことはとても大切なことだなと思うのだ。

お客はもう他の店に行こうとは思わないだろう。すっかり常連になる。



午後は例の如くでごろごろと寝てばかりいたが

三時には大相撲中継が始まり夫と一緒に観ていた。

夫の解説入りなのでけっこう面白く楽しい。


夕飯はめいちゃんのリクエストで「しゃぶしゃぶ」にしたが

六時からダンス教室が在り食べずに出掛けて行った。

夫と二人で先に食べ終えていたのだが珍しくあやちゃんが顔を見せる。

よほどお腹が空いていたのだろう母親たちを待てないと言う。

豚肉が好きでエノキ茸が大好きだった。

「おばあちゃんがしゃぶしゃぶしょうかね」と云うと素直に頷く。

こんなことは滅多にないことで嬉しくてならならない。

独りぼっちの食卓ではあったがとても美味しそうに食べてくれた。


「甘え」ではないかもしれないが頼りにしてくれているのだろう。

もしも別居していたらどんなにか寂しい思いをさせていただろうと思う。


学校の話題は禁物である。どんなに些細な事でも刺激してはならない。

あやちゃんには自分で決めた生活のリズムがあった。

それは私達が考えるよりずっと大切なことなのではないだろうか。


入浴後そっと声を掛けた。「お風呂入りたくなったら入ったよ」と

そうしたら「うん、分かった」と明るい声が聴こえた。





2024年11月15日(金) 私はクレーマー

朝から降り始めた雨が今も降り続いている。

気温は20℃程で幸い冷たい雨ではなかったが

なんだか初冬の雨には思えず春先の雨のようであった。


父の命日であったが何も出来ず一日が暮れる。

お墓もなく遺骨は弟の家にそのままであった。

人並みの事が出来ない。最初は不憫でならなかったが

弟家族と共に暮らしているのだと思えるようになった。

生前の父は弟の家を訪ねても玄関から一歩も立ち入らなかったそうだ。

いったい何に遠慮していたのだろう。その理由は未だ分からぬままである。


もう21年の歳月が流れた。つい昨日の事に思えてならない。

最後に会った日から僅か9日後のことであった。

誰にも看取られずにアパートの一室で孤独死を遂げたのだった。

テレビを点けたまま下着姿で息絶えているのを

訪ねて来た友人に発見された。それは16日の夜のことである。

死後24時間を経過していた。なんと憐れな最期だったことだろう。


その夜は父の亡骸に添い寝した。それが少しも寂しくはなかったのだ。

きっと父の魂がずっと傍に居てくれたのだろう。

私はそれ以来父に守られ続けている。





仕事を終えてサニーマートで買い物をしていたら

なんとサニーマートから着信があった。

昼間ホームページの「意見要望」からメールを送信していたからだろう。

クレーマーにはなりたくなかったがそう思われても仕方ない。

お惣菜売り場の揚げ物がいつも揚げ過ぎているため改善を願った。

家族には不評で先日は固くて食べられなかったのだ。


店長さんと揚げ物担当と思われる女性と会った。

まさかこれ程までに大事になるとは思っておらず恐縮の至りである。

詳しい話を聞けば増々気の毒になって頭が下がるばかりであった。


揚げ物は全て会社のマニュアル通りに揚げているのだそうだ。

食材ごとに揚げ時間が決められておりタイマーを備え付けているらしい。

決してわざと揚げ過ぎていないことを初めて知った。

ただあまりの忙しさにうっかり遅れてしまうこともあるだろう。

ロボットではないのだものそれは当然のことだと思う。

こちらは揚げて貰っている作って貰っている方である。

毎日どれ程助かっていることだろうか。


女性店員さんはとても険しい顔をしてずっと俯いていた。

もしかしたら私はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。

朝から晩まで一日中揚げ物をしている人の苦労を考えてもいなかった。

失敗する時もあるのだ。マニュアル通りには決して行かない。


クレーマーの後悔はあったが不思議と気分が良かった。

話してみないと分からないものだなと思う。

きっとこれからも揚げ物を買い続けることだろう。


足の悪い私を気遣ってくれて店長さんが「どうかお気をつけて」と

言ってくれたのがとても嬉しかった。






2024年11月14日(木) 綺麗さっぱり

曇り日。天気は下り坂のようだ。

気温は20℃を超えていたが風があり随分と涼しく感じた。


朝の道。国道の「伊豆田トンネル」を通過中に

リヤカーを引っ張りながら歩くお遍路さんを見かけた。

暗かったので荷物の様子まではよく分からなかったが

生活必需品一式を積んでいるように見えた。

確実に野宿である。何と苦労な旅だろうと憐れにも思える。

交通量の多いトンネル内を歩くのも危険が伴うだろう。

逆打ちだったので東に向かう。次の札所は四万十町の岩本寺だった。

しばらくは海岸線だが「片坂」の厳しい峠はどんなにか辛いに違いない。

故郷を捨てた職業遍路さんなら尚更のこと不憫でならなかった。




義父が高知市へ出張。今日は整備振興会の理事会があった。

スーツ姿に赤いネクタイがよく似合う。とても81歳には見えない。

「忘れ物はないかね?気を付けて行ったよ」

義理の娘であるがまるで妻であるかのように送り出す。

その後は同僚と肩の力を抜きぼちぼちと仕事をこなすばかりである。


来客があり新車購入が決まる。明日にでも契約をと言ってくれた。

早く義父に報せたかったが会議中なので明日の朝にすることに。

