ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年07月31日(水) ほうずき色の記憶

連日の猛暑日。焼けつくような強い陽射しだった。

七月は尽き「立秋」まで後7日である。

厳しい残暑は覚悟しているがせめて朝晩の涼しさがあればと願う。



SNSを通じて知り合った友人の命日だった。

一年が経つのがなんと早かったことだろう。

未だに生きているような気がしてならない。

気さくで優しい人だった。そのぬくもりが愛しい。


ひとはどうしようもなく死んでしまう。

たとえ定命だとしてもあまりにも残酷である。

残されたご家族の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。


夜明けまえに「日にち薬」の詩を書いた。

ご家族に伝わればと思ったのだがどうやら駄目だったようだ。

今日も薬。明日も薬である。永遠に癒されない哀しみなどないのだと思う。




月末の仕事を無事に終えたが今日も怒涛の忙しさだった。

軽く眩暈がしてそのまま倒れてしまいそうになる。

幸いお昼に10分程休むことが出来る。

義父は今日も昼食を摂れない。後から後から仕事があるのだった。

同僚も汗だくである。見ているだけで気の毒でならなかった。


4時半に退社。すっかり遅くなり買い物を諦める。

帰り際に「ほか弁」を注文しそのまま受け取りに行っていた。

5時20分に帰宅。お素麺を湯がこうと大鍋でお湯を沸かす。

お湯が沸くまでに大量の洗濯物を畳み終えた。

少しでも横になりたかったがとてもそんな余裕はなかった。

いくら私の帰宅が遅くても夫はいつも通りである。

5時半にはビールを飲み始めるので苛々としてしまう。

お素麺をすする口元がぞっとするほど気持ちが悪い。

夫には本当に申し訳ないが生理的に受け付けられないのだった。

いったいいつからそうなってしまったのだろう。

老いだけのせいではないと思うのだが理由が見つけられなかった。


夕食後は疲れがピークに達していたが

沈む夕陽をぼんやりと眺めているとふうっと短歌が浮かんでくる。


「文月の尽きて夕陽が沈む頃ほおずき色の記憶が暮れる」




2024年07月30日(火) 夏すみれ

明け方まで強い風が吹いていたが夜明けと共にぴたりと止む。

日中は今日も猛暑となりうんざりするような暑さになった。

関東ばかりではなく九州も40℃近くまで気温が上がったようだ。

大分県豊後大野市で39.2℃と今日の日本一を記録する。  


昔はせいぜい30℃超えではなかっただろうか。

それが真夏の気温だと誰もが思っていたのだった。

年々過酷な暑さになっている。10年も経てば40℃が当たり前になりそうだ。

エアコンの無い時代、昼寝をするのに母が団扇で風を送ってくれた。

そんな記憶も遠い夏の思い出となっていく。



仕事は今日もエアコン修理。予約なしの突然の来客である。

義父は友人と農機具の展示会に出掛けており留守であった。

お客さんに訳を話し出直してもらおうと思ったのだが

義父が帰るまで待つと言って聞かない。

幸い近くの喫茶店で時間を潰してくれることになり助かる。


午後一時前に義父が帰りすぐさま修理に取り掛かってくれた。

ガスは満タンなので他の不具合が考えられる。

念入りに検査をしやっと故障個所が判明した。

部品は明日入るとのこと。お客さんも納得して帰って行く。


義父は今日も昼食を摂らず一生懸命に働いてくれた。

そのまま畔の草刈りに行くと云うので心配でならない。

それでもまったく苦にする様子も見せず頭が下がるばかりであった。

余程気が張っているのだろう。無我夢中なのが伝わってくる。




3時に退社。車に乗ると外気温が43℃になっており驚く。

少し走ると36℃になりそれが正解なのだろう。

自動車専用道路を時速90キロで走り抜ける。

サニーマートで買い物をし4時に帰宅した。


玄関先の夏すみれがぐんにゃりと弱っている。

今朝水遣りをしてから出掛けたのだが余程陽射しが堪えたのだろう。

水道の水は生温くしばらく庭に打ち水をしてから冷たい水を待った。

「帰宅する我を待ちたる夏すみれ水道の水冷たくなあれ」


しゃっくりのような短歌はまずまず順調であった。

以前のように時間を決めていないのでとても気楽である。

良し悪しは兎も角として自由に詠めるのが愉しい。


自信はないが誇りはある。それは矛盾しているかもしれないが

いかに自分らしさを貫くことではないだろうか。

詩も短歌も好きでならない。それは同時に自分を好きであることに等しい。


どれほど踏みにじられても私は「わたし」を守り続けるだろう。



2024年07月29日(月) サンセット

雲一つない快晴。陽射しは容赦なく照りつける。

広い範囲で猛暑日となり特に関東は危険な暑さとなった。

栃木県の佐野市では41℃と信じられないような猛暑である。

佐野には古い友人が住んでいて気になりながらも

暑中見舞いをするでもなくついつい疎かにしてしまうのだった。

そうしてだんだんと疎遠になって行くのだが仕方ないことだろう。

私はせっかくの縁を自ら遠ざけてしまうことがよくある。




仕事は怒涛の忙しさだった。エアコン修理が一気に三台もあり

義父の助けがなければとても手に負えない。

義父もそれを承知していて身を粉にしてくれたのだった。

例の如くで昼食も摂らず汗びっしょりになって働いてくれる。

それにしても今年の夏はエアコンのトラブルがとても多い。

猛暑のせいもあるだろうがひっきりなしに入庫している。


事務仕事は午後には一段落しており2時半に退社出来た。

FMラジオは「五輪真弓特集」で聴きごたえがある。

哀愁が漂うと云うかしんみりと聴き惚れてしまうのだった。

夏らしい明るい歌も良いがやはり「枯葉舞う季節」が好きである。



夕方めいちゃんが癇癪を起こしキムチが食べたいと叫び出す。

泣き喚く前にと大急ぎでローソンへ買いに走った。

すると外のベンチで外国人の青年が二人アイスクリームを食べていた。

目が合って笑顔を交した後に「おいしい?」と訊いたら

二人が声を揃えて「おいしー」と言ってくれて嬉しかった。

咄嗟に英語が出て来ない。おいしいは英語で何と云うのだっけ。

「デリシャス」かなと思ったが自信がなかったのだ。

でも日本語が通じて良かった。これもささやかな一期一会だろう。


キムチを買って外に出たら二人の笑顔が待っていた。

「グッナイ」と手を振ったら「グッナイ」がこだまするように返ってくる。

ちょうど夕陽が沈む頃でなんだか映画のワンシーンのようだった。


荷物は見当たらなかったがもしかしたらお遍路さんだったのかもしれない。

お大師堂から歩いて来たような気がしてならなかった。

4月に行事の当番をした時にお大師ノートを見たのだが

英語やフランス語やそれは沢山の書き込みがあったことを思い出す。

小さなお堂ではあるが人気の宿になっているのだろう。

私の足はすっかり遠のいてしまったがずっと気になりながら過ごしている。

心の拠り所だったのだ。これまでどれほど癒されて来たことだろう。


遠のくことは容易いのかもしれない。

ただ億劫だと云う理由だけではないのだと思う。

信心する気持ちはまったく薄れず朝に晩に手を合わし続けている。


父と母の遺影の傍にはいつも「お大師さん」が居てくれるのだった。







2024年07月28日(日) しゃっくりは止まらない

猛暑日。これでもかこれでもかと汗が流れる。

全国一の暑さかと思いきや上には上があるもので

千葉の牛久では39.8℃を記録したようだ。

体温どころか高熱である。猛暑と云うより酷暑であった。


朝の少しでも涼しいうちにと冷蔵庫の掃除をしたのだが

野菜室の酷いこと。目を覆いたくなるほどの有様であった。

奥の方に娘がスイカを入れていたらしく既に腐敗している。

娘に訊けばいつ入れたのかよく憶えていないとのこと。

お向かいの奥さんに頂いたことがあったのでその残りと思われる。

食べ切れず粗末にしてしまいひたすら申し訳なかった。


それから大量のピーマン。これはめいちゃんのお友達のお宅から。

遊びに来てくれる度に持って来てくれるので食べ切れなかったのだ。

ハウス農家さんなのでおそらく売り物だったのだろう。

せっかくの好意を無駄にしてしまいこれも申し訳ないことだった。


夏場の冷蔵庫を甘く見てはいけない。

野菜は頂くことが多いがなるべく早く食べるように心掛けようと思う。





サニーマートへ行ったら友人のSさんに会った。

彼女も創作活動をしており唯一の同士である。

同人誌追放の報告をしたらとても残念がってくれた。

「それってあまりにも失礼じゃないの」と言ってくれる。

彼女は毎号楽しみにしてくれていていつも読んでくれていたのだった。

「負けたらいかんよ、挫けたらいかんよ」と励ましてくれて嬉しかった。

誰かに話したくてならなかったのだ。決して同情を求めるのではなく

私自身の「在り方」を認めて欲しかったのだと思う。


もう立ち向かう程の若さはないが我が道を行くことは出来る。

一歩一歩着実にだ。それは自分を信じることに等しい。



短歌の発信スタイルを変えてからけっこう調子が良い。

思い浮かんだ時に書くので自由自在だからだろう。

突然に思い浮かぶことが多くそれも愉しくてならなかった。

まるで発作のようだ。いや、しゃっくりのようなものか。

明日からはまた仕事だがしゃっくりは止まらないかもしれない。

いいじゃないかそれで。好きなように愉しめば良いのだ。


詩も短歌も既に生活の一部になっている。

全部にする程暇ではないのでそれは無理な話だが

出来ることがあるのはとても幸せなことではないだろうか。


「種になるその時までと向日葵は猛暑に耐えて仰ぎ見る空」



2024年07月27日(土) さらさらさら

夜明け前まで小雨が降っていたが日中は概ね晴れ。

幸い猛暑日にはならず過ごし易い一日だった。


肩の力がすうっと抜けて無気力を愉しむばかり。

朝寝を一時間程。昼寝はなんと四時間にも及ぶ。

寝れば寝るほど元気になりゲンキンな者である。


