ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年08月31日(土) 老婆心

台風一過と云うべきか台風騒動一過と云うべきか

久しぶりの青空となり真夏日となった。

今朝は高知県東部に最接近していたが大きな被害はなかったようだ。

現在は潮岬の南東約60キロにあって、時速15キロで東南東へ進んでいるらしい。

次は紀伊半島でその後は能登の被災地方面に向かうようで気掛かりである。

復旧作業が遅れているうえに台風の二重苦はなんとしても避けたい。

勢力はかなり衰え熱低に変わりそうだが今日も大雨の地域があったようだ。

雨雲レーダーを見ていると静岡県は赤く表示されており豪雨に違いない。

難を免れ平穏に暮らすことが心苦しくてならなかった。

どうか一日も早く消滅して欲しい。そうして日本中の平穏を祈るばかりだ。





今日は仕事だったが思うようには捗らなかった。

昨日仕事をしていれば良かったと義父は嘆くばかりである。

休業予定だった部品屋が通常通りの配達をしてくれたのだそうだ。

そうなれば部品待ちの車検整備が昨日のうちに完了出来たはずである。

もう後の祭りのことをいつまでもぶり返すのは義父の悪い癖であった。


可哀想なのは同僚で車検整備の最中に突然の来客がある。

何度途中で手を止めなければいけなかっただろう。

義父は新しい運搬車の整備に夢中なのだった。

来週早々には持ち込み検査で陸運支局まで行かなければならない。

買ったばかりの車なのにブレーキに不備があるのだそうだ。

中古車にはそれなりの盲点があるものだった。


車検が完了するまで退社出来ずひたすら待つ。

どうしても今日中に納車しなければならなかった。

午後4時前にやっと完了。書類を書き終えたらもうお役御免である。

待っている間に煙草を吸い過ぎたのだろう。

また以前のように声が出難くなってしまった。

こればかりは自業自得でどうすることも出来ない。


のど飴をしゃぶりながら帰路に就いた。

娘からメールがあり夕飯は不要とのこと大助かりである。

遅くなったがサニーマートへ寄り夫の好物の「イカ刺し」を買い求める。

私は無性にマカロニサラダが食べたかった。


5時半にはもう夕食である。二人きりはいつものことだった。

娘達は庭でBBQを始めており何かこそこそと焼いている。

窓から様子を見ようとしたら夫に叱られてしまった。

見てはいけないのではなく「見るな」と怒鳴るのだった。


あやちゃんが二階から下りて来たので話し掛けたが

BBQには全く興味がない様子でとても気になってしまう。

娘達はきっと誘うこともしなかったのだろう。

気分屋のあやちゃんのことなので本心は分からないのだが

声さえ掛けてやれば一緒に食べたのではないだろうかと思う。


不登校の原因は未だ分からずおそらく新学期も無理だろう。

めいちゃんはまるで一人っ子のように期待されている。

もしかしたら愛情不足かと思うのは老婆心なのだろうか。

そんなことを口にすればどれほど娘の怒りを買うやしれない。


見守ることはそうそう容易くはなかった。

ただあやちゃんが笑顔を見せてくれさえすればほっとする日々である。


娘達と同居を始めて10年が経ったがあっという間のことだった。

10年後のあやちゃんになんとしても会いたい。





2024年08月30日(金) 狐につままれる

いつ襲って来るのかと気が気ではなかった台風だが

夜明けと共に強風が収まり日中は雨も殆ど降らないまま夜になった。

なんだか狐につままれたような気分である。

現在は松山市付近とのこと。次第に高知県東部へと向かうようだ。

幸いにも高知県西部は免れたがどうして他人事に思えようか。

大きな被害が無いことをただただ願うばかりである。


台風から遠く離れた神奈川県等で豪雨による被害があったようだ。

台風自体は衰弱しているのだが強い雨雲が列島を彷徨っている。

これから北上すればまた新たな被害に繋がることだろう。

なんとも気の毒でならないがこればかりはどうしようも出来ない。

地震もそうだが自然の猛威に人は決して敵わないのだ。





山里の職場は臨時休業だったが義父から電話があり

「なかなか台風が来んぞ」と嘆いているような口ぶりであった。

喜ぶべきことなのだが仕事のことが気になっていたのだろう。

出勤は可能であったがとにかく夕方まで様子を見ることにした。

明日は朝から晴れるとのこと。きっと順調に仕事が捗るだろう。

私もカーブスを休み平常通り出勤することにした。


台風が来なければもちろん停電もなく家で穏やかに過ごす。

夫と一緒にまた「銭形平次」を見ていた。

BS朝日で3時からの放送なのだが録画をしており4時から見る習いである。

その方がCMを飛ばせるので良いのだそうだ。

スローライフならと思う。毎日最初から見たい時代劇であった。

主演の村上弘明のすっかりファンになる。私と同い年なのだ。

しかも同じ12月生まれなので親近感がいっそうに増す。



朝からあまりにも静かだったのでけい君は来なかった。

息子が帰宅するまで独りぼっちで本当に逞しく思う。

昼食はどうしているのだろう。ちゃんと食べているのだろうか。

心配していたら「飢えはせんぞ」と夫に笑い飛ばされてしまった。


あやちゃんの機嫌が良く茶の間に顔を見せてくれたのだが

短パンに血液が滲んでいてそっと教えた。

それでも少しも嫌がらずさっさと手当をしたようだった。

夕飯も笑顔のままでなんとほっとしたことだろう。


台風を免れなんと平穏無事な一日だったことか。

それが決して当たり前ではないことをしみじみと感じている。

いつ何があるか分からない世の中であった。

今夜大地震があるかもしれないのだ。


ひとつひとつ丁寧に縫いあげるような日々が続いている。





2024年08月29日(木) 嵐の前の静けさ

朝のうち少し雨が降ったが午後からは殆ど降らず。

風もさほど強くはなくまさに嵐の前の静けさであった。

台風10号は今朝鹿児島に上陸し九州各地に被害をもたらす。

特に大分の被害が大きく気掛かりでならない(徳さん大丈夫ですか?)

