届かぬと諦めそうになりながら見上げる空に光る星粒
夢は何処を彷徨っているのか
身の程を知り過ぎた我が身に
突き刺すような未練があった
果てしなく広がる空に
もしも希望があるなら
一目だけでも見せて欲しい
満たされることよりも
一粒を選びたいと思う
私はまだ諦めてはいない
私の夢とはいったい何だろうと思う。
そもそもこの歳で夢もへったくれもないのではないか。
それなのにどうして「夢」と書きたがるのだろう。
はっきりとしたカタチがあるわけではない。
それは漠然としていてまさに彷徨っているようだ。
ほんの一粒の星の欠片のようなものなのだろう。
そこまで言うのなら星の欠片を見たことがあるのか。
流れ星さえも見たことがないくせにいい加減なことを書くんじゃない。
今日は全国的に春の陽気となったようだ。
夕方のニュースで札幌の雪解けの様子を見た。
2月にしては観測史上初の暖かさだったらしい。
もう雪の日がないことを祈らずにはいられない。
足の痛みは昨日よりも少しマシになっていた。
やはり突発的なものだったのだろうか。
今日は歩けることの有難さをつくづくと感じる。
当たり前のことなどなにひとつないのだと思う。
一歩一歩踏みしめるように歩きながら感極まっていた。
まだまだこれからの試練なのだ。少なくとも10年だろう。
手術が出来る環境が整えば私はもう迷うことはない。
どれ程の痛みにも耐えて見せよう。私はもう歩き始めている。
まだ冬の名残の朝に佇んでせめて息はと呼ぶ春がある
逃げて行くのだという
季節は何の罪を犯したのか
囚われるのを怖れているようだ
私は息を数えている
ひとつふたつ春を感じながら
そのぬくもりに命を預けた
どこまでが冬なのだろう
決めることは出来ないけれど
逃れさせてやらねばと思う
今朝は真冬並みの寒さとなり氷点下だったようだ。
せめて息はと思いながら書いたけれど
相変わらずのモノになってしまった。
最後の一行がなんとなく変ではないかと思う。
逃れさせてやらねば。日本語として間違っているのかもしれない。
ようは逃げる2月を表現したかったのだが上手くいかなかったのだ。
最高気温が15℃を超えすっかり春の陽気となった。
優しい陽射しを浴びていると生き返ったような気分になる。
まだまだ寒の戻りがあるかもしれないけれど
季節はもう春と言っても良いのではないだろうか。
夕方から左足が酷く痛む。歩くのもままならないほど。
特に無理をした覚えもないので突発的なものだろうか。
毎日ストレッチをしていても効き目が殆ど感じられない。
運動療法が一番の治療だと聞いていたが不信感が募って来た。
それでも藁にも縋る思いで続けて行こうと思っている。
たとえ今日のように最悪の日があってもずっと続くわけではない。
明日の朝には痛みが和らいでいるかもしれないのだ。
少しだけ弱音を吐いて少しだけ嘆いた。今日は許してやろうと思う。
本当のことを書いてこその日記ではないだろうか。
夫が教えてくれたのだけれど歌手の和田アキ子も股関節だとか。
ネットで検索したらすぐに詳しいことが分かった。
私と同じ変形症ではないようだけれど人工関節手術は同じだった。
手術をしない限り完治はしないのである。
彼女は杖をついたり時には車椅子も頼ったりとかなり重症らしい。
それでも仕事に穴を空けない。生放送にもちゃんと出ている。
「大丈夫、なんとかなっています」とコメントがあった。
さすがアッ子さんだと感激し頼もしく思ったのは言うまでもない。
私も胸を張って「大丈夫」と言いたくてならないのだった。
痛みがあると少なからずメンタルが弱る。
「なんのこれしき」と思っていても痛みには勝てないのだ。
だからと言って負けっぱなしでいるつもりはなかった。
立ち向かって行く勇気のようなものがまだ私にも残っているようだ。
生きている限り明日があるならば今を希望と呼ぶべきだろう
いつかは終わる
限りある命だとしても
精一杯でありたいと思う
今を生きていると
辛く苦しいこともあるけれど
与えられた試練ではないだろうか
嘆いても何も変わらないのなら
信じてみたらどうだろう
明日こそが希望なのだ
辿り着こうよ
今朝は苦労なくすらすらと書けたが
なんだか綺麗ごとを並べ立てたような詩になってしまった。
ひとは本当に辛くて苦しい時に明日を信じられるのだろうか。
たとえ試練だと分かっていても乗り越える強さが必要である。
そんなにひとは強くはない。弱さも認めてやらねばならないのだ。
そう思うとなんと無責任な詩なのではないだろうか。
今日は穏やかな晴天に誘われるよう出掛けていた。
四万十川を遡り県境を越え愛媛県の鬼北町まで行く。
山間の小さな町だがあちらこちらに菜の花が咲き乱れていて心が和む。
なんだか菜の花の町のようなイメージがあった。
お昼時になり国道沿いのこじんまりとしたお店で昼食を摂る。
食堂でもなく喫茶店でもなくなんと呼べば良いのだろう。
「お食事処」と書いてあったが民家のようでもあった。
メニューが面白い。「ラーメン屋さんではないけどラーメン」とあり
私は迷わずにラーメンを頼み、夫はオムソバを頼んだ。
繁盛しているのか後から後からお客さんが入店してくる。
運ばれてきたラーメンは決して不味くはなかったけれど
市販のラーメンスープに蒸し麺を入れた物のようだった。
チャーシューの代わりに豚肉の炒めた物が入っている。
やっぱりラーメン屋さんではないのだと愉快な気持ちになった。
夫は可哀想。オムソバに大嫌いなピーマンが入っていたのだった。
それでも食べ終わるまでその事を言わなかった。
宇和島経由で帰路に就くことにしナビにお任せをしたのだけれど
ナビは最短距離を教えてくれるのでそれも良し悪しであった。
国道441号線を初めて通る。それがなんと酷道なのである。
車一台がやっと通れるような細い峠道をくねくねと走る。
やっと民家が見え始めたと思ったらそこはまだ鬼北町なのであった。
もう一度ナビを設定し直しやっと宇和島市へ辿り着くことが出来た。
そこで緊急事態が発生する。私が便意を催してしまったのだ。
高速道路に入いる直前にコンビニが在りそこへ飛び込んでいた。
出すものを出してしまえばなんともすっきりと心地よい。
コンビニでアーモンドチョコを買ったので食べながら家路に就いた。
「ちょいと疲れたけど面白かったな」夫と笑い合っていた。
二人で行けるうちにといつも思っている。
独りでは私は何処にも行けないだろう。
今朝は何も書けず。悶々としていたが潔く諦めることにした。
頭の中が白紙状態で落書きさえも書けない時がある。
苦しみよりも酷く焦ってしまう。焦れば焦るほど言葉は逃げていく。
しばらくどん底の気分になっていたが落ち込んでも仕方ないことだ。
明日は書けるかもしれない。そう思うと少し気が楽になっていた。
高校時代にも毎日詩を書いていた。
昼休みになると図書室へ行き隅っこで黙々と書いていたのだった。
同じ文芸部だった西沢君に放課後詩のノートを渡すと
