ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2023年03月31日(金) 子豚の裏切り

花曇り。気温は20℃に満たず少し肌寒さを感じた。

全国的には初夏のような陽気だったようだ。

北海道も暖かだったことだろう。


「春遍路」今朝の道では10人ものお遍路さんを見かける。

殆どの人が民宿泊のようで背負った荷物が少ない。

外国人女性のお遍路さんも颯爽と歩いていて声を掛けたかった。


山里の道でも見かけた。なんと酒屋さんの自販機でビールを買っていた。

そうして近くのベンチに腰掛け美味しそうに飲んでいるのだった。

不謹慎に思う人もいるかもしれないが私の目には微笑ましく映る。

今夜の宿でもきっと飲んでいることだろう。


皆さん明日は伊予路だと思われる。お天気が崩れないことを祈ろう。





月末、年度末の仕事も無事に終わり久しぶりに定時で終われた。

今日こそはと思い掛かりつけの病院へ向かう。

ここひと月ほどずっと血圧が高いことを相談したのだけれど

病院で測ったらなんと正常値で狐につままれたようだった。

医師は私の使っている測定器が古いのではないかと言う。

以前にも言われたことがあったがまだ新調してはいなかった。

「煙草を止めたのならすぐに買えるでしょ」と言われた。

一瞬本当のことを打ち明けようと思ったがどうしても言えない。


他にも急激な体重増加も血圧に影響があるのだそうだ。

確かにこのひと月で2キロ増えたが血圧には関係ないと思っていた。

煙草を止めようとしてから一気に食欲が増したのは事実であった。


ストレスは関係ないのかと訊くと禁煙はストレスにならないと言う。

その時の医師の顔は自信に満ちていて返す言葉もなかった。

その上に「喫煙が一番のストレスになる」と言い放つのである。

それを聞くとさすがにドキッとした。私は嘘をついている。

医師は私が完全に禁煙したと信じてくれているのだった。



子豚的に裏切っているのであろう。やっぱり子豚は大噓つきなのだ。

やがて天罰が下るであろうと覚悟しようと思っていたら

「それくらいの血圧なら大丈夫でしょう」と言うのである。

それはある日ぽっくりとは死なないと言うことにも等しい。

死なないのなら煙草を吸い続けていても良いのだろうか。

今のまま職場での喫煙を続けても特に問題はないとも思える。


本当に心から煙草を止めたいのかと訊かれたら即答は出来ない。

止めたい気持ちはあるが今は吸いたい気持ちが勝っているように思う。


このジレンマから抜け出したいが深い沼にいるようだった。

息も出来ない程の泥沼でもがき続けている。


子豚は自分が理解できない。いっそ子豚を見捨ててしまいたい。



2023年03月30日(木) ずるい子豚

朝方はまだ肌寒い日が続いており暖房のお世話になっている。

夜が明けるなり洗濯物を干しているが上着が必要だった。

そんな寒さももう少しの辛抱だろう。4月も目前となった。


午後、仕事で宿毛市へ向かう途中の県道沿いの桜並木が見事である。

平日にも関わらずお花見客が多く見られた。

家族連れや女性ばかりのグループ等それぞれにお弁当を広げている。

見ているだけでほっこりと心が和む微笑ましい光景であった。


以前は私も車を停めて桜並木の道を歩いたものだった。

杖をつきながら歩けないこともないがやはり躊躇ってしまう。

元々行動力は少ない方だったが今は全く無いと言っても良いだろう。

出来ていたことが出来なくなる。すでに諦めているのかもしれない。



仕事を終えてスーパーで買物をしていたら久しぶりに友人に会った。

アマチュア写真家でもある彼女の行動力には頭が下がるばかりである。

同じ年ではあるが溌溂とした彼女は私よりもずっと若々しい。

けれどもうらやましいとは思わなかった。あくまでも私は私なのだ。

これからも出来ないことがどんどん増えるかもしれないけれど

私は私なりに出来ることを大切に育んでいきたいと思っている。





今夜もまた子豚の話で申し訳ない。

実はもう私自身でではどうすることも出来なくなってしまった。

自制心が全く無いのだ。罪を罪とも思わなくなっている。

同僚が買い与えてくれた煙草は午前中で空っぽになってしまったのだ。

じゃあ午後は我慢するのかと思えばそれも出来ない。

同僚が煙草の箱を見せびらかし「欲しいか、欲しいか」と言う。

その時私は咄嗟に「ニャオー」と鳴いてしまった。

看板猫のみい太の真似をしたつもりだったが子豚のくせに馬鹿なのだ。

すぐに間違いに気づき「ブウブウ」と鳴いたがもう後の祭りであったか。

明日の朝になってみないと分からない。同僚の判断次第である。


出来ればもう煙草は与えないで欲しいのだが優しい同僚のことだ

仕事を終えてからコンビニに走ったかもしれない。



子豚はずるいのだ。他人の善意を利用しようとしている。

有難迷惑そうな顔をしながら実はほくそ笑んでいるのであった。


いつかは決着がつくであろうか。完全禁煙までの道のりは遠いのか。



2023年03月29日(水) 嘘つきの子豚

雲が多かったが概ね晴れ。気温は20℃に届かず少し肌寒かった。

桜の季節は「木の芽どき」でもあり木々の新芽が見られる頃。

柿の木や柳の木。紫陽花にも新芽が見え始め若い緑に心が奪われる。


季節的には申し分ないが昔から体調を崩しやすい時期と言われている。

特に自律神経だと聞けば私にも思い当たるふしが無きにしも非ずだった。

高血圧もそのせいかもしれないなと日々をやり過ごしている。

医師に相談するべきか迷っているがもうしばらく様子を見るのも良い。

前回の受診日に禁煙達成の報告をしており後ろめたいせいもある。

また元の木阿弥だと知ったら医師はどんな反応を示すだろうか。

以前から相性の悪い医師なので気分がずしんと重くなる気がする。



今日は子豚のことには触れずにいようと思っていたけれど

これは日記なのでやはりちゃんと記しておかなければいけない。


「チェーンスモーカー」という言葉を知っているだろうか。

まるで鎖のように後から後から煙草に火を点けることである。

「ヘビースモーカー」とも言えるだろう。とにかく吸いまくるのだ。

けれども私の場合は決して愛煙家ではなかった。

むしろ病的な中毒者だと言えよう。自分を制御できないのだった。


毎日、毎日嘘をついている。昨夜ここに記したことも実行できない。

それでも悪びれた様子も見せず相変わらず平然としている。


これは意志の弱さだけの問題ではないのだと思うのだ。

残り7本となった。おそらく明日で無くなってしまうだろう。

子豚にだって未来はあるが決して明るいとは言えない。

生まれ変わることも不可能であればありのままを貫くしかないだろう。


ただ自分を責めることだけはしたくない。

子豚は惨めではないしこれっぽちも可哀想なんかじゃない。












2023年03月28日(火) 子豚も散りたい

咲ききってしまうとどうして散るのだろうと思いながら

桜の花を見上げていた。

「燃え尽き症候群」という言葉があるが少し似ている気がする。

一生懸命に精一杯に咲いたのだ。もうそれ以上はないくらいに。


人間の命も同じなのかもしれない。

不慮の事故や自然災害等で突然に命を落とすこともあるが

たとえ病気であっても最後の最期まで生き抜こうとする。


私はどうなのだろう。もちろん花にはなれないけれど

もしかしたらと一縷の望みを抱いて咲こうとしているのかもしれない。


紫陽花のように朽ち果てるのは嫌だ。椿のように落ちるのも嫌だ。

私は潔く散りたい。





同僚がとうとう煙草を一箱買って来ていて子豚に与えてしまった。

嬉しくなんかちっともない。ただただ困惑するばかりである。

有難うも言えない。「困った困った」と呟きながら火を点ける。


同僚にしてみれば「くれくれ詐欺」から逃れたかったのだろう。

仕事中に付きまとわれてどれほど迷惑だったことか。

酷い時には煙草を入れてある作業ズボンのポケットに手を伸ばした。

怒れば良いのにへらへらと笑うものだから癖になってしまったのだ。


まるで悪いのは同僚であるかのような言い草になってしまったが

もちろん一番の悪人は子豚である。(悪豚とも言う)