竜巻の被害もあったようで無残な光景を目の当たりにした。

現在は長崎の島原市付近に在り北北東に向かっているようである。

台風の速度が遅いためまだこれから被害が拡大することだろう。

明日は我が身であるがとても他人事には思えなかった。

高知県西部に最接近するのは明日から明後日にかけてのこと。

四万十川もかなり増水しており不安がつのるばかりである。



仕事は平常通り。車検の車が2台入庫しており休業どころではなかった。

幸い雨が止んでくれたので1台は完了し納車を済ませる。

もう1台は部品待ちで仕方なく台風一過まで預かることになった。

工場のシャッターが飛ばされたり屋根が破損する可能性もあり

気か気ではなかったがこればかりはどうすることも出来ない。


今夜はシャッターを閉め切り明日、明後日と臨時休業とする。

どうか大きな被害なく無事に通り過ぎてくれることを祈るばかりだった。




息子が仕事だったので朝からけい君を預かっていた。

随分と背が伸びたこと。顔もきりりっと少年っぽくなっていた。

あやちゃんやめいちゃんと遊ぶのを楽しみにしていたようだが

娘婿が休みだったので二階には一切上がらなかったそうだ。

それも憐れであったが娘婿に気を遣うよりは良かったのかもしれない。


お昼にはマックのハンバーガーを食べたそうだ。

てっきり娘婿が気に掛けてくれたものだと思ったのだが

夫がけい君の分のお金を渡して買って来て貰ったのだそうだ。

けれどもめいちゃん達と一緒に食べることは出来なかったらしい。


他人の子供ではない。れっきとした甥っ子なのだけれど

いったいどのような隔たりがあるのだろうと思う。

肩身の狭い思いを強いられるけい君があまりにも不憫であった。


夕方息子が迎えに来て夕食も食べずに帰って行った。

明日も息子は仕事だそうでけい君を預かることになる。


台風でなかったらいつも独りぼっちで留守番をしているのだそうだ。

猫を飼っているがどんなにか心細いことだろう。

母親に会いたいとは一言も口にしないらしい。


そうして逞しく成長して行くのだと思う。

再来年にはもう中学生だった。どれ程立派になることだろう。



4時には帰宅していたので短歌はそれなりに書けた。


雨雲を確かめながら帰る道ラジオは浜田省吾だったし


夏すみれ折れてしまった庭先で守れなかった我を悔やんで


前触れの風の声聴く遠からず嵐は徒歩でゆっくり進む


※明日の夜もし停電になっていたら日記はお休みします。



2024年08月28日(水) 覚悟の夜

台風の影響が出始め時おり激しい雨となった。

高知県西部には大雨洪水警報が出ており

午後3時過ぎ「高齢者等の避難」が呼び掛けられる。


台風の速度は非常に遅く進路の変化も見られた。

昨日は瀬戸内海を通過する進路であったが今日は高知県直撃である。

過去の伊勢湾台風並みの猛烈な台風らしく怖ろしくてならない。

どれ程の被害が出ることだろう。もう避けられはしないのだ。


帰宅したら夫が家中の雨戸を閉めてくれていた。

出来る限りの備えは整ったが果たして大丈夫なのかと不安になる。

暴風圏内に入ったら家の瓦が吹き飛ばされてしまうかもしれない。

後は停電である。とても短時間で復旧するとは思えない。

夫はいざとなったら車の中に避難すれば良いさと笑っているのだった。


明日から明後日に掛けて最接近とのこと。

ただただ怯えながら身構えることしか出来ない。



整形外科のリハビリの日だった。もしやと思い早めに病院へ行く。

やはり悪天候のためキャンセルが多くあり直ぐに順番が来た。

施術後に診察があり待合室の椅子に腰掛けしばし待つ。

殆どの患者さんがスマホを操作しており「時代」を感じた。

私はスマホを持たない主義なので全くの無縁である。

病院中にエリアメールが鳴り響きそっとポケットからガラケーを出す。

メールを確認すると素早くポケットに押し込んだのは云うまでもない。


4時半には診察が終り予定よりも随分と早かったが

今日は「ほか弁」の約束をしていたので車中から注文をした。

受け取りに行ったら店員さんが「いつも有難うございます」と言ってくれる。

「こちらこそ助かっています」と笑顔を交したことだった。

本当にどれ程助かっていることだろう。ほか弁は我が家の神様である。


嬉しかったのはめいちゃんが洗濯物を畳んでくれていたこと。

エリアメールが鳴ってから怖くなっておじいちゃんと一緒に居たのだそうだ。

夫は晴れの日も雨の日もエアコンの効いた茶の間に洗濯物を運んでくれる。

私が汗だくにならないようにと気遣ってくれているのだった。

「ついでに畳む練習もしたら」と言ったこともあるが

それは流石に出来ないそうで笑い飛ばしていた。



雨は降ったり止んだりで今は止んでいる。

風もさほど吹いてはおらず静かな夜となった。

嵐の前の静けさなのかもしれない。


今日はまだ短歌を書いていないのだが寝る前に書けるだろうか。

例え日課でもたまには休めば良いのにとも思う。

私の「こだわり」は半端なくとことん追い詰めようとしているようだ。


嵐ならそうと云ってはくれまいか覚悟の夜を折りたたむため



2024年08月27日(火) こぼれ種

台風の影響だろうか風が強くずいぶんと涼しかった。

雨も降らず気温30℃の晴天となる。

しかし油断は禁物だろう。明日は午後から大雨になるそうだ。

進路が今日も少し変わっており何処に上陸するのか分からない。

九州南部から豊後水道を抜けて瀬戸内海を通過するコースである。

高知県西部は直撃を免れそうだが右側になってしまうので

大荒れの天気になりそうである。いったいどれ程の嵐だろうか。

非常に強い勢力とのこと。不安が募るばかりであった。



義父は昨夜12時前に帰宅したらしい。

やはり疲れた様子であったがそれよりも新しい運搬車が嬉しくてならず

朝からずっと眺めておりまるで子供のようであった。

苦労して作ったお米が運搬車に変わったのである。

本当にそれで良かったのだろうかとふと思う。

母が生きていたらどれほど嘆いたことだろうか。



母の初盆のお供えに頂いたゼリーや水羊羹が沢山あり

直ぐ近くの社協のデイサービスに全て寄付をした。

利用者さん達のおやつにと喜んでくれて嬉しくてならない。

こちらは処分のつもりだったが引き取ってもらい本当に良かった。




仕事が一段落していたので3時に退社する。

FMラジオは懐メロでピンキーとキラーズだった。

確か私が小学生の頃に流行った歌である。

懐かしくてつい口ずさんでしまったが知っている人がいるのだろうか。

リスナーは若者が多いのではと思いなんだか複雑な気分になった。


サニーマートで買い物をし4時に帰宅。

「銭形平次」も気になったがまずは日課の短歌であった。

今日は調子が良く1首5分の早業で書き上げる。

昨日とは大違いで今日の短歌は我ながら好きだなと思った。


感性はすっかり廃れているが日によってはっと目覚める時がある。

その時がチャンスなのだがそうそう問屋は卸さない。

元々才能なんて在りはしないのだからそんなもんだろう。

あがいてあがいて崖っぷちに立つしかない運命である。

どんな日もあるが今日はなんだか誇らしくてならなかった。


無花果のほとばしる実を頬張りて母だったのかあの置手紙


手に取れば残り少ない夏のこと欠片に記す名さえ知らずに


こぼれ種いつかの夏の朝顔が芽を出している初秋の庭に





2024年08月26日(月) 銭形平次

朝のうちは青空が見えていたが午後には土砂降りの雨になる。

台風の影響もあり大気が非常に不安定になっているようだ。

その台風であるが日毎に進路が変わっており戸惑うばかりである。

大きく西にふくれたようになり四国よりも九州が危険になった。

おそらく鹿児島辺りに上陸するのではないだろうか。

その後日本列島を縦断するコースになりそうだ。

各地に多大な被害を与えるのは確実に思える。


帰宅したら夫が孫達のサイクルハウスを解体し

庭の物干竿も撤去してくれていた。

私は花を避難させたかったが両手で鉢植えを抱えることが出来ない。

夫に頼めば「そんなもん」と言うに決まっているからと諦めてしまう。


最初は水曜日に最接近と聞いていたが今日には金曜日になっていた。

どんなに遅れてもコースから外れることはないだろう。


今も土砂降りの雨が降っている。帰路に就いている義父達が心配だった。

お昼過ぎに加賀市を出たようなので今夜遅くの帰宅となるだろう。




仕事は月末の支払いを全て終わらす。その方が安心だった。

台風だからと云って取引先に迷惑を掛ける訳にはいかない。

資金繰りも順調だったのでそれが何よりだった。


同僚に留守番を頼み2時に退社。その足で法務局へと向かう。

購入した搬送車の名義変更に会社の印鑑証明が必要であった。

準備さえ整えて置けば義父の機嫌を損なうこともないだろう。

「よく気が利くな」と言ってもらいたいのが本心であった。


買い物を済ませ3時半に帰宅する。今日も時間の余裕があり嬉しい。

早速パソコンに向かい短歌を書いたがイマイチであった。

「こんなもん」と思ったがようは才能がないのだろう。

自分が満足できない短歌は本当にろくでもない代物である。

「まっいいか」と開き直り発作のように発信してしまった。

そうして自己嫌悪に陥る。私はいつまで経っても駄目だと思った。


気を取り直すように夫と「銭形平次」を見る。

最後の捕り物の時に十手で刀と張り合うのが不思議でならない。

十手では斬ることが出来ないのだ。もちろん殺めてはいけないのだが

刀を捌くその十手のなんと勇ましいことだろう。

思わず「やれ〜」と声が出てしまうのだった。

そうして平次の一文銭が矢のように飛ぶのが爽快であった。

「めでたし、めでたし」で終ると本当にほっとする。


夫は私とのそんなひと時がとても気に入っているようだ。

老いれば老いるほどそれは必要な時間に思える。


いつも部屋に閉じ籠って書き物ばかりしている私であった。

何を書いても良いが本名で書くなと言われたのはもう随分と昔のことである。

けれども私は本名が好きだ。だってそれが本物の「わたし」なのだもの。



2024年08月25日(日) スローライフ

猛暑日の一歩手前。江川崎では37℃を超えていたようだ。

陽射しは強かったが心地よく吹き抜ける風に秋の気配を感じた。


台風10号は進路を少し西寄りに変えそのまま北上すると

高知県に上陸するかもしれないとのこと。

一気に不安がつのり心細くてならなくなった。

自然の猛威には逆らえずもう受け止めるしかないだろう。


今朝は庭先の花に水遣りをしていたら朝顔が発芽しているのを見つける。

毎年こぼれ種から芽が出ていたのだが今年はもう駄目だろうと諦めていた。

まさか晩夏になり芽が出るとは思ってもいなかった。

大切に育てたら秋の真っ最中に花が咲くかもしれない。

種が生きていたのだ。なんだか感動で胸がいっぱいになった。




朝のうちにサニーマートへ。昨日に懲りて開店と同時に行く。

駐車スペースさえ確保していたらもう安心である。

日曜日恒例の酒類の買い出し。今日も多くカゴにてんこ盛りだった。

セルフレジで精算を済ませたらなんと9千円を越し痛い出費である。

マイカゴに荷物を入れカートに載せようとしたが上手くいかない。

