十六夜の月のなんと綺麗なことだろう。
9月もとうとう晦日となった。
午後0時5分、母が静かに息を引き取る。
義父が来てくれるのを待っていたかのように死んだそうだ。
危篤の知らせを受け大急ぎで駆け付けていたが間に合わなかった。
少しも苦しむこともなく大きく息を吸ってそのまま眠るように。
母らしい素晴らしい最期だったと医師が話してくれた。
寂しさも悲しさも感じない。まだ母が死んだ実感もない。
だって母が微笑んでいるのだもの。どうして悲しむ必要があるだろう。
義父が家へ連れて帰ってやりたいと言ってくれて
母は山里の義父の家に帰った。
別居が長かっただけに母もきっと喜んでいることだろう。
母の枕元にいつも一緒に寝ていた犬のぬいぐるみをそっと置いて帰って来た。
明日がお通夜。明後日が告別式である。
2023年09月29日(金) |
なるようにしかならない |
晴れのち曇り。残念ながら中秋の名月は雲に隠れているようだ。
満月の時は大潮であり人の生死に関わると昔から云われている。
たとえば潮が満ちる時に生まれる命があれば
潮が引く時に失くしてしまう命がある。
科学的には何も証が無いが地球の重力と関係あるのかもしれない。
今日は母に会いに行かなかった。
なんとなく気が重くて憂鬱な気分になっていた。
今日かもしれない明日かもしれない時に心配にならないのかと
自分を責めたくもなったが今日は許すことにしたのだった。
義父は今日も会いに行ってくれると云う。
あんなに母と距離を置いていたのにと思わずにいられない。
元々は優しい人なのだ。最期を看取るつもりなのだろう。
それに比べ私はあまり拘ってはいなかった。
だからどんな別れになるのか想像すら出来ないでいる。
なるようにしかならないのだ。考えても何も変わらないと思う。
いつものように夫と二人で夕飯を食べ終えてから娘達の番となり
二階から下りて来たあやちゃんと階段の下ですれ違った。
一日一言で良いと願っているのだけれど会話は殆どない日が続いている。
とにかく私から話し掛けてはいけないのだそうだ。
それが「干渉」になるのだと云われたらそうなのかもしれないと思う。
夫はもう同居が無理なのではないかと言っているのだけれど
娘達が何も言い出さない限りこちらから切り出すことは出来ない。
食卓に付いたあやちゃんが娘と向かい合って笑顔で語り合っている。
私はそんなあやちゃんを見るだけでほっとして嬉しくなる。
あやちゃんはひいばあちゃんのお葬式に行ってくれるだろうか。
訊きたくても訊けないままその日が近づこうとしている。
9月も残りわずかとなり信じられないような暑さ。
日本国内では猛暑日だった地域もあるようだ。
長期予報では10月になっても暑い日があるとのこと。
今年の冬は暖冬になるのかもしれない。
今日も仕事を終えてから母に会いに行く。
一足先に義父も来ており一緒になった。
義父は約束通りに葡萄を持参しており母に食べさせていた。
「美味しい」と母。どんなにか嬉しかったことだろう。
昨日の今日で母の笑顔を見られて私も嬉しかった。
母に訊けば昨日私が来たことを全く知らなかったと言う。
おそらく眠っていたのだろう。なんと人騒がせなことか。
今日はそれも笑い話になったが冗談ではないと内心思った。
母に会う前にケアマネさんに着物を届ける。
衣装持ちの母はそれは沢山の着物を箪笥に仕舞っており
どれにしようと迷ったが母の好きな紫色の付け下げにした。
義父が言うには一度も着たところを見たことがないと。
初めて着る日が死装束とは皮肉なものだなと思う。
着ている母の姿が目に浮かぶ。もう微笑むことも出来ない。
お化粧は看護師さんがしてくれるそうだ。それを聞いてほっとした。
必死の思いで生きようとしている母がいるのに
死に支度をしている私はやはり薄情な娘なのかもしれない。
医師は相変わらず「今月いっぱい」だと言う。
その言葉がとても残酷な響きとなり耳に残り続けている。
明日明後日のうちに母は死ぬのだろうか。とても信じられなかった。
急変する可能性がとても大きいのだそうだ。
そんな医師の言葉に義父は憤りを感じるらしく医師を悪く言う。
「もういいよお父さん」そう言って今日も宥めたことだった。
母は義父の持参したモンブランを二口。葡萄を4粒食べた。
そうしたら急に便意を催しトイレに行きたがった。
けれどももう便器に座ることが出来なくなっているのだそうだ。
介護士さんに説得され寝たままオムツにすることになった。
それがどうしても出ない。歯を食いしばりながら踏ん張る母。
義父と私とで「頑張れ」と声を掛け続けたがやはり出なかった。
「もういい、糞はいい」と母の機嫌が一気に悪くなる。
「このクソ野郎め」私がおどけて言っても母はもう笑顔を見せない。
力んで力尽きたかのように母がうつらうつら眠り始めた。
それを機会に私は帰ることにする。
「お母ちゃん、もう帰るよ」と耳元に声を掛けたら
思いがけずに「早く帰って家のことをしたや」と言ってくれた。
家族の多い私のことをいつも気遣ってくれる母がそこに居たのだ。
義父は母が眠ってしまうまでもう少し傍に居てくれると言う。
その言葉に甘えて私は先に部屋を出た。
その時なんだか逃げているような気がしたのだ。
逃げる?これは現実逃避なのかもしれないと思う。
現実を上手く受け止められずにいるのかもしれない。
遅かれ早かれ母は死ぬだろう。
私はその現実を受け止めることが出来るのだろうか。
夏の名残を感じるような真夏日。秋はすぐそこまで来ているのだろう。
急がずゆっくりで良いと思う。私はまだ秋にはなりたくなかった。
午前中に施設のケアマネさんから電話がある。
母の様子がいつもと違うこと。一気に弱ってしまったらしい。
一昨日電話で話したばかりだったのでとても信じられなかった。
出来れば面会に来て欲しいと言う。私はひとつ返事では頷けない。
ただ自分の目で母の様子を確かめなければ気が済まないと思った。
仕事を終えてからすぐに駆け付けたが母は個室に移されていた。
ベッドに横たわっている姿を見るなり自分の目を疑う。
ほとんど生気を感じられずもうすでに死んでいるかのように見えた。
かすかに胸が動いている。それはそのまま母の「いのち」である。
息が苦しそうなので酸素マスクをと医師が勧めてくれていたが
母は断固としてそれを拒否する。その時だけ大きな唸り声を発した。
よほど嫌なのだろう。こればかりは無理強いは出来ないのだそうだ。
一時間ほど傍に付き添っていたが沈黙が怖ろしくてならない。
母は私の声には微かに反応を示すが自分からは一言もしゃべらなかった。
もう声を発する力も気力も無くなってしまったのだろう。
せめて目を開けてくれたら通じることもあるのではと思ったが
必死に開けようとしていてもそれが開くことはなかった。
「おかあちゃん見て、私のこのすごい白髪を」と言ってみたが
もう笑い声も聴こえない。血の気の失せた真っ白な顔が見えるだけだった。
後ろ髪を引かれるようにして部屋を出たが
覚悟というよりもうこれは観念としか言いようがなかった。
とうとう諦める時が来たのだと思う。そう思う以外にない。
と、これが今日の私の面会であったが先ほど義父から電話があり
夕方から2時間ほど付き添っていたが母と話せたと云うのだ。
これにはびっくり。まるで母に騙されていたように思う。
母は義父の姿を見るなり「喪服を着た人が来た」と言ったそうだ。
しっかりと目を開けていてそんな冗談も言えたのだろう。
そうして何よりもあんなに嫌がっていた酸素マスクを付けたのだそうだ。
義父が「何か食べたいもんはないか?」と訊いたら
迷う様子も見せず「葡萄が食べたい」と応えたらしい。