カーブスも好調。楽しく身体を動かすことが出来た。

自然と笑みがこぼれる。これが本来の私なのかと思った。

ほか弁を買って帰る。ノンアルビールも飲んだ。

最高の気分であった。もう鬱だなどと言ってはいられない。

何事も気の持ちようなのだろう。そう肝に銘ずるばかりである。





ふと思いついて短歌を書くスタイルを変えてみた。

今までは時間を作り集中して三首書いていたのだが

そうするように自分に課していたのだと思う。


もっと自由気ままに好きなように書いてみたらどうだろう。

思い浮かんだ時に書く。そうして発信してみることにした。

さらさらさら。まるで川面に浮かぶ笹船のようである。

たとえそれが一首であってもきっと海に辿り着くだろう。

それはちっぽけなプライドを捨てることにも等しい。

もう拘らない。もう縛られない。私はただ流れて行くだけである。


幸いと言うべきかもう同人誌に掲載されることはない。

毎回16首を選んでいた苦労からも解放されたのだ。

これほどの自由が他にあるだろうかと思う。

SNSは儚い世界かもしれないが「拡散」されることも在り得る。

それを一縷の望みに思うのもささやかな希望に繋がるだろう。


私のような者。それ以上でもそれ以下でもあるまい。

どれほど落ちぶれていても「わたし」であることを誇りに思う。


いつかは最期を迎えるがそれが「いま」ではないことが救いである。

「陽は西に私も西に沈むのか明日は東の希望に会いに」



2024年07月26日(金) 虫の居所

雨が降ったり止んだり。通り雨のようだった。

陽が射す時間帯もあり一気に蒸し暑くなる。


梅雨時もそうだったが今年は雨量が少ないようだ。

田んぼの水が枯れ始めているらしく義父が頭を悩ませている。

順調に稲刈りまで漕ぎつけることが出来るだろうか。



朝からダル重。身体だけではなく気分も沈む。

久々の鬱状態のようだった。

SNSでは毎朝声を掛けてくれる人がいるのだが

今朝は返信が面倒でならなかった。

いつもは嬉しいのにどうしたことだろう。

そっとして置いて欲しい朝がある。ニンゲンダモノ。


職場へ着けばみい太が餌をせがみにゃおにゃおとうるさい。

可愛らしいはずのみい太をつい睨んでしまった。

なんの罪があるのだろう。私の虫の居所が悪いだけである。



同僚が整備士研修のため丸一日留守。

開店休業のつもりでいたが義父が仕事をしてくれ大助かりだった。

長いこと待たせていたエアコン修理が完了する。

すぐさま義父と一緒に納車に行っていた。


お昼前から眠くてならない。机に突っ伏して10分程仮眠する。

月曜日から一切休んでいなかったのだ。やはり疲れていたのだろう。

仕事は好きでやる気満々なのだが身体はとても正直であった。


2時に退社。その足で宿毛市のお得意様の元へと走る。

急ぎの見積書を頼まれていたので今日中に届けたかった。

郵便事情の悪さには辟易としている。直に届けた方がずっと早い。


宿毛市和田から四万十市まで自動車専用道路があり快適である。

時速90キロで走れば30分で着くのだった。

3時にはもうサニーマートまで帰り着きゆっくりと買い物をする。

しかし献立が思い浮かばない。出来れば何も作りたくなかった。

とにかく早く家に帰り横になりたくてたまらない。


3時半過ぎに帰宅。洗濯物を畳んでからやっと横になることが出来た。

珍しく息子から着信。けい君が明日の晩泊りに来たいとのこと。

夏休みで退屈しているのだろう。可哀想ではあったがお断りする。

息子も我が家の事情を心得ていてくれて無理にとは言わなかった。

けい君が不憫でならないが息子が言い聞かしてくれるそうだ。


気兼ねなく泊まりに来れるような我が家になることはもうないだろう。

それが情けなくもあったが現実を受け止めるしかない。

私も夫も居候度が日に日に増しているこの頃であった。


現状を無理に変えようとしては行けない。

在るがままを受け入れてこそ穏やかに過ごすことが出来るのだと思う。


けい君また背が伸びただろうな。けい君に会いたいな。



2024年07月25日(木) 迷える子羊

猛暑は和らいでいたが大気が非常に不安定とのこと。

ほぼ晴れているにも関わらず突然にわか雨が降ったりした。


山形県では記録的な豪雨に見舞われ水害に繋がったようだ。

しかも停電になっている地域が多く困惑していることだろう。

どうか一刻も早く雨が止むことを願うばかりであった。


自然災害は容赦なかった。用心の仕様がないのだ。

皆それぞれに自分の命を守ることしか出来ない。




仕事が忙しく独楽鼠のように働く。

木曜日ともなれば体力的にかなり厳しい。

お昼休憩が全く取れず肩の力を抜くことも出来なかった。

時間の余裕がなくなると心の余裕もなくなってしまう。

まず短歌が書けない。もちろん集中することも出来ないのだった。

独楽鼠が迷える子羊になってしまい途方に暮れるばかりである。


決して暇を持て余して書いているのではない。

如何にして時間を作るのかと躍起になっているのだった。

自分に課すとはそう云うことではないだろうか。

出来ない日があっても良いはずだがそれでは自分が納得しない。

何としてもと思う。まるで自分との闘いのようである。


一首は書けたがもうそれが精一杯であった。

子羊はもう何処にも行けない。ただ蹲るだけである。

限界はそうして訪れる。もう行き止まりに等しい。


D氏に言われたことを忘れたくても忘れられなかった。

「誰も読みやしない」それ程までに私を貶める発言があるだろうか。

優等生ばかりの同人誌に私のような劣等生が存在したことは認めるが

心を踏みにじってまでも私を追放したかったのだろうか。

D氏の人間性を疑う。もう信頼の一欠片も残ってはいなかった。


けれども未来は無いようである。気長に書き続けていればきっと

犬が棒に当たるようなこともあるだろう。

そのために私は追放されたのだと思いたいのだった。


「子羊になって迷える道すがら野の草を食むめえと鳴きつつ」





2024年07月24日(水) 3匹の鰻

曇りの予報が外れ今日も晴天となる。

気温は猛暑日に届かず過ごし易い一日だった。

関東は猛暑。北海道は大雨。沖縄は台風である。

日本は小さな島国だが気候の差は著しいものだ。


ここ数日のうちに稲穂が黄金色に近くなった。

高知平野では既に稲刈りが始まっているらしいが

山里は来月の中旬頃になるようだ。

また義父がどんなにか忙しくなるだろう。

畔の草刈りは一段落したようだが消毒に追われている。

無農薬のお米は商品価値がないのだそうだ。

「いもち病」は一ヵ所で発生するとどんどん広がって行くらしい。



今日はエアコン修理があり工場の仕事に専念してくれ大助かりだった。

長いことお客さんを待たせていたのでもう限界になっていたのだ。

「俺がやらんで誰がやる」と思ったのだろう。

作業を始めると昼食を摂る時間も惜しむ程精を出すのだった。

その技術を同僚に伝授してくれたらと思うが

「無理だ」の一言で済ませてしまう優秀な熟練工である。


私は車検完了の車を納車に行っていた。

予約なしで入庫していたのでなんと6日も待たせてしまった。

お客さんは代車で辛抱してくれたがどんなにか不便だったことだろう。

お詫びの印しに粗品のティッシュとリポビタンを持って行く。

そうしたら大喜びしてくれて私もほっと肩の荷が下りた。

商売人が一番恐れるのは苦情である。

ご機嫌取りではないが如何に誠意を示すかで決まって来る。

そうしてリピーターになって貰ってこその商売なのだ。





2時半に退社。その足で税理士事務所へと向かう。

決算書が出来上がり税理士報酬も支払って来た。

今年から大幅値上げで苦しかったが止む終えないことだ。

累積赤字が大きいが今期は黒字だったようでほっとする。

後何期続くのやら。もしかしたら今期が最後かもしれない。


さて夕飯は何にしようと考えながらサニーマートへ行ったら

店頭で鰻を焼いており今日が丑の日なのを思い出した。

一匹3200円と高価ではあったが奮発して3匹買う。

一年に一度のことだ。家族皆の喜ぶ顔が見たかった。


今は養殖ウナギがメインであるが昔は天然鰻がいくらでも食べられた。

夫は川漁師の息子なのでもちろんであるが

私も子供の頃から夏場は毎日のように食べていたのだった。


学校から帰ると母が七輪で鰻を焼いていた。

買ったのではない母が自ら獲った鰻である。

母は地元の人に教わって「ころばし漁」をしていたのだった。

竹で編んだ筒に餌のミミズを入れて川に仕掛けるのである。

それが毎日のように大漁だったから面白くてならなかったのだろう。

母は誰に習ったのか鰻を捌くのも上手だった。

にょろにょろしているのを錐でえいやっと頭を突くのだった。

包丁捌きも見事で子供心に「すごいな」と感心したことを憶えている。


母も食べたいだろうなと思いつつ鰻を頂く。

3匹の鰻は一口大に切りお皿に盛り付けてあった。

夫が遠慮して「4切れは食べてもええかな」と言う。

「ええろう」と言いつつ私も4切れの鰻を食べた。

夫と顔を見合わせながら明日からは雑魚と味噌だなと笑い合う。


6匹の鰻がどうして買えよう。

貧乏人には相応しいそれなりの食がある。

一切れの鰻でさえ食べられない人がいることを忘れてはならない。



2024年07月23日(火) 神様とんぼ

猛暑が少し和らぐ。とは云え猛暑日には変わりないが

35℃だとずいぶんと過ごし易く感じた。

人間は暑さに慣れるのだろう。耐久性に優れた生き物である。


今朝は工場に真っ黒い蜻蛉が入り込んでいた。

飛ぶこともせずに一ヵ所に留まり羽根を広げたり閉じたりしているのだ。

一瞬母ではないかと思う。そうして次第に母なのに違いないと思う。


「羽黒とんぼ」と云うのだそうだ。昔からの言い伝えで「神様とんぼ」とも

あの世とこの世を結び亡くなった人の魂が宿っているのだそうだ。

母の初盆供養のある日だったのでそう信じずにいられなかった。

人一倍霊感の強い母であった。じっとしてはいられなかったのだろう。

「ちょこっと帰って来ちゃった」とお茶目な声が聞こえたのだ。