床に少し傾斜があるのだろうかカートがするすると逃げて行く。

いつもなら店員さんが気づいて駆け寄って来てくれるのだが

忙しかったのだろう。今日は気づいてはくれなかった。


そうしたら隣のレジに居た茶髪のサーファー風の青年が気づいてくれて

重いマイカゴをカートに載せてくれて何と助かったことだろう。

丁寧にお礼を言ったら「いやいや」と言いながら照れ臭そうに笑っていた。

足を悪くしてから親切が有難く身に沁みることが多くなった。

それも決して当たり前のことではないことを肝に銘ずる。

私も誰かに手を貸すことが出来るだろうか。

親切に声を掛けることが出来るだろうかと思う。

杖に甘えてはいけない。もっともっと障害を抱えている人もいるのだ。




午後は2時間程寝ただろうか。加賀市に向かった義父達が気掛かりであった。

早朝7時に出ても10時間は掛かるのだそうだ。

神戸だろうか京都だろうかと頭の中でルートを辿っていた。

友人はまだ60代だが義父は80歳の高齢である。

遠距離運転がどんなにか堪えるだろうと心配でならなかった。


午後5時。加賀市内のホテルに到着したと電話があり胸を撫で下ろす。

いつもの元気はなくすっかり疲れ切った様子の声であった。

今夜は軽く酒盛りとのこと。明日に響かないことを願っている。

道中どうか安全に。きっと無事に帰って来てくれますように。



今日も午睡後に短歌を書いたが時間の余裕があるのが嬉しかった。

ふと毎日がスローライフならと夢のようなことを考える。

平日の気忙しさに追い詰められている自分を感じずにいられない。

それでも書くことを諦めずにいるのは性(さが)なのかと思う。

生きていく上でこれだけは譲れないと思う大切なことであった。


一生掛かっても認められることはないだろう。

それは大きなジレンマであるが負けるわけにはいかなかった。

私は「わたし」以外の何者でもないのだ。

その私の生きた証をなんとしても残したいと思っている。


水浴びる子の傍らで母の声遠い昔の私と娘

秋匂う風は踊りて口笛が吹き抜けていく切なき午後に

琴線に触れるばかりの君の声波長は縁と思い知ること





2024年08月24日(土) 遠雷

午後7時外気温30℃間もなく陽が沈もうとしている。

猛暑は和らいでいたが大気が非常に不安定らしく

遠雷が聞こえ突然雨が降り出しそうな空模様だった。


午前中はカーブスへ行っていたが午後は殆ど寝て過ごす。

横になってしまうと10分も起きていられないのだ。

「可愛らしいトド」と言ったのは和田アキ子だったが

私の場合は醜いトドとしか言いようがないだろう。

完全なる無気力状態である。脱力感は半端なかった。


カーブスの帰りにサニーマートへ寄ったのだが

「感謝祭」とかでもの凄い人で溢れていた。

駐車場も満車状態でとても近くには停められない。

随分と離れたところから必死の思いで歩いた。


足の痛みは昨日程ではなくなっておりなんとか歩ける。

湿布がまだ貼れないのでスティック状の鎮痛薬を塗っていた。

腰のあたりまでまんべんなく塗ったのが効いているようだった。

なんとしても痛みと上手く付き合っていかなければならない。



義父から電話がありお米の出荷が無事に終わったとのこと。

どうやら捕らぬ狸の皮算用ではなかったようだ。

来週早々には代金が振り込みになるので嬉しさが伝わってくる。

稲作の苦労はとてつもなく大きく報われるべきであると思う。

都会ではお米が品薄と聞いたがもう大丈夫なのではないだろうか。

ただ台風が接近しており東北などの稲作地帯に被害がないことを祈る。

高知県も影響がありそうだが幸い直撃はなさそうであった。

けれども油断は禁物である。最低限の備えは必要だろう。



午睡から目覚めたらもう4時前であった。

冷たいコーヒーを飲みながら短歌を書く。

良いのか悪いのか自分ではまったく判断が出来ない。

少なからず「いいね」は頂けるがそれは決して評価ではないのだ。

例の山上秋恵さんがいつも「いいね」をしてくれていて

それが今の私にとっては大きな励みとなっている。

いや救われていると言ったほうがふさわしいだろう。

崖っぷちに立っている私の背にそっと触れてくれるのだった。


人間には誰にだって限界があるのだと思う。

例えば燃え尽きてしまうこと。一切の気力を失うこと。

それでも生きることを諦めてはならない。

「生きてさえいれば」と微かな望みが必ずあるのだと思う。


午後8時。外気温28℃。星の見えない夜となった。


さるすべりまだ百日に届かぬと命の限り咲き誇る夏








2024年08月23日(金) 紙パンツ記念日

今朝は晴れていたが突然土砂降りの雨になり驚く。

大気が余程不安定だったのだろう。

夫から電話があり洗濯物が間に合わなかったと嘆く。

留守番の任務を果たせなかったことを済まなそうに詫びていた。

大丈夫。そのために乾燥機があるではないか。

「じゃあスイッチ入れるぞ」そう言って電話は切れた。

夫が家に居てくれて本当に助かっている。

それは決して当たり前のことではないのだとつくづく思う。


今朝はもうひとつハプニングがあった。

職場に着くなりのことで小さなおならが出てしまったのだが

あろうことか便も一緒に出てしまったのだった。

おそるおそるトイレで確かめたらナプキンを通り越し下着も汚れている。

こんな失態は初めてのことですっかり焦りまくってしまった。


とても仕事どころではなくなり家へ帰ろうかと思ったが

はっと思い出したのは母の紙パンツであった。

亡くなった後に処分をしたのだがもしやと思い探してみたら

ビニール袋の中に一枚だけ入っているのを見つける。

もう迷っている場合ではない。履くしかないと決心した。

狭いトイレに持ち込み必死の形相となる。

痛む左足を上げることが出来ないのだ。涙ならぬ滝のような汗が流れた。

なんとしても履かなければいけない。紙パンツとの闘いである。

15分程トイレに籠っていただろうか。やっと履けた時の大きな安堵。

履き心地に違和感はなく紙パンツのCMにも出られそうだった。


これも母の形見である。いざと云う時のために母が残してくれたのだろう。

まさかこんなに早く履く時が来るとは思ってもいなかったが

母のおかげだと思うと目頭が熱くなるのだった。

一枚きりの紙パンツである。もう二度と失態があってはならない。

用心のために富士薬品の「はら薬」を服用した。

それが効いたのかおならも出ることもなく一日をやり過ごせた。

たかがおならではないのだ。今後は「おなら警報」だと肝に銘ずる。





仕事は忙しさの峠を越え今日は随分と楽だった。

同僚は稲刈りのため休んでおり義父と二人でぼちぼちと仕事をする。

石川行の日程が決まりその準備もあった。

台風10号が接近しておりなるべく早く日曜日に発つことになる。

一泊して月曜日に車を引き取りに行くのだそうだ。

石川県加賀市とのこと。有名な温泉もあるらしい。

義父も友人も楽しみでならない様子であった。

途中で必ず電話をするように伝え2時過ぎに退社する。


取引先に用事があり寄り道をしたので帰宅は4時であった。

時間の余裕があることが嬉しくてならない。

短歌を書き終えて洗濯物を畳んでから夫と「銭形平次」を見ていた。

たまにしか見れないが癖になるような面白さである。



明日は休めるので怒涛の今週が終わった。

足の痛みに耐えながらよく頑張ったと思う。

疎かにしていることを数えたらきりがないだろう。

それよりも出来たことを数える日々でありたいものだ。


つくづくと誰を想って鳴くのやら夏の欠片につくつく法師








2024年08月22日(木) 夏が退こうとする日

二十四節気の「処暑」暑さが和らぎ秋の気配を感じる頃。

ゆっくりと少しずつである。それは退くようにだ。

若い頃「処暑」と云う詩を書いたことがあったが

それは夏をある人に置き換えて書いてあった。

別れの予感がしていたのだろう。切なくてならなかったことを憶えている。

もう二度と書けない。あの頃のような感性は永遠に消え去ってしまった。

生まれ変わっても私は詩を書いているのだろうかと思う。

魂が現世を忘れてしまうわけがない。心を失うわけにはいかないのだ。



疲れのピークなのだろう。朝から気分が沈んでならなかった。

SNSでは毎朝必ず声を掛けてくれる人がいるのだが

社交辞令的な朝の挨拶が日に日に億劫になってしまった。

今朝はもう限界を感じ正直に自分の気持ちを伝える。

配慮をお願いしたつもりだったが上手く伝わらなかったようだ。

直ぐに返信がありまるで縁が切れるような口ぶりであった。

毎朝でならない理由はいったい何だったのだろうと思う。

どれ程気忙しい朝でも丁寧に返信して来たつもりだった。

けれどもそれが段々と重荷になり私の義務になってしまったのだ。

顔の見えない世界である。言葉だけで成り立っているのかもしれない。

正直に話せば相手を傷つけることもあるのだろう。

去る者は追わない主義であるがそれで切れてしまうような縁ではない。

傷つけることも傷つくことも表裏一体のように思う。





仕事は相変わらずの忙しさであったが週一のリハビリがある日で

3時前に退社し整形外科へと向かった。

湿布かぶれになってしまいここ数日湿布が貼れないせいか

昨夜も就寝中に酷く痛み辛くてならなかった。

杖に頼らずとも歩けるようになっていたのも困難となり

また元の木阿弥になってしまっている。

医師に相談したがやはりかぶれの治療が先決とのこと。

しばらくは痛みに耐えながら過ごすしかないようだ。

「なんのこれしき」である。嘆いても何も変わりはしない。

幸いリハビリの効果は大きく帰りは随分と楽になっていた。


5時前に帰宅。洗濯物を畳み終えて10分程横になれた。

もう短歌どころではない。「いっぱいいっぱい」なのだ。

もしかしたらそれも義務なのかと思ったがそうではない。

詩も短歌も書きたくて書いている。私にとっては大切なことだ。


夕食後一首だけ書いた。後はこれから書こうと思っている。

まるで眠る前の儀式のようだ。そうして一日を全うしようとしている。


もしかしたら待ってくれている人がいるのかもしれない。



2024年08月21日(水) こんな私は嫌だ

今日も猛暑日にはならずもう暑さの峠を越えたのかもしれない。

それにしても今年の夏のなんと暑かったことだろう。

あらゆるものを焼き尽くすような猛烈な暑さであった。


太平洋上に台風10号が発生しゆっくりと北上しているようだ。

不気味な進路予想で四国にも影響がありそうである。

もう自然災害はこりごりに思うが逃れる術もないだろう。

耐え忍ぶことは出来ても来るものをどうして拒めようか。

大きな被害が無いことをただただ祈ることしか出来ない。



仕事は今日も怒涛の忙しさであった。

昼食のお弁当を掻き込むのが精一杯で休憩時間は皆無である。

義父はもっと憐れで朝食も食べないまま働いてくれる。


午前中に例の搬送車の契約を済ませた。

なんと石川県に在る販売店であり陸送を依頼しないとのこと。

友人とすっかり話が出来ており二人で引き取りに行くのだそうだ。

あまりの遠距離に心配ではあるが楽しみにしている様子である。