以前から脈はあったのだがはっきりとした返事はなかったのだ。

やっと決心してくれたことがとても嬉しくてならない。

営業は私の得意分野であるが最終的には義父に任すことにしている。

そうして立ててやることも私の仕事であった。


来客が途切れた頃を見計らって2時過ぎに退社する。

娘が家に居てくれるので何とも気楽であった。

「さあ今夜は何を作ろうか」買い物にも気合が入っていた。


4時前に帰宅したら洗濯物は畳んでくれていたが夫も娘も姿が見えない。

娘の車は在ったので咄嗟に義妹に何かあったのではないかと思う。

すぐ近所なので駆け付けることは出来たがその前に夫に電話してみた。

そうしたら娘と一緒に青さ海苔の作業場に居たのだった。

娘婿が早めに帰宅していたので機材の後始末をしていたらしい。

鉄製なので業者に運び込めば買い取ってくれるのだそうだ。

海苔の洗い機、網の洗い機等を処分することになった。

もうこれでとうとう「海苔養殖業」ともお別れである。

40年以上もの歳月を思うとしみじみと思い起こすことも多いが

綺麗さっぱりである。何と潔い最後なのだろうと思う。


夫の一存であったが作業場は娘婿に譲ることに決まっていた。

好きなように使えば良いと言ってあり娘婿は大喜びだった。

財産など何もないのだ。譲るものがあるだけでも良かったと思う。


乳飲み子の娘を背負いどれほど精を出したことだろう。

息子は土手から土筆を摘んで来て心を和ませてくれた。

もう二度と戻れないあの頃が懐かしくてならない。


ブランド品であった「四万十川の青さ海苔」は全滅してしまった。





2024年11月13日(水) 心を亡くす

小春日和も明日までだろうか。明後日から週末は雨となり

来週から一気に冬らしくなりそうである。

急激な温度差に身体がついて行けるだろうかと不安になってしまう。

流石にまだ雪の季節は遠いと思うが木枯らしが吹き始めるだろう。

どれほどあがいても冬となる。いつまでも秋ではいられない。


今朝の山道、峠道にはお遍路さんが多く6人も見かけた。

皆荷物は小さくおそらく夜明け前に民宿を出たのだろう。

半袖姿のお遍路さんもいた。日中は汗ばむ程の陽気である。

峠道は険しい。余程の体力が必要に思う。

それなのに颯爽と歩く姿には感動せずにはいられなかった。


歩き遍路は私の夢であったがこの足では到底無理である。

バスツアーも考えたがバスから札所まで歩くのも困難に思えた。

長年の夢を簡単に諦めたくはないが現実はとても厳しい。

せめてもと歩き遍路さんに心を預けている日々であった。

「一緒に連れて行って下さいね」と願うばかりである。




今日は怒涛の忙しさであった。もちろんお昼休憩もない。

午後も来客があり同僚もパニック状態になっていた。

肝心の義父はまた農作業に目覚めトラクターで田起こしである。

稲刈りを終えた田んぼは孫生え(ひこばえ)がぐんぐんと伸びている。

その緑は鮮やかで美しくもあるがとても厄介なものらしい。

全ての田んぼを耕すには大変な苦労となりそうだった。


突然の来客に手間取り同僚の予定が大きく狂う。

今日中に納車しなければいけない車があり残業を頼むしかなかった。

しぶしぶであったが引き受けてくれてどれ程助かったことだろう。

後ろ髪を引かれるような思いであったが3時半に退社する。

いつもより遅くなってしまってまた余裕を失くしてしまいそうだった。


買い物を済ませ4時半に帰宅。夫と大量の洗濯物が待っている。

めいちゃんも下校しており友達と一緒に宿題をしていた。

毎日の宿題なので遊ぶこともままならず可哀想だなと思う。

昔は下校するとランドセルを放り投げて遊びに行ったものだ。

「ちびまる子ちゃん」や「のび太君」の時代である。


夕食は簡単に「牛丼」にしたが喜んでくれたのは夫だけだった。

娘が帰宅し明日から一週間休みになったのだそうだ。

病院の検査室である。何か大きなミスをしたのではないかと気遣う。

例の如くであまり詳しくは話してくれなかったが

決してクビではないとのことでほっと胸を撫で下ろした。

どうやら県立の総合病院から研修生が来るらしい。

娘は休みを喜んでいるようなので何よりと思うことにした。

私もその分少しでも楽をさせて貰えるだろう。


「忙しい」と云う字は「心を亡くす」と書くが

つくづくとそう感じるばかりの日々であった。

何だか得体の知れない渦に巻き込まれているようなのだ。

もがけば溺れる。浮かぶには体重が重すぎるのかもしれない。

それは冗談だが心が重くなるのは事実であった。


「なるようになる」「なんとかなる」楽観出来れば救われるが

私はいつだって「どうしよう困った」の連続である。


心を亡くせば詩も短歌もこの日記さえも書けなくなるのだと思う。










2024年11月12日(火) どうどうどう

穏やかな晴天。今日もほぼ夏日に近い気温だった。

冬が始まっているとは思えず初秋のようでもある。

少し暑さを感じるが爽やかな風のおかげで過ごし易い。


朝の山道を行けば野生の山茶花がぽつぽつと咲き始めていた。

真っ白い花で鬱蒼とした樹々の間から可憐な姿を見せている。

「野生」と云ったが定かではない。ただ人里からは離れており

誰かが植えたとはとても思えないのだった。


峠道にはつわぶきの花。人家が見え始めると鶏頭の花が咲いている。

畑には大根だろうか蕪だろうか若い緑が初々しく萌えていた。