母らしいなと思う。気づいて欲しくて躍起になっていたのに違いない。


午後からお寺さんが来てくれて初盆供養が執り行われた。

義父と二人きりのつもりであったが伯母や叔母も来てくれて嬉しかった。

母もきっと喜んだことだろう。「まあ夢に餅」と笑顔が見える。

読経が終りお焼香の後皆でお念仏を唱えた。

「南無阿弥陀仏」が心に沁みる。何度も何度も唱え続けたのだった。


やはり母は死んでしまったのかなと思う。

これが悪ふざけのはずは決してなかった。

そう思いつつも母は主役になり切って演技をしているのでないか。

注目されて悦に入っているのでないかと思う。

今にマイクを握りしめて演歌を歌い出すような気さえしたのだ。


もう何処にも居ないのではない。

今朝この目で確かに母の姿を見たのだ。

神様とんぼはふらりと何処かへ飛んで行ったが

母の魂はまたきっと会いに来てくれることだろう。




2024年07月22日(月) 魂の行方

二十四節気の「大暑」一年で最も暑さが厳しい頃。

その名の通り今日も全国的に猛暑を記録したようだ。

次の節気は「立秋」である。そうなれば残暑となり

次第に暑さが和らぐのではないかと期待している。

もう少しの辛抱と言い聞かせながら過ごすしかあるまい。


相変わらずの滝汗である。多汗症ではないかと思うほどだ。

エアコンの効いた室内で仕事をしていても汗が流れる。

水分を補給しても直ぐに汗になってしまっているようだ。


今日は尿意を全く催さず膀胱炎の前兆のようであった。

やっとお昼にトイレに行ったが少ししか出ない。

これはやばいなと思い水分を補給すればまた汗になってしまうのだ。

幸い排尿後の痛みがないのでまだ大丈夫だと思うが

若い頃から夏場は必ずと云っていいほど膀胱炎に罹っていた。

市販の薬では効かず結局は病院に行かなければならない。

それだけは避けたくてとにかく予防に徹しようと思う。

自分の身体は自分で守るのがベストであろう。




今日は義父の姉にあたる伯母が手伝いに来てくれて

明日の初盆供養の準備をしてくれて大助かりだった。

義父も田んぼどころではなくなり半日掛かりとなる。

私は仕事が忙しく何も手伝うことが出来なかった。

そもそも足が不自由なので座敷に上がることが出来ないのだ。

伯母もそれは心得てくれていて何の気兼ねもなく任せてしまった。

お昼前に「出来たぞ」と義父から電話がありやっと駆け付ける。

玄関先からではあったが母の位牌に手を合わすことが出来た。

明日は這ってでも座敷に上がり初盆供養に参加しなければいけない。

未だに母の死を受け止められずにいるが

初盆が終れば直ぐに一周忌である。

母は生きているのにと思うばかりで戸惑うことが多い。

夢に出てくる母をどうして亡き人に思うことが出来ようか。

もし本当に死んだのなら母はいったい何処にいるのだろう。

天国にいるとは思えない。母は私の直ぐ近くにいるような気がする。


魂の行方は誰も知らない。

輪廻転生を繰り返すらしいが母はきっと母のままだろう。

そうしてまた私を産み育てるのに違いない。





2024年07月21日(日) 汗に焦る

連日の猛暑が続いている。最高気温は37.8℃であった。

日本一ではなかったが高知県下では一番の暑さだったようだ。

エアコンを点けていても異常な程に汗が流れる。

特に額から顔が酷く俯けばぽたぽたと汗が落ちるのだった。

おかげで朝描いた眉毛はお昼には消えておりすっかり笑い話である。



今朝は夫が食欲不振を訴えお味噌汁さえ飲めなかった。

おそらく寝冷えか夏風邪だろうと思われる。

微熱がありとてもしんどそうであった。

まさかコロナではあるまいと一日様子を見ることにする。


軽トラックの車検が切れるため山里の職場に行く予定だったが

さすがに無理だろうと夫に延期を提案したが

どうしても行くと言って聞かない。俺は大丈夫と言い張る。

仕方なく朝の涼しいうちに山里へ向かった。


もう川仕事をすることもないだろう。軽トラックは不要であったが

やはり無いと不便だと言ってもう一度だけ車検を受けることにした。

夫にとっても私にとってもとても愛着のある車であった。

平成8年式でもう28年にもなる。オンボロだがエンジンの調子は良い。

川船同様に川仕事には必要でこれまでどれほど助けてもらったことか。

廃車にしてスクラップにするにはなんだか名残惜しいものである。



お昼に冷やしうどんを作ったら少しだけ食べることが出来てほっとする。

頓服の解熱剤を飲み午後は安静にして過ごしていた。

それが良かったのか夕方には熱が少し下がっており

いつも通りにビールを飲みたがるようになっていた。

もう大丈夫だと思う。明日の朝にはきっと元気になっているだろう。


猛暑はまだまだ続きそうだが体調管理を怠ってはならない。

私も用心しなければと改めて思ったことだった。


今も汗が流れ続けている。室温は27℃に設定しているので

十分に涼しいはずなのだがなんと不可解なことだろう。

このままでは汗だくのまま眠りに就くことになりそうだった。


年齢と共に体質が変わっているのかもしれないが

なんとも戸惑うことが多いこの頃である。

歳を取ると汗をかき難くなると聞いたが私は若返っているのだろうか。







2024年07月20日(土) トマト日和に

最高気温が36℃を超え猛暑日となる。

江川崎では37℃を超えていたが日本一ではなかったようだ。

朝からもう気温が高く何もしなくても汗が流れる。

肥満のせいだろうか随分と汗っかきになった。



仕事は休ませてもらっていたが気になってならない。

今日は車検整備の他にオイル交換やタイヤ交換の予約が入っていた。

義父が待機してくれていたら良いが同僚一人では大変なことだろう。

おまけにこの暑さである。同僚が倒れるのではないかと心配になった。

私が出社したところで何の手助けも出来ないが心苦しくてならなかった。

臨機応変にと思うがもうすっかり週末の休み癖がついている。



午前中にカーブスへ行っていたが絶不調であった。

とにかく汗が止まらず身体を動かすどころではなかったのだ。

心拍数が異常に高くなっておりコーチにも心配をかけてしまう。

無理は禁物と思い早々と切り上げて帰って来た。


午後は例の如くでひたすら寝る。やはり疲れだったのだろうか

3時頃に目覚めると気分も良くすっきりとしていた。

その勢いで日課の短歌を書き自己満足に浸る。



川向に住むお客さんから電話があり「トマト食べんかよ」と。

「いるいる」と応え車を飛ばし貰いに行く。

お客さんは家の裏庭にある菜園で畑仕事をしていた。

なんと上半身裸である。「暑うてのせんぞ」と笑っていた。

トマトは朝獲れだそうで笊にてんこ盛りである。

「全部持って行けや」と云うので遠慮なく頂いて帰る。

路地の新鮮なトマトの美味しいこと。直ぐに食べたくてならない。

お客さんとはもう40年来の付き合いである。

ご夫婦ともに気さくな人達で大好きだった。





市内の商業施設でイベントがありめいちゃんがダンスを踊るとのこと。

夕方かららしいが娘は何も言ってはくれなかった。

勝手に押し掛ける訳にもいかず何とも寂しいものである。

夫と夕食を食べながら今後の不安などを語り合う。


もしどちらかが欠けた時のこと。それは近い将来必ずあり得ることだった。

私でみれば何とかなるだろうが夫は不安でならないようだ。

「俺はほたられるかもしれん」と言う。


昔は優しかった娘の変わりように戸惑うことがよくある。

会話が成り立たないのだ。なんとそっけないことだろうか。

まるで私達夫婦が居候のようでもあった。

面と向かっては言わないがやはり家族ではないのだろう。


先のことを思い煩うのはよそうと私達は互いを宥めるのだった。

そうしてとにかく長生きをしようねと語り合う。

「おまえは俺より先に死ぬなよ」夫の言葉が胸に沁みる。



2024年07月19日(金) ノルマ達成

「土用の入り」立秋までの18日間を云うのだそうだ。

猛暑を乗り越え早く立秋の声を聞きたいものである。

お昼前に四国地方の梅雨明けが発表された。

少し曇り空であったがうだるような暑さとなる。


朝はそうでもなかったがお昼頃から怠くてならない。

生欠伸が出て眠気もあるようだった。

夏バテにはまだ早いだろう。今からくたばるわけにはいかない。

単なる疲労かもしれないが今週は4日しか働いていないのだ。

お昼に少し仮眠をと思い机に突っ伏してみたが眠れなかった。


焦ったのは短歌を書けないこと。たまには休めば良いものを

自分が許さないのだった。それほどまでに課していることなのだろう。

決して完璧主義ではないのだが困った性分である。


午後は同僚が通院のため開店休業となった。

義父も午前中の草刈りが堪えたのか居室に閉じ籠っている。

まだ2時だったがもう帰ろうと思った。

義父に声も掛けずに逃げるように帰路に着く。

とにかく少しでも横になり眠りたくてならない。


案の定睡魔に襲われやっとの思いでサニーマートに着いた。

夕飯のメニューが全く思いつかずぼんやりと買い物をする。

食欲もない。何も食べたくなかったから適当であった。


帰宅するなり倒れ込むようにして眠る。

大きな鼾をかいていたそうだが私が知る由もない。

30分程寝ていたようだ。寝起きの気怠さはなかった。


「書けるかもしれない」二階の自室に上がれば室温は35℃である。

エアコンは我慢し扇風機で涼を取りながらパソコンに向かう。

まずまずの短歌が書ける。自己満足の骨頂としか云いようがない。

そうして「よっし、ノルマ達成」と増々調子に乗るのだった。

「いいね」の数は決して評価ではないのだが

「読みましたよ」の声が聞こえるようだった。


D氏は私の短歌なんか誰も読んでいないと言ったが

それを真に受けるほど私は落ちぶれてなどいないのだと思う。

もう今更何の反論もする気はないが縁を切って正解だったのだろう。


終りがあってこそ始めることが出来る。

きっとチャンスを頂いたのだろうと思うのだった。


明日のことなど何も分からない。

まして未来のことなどどうして分かるだろう。

私はただ与えられた人生を全うするだけである。











