冷たさはあとどのくらい訊く空に星を散りばめ暖をとる夜
睦月も晦日
もう少しで春が立つ
冬の背に息を吹きかけ
別れ道まで見送っていく
空はその冷たさに深く
拘っているけれど
星に何の罪があるのだろう
私は手をかざしている
指先に宿るささやかな春があった
いつも読んで下さっている方から「素敵な詩ですね」と言ってもらった。
いったい何処が素敵なのか私には全く理解できない。
そもそも「素敵」という言葉があまり好きではないので戸惑う。
でも感想などめったにもらうことはないので素直に喜ぶべきだろう。
まあそれなりに書けたのだと思う。「上等じゃないか!」
職場に向かいながら清々しい気持ちが込み上げて来た。
今日からもう煙草を吸わなくても良いのだと思うと嬉しくてならない。
それはとても矛盾しているかもしれない。
どう説明すれば良いのだろううまく言葉に出来ないけれど。
とにかく完全に煙草を断つことで生まれ変われる気がしていた。
同僚が出勤して来て「まさかね」と一瞬思う。
よせば良いのに喫煙所まで確かめに行っていた。
もちろん煙草を置いていないことを確かめるためである。
そうしたら何と云うことでしょう。
いつもの場所に3本の煙草が置いてあるではないか。
あんなに約束したのにどうして守ってくれないのだろう。
ちょっと怒りがこみあげて来てしまった。
そうかと思えばほくそ笑んでいる。「しめしめ」と思ったのか。
そうだとするとあまりの情けなさに自分に腹が立ってくる。
冷静になり考える。今日は3本がノルマなのだ。
明日は2本になるだろう。明後日は1本になり明々後日こそがゼロだ。
同僚はそうしながら私を禁煙に導こうとしているのに違いない。
ずっと弟のように思っていたが、なんと素晴らしい姉弟愛だろう。
その愛になんとしても応えなければいけない。
鬱々と自己嫌悪に陥ってしまいそうだったが気分が楽になった。
もう煙草に振り回される人生は御免だと思っている。
「やってやろうじゃないか」子豚の心は明日に向かっている。
空白に記す言葉が見つからず息ばかり在る私の窓辺
窓の外はしんしんと冬
その冷たさに触れながら
吐く息を確かめている
何を書けばいいのだろう
途方に暮れているけれど
まだ見失ってはいない
生きてさえいればと思う
命あってこその息だろう
空白を怖れはしない
それはきっと私の糧になる
やはりまともではないような気がするのだけれど
本当のところはどうなのだろう?
駄目なら駄目とはっきり言って欲しいが誰も言ってくれない。
だからこそ自分を信じなければいけないのだろう。
書くことに臆病になっている。それでも書かずにいられないのだ。
職場へと向かいながらとても複雑な気持ちになった。
二日我慢が出来たのだ。今日も我慢してみよう。
いくら目の前にあっても絶対に吸ってはならない。
禁煙には「3」が要なのだそうだ。3日、30日、3年と。
とにかく最初の3日を乗り越えたら禁断症状も楽になるらしい。
私の禁断症状が長引いているのは自業自得である。
シケモクを吸ったりと悪い行いをしているのだから当然の報いだろう。
苦しい苦しいと言いながら自分で墓穴を掘っている愚か者だった。
職場に着くなり喫煙所へ行ったら同僚がまた煙草を置いてある。
今日も5本。それが一日の配給なのだろう。
後ろめたさと罪悪感に駆られながらもつい火を点けてしまった。
誰も私を叱らない。殴ってくれれば良いのにとさえ思う。
これではいつまでたっても禁煙など出来るはずはなかった。
とうとう同僚に協力を頼んだ。明日からは一本も置かないと言う。
その言葉を信じるしかない。私も自分を試したくてならないのだ。
二人で煙草をふかしながら同僚が面白いことを言い出した。
シケモクを集めてほぐし紙巻煙草を作れば良いと言うのだった。
まるで戦時中の事のようであれは確か辞書の紙が最適だったはず。
もちろん冗談だったけれど考えたら愉快でならず笑いが止まらない。
「そこまでして吸うのか」と「馬鹿じゃないか」と言い合った。
話のついでに同僚にも禁煙を勧めたがすぐには無理だと言う。
なんでもカートン買いをしているそうでまだ沢山あるのだそうだ。
「私が手伝ってあげるから」とは言えなかった。
明日から3日間が勝負である。子豚ちゃんは断食をする覚悟なのだ。
今朝はとうとう集中力が全く無くなり何も書けなかった。
昨日までは書けていたので禁煙のせいではないと思うのだけれど
性格がひねくれているのでついつい煙草のせいにしてしまうのだった。
煙草さえ吸えれば書けるのにと思う。なんと意地汚い性格だろうか。
我慢がどんどんストレスになっていく。
灰皿をかき回して吸い終えたシケモクに再び火を点けようとするが
あまりの短さに指先を火傷してしまった。馬鹿としか思えない。
それでも懲りずに少しでも長いシケモクを探そうとするのだった。
禁煙戦隊の「ヤメルンジャー」は期待外れだったようだ。
ミントの香りがすぐにしなくなりただのプラスチックの棒となる。
それでも諦めずに吸い続けていたら口が疲れて来るのである。
「こんなもん、こんなもん」と最後には腹が立ってくる。
もう救いようがない有り様で途方に暮れるばかりであった。
それでも煙草の事を考えない時間がずいぶんと多くなった気がする。
すっかり諦めてしまっているのだ。これはささやかな進歩だと思う。
いつまでも未練がましく終わった恋に縋りつくタイプではない。
モンダイは明日からだ。同僚はまだ貢ぎ続けるつもりだろうか。
私に餌を与え続けるのだろうか。私は憐れな子豚ちゃんなのか。
餌を欲しがっている自分と決して食べたくないと思う自分。
理性と云うものがあるのだろうかと自分を疑いたくもなる。
はてさて子豚の運命はこの先どうなることだろうか。
冬枯れた野にささやかな春として若き緑の匂い立つ頃
あたり一面の雀色
どれほど踏まれて
耐えて来たことか
草として生きている
名は確かにあるけれど
誰にも呼ばれたことがない
けれども嘆くことをせず
緑の胸を張り続けて来た
ささやかな春である
きっと救われる日が来るだろう
生きて生きて
少しまともなものが書けたような気がするのだけれど
どうなのだろう?やはり駄目なのだろうか。
所詮私は名無し草だ。踏まれ続ける運命なのかもしれない。
苛々感はないがどうにも落ち着かずそわそわしている。
集中力が無いのを煙草のせいにするのは卑怯だろう。
馬鹿野郎バカヤロウと呟きながらこれを記している。
いったい私はどうなってしまうのだろうと不安でもある。
犬や猫が餌を欲しがるのとは違うのだ。分かっているけれど
土地の方言で「かつえど」という言葉がある。
漢字にすると「飢え奴」になるのだろうと思うのだけれど
まさに今の私に相応しい言葉ではないだろうか。
餓えているのである。煙草が吸いたくてたまらないらしい。
「らしい」と表現したのは意に反しているからである。
吸いたくない私が確かに居るのだ。それは強くて逞しい。
両者が互いに闘っているのが分かる。どちらかが必ず勝つだろう。
書きながら酷く支離滅裂として来て収拾がつかなくなった。
以前のように穏やかな日記が書けないことが口惜しくてならない。
元々が「ゆらゆら日記」である。
それも21年目となったが今が一番揺れているような気がする。
どのような私になろうと見捨てるつもりはないが
この苦しさをどうすれば良いのだろうか。
知らぬ間に蕾ふくらみ春の音耳を澄まして聴く独り言
ひっそりと静かに佇む
本当は見つけて欲しい
決して独りではないけれど
独りになりたがっている
春と呼ばれたいのだろう
それほどにまで誇らしく
満ち足りているのだった
呟けば届くだろうか
どうか耳を澄ましてください
私の声は春の音です
よほどプライドが高いのだろう。
それとも己惚れているのだろうか。
自分の声が春の音などどよく云えたものだと思う。
いい年をして何をほざいているのやら。馬鹿じゃないのか。
書いている時には心地よくてならない。