自然に囲まれたなんと長閑な山里なのだろう。

毎朝そんな道を辿れることが有難くてならない。




同僚が通院のため午前中は休んでいた。

県立の総合病院で脳のCT検査をするらしく気掛かりであった。

還暦を迎え身体のあちこちに支障が生じているようである。

ヘルニア、白内障、心房細動と数え切れない程の病気があった。

通院は月に3回程だがその度に義父の機嫌がいささか悪くなる。

従業員を思い遣る気持ちはあっても口に出して云うことはないのだ。

その分私がカバーしているつもりだが足らない時もあるだろう。

日頃から口数の少ない同僚は文句ひとつ云ったことはない。

辛抱強く精一杯に会社のために身を粉にして働いてくれているのだった。


午後一時には出勤して来てくれて助かる。

特に急ぎの仕事はなかったが居てくれるだけで心強い。

それとなく検査の結果を訊ねてみたが詳しいことは分からなかった。

ただ一月後にまた再検査をしなければいけないのだそうだ。

大事に至らなければ良いが何とも気掛かりである。



する仕事はあったが明日にすることにして2時半に退社した。

日が短くなり少しでも早めに帰宅したくてならなかった。

買い物も30分は掛かってしまうしメニューも思い浮かばない。

サニーマートのお総菜売り場はもう何の希望もなかった。

夫の好きな物、娘達や孫達の好きな物。頭がパニックになってしまう。


4時前に帰宅。例の如く自室で一服してから茶の間に行く。

大相撲を観ながら大量の洗濯物を畳み終えた。

それから少し横になったのだが5時まで寝ていたようだった。


娘の居ない平日の夕飯作りにもすっかり慣れて来たのだが

立ち仕事が辛くなり流し台に寄り掛かりやっとの思いである。

夫は呑気にビールを飲んでおりついつい腹立たしくなるのだった。

やっと食卓に座ったかと思うと「めし入れてくれや」である。

お茶碗を放り投げたくなる。もう苛々の絶頂であった。



どうどうどう。まるで暴れ馬を宥めているような気分になる。

きっと心の余裕が足らないのだろう。

ゆとりさえあれば「何だって来い」とこなせるのだと思う。

出来ることしか出来ないが百点満点とはいかない。


あーあ今日は50点だったかもしれないな。

私の半分は何処に消えてしまったのだろう。




2024年11月11日(月) 空が広くなった日

穏やかな晴天。気温が異常な程に高くなり25℃と夏日になった。

流石にもうエアコンは点けなかったが長袖では汗ばむ程の陽気である。

季節は初冬のはずなのに信じられず戸惑うばかりであった。


今朝は職場に着くなりやまももの木が伐採されておりおどろく。

樹齢はいかほどなのか定かではないがかなり大きな木であった。

梅雨時にはたわわに紅い実を付け食べることも出来たのだが

実が落ちて雨に濡れると地面にへばりつき厄介でもあった。

夏の間は大きな木陰となり風が吹くと何と涼しかったことだろう。

けれどもこれから寒い季節になると鬱蒼とした茂みが冷たさを増すのだ。


父の発案だろうか。友人がチェーンソーで薙ぎ倒したらしい。

急に思い立ったとは思えず以前から考えていたことかもしれない。

確か母が植えた木だと聞いていた。もちろん母の許しなどないが

生きていればどんなにか嘆いたことだろうと思う。


しかし辺りが随分と明るくなった。空も広く見えるのだ。

父の友人曰く。切ってもまた直ぐに大きくなるのだそうだ。

それだけ生命力の強い木なのだろう。ちょっとした心機一転である。




月曜日の仕事は忙しくてんてこ舞いをしていたが

整形外科のリハビリがあり2時半過ぎに終らせてもらった。

今週は木曜日の予約が取れず今日しか空きがなかったのだ。

休むことも考えたがリハビリのおかげで足の痛みが薄れている。

出来る限りと思ったのだ。いつも藁にも縋る思いであった。

次回は10日後で何だか心細くてならない。


買い物を済ませ4時過ぎに帰宅した。夫は大相撲に夢中である。

とにかく一服をと思い二階の自室に行ったら室温が28℃もあった。

冷たいコーヒーが美味しい。煙草を立て続けに2本も吸う。

そこで新たな煙草を買い忘れていたことに気づく。

今夜の分はなんとか足りそうだが明日の早朝の分が無かった。

そこで潔く諦めてしまえば良いのだがそうは自分が許さない。

こそこそと近くのローソンへ走る。まるで密売人に会うみたいだった。


ああ嫌だ嫌だ。いったいいつまでこんなことを続けるのだろうと思う。

断ち切れない事実に圧し潰されてしまいそうになる。

無様な愚か者とどれ程自分を責めても一向に救われることはない。

開き直るのもそろそろ限界だと思う。このままでは雑魚の開きである。



ハーフムーンなのだそうだ。どうした訳か窓からは見えない。

星はたくさん輝いているのに月は何処に行ったのだろう。

私みたいな者に見られてたまるものかと姿を隠したのかもしれない。

そうか、そうか、そこまで私を蔑むのかと涙も出やしないのだ。


落ちぶれた者である。けれどもたったひとつ誇りに思うのは

この精一杯の「いのち」であった。



2024年11月10日(日) 備えあれば憂いなし

晴れのち雨。曇りの予報だったが思いがけずに晴れる。

夕方からぽつぽつと雨が降り始めたところだ。

沖縄や奄美地方ではまだ雨が降り続いており気遣わずにはいられない。


昨夜はこの日記を書き終えるなり突然停電となり戸惑った。

パソコンは充電してあるので切れなかったがネットは繋がらなくなる。