「おう、明日持って来てやるから頑張れよ」と父が言うと
とても楽しみな様子でにっこりと笑っていたのだそうだ。
なんだか狐につままれたような話であったが本当のことである。
覚悟やら観念やらは何処に消えてしまったのだろう。
今の私は微かな希望の光を追い求めている。
おおむね晴れ。日中はほぼ真夏日となる。
山里では法師蝉が声を限りに鳴き赤とんぼが飛び交っていた。
今年も高知県芸術祭文芸賞の締め切りが近づいており
先日から書き始めていた詩をやっと完成させた。
私の場合一気に書き上げてしまうことが多いが
賞等に応募する時は推敲に推敲を重ねる。
そうして出来上がった詩を何度も朗読してから納得するのだった。
自信はあるようでない。とにかく送り届けようと思う。
29日の締め切りぎりぎりなので速達便で送った。
「駄目で元々」と云う言葉があるが駄目なら振り出しに戻るのだろう。
そうしてまた努力をし機会があれば挑戦をし続けて行く。
しかし私の場合は駄目ほど落ち込む。失意のどん底なのである。
夢も希望も失くしてしまうことはけっこう簡単なことなのだと思う。
入選発表は11月上旬とのこと。嘆く準備はとっくに出来ている。
今朝は職場に向かっていたらけい君の担任の先生から電話があった。
今日はお弁当が要る日でけい君が持って来ていないと言う。
息子はすでに仕事中らしく連絡が取れないので私に掛けてきたようだ。
私も職場に着く寸前で今更家に帰ることは出来なかった。
どうしようかとあたふたしていたら先生から助言があり
家庭の事情でお弁当を持参出来ない子も居るのだそうだ。
コンビニのパンでもおにぎりでも良いのですよと言ってくれる。
そうなればもう夫に頼むしかないと思ったのだが
ふと娘が休みではないかと思い電話してみたらOKを貰えた。
娘も心配してくれて「本当にコンビニで良いの?」と言ってくれたが
これもけい君の試練だと思って娘に届けてもらうことにした。
クラスのお友達がみんなお母さんの作ってくれたお弁当を
嬉しそうに食べている姿を見るのはきっと辛いだろう。
そこを「僕はボク」と思って受け止めて欲しいと思うのだ。
無い物は無いのだし、出来ないものは出来ないのだから。
完全な父子家庭になって2ヶ月が過ぎた。
息子が夜勤の夜にはけい君一人で夜を明かしているそうだ。
それがどれほどの成長だろう。随分と逞しくなったと思う。
息子はこれまでもう十分に苦労をしてきたはずである。
けい君も寂しい思いをいっぱいしたけれど
助け合って支え合ってこの先の未来を歩んで欲しいと願って止まない。
2023年09月25日(月) |
心臓に毛が生えている |
山里は雨の一日だったが市内はさほど降らなかったようだ。
一雨ごとに秋が深まっていくことだろう。
朝晩は随分と涼しくなりエアコンも扇風機も要らなくなった。
彼岸の終りを知っているかのように彼岸花が枯れ始めている。
紅い彼岸花は燃え尽きたように黒くなっていく。
葉は花がすっかり終わってから見え始めるのだそうだ。
その葉も翌年の春になれば枯れてしまうらしい。
土の中では球根が逞しく生きているのだろう。
生い茂った葉が光合成により球根に養分を与えているのだそうだ。
だから葉をむやみに刈ってはいけないらしい。
そんな枯れ始めた彼岸花の傍に黄色い彼岸花が咲いていた。
「しょうき水仙」と言って彼岸花の仲間だと云うこと。
白、紅の次に咲き始めるのでまだしばらくは楽しめそうである。
午後、思い立って母に電話をしてみる。
まだ意識はしっかりしているので繋がるかもしれないと思ったのだ。
そうしたら介護士さんが出てくれてすぐに母と代わってくれた。
開口一番に「まだ死にそうにない」と少しおどけた声が聴こえた。
笑っているようでいて弱々しい。母の精一杯の声なのだろう。
息が苦しそうにあったので長話は出来なかったけれど
「また電話するね」と私が言ったら「ばいばい、またね」と母の声。
電話を切ってから確信したのは今月いっぱいだなんてあり得ないと
医師はもう諦めているのかもしれないが私はまだ諦めてはいない。
それは義父も同じで私の傍で大きく頷いていたのだった。
確かに気力だけで生きているのかもしれないが母の気力は並大抵ではない。
心臓に毛が生えていると言ってもいい。それはとても逞しい心臓だ。
「もうボロボロですよ」と医師は言うが手に取って直に見たのだろうか。
医学的なことはいくら説明を受けても理解できなかった。
レントゲンに母の心臓の毛が映るわけがないのだ。
母はこれまで何度か生死の境を彷徨ったことがあるけれど
その度になんとあっけらかんと乗り越えて来たことだろう。
それもこれも心臓に生えている逞しい毛のおかげである。
午後6時30分、あたりはもうすっかり暗くなってしまっている。
風は秋風となり随分と涼しい。暑さ寒さも彼岸までとはよく云ったものだ。
今日は何処にも出掛けずごろごろと寝てばかり。
朝7時からもう眠気に襲われまずは9時までベッドで寝る。
11時に昼食を食べそれから3時まで寝ていた。
ほぼ6時間の昼寝?なのかさすがに自分でも異常ではないかと思う。
夜も8時間は寝ているから合計すると14時間である。
一日の半分以上を寝て過ごしていることになる。
当然のように家事も疎かになり、読書も遅々として進まない。
平日は仕事があるのでそういうわけにはいかないけれど
休日には何処か身体の螺子が外れているのではないだろうか。
不思議なのは以前のように平日の眠気が全く無くなったことだ。
一番怖かった運転中の眠気からもすっかり解放されている。
夫が云うには週末に「寝溜め」しているからではないかと。
私もそうとしか考えられず頷くしかなかった。
とにかく眠くなったらすぐ寝ることを心掛けようと思っている。
母の容態は落ち着いているらしく今日は施設から電話がなかった。
気になり始めるときりがなくなんだか気が抜けたような気持だった。
ずっと張り詰めてばかりいたら気を安める暇もない。
母を想う気持ちはあってもつかの間でも母のことを忘れたい時もある。
やはり私は薄情な娘なのだろうか。自分でもよく解らなくなった。
夕方は大相撲の千秋楽。熱海富士に初優勝させてやりたかったが
決定戦で貴景勝に残念ながら負けてしまった。
「はたき込み」だったか大関とは思えない技である。
勝つためには手段を選ばない気持ちは解らないでもないが
がっつりと組み合って正々堂々と勝負して欲しかったと思う。
なんだかとても後味の悪い優勝決定戦であった。
ずっと応援していた豊昇龍はなんとか勝ち越し。
大関になったばかりでプレッシャーも大きかったと思う。
悔しい思いをしたこともあったと思うが
その悔しさをバネに来場所も頑張って欲しいと願っている。
大相撲中継を観るのが楽しみでならなかった夫が
「終わったなあ」と寂しそうに呟いていた。
2023年09月23日(土) |
気力だけで生きている |
秋分の日。今朝は一気に秋を感じるような気温となる。
ぽつぽつと雨が降っていたがもう蒸し暑さはなかった。
「降る降る詐欺」ではないけれど天気予報はまた外れ
快晴ではなかったが陽射しの降り注ぐ一日となった。
無性にほか弁の「鶏そば」が食べたくてならない。
夫に話したらお弁当を買って近場をドライブすることになる。
母のこともありさすがに遠出は出来ず市内の黒尊地区まで行った。
秋には紅葉の有名なスポットであるが今はまだ何もなかった。
ただ四万十川の支流である黒尊川の渓流がとても綺麗である。
鮎が釣れるのだろうか。渓流釣りをしている人も見かけた。
川沿いに車を停めてお楽しみのお弁当を頬張る。