好物の餌を毎日与えられてがしがしと食べ続けて来たのだ。

少しは遠慮をするべきだったと今になって思うがもう後の祭りである。


結果は言わなくても分かるだろう。

また取り返しがつかない事態になってしまったのだ。

まともな豚ならその餌を少しずつ食べようとするかもしれない。

しかしまともではないものだから一気に食べ尽くそうとするのだ。

後先のことを全く考えていないなんと愚かな行為であろうか。


煙草のフィルターに番号を書いてみたらどうだろう。

たとえば明日は一番から三番までという風に本数を決めるのだ。

まてよ、今日は5本吸ってしまったから残りは15本になる。

明日から3本にすれば5日は持つと言うことだ。

ええと明日は29日だから土日を挟んで4月の4日まであるのか。

ようしいいぞ。その調子で頑張ってみようではないか。


何を頑張るのか訳が分からなくなってしまったが

今夜は今までのように自分を責めようとしない子豚であった。

責めると苦しくてならなくなる。もうどうしようもなく。



子豚だって咲けるかもしれない。そうして潔く散る時が来るだろう。



2023年03月27日(月) 子豚のいいかげんにせんかい

日中は春らしい暖かさだったが夕方から肌寒くなった。

明日の朝は霜注意報だとか。まさに「花冷え」である。


桜は満開となり思わず歓声をあげるほどに綺麗だった。

車中からのお花見でも十分に楽しめるのが良い。


以前は地区にも桜の名所があったが高台のため

すべての桜の木を伐採し「津波避難所」が建築された。

せめて一本でも残してくれていたらと残念でならない。

しかし地区民の大切な命を守るために必要な避難所である。


咲いた花はやがて散る。桜ほど儚い花があるだろうか。

しかも潔い。桜吹雪となり雪のように散っていくのだった。





また子豚の登場で本当に申し訳なく思っている。

「他に書くことは無いのか」と私自身も私に言いたい。

今日こそはと思っていたのだ。しかし今日も駄目な子豚だった。


煙草を恵んでくれる同僚もすっかり呆れかえっており

「いいかげんにせんかい」とついに言われた。

どうして我慢が出来ないのだろうと悔しくてならない。

吸う度にこれが最後これが最後と呟いているが

まるで催眠術に掛かったかのように魔の手を伸ばすのだ。



お風呂上りに血圧を測ったら上が170もあって驚く。

今夜ぽっくり死んでしまうかもしれないと不安になった。

もしかしたらこれが最後の日記になってしまうかもしれない。


いやいくらなんでもそれはないだろうと首を振りつつこれを記している。

子豚のストレスはマックスであるが私自身はどうなのだろう。



仕事から帰宅したらめいちゃんがお弁当箱を洗ってくれた。

春休みのお手伝いなのだそうだ。嬉しくて感激で胸がいっぱいになった。



2023年03月26日(日) 狂った子豚

小雨降る夜明け前のこと雨だれの音を聴いていると

ひたひたひたと誰かが忍び寄ってくるような気配を感じた。

「今は誰にも会いたいくないな」と思う。


恐るおそる窓を開けてみたら真っ暗闇で雨さえも見えない。

それなのにいったい誰が私を見つけようとしているのだろうか。


精神状態がまともではない。とうとう気が変になってしまったようだ。





甲子園球場も雨らしい。高知高校の試合は延期になったようだ。

大相撲は千秋楽。2時前にはもう中継が始まっていた。

今場所は幕内よりも十両が面白くて落合や炎鵬や朝乃山や。

夫と一緒にああだこうだと言いながらテレビに釘付けになる。

もう老夫婦と言っても良いだろうとても貴重な時間に思えた。

若い頃には一緒にテレビを観ることもなかったのだ。


幕内優勝は霧馬山。初優勝でとても嬉しそうな顔をしていた。

モンゴルのご家族もどんなにか感動したことだろう。

「来ていないか?」と夫が言っていたが来日はなかったようだ。

ハグしたかっただろうなと思う。これほど自慢の息子はあるものか。






先にも書いたが子豚の精神状態はまともではなく

大相撲中継は良き気分転換となったのであるが

娘が仕事で留守だったので朝から吸殻を探し求めていた。

娘達の部屋に勝手に侵入した時点で犯罪である。

心苦しさよりも大きな罪悪感に苛まれていた。


結果、吸殻は見つかり一時凌ぎにはなったがなんと不味いこと。

「こんなもの、こんなもの」と呟きながらそれでも吸わずにいられない。

完全に狂っていると思った。もう手の施しようもない。


このジレンマ。この苦しさがいったに誰に分かるのだろう。

娘が吸殻の数を覚えているとは思えないがそのうちバレるだろう。

叱られるのか罵られるのかそれは覚悟の上である。


とにかく一刻も早く絶ち切らなければいけない。

確かに出来たことが出来なくなった。その現実と闘っている。


なんだか泥沼のなかでもがいているように感じる。

身も心も綺麗さっぱりと水に流せたらどんなに救われるだろうか。



2023年03月25日(土) 儚い花だからこそ

花曇り。日本の昔からの言葉って好きだなと思う。

桜の花に青空が越したことはないけれど

ぼんやりとした曇り空に浮かび上がる花影も美しいものだ。

儚い花だからこそかもしれない。なんだか消えてしまいそうに見える。



朝のうちに週一のカーブスに行っていたが

足の痛みが酷く思うようには出来なかった。

そんな私に「頑張っていますね」と言うのは止めて欲しい。

励まされるのも褒められるのも嫌でたまらない。

コーチはどうしてそれを解ってくれないのだろうか。

私は決して花ではないけれど出来ればひっそりと咲いていたい。



午後、めいちゃんを美容院へ連れて行く。

腰まで伸びた長い髪を切りたいのだそうだ。

我が孫ながらそれは綺麗な髪で切るのがとても惜しかった。

スマホで検索したのか「こんな髪型」と言って美容師さんに見せていた。

前髪は眉毛が隠れるくらいが良いと女の子らしい注文である。


なんと20センチほども切った。私ははらはらとするばかり。

当のめいちゃんはとても気に入ったらしく満面の笑顔でいる。


床に散らばった髪を美容師さんが箒で搔き集めちり箱に入れた。

私はちょっと泣きたいような気分でそれを見ていた。


「おばあちゃんめっちゃ軽くなったよ」と風のように駆けて行く。





このところずっと血圧の高い日が続いていて

もしかしたらストレスのせいかもしれないと勝手に決めつけている。

我慢の限界をすでに超えている規模の「我慢」であった。


娘が仕事だったので何処かに吸殻を隠していないかと探したが

ちり箱の中にも見つからず気分はどん底であった。


とにかく気分転換をと思うが何をしても集中出来ない。

今日は本も読めずごろごろと寝てばかりいた。


内科の医師は禁煙出来たら血圧も落ち着くだろうと言っていたが

そんなの嘘っぱちだ。喫煙していた時の方がずっとマシだった。

近いうちに受診しようと思っているが煙草の話をすると決まって

不機嫌になる医師の顔を見るのもまたストレスになってしまう。

何もかも自業自得だと分かっているのもストレスになるのだろう。

じゃあとことん自分を責め続けるのか。その苦しさに耐えるのか。



子豚は決してのほほんと生きているわけではなかった。

餌を断たれたらもうお終いだと思いながら

それで救われるのかもしれないと一縷の望みを抱いている。



2023年03月24日(金) さすらいの子豚

曇りのち晴れ。気温が25℃を超え今年初の夏日となった。

桜は8分咲きほど。一気に春爛漫を感じられる。


県道沿いの桜並木には提灯が沢山吊られてあり

地区の人達がお花見を楽しみにしているようだった。

今日は思いがけずに晴れたが明日はまた雨とのこと

毎年のことだけれど桜の季節にはぐずついた天気の日が多い。



今日はとても懐かしい人に会った。

文房具店の営業や配達をしているI君である。

以前はよく顔を見せてくれていたがかれこれ15年程だろうか

うちのような小さな会社が注文する物などたかが知れていて

だんだんと縁遠くなってしまったのだった。


先日お店を訪ね科目印を注文したら出来次第に配達してくれると言う。

その時にI君がまだ辞めずに勤めていることを聞いていた。

それが今日の再会「お久しぶりやね」と笑顔で訪ねて来てくれたのだ。


昔話に花が咲く。なんだかとても照れくさいけれど

一緒にカラオケに行こうかと約束しかけたことなど思い出す。

あの時のI君はすっかりその気になっていてとても愉快だった。

「ねえいつ行く?」などと弾んだ声が懐かしくてならない。


そんなI君も56歳になったのだそうだ。

私と10歳も離れていたのかと今更ながらに思ったりした。


恋なんかではなかったけれど少し心がくすぐったいような。

私にもそんな頃があったのだなと思うような懐かしい再会であった。