次の日にノートが返って来て西沢君の詩が書いてあった。
今思えば交換日記のような物だったのかもしれない。
私は西沢君の詩がとても好きだった。
「きみ」と書かれていると私のことかもしれないと思ったりもした。
でもやがてそれが大きな勘違いだと判り辛い思いをしたけれど
西沢君は私の詩のいちばんの理解者だったことに変りはなかった。
50年の歳月が流れ西沢君の消息は未だに分からない。
ただ今もきっと詩を書いているのに違いないと信じているのだった。
それはどんな詩だろう。出来ることならば読みたくてたまらない。
会うことは叶わなくても西沢君の詩に再会したいのだった。
短歌にしても詩にしても私は孤独だと言って良いだろう。
「一匹狼」などと言えば恰好良く聞こえるがまず仲間が誰一人居ない。
それは理解者が一人も居ないことにも等しいのではないだろうか。
それを寂しいことだと言ってしまえば私はお終いだと思う。
私には私なりに貫くべきことがありそのために生きている。
理解者を求めるよりも自ずから自分を理解するべきなのだ。
とことん守ってやろうではないか。最後の最期まで。
独りぼっちだからこそ書けることがきっとあるのに違いない。
手探りで君との距離を確かめる届かぬことも希望に変えて
きみの声が聴こえたような気がして
暗闇を一歩踏み出してみた私は息だ
届かぬことを嘆かずに
憧憬を夢とも思わずに
ただ息だけを頼りに生きている
きみに会いたいのではない
ほんの少しでいい
きみを知りたいと思っている
久しぶりに「きみ」が出て来る詩のようなものを書いたが
これは特定の誰かを指しているわけではない。
もちろん憧れているわけでもなく恋をしているわけでもないのだ。
ただ「きみ」と書いてみたかっただけなのだろうと思う。
だから心が少しも籠っていない。まるで雲を掴むような詩である。
いくらでも恋の詩が書けた若き頃がふと懐かしく思い出される。
午後から仕事を休ませてもらって整形外科へ。
診察前にリハビリがあったがキャンセルをする。
簡単なストレッチなので家で毎日出来ることばかりなのだ。
時間の無駄だと思ったのは言うまでもない。
病院に長居をしたくないのも本音であった。
待合室は高齢者で溢れている。私もその仲間となってしまった。
医師に無理を言って60日分の薬を処方してもらう。
これでしばらくは通院を免れることが出来る。
足の痛みは相変わらずで辛い日もあるけれど
気長に付き合っていく覚悟は出来ている。
まだ歩くことが出来るのだ。それだけで十分ではないだろうか。
最近嬉しいのは会う人がみな「足はどう?」と気遣ってくれることだ。
全く知らない人でも「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれるのだった。
自分ではあまり意識していないけれど歩き方が不自然らしい。
「びっこ」という言葉は差別語になり今は使ってはならないけれど
まさしくそれであり足を引き摺りながら歩いているのだった。
これから春になり暖かくなると痛みが和らぐような気がしてならない。
希望を持って春を迎えようと思っている。
漆黒の空を彷徨う眠らない鳥のごとくに時をついばむ
明けない夜はないという
星は消えてしまうのではなく
ただ見えなくなってしまうのだ
私は羽ばたくことをしない
ずっと樹にしがみついている
眠れなかったのではない
眠らずに夜明けを待っている
時は味方だろうか
どれほどの希望があるのだろう
いつも読んで下さっている方が絵文字の拍手で応えてくれた。
素直に喜んで良いのかよく分からないままお礼を伝える。
どうなんだろう?本当にこんな詩で良いのだろうか。
矛盾している箇所がある。
鳥のような私は漆黒の空を彷徨っている。
彷徨うには空を飛ばなければいけないのではないか。
それなのに樹にしがみついているのはおかしいと思うのだ。
所詮その場しのぎの言葉なのだろう。口から出まかせとも云うらしい。
椎名誠の本を読んでいると「垂涎」という言葉がよく出て来る。
「よだれをたらす」意味は分かるのだが読み方が分からなかった。
それがやっと今日分かった。「すいぜん」と読むのだそうだ。
決して難しい漢字ではないけれど私のような無知無学の者も居る。
なるべくならふりがなを振って欲しいと願ってやまない。
涎を垂らすほど食べたくてたまらない物だがそれには我慢が要る。
そう易々と口に出来ないから「垂涎」と云うのだそうだ。
食べ物だけとは限らない。たとえば欲しくてたまらない物だ。
手に入れたくてたまらないがそれにも我慢が必要なのである。
「垂涎的」と云う表現をするらしいことを初めて知った。
私は人一倍食い意地が張っていて常に涎を垂らしている。
食べたいと思ったらもう我慢が出来なくなってしまうのだ。
そんな場合はどう表現すれば良いのだろう。
垂涎を叶える?とでも云うのだろうか。日本語は難しくてよく分からない。
読書量は多くひっきりなしに本を読んでいるけれど
あまりおりこうさんにはなっていないようだ。
2023年02月22日(水) |
このままではいけない |
冷ややかな空に語りかけている春かもしれない星の微笑み
ずいぶんと遠いところ
手を伸ばせば逃げていく
まるで幻のような空だった
季節はせめぎ合いながら
空を冬色に染めるけれど
漆黒の空に輝く星がある
その微笑みに春を託そう
希望をなくしてどうして
生きていられるだろうか
春は遠くなどない
今朝は氷点下の冷え込み。真冬並みの寒さとなる。
もう慣れてしまっているのだろう。少しも苦には思わなかった。
部屋を暖めながら短歌を書きそして詩を書いていく。
自分ではほんとうに良し悪しが分からず自信の欠片もなかった。
「つっこみ」と云うかけなすことはいくらでも出来る。
たとえば星の微笑みとはどのような光景であるのか。
それを私はこの目で見たことがあるのだろうか。
やはり自分の綴る言葉に酔っているとしか思えないのだった。
最近ここに書きたいことが思うように書けない。
禁煙日記を境になんだか以前のような日常が遠ざかっていったようだ。
孫たちのことを書きたくてたまらないけれど躊躇してしまう。
特にあやちゃんは難しい年頃となり書いてはいけないことが多くなった。
とても複雑な気持ちになるけれどそれは寂しさにも等しい。
孫たちは成長していて時はどんどん流れているのだと思う。
私も変わらなくてはいけないのだろう。このままではいけないのだ。
これはブログではなく「日記」なのだと宣言したことがあるが
果たして日記になっているのだろうかと心細くてならない。
先日のように自棄になればまるで狂ったも同然である。
心の余裕が無いものだからどんどん追い詰められていく。
そうして去っていく人達が居る。それはもう自業自得であった。
このような私にどうして引き留めることが出来ようか。
梅の花が咲き菜の花が咲く頃。寒の戻りはあっても春なのに違いない。