けれどもこうして夜になって読むと酷く愚かに見える。
もしかしたらこれは自慰行為なのかもしれない。
私は恥ずかしくないのだろうか。
同僚がとうとう「貢君」になってしまった。
今日は5本も煙草を貢いでくれた。
こんな関係は一刻も早く絶たなければいけないと思う。
家では吸えないが職場だと吸える。それって何かが間違っている。
そもそも私はもう吸いたくなかったはずではなかったのか。
誘惑をしてくれと同僚に頼んでいる訳では決してない。
何が本当の優しさなのか同僚も分からなくなっているのだろう。
もう一本も要らないとはっきり言った方が良いのかもしれない。
私はなんだか泥沼の中に居てもがき続けているようだった。
幸いと言って良いのか週末となり月曜日まで職場に行けない。
禁断症状は酷くなり今以上に苦しくなるだろうけれど
なんとしても乗り越えて楽になりたいと願ってやまない。
無いものねだりをするつもりはない。
在ると思うから欲しくなるのだ。
息白く霧のようになりながら私を包む迷わぬようにと
何処に向かっているのか
わからなくなる時がある
真冬の道は厳しくて
凍りつく日もあるけれど
踏みしめるように歩いて来た
息だけが頼りに思う
信じなくてどうする
やがては春に辿り着くだろう
私は迷わず歩き続けて行く
この道しかないのだ
今朝は昨日の朝よりも冷え込んでいたようだ。
家の中に居て吐く息が白くなることなどめったにない。
すぐに暖房をつけたが暖かくなるまでずいぶんと掛った。
寒さと禁断症状に耐えながらなんとか詩らしきものを書く。
気づけば毎朝同じようなことばかり書いている。
マンネリ化しているのだろう。自分でも辟易としているのだから
読まされている人達はきっとうんざりしているのではないだろうか。
いつまでたっても自信がない。それなのに私は諦めることをしない。
職場に着いたら同僚がまた「ラッキーストライク」を置いてくれていた。
吸ってはいけないと思いつつどうしても我慢することが出来ない。
ずるずるとこんなことを続けていたら禁煙がどんどん遠くなる。
でも節煙にはなっているだろう。自分を許してやるべきだろうか。
なかなか一筋縄ではいかない。これは長い闘いとなりそうである。
午後は整形外科の通院日であった。
受診しても足の痛みが治るわけではなくなんだか虚しい。
ただ親身になってくれる医師の存在だけが有難くてならない。
ふといつまで通い続けるのだろうかと思った。
70歳は目前である。だとすると80歳だろうか。
その頃には手術も出来ているかもしれない。
足が不自由になり娘達に迷惑を掛ける訳にはいかないと思う。
それならばいっそ死んでしまった方が良いのではないか。
あれこれ考えていると生きることもそうそう容易くはない。
それでも生きたくてたまらないのだからそれこそが欲だろう。
一本の煙草を欲しがるのも欲である。
どうすればすべての欲を断ち切れるか真剣に考えなければいけない。
氷点下その冷たさに負けまいと燃やす命の逞しきかな
燃え尽きることを怖れてはいけない
たとえば一本の蠟燭のように
炎は揺らぎ続けていたとしても
吹き消すことは誰にも出来ない
ほんとうは心細くてならないのだ
あとどのくらいなのか知りたくて
命の在りかを訪ねようとしている
強く逞しくなれ
今朝は各地で厳しい冷え込みとなり軒並み氷点下を記録したようだ。
10年に一度の寒波だと聞いていたが
今日には観測史上初の寒波だと言う。それが正解なのだろう。
そうだとすると生れて初めて経験する寒波と云うことになる。
その割には不思議と耐えられた。寒さに慣れて来ていたのだろうか。
昨日夕方降った雪が積雪となり粉雪どころかもう固くなっていた。
道路は真っ白でバリバリに凍結していて危険極まりない。
孫達の小学校は始業時間が一時間遅くなると連絡があった。
私も一時間ほど様子を見て家を出たのだけれど
いくら冬タイヤだと云っても恐怖心でいっぱいになった。
交通量が少なく渋滞こそなかったが皆のろのろ運転であった。
普段の倍くらい時間が掛ったが無事に職場に到着する。
今までは積雪があると仕事を休んでいたので
今日はなんだか誇らしくてならなかった。
日中は晴天に恵まれ雪がどんどん融けていく。
帰りには通行止めになっていた自動車道も通ることが出来た。
寒波のピークは通り過ぎたらしい。
まだまだ春は遠いのかもしれないけれど
私のこころの中にはほっこりとした蕾が膨らんでいる。
2023年01月24日(火) |
奇跡のラッキーストライク |
寒空に羽ばたくことが出来るなら春に手紙を届けに行こう
ふっくらとした蕾
きみには希望があり
信じる明日があった
私は羽根を広げている
大丈夫まだ千切れていない
傷口に息を吹きかけてみる
出来ることがきっとあるだろう
こんなにも生きているのだから
手紙には「いのち」と書いた
春に届け
とうとう10年に一度という大寒波が襲って来た。
夕方には気温が氷点下となり本格的に雪が降り始める。
30分もすればもう一面の銀世界であった。
孫達が雪に触りたいと言い外に飛び出して行く。
粉雪らしく雪玉は作れなかったようだ。
雪には詳しくないけれど湿度によって雪質が変わるのだろうか。
明日には雪だるまが作れたらきっと喜ぶに違いない。
それにしてもこの大寒波。暮らしに支障がなければ良いが
停電になったり水道管が破裂したりしたら大変なことになる。
道路事情も悪くなりそうで不要不急の外出を控えるようにと言っている。
不安なことを考え出したらきりがない。まあなるようなるだろう。
立春まであと10日程である。終わらない冬はないのだと思いたい。
今日は職場の喫煙所にさりげなくそっと煙草が置いてあった。
吸殻を漁り続けている私を同僚が見かねたのであろう。
嬉しいような困ったような複雑な気分であった。
吸ってしまえば元も子もない。けれども誘惑に負けてしまった。
それは「ラッキーストライク」という煙草で結構なお味である。
一本だけのつもりだったので3度に分けて少しずつ味あう。
その時もうこそこれが最後だと思っていた。
同僚の心遣いは有難かったが心を鬼にして欲しいと願う。
「私に餌を与えないで下さい」と背中に書いておかねばならない。
気分は養豚場の豚だと言っても良いだろう。餌を食べなければ
殺されて食肉になる運命からも逃れるられるのではあるまいか。
そんな馬鹿げたことを今夜も懲りずにほざいている。
家ではヤメルンジャーのお世話になるしかないのだが
ついさっきライターでそれに火を点けてしまった。
プラスチックの焦げた匂いがして私はまた自己嫌悪に陥るのである。
野に雨が霧のように降っている枯れてしまうな名もなき花よ
まるで見捨てられたかのように
ひっそりと咲く野の花があった
まだ春は遠く
夢ではないかとひとは云う
水を求めていたのだった
これほどにも渇いていて
生きていられるだろうか
枯れることを怖れてはいない
霧のように雨が降っている
いかにも詩のように書いてあるがこれは詩ではないと思う。
読めば読むほど「ん?」と声が出そうになる。
アンバランスなのだ。言葉同士が背を向け合っているような気がする。
そもそも「名もなき花」を自分に重ねようとしているところが
愚かで滑稽ではないだろうか。枯れ尾花のくせになにさと言いたい。
でも禁断症状にもめげずよくもまあ書けたものだと感心もしている。
とにかく試練なのだと思って書き続けてみるべきなのだろう。
そのうちもう少しまともなものが書けるようになるかもしれない。
相変わらず苛々が納まらず今朝は運転中に怒鳴り声を上げてしまった。
前方を時速30キロで走っている軽トラックがあって
追い抜くようにと窓から手を出し合図をしてくれたのだけれど
咄嗟に腹が立ってしまって「このクソジジイ道路を走るな!」と
大声が出てしまったのだった。今の誰?私?と信じられない。
禁断症状はどうやら穏やかな性格まで変えてしまったようだ。
職場に着いたら看板猫のみい太がにゃあにゃあと鳴いて煩い。