金沢に近く地震の被害は殆ど無かったようだが

被災地には違いなく観光気分で行っても良いものかと思う。

契約を済ませたからにはもう後戻りは出来ないだろう。

義父の好きなようにさせてやりたい気持ちが勝って来た。





車検完了の車が2台あり今日も退社が遅くなってしまった。

疲れはピークに達しており運転中の生欠伸が絶えない。

いけないいけないと思いつつまた煙草に火を点けるしかなかった。

眠気は直ぐに治まるが「こんな私は嫌だ」と強く思う。

禁煙を目指す気持ちはすっかり無くなりやりたい放題である。


サニーマートで買い物をしていたら「奥さん」と呼び止められた。

全く知らない人でやたらと杖を褒めてくれるのだ。

母の形見であり気に入ってはいるが褒められたのは初めてだった。

70代と思しき女性であったが足を引き摺りながら歩いている。

「辛そうですね」と声を掛けたがもう返事はなかった。

なんだか狐に遭遇したような複雑な気分である。

足が不自由なのは私だけではないのだなとつくづく思う。


帰宅したらもう5時前になっており洗濯物を畳むのが精一杯だった。

今日は短歌を諦めようと思う。出来ない日があっても良いのだと。

自分に課せば課すほど追い詰められている現実が圧し掛かってくる。


夕食は出来合いの豚カツであったがリーフレタスでサラダを作った。

冷蔵庫に確かにあったはずの生ハムが何処にも見当たらない。

夫が笑いながら「めいが食べたぞ」と教えてくれる。

それも微笑ましく思いめいちゃんには何も言わなかった。


毎朝8時前には出勤する娘は気忙しく昼食の用意もままならない。

孫達は買い置きのカップ麺を食べることが多かった。

「おじいちゃんが居てくれるから」と娘も頼りにしているのだろう。

家族ではないと思われていても家族だからこそと思わずにいられない。

夫は口にこそ出さないがそれがけっこう嬉しい様子である。


夕食後の煙草を吸いながらぼんやりと窓の外を眺めていた。

そうしたらまるで発作のように短歌が二首書けたのだった。


夕空に掛ける言葉が見つからず黄昏ていく心の窓辺


退けば見える景色もあるだろう明日は処暑かと想う人あり





2024年08月20日(火) 捕らぬ狸の皮算用

夜明け前まで小雨が降っていたが日中はよく晴れる。

湿度が高かったのか蒸し暑くてならなかったが

気温は33℃と猛暑は和らいでいた。

明後日は「処暑」である。次第に秋めいて来ることだろう。



仕事は相変わらずの忙しさで眩暈がしそうだった。

来客も多く対応に追われる。

義父は借りている田んぼの借料としてお米を配っていた。

その数の多さに驚く。苦労の割に大きな負担に思える。

ただ農地を所有しているだけでお米が手に入る仕組みだった。

義父の所有する田んぼは全く無く憐れにも思えて来る。

山里も高齢化が進み稲作を諦める農家がどんどん増えているのだ。


収穫したお米はJAではなく高知市内の米穀店へ納めている。

その方が高値で買ってくれるのだそうだ。

「捕らぬ狸の皮算用」ではないがその収入で搬送車を買おうとしている。

カーセンサーで見つけた中古車がいたく気に入っており

まるで子供が玩具を欲しがるように駄々をこねるのだった。

そうなればもう止めても無駄で好きなようにさせるしかない。

もう手に入れたつもりでいるのだろう今日も上機嫌であった。





果てしなく忙しかったが3時半に退社。

お昼休憩も無かったのでぐったりと疲れていた。

夕飯の献立も決まらないままお総菜売り場をうろつく。

揚げ物が多く家族には不評であったが我慢して貰うしかない。

帰宅したらもう4時半である。横になる暇もなかった。


15分だけと思いパソコンに向かい短歌を捻る。

なんとしても書くぞと思ったのだが結果は散々であった。

自分でも意味不明の短歌を二首書きそのまま発信する。

焦っているのだ。あがいているのだ。もうどうしようもない。


時間に追われ続けている日々であった。

余裕さえあればと思うが成果があるとは限らない。

追い詰められてこそ可能なこともあるのかもしれないのだ。

しかしいったいいつまでこんなことを続けるのだろうと思う。

かと言って詩や短歌を諦めることがどうして出来よう。

この日記もそうである。どんなに疲れていても書かずにいられない。

そうして一日を全うしてこそ生きていられるのだろう。


全てのことが最期に向かっているのなら尚更のことではないだろうか。



2024年08月19日(月) 秋待ちの雨

深夜から激しい雷雨。明け方に雷は治まったが土砂降りの雨となる。

「大雨洪水警報」が発令されていたが夕方には解除となった。

明日からもしばらくは雨の日が続きそうである。


待ちに待った雨ではあるが大雨となるとさすがに戸惑う。

しかし恵みの雨と捉えることも出来るだろう。

猛暑続きで四万十川の水量も随分と減っていたようだ。


ワイパー全開、ライト点灯で朝の道を走り抜ける。

山道に差し掛かり道路の冠水を予想していたが危機一髪で無事だった。

慣れた道でも何が起こるか分からず不安は付いてまわるものだ。



仕事は今日が実質的なお盆休み明けとなり大忙しとなる。

取引先も今日からでなんと慌ただしいことだろう。

義父の稲刈りは一段落していたが疲れが出たのだろう

「今日は休む」と言って居室から姿を現さなかった。

休養も大事と思い同僚と二人で精一杯のことをする。

車検整備の上にオイル交換、パンク修理もあればバッテリー上りも。

あまりの忙しさに同僚もパニック気味になっていた。


10時を過ぎた頃「やっぱり休むわけにはいかんな」と義父の声。

げっそりと疲れた顔をしていたが何とか動き出してくれた。

段取り課長は私だがやはり社長あってこその会社だと思う。

私一人では決められないことがたくさんあるのだった。


工場が落ち着いたところで2時過ぎに退社する。

今日は「県税事務所」に行かなければいけなかった。

雨は少し小降りになっていたが傘無しではずぶ濡れになってしまう。

駐車場から小脇に書類を抱え杖と傘の二刀流である。

大切な書類なのでファイルに入れてあったがうっかり落としてしまった。

拾うとしたら傘が手から離れてどうしようも出来ない。

雨に罪はない。私の足が不自由だからいけないのだと思う。


地下の売店で県証紙を買い求めたら親切な店員さんが居てくれて

エレベーターまで案内してくれた。県税事務所は2階である。

おかげで階段を使わずに済み大助かりだった。

エレベーターの場所が分り難かったが次からは大丈夫だろう。


書類を提出しまた大切な書類を受け取る。

車までやっと戻り着いた時には息が切れるほど疲れていた。

いけないいけないと思いつつ煙草を二本も吸ってしまう。

不思議と気分が落ち着くのだ。だからいつまで経っても止められない。




買い物を済ませ帰宅したら夫が今日の報告をしてくれた。

あやちゃんの機嫌がとても良く何度か話し掛けてくれたそうだ。

昨日は余程虫の居所が悪かったのだろう。

その原因は定かではないが繊細な心の襞に何かが触れたのかもしれない。

本当は家族で出掛けたかったのかもしれない。

頭から行かないと決めつけて誘うこともしない娘夫婦であった。


けれども余計な口出しは厳禁である。

娘夫婦の「見守る」は私達とは明らかに違うのだった。


今日はあやちゃんの好きな「わらび餅」を買って来ていたので

「冷蔵庫に入れとくね」と告げると「うん、明日食べる」と応えてくれた。

笑顔が嬉しくてならなかった夕暮れ時のことである。



2024年08月18日(日) つくつく法師

久方の曇り日。猛暑は和らいだが風もなくかなりの蒸し暑さだった。

夕方のこと。ツクツクボウシが声を限りに鳴き逝く夏を感じる。

やがてヒグラシも切なげに鳴き始めることだろう。

どの蝉も儚い命である。八日目の蝉の姿を思わずにいられない。


娘達があやちゃんを残し高知市へと出掛ける。

私達も何処かへ出掛けようかと思っていたのだが

あやちゃんを独り残すのも気掛かりであった。

夫も運転が億劫らしく気が進まない様子である。


朝のうちに買い物に行っていたが相変わらずの酒類の多さ。

冷房の効いている店内であっても汗だくになってしまう。

ドラッグにも行っていたので帰宅が少し遅くなってしまった。

「もう出掛けるのはよそう」夫の一言に迷わず頷いていた。


お昼にほか弁をと思いあやちゃんに声を掛けたら

酷く機嫌が悪く「要らない馬鹿」と声を荒げる。

馬鹿は余分だと思い少しお説教をしたら増々怒るのだった。

何度目かの反抗期だろうか。ストレスも溜まっているのだろう。


夫が「もう相手にするな」と言うので以後一切口出しをしない。

夫と二人分だけの「鶏そば」を買って来て昼食を済ませた。

なんとも虚しい。なんとも寂しい。可愛い孫でありながら

なんだかとてつもなく大きな距離を感じた。


夕食も夫と二人で出来合いの物で済ませたが

娘達が帰ってくると誕生日らしくお寿司を買って来ていた。

もちろん私達は完全無視で家族団欒を絵に描いたような様子である。

同居を始めてもうすぐ10年になるがとうとうここまで来たかと思う。

私と夫はもはや居候で家族とは認められていないのだろう。

お寿司が食べたかったのではない。いじけているわけではないが

「ここまでするか」と思うととてつもなく寂しくてならなかった。


昼間あれほど機嫌の悪かったあやちゃんがにこにこの笑顔である。

それはそれでほっとしたがあまりの変わりように戸惑う。

祖父母の存在などもうどうでも良いのだろうと悲しくもあった。



43年前の夜を思い出す。産声を上げなかった娘に泣き叫んだこと。

助産婦さんが娘を逆さにしお尻を叩きやっと泣いてくれたこと。

夏に生まれた子はおひさまの匂いがし愛しくてならなかった。

朗らかで優しい子に育ってくれてただただ感謝しかなかったのだ。


娘はもう私を母とは呼ばない。

「おばあ」と呼びながらつんつんとぶつかってくるばかりである。



2024年08月17日(土) 雨降って地は固まるのか

お盆が明けると秋めいてくるものだが

まだまだ「処暑」を迎えるまでは厳しい暑さが続きそうだ。

今日は江川崎が39.6℃で群馬の舘林と並び全国一の暑さになった。

「ふるさとは暑さを誇り四万十の水も温みて子等の背を焼く」

水遊びをする子供等の姿が目に浮かび一首書いてみた。


市内も36.6℃と猛暑日であったが午後突然の雷雨がある。

土砂降りとなりなんと心地よい雨音だったことだろう。

熱を帯びていた地面がまるで転がるように喜んでいた。


ちょうどお昼寝中の事で異変に気付いた夫が洗濯物を取り入れてくれる。

おかげで雨に濡らすこともなく大いに助かった。

持つべきものは夫であり娘は全く役に立たない。


その娘が明日誕生日なので一日早く今夜は焼き肉パーティーをした。

パーティーと言っても名ばかりでいつものように夫と先に食べる。

お肉の残り具合も気になりたらふくとは行かなかったが

〆に目玉焼きも食べてお腹がいっぱいになる。


明日は出掛けるそうで夕飯は不要とのこと。

最近の週末はそんな日が多くなり私も楽をさせてもらっている。


昨年の誕生日は最悪であやちゃん以外皆コロナに感染し大変だった。

もう二度とあんな辛さは御免だと思うが再びの感染もあり得るだろう。

