あと少し私は布を織っている明日は広げて一枚にする
上手く出来ない日もあった
綻びてしまいそうな時も
糸は真っ直ぐではなく
絡んでばかりいたけれど
息を吹き掛けながら織る
夢のようなことかもしれない
分不相応なことかもしれない
それでも諦めずに織り続けてきた
あした私は一枚になる
とうとう明日は大晦日。駆け抜けたような一年が終わる。
出来ないことが多くなり不甲斐なさを感じたこともあった。
けれども生きてさえいればと精一杯だったように思う。
ありのままの自分を認めることは出来たのだろう。
今年もコロナに始まりコロナで終わる年になってしまったけれど
今のところ家族皆が守られており奇跡のように思っている。
危機感や不安からは逃れそうにもないが少しでも気を強く持っていたい。
そうして穏やかに笑顔で新年を迎えたいものだ。
こうして日々を綴る場所を与えられていて幸せだと思う。
どんな日もあったけれど書くことで救われていたのではないだろうか。
嘆いてばかりいないでリセットすることが出来たような気がする。
そんな私の日々におつきあい下さった皆様には感謝に尽きます。
この一年ほんとうに有難うございました。
今年最後の日記になってしまいましたが
皆様どうか健やかに良いお年をお迎えくださいね。
穏やかな冬晴れ。天使の微笑みのような陽射しだった。
朝の国道から山道に入るとご夫婦かなと思われるお遍路さん。
おそらく夜明け前に宿を経ったのだろう。
女性の方が一歩先を歩き男性は後を追うように歩いていた。
肩を並べて歩くお遍路さんは殆ど見かけない。
会話をするでもなくただ黙々と歩き続けている。
今年も沢山のお遍路さんに出会うことが出来た。
声を掛けることは出来なかったけれどこれも「縁」なのだと思う。
通勤路が遍路道でほんとうに有難いことである。
職場は仕事納めの予定であったが午後になりハプニングが。
車検整備の完了した車に不具合が見つかったのだった。
納車も出来なくなり義父と同僚が何とかしようと手を尽くす。
もう三時を過ぎていた。急いで隣町の宿毛市へと向かう。
「ご苦労様でした」ほんの寸志ではあるがボーナスを手渡す。
これで今年の私の仕事はすべて終わったことになる。
資金繰りは決して順調ではなかったけれど
後はなんとかなるだろうと楽観的に考えていた。
実は私自身がボーナスが欲しかったのはここだけの話である。
お財布が一気に豊かになりうきうきしながら買い物をする。
まずフライパンを買った。古いのをずっと我慢して使っていたから
これでまた料理の腕を上げられそうで未来はとても明るい。
お餅は「サトウ」が見つからず仕方なく「越後」を買った。
防腐剤などは入っていないようだ。安心してお雑煮が食べられそう。
残ったら冷凍保存が出来るし良き鍋の友にもなるだろう。
明日は元旦の食材を買いに行く。娘が好きなので数の子は必須。
蟹はすでに諦めているいるけれど海老ぐらいは買いたい。
もうわくわくが止まらない。これもすべてボーナスのおかげである。
残念なのは息子達が来られないかもしれないこと。
務めている介護施設でコロナのクラスターが発生したのだそうだ。
おそらく元旦も仕事になるのではないだろうか。
息子は今のところ大丈夫のようだけれど油断は出来ない。
どうかどうかと手を合わし続けた一年だった。
守られていることがまるで奇跡のようにも思える。
平穏無事は決して当たり前の事ではないのだとつくづく思うばかり。
曇り日。朝の寒さをそのままに日中も寒さが続く。
28日の末広がり。大安吉日でもありお餅を搗いた家が多かったようだ。
山里でも義父の友人から鏡餅とのし餅、あんこ餅が届く。
のし餅を少し分けて欲しかったけれど言い出せず。
義父も誰かに分けたいだろうと遠慮してしまった。