事務所のドアを開けようとしたらみい太にぶつかってしまった。
決してわざとではなかったが痛かったろうと思う。
「みい太ごめんね」と言えない。私は「この馬鹿猫が!」と怒鳴っていた。
性格と云うか人格まで変えてしまうものなのか。
私はこの先どうなってしまうのだろうと不安でいっぱいになった。
とにかく落ち着こうとシケモクを探したがもう自分の吸殻は無い。
仕方なく同僚の吸殻に火を点けてしまっていた。
まあ弟みたいなもんだからとあまり抵抗は感じなかった。
それにしても短い吸殻で指が火傷しそうである。
同僚がわざとそうしているような気がして恨みたくなった。
なんと嫌な性格だろう。これも禁煙の後遺症なのだろうか。
愚痴りたくもなってしまって禁煙に成功したお客さんと語り合った。
辛いのは一時のことなのだそうだ。乗り越えたらそれは楽になると。
今はそれが夢のような話に思えるけれどやるっきゃないと思っている。
煙草を買わなくなって一週間が経った。
今日は迷うことなくお刺身を買った。
2023年01月22日(日) |
そして私は途方に暮れる |
冷たさにふうっと息を吹きかけて心の暖炉に火をともした
まだ序の口の寒さなのだろう
やがて冬将軍が勇ましく
馬に乗って襲って来るらしい
逃げることは出来ない
受け止めるしかないだろう
私は闘う武器など持っていない
あるのは息ばかり
心には暖炉があって
火をともせば命が燃える
ぬくぬくと
猛烈な寒波が襲って来るのだそうだ。
予報では水曜日から木曜日に掛けてらしい。
朝の気温が氷点下5℃とか7℃とか言っていて想像もつかない。
どれほどの厳しい寒さだろうか。不安で怖ろしくなって来る。
「心に暖炉」相変わらずの駄作であるが少しほっとしている。
私は寒さをきっと受け止めることが出来るだろう。
連日の禁煙日記となり申し訳ないが
今日はルンペンスモーカーをしている現場を娘に見つかってしまい
「汚い、不潔」と罵られさすがの私も参ってしまった。
それだけでは済まず娘が吸殻をすべて捨ててしまったのだった。
ルンペンとして街を彷徨うわけにもいかずもう途方に暮れるしかない。
唯一の頼みは「ヤメルンジャー」であったが昨夜の気迫は何処へ。
闘って欲しいのに闘ってくれないのだ。なんでやねんと思うばかり。
ついにここまで追い詰められてしまったか。
もう私の頭の中には「絶望」しかない。
困ったことになってしまった。いったいどうすれば良いのだろう。
正解は簡単なことである。とにかく禁煙を実現させることである。
自分次第なのだ。強く逞しい意志を持たねばならない。
負けるな私。今が正念場なのだ。なんとしても乗り越えようではないか。
ほざくことはいくらでも出来るが
ふとこの言葉に出来ないような苦しみを解る人がいるだろうかと思った。
他人事ではないと言ってくれる人が一人でもいるだろうか。
「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれたらどれほど励みになるか。
そんなことを思いながらやっぱり私は馬鹿だなと思う。
人に頼ってどうする?それほど自分が信じられないのか。
とにかく私はしばらく途方に暮れていようと思う。
どうかそっとしておいて下さい。
2023年01月21日(土) |
禁煙戦隊ヤメルンジャー |
しんしんと冬は深くなるけれど梅花一輪こころに咲く
見失ってはいけない
冬は厳しい顔をして
冷たい風になるけれど
生まれたばかりの春が
微かに息をしているようだ
純白の一輪が微笑んでいる
冬を怖れずに咲いたのだと
それは誇らしげな顔をして
私はほっとして空を仰いでいる
こころは春だ
いつも私の詩を読んでくれている宮城県在住のK子さんが
「ほっこりとします」とコメントを届けてくれた。
私はそれだけで満たされる。相変わらずの駄作ではあるが
誰かの心にそっと触れることが出来て嬉しくてならない。
明日の朝も書けるだろうか。書くことに集中できるだろうか。
ある意味一心不乱であった。禁断症状がまだ辛くてならない。
禁煙パイポにも色んな種類があって今日はブラックパイポを買い求める。
その名も「禁煙戦隊ヤメルンジャー」と愉快な銘柄であった。
黒い箱に入っておりなんだか危険なパイポにも思えたが
おそるおそる吸ってみたら微かにミントの味がする。
これは良いかもと思う。しばらくお口の友になってもらおう。
そのうち飽きるだろう。そうして馬鹿らしくなるだろう。
その時こそがヤメルンジャーの勝利なのではあるまいか。
とにかく試行錯誤をしている。これ以上苦しみたくはないし
少しでも精神的に楽になりたくてたまらない。
愚かなことは百も承知しているがもう自分を責めない。
それなりに努力していることを褒めてやりたいと思っている。
ヤメルンジャーは勇ましく今夜も闘っている。
頑張れ負けるな。どんな時も私は君たちの味方であるぞ。
さらさらと血は指先に流れ着き言葉の海を彷徨っている
何も書けそうにない
そう諦めてしまう前に
指先に理由を訊いてみる
心が乱れているのだそうだ
どうにも落ち着かなくて
居場所さえ見つからないと
目の前にあるのは言葉の海
私は砂を踏みしめながら歩いている
「いのち」と書けるかもしれない
夜明け前のひと時を試練のように思っている。
集中力が無く心がとても乱れているのを
なんとか落ち着かせようと自分なりに努力しているつもりである。
頭から書けないと諦めないことだ。少しでも希望を持ちたい。
支離滅裂でも良いではないか。私は確かに生きているのだもの。
書けないのを煙草のせいにしてしまうのはあまりにも卑怯だと思う。
職場では同僚が。家では娘夫婦が。
身近に喫煙者が居ると禁煙は極めて難しいと思い知る。
だからと言って周りを責めるほど私は愚かではない。
人は人、自分は自分である。とにかく自分さえしっかりしていれば。
今日もルンペンのようにシケモクを拾いながら考えていた。
禁煙を達成することがそんなに重要なことなのかと。
ふともっと長い目で見てみたらどうだろうと思ったのだ。
たとえ一年かかってもゴールは必ずあるのに違いない。
途中で挫折しても良い。弱音を吐いても良いだろう。
肝心なのは自分を責めて追い詰めないことではないだろうか。
そう思うと少し気持ちが楽になった。
私はもうスタートしている。焦らずゆっくりで良いのだ。
きっと煙草が必要でなくなる日が来るのだと信じたい。
終わらない冬はない。きっと訪れる春があるように。
今朝は山道を走っていると梅の花が一輪咲いていた。
来週には猛烈な寒波が襲って来るらしいけれど
一度咲いた梅の花はささやかな春の使者で在り続けるだろう。
ころころと転がっているこの痛み何を求めて泣くのだろうか
何度も壁にぶつかっては
傷だらけになって返って来る
その度に突き放して
見て見ぬふりをするのだけれど
ころころと泣き続けて困らせる
とうとう欲ばかりとなった
なんと愚かなことだろうか
抱き寄せる時が来たようだ
おまえが愛しい
支離滅裂な詩ばかり書いて恥ずかしくないのか。
それが不思議と恥ずかしくなく開き直っているようだ。
私は結局、愚かな自分を愛しているのかもしれない。
それはある意味「自己満足」にも等しいと思う。
いや「自己陶酔」か。もうこうなったらどちらでも良いだろう。
禁煙は今日も順調には行かず。
職場でもシケモクを拾い続けまるでルンペンスモーカーである。
見かねた同僚が一本くれたがその煙草の美味しかったこと。
多分その時は吸いたくてたまらなくなっていたのだろう。
けれども喫煙後の胸の苦しさ。それは拒絶反応だと思われる。
もう絶対に吸うもんかと思う。よしよしそれで良いのだ。
お昼休みに同僚が「禁煙パイポ」を持って来てくれた。
ペパーミントの味がする。これは癖になりそうだった。
とにかく何かを吸っていれば気分が落ち着くのだった。
自分でも病的だと思っている。だから病気だと思って欲しい。
昨夜はもう禁煙日記はお終いにするつもりだったが