感染予防には気を付けているが相手は見えないウィルスである。

以前のような恐怖心は薄れたが不安はいつまでも付いて回るだろう。

日常生活に制限はない。だからこそ用心しなければならない。





週一のカーブスのため仕事は休ませてもらっていたが

義父の稲刈りのこと。同僚の仕事のことが気になってならなかった。

そんなに気になるなら仕事に行けばいいと夫は言うのだが

カーブスを止めてしまったら一切の運動が無くなってしまう。

以前のように歩くこともままならない現実がのしかかってくる。

とにかく筋力を作ること。そのためにもカーブスは必須であった。


今日はお仲間さんの一人が声を掛けてくれて

股関節の手術を勧めてくれたのだが真剣にはなれなかった。

以前は40日程の入院が必要だったが今は2週間で退院出来るらしい。

けれどもその2週間の家事はどうする。仕事はどうするかだった。

それほどまでに自分を評価しているわけではないけれど

たとえ3日でもどうして疎かに出来ようかと思う。


幸いリハビリの効果が大きく日に日に足の痛みが楽になっている。

このまま10年は過ごせるのではないかと過信せざるを得ない。

もし駄目でもあの世まで持って行くことも可能である。

それも良いではないかと思うのだ。死ねば痛みとは無縁になるだろう。


あれこれと考えながら心はけっこう忙しい。

自分の「在り方」も心細くてならないが

生きてさえいれば叶うこともきっとあるだろう。

ああいい人生だったと思えるような最期を迎えたいものだ。







2024年08月16日(金) 炎の影に

夜明け前には秋の虫の声が聞こえるようになったが

日中は今日も厳しい残暑となった。

江川崎よりも気温が高くなり全国二位となる。

ほぼ40℃に近い猛烈な暑さである


山里はやはり稲刈りで大変な忙しさであった。

義父の友人が三人も手伝いに来てくれていて大助かりである。

皆それぞれに仕事があるだろうになんと申し訳ないことだろう。

今年は天候に恵まれ大豊作とのこと。苦労の甲斐があったようだ。


私と同僚は工場を守るのに精一杯だった。

お盆明けを待ち兼ねていたように来客が押し寄せて来る。

しかし残念ながらエアコン修理はお断りするしかない。

稲刈りが一段落するまではどうしようも出来ないのだ。

田舎の小さな車検場だからこそまかり通るのだろう。


事務仕事が一段落してから母の祭壇を片付けていた。

お供え物の果物等は直ぐに食べないと傷んでしまう。

我が家へ持ち帰ることにしたが林檎はすでに傷んでいた。

わずか数日のことなのになんとも切ないものだ。


母が未練を残さぬように送り火を焚かねばならなかったが

風が思いのほか強く上手く焚けない。

そもそも中腰で座ることが出来なかった。

仕方なく膝を付いて這うようにしながら火を点ける。

けれども強い風に煽られ直ぐに消えてしまうのだった。

日陰ではあったが汗が滝のように流れとうとう諦めてしまった。

松の枝は持ち帰ることにして我が家で送り火を焚くことにする。


昨夜も母の夢を見たのだった。それもリアルな夢であり

お金が無くなってしまった母が万引きをしたのだった。

卵一ケースでも立派な犯罪である。

弁償しなければ帰るに帰れないと言うので親身にならざるを得ない。

母の財布には5百円玉が4個入っていた。

卵は買えたはずなのにどうして万引きなどしたのだろうと思う。


弁償を済ませたら母は牛ではなく馬を引き連れていた。

追いやるつもりなどないのに急いで帰るつもりだったのだろう。

決して迷惑ではなかったのに遠慮していたのかもしれない。


送り火は大きな炎となり燃えたぎった。

母が迷わずあの世に帰れるようにと手を合わす。

そうしてまた来年帰って来てねと声を掛けた。


母と過ごしたお盆が終わった。

母はずっと私の傍に居てくれたのだ。




2024年08月15日(木) 消えた入道雲

日中は入道雲に覆われていた西の空が茜色に染まった。

今まで気づかなかったが入道雲は消えてしまうのだろうか。

昼間だけの雲だとしたらなんと不思議なことである。



お盆休みの最終日。てっきり今日が盆明けだと勘違いしていた。

夫に送り火の話をしていたら「明日だぞ」と言われる。

「調べるが好きじゃないか」と言われ早速ググってみた。

正式には13日が盆入りで16日が盆明けであるが

地域によって違うようで15日を盆明けとする処もあるらしい。

しかし一日でも長くと願うのが人の世の常であろう。

我が家は明日の夕方送り火を焚くことになった。

明日なら母の送り火も焚くことが出来るだろう。

夕方までは待てないが仕事を終えてから焚こうと思っている。

昨夜も記したが本当につかの間のことであった。

気持は既に来年のお盆に向かっているようだ。




週一のリハビリの日で3時過ぎに整形外科へと向かう。

「南海トラフ地震情報」が発表されてから一週間が経った。

幸い何事もなく過ぎたが決して油断は出来ないだろう。

政府からも終了の発表があったが安心してはいけないと思う。

かと言って毎日怯えながら暮らす訳にもいかず

心構えをしながら日常を過ごしていかなければならない。

「その時はその時のことぞ」と夫の言葉に頷いていた。

平穏無事はもはや奇跡にも等しい。

感謝する気持ちも大切なことなのに違いない。


リハビリを終えてから帰宅していたら仕事の電話があった。

明日まで待ってもうらことにしたが気が急いてならない。

また忙しくなるのだろう。なんだか武者震いをしているようだ。

義父の稲刈りも気になってならず順調に捗っていることをひたすら願う。


明日になってみなければ何も分からない。

それがまるで得体の知れない物のように思えて不安が付きまとう。

そうして試されているのだろうが身も心も切羽詰まって来るのだった。


何事も崖っぷちに立ってみるべきなのだろう。

決して平坦な道を歩いているのではなかった。

ゴールはきっと真っ青な海なのに違いない。



2024年08月14日(水) 母の寝息

日暮れが少しずつ早くなっているようだ。

午後7時25分。外はもう薄暗くなっている。

日中の猛暑も少しずつ和らいでいる。

吹き抜ける風にささやかな秋の気配を感じた。



昨夜は予想通りに母の夢を見た。

正確には母が我が家に来てくれた夢であった。

真夜中に目を覚ますと母が隣で寝ているのである。

夫を起こしたら母も目を覚ましお風呂に入りたいと言う。

「シャワーでえいろ?」と訊くと「ゆっくり浸かりたい」と応え

夫がお風呂を溜めに行ってくれたのだった。

それはとてもリアルな光景で夢だとはすぐに気づかない。

お風呂上がりの母のなんとさっぱりとした顔だろう。

何か語り合いたかったが眠気が襲って来てすぐに寝入ってしまった。

目覚めたらもう母の姿はなくやっとそれが夢だったことに気づく。


昨夜寝る前に母の遺影に語り掛けたのだった。

「寂しかったらうちへおいでね」ときっとそれが伝わったのだろう。

母は人一倍霊感の強い人だった。そんな母に私も似ているところがある。

だからこそ通じ合うことが出来たのではないだろうか。

母はあの世から確かに帰って来ているのだと確信した出来事であった。



今朝は夫と一緒に山里へ向かった。

独りぼっちでどんなにか寂しいことだろう。

義父は今日も稲刈りらしく準備をしているところだった。

「今夜も泊まりにおいでよ」母の位牌に手を合わせ帰って来る。

明日はもう帰らなくてはいけないのだ。それがとても切なかった。

ずっと薄情な娘だったのだ。母は私を赦してくれたのだろう。

同時に私も母を赦すことが出来たように思う。

そう信じることで「絆」のようなものが生まれたのを感じた。


死後の世界を知る由もないがきっと幸せなのに違いない。

そうして毎年の盆帰りを楽しみに暮らして行くことだろう。


愛する者たちを守り続けることを使命のように思いながら。








2024年08月13日(火) 母の迎え火

やはり猛暑は和らいでいるようだ。

夜明け前には秋の虫がちりりと鳴くようになった。

日中は厳しい残暑に思えたが江川崎はランキング外であり

関西や中部地方が上位を占めていた。


台風5号は熱低となり日本海へと抜けたが

新たな台風が3つも発生し北上している。

幸い四国には影響がなさそうだが関東や東北は大荒れになりそうだ。

帰省中の人も多いことだろう。ひたすら無事を祈るばかりである。



山里では稲刈りが始まっており義父はお盆どころではなさそうだ。

夕方電話したら「もう迎え火は焚かんぞ」と厳しい口調であった。

人並みの事をと思うがこればかりはどうしようもなかった。

義父の忙しさは予想していた通りであり母もきっと理解してくれるだろう。

憐れではあったが私が山里へ駆け付けることは無理な話である。


我が家では我が家の「迎え火」を焚きご先祖様をお迎えした。

その時に母に声を掛けた。「こちらへ帰っておいで」と。

夫はそれはあり得んと言う。位牌のある場所へ帰るのだと言って聞かない。

それが霊界のしきたりだとしても母なら破る可能性もある。

好きなように自由に帰りたい場所へ行くことが出来るだろうと。

お茶目な母の事である。「間違えちゃった」と声が聞こえるようだ。

おそらく今夜は夢で会えるだろう。きっと笑顔で居てくれるに違いない。




今回が最後となる同人誌が届いた。

掲載費の振込用紙が同封されているだけでD氏からの一言は何もなかった。

長い付き合いであったが最後はこんなもんだろうと気持ちが醒める。

恨む気持ちなど全く無いがD氏の冷酷さを感じずにはいられない。

もう二度と関わる事はない。それが救いのように思えた。


私は我が道を行く。そんな大それたことではないかもしれないが

こつこつと地道に「書く」ことを貫いて行きたいと思う。

どんな困難が待ち受けていようと負けるつもりはなかった。

後ろ指を差されれば折り曲げても前へ進みたいと思っている。


いつか必ず訪れる最期の日のために書いている。

詩も短歌も私にとっては遺書のようなものだ。



2024年08月12日(月) 置き去りの夏

お盆を前にして少し猛暑が和らいだのか

今日は江川崎もさほどの暑さではなかったようだ。

ランキング上位は関東地方が占めており厳しい残暑だったことが分る。


台風5号は今朝岩手県大船渡市辺りに上陸し

東北地方を横断する最悪のコースとなった。

雨台風だったのか河川が氾濫し水害のニュースが流れる。

お米の産地でもあり農作物の被害も大きいことだろう。

まして台風には慣れていない地域のこと気の毒でならなかった。


追い打ちをかけるように台風6号が発生する。

台風に発達するだろう熱低も二つ発生しており今後の心配が募る。

地震はもちろんのことだが自然の猛威に人は逆らうことが出来ない。

明日は我が身だとその度に思う。とても他人事ではなかった。




朝のうちにちーちゃんに会いに行っていた。

「もんちょるかね」と声を掛けると「おう来てくれたか」と声が聞こえる。

なんと懐かしい声だろう。目頭が熱くなるばかりであった。

正式なお盆は明日からだがちーちゃんは早めに帰って来たので

他の人よりも長くゆっくりと自宅で過ごせることだろう。

奥さんのなっちゃんもそれを喜んでおり「おとうは得した」と笑った。