娘がスマホで調べたところ四国全域の停電と知りおどろく。

原因がまだ分からないとのことで長引く可能性があった。

私はスマホを持たない主義だが一気に必要性に迫られていた。

緊急時にパソコンは全く役に立たないのである。


一瞬真っ暗闇になったが娘が日頃から備えてあり

懐中電灯はもちろんのこと電池式の卓上ライトがとても役に立った。

階段、台所、トイレとあちらこちらに明かりが灯る。

「備えあれば憂いなし」とは正にこのことであった。


私はパソコンの明かりを頼りに窓辺から月を眺めていた。

「一切れのオレンジ」である。それなのに何と明るいことだろう。

雫のような光が土手の芒をぼんやりと浮かび出している。

古代から月は人類の希望だったのに違いない。


一時間半ほどして停電は復旧したが電気の有難さが身に沁みた。

決して当たり前のことではないのだ。失って初めて気づくことである。




例の如く特に予定のない日曜日だった。

買い物に行っただけで後は殆ど寝て過ごす。

お昼に巨大なお好み焼きを作った。夫はビールを私もノンアルを飲む。

「週末の楽しみやな」と頷き合う。ささやかな幸せである。


3時まで寝ていたが目覚めたら夫が大相撲を観ていた。

彼の一番の楽しみである。場所中はとても機嫌が良い。

新大関の「大の里」の活躍に期待せずにはいられなかった。

2週間などあっという間である。そうして冬が深まっていく。

そろそろ炬燵を出しても良いなと夫が言った。

まだ扇風機を片付けていなくて笑い話のようである。



今夜は残念ながら月を仰ぐことが出来ないが

昨夜よりもふっくらとしていることだろう。

満月になれば大潮となり「いのち」が左右されるのが不思議でならない。

人の命は引力と深い関りがあるとしか思えなかった。

先日「死ぬならば満月」と書いたのはそのせいである。


12月になれば直ぐに68歳となるがかなり戸惑っている。

おそらく焦りだろう。何ひとつ遣り遂げられないでいるのだ。

このまま誰にも認められずに一生を終えることになるかもしれない。

それはそれで与えられた運命だからもがいても仕方ないことだと思う。


けれどもここまで追い詰められ蔑まされていて良いのだろうか。

残された時間はまだあるのか。そう思うと嘆かずにはいられなかった。


生きてさえいればと思うがどうしてこうも心細いのだろう。



2024年11月09日(土) 一切れのオレンジ

朝の冷え込みが緩み日中も穏やかな晴天となる。

奄美地方では線状降水帯が発生し水害を招いたようだ。

いつも台風の進路に当たる地域で雨には慣れているはずだが

今回の雨は予想を上回るほどの豪雨だったらしい。

幸い命を落とされた方はいないようだが大きな水害となり心を痛めている。

断水にもなっておりまだ復旧の目途が立たないらしく気の毒でならない。

同じ日本なのに本土は晴天である。これほど心苦しいことがあるだろうか。

それにしても11月になってからの豪雨とは異常気象としか思えない。

一刻も早く雨が止むことをひたすら祈るばかりであった。




朝のうちにカーブスへ行き心地よく汗を流す。

娘が勤めている病院の看護師さんが体験に来ており言葉を交わした。

小児科の看護師さんで孫達がお世話になっていたので懐かしい。

ついつい娘のことを話してしまったのだが後から酷く叱られる。

強い口調で「余計なことを話すな」と機嫌を損ねてしまったようだ。

同じ病院なので「よろしく」の意味を込めて話したのだが

娘にとっては母親がでしゃばる事ではなかったのだろう。

夫にも叱られしゅんとする。些細なことが大きな後悔となった。

私はいつも一言多いのだそうだ。もっと自覚しなければならない。



お昼のうちに茹で卵を作り大根も下茹でした。

2時間程お昼寝をしてからおでんを煮込む。

「おでん日和」は嬉しいもので家中にいい匂いが漂う。

平日には作れないので尚更のことであった。

幸せだなと思う。夕飯がとても楽しみだった。


娘は孫達にカレーを作る。これも平日には作れず久しぶりである。

いつもは甘口だが今日は中辛なのだそうだ。

孫達も成長したのだなと微笑ましく思った。

だんだんと大人の味になっていくのだろう。

やがては辛口も大辛も食べられるようになるはずだった。


例の如くで夫と先に食べ終えた頃娘婿が帰って来た。

詫びなければいけないことがある。今朝は炊飯が間に合わなかったのだ。

毎晩寝る前にお米を仕掛けるのだが昨夜は残りご飯があったので

朝炊けば良いと安気に思っていたのがいけなかった。

今朝炊飯器の中を見たら二人分しかなくて焦りまくる。

大急ぎでお米を研ぎ早炊きコースで炊いたがもう遅かりしであった。

朝食を食べ損ねた娘婿になんと申し訳ないことをしたのだろう。

少しでも手を抜こうとするのは私の悪い癖であった。


昨夜「出来ることしか出来ない」と書いたが

出来ることをしようしないところが私の欠点でもある。



午後8時を過ぎ空を見上げるともう三日月ではなく半月になっていた。

月齢には詳しくないので「一切れのオレンジ」と名付ける。

月を見ていると不思議と癒される。ほっこりと優しい気持ちになるのだった。

私は永遠にはなれないが月は永遠に空に浮かび続ける。

満月かもしれないと最期の夜に想いを馳せていた。








2024年11月08日(金) 出来ることしか出来ない

今朝も初冬らしい冷え込み。きりりっとした寒さが心地よい。

日中は20℃程で暑からず寒からずの快適な気温だった。