やはりどうしても書かずにはいられなかった。
その日のことをありのままに書いてこその日記だと思う。
不愉快に思われる方がいたら目を反らして頂きたい。
そうしてその後の私がもし気になったらまた戻って来て欲しい。
私はしばらく彷徨っています。善なのか悪なのか分からない
ただ自分の信念を貫く旅のような日々が続くだろう。
深くなる息は何処から生まれるの心の中に吹く風がある
空にはなれそうにない
ただ風に吹かれている
息は心細いけれど
深くなろうとして
奥へ奥へと向かう
私は何処へ行けばいいのか
空は知っているのだろうか
風のように生きたい
果てしなく広がる空に
私の息が吹き抜けていく
今朝はなんとか書くことが出来たが支離滅裂となった。
集中しようと息を整えながらその息が逃げていく。
もっと深くなりたいと思った。どうすればなれるのか。
ずいぶんと長いこと煙草に頼っていたのだろう。
乱れるばかりの息を鎮めることが出来なかったようだ。
情けないことにまだ完全に禁煙とはいかない。
とても愚かなことだけれどシケモクを拾い続けている。
それはとても不味くて嫌悪感でいっぱいになるけれど
まるで藁にも縋るような気持になって火を点けてしまうのだ。
爽快なはずはなく後に残るのは大きな後悔であった。
それがまたストレスになっていく。もうどうしようも出来ない。
私の意志はこれほどまでも弱かったのだろうか。
そう思うと口惜しくてならない。私は生きていてもいいのかとも思う。
唯一嬉しいことがある。もう煙草を買わなくても良いことだ。
それが一番のストレスだったのでずいぶんと楽になった。
後はいかにして煙草を完全に断ち切れるかだろう。
精神的に酷く参っておりこの日記もまともに書けない。
いつまでも禁煙日記を書き続ける訳にもいかないだろう。
明日からは日常に戻ってみようと思っている。
書けるかどうか分からないけれどこんな私にだって明日はあるだろう。
今朝は何も書けなかった。
以前にもそんな時があったけれど何か違う。
訳もなく苛々してどうにも落ち着けない。
集中力も全くなく頭の中が真っ白になっていた。
もしやこれが禁断症状なのであるか。
まさかそうではあるまいと否定したかったけれど
ただならぬ精神状態に認めざるを得なかった。
不思議なのは吸いたくないのに求めていることである。
なんと愚かなことだろうと情けなくてならない。
そのうえに苦痛が伴い気が狂ってしまいそうになった。
煙草は麻薬ではないが本質的には似ているのだろう。
断ち切るためには相当の覚悟と忍耐が必要に思われる。
たかが煙草ではないかと笑う人もいるかもしれないけれど
身体や心に少なからず異変を与えるのに違いない。
唯一救いなのは「吸いたくない」と云う気持ちである。
いくら身体が求めても心さえしっかりしていれば乗り越えられる。
今が正念場なのだと思って立ち向かっていかねばならない。
灰皿からシケモクを拾いつつなんとかこれを記した。
禁煙を宣言しながらずるずるとここまで来てしまったけれど
明日からが真剣勝負だと思っている。
これはきっと今しか出来ないことなのかもしれない。
試されているのならとことん試して頂きましょう。
揺れている心に振り子があるようにぶつかる壁鳴り響く音
決心したことがある
貫こうとしているけれど
どうしてこうも揺れるのか
右なのか左なのか
相応しいのはどこ
ぶつかるのが口惜しい
傷つくのを怖れている
確かなのはこの音
いのちは鳴り響いている
それが心地よくてならない
「決心」とは「禁煙」であるがこの詩はそうとは限らない。
そもそも詩とは呼べないだろう。相変わらずの駄作である。
何かを決心した時、誰しも心が揺らぐ時があるのではないだろうか。
迷いが完全に無くなるまでは「時」を味方に付けなければいけない。
壁にぶつかる時もあるだろう。傷つくこともあるだろう。
命さえあればと思う。そうして貫く勇気が芽生えて来る。
禁煙二日目と堂々と胸を張りたいところだが
買い置きの煙草がまだ残っておりひたすらもったいない。
どうして捨てることが出来ようか。
今日は「在庫一掃セール」と称して吸い続けてしまった。
けれども酷く不味い。やはり拒絶反応が出ているようだ。
吸いたくもないのに吸っているジレンマとの闘いである。
在庫は残り少なくなった。もうひとふんばりである。
馬鹿じゃないかと思う人が多いだろう。
私自身がそう思っているのだからそれは当然のことである。
馬鹿は死ななきゃ直らないと云うが死ぬつもりはない。
嫌悪感が湧きおこる人もいるだろう。どうぞ嫌って下さい。
私は正直にここに記している。私は決して自分を否定などしない。
なんだか喧嘩腰になってしまって申し訳ない。
ずいぶんと鼻息が荒くなってしまったようだ。
話は変わるが先月分のガス代の請求書が届いて
ついに三万円を超えており愕然とした。
よくよく考えたら煙草代と同額ではないか。
これは挽回出来るなとすぐに目の前が明るくなった。
家計が苦しかったのはすべて煙草のせいだと気づく。
私は自ら墓穴を掘り続けていたのである。
朗報もあった。娘達が光熱費の代わりにビール代を賄うと言う。
同居を始めて今年で10年目となるが毎月の生活費を値上げせず
文句のひとつも言わずにやり繰りしてきた甲斐があった。
「来月から?」と訊いたら明日からだと言うので嬉しくてならない。
煙草代と合わせたら月に4万円にはなるだろう。
たった今、最後の一本を吸い終えた。
「在庫一掃セール」もやっと店仕舞いである。
2023年01月15日(日) |
大きなストレス小さな希望 |
指先に込める想いは切なくて何を綴ろう何処へ行こうか
オン書きと云うのだそうだ
昔そう教えてくれた人がいて
ずいぶんと救われたことがある
指先に息を吹きかけている
切なくてならないけれど
生きて在ることを記したい
やがては消えてしまうだろう
永遠など信じてはいないけれど
今が私のいのち
ネット上に即興で詩を書くことを「オン書き」と云うのだそうだ。
かれこれ20年程前だったか教えてくれたのはめいさんだった。
当時はまだ無名だっためいさんも今では立派な詩人さんになっている。
よほど縁があったのか今でもSNSで繋がっており有難いことである。
けれども一方通行で私の詩にめいさんの反応は殆ど無い。
これからも認められることは無いだろうともう諦めてしまっている。
卑屈になり辛い時期もあったがめいさんの意思を尊重したいと思っている。
書くことは生きること。それはとても大それたことだろう。
命がけで書いているなどと言ってしまえば愚かなことかもしれない。
儚いネットの世界である。永遠に残ることなど在り得ないだろうと思う。
けれども「いま」を生きている。私は記すことを諦めはしない。
午前11時、ふと禁煙を思い立つ。
私は決して愛煙家ではない。ニコチン中毒でもないだろう。
しいていえばメンソール依存症と云うべきかもしれない。
服用している薬のせいで常時眠気に襲われることが多い。
煙草には覚醒作用があり頼ざる得なかった現実がある。
けれども喫煙に対して大きなストレスを感じているのも事実であった。
家計は苦しいのに高額な煙草を購入しなければならない。
それは月にすると3万円を超え年にすると40万円近くにも及ぶ。
まるで一万円札に火を点けて燃やしているような日々である。
自分の愚かさを痛感する。それこそが大きなストレスであった。
初日の今日は7時間の禁煙に成功する。
夕食後につい手が出てしまったのだ。それは思いがけずに不味かった。
単純な性質だから拒絶反応だと思いぬか喜びしていたけれど
まだ買い置きの煙草がありもったいないと思ってしまったのだろう。
なんと姑息なことか。情けなくてたまらないのもまたストレスとなる。
とにかく明日からはもう絶対に煙草を買わない。
そう決めると不思議とストレスが薄れ爽快な気分になって来た。
煙草代でお刺身が買えるのだ。なんと素晴らしいことではないか。
喫煙者は世間から疎遠され追い詰められている現状である。