川漁にも行けるね。鰻を獲って来てくれるね。と喜びあう。

これからも毎年帰って来てくれるのだ。お盆が楽しみなるだろう。


「死」は決して絶望ではないのだと改めて思う。

姿は見えなくなっても魂は永遠に在り続けるのに違いない。




午後は少しお昼寝をしてから夫と一緒に高校野球を観ていた。

明徳義塾は常連校であるが県内出身の選手はゼロに等しい。

北海道出身の選手が3人も居ると知り驚く。

けれども高知県代表には違いなく応援せずにはいられなかった。

結果は圧勝であっさりと初戦突破であった。

もう少し接戦でも良かったなと夫と語り合ったことだった。


オリンピックが終りよさこい祭りも終わった。

お盆が終われば少しずつ秋めいて来ることだろう。

そうして季節は流れて行くのだがなんとなく切ないものである。


私は置き去りにされて行くように思い心細くてならない。

花が終われば種になるが私はおそらく散ったままだろう。

それがそのまま浮かばれない人生へと繋がって行く気がするのだった。

「認められない」ことはそう云うことなのではないだろうか。


ちーちゃんはいつも新聞の歌壇を見てくれていて

「出ちょったなあ」と自分の事のように喜んでくれたのだった。


「在りし日の君の姿を船に乗せ大河輝く光に満ちて」



2024年08月11日(日) よさこいよさこい

少しずつ日が短くなっていて日暮れが早くなった。

今はほうずき色の空。暑かった一日に幕を下ろそうとしている。


相変わらずの猛暑で今日は江川崎が全国一だった。

夫に報告すると「何を喜んでいるんだ」と笑われてしまう。

余程の目立ちたがり屋なのだろう。一番はやっぱり嬉しい。



今朝は従兄弟のちーちゃんの初盆供養があった。

お寺さんが多忙とのことで午前八時からと案内がある。

夫婦で押しかける訳にもいかず夫が一人で焼香に行った。

ちーちゃんが帰って来る。なんと嬉しいことだろう。

面影を探し続けた8ヶ月であった。

もう居ないのだと思い知る度に寂しさが胸に込み上げるばかり。

ひとはどうしようもなく死んでしまう現実が悲しくてならなかった。

「今日は忙しいかもしれんぞ」と夫が言うので

明日焼香に行こうと思っている。ちーちゃんに会いたくてたまらない。




娘達があやちゃんを残して「よさこい祭り」を観に行った。

どれ程の混雑だろうと気になったが快く送り出す。

踊るのが大好きなめいちゃんがどんなにか喜ぶことだろう。

夫と私はテレビのライブ放送を観ていた。

猛暑にも負けず笑顔の踊り子さん達に感動を覚える。

「地震騒動」で急きょ出場を辞退したチームもあるそうだ。

残念でならないか無事に開催されたことを喜ぶべきだろう。

大地震の不安よりも「いま」を楽しむことである。

もしも最悪の事態になってもそれはその時のことだと思う。



午後7時20分。まだ完全に日は暮れていないが

西の空にか細い三日月がぽっかりと浮かんでいる。

まるで「詩とメルヘン」の世界のようで心がほっこりと和む。


詩も短歌も精一杯の日々が続いている。

なんだか毎日試されているような気がしてならない。

「書けるもんなら書いてみろ」何処からかそんな声が聞こえて来る。

老いぼれにもそれなりの感性があった。それを誇りに思いたい。


「ふるさとの気温が今日も日本一子供の頃の夏が懐かし」



2024年08月10日(土) お盆玉

朝風の涼しさもつかの間のこと。日中は今日も厳しい残暑となる。

江川崎は今日も全国一の暑さであったが午後には愛知県豊田市に抜かれた。

わずか0.9℃の差である。お日様の頑張りが足らなかったのだろう。

どうせ暑くなるのならとことん上を目指して欲しいと馬鹿なことを思う。


山里は平野部よりも少し気温が低く35℃程であった。

風があり木陰に立つと思いがけない涼風が吹き抜ける。

確実に秋が近づいているのを感じほっと空を仰いだ。



明日から15日までお盆休みとなるため今日は仕事だった。

預かっている車の整備を済ませ納車しなければならない。

ボーナスの支給は出来ないが寸志の「お盆玉」の準備をする。

昔はお盆と年末は掻き入れ時であったが今は無縁となった。

現金収入は殆ど無く預金を崩すしか手段はない。

その預金も底を尽きかけていたが思い切って引き出した。

後は野となれ山となれである。きっとなんとかなるだろう。


「お盆玉」を一番喜んでくれたのは義父であった。

なんとも嬉しそうに受け取ってくれて満面の笑顔になる。

これまで毎月の役員報酬もまともに支払えずにいたのだった。

そうして経営難を乗り越えて来た。我ながらよくやったと思う。



朝のうちに母の初盆の準備をした。

事務所に山積みになっていたお供え物も運び入れる。

胡瓜で馬を作り茄子で牛を作った。

母の好きだった葡萄。林檎や梨、ビールとコーヒーも供える。

仕事中だった義父も様子を見に来て「おお完璧や」と言ってくれた。

これまで義父に任せっきりだったがやっと娘らしいことが出来た。


13日には迎え火を焚かねばならずそれだけは義父に託す。

母はきっと胡瓜の馬に乗って大急ぎで帰って来てくれるだろう。

とにかくやれるだけのことをやったのだ。母も赦してくれるに違いない。

いつまでも薄情な娘ではいられない私はそればかりを思っている。


魂のありかを知りたい。母はいったい何処から帰って来るのだろう。





2024年08月09日(金) 「平穏」を噛みしめる

秋は名のみの陽射しの強さよ。連日の猛暑日が続いており

江川崎では39.3℃を記録したようだ。

午前中は全国一であったが午後から三重県の桑名市に抜かれてしまう。

なんと40.4℃の驚異的な暑さであった。

毎日のランキングを見るのが日課となってしまって

決して喜ぶべきことではないのに一喜一憂している。



昨日の地震はやはり「南海トラフ巨大地震」の前兆であるらしい。

一週間以内に襲って来る可能性があるとのことで気が気ではなかった。

今日かも知れない明日かも知れないと不安は募るばかりである。

備えながら日常生活を送るようにと言われても途方に暮れてしまう。

それはその時何処に居るのかでも随分と違って来るだろう。

出来ることなら家族がみな揃っている時間帯を望むが

そうそう理想どうりにはいかないだろう。

夫に言わせれば「その時はその時のことよ」それが正解だと思う。

とにかく身を守らなければ避難することもままならないだろう。

当たって砕けろではないが身構えるように過ごすしかなかった。




今朝は職場に着くなりトラブルがあった。

半年前に中古車を購入してくれたお客さんが怒鳴り込んで来る。

いつもは穏やかな人なのに余程腹が立っていたのだろう。

急にエアコンが効かなくなったのだそうだ。

お孫さんのために購入してくれていたので「孫が死ぬぞ」と怒鳴る。

幸い義父が居てくれたので直ぐに対応してくれて助かった。

どうやらエアコンの故障ではなくオーバーヒートが原因のようだった。

中古車の場合一年間は保障しているので無償で修理が可能だったが

「もう新車にするか」と義父と意気投合し早速に購入することになる。

めでたしめでたしで一件落着となりなんとほっとしたことだろう。

「怒鳴って済まんかったな」と私に握手を求めて来た。

いつもの穏やかな笑顔である。握った手のひらのなんと暖かいこと。





今夜は夫が息子のマンションに行っている。

入浴後の晩酌も我慢しささっと夕食を食べてから出掛けて行った。

息子は準夜勤で10時までの勤務だと云うこと。

いつもならけい君は独りで留守番をしているのだが

地震騒動で余程心細くなったのだろう。

もし今夜大地震が来たらと思うととても独りでは置いていられない。

息子が帰宅するまで一緒に居てあげたらどんなにか安心なことか。


本来なら我が家で預かるのが一番なのだが

もはや居候化した私達に決める権利はないように思う。

息子とけい君が不憫でならなかったが穏便に済ますのが得策のようだ。


日々は流れて行く。その流れに逆らってはいけない。

もがけばもがく程泥沼に足を取られるのに違いない。

誰にも辛い思いをさせずに「平穏」を噛みしめる日々であることを願う。



2024年08月08日(木) 何があっても私は「わたし」

晴れたり曇ったり。ほんの少し暑さが和らいだように感じたが

江川崎では39.9℃とまた全国一の猛暑を記録したようだ。

同じ四万十市でも山間部と平野部では随分と違うことに驚く。

四万十川の中流域であっても川風の影響を受けないのだろう。

不思議なものである。地形に熱がこもりやすいのかもしれない。



仕事の疲れだろうか鬱ほどではないが気分が落ち込む。

SNSでは毎朝必ず声を掛けてくれる人がいるのだが

これまでのように直ぐに返信出来なくなってしまった。

心苦しくもあるが時間を置いてお昼にやっと返信している。

今朝はなんとか配慮して貰えないものかと思った。

そんな勝手がまかり通るわけがないことは重々承知している。

決してコミュニケーションが苦手なわけではないのだ。

ただ社交辞令の連続に気分が付いて行かなくなっている。

おそらく明日も明後日も続くことだろう。



仕事は相変わらず義父に振り回されており精神的に疲れる。

今朝はエアコン修理を待ち兼ねたお客さんから苦情があり

「もう直さんでもえい」と言われて車を引き取って行かれた。

とにかく日数が掛かるのだ。義父にしか出来ない仕事である。

義父も精一杯なだけになんとも残念でならなかった。


昨日高知市の専門店へ預けた搬送車も修理不可能とのこと。

義父の落胆は大きくひたすら嘆くばかりであった。

会社には新しく買い替える余裕など全くなく困り果てている。

なんだか酷く追い詰められたような気分になり落ち込むばかりであった。


けれども投げ遣りになってしまったら元も子もない。

今までの努力を水にしてしまうわけにはいかないのだ。

それは難破船の沈没にも等しい。もう絶体絶命でもある。


今日はなんとか乗り越えたが明日のことは分からない。

お盆休みを目前にしてこれほど窮地に立たされるとは思ってもいなかった。





3時過ぎに退社。週一のリハビリは4時の予約であった。

リハビリを終えたらレントゲンを撮り診察を待つ。

やっと名前を呼ばれ診察室に入るなり地震のアラームが鳴り響く。

大勢の患者さんが居て一斉に鳴り出したものだから一瞬パニックになった。

幸い大きな揺れではなかったが横揺れが長かったように感じる。

院長先生の指示で取り合えず皆外に出たが直ぐに落ち着いた。


日向灘が震源地で宮崎が震度6弱の大きな揺れだったようだ。

四万十市は震度2だったことを後になって知る。

南海トラフとの関連性も調査中とのことで気が気ではなかった。

しばらくは余震もありそうで油断は出来ない。

大地震の前触れではないことをひたすら祈るばかりである。



診察の結果は良好。とにかく現状維持に努めなければいけない。

完治は在り得なくても自分の足で歩けることが肝心に思えた。

私にも「前途」は在るのだろう。

悲観からは何も生まれないことを改めて肝に銘じた。


何があっても私は「わたし」なのだ。

決してのんべんだらりと生きてなどいない。



2024年08月07日(水) 秋隣(あきとなり)