子供の頃には隣近所の人が集まり皆でお餅搗きをしたものだった。
それぞれの家族総出でまるでお祭りのような騒ぎである。
今のような餅搗き機は無く臼と杵でぺったんぺったん。
大人たちの掛け声。「ほりゃあ」とか「よいしょ」とか
子供心にその光景がとても嬉しく楽しくてならなかった。
私は粉をまぶす前のお餅が大好きで水で濡らしては食べた。
杵の周りにくっついているお餅が特に美味しかったと記憶している。
もう二度と食べられないと思うとよけいに食べたくなるものだ。
嫁いでからは姑さんを手伝って機械でお餅搗きをした。
5升位搗いたのではなかっただろうか。結構たくさんあった。
芋餅、青海苔餅もある。搗きたての柔らかいお餅はとても美味しい。
元旦のお雑煮は各家庭によって違うものだけれど
姑さんの作るお雑煮には必ずニンニク葉が入っていた。
ニンニク葉は嫌いではないけれど独特の匂いがする。
初めて食べた時には少し違和感を感じたけれど
郷に入れば郷に従えである。次第に慣れて美味しく思えるようになった。
そんな懐かしいお雑煮も今ではもう食べられなくなってしまう。
夫にとっては母親の味だが私はニンニク葉を入れない。
夫も入れろとは言わないので我流を貫き続けている。
さてお餅です。今年も買わなければいけない。
今日もスーパーでどうしようかなと迷っていたけれど
市内のお餅屋さんのは結構高くて増々迷ってしまうのだった。
一個ずつ袋入りの全国規模のメーカーのはお手頃価格である。
でも防腐剤が気になる。カビないようにかなり手を加えているだろう。
明日も迷うかもしれないけれど大晦日までには決めないといけない。
これではまるでお餅難民であるが新年を迎える第一歩に思える。
ぺったんぺったん子供の頃のお餅搗きが懐かしくてならない。
冬晴れの日が続いている。このまま穏やかに新年を迎えたいものだ。
長期予報では新年早々からまた強い寒波が襲って来るらしい。
寒さにはずいぶんと慣れたけれどやはり身構えてしまう。
幸い以前のような恐怖心は無くなっておりそれだけで救われる思い。
懇意にしているお客さんから冬野菜を取りに来るようにと電話があった。
昨年までは軽トラックで持って来てくれていたがもう無理らしい。
抗がん剤の副作用で酷く辛そうな様子であった。
お宅を訪ねたら窓際のベットに横たわっており痛々しい。
それでも声は朗らかで「なんぼでも持って行けよ」と言ってくれる。
奥さんと一緒に畑に行くとそれは見事な白菜や大根だった。
大根を引き抜く。私のふくらはぎ位ありとても大きい。
白菜は奥さんが包丁で切り落としてくれた。それも私の頭位ある。
私は大根を抱え奥さんが白菜を抱え車に運び込む。
足が痛くてよろよろしていたら奥さんのなんと逞しいこと。
つい「おばちゃんはえらいね」と言ってしまった。
同じ申年で私より12歳の年上であったが「おばちゃん」は失言だった。
しまったと思ったけれどもう言ってしまったことは仕方ない。
気を悪くしたのではと思ったけれど笑顔で見送ってくれた。
もし私が12歳年下の人にそう呼ばれたらショックだったことだろう。
これからは気をつけなければいけないなと肝に銘ずる。
種を蒔き野菜を育て収穫の楽しみもあったことだろう。
治療はどんなにか辛いだろうけれど負けないでいて欲しい。
今は昔と違って癌イコール死ではない時代である。
克服した人も大勢いる。私の夫の弟もその一人だった。
来年の冬も野菜を頂きに行きますよ。楽しみにしていますからね。
今日もほっとするような冬晴れ。陽射しのなんと有難いこと。
あたりはすっかり冬枯れているけれどきらきらと眩しい。
昨夜はとんだ間違いをしていたことに今朝になって気づく。
日記の題名を「カミングアウト」と書いていたのだった。
自分では「カウントダウン」のつもりだったのに