私はそんな世間から生き延びる道を選びたい。
2023年01月14日(土) |
雨降って地は固まるのか |
しとと雨もう水溜まり出来た頃幼子のように戯れている
おとなになれば出来ないこと
まして老いたこの身のことだ
幼子の赤い長靴が
水溜まりではしゃいでいる
微笑ましい光景が目に浮かぶ
私は躊躇っている
勇気は何処に行ったのか
踏み出していかねばならない
無心になって雨と戯れようか
夜明け前、静かな雨音を聴きながら
幼い頃の孫達の姿が目に浮かんできた。
水溜まりが好きなのだ。見つけると我先にと飛び込んでいく。
ぱしゃぱしゃと水を撥ねながら無心になってはしゃいでいる。
そんな微笑ましい姿に老いた我が身を重ねていた。
相変わらずの駄作で詩とは程遠いものなのかもしれない。
自信はいつまでたっても生まれてこない。
このままで良いのかと自問自答を繰り返している日々である。
9時になるのを待ちかねて図書館へと走る。
また椎名誠のエッセイ本を三冊借りて来た。
「ナマコのからえばり」シリーズが面白くてならない。
まるで年の離れた兄のような親近感を感じている。
23年前に亡くなった友が椎名さんと親交が深かったせいもある。
生前、「椎名さんに会わせてくれ」と懇願したことなど懐かしい。
「本の雑誌」の編集部に「青さ海苔」を送ったこともある。
その時には思いがけず新刊の「銀座のカラス」を送り届けてくれた。
ずっと昔からのファンだったのだ。
まるで「会えない時間が愛を育てる現象」だと云えよう。
図書館から美容院へ。寝癖でどうしようもなくなっていた髪を
ちんちくりんになる程ばっさりとカットしてもらった。
美容師さんは娘の同級生で話が弾み楽しかった。
「白髪も似合う」と言ってくれて自己満足に浸るばかり。
やはりもう髪を染めるのは止めようと思う。
栗色の髪のばあさんなんて誰も見たくはないだろう。
10時半カーブスへ。筋トレを始めるなり足が痛みだす。
コーチが無理をしないようにと言ってくれたがつい無理をしてしまった。
出来ないのが悔しくてならないのだ。「なにくそ」と思う。
帰りにはまともに歩けない程になり辛くてならなかった。
昼食後に痛み止めを飲みしばらく安静にしていたけれど
一向に痛みは治まらず今もずきずきと痛んでいる。
低気圧のせいかもしれないなとも思う。
夫も頭痛がするらしく痛み止めを飲んでいた。
心と身体は決して一体ではないのだと思い知ったような一日だった。
けれども私は少々のことではへこたれないだろう。
自信はないけれどこんなにも生きているのだから。
波ばかりその冷たさに触れているやがては春になるだろう海
波打ち際を歩いている
まだ素足にはなれない
蹲って指先で触れる海
あれは十九の時だったか
波を怖れることもせず
胸まで浸かったことがある
青春は春なのに違いない
遠い日の記憶が蘇る
あれからどれほど生きてきたことだろう
若い頃、「死」は夢のようなことであった。
死んだらすべてが終わるなどと考えたこともなかったのだ。
むしろ救われると思っていたのだろう。
悲しみも辛さもない。そこにあるのは「幸せ」なのだと信じていた。
あの日、父に結婚を猛反対されて泣きながら家を飛び出した。
家のすぐ裏には太平洋の大海原。打ち寄せる波の音が聴こえる。
私は裸足になり駆け出して行く。そうして波に揉まれて行く。
少しも怖いとは思わなかった。冷たいとも感じなかった。
ただ海の藻屑として消えようと決心していたのだと思う。
彼の声が聴こえた。私はやっと独りではないことに気づく。
海の中で抱きしめられた時、全身の力が抜けていくのを感じた。
生きてさえいれば幸せになれる。それはきっと永遠に違いない。
19歳の春私達は結婚した。その後の運命の波など知りもせずに。
ここ数日、昔のことをよく思い出す。
「過去」と云ってしまえばなんだか「汚点」にさえ思える。
壊れてしまった玩具のようにもう修復が効かない。
どれほど生きて来たかよりもどれほど傷つけたかだろう。
私はもう取り返しのつかないことをこの世に残してきたのだった。
今は生きたくてたまらないけれど赦してもらえるだろうか。
将来を未来だと信じても良いのだろうか。
「墓場まで持って行く」とよく云うけれど
私には持ちきれないほどの罪が沢山あるのだと思う。
何一つ償いは出来ていない。ただ今ある命を全うするだけだ。
見えますか知っていますかこの胸の鼓動が私の生きるすべて
ありったけの息を頼りに
暗い夜空を仰いでいる
ちっぽけな命だとしても
見捨てるわけにはいかない
指先まで通う血は熱く
私のすべてを包み込む
失うことなど怖れない
いつだって新鮮になる
生きて生きて辿り着こう
未来の私に会いに行く
「未来」と「将来」の違いについて考える。
未来は例えば百年先のように広範囲な時間のことなのだそうだ。
将来は具体的な人物がいてそれら特定の人物が
これから訪れるかもしれない具体的な時間のことを云うらしい。
そうなると残り少ない人生において私の「未来」は在り得ないことになる。
そう自覚しなければいけない。むやみに未来を語ってはならない。
無教養なうえに軽率でもある。愚かな詩を書いてしまったものだ。
そんな私にも将来はあるだろう。欲を言えば20年後。
86歳になった自分を想像することは出来る。
杖をつきながら歩いている。そうして空を見上げる時もあるだろう。
書くことは諦めていない。無名のままであっても誇りを持っている。
この世に何も残せなくても嘆くことはしないだろう。
人生を全うするために精一杯生きているだろうと思う。
孫達が嫁いでいればひ孫を抱くことも出来るかもしれない。
その幸せにもういつ死んでも悔いは無いと呟いている。
皺くちゃの顔だとしても微笑むことは出来るのだ。
未来はどうして百年後でなければいけないのだろう。
たとえ20年後でもあっても私はそれを「未来」だと信じたい。
星屑を拾い集めた若き日は遠い夜空の追憶となる
哀しい顔をしている
頬をつつと流れる涙
失った恋は儚く
私を孤独にしたけれど
生きて在ることを選んだ
満天の星空を仰ぎながら
その輝きに癒されていく
あのひとは憶えているだろうか
少女だった私のことを
懐かしんでいるだろうか
追憶の彼方へ
SNSである方から「あのひととは?」と質問を頂いた。
この日記に書き綴った頃のことを思い出す。
2008年の夏のことだったと記憶していたけれど
実際には2007年の7月から8月に掛けて書いていたようだ。
「あした、あさって、ずっと」という題でその後「夏の記憶」になり
ホームページに掲載したのだった。もはや過去の遺物であるが
私にとってはもう二度と書けないであろう「追憶」の記録である。
死んでしまったらすべてお終い。せめてカタチにして残したいと
とある出版社に「小説」として送り付けたことがある。
担当の編集者の方がちゃんと読んでくれてどれほど救われたことだろう。。
「出版しましょう」と夢のようなことを言ってくれたのだった。
けれども世間はそれほど甘くはない。その後の話が進むにつれて
私は自分の愚かさに気づき愕然としたのだった。
自費出版なので百万円の大金が必要だと言われた。
何処にそんな大金があるのだろう。こんな過酷な夢があるだろうか。
決して悪質な出版社ではなかったが所詮は夢を買う商売だったのだ。
私は騙されたわけでもなくただ現実に勝てなかったのだと思う。
今はかろうじてネット上にひっそりと残されているけれど
やがては消え失せる運命だと思っている。
せめて私の命が尽きるまでは残っていて欲しいと願ってやまない。
あのひとの名前をネットで検索したら自宅の電話番号が出て来る。
都会の大学に行ったけれど今は故郷に帰って来ているようだ。
再会が叶うはずはないけれどなぜか不思議とほっとしたのだった。
67歳のあのひとはきっと元気に暮らしているだろう。
お孫さんも居るに違いない。白髪頭のおじいちゃんだ。
私のことを憶えていますか?