希望をなくしてどうして生きていられるだろうか。
静寂にかける言葉が見つからず宙を彷徨う私は欠片
とうとう割れてしまったのか
触れると傷つきそうな欠片になった
ぶつかってはいけない
かと言ってためらえば
居場所を見失ってしまう
どうすればいいのだろう
私は彷徨い続けている
ふさわしい言葉があれば
おしえてはくれまいか
このひと欠片に
今朝は少しマシなものが書けたように思ったのだけれど
いま読み返してみるとやっぱり駄目のようだ。
自分を「欠片」だと言っているが本当に割れたのだろうか。
それも粉々になるほどに脆いものだったのだろうか。
自分を卑下しようとしているのが見え見えである。
きっと憐れに思っているのだろう。無様な姿としか思えない。
もっと自分に誇りを持てるようなものが書けないものだろうか。
それは「自信」とは違う。心細くとも強い芯のあるようなもの。
この日記もそう。昨夜はかなり自棄になっていたようだ。
今朝読み返してみて笑った。愚かな自分が可笑しくてならなかった。
思った通りアクセス数がぐんと減り得票数も一票となる。
私にとっては「清き一票」である。本当に有難くてならない。
何を書こうと私を信頼してくれている人が居てくれるのだろう。
その好意に私は甘えていたいと思うのだった。
本来ならばランキングなどに拘らないのが一番であろう。
分かっているけれどついつい結果を知りたくなってしまうのだ。
勝とうが負けようがどうでも良いではないか。
ただ自分が思う存分に書ける場所があるだけで幸せだと思いたい。
近い将来この場所も無くなってしまうだろう。
私は何処に行けば良いのだろう。
やっぱり私は欠片になって彷徨っているのかもしれない。
こどくとは毒のようなものなのか私の灰汁もそれに似ている
決してうつくしくはない
浮き上がった汚れは
ふつふつと漂っている
私は孤独のふりをして
膝を抱えているけれど
振り向けば誰かが居て
そっと声が聴こえてくる
毒ならば捨ててしまおう
やがては澄んだ水のように
生かされる時が来るだろう
短歌は3年前に書いたもの。誰も憶えてはいないと自信がある。
この短歌で詩を書いてみたらどんな詩になるだろうかと
試しに書いてみたのだった。止めて置けば良いものを。
結果はご覧の通りである。またしても意味不明なものになった。
私は自分のことを灰汁の強い人間だと思っている。
変わり者で偏屈であるし頑固でもあるのだ。
人当たりは良いかもしれないが表と裏があるように思う。
正直者でもないし素直でもない。ようはろくでもない人間なのだ。
どうだ参ったか。ここまで自分をこき下ろすとなんと心地よいことか。
これは癖になるなとほくそ笑んでいるところである。
普段は優しそうな仮面を付けているが外すと鬼ばばあなのだ。
だからうかうかと近づいたらきっと酷い目にあうだろう。
刃物を振舞わすようなことはしないが危険なことには変わりない。
自分では無意識のうちにぐさっと突き刺さる言葉を発する時もある。
ああオソロシヤ。こんな人の日記をずっと読んでいたなんて
そう思った人は一刻も早く逃げておしまいなさい。
「恨めしや」と追い駆けることなどしないので安心するのです。
私は時々こんなふうにやけっぱちになる。
決して孤独ではないというのにどうしてなのかよく分からない。
道遥か生きてみないとわからない踏み出して行くいのちの一歩
終わることを怖れるよりも
始めてみるべきではないか
どれほどの心細さも
生きる糧になるだろう
道は遥かに続いている
何が待っているのか
誰もおしえてはくれない
確かなことがきっとある
ひとつきりの大切ないのちではないか
今朝はすんなりと書けたが相変わらずの駄作である。
やたらと「いのち」に拘っている。
生きたい気持ちは分からないでもないが度が過ぎると愚かになり
どのような言葉で飾ってもそれは綺麗ごとに他ならない。
「確かなこと」とはいったい何だろう。
書いた本人にも分からない不可解な詩となってしまった。
雨の予報だったが降らないまま一日が暮れる。
二十四節気の「雨水」雪が雨に変わる頃と云われている。
北国にもゆっくりと春が近づいているのではないだろうか。
陽射しこそなかったが気温が高くなり暖かな一日だった。
本を読むには最適で今日も一冊読み終える。
後は少しお昼寝をしたりテレビを見たりしていた。
夫が「鬼平犯科帳」を見ていたので一緒に見ていたら結構面白い。
気のせいかもしれないけれど夫の機嫌がとても良く感じた。
「一緒」というのが嬉しいのだろう。まるで子供のようである。
なんだか「おかあさんといっしょ」みたいで可笑しかった。
煙草を止めたことをまだ話していなくて少し後ろめたい。
重大な隠し事をしているような気がしてならないのだった。
鈍感な人なので気づくことはないだろうと思うとよけいに後ろめたくなる。
打ち明ければ喜んでくれるのだろうか。それとも「当然のこと」だと
言って馬鹿にされるかもしれない。私は増々臆病になってしまう。
元々喫煙には理解のない人だったのでそれも仕方ないことだろうか。
それにしても30年以上もよく我慢してくれたものだと思う。
私は決して機嫌を取っているつもりはないが
夫が穏やかな笑顔でいてくれるのが一番の幸せであった。
若い頃にはぶつかり合うことも多く夫婦の危機さえもあった。
その度に夫は私を赦し私のすべてを認めてくれたのだと思う。
だから私は夫を失うのが怖くてならない。
あとどれくらいなのか分からないけれど
一緒にいられる日々を大切に過ごしたいと思っている。
書けないと呟いてみる夜明け前書きたい私が彷徨っている
いつものように4時に目覚めたが何も書けず悶々とするばかり。
制限時間は4時50分まで。文字数は140文字である。
4時半までに短歌が書けなかったらまず無理であろう。
焦りと苦しさ。なんだか崖っぶちに立っているような気分になる。
決して書かなくてはいけないのではない。
ただ書きたくてたまらないだけなのだった。
思うようにいかない日は潔く諦めるようにしているけれど
すっきりとはしない。こころの奥で何かがくすぼっているのを感じる。
椎名誠のナマコシリーズを全て読み終え今は赤マントシリーズを読んでいる。
とにかく面白くてたまらない。堅苦しさが無いのでとても気楽だった。
書くことが大好きというだけあって楽しみながら書いているのが分かる。
私もこんなふうに日々を綴れたらどんなに良いだろうかと思う。
洗いざらい包み隠さずが理想ではあるがそうは問屋が卸さない。
以前のように孫達のことや家族のことはあまり書けなくなってしまった。
それも寂しいことではあるがやはり家族を守らねばならない。
「公開されている」それを一番の念頭に置くべきなのだろう。
自分のことはいくらでも書ける。恥も外聞もない。
先日来の禁煙日記などどれほど愚かなことだったろうか。
禁煙に成功しある意味もうネタ切れになってしまっている。