「鶏そば」はご飯の上に海苔と鶏のから揚げが載った鶏飯と
少し甘めのソースで味付けした焼きそばのお弁当である。
以前にもここに書いたが私の一番好きなほか弁メニューだった。
お腹いっぱいになりとても幸せな気分になる。
食べてすぐに帰る訳にも行かず黒尊地区を少し散策。
昔の営林署の官舎が今も残っており感慨深く眺めた。
子供の頃に父と訪れたことがあったがどの家だったのだろう。
午後、弟一家が無事に面会を終えたと連絡があった。
「そんなに悪い風には見えなかった」と言っていた。
機嫌も良く元気な母に会うことが出来て何よりに思う。
何よりも嬉しかったのは弟の孫も会うことが出来たのだそうだ。
母にとってはひ孫である。どんなにか会いたかったことだろう。
施設側はコロナ対策で子供との面会を制限していたのだが
今日は特別に許してくれたらしい。なんと有難い配慮である。
私も弟一家とは2年前に会ったきりであるが
近いうちにまた会えるだろうと話し合った。それは母のお葬式である。
考えたくもないけれど弟達も覚悟の上の話であった。
それはどうしようもなく押し寄せて来る現実なのだろう。
夕方義父から電話があり明日の遠方行きを中止しようかと相談があった。
母にもしものことがあった時に間に合わない可能性がある。
義父も義父なりに悩んだり心配したりしているのだった。
そこまで母のことを想っていてくれることが思いがけなくもあった。
どんなカタチであったとしてもやはり夫婦なのだと思う。
「気が進まんと思うたら止めたらええけん」と私が言ったら
「おお、止めちょくわ」と義父はきっぱりと応えた。
医師は今月いっぱいと言ったがやはりどうしても信じられない。
もしかしたら今年いっぱい持つかもしれないと思い始めている。
母はすでに気力だけで生きているのだそうだ。
曇り時々雨の予報だったが雨は降らないまま日が暮れる。
気温はさほど高くないのにやはり蒸し暑くてならない。
夜明け前、祖母のことを思いながら詩を書いて発信する。
文字数が限られており短詩ではあるけれど自分では満足だった。
天国の祖母にもきっと伝わるだろうと思った。
18年目の命日である。ずいぶんと歳月は流れたけれど
最後に会った日の祖母のことを忘れることは出来ない。
もう意識が薄れかけていたのに私が手を握ると歌い始めたのだ。
「お手々つないで野道を行けばみんな可愛い小鳥になって」
病室に祖母の歌声が響くのを溢れ出そうな涙を堪えながら聴いた。
夫が「もう最後だな」と呟いた時には肩を震わせながら泣きじゃくった。
その3日後祖母は安らかに息を引き取った。
真紅の彼岸花が満開だったことをまるで絵のように憶えている。
入院中だった同僚のお母さんが急変。心不全の上に肺炎を患っており
もう長くはないだろうと知らせがあったそうだ。
偶然なのかもしれないがこんなことがあって良いのかと皆で嘆く。
同僚は落ち着かない様子であったが今日の仕事を済ませてくれる。
義父も私も同じであるがとにかく目の前のことをやっつけていく。
幸い母の容態は落ち着いており今日明日と云うことは無さそうだった。
しかしこればかりは急変もあり得ることで油断は出来ない。
私の覚悟は揺らぎ続けており今日も自分の気持ちがよく解らない。
気丈な母のことだからそうそう簡単には死なないとも思うし
もし駄目だったらと思うとパニックになってしまいそうだった。
なんだか毎日が綱渡りのようにも感じるが恐る恐るであっても
一日が無事に終わればそれで良しと思うべきなのだろう。
明日は高知市内に住んでいる弟一家が面会に来てくれるそうだ。
コロナ前から一切会っておらず4年ぶりの再会ではないだろうか。
母がどんなにか喜ぶことだろう。嬉し泣きするかもしれない。
心残りがないようにと思えば切ないことがたくさんあるけれど
つかの間でも母が笑顔になってくれたらと願わずにいられない。
夜中に雨が降っていたようだが日中は曇り。
時おり薄日が射してずいぶんと蒸し暑かった。
紅い彼岸花に黒アゲハ(蝶)が止まっているのを見た。
その色のコントラストにはっとして胸がどきどきする。
よく写真でも見かけるが黒アゲハは彼岸花が好きなのだろうか。
蜜を吸っているのならそれはどんな味がするのだろう。
義父がやっと面会に行ってくれる。
よほど思いがけなかったのか母がとても喜んでくれたそうだ。
「ご飯は食べよるかよ?」と訊いたら「食べよるよ」と応えたらしい。
嘘だと分かっていても何も言えなかったそうだ。
話しているとやはり呼吸が荒くなりしんどそうになるのだが
酸素マスクは嫌だと母が拒否したと云う。
医師との面談もありこれ以上の治療法が無いこと
日に日に衰弱していくのを見守るしかないのだろう。
施設側は病院と連携し「看取り看護」を行うことになった。
「持って今月いっぱいでしょう」医師からそう告げられて
義父はさすがにショックな様子を隠せずにいた。
私はどうしたわけかさほどショックを感じない。
それだけの覚悟が出来ているのかも定かではなかった。
ただ「もう逃げられない」と思う。追い詰められているのだろう。
遅かれ早かれその時が来るのだ。もう受け止めるしかないと思う。
母の死装束に着物を持って来るようにと頼まれたらしいが
どうしてもそんな気分にならなかった。間に合わないかもしれない
そう思っても箪笥から着物を出すその行為が出来ないのだった。
挙句に昨夜もここに記したが母のミラクルを信じている。
まるで母が不死身であるかのように思い込んでいる。
矛盾しているが「そんなことがあるわけがない」とも思っているのだ。
どちらにせよ母の死は決して免れない。
覚悟とはいったいどう云うことなのだろうか。
私は本当に覚悟しているのかどうか分からなくなってしまった。
晴れてはいたが市内ではにわか雨が降ったそうだ。
夫が洗濯物を慌てて取り入れてくれていたが少し湿っていた。
男の手らしく洗濯籠にぎゅうぎゅうと押し込んであった。
山里では安定の晴れ。風が無かったので酷く蒸し暑く感じる。
暑さ寒さも彼岸までと云うがまだしばらくは残暑が続きそうだ。
一度散ったように見えていた百日紅がまた満開になる。
枝先から再度花芽が出て来たのだろう。
散っても散っても後から咲き続けるので百日紅と云うのだそうだ。
夏草の生い茂った職場の庭にそれは鮮やかな彩を添えている。
今日も母の施設のケアマネさんから電話があった。
医師からの伝言でやはり義父に面会に来て欲しいのだそうだ。
忙しいのは理由にはならないことはよく分かっている。
かと云って「すぐに行きます」とどうして言えるだろうか。
長い間別居をしていた母と義父である。
世間一般の仲睦まじい高齢夫婦とは明らかに違うのだ。
憐れに思う気持ちはあってもそれが愛情とは限らない。
今日も仕方なく再度義父に伝える約束をして電話を切った。
昨夜はノンアルビールを「飲みたくない」と拒否したそうだ。
食事も殆ど食べることが出来ずチョコレートを一個だけ食べたらしい。
食欲が落ちるとどんどん体力も失われていく。
栄養剤を点滴しているようだが身にもならないだろう。
電話を切る前に「娘さんはもう面会に来ませんか?」と訊かれた。
私は迷わず「もう行きません」と応えた。
それほどまでに私は薄情な娘である。
母の顔を見るのがとても辛い。それが正直な気持ちでもあった。
今更何を話そう。もう話すことなど何もないように思う。
先日の面会で母の手を握って互いに「ばいばい」と声を掛け合った。
その時にこれが最後になるかもしれないと覚悟をしたのだった。
「もう長くはありませんよ」と宣告されてから
何年も生き続けていた人もいるようだ。
もしかしたら母もそうかもしれないと思っている。