私は一生忘れることはないでしょう。
一粒の夢の欠片を指先に光らせながら息を見ている
割れてしまったのか
硝子細工ような夢がある
透明でありながら確かに
そのカタチを感じていた
相応しくないと人は言う
老いた身にそれは切ない
傷つくことなど怖れずに
その欠片に触れてみよう
息は深くなる
まるで私を守るかのように
SNSでいつも私の詩を読んで下さっている方からコメントがあり
「このうたにはその先の人生があり、感慨深い。
数十年の時間の重みが、痛みを同化しそれと共に生きる癒しを
育んだのだろう」と。
とても励みになりその一言でどれほど救われたことだろうか。
心細くてならないけれどこれからも書き続けようと思った。
昨日程ではなかったがずいぶんと暖かくなる。
大雪に見舞われている北国の人達に申し訳ないけれど
それぞれに与えられた土地があり与えられた暮らしがあるのだろう。
終わらない冬はない。そう信じて耐え抜いて欲しいと願ってやまない。
仕事が少し落ち着いて来たのでお昼休みに寒中見舞いの葉書を書いた。
「ご縁の断捨離」などと言って年賀状終いをしてしまったけれど
今年も12名ほどの方から年賀状が届きとても嬉しかった。
以前は40通位だったので断捨離の目的は果たせたのだろう。
けれども決して縁が切れたのではない。誰一人忘れはしない。
ただカタチに拘らないことを選んだ結果だと思う。
一人一人に心を込めて書く。それは手紙のような葉書になった。
これが年末の慌ただしさの中にあってはとても無理だと思う。
そもそも12月に書くのに「今年もよろしく」は白けてしまう。
書き終えて早速郵便局へ行った。可愛らしい切手が沢山ある。
どれにしようかと迷いながら「ポスクマ」の切手を選んだ。
切手を貼りながら宛名を確かめる。そうして顔を思い浮かべていた。
最近は郵便事情が悪くなり、県内でも届くまで二日かかるらしい。
一番遠い北海道には三日で届くだろうかと心配になった。
午後はまた仕事が忙しくなり少し残業となる。
高速道路を飛ばしていたら時速百キロを超えており我ながら驚く。
そんなに急がなくてもとすぐにアクセルを緩めていた。
帰り道はいつものことだけれど夕食の献立で頭がいっぱいになる。
今日から新学期だった孫達の給食は何だったのだろう。
今朝は献立表を見る余裕もなかったのだった。
仕事と主婦業。今年も「それなりに」頑張らない人でありたい。
顔をあげ仰ぐ空があるように心の瞳に映る青空
どれほどの心細さも
やがては薄れるだろう
果てしなく広がる空に
想いを放つ時が来る
私は鳥にはなれないけれど
羽ばたくことが出来るのだ
見失った夢があろうと
見つける瞳がここにある
幻ではない
確かな青空に向かう心が輝いている
やはり駄目だ。書けば書くほどマンネリ化して来る。
それでも決して諦めないことが肝心なのだろうか。
自分が信じられなくなったらもうお終いだと思う。
寒の入りから4日目。日中は思いがけないほど暖かくなった。
やっとお布団を干すことが出来る。なんだか得意顔になっていた。
主婦らしいことが出来たことによほど満足していたのだろう。
買物に行っていたら知人のMさんに会った。
彼女も私と同じ「股関節変形症」で少なからず辛い思いをしている。
会う度に痛みの話になるが仲間だと思うとついつい話が弾む。
痛いのは自分だけではないことがとても心強く感じるのだった。
「お大事にね」と互いに声を掛け合って別れる。
スーパーのカートに縋りつくように歩く姿に自分の姿を重ねていた。
娘夫婦が仕事だったので孫達と昼食を食べる。
昨夜のチキンカツが沢山残っていたのでカツ丼風にしてみた。
あやちゃんもめいちゃんも大盛りにして喜んで食べてくれた。
娘はいつもカップ麺を置いて行くがせめて私が居る時ぐらいは
まともな物を食べさせてやりたいといつも思っている。
午後は少しお昼寝をしてから一時間ほど本を読んでいた。
椎名誠のズバッと言いたいことを書く姿勢がとても好きだ。
私も言いたいことが沢山ある。でも思うようには書けない。
有名な作家ならともかく田舎のおばさんに何が出来よう。
書いてしまえばきっと誰かを傷つけてしまうだろう。
信頼を裏切るわけにはいかない。それほど私は臆病者である。
午後3時。ふっかふかになったお布団を抱くようにして取り入れる。
頬を摺り寄せたいほどに温かくなっていた。なんと幸せなこと。
ベッドメイクをしてからしばらく恍惚としていたほどである。
青空には夢と希望があるけれど
何よりも感謝の気持ちでいっぱいになっていた。
満月が名残惜しくも輝いて私を照らす逃げ隠れせず
真っ直ぐに向き合う
素直にうなずきながら
私は空の一部になった
輝くほどの才能はない
ただ生きて在ることを
誇りに思っている
名残惜しいのはこのいのち
やがては欠けていくだろう
嘆くことをせずにいる
私には立ち向かうべき空がある
やはりこれで良いのかと迷いつつ書いている。
本来の日記の姿に戻すべきではないだろうか。
もしその方が良いと思ったら遠慮せず申し出て欲しい。
朝の寒さも少し和らぎ、日中も随分と暖かくなった。
お布団を干したかったが気忙しくなり断念する。
午前6時過ぎ息子から電話があり通勤途中にパンクしたとのこと。
取り急ぎ夫が駆けつけ職場まで送り届けた。
私は10時前に現場へ行き「ロードサービス」の手配をする。
任意保険には必ず付帯している保険会社のサービスであるが
結構知らない人が多く慌てふためく時もあるようだ。
山里の職場は休みで対応できず市内のダイハツに修理を依頼した。
保険会社が手配してくれた運搬車がダイハツまで運んでくれる。
飛び込みの依頼だと云うのに快く引き受けてくれてとても助かった。
驚いたのは息子の車のタイヤが酷く摩耗していたことだ。
単なるパンクではなく走行中に破損したようだった。
とてもパンク修理出来る状態ではなく4本すべて交換することにする。
一般道だったから良かったけれど高速道路だったら事故に繋がっただろう。
しかも真夜中だったらどうなっていたことか。
息子は男のくせに車には全く関心が無いのだった。
車検から次の車検まで乗りっぱなしなのである。
車はガソリンさえ入れれば走るものだと思っているようだ。
まったく困ったものである。今回でそれも懲りたであろう。
メンテナンスは重要なのだ。そうしてそれが安全運転へと繋がる。
午後4時に息子を職場へ迎えに行きダイハツへと送り届けた。
「4月の車検まで持つと思った」と言ってケロッとしている。
そうして「疲れたしんどい」を連発し続ける。
「晩御飯に食べるものはあるの?」と訊いたら「何も無い」と。
買物をして帰ると言い近くのスーパーへと走って行った。
おそらく帰宅したら息子が夕食の支度をするのだろう。
お嫁さんの体調は落ち着いているようだが手伝えるだろうか。
心配事は尽きず息子がとても憐れに思えてならなかった。
一日が暮れていく。夕陽がとても綺麗だった。
沈黙の夜空に語り掛けている私の心に星をください
煌々と輝く月がある