二十四節気の「立秋」暦の上ではもう秋である。

けれども何処吹く風と今日も猛暑日となった。

おそらく処暑までは厳しい残暑が続くことだろう。


私は夏の退くさまがなんとなく好きである。

それはどの季節にも云えることだが

潔く去って行く季節などありはしないのだ。


燃え尽きたように去る夏。寄り添うように訪れる秋。

そんな「別れ」の光景にはつい感傷的になってしまうものだ。




早朝から義父は高知市へ。今日は搬送車の修理の為だった。

これまでも故障はあって部品を注文しては自分で直していたのだが

今回は複雑な部分らしく専門店へ出向くしかなかったようだ。

搬送車はもちろん会社でも使用するが殆どが農機具の搬送に使っている。

稲刈りを目前に控えどれ程困惑したことだろう。


困ったのはエアコンも故障していることだった。

灯台下暗しではないがお客さん優先で後回しになってしまっていた。

早朝に出掛けたが日中の猛暑にはさすがに参ったらしく

「暑うてたまらんぞ」と泣きそうな声で電話が掛かって来た。


なんとか無事に専門店へ辿り着いたがしばらく預けなければならず

仕方なく列車を利用して帰って来たようだ。

夕方の電話では「稲刈りが出来んぞ」と嘆きまくっていた。

憐れでならないがこればかりはどうしようもないことである。

大手は10日から一週間盆休みなのだそうだ。

部品は入っても修理は再来週からになるだろう。

義父の気が鎮まってくれれば良いが先が思い遣られるばかりである。


午後、身体の怠さと眠気が酷く2時に退社した。

自販機で缶コーヒーを買い煙草を吸いながら帰る。

まだ水曜日なのに明日は大丈夫なのかと不安になった。

買い物を済ませ帰宅するなり横になったのだが

夫が「八丁堀の七人」を見始めて一緒に見ることにした。

最終回だったようだ。どの番組も最終回はなかなかよろしい。



夕食後、夕陽を仰ぎつつ短歌を二首書く。

短歌の場合は「詠む」が正解らしいが

なんだか私には相応しくないように思えてならない。

「かっこつけるんじゃない」歌人でもないくせにと思う。

詩もそうだが一生掛かっても認められることはないだろう。


「秋隣風の噂も聞きそびれきみ棲む街に夕陽が落ちる」

短歌には季語は必要ないのだが「秋隣」と云う言葉が好きだった。

「あきとなり」これは立秋前の夏の季語であるらしい。

けれども立秋に相応しく思えてならなかった。


隣に秋がいるのだ。そう思うだけでほっとする。

終らない夏はないがすべてのことがいつかは終るのだろう。







2024年08月06日(火) いつだって崖っぷち

大気が余程不安定なのだろう。今日も雷雨があったらしい。

山里では一滴も降らなかったので帰宅してから知る。

空が暗くなった時に夫が早めに洗濯物を取り入れてくれたのだそうだ。

「どうだ、俺も役に立つぞ」と言わんばかりに得意げな顔をして見せる。

土砂降りの雨だったそうで洗濯物が濡れずに済み何よりだった。


一雨降れば気温が下がるはずだがそうは問屋が卸さず

西日が射す二階の自室は38℃にもなっていた。

猛暑には慣れたが汗が滝のように噴き出る。

先月の電気代が3万円を超えていて大いに家計に響くが

エアコン無しでどうして過ごすことが出来よう。





仕事は相変わらずの忙しさだった。

朝一にタイヤ交換に来てくれた高齢のお客さんが

「迷惑かもしれんがのう」と言ってお茄子を沢山持って来てくれる。

毎朝収穫していてとても食べ切れないのだそうだ。

迷惑だなんてとんでもない。笑顔で有難く頂いたのは言うまでもない。

義父と同僚と3人で分ける。同僚は肉炒めにすると言っていた。

同僚はお母さんと二人暮らしだったが昨年老人施設に入居したのだった。

自炊にもすっかり慣れた様子で微笑ましく思う。


今日もエアコン修理が2台入庫した。

一台はスイッチの故障。もう一台はガス漏れである。

義父の見立ては完璧で頭が下がるばかりであった。

「お盆休みまでに直さんといかんな」義父もやる気になってくれる。

そんなこんなで今日は機嫌が良くほっとしたことだった。


3時に退社。事務も忙しかったのでなんだか疲れを感じる。

仕事は好きだが疲れるとつい「もう嫌だな」と思ってしまう。

若い頃のようにリセット出来なくなってしまったのだ。


買い物を済ませ帰宅するとポストに「詩誌」が届いていた。

SNSを通じて知り合った詩人さんが送ってくれたのだ。

とても新鮮な魅力を感じる。きっと良き刺激となるだろう。

ふと仲間に入れてくれまいかと思ったが身の程知らずだと直ぐに気づく。

世のなか捨てる神あれば拾う神ありとは限らないのだ。


けれどもこれまで参加していた詩誌を追放されてから

前途が随分と明るくなったような気がする。

もうくよくよと思い詰めることもないだろう。


「未来」と云うほどの時はもう残っていないかもしれない。

いつが最後になるかも分からない崖っぷちに立っている。


飛び込む勇気はないがいつまでも風に吹かれていたいものだ。




2024年08月05日(月) 魂の在処

猛暑も一休み。山里では午後雷雨があった。

つかの間のことであったが一気に気温が下がる。

「立秋」も近くなんだか希望のように思えて来た。

終らない夏など決してありはしないのだ。


今朝の山道では鉄砲百合を多く見かける。

少し調べてみたら「高砂百合」が本当のようだ。

初夏に咲く鉄砲百合の仲間ではあるが花の形が違うらしい。

素人目では見分けがつかず私はずっと鉄砲百合だと思っていた。

山肌に咲いていることが多く群生しているようだった。

純白で清楚な花は本来の百合の姿なのに違いない。





週末にはもうお盆休みに突入するためか仕事の忙しいこと。

車検の入庫や相変わらずエアコン修理も多かった。

義父の機嫌がすこぶる悪い。苛立ちがピークになっているようだ。

朝の内はしぶしぶ仕事をしてくれたが直ぐにまた田んぼへ走る。

お昼になっても帰らず今日も昼食抜きであった。


畔の草刈りがそれ程までに大切なのかと思う。

恐る恐る訊けば稲刈り前に済ましておかなければいけないのだそうだ。

今年は特に夏草の成長が著しく何処も大草になっているらしい。

その分稲の成長も早く気が急くばかりなのだろう。

村でも一二を争う作付け数であった。その苦労は並大抵のことではない。

とにかく機嫌を損ねないこと。それは少なからずストレスになっていく。

そうして上手に回していかなければいけない。それも私の仕事であった。


お盆が近くなりお供え物を持って来てくれる人も多くなった。

仏壇にはまだ供えられず事務所に山積みになっている。

そのまま放置出来ないことは義父も心得ているようだ。

私は何も手伝えず心苦しくてならないが義父に任せるしかなかった。


迎え火を焚けば母が帰って来るのだろうか。

多忙な義父の傍らで寛ぐことが出来るのだろうか。

いっそのこと我が家へと思ったが二ヵ所で迎え火を焚いてはいけないらしい。

霊が迷うのだろう。そうして帰る場所を見失ってしまったら

母があまりにも憐れで可哀想に思えて来る。

もしかしたら「帰らんでもえい」と拗ねているかもしれなかった。

そんな母をどうやって宥めたら良いのだろう。

初めての盆帰りである。母には楽しみに帰って来て欲しかった。


声も聴こえず姿も見えないが母の魂はいったい何処にいるのだろう。



2024年08月04日(日) ふるさとは遠きにありて

午後7時外気温31℃。ほおずき色の夕焼けを仰いでいる。

ほんの少しだけ夕暮れが早くなったようだ。


日中は今日も猛暑日。江川崎では39.2℃連日の日本一を記録する。

夫が来週あたり久しぶりに行ってみるかと言ってくれた。

私にとっては生まれ故郷である。夫の計らいが嬉しくてならない。


子供達がまだ幼い頃、家族4人で訪ねたことがあった。

その当時にはまだ私の生まれ育った家が残っており

なんと懐かしかったことだろう。涙失くしては見れなかった。

その時夫が「また来ような」と約束してくれたのだ。

それ以来何度か訪れたが生家は取り壊され今は更地になっている。

父は転勤族だったので一処に定まることはなかったが

「ふるさとは?」と訊ねられたら私は真っ先に「江川崎です」と応える。


父がいて母がいて弟がいて「チョビ」と云う名の犬も飼っていた。

私達家族が最も穏やかに幸せに暮らしていた頃のことである。





今日は何処にも出掛けずひたすら家の中で過ごす。

買い物には行かねばならず酒類やお米を買って来た。

どれも重く車に積み込むだけで一苦労である。

帰宅して「おじいさ〜ん」と呼ぶと夫が直ぐに駆け付けて来てくれた。

あまりの大荷物に「ネットで買えばいい」と捨て台詞を吐く。

あれほどネット通販を嫌っていたのが嘘のようだった。

「いかんよ、それじゃあポイントが付かない」と言うと

「ポイントより楽なことを考えろ」とのたまうのであった。

今後増々高齢になればそれも考えてみるべきかもと思う。

出来ないことがどんどん増えていくのだろう。

やがて免許を返納すればもう買い物どころではなくなるのだ。


午後は一時間程お昼寝をし夫とテレビを見ていた。

パリはもう夜中なのだろうオリンピックの中継はなく

録画してあった「ポツンと一軒家」を見る。