母はそんなミラクルを起こせる人なのだ。
2023年09月19日(火) |
お母さん頑張らんといかんよ |
日が暮れるのがずいぶんと早くなった。
いま6時45分、西の空に少しふっくらとした三日月が浮かんでいる。
室温は30℃、今日も厳しい残暑であった。
山里の郵便局の傍に咲いている白い彼岸花が
うっすらとピンク色に変わり始めた。
もう花の盛りを過ぎてしまったのだろうか。
彼岸の入りを前にあまりにも早過ぎる気がする。
午後、母の施設の介護士さんより電話があり
母がビールを飲みたがっているので飲ませますねと云う。
医師の許可も下りているらしくなんだか耳を疑うような話だった。
とにかく食べたい物を飲みたい物を一切制限はしないのだそうだ。
それだけ母の容態が悪い方へ向かっているのだろう。
最期が近いことを考えずにはいられなかった。
どう表現すれば良いのだろう。うまく言葉に出来ないけれど
なんだか一方的に押しつぶされているような危機感を感じる。
それは毎日母と接している介護士さんや職員の皆さんだからこそで
ちらっと面会に行ったきりの私などには分からないことなのだと思う。
母の顔色、母の声、食欲はあるのか気力はあるのか。
いくら娘でもまるで他人事のように思えて来るのだった。
一度電話を切ってから義父とも話していたのだけれど
さすがにいきなりのアルコールは母の身体に悪いのではないか。
たとえ一口でもどんな副作用が現れるか分からない。
考え過ぎかもしれないが意識を失う可能性もあるのではないだろうか。
そんなことを考えていると急いで止めなくてはと思った。
折り返して介護士さんに電話をしてノンアルビールに替えてもらう。
ビールだと思って飲めばけっこう美味しいのだ。
今夜と言っていたからもう飲み終わっている頃だろうか。
人一倍勘の鋭い母のことである。きっと察しているのではと思う。
まだ死にたくはない。死んでたまるもんかと思っていて欲しい。
気を強く持って立ち向かってくれることを願って止まない。
お母さん頑張らんといかんよ。
晴れのち曇り。昨日程の猛暑ではなかったようだ。
運動会が今日だったら良かったのにと思った。
敬老の日。地区では75歳以上の人を対象に長寿祝いが贈られる。
お赤飯もしくは商品券だがお赤飯を希望する人は少ないらしい。
千円の商品券。わずかでも買物をする楽しみになるのだろう。
今朝は71歳の夫が「もうちょいだな」と呟いていた。
彼もお赤飯よりも商品券が良いのだそうだ。
夫婦で貰えるようになったら私はお赤飯も良いなと思う。
それまでにくたばったら何もないよと言って笑い合った。
「おじいさん、元気に長生きせんといかんね」
お昼は約ひと月ぶりに外食。無性に冷やし中華が食べたかった。
出掛けに夫があやちゃんに声を掛けてみたのだった。
そうしたら「どうしようかな」と迷ってくれたのだそうだ。
迷うと云うことは嫌ではないと云うことだと思う。
それを聞いて私はとても嬉しかった。
これからも外食の度に誘ってみようと思ったのだ。
今日は「なんとなくそんな気分じゃない」と言ったそうだ。
また気が向く日がきっとあるだろう。
宿毛市の郊外にある「レストラン一風」へ。
他のお店を知らないのかと云うくらい通い詰めている。
とにかくチャーハンがとても美味しい。
夫は醤油ラーメンと半チャンセット。私は冷やし中華と半チャンセット。
冷やし中華は今月いっぱいはあるのだそうだ。今日が食べ納めだろうか。
美味しいものを食べている時がいちばん幸せである。
そんな有り様だからもうダイエットどころではなかった。
そうかと言ってどんどん体重が増えている訳でもない。
油断は禁物だが様子を見ながら食べ続けようと思っている。
やはり食欲の秋だ。ダイエットの秋ではあまりにも辛過ぎる。
満腹のお腹をさすりながらそのまま帰路に就く。
ドライブの気分ではなかった。それよりも早く横になりたい。
帰宅するなりまた眠り3時過ぎに目覚める。
洗濯物は娘が畳んでくれていてありがたやありがたや。
後はお決まりのコースで日が暮れて行った。
夕食時、あやちゃんがにこにこしながらお素麵を食べていた。
両親との会話も弾んでいてその光景がきらきらと眩しい。
輝ける子なのだと思う。きっと今日よりも明日と。
2023年09月17日(日) |
寂しさよりも悲しくて |
快晴。ほぼ猛暑日ではなかっただろうか。
風はあったが厳しい残暑となる。
8時半から運動会。例年よりも開始時間が早かった。
学校側も熱中症に用心していて競技の間に休憩時間もある。
百メートル走、借物競争、綱引き、一輪車リレー、よさこいソーラン等。
児童数が少ないので次から次へと競技が続いた。
応援にも熱が入る。無意識のうちに大声で叫んでしまう。
何よりも孫の成長を直に見れるのは嬉しいことであった。
めいちゃんは小柄だとずっと思い込んでいたけれど
今日見たら背も高い方で体格も良くびっくりしてしまった。
誰かさんに似たのかお尻もけっこう大きいのだ。
残念ながらあやちゃんのことは何も書けない。
ただとても複雑な思いが込み上げて来て寂しさも感じた。
一番苦しんでいるのはあやちゃんなのだろう。
今こそ寄り添ってあげなくてはいけないのだと思った。
午後は図書館へ。もうこそ椎名誠の未読本が無くなってしまった。
仕方なくと云っては申し訳ないが田辺聖子の本を借りて来る。
嫌いではないのだけれど少々鼻に付く作品が多い。
これも偏見かも知れず余計な先入観を持たないほうが良いだろう。
読んでみたらけっこう面白いかもしれないのだ。
とにかく活字中毒なので与え続けなければいけない。
図書館から買物へ。帰宅するなりまた眠り続ける。
今日も4時過ぎまでほぼ熟睡していた。
夫に急かされて洗濯物を取り入れ汗を流しながら畳み終えた。
大相撲は今日も豊昇龍が負けてしまって憐れでならない。
大関になったプレッシャーだろうか。その心中は図り兼ねる。
一度好きになったらなかなか簡単に手放せないものだ。
夕食時、あやちゃんの姿が無かった。
娘に訊いたら眠っているのでそっとして置くように言われた。
寄り添いたい気持ちの行き場所が途絶えてしまう。
求められてはいないだろうについついもがいてしまうのだ。
朝からまともに顔を見ていない。それは寂しさよりも悲しさに似ている。
2023年09月16日(土) |
心身ともに安らいでいる |
何という蒸し暑さだろう。お風呂上がりの汗が引かず
エアコンを点け扇風機まで回している。
明日は小学校の運動会だが熱中症がとても心配だ。
昔は10月に行っていたのに今は全国的に9月が多い。
国の教育方針なのかなと思うけれど考え直すべきではないだろうか。
何かあってからでは遅いのだ。命に関わるような厳しい残暑である。
今朝も眠く7時半から9時まで眠る。
熟睡ではなくとろりとろりと心地よい眠りであった。
おそらく心身ともに安らいでいる時間なのだろう。
カーブスから帰り昼食を食べてからまた眠る。
時々目を覚ましながら4時まで眠っていた。
呆れかえった夫が洗濯物を取り入れてくれていたのでしぶしぶと畳む。
かったるいなと思う。何もやる気にならない。
放っておいたら一日中眠っていることだろう。
夫とふたり大相撲を観ながら夕食。豊昇龍がまた負けてしまった。
今場所も誰が優勝するのか全く見当が付かない。
その方が面白いなと思う。千秋楽が楽しみである。
私達が夕食を終えると今度は娘夫婦。晩酌をするのでまるで居酒屋だ。
孫達の姿が見えないので苦言をと思いつつ何も言えなかった。
一時間ほど経っただろうか、今やっと家族4人が揃ったようだ。
あやちゃんもめいちゃんも笑顔でほっと胸を撫で下ろしている。