一年中こんな気候ならばと思ったがそれでは季節がなくなる。

春には春の花が咲き。夏の花。秋の花。冬には冬の花を咲かせてやりたい。

人は暑さに耐え寒さに耐える。そうして逞しくなっていくのだろう。



ゆるりと仕事。心配していた義父はすっかり元気になっていた。

お昼過ぎに車検が一台完了し今週の仕事が一段落する。

厄介な一般整備は後を絶たず義父が一人で頑張っていた。

同僚では手に負えずどれほど助かることだろうか。

「何としても直すぞ」その意気込みには頭が下がる思いである。

そうして顧客との信頼を強めていく「商売」とはそう云うものだろう。



内科の薬がもう少しで切れるため掛かりつけの病院へ行く。

2時に仕事を終わらせてもらって早めに向かった。

薬は2ヶ月分処方されるため次回はもう来年である。

薬漬けではあるがあっという間の一年だった。

血圧も不安症も落ち着いていて何よりである。

ただ酷く咳き込むのは一向に治らずもう医師に相談も出来ない。

自業自得なので仕方ないが夜中の咳にはすっかり参っている。

煙草さえ止められたらと思うがずるずると吸い続けるばかりだった。

自分で自分の首を絞めているのだからもうどうしようもない。


来年では遅すぎるかなと思いインフルエンザの予防接種もした。

ちくりと痛い。これでは子供が泣くはずだと思った。

看護師さんも今年は特に痛いような気がすると言い笑い合う。

病院の職員は皆早めに接種を済ませているのだそうだ。


買い物を済ませ4時過ぎに帰宅した。

途中からであったが「破れ奉行」を見る。

何だかラストがいつもと違うなと思ったら最終回だったようだ。

もう来週からは見れないと思うと残念だったが爽快な気分でもある。

今の時代にはこれほどの面白い時代劇などなかった。

「てめえらを斬る」忘れられないセリフとなる。

今は悪人で溢れ返っている世の中だった。誰も斬り捨てることなど出来ない。



娘は残業だったらしく6時半に帰宅する。

娘婿と孫達は先に夕食を食べ始めていた。

相変わらずの献立なのに喜んで食べてくれて何と嬉しいことだろう。

娘も「お腹が空いた」と言って直ぐにテーブルに付いていた。


出来ることしか出来ない。それ以上もそれ以下もなかった。

毎日試されているのかも知れないが在りのままを貫いている。

その上に日々の心細さは増しこの先どうなるのかと思う。


私が突然に死んでしまったら夕食は誰が作るのだろう。

そんな事を考えていると途方に暮れてしまうのだった。

必要とされているのならとことん生きなければならない。

死ぬわけにはいかないのだと強く思った。


失うことは容易いことだろうか。目も耳も足も在る。

何よりも「こころ」が在り精一杯の「いのち」が在るのだった。




2024年11月07日(木) 風邪引くなよ

二十四節気の「立冬」暦の上では今日から初冬となる。

今朝は全国的に冷え込んだようで北海道は雪だったようだ。

四万十市は9℃と今季一番の寒い朝となった。

けれどもまだまだ序の口である。やがては氷点下の朝を迎えることだろう。


血圧が気になりちゃんちゃんこを羽織ったり暖房を点けたりした。

とにかく寒い思いをしてはならない。寒さが命取りになることもある。

死がいっそうと身近になり私にとっては怖ろしい季節であった。


山里の気温は平野部よりも2℃程低い。

まだ霜の季節ではないがそれも近いことだろう。

辺り一面が真っ白になる。それはそれで風情のある景色である。


今朝はどうしたことか義父の姿が見えなかった。

事務所の二階が居室になっているのだが履物はちゃんとある。

朝刊も取ってあったので居室に居ることは間違いなかったが

物音が一切聞こえず二階はしんと静まり返っていたのだった。

だんだんと心配になって来てもしかしたら倒れているのではと思う。

義祖父がそうだったのだ。心臓発作で突然に命を落としていた。

私は二階に上がることが出来ず同僚に頼もうと思ったのだが

それよりも電話を掛けるのが先決だとやっと気づいた。


10回のコールの長いこと。心臓がぱくぱくし不安でならない。

やっと義父の声が聞こえた時にはどれほどほっとしたことだろう。

原因不明の頭痛なのだそうだ。頓服を飲み寝ていたようだった。

急激な寒さで風邪を引いてしまったのかもしれない。


無理はさせたくなかったがお昼から仕事をすると言って聞かない。

午後には作業着を着ていつも通りに整備の仕事を始めていた。

「もう治った」と言うのだ。その言葉を信じるしかなかった。

顔色も良く元気である。心配し過ぎてもいけないのだろう。

しかしもう81歳の高齢である。何があってもおかしくはなかった。


平穏無事を祈るばかりの日々である。

自分の事はさておいても義父や同僚の体調を気遣うことが多い。

一人でも欠けたら会社はアウトになる。もちろん私もその一人である。

今日明日に死ぬわけにはいかないのだと改めて思わずにいられなかった。



整形外科のリハビリのあった日。スマホ越しに医師と会話をしたが

「寒うなったけん風邪引くなよ」と言ってくれてとても嬉しかった。

ささやかなことであるがその優しさが身に沁みた一日であった。



2024年11月06日(水) 崖っぷち

最高気温が21℃。やっと秋らしい気候になった。

まさかもう夏日になることもないだろう。


朝の国道で向日葵に似た花が咲いておりはっとスピードを落とす。

皇帝ダリアであった。向日葵よりもずっと背高のっぽである。