それでも生きてさえいれば日記は書けると言ったのは私であった。
明日がどんな一日になるのやら分からない。
それでも私は書くだろう。ありのままの自分の姿を見つめながら。
冬の背にかける言葉が見つからずこのままそっと君と別れる
別れ道までもう少し
無言のままで歩いている
君の背は広く逞しく
勇気のように見える
私は春に似ているらしい
やわらかな蕾を胸に抱き
誇らしげな顔をしている
君は何処に向かうのだろう
季節の掟には逆らえず
真っ直ぐに前を向いている
書けるには書けたが上出来とは言い難い。
私の短歌は擬人化だと以前ある人に教えられたことがある。
たとえばこの短歌だと冬が君になっており人であるかのようだ。
それはそれで良しとしてなんだか自分に酔っているように感じる。
こういうのをナルシストと云うのだろうか。よく分からないけれど。
分からないことを書いてはいけないがもう書いてしまった。ごめん。
今週は仕事が暇で退屈極まりなかった。
同僚や義父は忙しそうにしていたが私だけする仕事がなかったのだ。
ついつい早弁をしてしまったりこっそりと本を読んだりする。
今日は村内巡回と称してぶらりと車で出掛けてみた。
毎年楽しみにしている梅の花がぽつぽつと咲き始めていた。
誰かに会いたくてならない。世間話でも何でも良いのだ話をしたい。
人恋しい季節でもないのにどうしたことだと不思議でならなかった。
そうかと言ってコミュニケーションは苦手である。
とくにSNSではなるべく避けたいと思っている。
「今日もよろしく」とコメントを下さる方には申し訳ないが
いったい何がよろしくなのか分からない。
顔も知らない名前も知らない人と何をよろしくすれば良いのだろうか。
私は変わり者なのだとつくづく思うことが多い。
幸い頑固者ではないようだが偏屈なところがあるようだ。
人並みではないところが私の良いところなのかもしれない。
昨日から一気に得票数が減りランキングが下がり始めた。
つかの間ではあったが良き夢を見させてもらったと感謝している。
やがてはまた落ちぶれていくだろう。
どれほどもがき続けるかそれが見ものである。
冷たさはあとどのくらい訊く空に瞬く星は春を呼んでる
冬は潔くは去れず
何度も振り向いている
そっと背中に触れたら
荒い息づかいを感じた
きっと苦しいのだろう
まるで囚われているようだ
空は見守っている
あふれんばかりの星を携え
春を呼び続けている
もう少しあと少しなのだ
氷点下の冷たい朝、暖房を点けてもすぐには暖まらない。
窓を開けてみたら満天の星空が見えていた。
ただそれだけのことである。果たして星が春を呼んでいるのだろうか。
星と春を結び付けるには少し無理があるように思えてならない。
所詮綺麗ごとなのだ。いつだって私は苦し紛れである。
その苦しさを愉しんでいるのではないかとふと思ったりした。
こういうのを何て言うのだっけ。SとかMとかどっちなんだろう。
完全禁煙6日目。自分なりの判断ではもう大丈夫だと思う。
今日もお客さんの車を清掃していて灰皿に嫌悪感を感じた。
臭くてたまらないのだ。吸殻など見たくもないと思った。
つい先日までシケモクを漁っていたのが嘘のようである。
同僚は信じられない様子で「いつまで続くやら」と笑っていたが
私はもう3ヶ月だって3年だって続けられる自信が出来ている。
この先どれほどの誘惑があろうと決して煙草を吸うつもりはない。
こうして未だに禁煙日記を記していることにも抵抗が出て来た。
禁煙を決意してからもうすぐひと月になろうとしている。
まだかまだかとどれほどの方達に心配を掛けたことだろう。
見守ってくれ応援してくれ本当に感謝しきれない程である。
少しずつ以前のような日常に戻りたい気持ちはあるけれど
年頃になった孫達のこと。家族のプライバシーに関すること。
どうやら書きたいように書くわけにはいかないようだった。
ゆらりゆらりと私は何処に向かうのか分からないけれど
命ある限りと思う気持ちは変わることはないだろう。
本当のことを知りたいだけなのに時は流れて身は霧のなか
誰もおしえてはくれない
真実は綺麗ごとなのだと
風は噂をするけれど
私は霧に包まれながら
少しずつ動き出していた
見えないのではなく
ただ遠くにそれはある
どれほどの時が流れても
きっと辿り着くだろう
霧が晴れたら語り合おう
今朝は苦労なく書けたが今読み返してみると意味不明である。
どうやら私は霧に包まれているようだが
いったい何を求めようとしているのだろうか。
「誰もおしえてはくれない」と言いながら
最後には「語り合おう」と言っている。
誰と語り合うのだろう。酷く矛盾しているように思えて来た。
年金支給日であり母の入居料を支払いに行っていた。
いつもお世話になっている介護士さんに会うことが出来て
ちょうど母がリハビリ室に居るとのこと。
病院の中庭を通り抜けリハビリ室の窓越しに母の姿を見る。
あまりにも久しぶりのことで胸がいっぱいになった。
窓際まで近づいて来た母の声がよく聞こえない。
ただ泣きながら笑っているような顔だけが見えた。
それもつかの間のことで互いに手を振り合って別れる。
私は痛む足を気づかれないようにと背筋を伸ばしていた。
二度振り向く。母はずっと手を振り続けていた。
介護士さんがSNSに母の動画を発信してくれたとのこと。
帰宅してすぐに見たらなんと母が歌っているのだった。
「おひなまつり」の歌で母の元気な声がとても嬉しくてならない。
再生ボタンを押し続けながらとうとう涙が溢れてしまった。
「あかりをつけましょぼんぼりにお花をあげましょ桃の花」
幼い頃に母が歌ってくれただろうけれど憶えてはいなかった。
だから私にとっては生まれて初めて聴く母の歌声であった。
ずっと電話もせずにいたこと。母のことを忘れたふりをしていた。
会いたいとも思わず声を聞きたいとも思わずにいたのだった。
今日はなんだかそんな後ろめたさから救われたような日だった。
空っぽになっている
見つけようとせずに
その隙間に触れると
息ばかりの心になった
そんなに大したことじゃない
いったい何を求めているのか
ささやかなことのために
無心になろうとしている
祈れば救われるだろうか
私の空白に相応しい色は
誰にも見えない息の色だ
漂っている彷徨っている
今朝は短歌が書けなかった。
ああ駄目だなと諦めかけながら詩のようなものを書く。
支離滅裂ではないかもしれないけれど理解し難いモノとなる。
ようは空っぽなのだ。中身がない。それなのに必死になって
息で埋めようともがいているとしか思えない。
いつも読んで下さっている方から「待っている人達もいますよ」と
コメントを頂いたが返信することが出来なかった。
その方は多分書けなくて苦しんでいる私のことが分かったのだろう。
励ましてくれたのだと思う。なんと有難いことではないか。
完全禁煙から4日目。なんとも不思議なことがあった。