母の容態は落ち着いているらしく何の連絡もなかった。
こればかりは真夜中にある可能性もあり油断は出来ない。
けれどもその時はその時のことと思っていつも通りに過ごしている。
焼酎も飲んでいるしこうして日記も書いているのだった。
人は誰しも生まれた時から決まっている定命があるのだそうだ。
母は波乱万丈な人生を送ってきたがそれは私も同じである。
母のせいとは言いたくはないがそうとしか言えないこともある。
例えは可笑しいが洗濯機なら脱水状態なのではないだろうか。
涙が水分なのだとしたらとことん飛ばさなくてはならない。
そうして青空の元に干されるのが幸せなのだろう。
母の人生に私の人生を重ねるとまるでドラマのようだった。
すごいね。母さんも私も主役なのだからかっこいいね。
少しずつ日が短くなっているようだ。
午後6時50分、あたりはもうすっかり暗くなった。
昨日はめいちゃんの9歳の誕生日だったが
ダンス教室に行くためお祝いが出来なかった。
一日遅れとなったが今夜ささやかにお祝いをする。
とは言え家族皆が揃ってとはいかず先組と後組とに別れる。
私達夫婦が先に食べて娘達が後から食べるいつものパターンであった。
娘婿は残業で帰りが遅くなるのだそうだ。
ステーキを焼いていたので食べたいだけ食べる。
後から見たらあやちゃんも美味しそうに食べていた。
めいちゃんが主役なのに私の中ではあやちゃんが主役になっている。
分け隔てなくと思っているはずなのにこれはどうしたことだろう。
二人とも目に入れても痛くないがあやちゃんには訊かなくてはならない。
「目に入れてもいいかな?」きっと「駄目!」と応えるだろう。
義父に母の病状について話し今後のことを考える。
義父も覚悟はしているようだがいざとなったらどうなることだろう。
母は会社の取締役でもあった。あれこれと複雑な事情も当然出来て来る。
最悪の場合は義父と私とで対処しなければいけないだろう。
母の死よりも他の諸事情の方が大きく複雑な気持ちになっていく。
母を失う悲しみよりも大切なことがあるのだろうか。
午後、施設からまた電話があり今度は義父の面会を求めて来る。
それだけ切羽詰まった状態になっているのだろう。
義父が多忙なことは私がいちばんよく知っているものだから
曖昧に応えるしかなかったがなんと薄情な家族だろうと思ったことだろう。
なんだか得体の知れないものがじりじりと迫って来ているようだ。
もちろん逃げも隠れもしない。母はまだ一生懸命に生きている。
曇り日。山里ではにわか雨が降る。
田んぼの畦道に紅い彼岸花が咲き始めた。
稲はすでに刈られているが田んぼとのコントラストがなんとも云えない。
昔からモグラ除けとして畔に植えられていたそうだ。
もしかしたら百年近くも同じ場所で咲いているのかもしれなかった。
職場の庭では柿の実が色づき始めている。
葉の紅葉も見られ秋らしい風景である。
ゆっくりと少しずつではあるが季節が移り変わろうとしているようだ。
暑さ寒さも彼岸までと云うが彼岸の入りも近くなった。
仕事を少し早めに終えさせてもらっていつもの内科へ。
薬の処方だけしてもらって次は母の施設に向かった。
午前中にケアマネさんから電話があったのだ。
医師からの伝言でなるべく早く面会に来るようにと言われた。
それだけ母の状態が良くないと云うことなのだろう。
もしかしたら今日が最後になるかもしれないと思った。
先日の母からの電話で少し安心していたのだけれど
母がかなり無理をしていたことを知った。
母なりに心配をかけてはいけないと思ったのだろう。
お口だけは元気なんですよと施設のスタッフさんが口々に言う。
顔色はとても良く決してやつれているようには見えなかったが
あまり長く話すと息が荒くなりしんどそうな様子を見せる。
心不全と腎不全のダブルパンチなのだそうだ。
どちらの治療ももう限界に達しているらしい。
言い換えればもう手の施しようがないことに等しい。
「最期の看取り」医師からはその相談もあった。
私は出来る限り苦しまずに安らかな最期を望んでいる。
けれども義父はぎりぎりまでも延命治療を望んでいるのだった。
明日、義父に詳しいことを話さねばならないがなんとも気が重い。
最終的な決断は娘さんがと医師に言われたことも話さねばならない。
「ばいばい、またね」ベッドから起き上がった母が手を振った。
私はその手に握手をして笑顔で母の元を去って行った。
必死の思いで最後を否定している。きっときっとまだ時間がある。
握手をした時の母の手のぬくもりがなんだか愛そのものに思えた。
2023年09月13日(水) |
自分のために書いている |
夜中には雨音で目が覚めるくらい雨が降っていた。
日中は曇り空。薄日が射す時間帯もある。
気温が30℃を超すとまだまだ夏の蒸し暑さだ。
義父が飼料米の出荷準備をしていた。
一袋一トンの大きな袋である。
いつも疑問に思うのは家畜の飼料だけれど
玄米のまま与えるのか火を通してから与えるのか。
義父も詳しいことは知らないらしく
とにかく牛や豚の餌になるらしいのだ。
食糧米とは品種が違っていて「夢あおば」と云うらしい。
ネットでググれば詳しいことが分かるかもしれないが
実際に飼料として与えているところを見てみたいものだなと思う。
米つくりにはまったく知識がないけれど興味は大いにある。
学ぶ機会がないのはとても残念なことだ。
スーパーの鮮魚売り場でまた鰆(さわら)を見つけた。
高知県産と書いてある。土佐沖で釣れているのだろうか。
先日塩焼きにしたのをあやちゃんが食べてくれたので
また食べてくれるかもしれないと思い買って帰った。
娘と夕飯の準備をしていたらあやちゃんが二階から下りて来たので
鰆のことを話したら「食べる、食べる」と言ってくれてほっとする。
毎日顔色を窺っているように感じるかもしれないが
出来る限り自然な会話になるように心掛けているのだった。
昨夜はあやちゃんがこの日記を読んでいるかのように書いたが
やはり私の思い違いだったような気がする。
SNSもしかり。とても興味があるとは思えないのだった。
まだ11歳の少女である。ユーチューブの方がずっと好きだろう。
私は読んで下さっている皆さま(読者)を意識してはいけないと思う。
それをしてしまうとどうしても媚びた文面になってしまうからだ。
あくまでも自分のために記す日常で在るべきではないだろうか。
10年前、20年前の日記を読み返すとそれがよく分かる。
誰が懐かしいと思うだろうか。それは私以外には在り得ないことである。
この日記もいつか読み返すことがあるかもしれないが
最悪の場合は消失していることも考えられる。
これっきりだと思うとなぜか愛しさが込み上げて来るのだった。
いつまでもあると思うなとよく云うが
それってけっこう残酷な言葉だなと思う。
山里ではにわか雨が降った時間帯があったが概ね晴れ。
午後には法師蝉がしきりに鳴いていた。
毎朝のこと。今朝もSNSで詩を書き発信する。
ある方のことが頭にあった。少しでも寄り添うことが出来ればと思う。
愛する奥様を突然亡くされてどれほど辛い思いをされたことだろう。
けれどもその方はいつまでも悲しんではいなかった。
空を見上げ風に吹かれながらいつも魂と会話しているのだった。
その姿に心を打たれる。その気持ちをそのまま言葉にした。
たった一人の人のために心に響く詩を書きたいといつも思っている。
大それたことだがそれが私に与えられた使命のように思うのだ。
発信後、その方からメールが届いた。良かったちゃんと伝わったのだ。
あやちゃん?もしかしたらこの日記を読んでいるのですか?