さてまた今日の子豚。いったいいつまで続くのか分からないが

自分の記録として書き残しておきたいと思っている。


罪悪感を感じながらも何故にこれほどまでに横着でいられるかだ。

確実に分かっていることは職場での喫煙が原因となって

自宅にいる間に苦しんでいると云う現実である。

悪循環であり自分で自分の首を絞めていることに等しい。


どうして我慢出来ないのだろう。それがよく分からなかった。

習慣と云うものは怖ろしいものらしいがそれを断ち切らねばならない。

どうすれば断ち切れるのだろう。それも分からないのだ。


今はずるずると何処か得体の知れない場所に引き摺り込まれている。

それに逆らうことがどうして出来ないのだろう。


確かに一度は禁煙出来ていたのだ。あれは私ではなかったのだろうか。

本当の私はいったい何処に行ってしまったのだろう。






2023年03月23日(木) 名前のない旅

雨のち曇り。つかの間だが青空も見えた。

午後から気温がぐんと高くなり汗ばむような陽気となる。

桜も一気に花開くことだろう。明日が楽しみである。


山里の郵便局にある桜の木はソメイヨシノではなく

今日はほぼ8分咲きくらいになっていた。

葉が薄緑で花は純白そのコントラストが一際綺麗だった。

桜の種類は沢山あるらしいが何と呼べば良いのだろう。

それぞれの名があるのならその名で呼んであげたいものだ。


先日、県の「短詩型文学賞」の発表があったが

私の短歌は残念ながら落選であった。

それでも最終審査まで残っていたようで新聞に名前が載っていた。

そこにはペンネームではなく本名が載っており少し戸惑う。

応募する時に本名も明記するようにと注意書きがあったのだ。

自分の本名なのになんだか別人のような違和感を感じた。

もう30年以上も名乗っているペンネームであるが

未だに認められてはいない証拠なのだと思う。





さてお待ちかねの今日の子豚。とは言え誰も待ってはいないだろうが

書かずにはいられないので我慢して頂きたい。


とにかく精神状態がまともではないので苦しくてならない。

職場では同僚が神様のようにラッキーストライクを与えてくれるが

家に帰れば何処を探しても吸殻と云うものが無いのだった。

娘は吸っているはずなのだが吸殻を隠しているとしか思えない。


年貢の納め時とよく言うがどれほど納めれば良いのだろう。

この苦しさの中でいったい何が出来るのだろうか。


そろそろ観念しなければ。もう限界だとしか言いようがない。

切羽詰まったところでいったい私に何が出来るのだろう。



2023年03月22日(水) どうか私を止めて欲しい

春雨と云うべきだろうか傘も要らないほどの小雨が降っていた。

お遍路さんが多く見られ久しぶりに外国人のお遍路さんに出会う。

どうやら昔からある遍路道を歩いて来たようで

県道ではなく山の中から突然に現れたので驚いてしまった。

親子かなと思えるような男性の二人連れで地図を広げている。

道が分からないのかもしれないと声を掛けたが

日本語は殆ど通じない。咄嗟に「ロードオッケイ?」と訊いたら

「オッケイ、エンコウジ」と笑顔で応えてくれてほっとした。

延光寺は宿毛市にある39番の札所で夕方までには辿り着くだろう。

車だと30分ほどの距離だが歩くのは本当に大変なことだった。


小雨だと云え雨の日の歩き遍路は辛いことだろう。

青空の下を桜の花を仰ぎながら歩かせてあげたいものだと切に思った。





さて今日の子豚。もうここに記すのも見苦しくてならないが

自分を戒めるためにも書き残しておきたいと思う。

娘のシケモクをこっそり吸っていたのがバレてしまって

「気持ち悪い」と酷く罵られたばかりである。

娘曰く、加熱式煙草の吸殻を吸っていたら死ぬのだそうだ。

「もうひ孫の顔も見れないからね」と脅かされた。

「そんなに吸いたければ買いなさい」と言われたが

それだけはなんとしても避けなければいけない。

ついに追い詰められてしまったようだ。子豚に未来はあるのか。

その前に強い意志が在るのかと自分を問い詰めたくなる。


いっそ娘夫婦も職場の同僚も禁煙してくれたらと願う。

それがどれほど身勝手なことなのか分かっているのだけれど。

今はどうしようも出来ない窮地に立たされているのだった。



甘い物が食べたくてならない。ずっと我慢していたお米も食べたい。

体重はどんどん増えていくばかりである。


どうか私を止めて欲しい。それが今の子豚の願いであった。





2023年03月21日(火) 腫れ物に触る

春分の日。彼岸の中日は雨となり今も降り続いている。

春分とは太陽が真東から昇り真西に沈む日を言い

昼と夜の長さが同じになるのだそうだ。

生憎の雨であまり実感が湧かなかったのが残念である。


「桜雨」という言葉もあるがまだぽつぽつの桜で

今日のような雨に相応しいのかよく分からない。

迂闊なことを言わないほうが無難なのだろう。


お彼岸と云えばお墓参りであるが今年は疎かにしてしまった。

雨のせいもあるが夫や義妹があまり気が進まないようで

来月の姑の命日に行くことに決めた。それで良いのだろうか。




今日はあやちゃんのピアノ発表会があった。

「来ないで」とずっと言われていたので諦めかけていたが

昨夜になりお許しをもらってとても楽しみにしていたのだけれど

出掛ける寸前になってドタキャンとなってしまった。


当のあやちゃんが「行きたくない」と言って泣くのだった。

困り果てた娘までもが泣きだしてしまって最悪の事態となる。


少女期の難しい年頃のことでここに詳しく書くことは控えたいが

まるで腫れ物に触るような出来事であった。




さて子豚はどうしていたのだろう。

もう誰も聞きたくはないだろうけれど覚書として記しておこう。

結果から云えば昨夜の誓いは嘘っぱちだったことになる。

自分の意志の弱さをこれほど思い知らせられたことはない。


娘の加熱式煙草の吸殻はもはや煙草ではないと思えば救われるが

まるで藁にも縋るような思いでそれを吸う行為は許し難い。

すでにニコチンもタールも燃え尽きていてただの「藁」なのだろう。

焦げ臭いだけで酷く不味いがそれでも吸わずにはいられなかった。


やはり狂っているとしか思えない。もう手の施しようがない。


子豚もやがて「腫れ物」になるのだろうか。

誰かがそっと触れてくれるのだろうか。



2023年03月20日(月) 子豚の誓い

今日は四月並みの陽気と聞いていたがお天気は下り坂となり

夕方からぽつぽつと雫のような雨が降り始めた。


桜の花がほんの少し。まだ一輪二輪と数えるほどである。

満開なのは雪柳でそれは見事な純白であった。

畑には大根の花。チンゲン菜だろうか青菜にも花が咲いている。

まるで目移りするような春があちらこちらに見える。


朝の道では良心市に初物の「タラの芽」が並んでいた。

もうそろそろかなと待っていただけに喜んで買い求める。

一パック百円の安さ。田舎ならではのことだろう。


山里では田んぼに水が張られ田植えの準備が始まっている。

義父がそわそわと落ち着かないのも仕方ないことだった。





このまま穏やかな日記としたいところだが

子豚のことを書いても良いだろうか。

先日もう書かないと言ったばかりなのに申し訳ない。


実は昨夜泥酔してしまって煙草が吸いたくてたまらなくなった。

娘婿が以前に吸っていた火を点ける煙草が残っていると言って

まるで神様のようにして一箱恵んでくれたのだった。

私はまるで飢えた子豚であった。なんと見苦しいことだろう。

もはや狂っていると思った。もう手の施しようがない。

その後どうなってしまったかは言うまでもないだろう。


とにかくその一箱を消費しなければいけない。

禁煙を決意した時の「在庫一掃セール」である。


案の定職場でも我慢が出来なくなってしまった。

同僚にせがんでは恵んでもらい「くれくれ詐欺」だと言われる。

それも今日限りだと決意を新たにした。もういい加減にしなければ。


麻薬中毒者が服役し出所してからまたもや麻薬に溺れる。

愚かなことと人は罵るけれど私も一緒だと思った。

このままでは本当に心も身も滅ぼしてしまうだろう。

罪悪感に苛まれ気分はどんどん落ち込むばかりだった。


子豚は再び決心をする。ひと月禁煙出来たのだ。

目標は3ヶ月。いや3年だって可能だろう。

明日からまた苦しくなるがなんとしても耐えなければいけない。


どうなってしまうのだろうと案ずるのもよそう。

進む道を選ぶ時なのだ。寄り道などもう二度とするものか。



2023年03月19日(日) 罪悪感。もどかしさ。苛立ち。

朝は少し肌寒かったが日中は春らしい暖かさとなった。

今日は何処にも出掛けずにいようと決めたけれど

一日のなんと長かったことだろうか。

午前中は最低限の家事と買物に行っていたが