2024年07月18日(木) 最後のけじめ

日中は雨の予報だったが殆ど降らず。午後少しだけにわか雨が降った。

とても蒸し暑くエアコン無しではとても過ごせない。


職場の百日紅の花を母だと思って毎朝声を掛けている。

薄情な娘であったがそうそう悪どい人間ではなさそうだ。

きっと根は優しいのだろうと勝手に思うようにしている。


母は日に日に花盛りになっていく。

お化粧を欠かさない母であった。花の色は口紅の色に似ている。

お洒落な服を着せてやりたいが生憎夏草が生い茂っているのだった。

「母さんごめんね」私の声が届いているだろうか。




昨日、参加している同人誌に短歌を16首送信していたのだが

午前中に受け取った旨のメールが届いていた。

いつもは口数少ないD氏だが今日のメールは長かった。


まず詩について。やはり今のままでは認めるつもりはないと。

二度も三下り半を押していながら未だに拘っているようだった。

私はもうすっかり覚悟が出来ているのでもうどうでも良かったのだ。


それから短歌について。私の短歌は誰も読んでいないのだそうだ。

それほど価値のないものだと言いたかったのだろう。

全国に発送しているにも関わらずそこまで明言出来るのだろうか。

しかしもう反論するつもりは一切なくなっていた。

その時点で私は脱会する決意を固めていたのである。

D氏は短歌の専門誌に発表すれば良いと追って記してあった。

とにかく私が目障りでならないのが見え見えだったのだ。

D氏とは若い頃からの長い付き合いであったが

そこまで厳しい人だとは思ってもいなかった。

厳しいと云うよりこれはパワハラにも等しいのではないだろうか。

会社なら「解雇」であり同人誌からは「追放」である。

しかしここで怒り狂ってはD氏の思うつぼになってしまうのだ。


私は冷静に返事を書いた。長年の感謝の気持ちを伝える。

お目汚しばかりだったことを詫びあくまでも平身低頭を貫く。

それが私の最後のけじめであった。


不思議と悔しさはない。悲しみもなければ嘆きもなかった。

上手く言葉に出来ないが一気に闘志が湧いて来たのだった。

言葉は悪いが「今に見ておれ」である。

決して勝ち負けではないがD氏を見返してやりたいと思ったのだ。


折られた木から新しい枝が生まれるようなこと。

それは奇跡のようなことかもしれないが

生きてさえいれば叶うのではないだろうか。


負けないことだ。挫けないことだ。そのための「いのち」だと思う。



2024年07月17日(水) 胸を打たれる準備

梅雨明けを思わすような真夏日。

午前中は風が殆ど吹かず息が詰まりそうな暑さであった。

九州南部が梅雨明けとのこと。四国も直ぐに後を追うだろう。

土用の入りも近く「大暑」も近づいている。

いよいよ本格的な夏の訪れであった。


玄関先の夏すみれが早くも弱り始めている。

昨日一日水遣りを怠ってしまったのだ。

怠慢にも程があると我が身を責めたくなって来る。

「ほら言わんことじゃない」と夫の声が聞こえて来そうだった。

てきぱきとロボットのようにはいかない。

出来ない日があっても良いのだと思いたいが花を枯らすことになる。

私の役目なのだと考えればそうそう疎かには出来ないだろう。




今朝は出勤すると義父が待機してくれておりほっと胸を撫で下ろす。

昨日それとなく車検を頼んでおいたのだ。

忘れずにいてくれたのだろう。どれ程助かったことだろうか。

午前中に車検を済ませその後母の初盆の打ち合わせをした。

お寺さんの都合で来週の23日に読経に来てくれるのだそうだ。

あまりにも早いので何から準備すれば良いのか戸惑うばかりである。

義父の助けがなければ私一人では何も整えることが出来ない。

今日話すことが出来なかったらパニックになるところだった。

「よっし」と週末の内に準備をしてくれるそうだ。

こればかりは疎かにすることは出来ない。

母が無事に帰って来られるように導いてやらねばと思う。



事務仕事は一段落しており3時前に退社する。

義父は夕方にかけて稲の消毒をするそうで準備をしていた。

田植えでお世話になった友人達がコロナで総倒れとのこと。

義父だけは幸いにも逃れられたが「なんか俺もしんどい」と言う。

検査キットで調べることは可能だがそれよりも稲の消毒であった。

熱も測らないと言ってコロナどころではない様子である。

全国的に感染者が増えており11派到来だと言われている。

ノーマスクの人が殆どで危機感の薄れを実感するこの頃であった。



帰宅したら「寺山修司全歌集」が届いていた。

ゆっくりと読む時間はなくぱらぱらとページを捲っただけだが

ぐんぐんと惹き込まれるような胸の震えを感じた。

まるで天から救いの手が伸びて来たようである。

俵万智も岡本真帆も「下がれ頭が高い」と叫びたくなった。


すでに胸を打たれる準備は出来ている。

思う存分に私を打って頂きたい。


きっと涙が溢れ出ることだろう。

短歌も詩もそうでなくてはいけない。



2024年07月16日(火) メダカの一生

曇りの予報だったが思いがけずに陽射しがあった。

気温も久しぶりに30℃を超え真夏日となる。

猛暑を体験したせいかさほど暑さを感じない。

むしろ空に両手を広げ陽射しを受け止めたいほどだった。


すっかり忘れていた夏の花がある。

それはお大師堂の片隅に毎年咲いていたのだが

お参りを疎かにするようになって失念してしまっていた。

大きな花なので人影のように見え白装束のお遍路さんと重なる。

いつも草刈りをしてくれているSさんに切り倒されたことがあって

抗議をする私に「毎年咲くやないか」と反論されたことがある。

おまけにSさんは「この花は好かん」と言ったのだった。


今年は無事だろうか。気になってしょうがないが見に行けない。

いや行けないのではなく行かないのだ。

これも私の大きな怠慢のひとつになってしまった。

だからなのかまるで夢のような花になり心から離れようとしない。

「浜木綿の人影に似て振り向けば大河のほとり行く夏遍路」




連休明けの仕事は怒涛の忙しさだった。

午前中は特に来客が多く対応に追われる。

バイクの一日車検が入っており出掛けていた義父を呼び戻した。

早朝から畔の草刈りをしていたらしくいささかご機嫌斜めである。

けれどもお客さんには愛想よく振舞ってくれなんとほっとしたことか。

バイクはハーレーなので同僚も義父も乗ることが出来ない。

お客さん自ら検査場へ運んでくれて何とか車検を完了する。

書類を作成している間も来客が絶えなかった。


お昼前にやっと一段落して義父は逃げるように田んぼに走る。

「お昼ご飯は?」と訊けば「食べよる暇があるもんか」と

とにかく気が狂ったように見えた。とても80歳には見えない。


午後2時前だった。義父から電話があり空腹で倒れそうだと言う。

一旦帰って来ると云うので大急ぎでお弁当を買いに行く。

売れ残りであったが鶏肉の入っていないのがあって良かった。

冷房の効いた事務所でお弁当を掻き込むとまた直ぐに出掛けて行く。

パワフルには見えたがどれ程身体に堪えていることだろう。

決して弱音を吐かない義父だけに心配でならなかった。



工場は忙しかったが同僚に労いの声を掛け2時半に退社する。

少しでも早く帰って横になりたくてたまらなかった。

いくら火曜日からのスタートでも気負い過ぎてはいけない。

程々に肩の力を抜き週末まで乗り切らなければと思う。



SNSに例の同人誌の主催者の方からメールが届いていた。

とても丁寧な文面で恐れ入る。きっと誠実な方なのだろう。

その人柄を感じるだけに返信にも心を込めなくてはいけない。

遠回りではあったが今は参加する意思のないことを伝えた。

どうして本音が言えようか。私にもそれ位の常識はある。

しばらくは読者側として仲間入りさせて貰うことにしたが

おそらくもう購入することはないだろう。

本当に申し訳ないがそれが私の本音であった。

まるで「メダカの水槽」なのだ。私のプライドが許さなかった。


いったい何様なのだと罵られても私はメダカにはなれない。

もしなれたとしても水槽ではなく自然の川を泳ぎたいと思う。

群れから離れて独り自由気ままに泳いでいたいのだった。


そうそう永くは生きられないだろう。

誰にも守られてはいないのだ。

そんなメダカの一生を書き残して置きたいと願って止まない。



2024年07月15日(月) それぞれの夏

雨の予報だったが降らないまま日が暮れようとしている。

湿度がとても高く今日も不快な蒸し暑さであった。


「海の日」で祝日。昔はカメラを携え海へ行っていたが

20年の歳月はそんな行動力をそぎ落としてしまったようだ。

せめてもと昔撮った海の写真を眺めながら感慨に浸っていた。

おそらくもう砂浜を歩くこともないだろう。

「海」はおんなである。どうしようもなくおんなだと思う。


19歳の夏だったか死ぬ気で夜の海へ入ったことがある。

私は泳げないのだ。だから簡単に死ねると思っていた。

遠浅の海であった。やっと胸まで浸かったところで

叫び声が聞こえ私はしっかりと抱きかかえられていた。

「速水」という名の人だった。「死んでたまるか」とその人は言ったのだ。




今朝は昨日植えた花たちをうっとりと眺めながら心が癒される。

つい欲が出てしまいまた花苗を買って来ようかとも思う。

夫に叱られてしまうだろう。娘にも迷惑を掛けるだろう。

出来ていたことが出来なくなるのはとても切ないものだ。


朝のうちに買い物に行ったきり後は殆ど寝て過ごす。

ふとこんなスローライフも良いものだと思った。

仕事は好きだがなんと時間に追われていることか。

時間を気にせずのらりくらりと暮らせたらどんなに楽だろうか。

「退屈」は辛いものだが好きなように過ごすことが出来る。

そこまで考えたところで現実に引き戻されてしまうのだった。


パート収入であるがそれで我が家の生活費を賄っている。

その収入が途絶えれば僅かな年金だけが頼りになるだろう。

とてもやっていけるはずはない。現実はとても厳しいのだ。

だからゴールが見えない。生きて在る限りの仕事のように思う。