徳島からで70代の男性が実家を守り続けているのだった。

築150年ではあったがリフォームしてあり住み心地は良さそう。

継ぐ予定であった長男は既に亡くなりその人は末っ子なのだそうだ。


生まれ育った家をなんとしても守るその情熱が感じられた。

永遠にとはいかないだろう。その現実が切なく思う。

誰だって守りたい一心なのだ。生きている限りと願うことだろう。


私にはもう生家がなくもちろん実家もなかったが

あの高台にあった家が幻のように目に浮かぶのだった。


ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたうもの。



2024年08月03日(土) 穴の開いていない5円玉

夕方にはにわか雨の予報だったが一向に降らず

辺り一面が熱にうなされているような黄昏時となった。

今日も猛暑。江川崎では39.8℃を記録し日本一の暑さだったようだ。

旧西土佐村で私が生まれ育った地域ではあるが

子供の頃の夏の記憶に「暑さ」の辛さは少しも残ってはいない。

四万十川がプールであった。川遊びのなんと楽しかったことか。

駅前の駄菓子屋さんで一本5円のアイスキャンデーを買って食べたこと。

その頃には穴の開いていない5円玉があって

母の財布から失敬したことがある。てっきり10円玉だと思っていた。

オレンジとメロンのアイスキャンデーが2本食べられるのだ。

喜び勇んで買いに行ったら駄菓子屋のおじさんが売ってくれない。

「一本だけだよ」と苦笑いをするのだった。

その時の恥ずかしかったことを今でもはっきりと憶えている。

子供心にもう二度と母の財布から盗んではいけないのだと思った。





工場の忙しさが気になりつつもお休みを頂いていた。

案の定電話が何度も掛かってくる。義父から3回、同僚からも3回。

お客さんからも5回あり対応に追われる。

無理をしてでも行けば良かったのだがもう後の祭りであった。


義父は今日もエアコンの修理でさすがに参っている様子だった。

「このままじゃ田んぼに行けない」と嘆くばかりである。

今朝の新聞に熱中症で亡くなった高齢者の記事が出ていて

その話もしたのだが「そうなったら運命じゃ」と言い放つ。

その人も田んぼで倒れているのを家族が発見したのだそうだ。

昨日のこともあり「今日は田んぼは諦めたや」と言い聞かす。

義父の口調は荒く苛立ちがひしひしと伝わって来た。

「明日は日曜日やけん仕事はせんぞ」と言うので

「そうそう、明日かあるやんか」やっとそれで落ち着いたのだった。


同僚は午後から出勤して来てくれたが車検整備に追われていた。

そんな最中にパンク修理の依頼が舞い込む。

村でもほぼ土佐清水市に近い人里離れたポツンと一軒家であった。

女性のお客さんで困り果てておりどうして断ることが出来よう。

同僚に相談しても一つ返事ではいかなかった。

なんとか宥めしぶしぶではあったが出張修理に行ってくれほっとする。

3時頃に無事に終えたと連絡があり「ご苦労様」と労った。

僅かな売り上げではあるが人助けも仕事である。

誠心誠意尽くすことが今後の仕事に繋がるのだと信じて止まない。



そんなこんなで昼寝どころではなかったが一時間程眠れただろうか。

気が張っており未だに緊張感が漂っている。


土佐清水市では「あしずり祭り」が開催されており

お祭り会場でめいちゃんがダンスを披露したようだ。

相変わらず娘は何も言ってくれずめいちゃんから教えてもらう。

この暑さでは観に行くことも出来なかったけれど

「寂しいもんやね」と夫と語り合った。

もうすぐ同居してから10年になろうとしているが

歳月が流れるほど「家族」ではなくなっているような気がしてならない。

一家の主であるはずの夫の影も随分と薄くなった。

「なるようになるろう」夫と慰め合う老夫婦であった。


10年が20年になるとは考えられず娘達次第であるが

「いつまでも一緒にはいない」と言われた日が遠ざかって行く。


誰にも分からない未来がもどかしく不安でもあった。



2024年08月02日(金) 一抹の不安

夕風を待っているが全くの無風状態であった。

結局窓を閉め切りエアコンのお世話になっている。

電気代が気になるが少しでも快適に過ごさねばなるまい。

それにしても連日の猛暑であった。

奈良県の十津川村では39.9℃と日本一の暑さだったようだ。

四万十市は36℃で昨日程の暑さではなかったが

同じ市内の江川崎では39.1℃と驚く程の気温であった。


今日は義父が軽い熱中症気味となり大いに心配する。

朝のうちに工場の仕事を済ませ畔の草刈りに行ったのだったが

一時間もしないうちに帰って来て吐き気がすると訴える。

急いで保冷剤で首の後ろを冷やしたりして対処した。

いくらタフな義父でも猛暑に適うわけがないのだ。

「なんのこれしき」と意気込んでいても80歳の高齢である。

はらはらと心配でならなかったが少し休むとまた出掛けて行った。


留守中に予約なしのエアコン修理が2台も入庫する。

お客様は神様であったがもう勘弁して欲しいと思わずにいられない。

義父がまた忙しくなるだろう。なんだか憐れに思えて来た。

そもそも二足の草鞋を履くことがもう限界なのだと思う。

「にっちもさっちもいかない」とはこんな事を云うのだろう。


事務仕事は一段落しており明日はお休みを頂けたが

この有り様では気になってしょうがなかった。

私が出社したところで何の役にも立たないのがもどかしい。

母は整備士の資格を取得していたが私は今更どうしようもなかった。




3時に退社。同僚も通院日で今日は3時までだった。

明日も午前中は眼科だそうで終わり次第に来てくれるそうだ。

還暦を過ぎた同僚も身体のトラブルが多くなり心配は尽きない。


帰り際にふっと短歌が浮かんだので発信しておく。

しゃっくりのようなものなので突然出て来るのだった。

「一抹の不安のような事だった花が終われば実になるのかと」

どうしてなのか自分では全く理解できないけれど

「一抹の不安」と云う言葉が頭から離れなくなったのだった。


仕事の疲れもあったのだろう心細くてならない。

生きてさえいればと思うがその「いのち」が心許ないのだ。

いったい誰に明日の「わたし」が分かるだろう。

もしかしたら今日が最後の日かもしれないのに。

それは今日だけに限らずいつも私を襲って来るのだった。


花が終われば実になるのだろうか。

私はこの世にいったい何を残せるのだろうか。



2024年08月01日(木) 雲を掴む

夕陽が燃えながら沈もうとしている。

燃え尽きはしないのだ。灰になることもありはしない。

日中は38.7℃全国3位の猛暑だったようだ。


8月の声を聞くなり黄花コスモスが咲き始めた。

職場のすぐ近くに咲いておりほっと心が和む。

誰かが植えたとは思えず何処からか種が飛んで来たのだろう。

自然の営みのなんと素晴らしいことだろうか。

秋桜の仲間だと思われるが小さな秋を見つけたような気がした。

秋が立てばきっとあちらこちらで誇らしげに咲くのに違いない。


終らない夏はありはせず季節はゆっくりと秋に向かっている。

その気配を感じなければいけない。自然はきっと教えてくれるだろう。




義父がまた高知市へ出張。毎月のように理事会がある。

何か揉め事があるらしく頭を悩ませているようだ。

稲刈りも近くなり気が気ではない様子が伝わってくる。

あれもこれもと背負い過ぎなのだ。人一倍責任感も強い。

とても身が持たないと気遣うがそんな義父が誇りでもあった。

工場の仕事も気になるらしく二度電話があった。

同僚と連携し今日の仕事はなんとか終えることが出来る。


事務仕事も忙しかったが3時前に退社。

週一のリハビリの日で整形外科へと向かう。

今日は朝から杖に頼らずに過ごしていた。

最初は心細かったが次第に慣れて来る。

よっしいけるぞと思い杖なしで病院の門をくぐった。

療法士さんの驚いたこと。「調子良さそうですね」と言ってくれる。

施術中も全く痛みを感じず絶好調であった。

一時的な事かもしれないが明らかに快方に向かっているのだと思う。

完治の見込みはなくても日常生活に支障が無くなるのが望みだった。

今後も希望を持ってリハビリを続けようと強く思う。

もう駄目だと諦めることは決してないだろう。


サニーマートで買い物をして5時前に帰宅。

もうゆっくりする時間はなかったがパソコンに向かった。

「短歌写真部」なるものがあるのを知って一度挑戦してみようと思う。

短歌一首に写真を貼り付ければ良いのだそうだ。

オリジナルの砂浜の写真を選んだ。そうして一首を捻る。

「さらさ砂足跡さえも残さずに深まる夏を追う君がいる」

これは年甲斐もなく恋の歌であった。

何しろ写真が20年以上も昔の写真である。

私はまだ「おんな」であり恋多き年頃であった。


木っ端恥ずかしいたらありゃしない。

あああ馬鹿みたいと思う。でももう後の祭りである。


溺れる者は藁をも掴むと云うが今日はその藁を掴んだ。

藁どころか雲を掴むような愚かな私であった。





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