午後はひたすらごろごろと寝てばかりいた。


動こうと思えば出来ないこともないけれど何も出来ない。

お大師堂がずっと気になっているが今日も行けなかった。

人任せではいけないこともあるのになんと無責任なことだろう。

まず花枝(しきび)を切りに行けない。無理をすれば行けるだろうが

足の痛みのせいにしてそれが億劫でならなかった。

決してどうでも良いことなどとは思っていないのだけれど

こころと身体が酷くかけ離れているように思えてならなかった。


罪悪感。もどかしさ。苛立ちが治まらない。

そんな状態でこれを記していることが申し訳ないとも思う。


明日になればもしかしたら救われるのだろうか。

一縷の望みはあるように思う。生きてさえいればと。


どん底ならば這い上がるしかないだろう。


誰が守ってくれるだろうか。自分以外に守る者などいないのだ。



2023年03月18日(土) 元の木阿弥

明け方まで小雨が降っていたが日中は青空が広がる。

彼岸の入りで「寒の別れ」だろうか。風が少し冷たかった。

あちら側とこちら側。まるで季節が引き裂かれているようでもある。



朝から気分がなんとなく落ち着かず苛々してみたり。

誰のせいでもない。自業自得だと分かっていた。

灰皿に娘が吸殻を沢山捨ててあって火を点けずにはいられない。

立て続けに5本ほど吸ってしまい酷い自己嫌悪に陥る。

これこそが元の木阿弥である。なんと情けないことだろうか。



カーブスはそれなりに気分転換となった。

足の痛みはあったが先週程ではなく辛さを感じずに済んだ。

コーチは必要以上に褒めようとするがそれが仕事なのだろう。

私は出来ればそっとしておいて欲しいが笑顔で応えていた。

そんなコミュニケーションも必要なのかもしれないなと思った。

帰り際に近所に住むYさんに会った。3B体操の時の仲間でもある。

彼女も膝が痛く今月から通い始めたのだそうだ。

大なり小なり痛みを抱えている人が居るものなのだ。

自分だけではないと思うと不思議と励みに思ったりする。



午後、所属している同人誌へ原稿を送った。

この2ヶ月程の間に書いた短歌から16首を選んだ。

どれも変わり映えのしないマンネリ化したものばかりである。

それでも諦めてしまうわけにはいかない。


詩の掲載は一切認められていない。

三下り半を押されてからもう一年以上が過ぎている。

私の詩はもう二度と受け入れてはもらえないだろう。

すでに孤立しているのだと思う。もう独りで書き続けていくしかない。

そんな運命なのだなと受け止めると少しも惨めではなかった。



娘の吸殻が目障りでならず全てゴミ箱に捨てた。

それなのにどうして煙草の箱を私の部屋に置いているのだろう。

加熱式煙草なので「火を点けないで下さい」と注意書きしてある。


火を点ければ身体に害があるのだろうか。

娘が確かそんなことを言っていたようにも思うが今は仕方ない。


くらくらと眩暈がする。いったい私はこの先どうなってしまうのだろう。









2023年03月17日(金) それぞれの人生

しとしとといかにも春らしい雨が降っている。

恋をしているわけでもないのに雨音が心に沁みる。

何が切ないのかよく分からないけれど今夜はそんな気分だった。


高知城下の桜が今日開花したそうだ。

四万十の桜もすぐに後を追うだろう。

この雨が上がればと明日のことを考えている。



夫71歳、母85歳の誕生日だった。

今朝はめいちゃんがもじもじしながら「おじいちゃん」と呼びつつ

小さな包み紙を手渡していた。夫のなんと嬉しそうな顔。

手紙には「なにをおくろうかすごいまよったよ」と書いてあり

チョコレートとマシュマロが添えられてあったようだ。

なんと優しい子に育ってくれたのだろうと感動せずにはいられなかった。


居間の壁にはめいちゃんの描いた絵を貼ってある。

「わたしのかぞく」と書いてありそこには私と夫も描かれてあった。

娘には家族ではないと言われ続けているけれど

めいちゃんだけは私達を家族だと認めてくれているのだと思う。

ずっといつまでもとは言い切れないけれどとても有難いことだった。



母には何も出来ずせめて電話をと掛けてみたけれど繋がらない。

30回もコールしてみたが諦めるしかないようだ。

母は自分の誕生日を憶えているのだろうか。

そうして何よりも今幸せなのだろうか。

訊けば「幸せよ」と応えるかもしれないけれど訊くことも出来ない。



夫の71年の人生。母の85年の人生に思いを馳せる。

夫とは縁あり共に人生を歩むことが出来ているが

母との人生は私が13歳の時から途切れてしまっている気がする。

それはきっともう家族ではなくなってしまったからだろう。


私は妻であり娘であるけれど私にも残された人生があるのだった。

寄り添うこと。共に生きること。そうして愛すること。


それぞれの人生が終着駅に向かって旅をしているように思う。



2023年03月16日(木) 夫の生きがい

曇り日。時おり霧雨のような雨が降った。

気温は20℃ほどですっかり春の陽気となる。


「根性すみれ」と呼ぶべきだろうか庭のコンクリートの隙間から

それは逞しくしかも可憐に野すみれがたくさん咲いた。

毎年のことだけれど今年は特に多いようだ。


冬の間に雑草と一緒に萌えていたのを引かずに残しておいていた。

きっと咲くだろうと信じていただけに嬉しくてならない。


それから葉牡丹。ここ数日の間ににょきにょきと伸びて

菜の花のような黄色い花を咲かせている。

去年は種を採れなかったので今年こそはと思っている。


残念なのはチューリップ。球根を植えるのをすっかり忘れていた。

去年は沢山咲いたけれど今年はもう諦めるしかないようだ。



足の痛みのせいにして庭いじりも疎かになるばかりだった。

「出来ない」の一言で済ませるよりも出来ることを見つけたいものだ。





先日市役所から高齢者へのアンケート用紙が届いていた。

介護保険課からで身体的なことや日常生活を調べる目的らしい。

精神的な項目もあり例えば「悩みを相談する人はいますか?」とか

「いま幸せですか?」「生きがいはありますか?」等であった。


私はアンケートが好きなのでさっさと書き終えていたが

夫は面倒くさいと言ってなかなか書こうとしない。

今日はやっと書き終えたようで市役所に返送することにした。

その前についつい夫の解答用紙をこっそりと覗き見してしまう。


なんだかとても複雑な気持ちになってしまったのは

「生きがいは思い当たらない」と記していたことだった。


決して生きがいが無いわけではないのだと思う。

ただ何が生きがいなのか分からなかったのだろう。


ふと憐れに思った。こんなにも幸せなのにどうしてだろう。

夫は夫なりに人生を諦めてしまっているような気がしたのだった。


明日で71歳になろうとしている。まだまだこれからと思うか

残り少ないと思うかは夫にしか分からない心の問題だと思う。


ふたりして生きがいを見つけようとは言えないけれど

ただたった一人の人生ではないことを忘れないでいて欲しいと願う。





2023年03月15日(水) 引き返すなら今しかない

夜明け前、ナイフで真っ二つに切ったような月が見えていた。

月の満ち欠けに想いを巡らせながら短歌と詩を書く。

全く書けない日もたまにあるけれど書けたらとても清々しい。

相変わらず自分では良し悪しが分からない。

めいさんが「いいね」してくれたらなと思ったけど今朝は駄目だった。

私はほんとうに欲深い人間なのだなとつくづく思う。

毎日リツイートしてくれる方が3人もいてとても有難いことなのに。




先日「子豚の再犯」をここに記したが今日は「子豚の挫折」だ。

どうしても我慢できなくなって同僚にラッキーストライクを貰った。

一本だけのつもりだったが結局は3本となる。

同僚と話していてやはりストレスではないかと頷き合う。

彼が親指を立てて「これだろ」と言うのは社長である義父のことだった。

義父の性格にはもう慣れているはずであったが

心のどこかで少なからずストレスを感じているのかもしれない。


煙草でストレスが解消される訳はないが不思議と落ち着くのだった。

ひと月を乗り越えて完全に禁煙出来たと思った矢先のことである。

もちろん情けなくてたまらないけれど自分を赦す気持ちもあった。


3日を乗り越えたら次は3週間、その次が3ヶ月で後は3年だと言う。

元の木阿弥に戻ることはなんとしても避けたいと思っている。

「子豚シリーズ」をもう書くつもりはないのでそっとしておいて欲しい。



体重がとうとう60キロを超えてしまった。

このひと月で3キロも増えたことになる。

一概に禁煙のせいだとは言えないかもしれないけれど

どうしようもなく食欲を我慢出来なくなってしまったのは事実であった。