海苔養殖の収入が途絶えもう三年が経った。

すでに廃業状態で今後の望みは皆無に等しい。

もし再開できることが出来ても夫一人ではとても無理だろう。

自然相手の仕事はそうそう容易いことではなかった。


思い起こせば40年以上もの家業であったが

若かった私達の歴史の一部になろうとしている。

やったらやっただけの事があったのだ。

どれほど励み苦労を重ねて来たことだろうか。

「もうえいよね」と夫と頷き合うことが多くなったこの頃である。





「こころを打たれたい」と昨夜ここに記したが

今日は例の山上秋恵さんが心に沁みるような俳句を発信していた。

素晴らしい感性の持ち主だと思う。才能が溢れ出ている。


短歌を詩をどうして遠ざけてしまったのか残念でならないが

山上さんなりに思い悩み考え着いた結果なのだろう。

私はとても見守るような立場ではないが

心惹かれることで少しでも寄り添えたらと願って止まない。


それぞれの夏である。私も夏を精一杯に生きている。



2024年07月14日(日) 心を打たれたい

雨が降りそうで降らず。今日も不快な蒸し暑さだった。

九州北部では大雨とのこと。特に長崎の五島が酷かったようだ。

今後も線状降水帯が発生する恐れがあるらしく油断は出来ない。

なんだか空が怒り狂っているように感じる。

雨雲さえなければ穏やかな空なのに思うようにはいかないものだ。



午後お昼寝から目覚めてからふと思いつき花苗を買いに行く。

やっと気が向いたのだろう。下ばかり向いていては何も出来ない。

すぐ近くに「彩り市場」と云う地場産品のお店がある。

花苗は市内の障害者施設で育てており直に持ち込まれているようだ。

ホームセンターより苗の質が良く格安なのがとても有難い。


「夏すみれ」と「花すべり」の苗を三株ずつ買い360円の安さである。

苗を段ボールに入れたもののレジまで持って行けなかった。

店員さんに助けてもらい支払い後も車まで運んでもらう。

何としても植えなくてはと思う。やればきっと出来るだろう。


帰宅してまずは枯れた花の処分である。

既に枯れ草のようになっており片手で簡単に引き抜くことが出来た。

スコップで土を均し後は植えるだけであったが

どうにも思うように行かず娘に声を掛け助けてもらう。

夫が家の中から「自分で出来んのに買って来るな」と言う。

出来ると思ったのだ。そんな小言は聞かなかったことにしたい。


植え終わると娘が水遣りをしてくれて何とか整う。

夏の間きっと可愛らしく咲いてくれることだろう。

後は水遣りを怠らないことだと肝に銘じる。





今日は娘婿の出身である「下田地区」の夏祭りだったようだ。

夕方から「提灯台」が地区を練り歩くのだそうで

娘婿も参加しており娘とめいちゃんが楽しみに見に行った。

あやちゃんは行きたがらずまだ夕飯も食べてはいない。

「直ぐに帰るけん」と娘は言ったがそろそろ日が暮れそうだ。

提灯台は見始めたら夢中になってしまい辺りが暗くなるほど見応えがある。

威勢の良い掛け声。鮮やかな提灯の明かりが目に見えるようだった。


私もお祭りが好きだったが今ではすっかり無縁となってしまった。

それは子供の頃の思い出として記憶の片隅に埋もれて行く。

老いだけのせいではない。不自由な足ではどうしようもなかった。




今日も短歌を書くことは出来たが「いまいち」であった。

SNSでは短歌を発信している人も多いが

「これはいい」と思える短歌にはめったに出会えない。

一人を除いて。その人の短歌には「こころ」がある。

決して頭では書いていないのだ。だから惹かれずにはいられなかった。


俵万智の最新歌集「アボガドの種」を読んだが期待外れだった。

もう昔のような感性は何処にも見当たらない。

知名度だけで書いているのだろう。名があってこその短歌に思えた。


四万十市出身の岡本真帆の第二詩集も読んだが

若者だけあって31文字の言葉遊びのように感じた。

感性はあるのだがこれも「こころ」に乏しい。

地元でも脚光を浴びており一躍有名人になったが

「歌人」と認められて少し天狗のようになっているように思う。

おそらく俵万智と同じ道を辿ることになるだろう。


で次はどうするであったが今日は寺山修司の歌集をネットで購入した。

私にとっては藁にも縋る思いである。

心を打たれたい。「こころ」を感じたいその一心であった。

読めばきっと胸に熱いものが込み上げて来るだろう。


私は飢えている。私は彷徨っている。私は孤独である。




2024年07月13日(土) 老いては子に従え

朝方少しだけ雨が降ったが日中は曇り空。

気温はそう高くないのに不快な蒸し暑さであった。

エアコンのお世話になりながらなんと有難いことだろうと思う。

週間天気予報を見ていたら来週の中頃には梅雨明けとなりそうだ。


松山の土砂崩れ現場から3人の遺体が発見されたとのこと。

行方不明になった時点から生存は絶望的であったが

一瞬のうちに土砂に巻き込まれどんなにか苦しかったことだろう。

なんとも痛ましいことで胸が苦しくてならない。

二度とあってはならないことだが自然の猛威の容赦ないこと。

とても運命の一言で済まされることではなかった。

ただただ亡くなられた方達の冥福を祈ることしか出来ない。




三連休を頂いたがほぼ一日中寝て過ごす。

週末はいつものことだが自分でも呆れるほどだった。

横になってしまうとすぐに寝てしまいなんとだらしないこと。


玄関先の花たちが全て枯れてしまった。

猛暑が続いていた時に水遣りを怠ってしまったせいだろう。

今更悔やんでも仕方がないが可哀想なことをしてしまった。

新しく花苗を植えることも考えたがやる気が出ない。

そうかと云ってそのままにして置くことも気が引ける。

今まで花を絶やしたことなどなかったので余計にそう思う。

「気が向いたら」なんと無責任な言葉だろう。

積極的に気を向けようとしないのだ。怠慢としか言いようがない。

他にも疎かにしていることが沢山ありもう手の付けようがなかった。



あやちゃんの足は腫れが引き何とか歩けるようになったようだ。

部屋から出るのはトイレに行く時だけで早朝に会ったきりだが

娘も何も言わないのでもう病院の必要はないのだろう。

大事に至らなくて何よりだった。明日は今日よりも楽になっているはず。

とにかく干渉されるのを嫌がる。静かにそっと見守るしかない。

何かある度に思うのだが娘達との間に大きな壁がある。

同じ一つの家に暮らしながら家族ではないような気がするのだった。

夫は「もう我が家は乗っ取られている」とよく口にするのだが

まるで私と夫は居候のような暮しを強いられているようだ。

老いては子に従えと云うがもう夫は大黒柱ではないのだろう。

同居を始めてもう直ぐ10年になろうとしている。

「いつまでもここにはいないから」と言った娘の言葉が遠ざかる。



悶々としていた気持ちが和らぎまた創作意欲が湧いて来た。

詩も短歌も今のところ限界を感じていない。

私はわたしを認めながら精一杯の「いのち」を表現したいと思っている。

どれほど踏みにじられても嘆きはしない。

私は私の「いのち」を守り続けて見せよう。





2024年07月12日(金) ダメージの歌

明け方まで雨が降っていたが次第に止み

日中は薄く陽が射す曇り空となった。

大雨注意報が出ていた松山市では城山が崩れ土砂が住宅街を襲う。

未明の事で就寝中の人が多く3人の方が行方不明になっている。

捜索中にもまた土砂崩れがあり救助もままならないようだ。

なんとも気の毒でならずただただ心を痛めるばかりであった。

強い雨雲は北上し各地に被害をもたらしたようだ。

自然災害はどうすることも出来ず想定外のことが起こるものである。

もうこれ以上の災害がないことをひたすら祈るしかない。



仕事はそこそこの忙しさだった。

出社するとトイレの水漏れが直っておりなんとほっとしたことか。

昨日のうちに義父が直してくれたようだった。

雨が止んでいたので畔の草刈りに行く予定だったらしいが

2時間程待機してくれてエアコンが効かないお客さんに対応してくれた。

そのお客さんは私と同じように足が悪く杖を付いている。

「車もいかんがわしももういかん」と弱音を吐くので

「一緒に頑張ろうよ」と励ましたら笑顔を見せてくれた。

皆それぞれに身体の不具合を抱えているけれど

弱気になってはいけないのだと思う。もちろん私もだ。

仕事中はなるべく杖に頼らないように心掛けている。

まともには歩けないがそれもリハビリになっているのだろう。

郵便局のゆみちゃんが「おねえ偉いやんか」と褒めてくれた。




内科の薬が切れそうなので2時に退社し病院へ向かった。

処方箋だけのつもりであったが主治医のO先生が在勤とのこと。

受付の職員さんが「会って行けば」と診察を勧めてくれる。

そうして思いがけずにO先生に会うことが出来た。

心療内科の専門医でもあるので顔を見ただけでとてもほっとする。

血圧も正常。煙草は止めなくても良いので減らしましょうと。

とにかくストレスを感じない生活が一番のようだ。

昨日のショックがまだ尾を引いていただけに気分がとても楽になった。

私は踏みにじられたのかもしれないがもう嘆きはしない。

向かい風に立ち向かって行こうと改めて思う。




帰宅したら夫が「あやが大変だ」と云うので驚く。

どうやら捻挫をしたらしく左足が酷く腫れているのだった。

病院へ連れて行こうとしたが嫌がるので様子を見ていたらしい。

骨折なら激しく痛むだろう。幸いさほどの痛みはないようだった。

娘が帰宅したが明日まで様子を見ることになった。

腫れさえ引いたらきっと大丈夫だろう。


いつものように夫と先に夕飯を済ませたのだが

娘夫婦が晩酌を始めテーブルには孫達の姿がなかった。

余計な事と分かってはいたが娘に訊ねるとなんともそっけない。

家族4人揃ってと思うのはやはりお節介だったようだ。

そんな「カタチ」もあって良しなのだろう。



今週はダメージが大きかったのかあまり元気ではない。

明日から三連休なのでゆっくりと回復したいと思っている。


私はわたしを否定できず在りのままを受け入れたい。