去年は見かけなかったので今年の春に植えたのだろうか。

日が短くならないと花芽が出来ないのだそうだ。

夏の花に思いがちだが晩秋から初冬にかけて咲く花らしい。

花の色はピンク系が多いが黄色い花もあるのかとおどろく。

しばらくは朝の道が楽しみになった。明日の朝もきっと会えるだろう。



今日は亡き父の誕生日であった。生きていれば95歳となる。

死んだ人の歳を数えるほど切ないことはないが

どんな老人になっていただろうかと思いを馳せた。

生涯不運な父だっただけに少しでも幸せであって欲しい。

そんな願いも今は伝える術もなく何と儚いことだろうか。


21年前の今日。父と最後に会った日のことを思い出していた。

まさかその9日後に亡くなるなどと思ってもいなかったのだ。

明くる日の夕方電話がありたわいのない話をしたのだが

それが父の最後の声になってしまった。

思い出せば思い出すほど父が憐れでならない。

せめて生きているうちに孫の顔を見せてやりたかったと悔やまれる。

薄情な娘だった。母よりもずっと父のことが好きだったのに。




2時過ぎに仕事を終えて帰路に就く。

取引先の中古部品店に届け物があり立ち寄っていた。

息子の職場の目と鼻の先でありしばらく会っていない息子を想う。

便りのないのは元気な証拠だが気掛かりなこともあった。

娘と同じであれこれと干渉してはいけないのだろう。

けれども子供は幾つになっても「こども」である。

母は死んでも母であり続けたいものだ。


感傷的になってはいけないのだが今夜はどうしようもない。

三日月を眺めているだけで涙が出そうになる。

辛いことなど何ひとつないのにいったいどうしたことだろう。

生きているだけで丸儲けなのにその儲けを無駄にしているようだ。

命あることほど有難いことはないのに感謝しきれずにいる。

それは同時に死の不安であり心細くてならない。


今夜は書くことが出来た。明日の朝も書けるだろうか。

最後かもしれないといつも思う。

どうしようもなく崖っぷちに立っている。




2024年11月05日(火) もう誰も切れそうにない

朝は肌寒く曇り空であったが日中は秋晴れとなり気温も高くなる。

七分袖のチェニックは母の形見。見つけた時にはまだ値札が付いていた。

おそらく買ったものの着る機会がなかったのだろう。

少し派手だったのかもしれない。ピンク系にグレーの模様がある。

私もピンク系は苦手であったが着てみるとけっこう似合っていた。

明るい色の服を着ると気分まで明るくなるようだった。

母を着る。母と一緒に仕事に行くような気がした。



連休明けの仕事の何と忙しかったことだろう。

義父は休みなく働いていたようで2台の整備が完了していた。

とても自慢気な顔で私と同僚に納車を急かす。

その口ぶりがとても荒くなんだか責められているように感じた。

喫煙所にも行けず苛々がつのる。トイレまで我慢していた程だ。


やっと納車が完了したら今度は車検受けの車を引き取りに行く。

義父の友人なので自分が行けば良いのにと思ったが

雷が落ちそうなのでとにかく言う通りにするしかない。

同僚も大きな溜息をついていた。決して私だけではなかったのだ。


午後には義父も落ち着きまるで別人のように穏やかになる。

まだもう一台厄介な修理があり今日中に済ませたいようだった。

昼食をさっさと済ますとお昼休憩もせずに頑張っていた。


事務所に来客があり私が応対したのだが思いがけないことに

私と話したくて訪ねて来てくれたようだった。

そのお客さんも足が悪く難儀な日々を送っていて見るからに辛そうである。

「もうわしはいかん、なんちゃあ出来んなった」と嘆く。

そのことを奥さんから毎日のように責められるのだそうだ。

奥さんも苛立っているのだろう。その気持ちも分からないこともないが

長年連れ添うた夫婦だからこそ思い遣る気持ちが大切に思う。

あまりに嘆くので他人事には思えず憐れに思えてならなかった。

「また辛い時には話しに来たやね」と宥めると笑顔を見せて

「おう、また来るけん」と手を挙げて帰って行った。


私は夫に助けれながら何とか日常生活を送っているが

それは決して当たり前の事ではないのだと改めて思った。

足の痛みだけではないその上に老いを重ねて生きていかねばならない。

10年があっと云う間である。それだけ死も近づいて来るのだ。

無理をしてでも生きなければならない。痛みなど些細なことにも思える。



日没時、今日も一番星と三日月を見た。

月は昨日よりも少しふっくらとしていてもう誰も切れそうにはない。

傷ついてはいけないのだ。嘆いてはいけないのだ。














2024年11月04日(月) チャーシュー麺

今朝は今季一番の冷え込みだったようだが日中はまた夏日となる。

11月とは思えない異常な暑さに戸惑うばかりであった。

二階の自室が28℃にもなっておりまだ扇風機が必要である。


連休もやっと最終日。今日も家籠りのつもりであったが

思いがけずに夫が「一風」に昼食を食べに連れて行ってくれた。

渋々ではあったが家には里芋の煮物しかなかったのだ。


今日は特別に「チャーシュー麺」を作って貰った。

メニューにはないのだが半炒飯とのセットである。

「一風」のチャーシューはとても美味しく一枚では物足らない。

今日は4枚も入っており最高に幸せな気分であった。

その分ボリュームがあったのだろうお腹がはち切れそうになる。