以前にSNSのアカウントを訊かれて教えたことがあったから
この日記に辿り着くことも在り得ると思っている。
今日も笑顔を見せてくれてありがとう。すごい嬉しかった。
今夜のナポリタンはいつものよりずっと美味しかったよね。
麻婆豆腐も作っていたけどナポリタンでお腹いっぱいになったかな。
おばあちゃんは余計なことは一切言わない。
ただそっとあやちゃんを見守っていたいと思ってる。
あやちゃんのプライバシーは絶対に守らないといけないから
秘密は決してここには書きません。約束するからね。
ずっと昔、あやちゃんがまだ保育園に行っていた頃だったかな
「おばあちゃん何しよるの?」と訊かれたことがあったよね。
日記と云っても分からなかったから「お勉強」って応えた気がする。
おばあちゃんはそんなにお利口さんじゃないから勉強していたのかな。
ってここまで書いてんん?って思ったのは
すっかりあやちゃんを意識して書いてしまったけど
ただの勘違いだったらめっちゃ受けるよね。
おばあちゃんの独り芝居かもしれないけどなんとなくそんな気がしたから。
読んで欲しくて書いたのじゃない。それだけは分かって下さい。
晴れのち雨のち晴れ。雨の予報だったが朝のうちは晴れていたので
また天気予報が外れたなと思っていたら急に雨が降り始めた。
2時間ほど降っただろうかその後また青空が見え始める。
彼岸花が咲くにはまだ少し早いと思っていたのだけれど
郵便局へ行っていたら白い彼岸花がもう咲いていたのだった。
紅よりも白の方が先に咲くのだろうか紅はまだ見かけない。
私は白い彼岸花が好きなので思わず歓声をあげてしまった。
紅い彼岸花は不吉なイメージが強く子供の頃から苦手だった。
毒があるから触ってはいけないと教えてくれたのは祖母である。
お墓の傍などに咲いていると死んだ人の血を吸ったように思えて
恐る恐る眺めたものだった。ようく見れば美しい花なのだけれど
子供の頃から抱いていたイメージはけっこう根強いものだ。
今日はあやちゃんの好きな物をいっぱい作ろうと思った。
塩鮭、餃子、ジャーマンポテト。
娘と一緒に支度をしていたら珍しくあやちゃんが二階から下りて来た。
会話をするのは何日ぶりだろう。「あやちゃんの好きなもんばっかよ」と
言ったら小さな声で「やったあ」と喜んでくれたのだった。
私もじっくりと考えたのだ。どんな些細なことでも良いから
「取っ掛かり」のようなものが必要ではないだろうかと。
話し掛けてはいけないのだったらきっかけを見つけるべきなのだ。
何の警戒心もなく自然に応えられるように仕向けていかなくては。
決して過干渉になってはいけないことなのであくまでも慎重にである。
そうして必要以上に神経質にならないことも肝心だろう。
口には出さなくても「あら、そう」とさらりと受け流せるように。
あやちゃんにとってはごく自然なことなのだと思う。
祖母の存在などそんなに大したことではないのだ。
それを寂しいなどと云えば大きなエゴに他ならないと思う。
これを書きながらさきほど階下に下りて行ったら
めいちゃんとあやちゃんが仲良く夕食を食べていた。
すでに食べ終えている娘は聞き役のようで相槌を打っている。
笑顔でおしゃべりをしているあやちゃんを久しぶりに見た。
「書くよ、書いても良いよね」と心で呟きながらこれを記す。
曇り時々雨。今もぽつぽつと降っている。
湿度は高いが気温は低目で過ごし易い一日だった。
今日も今日とてまた眠い。朝7時から9時までベットで寝る。
夜の睡眠時間が足らないのだろうかとも思うが
4時起きとは云え7時間は寝ているので十分ではないだろうか。
休日はおそらく緊張感が無くなっているのだろう。
身体が自然と眠くなるようになっているとしか思えない。
暇さえあったら寝ているので読書は全く捗らない。
今日も一ページも読めず我ながら情けないことである。
決して退屈な本ではないのに読み始めるとすぐに眠くなってしまうのだ。
9時過ぎてから買物。ほんの30分程であったが唯一動いた時間である。
歩数200歩。全く歩かないよりもマシなのではないだろうか。
歩くと云ってもスーパーのカートにしがみついてのことだ。
お昼はお好み焼き。ホットプレートを出すのが面倒だったので
フライパンで巨大な一枚を焼き半分にして食べた。
麦茶では物足らず夫はビール。私はノンアルビールを飲む。
満腹になりなんと幸せなことだろう。お腹を撫でていたら
夫が食べ残した分を食べてくれと云うので遠慮なく頂く。
そのままバタンキューと倒れ込むようにして寝る。
なんと目覚めたらまた3時になっていた。ほんによく寝ることよ。
朝から合計したら5時間も寝ていたことになるのだった。
なんか忘れているなと思ったら洗濯物をたたんでいなかった。
今朝乾燥機に放り込んだままでとっくに乾いている。
乾燥機から洗濯物を出すのが億劫で嫌いな作業だった。
量が多いと絡み合ってスムーズに取り出せない。
ぶつぶつ文句を云いながら次第に腹が立ってくる。
やっと洗濯物をたたみ終えてから大相撲中継を観ていた。
先場所優勝した豊昇龍のインタビューでの笑顔がなんとも云えない。
こんなに愛嬌のある人だったのかと思いがけなかった。
一度好きだなと思うともう止まらないのが私の癖のようなものだ。
夕食時、あやちゃんの姿が見えない。
娘にそれとなく訊いたら後から食べるだろうと云う。
「食べなさい」とは決して云ってはならないようだ。
私が声など掛けたらまた怒られてしまうことだろう。
夕食だけは家族と一緒にと願わずにいられない。
娘達の方針には正直云って付いていけないと思うけれど
祖母である私が口を挟むべきことではないのが辛かった。
いつ食べるのだろう。いつお風呂に入るのだろう。いつ眠るのだろう。
知らないことがいっぱいになった。
雲が多かったものの概ね晴れ。暑さも少し和らいでいた。
また明日からしばらくは不安定な天気が続きそうである。
台風13号は熱低に変わったが千葉や茨城など浸水被害があったようだ。
こればかりはどうすることも出来ずただただ気の毒でならない。
まだ10月までは台風の心配をしなければいけないだろう。
早朝から異常なほどの眠気。7時半頃から9時までベッドで眠る。
なんとか起きて買物に行っていたが頭がぼんやりしていた。
10時からはカーブス。めいちゃんが一緒に行きたがる。
娘が勤めるお店が同じショッピングセンターの中にあるのだった。
「お母さんのお店で買物をしたいけん」と云うので連れて行く。
少し心配ではあったが娘が近くに居るから大丈夫だろうと思った。
カーブスを終えて外に出たらレジ袋をぶら下げためいちゃんが待っていた。
千円も買物をしたのだそうだ。まだ家には4千円あるのだそう。
「また一緒に来たい」と云うのでそれも楽しみだなと思う。
でも毎週来ていたらお小遣いがすぐに無くなってしまうだろうな。
昼食を食べ終えてからまた眠くなる。目覚めたら3時を過ぎていた。
「いくらなんでも寝過ぎじゃないか」と夫が心配する程である。
自分でも異常ではないかと思うのだがもう病気はこりごりである。
お休みの日はいくらでも寝て良いのだと決めると気が楽になった。
あやちゃんが昼食を食べていない。朝も食べていないので心配になる。
声を掛けたら機嫌が悪くなるのでどうしようかと迷ったが
コンビニでパスタを買って来ていたのでそれだけは伝えた。
4時頃そのパスタが無くなっていたのでほっと安堵する。
最近のあやちゃんは一日一食の日が多い。
そのことについてとやかく言ってはならないのが我が家の決まりである。
干渉されたくない気持ちは分からないでもないが
これほどまでにして「距離」を保たなければいけないのだろうか。
つくづく寂しいことだなと思わずにいられなかった。
まだ7時半を過ぎたばかりなのにもう眠くなってしまっている。
せめて煙草があればと思うのだがそれは何処にもありはしない。
隣の子供部屋ではあやちゃんが鉛筆を削っている音がしている。
勉強をしているのだろうか。それを確かめることも出来ないのだった。
窓の外からは秋の虫たちが声を限りに鳴いている。
二十四節気の「白露」大気が冷えて来て露が見られる頃。
いよいよ本格的な秋と云っても良いだろう。
まだまだ残暑は厳しいが木陰に入ると涼風が吹き抜けていく。
義父の収穫したお米のお嫁入。高知市内の米穀店へと運ばれる。
11トンの大型トラックに積み込む様子を見学していた。
パレットの載せたお米をフォークリフトで運ぶのだけれど
パレットは義父の物なのでそのまま載せることが出来なかった。
運転手さんが一袋づつ抱えて積み直すのは大変な作業である。