どんな私であっても「わたし」なのに違いない。

見栄やプライドは時には妨げにもなり得るけれど

信じてやらなければ決して前へは進めないだろう。



2024年07月11日(木) ただ生きるため

ぽつぽつと雨が降ったり止んだり。

幸い大雨にはならかったが山陰地方では豪雨になったようだ。

水害もあったようで心を痛めている。とても他人事ではなかった。

高知県もしばらく雨の日が続きそうだが一日も早い梅雨明けを願っている。



仕事は今日も小休止状態だった。

義父はお葬式へ。友人のお父様が亡くなったのだそうだ。

お昼過ぎには帰って来たが2階の居室から一切下りて来なかった。 

たまには骨休みも良いだろうと思う。雨の日にしか休めないのだ。


事務所の軽水洗トイレの水道が水漏れをしており大変なことに。

床は水浸しになっておりその水が便槽へと流れ込んでいた。

義父に助けを求めたが「バケツでも据えて置け」である。

水道修理の技術があるのに直す気はないようであった。

とにかくやる気になるまで待つしかない。明日だろうか明後日だろうか。

なんだか気疲れしてしまって仕事も手に付かなかった。


リハビリのある日だったので2時半に退社する。

週一の癒しの時間である。足だけではなく心も解された気がした。

今日は特に心に沁みる。気分が酷く落ち込んでいたのだろう。




午前中に参加している同人誌の主催者であるD氏に電話したのだった。

次号から詩の掲載を認めてもらおうと思っていたのだが

3年の歳月は自分が思っていたよりも短かかったようだ。

3年前と同じことを言われる。私の詩は「詩になっていない」と。

D氏は高知新聞詩壇の選者もしていて何度か投稿したのだが

「ダメ駄目、あんなんじゃ詩とは言えない」とはっきり言われた。

おまけに私の詩は「愚痴みたいなもんだ」と言うではないか。

それにはさすがに反論せずにはいられなかった。

「私は愚痴なんか書いていません」ときっぱりと告げる。

D氏曰く「今のままじゃいつまで経っても同じことぜ」と。

私は変わらなければいけないのだろうか。

どうすれば変わることが出来るのだろう。

頭ではなく心で書いているつもりであった。

その「こころ」を変えることなどどうして出来ようか。


私は変われないと思った。私以外の誰になれと云うのだろう。

悲しくてならなかったが結局D氏の言いなりになるしかない。

「短歌16首ね」「はい、分かりました」と電話を切った。


結論から云うと一生かかってもD氏に認められることはないと思う。

私がD氏の詩を好きでないようにD氏も私の詩を好きになれない。

相性が悪いと云ってしまえばそれまでだが

まさか再び三下り半を押されるとは思ってもいなかった。


私は私の詩が好きだがそれはきっと思い上がりなのだろう。

悪く云えば自己満足であり自己陶酔に他ならない。

それでも書かずにはいられないのはただ生きるためである。

やはり私は花にはなれずに種を蒔き続けなければいけない。


母が死んでも涙一つ流さなかったのに今日は少しだけ泣いた。







2024年07月10日(水) 種あってこその花

曇り日。午後少しだけにわか雨が降る。

久しぶりの雨であったがほんのつかの間のことだった。

気温は30℃程、猛暑は和らいだがとにかく蒸し暑い。


義父は高知市へ出張。また整備振興会の理事会であった。

ネクタイを締めてスーツ姿になるともう農作業どころではない。

役職に就いているので理事会には必ず出席しなければいけないのだ。


工場は車検整備の仕事があったが同僚はえらくのんびりとしていた。

喫煙所で煙草を吸いながらスマホを操作していたので

注意をしたら「たまにはええろう」と口ごたえをする。

「社長元気で留守が良い」なのは私も同じであった。

とにかく肩の力を抜こうと私ものらりくらりと仕事を始める。

農作業の時は突然に帰って来ることがあるが

今日は夜まで帰って来ないことが分っている。


郵便局へ行ったりJAへ行ったりしたが後は手持無沙汰だった。

貧乏性のせいか暇なのが苦痛でならない。困った性分である。

同僚に相談して今日も2時過ぎにさっさと退社した。


サニーマートでゆっくりと買い物が出来たが半額品は一切ない。

やはり早過ぎたのだろう。もう後の祭りであった。

帰宅して洗濯物を畳み終えてから夫と「八丁堀の七人」を見る。

盗賊が12歳位の丁稚の少年を切り殺してしまった。

いくら時代劇とは云えあんまりではないかと怒りが込み上げて来る。

血を流さないドラマだと思っていたのでとてもショックだった。

盗賊は全員お縄になり一件落着となったが死んだ少年は還らない。





例の同人誌への参加を断ることに決めたが

今のところメールも届かないのでそっとして置くことにする。

狡い性分なのだろう言い訳ばかり考えているのだった。

このままこの話は無かったことになればどれほど助かるだろう。


ふと思いついたのは短歌を掲載してもらっている同人誌のこと。

私の詩は「詩ではない」と三下り半を押されてからもう3年が経った。

悔しさをバネには出来なかったかもしれないが

私は私なりに成長できたのではないだろうかと思う。

今月末が締め切りなので一度相談してみようと思い始めている。

駄目で元々なのだ。一生駄目でも私は嘆きもしないだろう。


私は花にはなれないけれど毎日種を蒔き続けている。

雨が降れば恵みの雨と天を仰ぎ猛暑の陽も受け止めて来た。


花でもないくせにとは決して言わせない。

種あってこその花ではないだろうか。



2024年07月09日(火) 一匹狼

雲が多かったが概ね晴れ。最高気温が34℃で猛暑日にはならず。

お天気は明日から下り坂でまた梅雨空が戻って来そうだ。

いよいよ梅雨の末期だろう。どうか程々の雨であって欲しい。

今日は日本海側の島根県でかなりの豪雨が降ったようだ。


昨夜は爆睡。おかげで昨日の「ぐるぐる」は治まっていた。

前途を悲観していたがなるようになるだろうと思う。

幸いと言って良いのか仕事も小休止状態だった。

オイル交換のお客さんが2人だけで同僚も楽そうである。


義父は今日も畔の草刈りで相変わらずの忙しさであった。

精米に行けなかったようでお昼のお弁当を頼まれる。

鶏肉が嫌いなので入っていないのを探すのが大変だった。

鯵フライや塩サバ等の入ったのがありそれを買って帰る。


12時半に帰って来て事務所でお弁当を平らげると

ろくに休みもせずにまた出掛けて行った。

食欲は旺盛なのが何よりである。とにかく体力勝負なのだ。


午後は来客無しで気が抜けたように過ごしていたが

ふと思い立ち髪を切りたくてたまらなくなった。

同僚に相談し2時過ぎに逃げるように退社する。


美容院はサニーマートの店内にありとても便利である。

ちょうど空いていて直ぐにカットしてもらえた。

真夏だからと思い切って短くする。なんと耳出しカットだった。

これは初めての試みであるがなんとさっぱりと心地よい。

自分ではとても気に入り嬉しくてならなかったのだが

帰宅するなり夫が「なんだその頭は」と笑い転げるのだった。

まあそのうち慣れてくれるだろうと気にしない気にしない。




アマゾンで注文していた例の同人誌が届いていた。

とにかく読んでから決めようと思っていただけに少し緊張する。

しかし第一印象はお値段以下であった。内容はと云うとこれも

正直云って期待外れとしか言いようがない。

その時点で仲間にはなれないと即決したのだった。

親切に誘ってくれた方には本当に申し訳ないが

本音を云うわけにもいかずどうしたものかと頭を悩ませている。

いかに角を立てずに断るかなのだ。さあ困った困った。


やはり私は一匹狼的な人間なのだろう。

それは今までもずっと感じて来たことだが

群れることがとても苦手であった。

だからいつも孤立しているし孤独でもあるのだろう。


崖っぷちに立ち遠吠えのように詩を書き続けるだけである。



2024年07月08日(月) ぐるぐるぐる

快晴の夏空。幸い猛暑はほんの少し和らぐ。

人間の身体とは不思議なもので一度でも猛暑を経験すると

35℃の気温が随分と過ごし易く感じるようだ。

今日は風もあり昨日よりもずっと楽であった。


職場の荒れた庭に母が遺した百日紅の花が咲き始めている。

鉢植えなので小さな木だが薄紅色の花のなんと鮮やかなことだろう。

辺りには夏草が生い茂っており花には気の毒であるが

手入れなどすることも出来ず母にも申し訳なく思う。


百日咲くと云う夏の花である。

昨年母が亡くなった時も鮮やかに咲いていたことを思い出す。

生前の母が愛でていたことを思うとなんとも切ないものだった。




スイッチオンと仕事に行く。する仕事のあるのは有難いことである。

職場に着くなり来客があり同僚と対応に追われていた。

エアコンが効かないのだ。しかし肝心の義父の姿が見当たらない。

電話を掛けてもなしのつぶてで諦めるしかなかった。

お客さんはまた出直してくると言ってくれたがなんと申し訳ないこと。

先週も同じことがあったばかりで度重なると信用もなくなるだろう。

そこをいかにカバーするかである。お客様は神様であった。


お昼にやっと帰って来てくれたが早朝から畔の草刈りをしていたらしい。

空腹で倒れそうだと云うので急いでお弁当を買いに走る。

いつもならご飯を炊いているのだがお米を切らしてしまったようだ。

もちろん玄米はあるが精米に行く時間がないとぼやいていた。

とにかく忙しいのだ。それは言われなくても知り尽くしている。


午後もひっきりなしの来客。またエアコンが効かないお客さんだった。

義父が居てくれたので大助かりである。ガス不足だったようだ。

それから事故車を引き取りに行ってくれた。

なんと新車納車からまだ5日目のお客さんである。

86歳の高齢者なので心配していた通りになった。

自損事故で相手がいなかったのが幸いと思いたい。


ぐるぐるぐると歯車が回っているような忙しさである。

お昼休みもなかったので短歌どころではなかったが

何を拘っているのか「休む」ことだけはしたくなかった。

2首はなんとか書けたが3首目が思うように書けない。