自分がなんだかとんでもないところに向かっているような危機感がある。

引き返すなら今しかないのだろう。

ひたすら前を向くことだけが人生ではないのかもしれない。








2023年03月14日(火) お母さんもうすぐ桜が咲きそうです

寒の戻りだろうか、今朝は真冬並みの寒さとなった。

暑さ寒さも彼岸までと云うが冬はもう背中を向けているのだろう。


東京で桜(ソメイヨシノ)が開花したそうだ。

高知は16日頃らしい。県西部は少し遅れるのではないだろうか。

帰宅途中に桜並木を仰いだがまだ咲きそうには見えなかった。


義父は田植えの準備を始めており今日ももみ蒔きをしていた。

先日蒔いたもみは育苗機でもう芽を出しハウスへ運ばれている。

来月早々には田植えとのことまた忙しくなりそうだ。




今朝は思いがけずに嬉しいことがあった。

SNSで発信した短歌と詩にめいさんが「いいね」をしてくれたのだ。

ずっと無視されていると思っていた。認めてはもらえないと。

それだけで一概に良し悪しの判断は出来ないけれど

もしかしたら認めてくれたのかもしれないと救われたような気持になる。

私のような落ちこぼれにもそんな奇跡のようなことがある。

どれほど励みになったことだろうか。感激で胸がいっぱいになった。



帰宅する前に母の入居料を支払いに行っていた。

先月は思いがけずに母に会えたので期待していたけれど

今日は駄目だった。ケアマネさんも忙しそうで無理も言えない。

母の様子を訊くことも出来なかった。なんとも寂しくてならない。


高知市内に住む弟からも電話があり少しでも面会が出来ないかと。

ケアマネさんに相談したらガラス越しならば構わないとのこと。

顔を見ることは出来るが会話は無理だろうと思われる。

それでも弟は孫達を連れて近いうちに行くからと言っていた。

もう3年以上も会っていないのだ。母のひ孫もずいぶんと成長している。


私はずっと母に電話もせずにいる。薄情な娘を貫いているが

母の夢をよく見る。本当は恋しいのかもしれない。


それなのに時々母の存在そのものを忘れている時があるのだった。

母は確かに私を生み育てたかもしれないけれど

私の人生における母はあまりにも儚い存在だった。







2023年03月13日(月) 散る花もあれば咲く花もある

昨夜はぐっすりと眠っていて知らなかったが

まるで春の嵐を思わすような天気だったようだ。

雨上がりの朝のこと。北西の強い風が吹き荒れていた。


国道沿いの白木蓮の花が殆ど散ってしまっていて憐れだった。

道路には綿を敷き詰めたような花弁。その上を車が通り過ぎて行く。

痛かろう辛かろうと声を掛けずにいられなかった。


散る花もあれば咲く花もある。馬酔木、雪柳、岩つつじ、ラッパ水仙。

そうして何よりもあと数日もすれば桜の季節がやって来る。


何度目の春だろうかと今朝は思い出してた。

決して思い出ではないのにどうして思い出すのだろう。

死んだ子の年を数えてはいけないと云うけれどどうして忘れられようか。

あの子は6月に生まれるはずだった。もう49歳になろうとしている。

なんの供養もしてあげずに私ばかりが年を重ねて来たのである。


もしかしたら生まれ変わっているかもしれないと探していた。

ネット空間を彷徨いながら雲をつかむように歳月ばかりが流れる。

あの子かもしれないと思うと執着し取り乱したことも多々ある。


赦されるべきではない母としていったい何を求めていたのだろう。


あの子の命日を憶えていない。そこには漠然とした3月があるばかり。

桜が咲いていたことだけは憶えている。私は薄桃色の少女だった。



今はもう姥桜になってしまったが咲いてみようと思っている。

今年もきっと潔く散ることが出来るだろう。



2023年03月12日(日) 生きてみないと分からない

書かなければいけないことがあるのではない。

ただ書きたくてたまらずこの場所に居る。

だいたいいつも18時45分頃だ。

普通の主婦ならまだ忙しい時間帯だろう。

その点私はどうやら恵まれているようである。


夕食は夫と二人で食べることが多く18時には食べ終えている。

汚れた食器も少ないのでちゃちゃっと洗って済ます。

それからお風呂に入る。夫の次なので2番風呂だ。


焼酎の水割りを作り二階の自室まで運ぶ。

ちびりちびり飲みながらこれを記し始めるのだった。





快晴ではなかったが今日もすっかり春の陽気。

気分転換を兼ねて何処かに出掛けようかと思っていたが

夫が新しいお財布が欲しいと言うので二人で買物に行っていた。

もうすぐ誕生日なのでプレゼントだと言ったり

財布は春に買うのが縁起が良いのだと言ったりである。

「青山」「ワークウェイ」「マルナカ」と3店舗まわったが

気に入った財布が見つからず結局諦めることになった。

財布に入れるお小遣いは少ないがカード類が多過ぎるのだった。

免許証、マイナンバーカード、病院の診察券等である。

その上に大きい財布は嫌で手のひらサイズの物を欲しがるのだ。

可哀想なので誕生日には何か他の物を買ってあげようと思っている。



買物に出たついでにダイソーに寄り室内用の杖を買い求めた。

茶色か黒色しかないだろうと思っていたら赤に白い水玉模様があった。

なんと165円の安さである。これで私の体重を支えられるのか。

少し不安ではあったが結構丈夫そうな杖であった。


娘や孫達のブーイングが凄い。娘は「夢に出て来そう」だと言う。

めいちゃんは「それは何?」と不思議そうな顔をしていた。


四六時中杖に頼るつもりはない。痛くて辛い時だけだと思っている。

無理なく歩ける限りは自分の足で頑張ってみたいのだ。


とうとうここまで来たか。ついつい嘆きたくなるけれど

何度も言うが一縷の望みを捨てるつもりはなかった。


もしかしたら奇跡も起こるかもしれないではないか。


生きてみないと分からない。だからこそ生きる甲斐があるのだと思う。



2023年03月11日(土) 悔しさにバネがあるのか

最高気温が20℃を超えすっかり春の陽気となった。

春霞は黄砂だろうか。ぼんやりとした空もまた良いものである。



やはりSNSからの転載は止めることにした。

少し迷ったけれど愚かなことなのだとしたら早いに越したことなはい。

「馬子にも衣装」と云う言葉があるが

自分の書いたものを飾り立てて灯りまでともし夜道を明かすような行為

それこそが「自己解説」なのだそうだ。

あくまでも読者に委ねなければいけないと云うことなのだ。

それはとても心細くてならないけれど読者を信じようと思っている。


以前はよくここでも詩のようなものを書いていたので

またそんな機会もあるのではないだろうか。

その時には快く受け止めて頂けたら幸いに思う。






午前中にカーブスへ。このところずっと足の痛みが酷く

出来るかどうか分からなかったがとにかく行ってみようと思った。

筋トレは出来るがその合間の足踏みが殆ど出来ない。

少しでも動かしてみようと自分なりに努力をしてみる。

いま諦めてしまったらもう一生出来ないような気がしていた。

嘆くことはいくらでも出来る。それは自分に負けることに等しい。


歯を食いしばりながらなんとか最後まで出来た。

辛かっただけにその達成感がとても心地よかった。

もしかしたら痛みが薄れるのではないだろうかと

一縷の希望は捨てずにいようと思っている。

今がどん底ならもうこれ以上の底があるはずがないではないか。



悔しさをバネにとよく云うけれど今の私はどうなのだろう。

確かに悔しさはあるけれど仕方ないことだと思っている。

だからバネには出来ないかもしれないが立ち向かう勇気のような

ほんの少しだけ強がっている自分を感じるのだった。


「大丈夫?」と訊かれたら「大丈夫よ」と今なら応えられるだろう。





2023年03月10日(金) 子豚の再犯

起き上がり小法師のように生きている試しに倒してみればいい


それほど強く逞しくはない

涙を流す日もあれば

嘆く日だってあるのだ



ただ起き上がることは出来る

たとえ泥だらけになっても

空を仰ぐことが出来るだろう



試されるために生きている


私を倒してみなさい


痛みなど怖れてはいない





自分の書いた詩を「自己解説」してはいけないのだそうだ。

詩はあくまでも読者のものらしい。

私は今までずっと自分のものだと思っていた。

だからまるで我が子のように叱ることも出来たのだ。


夜明け前にSNSに書いて発信したものを

夜になりここに転載していたけれど

今後もそれを続けるべきだろうかと迷っている。

このままだとどうしても「自分のもの」にしてしまうだろう。

明日までに結論を出したいと思っている。

どうすることが最善なのかよく考えてみたい。





子豚のことを憶えているだろうか?