くっきりと浮かぶ雲
空は満たされている
それなのにどうして
何も聴こえないのか
私は見えない星になる
それは忘れかけた夢
ひとかけらのいのち
生きてさえいればと
どれほど願ったことだろう
胸にかざす星をください
今朝は洗濯物を干し終えてからにわか雨が降る。
しばらく空の様子を窺っていたら青空が見えて来た。
ささやかなことであったが主婦冥利に尽きる。
買物に行ったら店頭に七草セットがずらりと並んでいた。
どうしようかと迷っていたけれど無病息災には勝てない。
家族が少しでも食べてくれたらと願いつつ買い求めた。
10時からカーブス。今日は今年初めての測定日であった。
お正月にお餅を食べ過ぎていたので案の定体重が増えていた。
それでも体脂肪は減っているとのこと。なんだか信じられない。
骨年齢は68歳。骨粗しょう症だから仕方あるまい。
測定日にはコーチと面談があるのだけれど
最後に必ず「お友達紹介」の話があるのだった。
なんだかねずみ講みたいで不信感でいっぱいになる。
お友達を紹介したら福袋が貰えるのだそうだ。
そんな物は要らない。そもそも紹介できるような友達もいない。
これ以上メンバーを増やしてどうするのだろうと思う。
所詮金儲け主義なのだろう。やはりブラック感が漂っている。
それでも微かな信頼を元に私は通い続けるしかない。
私にとってはリハビリなのだ。病院と同じなのだと思っている。
お昼におでんを煮込んだ。家中におでんの匂いが漂う。
平日には出来ないこと。週末ならではの楽しみでもあった。
さて七草。我が家はお粥ではなく雑炊にする。
仕上げに溶き卵を入れるのが習いである。
本来は朝食に食べるものらしいが夕食でも問題ないだろう。
大量に作っても残れば「おじや」になってしまうのがモンダイである。
娘夫婦とあやちゃんは食べたくないと言い張る。
いくら無病息災だと言っても見向きもしないのだった。
せめて一口でも食べて欲しかった。
めいちゃんは「おいしい」と言ってくれ三杯もおかわりをする。
作って良かったなととても嬉しかった。
おいしい顔ほど幸せなことはない。
夕食後、まだ外が薄明るかったので日が長くなったことを感じた。
立春まではまだひと月近くあるが終わらない冬などないだろう。
道はるかきっと辿り着くだろう胸に一輪咲く冬の花
少し俯いているけれど
確かに微笑んでいる
冬を選んで咲いた花は
そこだけ春であるかのように
あたたかな彩を放っている
私はもう歩み始めていて
振り向くことをせずにいる
生きて生きて辿り着こう
胸には一輪の冬の花が咲いている
先日から夜明け前に書いた短歌と詩をここに記している。
すでにSNSで発信しており愚かなことにも思えるけれど
しばらく続けてみようかとふと思い立ったのだった。
何が良くて何が悪いのか自分でもよく分からない。
心細くてならないけれど見守っていただけたら幸いに思っている。
昨日の仕事始めから今のところ順調に進んでいる。
有難いことにもう16日まで予約で埋まった。
事務仕事も忙しくまだ年末の締めも出来ていない。
明日からまた三連休となり来週に持ち越すことにした。
エンジンを吹かし過ぎてはいけない。ゆっくりと進もう。
孫達の冬休みも残り少なくなり宿題と格闘しているようだ。
めいちゃんは学童の「たけのこ学級」に通っているが
今日は急きょ休みになってしまった。
児童の中にとうとうコロナの感染者が出てしまったらしい。
市内でも大勢の感染者が出ており無理もないことに思う。
新学期を目前にして不安でならないけれど
なんとしても守ってやりたい気持ちでいっぱいである。
麻疹やおたふく風邪のように一度罹れば免疫が出来るものなら
これほどの感染拡大にはならなかっただろう。
何度も感染する人もいるらしい。ワクチン接種を5回していても
亡くなった人もいてワクチンも信じられなくなってしまった。
今年もコロナ尽くしかと思うと気が重くなってしまうけれど
新しいワクチンの開発や治療薬に期待したいと思う。
いちばんに身を守ること。家族を守らなければならない。
冷たさを確かめている窓辺には輝く月の微笑みがある
満月が近づいている
空はあたたかくなり
光に包まれるだろう
私は足らないことに
こだわろうとしては
断ち切ろうとしている
諦めてしまうのではない
夢には相応しい空があり
きっと満たされるだろう
何処までも空だ
果てしなく広がる空がある
氷点下の朝が続いている。
山里は平野部よりも気温が低く陽が射し始めてやっと1℃になる。
今日は仕事始め。鼻息が荒いまま出勤していたら
山道をゆっくりと歩くお遍路さんを見かけた。
急ぐことはないのだなと思う。心に余裕を持たなければいけない。
深呼吸をする。なんだか息が空に吸い込まれていくようだった。
仕事は大忙しであったが午後から早退させてもらい整形外科へ。
初めてのリハビリの日で休むわけにはいかなかった。
少し緊張していたが若くて可愛らしい女性の療法士で心が和む。
まずは左足のマッサージからでまるで魔法の手であるかのよう。
優しくて温かな手触りで痛みを和らげてくれた。
それから自宅でも簡単に出来るストレッチを教えてもらう。
3種類ほど。これは毎日必ず実行しなければいけない。
三日坊主にならないように頑張って続けようと思う。
リハビリが終わった後、嘘のように足が楽になっていた。
まるで天国のようであり夢のようでもあった。
つかの間でも痛みから解放されこれほどの幸せがあるだろうか。
最後に医師の診察があり血液検査をすると言う。
一瞬なんで?と思ったけれど何か調べたいことがあるようだった。
まるでまな板の上の鯉である。好きなようにお捌き下さいませ。
私の血はさらさらとしていてとても綺麗に見えた。
次回は3週間後とのこと。信頼している医師には逆らえない。
他の誰がこれほどまでに親身になってくれるだろうか。
駐車場で一服してから帰る。
今夜のおかずは何にしようかそればかり考えていた。
しんしんと聴こえているのは冬の息寄り添っているのは春の息
初春という響きが好きだ
まだ真冬の最中にあって
ささやかな希望を感じる
冷たさを抱くこころがあり
そのぬくもりに癒されながら
私は春になろうとしている
裸木に芽吹いた蕾のように
空に放つ息が愛しく匂う
きっと届く春がある
氷点下の朝。日中は陽射しに恵まれたけれど風が冷たい。
寒の入りも近くなりまだまだこれからの寒さなのだろう。
水仙は冬を代表する花だけれどほっこりと春を感じる。
少し俯き加減に咲くがにっこりと微笑んでいるように見える。
冬を選んでくれたのだ。なんと有難い花だろうか。
ずっと寝正月をしていたけれど明日からの仕事に備え
今日はカーブスへ行き身体を動かして来た。
相変わらず足の痛みはあったけれどそれなりに頑張ることが出来る。
嘆いてばかりはいられない。出来ることに精一杯でありたい。
何事もやる気が肝心なのだ。それは勇気にも似ている。
市役所にも行って医療費の還付手続きを済ませて来る。
70歳になっている夫は月の限度額が8千円なのだそうだ。