退社寸前になってやっと3首目を書き終えることが出来た。


決して暇をもて余しているわけではないのだ。

時間の余裕の全くないところから生まれる短歌は如何なものだろう。

まるで崖っぷちで叫んでいるようなものである。


3時半に退社。帰宅すれば洗濯物の山である。

もう5時近くなっていたが10分だけSNSをチェックしていた。

何とも知れない短歌に少しでも反応があると嬉しいものだ。


仏壇に供えていたコーヒーを持って階下に下りたが

うっかりしてカップを落としてしまった。

なんとそれがめいちゃんのプール袋の中であった。

もう泣きそうである。早く後始末をしなければと焦りまくっていた。

床に座り込めば今度は立ち上がることが出来ない。

夫に抱きかかえてもらってやっと立ち上がることが出来た。


もうとっくに5時を過ぎていたが洗濯物を畳む。

メンタルがどんどん落ちて行く。情けないったらありゃしない。

大きな溜息をつきながら前途を悲観するばかりであった。



2024年07月07日(日) 私の居場所

七夕の日に晴れるのは珍しいのではないだろうか。

かつては梅雨の最中で雨の日が多かったように思う。

若い頃のように浪漫を追い求めることもなくなり

ああ七夕なのかと漠然と思う。随分と醒めてしまったものだ。


連日の猛暑日。今日は昨日程ではなかったが暑いものは暑い。

静岡では40℃と危険な暑さだったようだ。

体育館でバスケの試合中だった中学生が3人も救急搬送されたらしい。

とても他人事には思えず明日は我が身のように思う。

十分に注意していても熱中症になり得る。特に高齢者にはリスクが大きい。




今朝は夫が「もう冷やし中華が始まっちょるろう」と

すっかり意気投合しお昼に「一風」へ行くことになった。

夢にまで見た冷やし中華である。わくわくと楽しみでならない。

特に一風の冷やし中華は具沢山でとても美味しいのだ。


10時40分に家を出る。11時の開店と同時に入店した。

同級生のなっちゃんが働いており会話が弾む。

「お待たせしました」と運ばれて来た冷やし中華を見て

一瞬おや?と違和感を感じた。昨年までとは具材が変わっているのだ。

焼豚やイカ、海老などの代わりにハム、胡瓜、メンマが載せてある。

悪く言えばごく普通の冷やし中華であった。

けれどもどうして文句が言えよう。味は変わらず絶品である。

おそらく物価高騰のあおりを受けて具材を変えてしまったのだろう。

値上げをせずに提供するには仕方ないことなのだと思う。

改めて飲食業の苦労を思う。いかに満足してもらうかが要であった。

支払いをしながらなっちゃんに「また来るけんね」と告げて帰る。




帰宅するなりまた例の如くで長いお昼寝となる。

3時半には目を覚まししばし二階の自室にこもり短歌を捻る。

それしても暑いこと。部屋の温度は35℃を超えていた。

一時の事と思いエアコンを我慢していたので汗だくになってしまう。

そんな環境でどうして納得のいく歌が詠めるだろうか。

三首ともろくなものでなくなんだかむしゃくしゃとしてくる。

暑さのせいにしている自分に少し腹が立った。


今日は例の同人誌の主催者の方から通知が届いており

とにかく一度読んでみなければ何も決められないことを伝えた。

もしやと思いアマゾンで検索したら在庫があり即購入する。

参加者の方々の詩を読めば少しは心が動くかもしれない。

しかし未だに戸惑っておりなんだか不安でならなかった。


私には居場所がないのかと自問自答する。

ネットの世界を彷徨い続けている塵のようなものなのかもしれない。

塵も積もれば山となるが、その山を見ずに最期を迎えることもある。


いったい私は何処に向かっているのだろう。

平原が続くばかりで一向に山は見えなかった。



2024年07月06日(土) 一縷の望み

二十四節気の「小暑」梅雨が明け本格的な夏になる時候であるが

梅雨が明けないまま連日の猛暑に見舞われている。

これが「大暑」になればいったいどれ程の暑さになるのだろう。


今日も高知県内は全国のトップクラスの気温となる。

本山町、四万十市、黒潮町佐賀などがランクインしていた。

人の体温だと微熱程だが猛暑には違いなかった。


午前9時にはもう30℃である。買い物に行っただけで汗だくになる。

その後カーブスへ行っていたが少し動いただけで滝の汗であった。

その汗が不快には感じずなんと心地よかったことだろう。

これだけは続けなければと思う。とにかく体力を維持しなければいけない。



昼食にざる蕎麦を食べてから倒れ込むようにして寝ていた。

エアコンのなんと有難いこと。まるで天国のようである。

途中で何度か目を覚ましたが結局4時までの長い昼寝だった。

洗濯物を取り入れなければと思いつつぐずぐずしていたら

娘が見兼ねたのだろう。いつの間にか畳んでくれており助かる。


娘の病院勤めも早いものでもうひと月が経った。

慣れて来たのだろう。少しずつ家事も出来るようになったようだ。

夕食も手伝ってくれるので助かりまるで夢のようである。

今夜は久しぶりに「ささ身カツ」を作った。

揚げ物はずっとお惣菜ばかりだったのでとても美味しい。

週末限定となるが食の大切さを改めて感じる。





今朝もSNSの通知を見て驚ろく。

昨日の方から長いコメントが届いており戸惑うばかりであった。

第一印象の軽々しさはもうなくとても丁寧に綴られてある。

昨夜ここに記したことを撤回しなければいけないだろう。


内容はその方が参加している同人誌への参加を促すものであった。

見たことも聞いたこともない詩誌で大いに戸惑う。

「まあ嬉しい是非に」とどうして即答できるだろうか。

とにかくその詩誌を一度読んでみなければ何も分からないのだ。


SNSで発信続けてもその場限りのことだと云う。

活字にして残してこそ詩は生き続けると書いてあった。

確かにその通りである。ある意味私は愚かなことをしているのだろう。

しかしその場限りであっても誰かの心に残るのではないか。

そんな夢まぼろしのようなことを考えずにいられなかった。

いわば一縷の望みである。消え去ることだけに囚われてはいけない。

それが私のスタイルであり信念のようなものだと思う。


長年参加している同人誌ではもう詩の掲載は許されなかった。

私の書いているものは「詩ではない」とはっきり言われたのだ。

それだけレベルの高い詩誌だったのだろうと今は思っている。

プライドは傷つきとても悔しかったが本当のことなのに違いない。

現実を受けとめ負けを認めてこそ私は立ちあがることが出来る。

今もって詩ではないものを書き続けているのかもしれないが

「こころ」であり「いのち」であることには変わりないと信じている。


日陰の身も良いものだ。大樹の下でささやかに咲く花にも名はあり

「まあこんなところに」と見つけてくれる人もきっといるだろう。





2024年07月05日(金) 素敵は嫌い

梅雨明けを思わすような猛暑日が続いている。

午前8時にはもう30℃になっており驚くばかり。

日中は体温より高い気温となり身の危険を感じる程だ。

幸い山里では平野部より気温が低く助かっている。

熱風ではあったが風の強い一日となった。

予報では梅雨明けからまた一段と暑くなるそうだ。

夏は決して苦手ではないが暑さが身に堪える年頃になった。



仕事は開店休業。同僚が通院のため有給休暇を取っていた。

いつまでも若くはない。内科、整形外科、眼科と通院も多くなる。

同僚に倒れられたら会社はもう終ったようなものだ。


午前中は義父が待機してくれていたが急な来客はなかった。

また稲の消毒に行くと云うので暑さを気遣っていたら

本人も休む気になっていたのだが直ぐに思い直したようだった。

「やっぱり行かんといかん」と準備を始める。

そうなればもう止めても無駄であった。

このままでは雨でも降らない限り休むことはないだろう。



事務仕事は捗り予定通りに税理士事務所へ向かう。

驚いたのは気温である。四万十市に入ると38℃になっていた。

車の温度計なので正確ではないかもしれないが

山里より4℃も高く風も殆ど吹いてはいなかった。

長年お世話になっている職員さんに帳簿を手渡すと肩の荷が下りる。

これでまた週末は気兼ねなく寛ぐことが出来るだろう。





買い物を終え4時過ぎに帰宅。汗だくになり洗濯物を畳み終える。

それからSNSをチェックしていたら驚くような通知があった。

初対面の人であったが私の今朝の詩がいたく気に入ったようである。

私が最も嫌う「素敵」と表現してあり一瞬身構えてしまった。

べた褒めであったが少しも嬉しさを感じない。

その上に初対面だと云うのになんと軽々しい口調だろう。

過剰評価としか思えずなんだかとても不愉快になってしまった。

ずっと以前から私をフォローしてくれていたようだが

その人のホームを見ても何ひとつ共感するポストが無かった。

そんな場合はよくあることでフォロー返しはしないことにしている。


ある程度年齢を重ね礼儀をわきまえている人なら

むやみやたらに声を掛けて来ることは無いと思っている。

それが顔の見えない世界の掟のようなものではないだろうか。


褒められて不愉快になる私も偏屈で変わり者であるが

なんだか馬鹿にされたような気がしてならなかった。

とにかく今後一切「素敵」とは言って欲しくはない。


私は決して素敵な詩など書いてはいないのだ。

頭ではなく心で書いている。その心がどうして素敵なのだろう。




2024年07月04日(木) なるようにしかならない

雲一つない青空。今日も各地で猛暑日になったようだ。

静岡では39℃を超えたそうで危険な暑さである。

四万十市は36℃。今日は江川崎より気温が高かったようで驚く。


昨日はロージーのご主人が熱中症で救急搬送されたそうだ。

「ビョーキシタ」「テンテキシタ」と今朝話してくれる。

熱中症は日本だけとは限らないと思うがどんなにか焦ったことだろう。

今朝はもう落ち着いて居ると聞きほっとしたことだった。


心配なのは義父である。今日も午後から稲の消毒に行く。

暑さが身に堪えているはずだが決して弱音を吐かなかった。