なんと30キロの米袋が310袋もあったようだ。
全部で9トンを超すかなりの大口ではないだろうか。
汗だくになっている運転手さんに麦茶を差し入れしたら生き返ったと。
にっこりと喜んでくれて私もほっと嬉しくてならなかった。
何よりか誰よりも嬉しかったのは義父なのに違いない。
苦労をして丹精込めて作ったお米の晴れの日である。
「あと10年は頑張らんといかんね」と励ましたら
「おう、やるぞ!」とその意気込みには頭が下がるのだった。
あと10年。90歳の義父が想像出来ない。
私は77歳になる。それもまた想像出来ないのだった。
義父が健在である限り会社も存続していることだろう。
果たしていったいどんな未来が待っているのだろうか。
考えただけで気が遠くなってしまうけれど「やるっきゃない」
とにかく元気でいなければならずくたばるわけにはいかないのだ。
ふっと何の因果なのだろうと思う時がある。
私と弟を捨てた母は確かに再婚をしたけれど
その相手が今の義父となり深い縁で結ばれているのだった。
縁とはこれほどのものなのか。そう思うと決して粗末には出来ない。
2023年09月07日(木) |
「おじいちゃん」と呼んでみる |
天気予報通りの晴天。早朝は涼しく秋の気配がする。
日中は厳しい残暑となったが心地よく感じた。
同僚が新米を精米して持って来てくれる。
義父が玄米を持って帰るように言ってくれていたが
30キロもの玄米を精米する気力がなかった。
夫は腰痛が酷く可哀想でならないのだ。
山里のお米は「三原米」と云うブランド品で県下でも有名である。
義父には少しでも多く売って収入にして欲しかった。
お米作りは経費ばかり掛かり儲けは少ないのだった。
その苦労を知っているだけに出来る限り協力したいと思う。
母方の祖父の命日。もう14年もの歳月が流れた。
母は憶えているだろうか。おそらく忘れているだろうと思う。
知らせたところで何も変わりはしなかった。
お墓参りも行けない。仏壇に手を合わすことも出来ない。
今は空家同然となった家で位牌は埃を被っていることだろう。
あれはいつのことだったか、まだ母が元気な頃のこと
何を思ったのか母は父母と姉、弟の位牌をリュックサックに入れ
列車に乗って生まれ故郷の町へと運んだのだった。
そうして誰も住んでいない実家の仏壇に納めて帰って来たのだ。
私には一言の相談もなく母が勝手にしたことである。
「どうしてそんなことを」と責める私に母は
まるでせいせいしたかのように「これですっきりした」と言った。
それほど重荷になっていたのだろうか。母の真意は計りかねる。
その時私は何と薄情な人だろうかと軽蔑したことを覚えている。
今となって思えば母の決断は間違ってはいなかったのだろう。
自分の行く末を案じていただろうし予想もしていたのかもしれない。
施設に仏壇を持って行くことなど不可能なことなのだ。
かと言って私が預かることも到底出来ない相談であった。
祖母に先立たれた祖父は老人施設で生涯を終えた。
最後に会った時にはまだとても元気で面会に来た私達を見送ってくれた。
エレベーターの扉が閉まる寸前に見た祖父の笑顔が最後になった。
今年も栗の季節が来た。祖父が毎年送ってくれた栗の美味しかったこと。
もう二度と口にすることは出来ないが生涯忘れることはないだろう。
「おじいちゃん」と呼んでみる。夜空には星がきらきらと輝いている。
2023年09月06日(水) |
馬勝った。牛負けた。 |
今日も天気予報は大外れ。雨の予報だったのに晴天となる。
夕方になり少し雨が降ったが今はもう止んでいるようだ。
台風が秋雨前線を刺激しているとのこと
しばらくは不安定な天気が続くのかもしれない。
あと10日もすれば小学校の運動会があるようだ。
その頃には安定した天気になってくれることを願っている。
お昼前に村の婦人部のメンバーさんが義父にお弁当を届けてくれた。
月に一度だけだが独居老人に届けてくれるのだった。
義父もれっきとした独居老人である。本人は意識していないようだが
お弁当は嬉しく毎月遠慮なくご馳走になっている。
五目寿司、ちらし寿司とも云うが地元では「もぶり」と呼ぶ事が多い。
私などは「おもぶりさん」とまるで愛称のように呼ぶのだった。
酢飯に色とりどりの具を混ぜ込むのでそれを「もぶる」と云うのだが
どうやら標準語ではなくこれも方言のひとつらしい。
もぶるから「もぶり」になったと考えるのが妥当だろう。
さてそのお弁当の「おもぶりさん」であるが実は私の分もあるのだった。
毎回残るのだそうでおにぎりにして持って来てくれるのだ。
私も食い意地が張っているものだから遠慮はしない。
なによりもおもぶりさんは大好物である。
いつも早弁をするのですでに昼食は済ませているがもちろん別腹で頂く。
お腹は破裂しそうなくらいいっぱいになるが満足この上ないのだった。
ぬくぬくのおもぶりさんのなんと美味しいことだろう。
これこそ馬勝った。牛負けたである。すっかり夢見心地になる。
仕事を終えて帰宅しても夫には内緒にしている。
彼もおもぶりさんが大好物なのだった。
私が食べるのを我慢すればお土産に持って帰れたものを。
さすがに良心が咎めて本当のことは言えないのだった。
娘夫婦や孫達が食べないので家ではもう何年も作ったことがない。
昔は姑さんがよく作ってくれて今では懐かしい味となった。
永谷園の「すし太郎」だったか即席で作れないこともなかったが
やはりその味は手作りには劣ることだろう。
そう云えば母の作るおもぶりさんも美味しかった。
最後に食べたのはいつだったのだろう。もう思い出すことも出来ない。
2023年09月05日(火) |
取り返しのつかないこと |
天気予報が見事に外れて思いがけずに晴天となる。
洗濯物を乾燥機に入れてから出勤したのでなんだか残念でならなかった。
仕方のないことをいつまでもぐじぐじと考えるのは私の悪い癖だ。
義父は徹夜で明け方までお米の籾すりをしていたのだそうだ。
それも雨を見越しての事でまさか晴れるとは思っていなかったらしい。
寝不足もあったのだろう。さすがに疲れた様子を見せていた。
それにしてももうすぐ80歳だとは思えないほどにパワフルである。
午後とても思いがけずに母から着信があった。
開口一番に「どうもご心配をおかけしまして」と言う。
笑っているようには感じなかったがおどけている様子が伝わって来た。
先日来の看護師さんや医師からの電話がまるで嘘だったかのように思う。
下血は止まり9日ぶりにまともな便が出たのだそうだ。
母の言うことなので鵜呑みには出来ないが嘘ではなさそうだった。
点滴もしていないし輸血もしていないと言う。本当のことだろうか。
その後で「お金が無くて困っている」と言い出す。
葛根湯を買って来て欲しいと言ったり自販機でコーヒーを買いたいとか。
認知症ではないと思うがなんとなく言動がおかしいのだ。
葛根湯は医師に相談するように伝え、コーヒーは禁止されている旨を伝える。
腎臓が悪いので水分や刺激物は施設の管理に従わなければいけない。
母は少し機嫌を損ねたようで怒ったような口調になった。
私もまだ仕事中だったので上機嫌とはいかなかった。
とにかく今死なれたらとても困るので「頑張りなさいよ」と告げる。
仕事が忙しくて葬式どころじゃないからとまで言ってしまった。
他に言いようもあっただろう。もっと優しく接すれば良かったのだが。
「はいはい、分かりましたよ」と言ったきりぷつんと電話が切れてしまった。
すぐに掛け直すことも出来たが「もういいや」と思った。
とにかく容態が落ち着いていることが分かりほっと安堵する。
正直な気持ちを言えばもう母に振り回されるのはごめんだと思った。
だいたい娘だから何でも頼めると思うのは大間違いである。
「してくれるのが当たり前」だとでも思っているのだろうか。
それは違うでしょお母さん。ついつい強い言葉を吐き出したくなる。
仕事を終えて帰り道。考えたくもないはずなのに母のことを考えていた。
もしかしたら母の声を聴くのは今日が最後ではないかと思ったのだ。
近いうちに容態が急変することも在り得るだろう。
それは今夜かもしれないし明日かもしれないのだ。
もし今日の電話が最後だとしたら私はどれほど後悔することだろう。
それが私と母の確執のようなものであるならばなんと残酷なことか。
長い人生、取り返しのつかないことはあまりにも多過ぎるようだ。
もう猛暑日になることはないだろうと思っていたけれど
今日は37℃近くまで気温が上がっていたようだ。
屋外で作業をしていた義父が体調不良を訴える。
すぐに室内で涼を取ったがもう少しで熱中症になるところだった。