だから8千円を超えると高額医療費となり還付されるらしい。
昨年の9月分のことで病院の領収証が必要だったが
捨てずに保管しておいて良かったなと思う。
今後も在り得ることなので領収証は決して捨ててはならない。
市役所の二階が図書館になっており昨年借りていた本を返却。
そうして迷わずにまた椎名誠のエッセイ本を借りて来る。
本棚にはいったい何冊あるのだろう。今年は椎名誠を読破したい。
椎名誠のエッセイを読んでいると頷ける話が沢山ある。
たとえば顔は皺くちゃなのに髪を黒々と染めるのはみっともないとか。
実は私も昨年の夏頃から白髪を染めるのを止めたのだった。
もうどうでもいいやと思う反面、年相応にありのままにと思った。
茶髪に染めている高齢者を見ると酷く違和感を感じる。
本人は若々しいつもりでもお顔をみてごらんなさいである。
いけませんね。話がどんどん逸れて行っていますね。
何はともあれ平穏無事な一日だった。
明日からは仕事なので少し鼻息が荒くなっているようだ。
明けて三日。雲ひとつない晴天に恵まれる。
北海道ではこの冬一番の冷え込みとなったようで
氷点下30℃を超えた地域があったそうだ。
同じ日本でありながら想像を絶するような寒さである。
厳しい冬にどれ程の人達が耐えていることだろうか。
年末に買い込んでいた食材が無くなり買い物に行く。
9時の開店と思っていたらまだ正月時間で9時半からだった。
仕方なく車の中で暖を取りながら開店を待っていた。
リサイクル資源の回収も今日からのようで店員さんが準備をしていたが
新聞紙などの古紙のボックスにごみを入れていた人が居たようだ。
なんというマナーの悪さだろう。店員さんが酷く不機嫌に見える。
気の毒に思いながらしばらく眺めていたら
ペットボトルを沢山提げたおじさんが鍵を早く開けろと怒鳴っている。
店員さんは聞こえなかったかのように無視していた。
まだ開店時間ではないので当然のことだろう。
同じようにペットボトルを提げて来た女性は自動販売機の傍にある
ごみ箱にそれを押し込んでいた。待てない気持ちは解るけれど
急いで準備をしている店員さんには当てつけのような行為だった。
私は以前にその店員さんに叱られたことがある。
開店時間になってもボックスの蓋が開いていなかったので
鍵の掛かっていない扉を開けて資源ごみを入れてしまったのだ。
その現場を見られてしまって嫌味のようなことを言われた。
蓋を開ける時間は決まっていないのだと言う。
勝手なことをすると毎日鍵を掛けるからねと。
その時は少し不愉快な気持ちになってしまったけれど
今日の店員さんを見ているとなんだか可哀想になってしまった。
マナーの悪い人が居ても文句も言えない。
黙々と資源ごみでは無いごみをビニール袋に詰め込んでいた。
その姿は好き好んでしている仕事ではないと言っているようだった。
大晦日まで働き元旦はなんとか休めても2日からまた仕事である。
大手スーパーの店員とはいえ雑用係であるようだった。
家族も居ることだろう。仕事が無くては暮らしも成り立たない。
毎日が我慢だとしたらなんとも憐れに思えてならなかった。
その店員さんの笑顔を一度も見たことがない。
せめて家に帰ったら「お疲れさま」の声がして
にっこりと微笑んでいて欲しいと思う。
明けて二日。穏やかな晴天に恵まれる。
窓辺で陽射しを浴びながら本を読んでいた。
椎名誠の愉快なエッセイである。
堅苦しさが無く気楽に読めるのが良い。
文学には程遠いが私には似合っているような気がする。
肩の力を抜こうと思う。今年はそんな年にしたい。
朝のうちにやっとお大師堂へ初詣。
年末から疎かにしていたことがあってとても気になっていた。
Sさんに電話したら「俺に任せちょけ」と言ってくれて
鏡餅をお供えしてくれたり花枝も新しく活け替えてくれる。
トイレ掃除も出来なかった。なんとも心苦しい限りである。
今朝は千両を持って行ったら誰かが南天を添えてくれていた。
お堂の中はすっかりお正月になっておりなんとほっとしたことか。
皆が気にかけてくれていることがとても嬉しく思う。
協力し合ってのこと。なんとしてもお堂を守らねばならない。
10年後、20年後を思う。お参り仲間さんも高齢になるだろう。
この私にしろ生きているとは限らないけれど
後世に残せるようなお大師堂で在り続けて欲しいと願ってやまない。
午後、母の施設の介護士さんから電話があり
母が転倒し腰を痛めたらしい。幸い骨折は免れたようだが
痛みを訴えており湿布薬で様子を見ているとのこと。
気になったのですぐに母に電話をしたら思ったよりも元気そう。
「転んだろ?」と問えば「さあ覚てない」と惚ける。
「正月やにお餅も食べれん」と言うので少し憐れでもあった。
高齢者ばかりの施設のこと喉に詰まらす事故を防ぐためだろう。
「昨夜はお刺身を食べた」と。好物なので嬉しかったようだ。
施設で新年を迎えたのは二度目だろうか。私の記憶も定かではない。
母の存在までもが薄れていくのがとても切なく思えて来る。
母は幸せなのだろうか。新年を迎え何を祈っているのだろうか。
穏やかに新年を迎える。清々しい朝のこと。
ふっくらとこころに蕾をみつけたような気がした。
咲けるかどうかわからない。生きてみなければと思う。
新鮮な息を感じながらすくっと前を向いていた。
糸であるかのような日々。私はまた一枚の布を織り始める。
透明な糸もあるだろう。手探りでその感触を確かめる。
それが自分を信じることなのではないだろうか。
お昼に元旦の宴会。やはり息子は来ることが出来なかった。
仕事は休めたようだが酷く神経質になっている様子。
まるで自分がコロナに感染しているような口ぶりであった。
それだけ職場がパニックに陥っているのだろう。
憐れでならないけれどこればかりはどうしようも出来ない。
せめてけい君だけでもと連れに行ってやって良かった。
ずっと楽しみにしていたようだ。にこにこ笑顔でやって来る。
お寿司や大好きな鶏のから揚げを喜んで食べてくれた。
午後にはあやちゃん達と凧揚げ。生まれて初めてだったようだ。
お正月と云えばお年玉。これが昔とは桁が違う。
貰う子供たちは大喜びであるが親はたまったもんではない。
お互いに子供が居るものだから同額のお年玉を返さねばならない。
そうなればもはや義理となりなんとなく辛いものがある。
姪っ子。義弟とけい君もお年玉を貰った。
息子の代わりに急いでお年玉を用意して渡したけれど
こんなことはもう来年から止めた方が良いのではと思う。
予め姪っ子達に伝えておくべきだろう。
そんなことを考えながらけい君の気持ちを思うと複雑な気持ちになる。
やはりお年玉は無くてはならないものかもしれない。
あやちゃんとめいちゃんは総額3万円近くあったそうだ。
時代は変わったのだなとつくづく思った。
私の財布にはボーナスの残りがわずかに残っている。
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