それはそれで頼もしくもあるが倒れはしないとどうして言えるだろう。

引き止めることも出来ずはらはらとするばかりであった。


午前中にまたエアコンが効かないお客さんが2人来店する。

義父が待機してくれていたので大助かりだった。

一人はコンプレーサーの故障。もう一人はガス不足である。

原因が直ぐに分かるので対応も早い。さすが義父であった。


事務仕事は元帳が完成し明日は税理士事務所へ行けそうである。

今年はもう30期となり歳月の流れを感慨深く感じる。

今は経理ソフトがあり便利になったが昔は全部手書きだった。

経理のケの字も知らなかった私に一から教えてくれたのは母である。

母は誰にも教えてもらわず独学で学んだようだった。

整備士の資格も持っており今更ながら頭が下がる。


会社は30期だが義父が整備工場を始めてから今年で60年になる。

20代の頃の義父を知っているだけにこれも感慨深いことだった。

小学生だった私にとっては優しいお兄ちゃんで大好きだった。

両親が買ってくれなかったリカちゃん人形も買ってくれたのだ。

よほど縁深かったのだろう。母の恋を知る由もないが

実の父は気づいていたらしくその苦悩を思うと心が痛む。


今思えば運命は「なるようにしかならない」ものなのだ。

どれほど引き裂かれても母は自分の想いを貫いたのだと思う。

けれどもそれは母の運命だけではなかった。

実の父はもちろんのこと私や弟の運命さえも変えてしまったのだ。


もう過ぎ去った事とさらりと水に流せない。

母が死んだ時に私は母を赦し切っていないことに気づいた。

それは今も変わらず心に巣くい続けている灰汁のようなものである。


死んだら母に会えるのだろうか。

私は笑顔で逝かなければならない。



2024年07月03日(水) 紫陽花尽く

梅雨明けを思わすような晴天。久しぶりにおひさまを見た。

気温はぐんぐんと上がり暑さで有名な江川崎では37.1℃を記録する。

夕方のニュースを見るまで知らなかったが日本一の気温だったそうだ。


山里は平野部より気温は低く凌ぎやすいように思うが

標高が高い分太陽に近いのかもしれない。

陽射しが降り注ぐなか紫陽花はそろそろ尽きようとしている。

やがて枯れ果て化石のようになってしまうのだろう。

もう愛でる人もなくなんとも憐れな姿であった。



炎天下の中、義父は午後から稲の消毒に出掛ける。

その留守中にエアコンが効かなくなったお客さんが来てくれたが

同僚では手に負えずまた出直して来てもらうことにした。

予約なしの突然の来店には戸惑うことが多い。

直ぐに対応出来ないことも心苦しくてならなかった。

義父さえ待機してくれていたらと思うが所詮無理な話だろう。


事務仕事は決算の準備がほぼ整い後は元帳の作成のみとなった。

今週中には完了し税理士事務所へ届けたいものだ。

毎年の事だが年々頭が回らなくなっているように思う。

記帳漏れやミスが多く手直しに時間を取られてしまうのだ。


帰り道に車検証を届けなけれないけないお客さんがあり

3時前に退社。久しぶりに国道を通った。

自動車専用道路が出来てから国道の交通量の少ないこと。

道路沿いの商店も閑散としておりなんだか寂しく思う。


お客さんは在宅しておりしばらく語り合ってから帰路に着く。

国道沿いの「ちきん館」で「まるっぽ鶏」を買った。

ちきん館にはお刺身も売っているのだが今日はもう売り切れていて残念。

まるっぽ鶏は家族皆の好物なのできっと喜んでくれるだろう。


4時に帰宅。洗濯物を畳んでから少し茶の間で横になっていた。

夫が「八丁堀の七人」を見ていたので一緒に見る。

随分と古い時代劇のようだがけっこう面白かった。

驚いたのは元フォーリーブスのおりも政夫が同心役で出ていた。

なかなかの演技力である。十分に俳優でやっていけると思ったのだが

今ではもう全く姿を見ることもなくとても残念でならなかった。

「八丁堀の七人」では人を殺さない。気持ちよく成敗をするのだ。

見終わった後の爽快感が癖になりそうな時代劇であった。



仕事のゴールは未だ見えないが「ある日突然」は在り得るだろう。

する仕事が無くなってしまった私の姿を時々想像する。

毎日が日曜日なのだ。いったい何をすれば良いのだろう。

寝太郎になるかもしれないしテレビっ子になるかもしれない。

そうしてあらあらという間に老いぼれて行くような気がする。

そうなれば次のゴールは「死」しかないではないか。

そんなことを考えていると「いま」がとても幸せに思えて来た。


紫陽花は毎年咲くが私の「いま」はもう二度とない。





2024年07月02日(火) 私の半世紀

梅雨空の予報だったが思いがけずに青空が広がる。

気温も30℃を超えすっかり真夏の暑さとなった。

エアコンの効いた室内に居るのが心苦しくてならない。

同僚は工場で汗だくになって働いてくれていた。

気遣えばもう慣れているのだそうだ。

「夏は暑いに決まっちょるやいか」と笑顔を見せる。


義父は朝から長靴を履いてざわざわとしていた。

田んぼの様子を見に行っていたのだろうか2時間程で帰って来る。

そのまま車検をし書類を書き終えたらもうお昼であった。


今日も車検の予約が入っていたのだがお客さんが来店しない。

何度か電話をしてみたが一向に連絡が取れなかった。

お昼ならと思い再度電話をしたらやっと繋がる。

予約をしたことをすっかり忘れていたのだそうだ。

「イマカラスグイク」外国人のお客さんなので片言の日本語である。

それから5分もしないうちに来てくれて「タイヤチェンジスルヨ」

「オイルチェンジスルヨ」となり代車に乗って帰って行く。

午前中は畑仕事をしていたらしくもんぺ姿が良く似合っていた。

山里へ移住して来てかれこれ8年位だろうか。

最初はご主人の通訳が必要だったが随分と日本語が上手になった。

一番好きなお客さんは?と訊かれたら私は迷わず「ロージー」と応える。



やっと決算の準備を始めたので仕事はいくらでもあったが

あとは明日と決め3時過ぎに退社する。

程よい疲れであった。帰ったら少し横になろうと思っていたのだが

そうは問屋が卸さず洗濯物を畳み終えたらもう5時であった。

夕飯は相変わらずの手抜きだったが胡瓜と蛸の酢の物だけは作る。

サニーマートのお惣菜はどれも家族に不評で頭を悩ます。

いつも残ってしまい翌朝私が後始末をするのが習いである。

もう一品何か作りたいがとても手に負えなかった。

こんなことがいったい後どれほど続くのだろうか。



今朝はほんの遊び心でSNSに高校時代の写真を貼った。

自分で云うのも何だがけっこう可愛らしかったのだ。

しかし50年の歳月の何と残酷なことだろう。

今ではもうその頃の面影など少しも残ってはいない。

目と口はあるがもはや化け物であった。


遊びだったので直ぐに削除しようかと思ったが未だ残してある。

思い出がいっぱいなのだ。17歳の青春の真っ只中のこと。

写真を撮ってくれたのは誰だったのかどうしても思い出すことが出来ない。


海辺の町で潮風に吹かれながら私は少女から「おとな」になった。



2024年07月01日(月) 行き当たりばったり

曇り時々雨。湿度が百パーセントではないかと思う程の蒸し暑さだった。

七月文月となり今日は半夏生だとか。元々は農事の繁栄を祈る日らしい。


義父の田植えは無事に終わったようで何よりだった。

けれどもまだ後始末があるそうで今日も気忙しそうにしていた。

稲穂が見え始めたので晴天になり次第消毒もしなければいけない。

農薬が年々値上がりしており頭を悩ませている様子だった。

そうかと云ってお米は値上がりしない。とても理不尽に思えるが

それだけお米が有り余っているのだろう。残念なことである。


仕事はけっこう忙しかった。

請求書を作成したり車検案内の葉書を出したりする。

決算の準備もしなければいけないがそこまで手が回らない。

明日こそ明日こそと思っているうちに日々が流れるばかりであった。

昔とは違うのだ。テキパキと何でもこなすほどもう若くはない。


昼休みはあって無いようなものだが日課の短歌だけは書き終える。

SNSへ発信すればほっとして心地よい達成感があった。

それからこの一週間に詠んだ短歌から2首を選び新聞に投稿する。

自分では自信作のつもりだが現実はとても厳しい。

「これでもか、これでもか」と思いながら投稿を続けている。


先日は「高知県文芸賞」の応募案内が届いていた。

毎回応募している者には届く仕組みになっているようだ。

私は短歌よりも詩に重点を置いている。

4年前だったか奨励賞を頂いた時には夢のように嬉しかった。

しかし募集要領には未発表の作品に限ると明記してあり

電話で確認したらSNSで公開した作品は発表したとみなされるのだそうだ。

それを聞いてがっくりと肩を落とす。今回は諦めるしかあるまい。


私の詩や短歌は全て「オン書き」でありノート等に書くことはなかった。

いわば即興であり即詠なのである。悪く云えば行き当たりばったり。

いつの頃からだろうパソコン画面に向かってしか書けなくなってしまった。

その空白があってこそ湧き出す言葉があるのだろう。

今更その書き方を変えるつもりはなかった。

それは私自身の心を見失うことにも等しい。

だからこそ一生涯そんな自分らしさを貫きたいと思っている。


4年前の詩は今だから明かすが古い詩のノートに書いてあったものだ。

父が亡くなった直後に書いた詩だから20年近く経っている。

今思えば私はとても卑怯な真似をしたのかもしれない。

けれども賞を頂いたことで父の供養になったのだと思っている。

誰よりも私の文芸活動を応援してくれていた父であった。


生前の父に最後に会った日に「おまえは短歌をやれよ」と言ってくれた。

私はそれを父の遺言だと思って短歌を忘れることは決してなかった。


詩も短歌もと欲張りなのは重々承知している。

詩人でもなく歌人でもない。詩集も歌集も出すことはないだろう。


私はひたすらパソコン画面に向かって「いのち」を捧げている。






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