どうしてそんな間違いをしたのかとても不可解である。
似ているようで全く違う意味の言葉だった。
幸いこの日記は修正が出来るが穴があったら入りたいくらいである。
カミングアウトするようなことは今のところ何もない。
この先もしあれば正直にここに記そうと思う。
仕事を終えていつものスーパーに寄ったら
店内がすっかり歳末モードに変わっていた。
なんとなくそわそわと落ち着かない気分になってしまう。
「マイマイする」と言うのだけれどこれは方言だろうか。
とにかくマイマイするのである。決してカタツムリではない。
年越しそばなどもう買う人がいるのだろうか。
鮮魚売り場の数の子や蟹のびっくりするような高値。
私はすべてを無視するようにしながら夕食の献立を考えていた。
なんだかそれが後ろめたいような複雑な気分になる。
もうすでに年の瀬の波にもまれているのだろう。
流されまいと足を踏ん張っているような気持だった。
自分なりに計画を立てて少しずつ買い揃えようと思っている。
お財布は寂しいがなんとかなるだろう。
心まで貧しくなってしまったら新年に申し訳ない。
風もなく穏やかな冬晴れ。ずっとこんな日が続けば良いのにと思う。
大雪で大変な暮らしを強いられている人達に申し訳ないけれど。
与えられた土地ごとに与えられた試練があるのだろう。
耐え忍ぶことも大切なことなのかもしれないと思った。
午前中に川仕事へ。最終日にやっと手伝うことが出来た。
海苔網を見ておどろく。それは昨年よりも悪い状態であった。
それでも見捨てる訳にはいかない。いのちを守るような気持である。
一枚ずつ漁場に張りながら「頑張れ頑張れ」と声を掛けていた。
足元に魚がすいすいと泳いでいる。なんと可愛らしいこと。
チヌに見えたが黄ビレだったのかもしれない。
魚網を持っていたら簡単に捕まえられそうだったけれど
「これが意外とすばしっこい奴でな」と夫が笑っていた。
自然の真っ只中での作業も感慨深いものがある。
二人で頑張った甲斐があり一時間半程ですべての網を張り終える。
海苔が育つかどうか分からないけれど心地よい達成感があった。
川仕事で身体を動かしたのが良かったのか「やる気」が出て来る。
みずぼらしい玄関先をなんとかしようとホームセンターへ向かった。
葉牡丹とスノーボール、ガザニアを買い求める。
葉牡丹6本を寄せ植えにしてみた。なんと素晴らしいことでしょう。
しばしうっとりと眺めながら私もなかなかやるなと思った。
新年は玄関からやって来る?そんなわけはないけれど
少しでも新年を迎える準備が出来て清々しい気持ちになった。
家の中は「ざりんこ状態」て手の付けようがない。
特に床の間のある部屋は娘達の物置と化している。
そうだ玄関に鏡餅を供えよう。これも素晴らしいひらめきである。
とにかく出来ることから始めよう。最低限でも新年はやって来る。
じたばたしないこと。完璧にしようと思わないことが肝心だ。
夕食はクリスマスの鍋パーティーだった。
寄せ鍋でタラの身や牡蠣、鶏団子やボイルホタテ等で結構豪華。
明日から大晦日までは質素な夕食になるが我慢して貰いたい。
息子から連絡があり元旦にはけい君と一緒に来てくれるそうだ。
お嫁さんは無理らしい。やはり体調が優れないのだろうか。
数年前の元旦には台所も手伝ってくれたことなど思い出す。
揚げ物が得意で鶏のから揚げを作ってくれたのだった。
無理強いは出来ず仕方ないことだけれど
息子も苦労をしているだろうと思うと心が痛むばかりだった。
あれこれの心配はさらりと水に流しておこう。
一週間後にはもう新年を迎えるのだ。
今朝は銀世界とばかり思っていたけれど
幸い雪は降っておらず積雪もなかった。
水道管の凍結も無くいつもと変わらない平和な朝を迎える。
あまりの曇り空に洗濯物を干さず乾燥機に入れたけれど