まさに命に関わる危険な暑さとはこのことだろう。
今朝の山道でとても不思議なことがあった。
運転しながらなんとなくコナン君のことを考えていて
以前に近道だと教えた山道を彼は覚えているだろうかと思った。
もし会ったら「何処に行っているの?」と訊かなくては。
ああでも英語だと何て言えば良いのだろう。
咄嗟に「ゴーイング」と呟いており可笑しくてたまらなかった。
峠道を越え山里の県道に差し掛かった時だった。
一瞬のことだったがコナン君の車とすれ違ったのだった。
まさに彼は私の教えた近道から何処かに向かおうとしていたらしい。
単なる偶然かもしれないけれどこんな偶然があるだろうか。
もしかしたら私には予知能力のようなものがあるのかもしれない。
すごいな私と思った。勘が冴え過ぎているとしか思えない出来事だった。
今日はとても嬉しいメールが届く。
このエンピツ日記で以前からご縁のあった方からだった。
昨夜の私の日記を読んで今でも読み続けてくれていることを
知らせてくれたのだった。それはとても思いがけないことであった。
おそらく20年来の貴重な読者であろう。なんと有難いことである。
まさか今でも読んでくれているなんて夢にも思っていなかった。
私が把握している限りでも他に5人ほど居てくれるようだ。
長年お世話になりながら一人一人に何も伝えられなくて心苦しいが
ツウと云えばカアと応えてくれるような大きな信頼感がある。
何を書いても許されるとは思っていないが心は許せるように思うのだ。
そうしてその人たちはきっと私の最後を見届けてくれるはずである。
言葉はとても悪いが昨日今日読み始めた人に何が分かるだろう。
私が長い歳月をかけて培ってきたものは読んで来た人にしか分からない。
いつも思うがままに書き殴ってしまうことが多いので
不愉快な文章も見苦しい文章も多くなってしまうが
それが嘘も偽りもない「わたし」であることをどうか認めて欲しい。
2023年09月03日(日) |
ほっかほか亭の「とりそば」540円 |
朝焼けが見えた日は下り坂の天気だと云われているが
思いがけずに快晴となり夏の名残を愉しんでいた。
早朝には鱗雲。それもつかの間のことですぐに夏空となる。
朝のうちに図書館へ。コロナのため延長手続きをしていた本をやっと返す。
最近読書のペースが落ちておりまだ読了していない本もあった。
あと一週間は猶予があるとのこともうしばらく借りておくことにする。
椎名誠の本はほぼ読み尽くしたが裏の書庫に2冊未読本があった。
古い本だが読み始めると不思議に新鮮に感じるものである。
「読書の秋」ともなるとまたペースも上がって来るだろう。
生きているうちにあとどのくらいの本が読めるだろうと考える時がある。
夫が久しぶりに従兄弟に会ったらコロナに感染していたことを
知っていたらしくいったい誰に聞いたのだろうと不思議がっていた。
家族以外誰も知らないはずであった。病院にも行っていない。
一つだけ心当たりがあったのはSNSで発信したことであったが
高齢の従兄弟が見るはずもなくなんだか気味が悪くなってしまった。
もう済んだことだから気にするなと夫は言っているが
もしSNSが発端であるとすれば今後も注意が必要だろう。
不用意に個人情報を垂れ流しているのと同じことだと思う。
この日記もしかりである。SNSにリンクを貼ってあるので
興味があれば誰でも閲覧できる仕組みになっている。
私としてはそれを最小限に留めたいがこればかりは思うようにいかない。
今現在平均して20人くらいの読者に恵まれているが
ほぼ半数がSNS経由だと云っても他言ではないだろう。
思い切ってリンクを外すことも考えないでもないが
せっかくご縁を頂いたのに今更そんなことは出来ないと思う。
出来れば最後までおつきあい願いたい。この日記もいつかは終わるだろう。
ひょんなことからひょんな方向に展開して行くのがもはや癖だが
書き始めた以上はそれなりに収拾を付けておきたいものである。
それほどの文才ではないので尻切れトンボになってしまうこともあるが
そこは素人のことと大目に見て頂ければ幸いである。
今夜は娘達が庭でBBQをしていたので夫と二人でほか弁を食べた。
540円の「とりそば」であるが原価はいくらだろうと。
私は300円と見たが夫は200円だろうと言う。
どちらにしてもそれほど大儲けする程のものではなかった。
それを丹精込めて美味しく作ってくれる店員さんには頭が下がる。
私はお醤油の染みた鶏弁が大好きで一粒残さず平らげた。
夫は残すだろうと思いながら見ていたら全部食べてしまったので
なあんだ残念とちょっと悔しい気持ちになった。
2023年09月02日(土) |
変わること。変わらないこと。 |
濃霧の朝。霧が晴れたら青空が見えるだろうと期待していたが
薄っすらと陽射しはあったものの曇り空の一日となった。
久しぶりに洗濯物を外へ干すことが出来たが
思いがけない程の蜘蛛の巣に少し戸惑ってしまった。
カーブスへ行く前にいつものスーパーへ買物に行っていたら
私と同じ足の痛みがあるMさんに会った。
しばらく会えなかったので心配していてくれていたらしい。
Mさんもすぐには手術が出来ない。ご主人の介護をされていて
長期の入院などとても無理な話であった。
私達は会う度に励まし合う。「頑張ろうね」と声を掛け合う。
同類相憐れむではないが仲間が居ると思うととても心強くなる。
午後、母の施設の看護師さんから電話がある。
医師ではなかったので緊迫感は少し薄れていたが
「不整脈」とか「心不全」とか聞くと冷静ではいられない。
ただ危篤状態ではないことだけは理解できる。
かと言って決して安心出来る状態でもないのだった。
思いがけなかったのは母が悪態を付いているとのこと。
それは悪い意味ではなくちょっとした悪ふざけなのだろう。
おそらく「まだ死にそうにない」などと言っているのだと思う。
急変が無い限りは平行線を辿ることになるだろう。
母の定命は誰も知らない。もちろん母自身にも分からないことだった。
家族の体調がコロナ前にすっかり戻り食欲も落ち着いて来た。
今夜は久しぶりに鰹のお刺身を食べた。
私はやっぱり味覚がおかしくなっているようでたっぷりのわさび。
鼻にツンと来て涙が出る位のわさびを求めてしまうのだった。
これはわさびだけに限らず唐辛子や胡椒にも同じことが言える。
しばらくは刺激を求めて彷徨うことだろう。それもまた良しと思いたい。
変わること。変わらないこと。変化があるほうが生きる上で面白い。
平凡がつまらない訳ではないし平凡こそが幸せなのかもしれないけれど。
2023年09月01日(金) |
いつかずっと先になって |
残暑はいったい何処にいったのやら。
今日も不安定な空模様となり時おり雨が降る。
このまま夏が終わってしまうのはあまりにも寂しい。
ラジオから太田裕美の「9月の雨」が流れていた。
歌詞に「季節に褪せない心があれば人ってどんなに幸せかしら」とある。
さすが松本隆だなと思う。切なさが込み上げて来るような歌詞であった。
10月の雨ではいけないのだ。これは9月でなくてはいけないのだと思う。
母のことはひと休み。今日は幸い医師からの電話が無かった。
容態が落ち着いている証拠だろうと思うことにする。
母のことを考えていると精神的に追い詰められたようになってしまう。
母を責める気持ちよりも自分を責めてしまうからなのかもしれない。
今更親孝行な娘になどどうしてなれようかと思っている。
どれほど他人から非難されようと薄情な娘を貫きたいのだった。
夕飯に「鰆(さわら)」を塩焼きにしていた。
魚へんに春と書くのだから今が旬ではないのだろう。
あまり脂がのっていなかったがさっぱりとしていて美味しかった。
その鰆をあやちゃんが食べてくれてなんと思いがけなかったことだろう。
おかずが気に入らないと決して箸を付けないのだった。
そのたびに一喜一憂するのも疲れるものである。
新学期が始まり色々あった。あやちゃんは決して朗らかではない。
私達家族は学校の話を一切しなかった。今後もすることはないだろう。
私はせっせと毎晩の夕食を作り続けるしかない。
ただ単純にあやちゃんが食べてくれたら嬉しい。
少しでも笑顔を見せてくれたら舞い上がるように嬉しいのだった。
何かが壊れている。その原因を追究することもないと思う。
追究すればあやちゃんを追い詰めてしまうことになるだろう。
いつかずっと先になって「そんな時もあったね」と
笑いながら話せる時がきっと来るのではないだろうか。
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