昨日は必死の思いで我慢していたのだけれど今日は全く違っていた。
3日耐えたら禁断症状が消えると聞いていたが本当にその通りとなる。
苛々感も無くなり気分はとても落ち着き集中力も出て来る。
吸いたいという気持ちはもう完全に消え失せてしまっていた。
なんだか生まれ変わったような気分であった。
苦しかったことが嘘のように思えてやっと救われたのだと思う。
禁煙パイポを捨ててしまった。とにかく何も吸ってはならないのだ。
「こんなもん、こんなもん」と声を出して投げ捨てたのだ。
そもそも禁煙パイポは「禁煙」のために吸うものではない。
煙草を吸いたくてたまらないのに吸えない時に使用するものだ。
本気で禁煙を考えているのならこれほど危険なモノはないだろう。
私の場合それに気づくのが遅かったが今夜はもう大丈夫だ。
書けないかもしれないと不安だったが今確かにこれを記している。
もう子豚が登場することはないかもしれないけれど
このひと月近く子豚として生きて来られて良かったと思っている。
いつかは精肉になる運命だが「トンカツ」になれれば幸せである。
雨だれと一緒になって落ちていく地には微かに春の音して
ぽつんぽつんと呟いている
聴いて欲しくてならない
私は素直ではないけれど
正直に打ち明けてみたい
君は春の音を知っていますか
どうか耳を澄ませてください
私は落ちながら水になる
もう冷たくはないだろう
君は触れてくれるだろうか
今朝は少しまともなものが書けたような気がしたけれど
気のせいかもしれない。単なる己惚れかもしれないと思う。
アラさがしをすればキリがないのだ。
たとえば叩けば埃が出るように。同じホコリでも誇りではない。
だから胸を張ることも無いだろう。しょんぼりと項垂れているべきか。
この場に及んでいったい何をほざいているのやら。
私は私が不可解でならないが不愉快ではないのだと思っている。
さて決戦の月曜日。今日こそは負けないぞと意気揚々と職場に向かう。
もう二度とチャンスは無いように思っていた。
とにかく強い意志を持って立ち向かっていかねばならない。
まずは決して喫煙所に足を運ばないことから始めた。
案の定そわそわと落ち着かなかったが必死になって我慢する。
これはギャンブル依存症の人がパチンコ屋に行かないのと似ている。
子豚の場合は餌を求めないことだ。たとえ大好物のラーメンであっても
そうしてどれほど空腹であっても絶対に口にしてはいけない。
やがてカウントダウンが始まる。あと30分、あと10分と。
残り5分になった時には目の前がすっかり明るくなっていた。
そうして逃げ去るようにタイムカードを押し家路を急いでいた。
これで完全禁煙三日目をやっと達成したことになる。
やれば出来たのだと感激で胸がいっぱいになっていた。
しかしまだ油断は出来ない。今週いっぱいが大きな勝負である。
それと気掛かりなのはまだ禁煙パイポを手放せないこと。
「こんなもの、こんなもの」と思いながら今も吸っている現実である。
あれも駄目これも駄目では精神的にどれほど参るだろうか。
「かかってこいや」と思う気持ちはあるけれど
「ゆるしてほしい」と弱気になってしまう時もある。
けれども私はほんの少しだけ進歩したのではないだろうか。
今日は「よくやった」と自分を褒めてやりたいと思う。
野に春の便りが届く若草の緑は淡い恋に似ている
何度も読み返しては
君の名を確かめている
私のような者にと思った
春は分け隔てなく
陽のぬくもりを届ける
憧れのままで良かったのだ
なのにどうしてこんなにも
胸がせつなくなるのだろう
私は緑の衣を羽織った
もうすぐ君に会える日が来る
66歳のいい年をしたおばさんが「恋」とは如何なものだろう。
いくら苦し紛れに書いたものとはいえ許し難いことである。
恥を知りなさい。夢見る乙女にどうしてなれるだろうか。
春は確かに近づいているけれど私の存在に気づくとは限らない。
そもそも羽織るべき緑の衣を持ち合わせていないのだ。
雀色の古びたセーターを着ている。毛玉だらけでなんと見苦しい。
それでも春が見つけてくれるのなら私は生きていられるだろう。
今日も気分転換を兼ねて何処かに出掛けようかと思っていた。
娘夫婦が仕事だとは全く知らされていなかったのだ。
それだけ私達に遠慮をしていないと云うことだろう。
「じゃあ頼むけんね」の一言でさっさと仕事に出掛けて行った。
私はまた少し禁断症状が出ていてそわそわと落ち着かない。
読書にも集中出来ず家事をする気にもならなかった。
こんな日は寝るに限るとほぼ一日中炬燵に潜り込んでいた。
やはりこのままでは駄目だと思い知らされる。
週末になる度に苦しまなくてはならない。もう限界だと思ったのだ。
とにかく決心する。明日からもう一本たりとも煙草を吸わない。
それは大きなストレスになるかもしれないけれど
もし一週間それが出来ればどれほど救われることだろうか。
完全に禁煙が出来るのだ。それは願っても無いことである。
思うだけではいけない。それは誰にでも出来るだろう。
私はここに記すことで自分の意志を貫きたいと願っている。
最悪の場合は恥の上塗りになるかもしれないけれど
私は自分を試してみたいと思っている。
寒空に浮かべる星があるように
こころには命の蝋燭が灯っている
雨の日も風の日も雪の日もあった
ずっと守り続けてきたことが
私の誇りなのではないだろうか
季節は春に向かおうとしている
やわらかな陽射しを浴びながら
私は炎となり燃え続けていたい
やがては尽きることを怖れず
生きて生きて
今朝は短歌が書けずまた苦し紛れに詩のようなものを書いた。
例えはとても悪いが便秘の末にやっと出た硬い便のようである。
悪臭こそしないがつい鼻をつまみたくなるのも無理はない。
たとえ綺麗に着飾っていても肌は汚れているのだろう。
それを自覚しながらも未だに拘り続けている。
なんと愚かなことだろう。私は私が見苦しくてならない。
午後、めいちゃんのダンス教室へ送迎を兼ねた付き添い。
娘夫婦が仕事だったので頼ってくれて嬉しかった。
本来は木曜日の夜が練習日だが発表会が近くなり今日は特別だったよう。
練習風景を見学出来るのでとても楽しみであった。
それがとてもハードで驚く。さすがめいちゃんだなと思った。
よほど運動神経が良くないと無理だろう。
あやちゃんがリタイヤした理由もやっと納得出来た気がした。
私には大いに気分転換が出来た一日となる。
禁断症状が少しあったがそれも忘れていられたのだった。
吸えない日と云うより吸わない日と云う自覚がちゃんとあった。
出来ることならばもう自分の首を絞めたくはない。
いったいどうすればこの悪循環から逃れられるのだろうか。
そもそも欲しがっているのは心ではなくて脳だろう。
脳はいかにも心であるかのように振舞う曲者であると思っている。
その脳をコントロール出来たらどんなにか救われるだろうか。
能天気と云う言葉があるが私の脳は曇り続けている。
すっきりと晴れて心地よい風に吹かれていたい。