次第に青空が見え始め素晴らしいほどの冬晴れとなった。
なんとなくショック。洗濯物を干せば良かったと残念でならない。
もう後の祭り。ついくよくよとしてしまうのは私の悪い癖だ。
川仕事の予定だったけれど夫が一人で行くと言ってくれる。
おかげでカーブスへ行けたけれどあまり楽しくはなかった。
いつも足を気遣ってくれていたコーチが辞めてしまったとのこと。
カーブスへ通い始めて一年半になるけれど信頼していたコーチが
ことごとく辞めてしまい今回でもう4人目となった。
ふとブラックな企業なのではないかと思う気持ちが脳裏を掠める。
そうではないと信じたいけれどあまりにも退職者が多過ぎる。
かと言って私まで退くわけにはいかない。続けられる限り頑張りたい。
午後は炬燵に潜り込みひたすら怠惰に過ごす。
また3時間ほど眠っていたようだ。夫がすっかり呆れていた。
大掃除どころか小掃除もしていない。まったくやる気が出ないのだ。
一週間後には大晦日だというのにいったいどうなることだろう。
せめて少しでも新年を迎える準備をしたいものだと思っている。
夕食はささやかにクリスマスイブ。
娘がスシローでお寿司を。クリスマスケーキも買って来てくれた。
なんだか愉快なくらいに張り切っていて微笑ましく感じる。
家族揃って賑やかに夕食を食べられて私も嬉しくてならなかった。
大雪による停電でクリスマスイブどころではない人達がいることを
忘れてはならない。どんなにか不便を強いられていることだろう。
すべての人に平等に幸福な時が訪れますようにと祈らずにいられない。
2022年12月23日(金) |
雪の日のワンタンスープ |
目覚めたら雪が降っていた。
幸い積もるほどの雪ではなかったけれど
めったに雪が降ることがない高知市で14センチの積雪があったそうだ。
観測史上最高の雪とのこと。どんなにか戸惑ったことだろう。
県内では雪のため停電となった地域があったようだ。
南国高知でもそんなことがあるのかと気の毒でならない。
夜になり復旧したのかも分からない。未だ詳しい報道は無かった。
家の灯りはもちろんのこと電気が必要な暖房器具は使えない。
今は昔ながらの石油ストーブがある家も少ないだろう。
オール電化の家が多くなり停電となればたちまち暮らせなくなる。
厳しい寒さの中どれほどの人が耐えていることだろうか。
とにかく一刻も早い復旧を祈らずにはいられない。
今朝は恐る恐るの山道であったが道路凍結は無かった。
そればかりか山里に着くと雪は全く降っておらず青空が見えていた。
突風のような強い風が吹いていたけれど陽射しは十分にある。
これはよくあることで山里が大雪になった時には
近隣の町は晴れていることが多い。不思議なことだなと思う。
仕事を終えて帰り道の国道では横殴りの雪だった。
娘から電話があり孫達を迎えに行って欲しいと頼まれる。
買い物を済ませてからそのまま小学校へと向かった。
校門の近くで待っていたら手を振っているめいちゃんが見える。
お迎えが思いがけなかったのか二人ともとても喜んでくれた。
娘は予定外の残業とのこと。一人で夕飯の支度を頑張る。
ほうれん草の白和えとワンタンスープを作った。
後は塩サバとお惣菜のチキンボール。
じいちゃんとお風呂に入っためいちゃんがすぐに食卓に付き
ワンタンスープを飲んでくれてとても嬉しかった。
あやちゃんはお母さんが帰るまで食べないと言い張る。
メニューが気に入らないのか少し不貞腐れていた。
つんつんされると悲しくなる。けれどもめげる訳にはいかない。
明日はクリスマスイブなのでご馳走を食べようね。
今は雪が止んでいるけれど深夜にはまた降り出すかもしれない。
明日の朝は一面の銀世界だろうか。
今日は冬至。一年で最も夜が長い日。
明日からは少しずつ日が長くなっていくだろう。