帰り道では一気に眠くなり帰宅するなり倒れ込むように寝ていた。

目覚めればもう3時である。さすがに夫も呆れ返っている。




娘婿の40歳の誕生日だった。今夜は奮発して焼き肉にする。

とは云え焼き肉パーティーとはいかず夫と二人で先に焼いて食べる。

やはり6人掛けのテーブルの出番はなかったようだ。

娘婿がホルモンが好きなのでミックスホルモンを買って来ていたのだが

夫が全く遠慮せずホルモンばかり食べるのではらはらした。

ストップを掛けたら気を損ねてしまい一気に機嫌が悪くなる。

私がもっと沢山買って来ていれば良かったのだがもう後の祭りであった。


めいちゃんもご機嫌斜め。癇癪を起こして部屋に閉じ籠っていた。

6人掛けのテーブルになったので椅子の位置を変えたのが原因である。

これも私の一存でしたことでおばあちゃんが一番悪かった。

娘が以前の位置にめいちゃんの椅子を据えやっと機嫌を直してくれる。

良かれと思ってしたことがとんでもないことになることがあるものだ。


もう8時前だが娘達の「焼き肉パーティー」は続いている。

私達は既に部外者だが楽しそうな声が微笑ましくてならなかった。

家族として家族を見ている。寂しいこととは少しも思わない。



日没時に今日も一番星を見つけたがやはり蝋燭にしか見えない。

母だろうか父だろうかとかつての家族を想う。

きっといつまでも見守ってくれているのだろう。

私もやがては星になるが一番星なら良いなと思った。


一番星から少し離れて細くて折れてしまいそうな三日月が見える。

何とも神秘的な紅い三日月であった。夢ではないかとふと思う。

夢ならば覚めてしまうが月は日に日にふっくらと丸くなるだろう。



2024年11月03日(日) オムライス

文化の日。爽やかな秋晴れとなる。

気温は夏日だったが蒸し暑さを感じることもなく過ごし易い一日だった。

あやちゃんを独り残して出掛ける訳にもいかず一日中の家籠り。

休みの日はいつも朝からごろごろと寝てばかりいるのだが

今日は珍しく掃除に目覚め台所の片づけから始めた。

しかし杖なしでは10分も立っていられず直ぐにギブアップである。

左足が棒のように固くなりずきずきと痛むのだった。

無理をして頑張ってはいけないのだとつくづくと思う。

夫に弱音を吐いていたら掃除機を掛けてくれなんと助かったことだろう。


食器棚の横にはお菓子などが散乱しており何とも片付かない。

そうだと思いつきホームセンターへキッチンワゴンを買いに走った。

親切な定員さんが車まで運んでくれてとても有難くてならない。

杖を付かずに入店したのだがレジまで運ぶのが一苦労だったのだ。


娘が留守なので賞味期限切れのお菓子でも勝手に捨てる訳にはいかない。

とにかく片付けて置けば明日にでも娘が処分するだろう。

キッチンワゴンは正解だった。おかげですっきりと片付く。


午後には運送屋さんから電話があり注文していた食卓テーブルが届いた。

またまた大忙しとなり古いテーブルとの入れ替えである。

家を建てた時から使っており傷も多く脚もがくがくになっていた。

4人掛けのテーブルだったが今度は思い切って6人掛けとする。

もう家族6人で食事をすることはないが大は小を兼ねるだろう。

思いがけずに安価だったので買ったのだが何とベトナム製でおどろく。

けれども丈夫でかなり重くあやちゃんに手伝ってもらい組み立てた。

薄汚れた台所だったが新しいテーブルで見違えるようになる。

椅子は古いままだがまた余裕が出来たら新しくしようと思う。

娘達の反応はどうだろう。今更6人掛けなんてと言われること覚悟である。


娘からは何の連絡もなかったが夕食のこともあり私から電話した。

帰宅は遅くなるとのことで夕食は不要だそうだ。

あやちゃんのことは一言も言わない。気にもならないのだろうか。

私と夫は大いに気になっている。夕食は好物のオムライスを作った。


新しいテーブルで3人で食べようと思ったのだが

今日は気が向かないらしく「後からたべるけん」と部屋から出て来ない。

無理強いもいけないだろうとそっとしておいたら

私がお風呂に入っている間に部屋に運び独りで食べたようだった。

「おばあちゃん美味しかった」その一言が嬉しくてならない。

以前のようにつんつんと反抗的になることは一切なくなっている。

私が留守の平日にも茶の間へ来て夫とたわいない話をしているそうだ。


昨夜は夫が「寂しいのかもしれんな」とふっと口にした。

2歳からお姉ちゃんになってずっと甘えることを我慢して来たのだろう。

娘は手の掛かるめいちゃんに付きっきりでもう10年が経った。

それは当たり前のことかもしれないが「寂しさ」には違いないと思う。



階下が賑やかになって来た。娘達がやっと帰宅したようである。

真っ先に娘婿が二階に上がりあやちゃんに声を掛けていた。

そうでなくてはいけないのだとまた老婆心が騒いでいる。


何があっても我が家は平和だった。

家族のようで家族ではないのかもしれないがこの上なく幸せだと思っている。



2024年11月02日(土) フライドポテト

雨のち晴れ。熱低の影響か午前中は強い風が吹いていた。

幸い雨は強雨ではなかったが各地に大雨を降らせたようだ。

松山市では記録的短時間降雨となり道路が冠水していたらしい。

松山城のお堀の水が溢れて道路に水が流れ込んでいる映像を見た。

11月になってからの豪雨。これも異常気象としか思えない。

もう災害はあってはならないがいつ何があるか分からないものだ。