脳がいかれてしまうともう馬鹿としか言いようがない。
もうすでに馬鹿なのかもしれないけれどまだ生きたくてたまらない。
欲ばかりひとつきりでは足らなくてもっともっとと噛む指がある
満たされているはずだった
溢れているのは水だろうか
それは容易くこぼれ落ちる
分不相応なことを考えていた
まるで夢のようなことばかり
このままでは終われないと
いったい誰が決めたのだろう
指を嚙んでいる
その痛みが愛しい
子供の頃に流行っていた歌謡曲に「小指の思い出」があった。
「あなたが噛んだ小指が痛い」と歌い始めるのである。
子供心にも男の人が女の人の小指を噛んだことは分かった。
でもどうしてそんなことをするのだろうと不思議でならなかったのだ。
今朝の私の詩は自分で自分の指を噛んでいるのだけれど
それがいったいどうしたと問い詰めたくなってくる。
そうすることで何かが変わるのだろうか。
何よりもそんな姿を想像しただけで気持ちが悪くなってしまう。
「その痛みが愛しい」最後の一行はなんだかとてもいやらしい。
ううむ。ついにここまで落ちぶれたか。
どん底でもがき続けている。もう泥だらけになってしまった。
子豚も相変わらずである。もう書くまいと思ったが少しだけ記そう。
とにかく意志を強く持たなければいけないのだ。
職場で吸い続けている限り禁断症状は続くことだろう。
今も苦しくてならず禁煙パイポをひっきりなしに吸っている。
墓穴を掘ると云うより自分で自分の首を絞めているようだ。
それは指を噛むよりもオソロシイことではないだろうか。
決心はいくらでも出来る。また月曜日からが勝負だと思っている。
なんとしてもこの苦悩を乗り越えて見せよう。
まだ冬と便りが届く窓辺には春を知らせる一輪を挿す
冬の背中を見送ろうとする
潔くは去れはしないと
何度も振り向くけれど
別れの手紙がここに在る
私は咲いたばかりの一輪を
花瓶に挿して語らっていた
冬に聞こえないようにと
それはとても小さな声で
足音が遠ざかっていく
冬よさようなら
一見それなりに詩らしく書いているが
最後の一行ですべてが台無しになっている。
歌謡曲ではあるまいし「冬よさようなら」はないだろう。
小学生でももっとまともな詩を書けるような気がする。
いやそんなことを言ったら小学生に失礼であろう。
子供の詩は素直で純真で素晴らしくおとなは絶対に適わない。
自信のなさに拍車をかけるようにどんどん落ちぶれていく。
このままでは一生詩人と認められることはないだろう。
それでも良いとずっと思って来たけれど醜い欲が邪魔をしているようだ。
欲張りなのは子豚も同じ。今日も「もっと、もっと」ばかりとなる。
同僚が心を鬼にしてくれたらと身勝手なことも考えていた。
せがむを通り越してたかる。それでも同僚は決して怒らないのだ。
それにずるずると甘えている子豚は情けなくてならない。
今日は悪魔の囁きが聴こえた。なんとこのままで良いのだと言う。
家では禁煙。職場では喫煙。煙草は一切買わなくて良い。
そんな好都合なことがまかり通って良いものだろうか
子豚は人間ではないけれど人間の心はよくわかるつもりである。
いつまでも迷惑を掛け続けてはいけない。
子豚もおとなにならなくてはいけないのだ。
抱き寄せているのは心誰よりも私のことを知っているから
独りぼっちにはさせない
たとえ突き放されて
途方に暮れていたとしても
私以外の誰に守れるだろうか
心は傷つきやすく
弱くて脆いけれど
嘆いてしまうその前に
抱き寄せてやりたいのだ
いちばん知っているのは私
もう離しはしない
今朝はすんなりと書けたがなんだかアホみたいな詩になった。
「独りぼっちにはさせない」とか「もう離しはしない」とか
男と女じゃあるまいしいったい何を考えていたのだろうか。
ほんとにくだらない。アホは死ぬまで直らないらしいが
許されるならばあと20年は生きていたいと思っている。
今日は3月並みの気温となりぽかぽかと暖かだった。
三寒四温を繰り返しながら季節は移り変わって行くのだろう。
県内のとある町では福寿草が満開になっているそうだ。
春は確実に近づいている。希望を持って待っていようと思っている。
希望のないのは例の子豚でそろそろ潮時かもしれない。
今日は真面目に行く末を考えていたがいつまでもずるずると
子豚の日々を書き続ける訳にはいかないだろうと思った。
おそらくいつかは完全に禁煙を達成出来るだろうけれど
半年いや一年は掛かるかもしれない。とにかく今のままでは駄目なのだ。
20年、10年とこの日記を読み続けていてくれる方に申し訳ない。
どれほどのイメージダウンだったか考えざるを得なかった。
喫煙者に嫌悪感を持っている方も大勢いるのではないだろうか。
それを覚悟でここ数日ずっと書き続けて来たのだった。
「さらば子豚」今夜の日記をそう名付けて終わりにしようと思っていた。
けれどもこの「未練」はいったい何処から生まれてくるのだろう。
私の中では何も終わってなどいないのだと思う。
静かに雨が降っているようだ
書きたくてたまらないのに
何も書けず悶々としている
心の鍵が錆びついてしまったのか
鍵穴を塞いでいるのはなんだろう
いつだって私は手探りだった
確かなことは今もわからない
ただ生きているらしく
息ばかり宙を彷徨っている
諦めてなどいない
必ず夜は明ける
今朝も書けず悶々とするばかり。
苦し紛れに詩のようなものを書いていた。
ある有名な詩人さんが「書けない時には書けないことを書けばいい」と
いつだったかSNSで発信していたことを思い出していた。
誰にだってスランプはあるだろう。もう駄目だと諦めないことだ。
確かなことが分からなくても手探りで進んでいくしかない。
禁煙日記を書き始めてもう何日目なのだろうか。
思いがけないことにアクセス数が増えて驚いている。
どうしてこんなものがと戸惑いつつもとても励みになっている。
投票ボタンを押してくれる方も多くなったようで
今週のランキングが2位となりまるで夢のようであった。
私はひたすら自分の恥を晒しているのだけれど
共感に値するものがあるのだろうかと不思議でならない。
これはまさに「豚もおだてりゃ木に登る」ではないだろうか。
まあそのうち真っ逆さまに木から落ちるだろうけれど
もうしばらく登らせておいてくれたら有難いと思っている。
以前からこの日記を読んでくれている方からコメントを頂いた。
このままでは禁煙は無理。それよりも堂々と吸って負け豚になれと。
思わず笑ってしまったがこれこそが真実のようにも思える。
私は必死で闘っているつもりであるが、もうすでに負けている。
今日もよく憶えてはいないが5本くらい吸ったような気がする。
だんだんと大胆になって来て同僚に「くれ!」と言う始末である。
同僚はお給料で「煙草手当」を支給して欲しいとほざいていた。
それも考えないわけではない。会社の金庫は私が握っているのだから。