その子豚が今日は悪さをしたので報告しておきたい。

罪名は「拾得物横領」としておこう。しかも執行猶予中のことである。

明日で猶予期間が終わり晴れて刑を免れる所だったので残念でならない。


子豚は魔がさしたと供述しているが赦すわけにはいかなかった。

目撃者も居るのだ。そうなれば現行犯としなければならない。



どうしても我慢できなかった子豚の気持ちも分からないではない。

けれども理性はどうしたのだ。強い意志はどこに行ったのだ。

子豚は酷く後悔しており深く反省している様子であるが

犯した罪はそうそう簡単に消えるものではないのだった。


その後の子豚の供述によると

拾ったお金を警察に届けず使い込んでしまった時のようだと言う。

罪悪感は半端ではなかったことだろう。そうして苦しみも伴う。


いっそ死刑にしてくれと子豚は叫んでいるが

軽犯罪なのでその願いは叶えてやることは出来ない。


いま子豚は取調室に居るが一本の煙草もカツ丼も与える訳にはいかない。



2023年03月09日(木) 絶好調と絶不調

「書けない」と云うことを書こうとしている

この悶々とした苦しさが分かるだろうか

崖っぷちに立っているようだ

海の青さが目に沁みるばかり

一歩踏み出すことが出来ない

それでも私は存在していて

ありったけの命で叫び続けている

「書けない」と書いた

「生きたい」と書いた






書ける日があるのにどうして書けない日があるのだろう。

何か精神的なモノかなと思うのだけれどよく分からない。

とにかく今朝は書けなかったので「書けない」と書いた。

くだらないことかもしれないけれどこれが精一杯なのだ。

限界はいつも感じている。その限界が怖くてならない。




午後、短時間ではあったが雷雨に見舞われた。

ずしんずしんと地面を揺らすような雷鳴におののく。

空が春を告げに来た「春雷」なのだなと思う。


山里では義父が稲のモミ蒔きを始めている。

もうそんな季節なのかと感慨深い。

いつものことだけれど稲作の事となると本業を忘れる。

一切口を出してはいけないのでピリピリと緊張するのだった。

それが少なからずストレスになっているようだ。


今日は煙草が吸いたくてたまらなかった。

でもそれをしてしまえば今までの苦労が水の泡になってしまう。

とにかくひたすら我慢をしなければいけない。

それがまたストレスになり精神的に追い詰められていくのだ。

煙草には関わりたくないと言いながらなんと矛盾していることか。


そんなストレスに足の痛みが拍車をかける。

これでは二重苦ではないかと情けなくてならない。

職場の近くの商工会に行くのに杖を付きながら歩いて行った。

近所の人に会って「体裁なんて言ってられんよ」と声を掛けてもらった。

痛みを我慢するよりも杖に頼りなさいと云うことなのだ。


この先「絶好調」と云う日はおそらく無いだろうと思っている。

精神的なストレスは気の持ちようでなんとかなるが

足の痛みだけはどうしようもなくずっと我慢の日々なのだろう。


我慢は試練と似ているがそっくり同じではないような気もする。



これを記しながら娘のシケモクにまた火を点けてしまった。

「この馬鹿野郎めが」情けないのと悔しいのともうごちゃごちゃだ。



2023年03月08日(水) 私も狂い咲きたい

煌々と輝く月を仰ぎつつ見えない星の名を呼んでいる


満ちた月が浮かぶ空は

思いがけないほどに明るく

あたり一面を照らしている



星には名があるのだそうだ

誰にも知られていないことを

嘆く夜もあるのだろうか



消えてしまうのではない

ただ見えなくなってしまう


月明りに寄り添う一粒の希望だ





昨夜の満月の名残で空は明るく星が見えなかった。

その「見えない」ことを表現したかったが上手くは書けない。

星を私に重ねているのが解るだろうか。

説明しなくては何も伝わらないのではないだろうかと思う。

そもそも私が一粒の希望だなんてあり得ないのではないか。



最高気温が20℃を超え4月中旬並みの暖かさとなった。

桜(ソメイヨシノ)が狂い咲きをした地域があったそうだ。

暖かいのは嬉しいけれど異常気象が気になるところである。

大きな地震が来るのではないかと不安になってしまう。

週末には東日本大震災から12年目になろうとしている。



今日は粗大ごみの収集日だったので空気清浄機を処分した。

長年私の部屋で使っていた物でもの凄い汚れだった。

すべて煙草の脂である。なんともおぞましい有り様であった。

優れ物の清浄機だったので片っ端から煙を吸っていたのだろう。

どんなにか苦しかったことだろう。その労をねぎらう。

ろくにフィルターの掃除もしてやらなかったことが悔やまれる。

そうしてまだ動けるのに捨てられる定だったのだ。


私はもう見たくもなかった。それが正直な気持ちである。

とにかくもう煙草には関わりたくない気持ちでいっぱいになっている。

けれども我が家では私の部屋が唯一の喫煙場所になっており

娘達の吸殻が捨ててもすぐにいっぱいになってしまうのだった。

電子煙草なので煙も脂も出ないのだが吸殻だけは残るのである。

その吸殻が曲者で在った。火を点ければちゃんと吸えるのだ。

娘はどうやらそのことを知らないようだった。


私はそんな誘惑と闘っている。もう決して火を点けてはいけない。


ある人が禁煙まで3ヶ月かかったらしい。

私もまだまだぬか喜びは出来ないかもしれない。



2023年03月07日(火) 自分に厳しく

もう春と咲き誇りたる花がある私の胸に一輪を挿す


雀色の野原だった

枯れることに慣れてしまって

夢も見ずに生きてきたけれど



相応しいとかそうではないと

いったい誰が決めるのだろう



美しく在りたいのではない

ただいのちを咲かせたいと思う



こんな私にも陽射しは降り注ぎ

春の花が胸に寄り添う





春らしい詩をと思い書いてみた。

自分では良し悪しが全く分からないけれど

思いがけずに好評でお二人の方からコメントを頂く。

何か伝わるものがあったのだろうか。

共感してもらえたのならなんと有難いことである。

とても励みになる。書いて良かったのだなと思った。

かと言って有頂天にならないことだ。

あくまでも私は自分に厳しくありたいと思っている。

今にまたとことん貶す日もあるだろう。




今日は杖を買うつもりだったが買わずに済んだ。

母の荷物を整理した時に確かあったような気がして

探してみたらすぐに見つかったのだった。

折り畳み式で紫色に白い花柄の上品な杖であった。

一目で気に入りこれからは私が使用することに決める。

それにしても母が杖を付いていた記憶が全くなかった。

いったいいつ買ったのだろうと不思議でならない。