午後には天気が回復し爽やかな秋晴れとなった。

しばらくは晴天が続きそうだが今度は寒気が流れ込んで来るようだ。

季節は待ったなしである。11月は「立冬」「小雪」と節気が続く。



朝のうちに小一時間ほど朝寝をしカーブスへ行っていた。

車の外気温が25℃になっておりおどろく。

蒸し暑さのせいか汗が噴き出るように流れ心地よく身体を動かす。

運動不足には持って来いだろう。カーブスだけは続けなければと思う。


買い物をし帰宅したら娘達が高知市へと出掛けていた。

一泊するかもしれないと今朝話していたが夫には何も告げなかったようだ。

あやちゃんは当然のように置き去りだが「頼む」の一言もなかったらしい。

俺達が居なかったら遊びにも行けんのになと夫は不服顔である。

娘にしてみれば居るのが当たり前なのだろう。

いつまでも同居はしないと言っているが同居せずにはいられないと思う。


あやちゃんに声を掛けたら何も知らないと応える。

それと置き去りにされたのではなく一緒に出掛けるのが嫌だったそうだ。

けれどもちゃんと話してやって欲しい。知らないではあまりに不憫だった。


台所のテーブルの上にはカップ麺とボンカレーが置いてあった。

あやちゃんの昼食と夕食のつもりらしいが侘しいものである。

一言がなくてもそれくらい私が用意するのにと思った。


夕食時にはあやちゃんを誘って3人で食べた。

普段は一緒に食べることなど全くないので微笑ましくてならない。

にこにこと笑顔である。どれほどほっとしたことだろう。


フライドポテトが好きなので揚げたら喜んで食べてくれる。

それからカレーよりもパスタが食べたいと言い冷食のパスタをチンした。

食べたい物をちゃんと伝えてくれるだけで嬉しいものである。


入浴後にまた声を掛け好きな時間にお風呂に入るように伝えた。

すると素直に返事をし直ぐにお風呂に入ってくれたのだった。

普段は深夜に入ることが多くこれも珍しいことである。

両親も妹も不在だが独りぼっちではないと思ってくれているのだろう。

干渉をし過ぎてもいけないが放任も程々でなければいけないように思う。

まだ12歳の子供なのだ。独りぼっちでどうして生きて行けよう。


娘からは何の連絡もないのでおそらく帰宅は明日なのだろう。

それも昼間なのか夜になるのか全く分からなかった。

「関係ないでしょ」と言われたらそれまでだが何とも侘しいものである。



今夜は満天の星空となった。一番星を見つけた時にまた蝋燭に見えて

目の錯覚と思い目を凝らしたがやはりどうしても蝋燭にしか見えない。

名残りの風に吹かれながらその炎はゆらゆらと揺れるばかりであった。



2024年11月01日(金) 人生のゴール

霜月は雨で始まる。朝のうちは小雨であったが次第に本降りとなった。

台風21号が秋雨前線を刺激しているのだそうだ。

明日には熱帯低気圧に変わりそうだが強い雨に用心しなければならない。

豪雨災害が多かった年だけに誰しも不安な気持ちになることだろう。


今朝は義父の飼っているメダカの水槽に再びホテイアオイが咲いていた。

夏の花であるが調べてみたら越冬することもあるらしい。

水もだんだんと冷たくなる季節に咲けば奇跡にしか思えなかった。


「よしよし」と声を掛けながら義父がメダカに餌を与えている。

猫と同じく家族同然なのだろう。とても穏やかな顔をしていた。



工場の仕事は連休前のせいか車検の車は入庫しておらず

厄介な一般修理の車が3台とトラクターの修理であった。

義父が故障の原因を究明し同僚に手解きする手順である。

病院ならば院長先生のようなものだ。義父の診立ては完璧であった。


事務仕事は月末の締めを終わらすと特に急ぎの仕事もなく

午後はついダラダラとしてしまい生欠伸が出る。

早目に帰宅し横になりたくてたまらなかったが

今日は整形外科のリハビリのある日だった。

毎週木曜日だが予約が取れず今日になってしまったのだ。


雨がけっこう降っていたのでもしやと思い早目に出掛ける。

やはり思った通りでキャンセルが出ており直ぐに順番が来た。

高齢者が多いので雨の日の通院を諦めてしまうのだろう。

今日はリハビリ後に診察もあったのでラッキーとしか云いようがない。

おかげでいつもよりもずっと早く4時半には帰宅出来ていた。

「破れ奉行」は諦め自室で10分程煙草を吸ってから茶の間に行く。

山のような洗濯物を畳んでいたらもう5時になっていた。

夕食の支度をしなければならずあたふたと忙しい。


整形外科で医師から「どうした?いつもの元気がないぞ」と言われた。

金曜日はいつもそうなのだ。もうすっかり燃え尽きている。

来月には68歳である。体力に限界があって当然ではないだろうか。

70歳にはまだ2年あるがいったいいつまで仕事をするのかと思う。

あと10年とすればもうよぼよぼのお婆さんであった。

母がそうであったように私も仕事をしながら生涯を終える運命かもしれない。


気力が弱っているせいかなんだか虚しくてならなかった。

仕事は決して嫌いではないはずなのにどうしたことだろう。

何事も始めれば終るのだがそのゴールが全く見えない。

走ることは出来ないが杖を付きながらとぼとぼと歩き続けている。


「ああいい人生だったな」そんなゴールが望みだった。

こうして書き残すこともまた私の「歩み」になることだろう。








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