私は責められる立場であるが今のところ誰も責めてはくれない。
ぬくぬくと甘やかされていい気になっているような気もする。
それならばもっと自分を責めるべきだけれど
それも精神衛生的に芳しくはないことだと思っている。
所詮愚かな豚である。木に登っても煙草を吸い続けている。
早く木から落ちてしまえと思うがこれがなかなかにしぶとい。
今朝は何も書けず苦しくてたまらなかった。
毎朝のことなので「休もう」とすぐに決めることが出来ない。
しばらく悶々としていたがやっと決心すると嘘のように楽になった。
書かなければいけないのではないのだ。
書きたいと云う気持ちさえあればどんな駄文であっても書けるのだと思う。
この日記もそう。書きたくてたまらなくて毎晩書いている。
昔ある人に「毎日よく書くことがありますね」と言われたことがあるが
生きてさえいれば日記は書ける。どんなに平凡な一日だったとしてもだ。
禁煙パイポを吸いながらこれを記しているが
これはどうも禁煙には効果が無さそうに思えて来た。
「吸う」と云う行為がそのまま煙草への欲求へと繋がる気がする。
「ヤメルンジャー」ではなく「ヤメレンノジャー」となってしまう。
とにかく何かを吸っていなければ落ち着かないのは弊害だと思う。
家では禁煙が出来ていると偉そうなことを言っているが
ただ我慢しているだけなのではないだろうか。
完全禁煙を目指すためにはまず禁煙パイポを止めるべきだろう。
職場では相変わらずで今日もずるずると吸ってしまった。
始業前の同僚との連れモクはもうすでに日課になっている。
「置き引き」の罪を犯さないよう一本与えてくれるのだった。
一本が二本になり今日は五本だったろうか。よく憶えていない。
同僚曰く、貢いでいるのでも恵んでいるのでもないのだそうだ。
「たかられている」とあくまでも笑いながら言うのであった。
ついに私もそんな悪どい人間になってしまったらしい。
このままでは人の道を踏み外してしまうかもしれない。
明日こそは真っ当な人間になろうと思うだけは思っている。
「ふざけやがって」何処からかそんな声も聞こえてくるが
子豚は決してふざけている訳ではない。
もがき苦しみながらなんとかして現状を突破しようとしている。
墓穴を掘り続けているがそのうちきっと這い上がって見せよう。
たとえ名のみの春だとしても
気づくことは出来るだろう
柔らかな土に埋もれた球根が
ちいさな芽を出したこと
空を仰げば優しい陽射しが
天使のように降り注いで来る
いつまでも冬ではいられない
私は南からの風を待っている
息はあたたかくなり
生きて在ることを確かにした
いのちはもう春だ
今朝は短歌が書けず苦し紛れに詩のようなものを書いてみた。
ほんとうに「それなりの」駄作であるにも関わらず
いつも読んでくれている方が「春の息吹を感じる、いい詩」と
思いがけないコメントを届けてくれたのだった。
よほど偏屈な性格なのだろう。素直に喜ぶことが出来ない。
それよりも後ろめたい気持ちでいっぱいになってしまった。
言葉までもあがきもがいてなんとも見苦しくてならない。
私は恥知らずなのだ。それなのにどうして書き続けているのだろう。
気分転換も兼ねて夫とラーメンを食べに行っていた。
隣町までほんの30分ほどのドライブ。
国道沿いでは野焼きが行われており空は春霞のようだった。
つかの間のことであったがささやかな春の風物詩である。
禁煙、いや正しくは休煙を始めてから食欲が旺盛となり
体重が少しずつリバウンドしている。
今夜は60キロ近くになっており焦らずにはいられなかった。
我慢の上にまた我慢を重ねなければいけない。
やはり子豚には餌を与えてはいけないのである。
今日は全くストレスを感じない一日だった。
おまけに大好きなラーメンを食べられてなんと幸せだったことか。
まるで子豚がワルツを踊っているような気分であった。
一切我慢をしなくても良い人生など在り得ないけれど
時々は「ご褒美」のような出来事が在ると良いなと思う。
たとえば明日の朝のラッキーストライクだったり
それが今の一番の難題だと云うのに何を期待しているのか。
愚かで馬鹿としか思えない自分を阻止出来ずにいるようだ。
この日記もついに子豚シリーズとなりもう引き返せなくなった。
禁煙が完全に果たせるまで延々と続くのかもしれない。
「まだ止められないのか」「いいかげんにしろ」そんな声も聞こえる。
けれども私はこれからもありのままを記して行こうと思っている。
野にひとつ緑を置いて語り合う頷きながら春が立つ頃
やっときみに会えたようだ
艶やかな若き緑に心惹かれ
私は雀色の上着を脱いだ
きみに訊ねたいことがある
けれども今は何も訊かない
ただきみの声を聴きながら
春を感じていたいとおもう
緑の吐息に包まれながら
私もやがて春になるだろう
「立春」に想いを寄せながら書いてみたけれど
どうなのだろう。自分では全く良し悪しが分からない。
「悪し」と言ってもらったほうが気が楽になるようにも思う。
元々大した人間ではない。もちろん詩人でもないのだから。
今日は仕事を休ませてもらった。
カーブスを終えてから出勤することも出来たがそんな気になれない。
せめて週末だけでも煙草の束縛から逃れたくてたまらない。
なんと不思議な一日であった。
全く煙草を吸いたいと思わないのである。
そうしてそんな気持ちが心地よくてならないのだった。
「あれば吸いたい」「無ければ吸わなくてもよい」
そんな法則があるのか定かではないけれど
とにかく気分がとても楽になり落ち着いて居られたのだった。
三日では足らない。一週間は必要ではないかと思う。
そうすればきっと完全に禁煙が叶うのではないだろうか。
モンダイは月曜日だ。あっても吸わない強い意志が欲しい。
それが目下の最大の課題である。自分との闘いなのである。
禁煙を決意してからもう20日も経ってしまったようだ。
最初はこれほどの苦しみがあるとは思ってもいなかった。
まさか自分で墓穴を掘るようなことをするなんて。
かと言って自分を責めても何も変わらない。
自己嫌悪に陥りよけいに苦しくなるだけだろう。
煙草を買わなければいけないのが一番のストレスだった。
幸いと言って良いのかそのストレスからは解き放たれている。
毎日の買物が楽しい。ちょっと奮発することも出来る。
もう二度と買うもんか。それだけは感心する程に意志が強い。
それなのになぜ吸い続けようとするのだろう。
自分の心理状態が全く理解出来ない。不可解でならないのだった。
このままでは長期戦となり子豚は育ち続けるだろう。
やがては殺され精肉売り場で半額シールを貼られる運命かもしれない。
負けるな子豚。嘆くな子豚。きっときっと奇跡はある。
生きている満たされているはずなのに足りない息を数え続ける
ひとつふたつみっつ
息は何処から生まれるのか
それはまるで奇跡のように
命の在りかを教えてくれる
足りないことなどありはしない
それなのに何を求めているのか