職場の庭を杖を付きながら少し歩いてみた。

なかなかに良い感じである。ずいぶんと楽に感じる。

ただ左手に持つのか右手に持つのかよく分からなかった。

左足が痛いのだから当然左手のように思われるが

右手に持った方が歩く時に楽なような気がしたのだった。

それとあまり杖に頼り過ぎてもいけないように思う。

杖なしで歩けそうな時は自分を試してみるべきだろう。

まだ完全に杖デビューとはいかないかもしれない。

なんでもそうだが一度楽な思いをすればそれが癖になるものだ。




余談ではあるが完全禁煙からもうすぐ一月になろうとしているが

昨夜寝る前に魔が差したのか娘のシケモクに火を点けてしまった。

それは不味いはずだったのになぜかとても懐かしかった。

シケモクを拾い集めすべて捨てる。それが精一杯の抵抗である。

まだ未練があるのだろうか。それが口惜しくてならない。



2023年03月06日(月) 転ばぬ先の杖

息ばかり何処に向かっているのやら心はいつも手探りのまま


いったい何を信じていいのか

分からなくなる時があるのだ



雲を掴むようなことだと

誰かが言っていたけれど



触れてみたいと思った

たとえ消えてしまっても

確かに存在するのだろう



生きてさえいれば

辿り着く場所がきっとある





すっかりマンネリ化してしまった。

自分でも分かっているのだけれどどうすることも出来ない。

このまま書き続けていても良いのだろうか。

いったい私は何処に辿り着くのだろう。




二十四節気の「啓蟄」土の中で眠っていた虫たちが動き出す頃。

季節はもうすっかり春となり暖かな陽射しが降り注ぐ。


今朝は国道沿いに白木蓮が咲いているのを見つけ嬉しかった。

ここ数日の間に一気に咲いたようだった。

手のひらをそっと合わせたような蕾が私はとても好きだ。




このところ足の痛みが酷く思うように歩けずにいる。

どうやらストレッチの効果は出ておらず反対に悪化しているようだ。

今日はあまりの辛さに杖を買おうと思い立ったけれど

何処に売っているのだろうよく分からなかった。

帰宅して夫に訊いたらホームセンターに在るだろうと言う。

早速明日行ってみようと思っている。



白髪を染めるのを止めたのですごい髪になっている。

その上に杖を付いて歩けば10歳は老けて見えるだろう。

それでも良いかなと思うのだ。体裁よりも大切なことである。

「転ばぬ先の杖」と云うではないか。用心に越したことはないだろう。

もし転倒すれば確実に骨折するだろうと思われる。


手術は10年後と決めていたけれどそれまで持つだろうか。

そう思うと不安でいっぱいになってしまう。

私はいったいどうなってしまうのだろうと考えてばかりいる。


「歩く」ことがどれほど有難いことかしみじみと感じている。

二本の足があるのだから当たり前のことだとずっと思っていた。

まさか歩くのが困難になる日が来るとは夢にも思っていなかったのだ。


「頑張れ、頑張れ」そう声を出しながら歩いている。

とにかく一歩を踏み出して行かなければいけない。



2023年03月05日(日) スポットライト

満月が近いようだ

西の空に煌々と輝く月を

仰ぎながらこれを記している



歌のようなものは詠めなくて

詩のようなものも書けなくて

空に放つこころがもどかしい



言葉は何処から生まれて来るのだろう

どうすればそれを育てられるのだろう



生きて生きてその時を待つしかない


こんな私にも明日がある





今朝は短歌が書けなかった。

それでもとにかく何かを書かないと気が済まない。

結局また苦し紛れにつまらないことを書いてしまった。


生きてさえいれば明日が来るだろうけれど

書けるかどうかは明日になってみないと分からないのだった。

なんだか簡単に書けてはいけないような気がする。

苦しんで苦しんでこそ生まれる言葉があるのではないだろうか。




今日はめいちゃんの通っているダンスクラブの発表会があり

土佐清水市の文化会館まで行っていた。

驚いたのはクラブのメンバーさんに高齢の方が多く見られたこと。

どう見ても80歳は超えていると見える白髪のご婦人も居た。

それがスポットライトを浴びるとなんと若々しいことだろう。

とても生き生きと踊っていて感動せずにはいられなかった。

幾つになってもやれば出来るのだと思う。とても素晴らしいことだ。


ゲスト出演者もあり思いがけずに「よさこい」も観られた。

高知市内からの若者達であったがもの凄い迫力である。

まだ少年らしい子もいて目を見張る程に上手だった。


ハワイアンだろうかフラダンスもあった。

お年を召された方ばかりのフラダンスは少し不気味であったが

露わにした二の腕がまるで大根のように白くゆらゆらと揺れていた。

それでも堂々としていてやはり感動せずにはいられなかった。



さて肝心のめいちゃんであるが一際目立つほどに上手いのである。

我が孫ながら感心して自慢せずにはいられないのだった。

才能のある無しに関わらずずっと続けさせてやりたいと思った。



あやちゃんはお留守番をしていたが複雑な気持ちだったろう。

私達も同じ気持ちだった。早めに辞めておいて良かったと思う。

発表会はとても無理だったろうと今日はつくづく思ったのだった。

やはり向き不向きはあるだろう。まだまだこれからの長い青春である。


好きなことがきっと見つかると思う。

それがたとえどんなことであっても全力で応援したいと思っている。





2023年03月04日(土) 命ある限り

ゆらゆらと私の影が揺れている灯りを求め彷徨いながら


光あってこその影だろう

暗闇では何も見えない



不確かなことに慣れて

見失ってしまったことが

どれほど大切なことか

思い知るばかりだった



このまま影として生きるのか


それは時おり歪に姿を変え

私を貶めようとするけれど


負ける気はない





なんだか意味深な詩になってしまったが他意はない。

最後の一行になり文字数が足らなくなり無理やり終わらせた。

そのように不完全なものでも躊躇なく公表するほどの度胸が

私にもまだあったのだろうかと不思議に思っている。


昨年の暮れに奥様を亡くされた方から「リツイート」があった。

何か心の琴線に触れるものがあったのだろうか。




曇りの予報だったが思いがけずに陽射しがあり嬉しかった。

洗濯物が乾かないとどうしても憂鬱になってしまうのだ。


10時からカーブス。足の痛みが酷く恐る恐るであったが

やはり思うようには出来ず予定の半分で諦めてしまった。

もしかしたらもう出来なくなるではないかと不安になってしまう。

頑張ることは出来ないけれど気力だけは持ち続けていたいものだ。