私は夜明けを待ちながら
指を折りつつ数えている
その指が足りない
理解不能な詩。いったい何を伝えたいのだろう。
苦し紛れに書いたことが見え見えの詩である。
自信が無いのはまだ許せるがそれを公表する度胸がよくあったものだ。
私という人間はもうすでに落ちるところまで落ちているようだ。
這い上がれるかどうかはこれから生きてみないと分からない。
ついに狂気の沙汰。仕事は殆ど手に付かず狼狽えるばかり。
10分と机に向かっていられない。何度も何度も喫煙所へ向かう。
昨日残して置いた一本があったが後はもう無かった。
灰皿に手を突っ込み少しでも長い吸殻を探す。
恥も外聞も無かった。藁にも縋るような気持なのである。
見かねた同僚が憐れに思ったのか午後から3本置いてくれた。
恵んでくれたのではない。あくまでも置いていただけなのだ。
そうしてそれに私が手を出すと「現行犯で逮捕するぞ」と言う。
もちろん笑いながらのことだけれど私はまた罪を犯すのだった。
まるで煙草ネタの漫才をしているようで愉快ではあったが
私は我が身の情けなさに精神状態が尋常ではないことに気づく。
とにかく制御出来ないのだ。我慢することが一切出来ない。
家では完全に禁煙出来ている。その反動が職場で表れているのだろう。
自分の心理状態を知りたくてならない。分析してみたいと思う。
こういうのは「行動心理学?」よく分からないけれど今すぐ学びたい。
そうして自分をコントロール出来るようになりたいと思っている。
我慢出来ないのはしょうがない人間だもの。
みつをさんもそんなことは言ってくれなかった。
子豚にも言ってくれないのだろうか。
狂ってもいい子豚だものと。
ほんとうのことなど誰に分かるのか手探りのまま我が道をいく
信じていても心細くなる
不確かな迷路のような道
私にもあるらしい希望が
遠い処で輝いているけれど
相応しくないかもしれないと
臆病になってしまうのだった
行ってみないとわからない
触れてみないとわからない
もう踏み出している
いつも読んで下さっている方から「凄い良い」とコメントを頂く。
自分では全く自信が無いものだからあまり実感が湧かない。
まして褒められることに慣れていないから当然だろう。
そう云われればそうなのかなと漠然と思ったりしていた。
認められたい欲にずっと振り回されている。
いったい何様のつもりだろうと思う時がよくある。
寒さが和らいだ朝、職場に向かいながら自問自答をしていた。
煙草を吸いたいのか?吸いたくないのか?
それが即答出来ない。なんと情けないことだろう。
仕事を始める前にまた喫煙所へ行く。
同僚が煙草を吸っていて一本だけ分けてくれた。
二人で膝を突き合わせるようにして「連れモク」をする。
「連れション」があるのだから「連れモク」もあるのだろう。
正しい日本語とは思えないがここではそう記すことにした。
「もうこれっきりやけんね」と同僚が言った。
それはもう今日からのノルマが無くなったことを意味する。
やっと解放される時が来たのだと嬉しいような寂しいような。
同時になんだか崖っぷちから突き落とされたような気がした。
その後仕事に全く集中できない。
苛々ではなくそわそわとどうしても落ち着くことが出来なくなった。
その度に喫煙所へ行き溜息を付きながらシケモクを拾った。
短い吸殻ばかりでどうすることも出来ないのである。
そうして気が狂ってしまいそうな焦燥感に襲われていたようだ。
午後思いがけないことがあった。
もうこれっきりだと言っていた同僚が3本の煙草を置いてくれていた。
それはもうノルマではないのだと言う。
ただいつもの場所に置いてあるだけで私のためではないらしい。
勝手に吸ったら「置き引き」だと言う。
「立派な窃盗罪になるけんね」と笑いながら言うのであった。
私がそんな脅しに乗るとでも思っているのだろうか。
ここまで追い詰められて怯むような私ではあるまい。
1本盗めば2本も同じことだった。ええいやっちまえ。
同僚は被害届を出すと笑いながら言う。
笑ってはいけないのだ。もっと真剣に罪を責めなければいけない。
子豚には不思議と罪悪感が無かった。
明日も罪を重ねるのであろうか。もう引き返せないのだと思う。
如月の扉を開けて佇めば冬と春とが肩を並べる
まだ真冬と胸を張りつつ
きみは誇らしげな顔をして
冷たい息を風にまかせた
私のもとには便りが届く
春はすぐ近くにいて
南からの風を待っている
きみと肩を並べて空を仰ぐ
まるで背比べしているよう
きみの微笑みに負けないくらい
春も微笑んでいる
ひどい駄作。よくもまあこんなものをSNSで発信したものだ。
まったく呆れてものも言えない。
ああ駄目だ駄目だ。それでもまだ書き続けるつもりなのだろうか。
私はいったい自分に何を課しているのだろうと思う。
ただ書きたい気持ちだけでここまで辿り着いて来たのかもしれない。
今日から2月。予報では春のような暖かさになると聞いていたが
気温は上がらず寒い一日となった。おまけに午後からは小雨が降る。
立春を目前にして気が浮き立っていたせいかいささかショックなり。
ショックなのはそればかりではない。
また煙草の話になってしまうが日記なので許して頂きたい。
その日のことをありのままに記さねばならないのだ。
今日のノルマは3本だと信じていたけれどそうではなかった。
同僚はもしかしたら私の禁煙を阻止しようと企んでいるのではないか。
そんな疑惑でいっぱいになってしまった。
美しい姉弟愛は幻だったのだろうか。私はまた追い詰められる。
悔しくてならず午前中に4本のノルマを達成した。
もうこれで吸わなくても良いのだと思うとなんとも清々しい。
それなのに午後になるとなんと一箱も置いてあるではないか。
箱の中には一本だけラッキーストライクが入っていた。
他の煙草はいつも同僚が吸っている銘柄であった。
これはどういう意味かとしばし考える。
午後からのノルマだろうかと自分なりに結論を出したのだった。
そもそもどうして喫煙所に行くのかと疑問に思うかもしれない。
吸わないのなら行く必要がないことは当然のことである。
私にもどうしてなのかよく分からないけれど
ふらりとついつい足が向いてしまうのだった。
まるで夢遊病者のようである。
喫煙所と言っても工場の隅にベンチと灰皿が置いてあるだけなのだ。
扉が在る訳でもなくいつでも気軽に行ける利点がある。
私はこれまでずっと長いこと一本の煙草を5分かけて吸っていた。
つまりそれだけ仕事をサボっていたことになる。
そんなことが許されて良いのだろうかと今になって思うのだった。
もうよそう。本当にお終いにしようと今日は思った。
同僚は明日もきっとノルマを与えてくれるだろう。
私はなんとしてもそれを阻止しなければならない。
子豚にも意地がある。負けるわけにはいかないのだ。
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