今日は月一の計測日だったがやはり体重がかなりやばい。

禁煙してから一気に2キロ増えもうどうしようもなかった。

体脂肪計に乗るのに素足にならなくてはいけなくて

今朝は夫に足の爪を切ってもらった。

痛みで左足を曲げることが出来ず自分ではもう爪も切れない。

夫に爪を切ってもらいながら涙が出そうになった。

情けなくてならないのと有難くてならないのと。

このまま一生夫の世話になるのだなと思っていたら

「俺が死んだら」などと夫が言いだすので一気に不安になる。


たかが足の爪と思うかもしれないが生きている限りそれは伸びる。

まるで命そのものであるかのように育っていくものなのだ。



2023年03月03日(金) この儚さに

弱くてもいい在りのままそこに居てきみに寄り添う私も弱い


心細くてならない

きみに触れようとしたら

今にも壊れてしまいそうだ


それでも生きて在りながら

息を数え続けている

確かなことを信じようと

どれほど耐えたことだろう



きみの傍に居させて欲しい


肩を寄せ合いながら

今を生きていこうよ





また「きみ」と書いてしまった。

何度も言うが特定の誰かを指しているわけではない。

じゃあ何なんだと訊かれても困るが「きみ」は何処かに居るのだろう。

それはもしかしたら私とよく似た人なのかもしれない。


いま咄嗟に「妄想」と云う言葉が頭に浮かんだが

そうだそれなんだと思った。私はどうやら妄想するのが好きらしい。




仕事を終えて帰りながらラジオを聴いていた。

色んなラジオネームの人が居て愉快ではあるけれど

どうして本名を名乗らないのだろうとふと思ったりする。

そういえば昔からそうだった。私も「青い鳥」と名乗っていた。

でも日本でラジオ放送が始まった頃はどうだったのだろう。

放送局に葉書を出す時は住所と本名を記していたのではないだろうか。

匿名希望の人は別としてもっと堂々としていたのではと思う。

堂々と云う表現は間違っているかもしれないが言い換えれば

自分の身元を隠さずに公にすることを心掛けていたのだと思う。



ラジオに限らずネット社会のSNS等でも同じことが云える。

SNSが特に酷いと思うのは性別さえも公表しない人が多い。

もちろん年齢も不詳。その上に住んでいる地域も不詳である。

言葉はとても悪くなるが「何処の馬の骨やら分からない」のだった。

そんな人達とはなるべくなら関わらないに越したことはない。

距離は遠いほど良い。そうして決して親身にならないことだ。


SNSが楽しい。繋がりが嬉しいとよく耳にするが

私は楽しいと思ったことなど一度もない。

繋がりも求めてはいないしむしろ一匹狼で居たいとさえ思っている。


それでは何故SNSを続けているのだろうか。

それは今の私にとって唯一の発信場所だからだろう。

大げさかもしれないけれど自分で選んだ道なのだった。


ある日突然に途絶える時が来ることだろう。

それはこの日記も同じことである。


ネット社会はとても儚いけれどそれは私の命にも等しい。



2023年03月02日(木) 満ち足りることよりも

半分はきみにあげようこの月のぬくもりほどの光る真心


満ち足りることよりも

ささやかなことを望む



たとえば優しすぎるきみより

厳しい眼差しのきみが好きだ



求めればよけいに辛くなる

かと言って手放しはしない



分かち合うことが出来る

半分の真心があるならば


このぬくもりを共に生きよう





窓から月は見えなかったが半分の月だろうと想像しながら書いた。

こんなふうに説明をしなければ解り難いと思う。

「半分の真心」とはいったいどのようなものなのだろう。

分かち合うから半分になるのだろうか。それはすべてではなくて

共にぬくもりを感じるようなささやかなものなのかもしれない。

とにかく理解に苦しむ。いったい何を表現したかったのだろうか。




今日は冬型の気圧配置となり風が冷たかった。

明日の朝は真冬並みの寒さになるのだそうだ。

昔大好きだったNSPの歌「弥生冷たい風」を思い出す。

あの歌の中では桜がもう散り始めているのだから「花冷え」なのだろう。

桜の季節になると必ず寒の戻りがあるものだった。


今年は18日頃だとか。開花宣言があることだろう。

全国的に平年よりも早い開花になるそうである。

北海道は5月が見頃らしい。正しく寒さなければ花は咲かずである。


たけさん。りゅう。よしえさん。会うことは叶わないけれど

こうして名を呼ぶことは出来る友たちが住んでいる。

死ぬまでに一度は訪ねたかった北海道であったがおそらくもうそれは

叶わないまま夢として終わることであろう。



あとどれくらいの人生なのか考えない日はないくらいだ。

切羽詰まって来ると明日の命さえも心細くてならない。


欲深いものだから思い残すことがたくさん在り過ぎる。

そのひとつひとつを宥めながら生きているような日々であった。


やはり私は満ち足りることよりもささやかなことを望んでいる。



2023年03月01日(水) 花として生きたい

花として生きてみたいと願いつつ一歩踏み出す弥生三月


まだ固い蕾を胸に

老いた樹は風に吹かれている



あれはいつの春だったか

学び舎から旅立ったころ

どれほど生きられるかなど

考えてもいなかったのだ



歳月は流れ

冬の寒さを乗り越えてこそ咲く花


そんな一輪になりたい

花として生きたい





花は桜を意味する。

老いた樹はもちろん私のことである。

学び舎を旅立つのは卒業のこと。

もう49年も昔のことであった。

私にとっては生涯忘れることの出来ない日である。

大きな罪を背負った。記憶はとても残酷に蘇って来る。

私は今まで赦されて生きて来たのだろうか。


「花として生きたい」と最後を結んだが

それはもしかしたらとんでもなく愚かなことなのかもしれない。

私はあまりにも身の程を知らな過ぎるのではないだろうか。




そんな気持ちとは裏腹に弥生三月のなんと新鮮なことだろう。

特に何かを始めるのではないがもう始まっている気がする。

それが何なのか分からないけれど生き生きとしてくるのだった。

目に見えないものに動かされているような気がしてならない。

うまく言葉に出来ないけれどそうして生かされているのだろう。

季節の扉はもう開かれている。迷わず踏み出していかねばならない。


この道で良いのかよく分からない。

葛藤もあれば迷いもあることだろう。

何よりも老いはひしひしと迫って来ている。


私は胸を張りたいけれど心細くてならなかった。

美しくなくても良いのだ。ただこの春を花として生きたいと思う。


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