古代では一年の始まりだったらしい。
そう思うとなんとなく新鮮な日に思えて来る。
今年も山里の柚子農家さんが柚子をたくさん届けてくれた。
規格外の柚子ではなく上等の柚子で申し訳ない。
有難く頂き今夜は柚子湯に浸かりずいぶんと温まった。
収穫した柚子は規格外が多いそうでその苦労が察せられる。
十分な肥糧が必要でその肥料も高騰しているらしい。
柚子に限らず農家はとても厳しい現実に立たされてるのだろう。
今夜は孫達のダンス教室の日であったがあやちゃんはもう行かないと。
どうやら止める気になっているらしくその決心は固いようだった。
仲良しのお友達と何かあったのかなと思ったけれど
そうではなくてもうやる気が全く無くなってしまったようだ。
向き不向きもあるだろう。元々身体を動かすのが得意ではない。
今まで嫌々行っていた風には見えなかったけれど
自分なりに考えて決めたことだろうと思う。
またきっと好きなことが見つかるだろうと見守ってやりたい。
いつも活発なめいちゃんは娘と一緒に喜んで出掛けて行った。
来年の春には発表会があるのだそうだ。
またセンターを狙っていることだろう。楽しみなことである。
同じ姉妹でも全く違う性格だった。
5年後10年後、いったいどんな二人になっていることだろう。
なんとしても長生きをしたいなと思う。
未来の孫達に会いたくてならない。
2022年12月21日(水) |
どうしようもないこと |
みぞれのような雨が降っている。
気温は9℃とさほど低くはないけれど寒さが身に沁みる。
まるで雨が雪になりたがっているようだ。
週末はクリスマス寒波になるそう。また雪が降るのだろうか。
大雪に見舞われた新潟県内では停電になっている地域があるらしく
車中で暖を取っていた若い女性が一酸化中毒で亡くなったそうだ。
なんとも痛ましく残念でならない。停電が引き起こした悲劇である。
どれ程の人が寒さに耐えていることだろう。命にも関わることだ。
報道が少な過ぎる。復旧したのかどうか未だに分からずにいる。
明るい部屋で夕食を摂りお風呂で温まる。
暖房の効いた部屋でこれを記しているのが心苦しくてならない。
職場のホワイトボードは年内の予約でぎっしり埋まった。
なんとしても順調にと願わずにはいられない。
毎年のことだけれど必ずトラブルがあったりする。
事故だったり故障だったり突然に舞い込むことが多い。
今のところは大丈夫。このままラストスパートが出来そうだ。
きっと心地よい達成感が待っている。そう信じて頑張りたいものだ。
夕方、中高時代の親友から電話があった。
めったにないことで何か変わったことがあったのだと察する。
やはり思った通り彼女のお母さんが亡くなった知らせだった。
遠方のためお悔やみに行けないことを詫びたら
「気にしなくていいよ」と言ってくれる。
彼女も誰かと話したかったのだろう。それが私で良かったと思う。
私は父が亡くなった時も誰にも知らせなかった。
母にもしものことがあっても知らせるつもりはない。
人の死に慣れてしまった。だってそれはどうしようもないこと。
2022年12月20日(火) |
負けるわけにはいかない |
朝の寒さが日毎に更新されている。
高知県内でも氷点下の地域が数カ所あったようだ。
北海道では真冬日が続いており新潟県では記録的な大雪。
同じ日本でありながら心苦しく胸を痛めるばかりである。
冬の陽射しを浴びながらなんと恵まれていることかと思う。
早朝から夫が一人で川仕事へ。どんなにか寒かったことだろう。
順調に行けば土曜日には終われそうだと言うので手伝うことにする。
カーブスは休まなければいけないがそれどころではないだろう。
優先順位を決めるべきだ。やるべきことに精一杯でありたい。
職場は相変わらずの忙しさ。義父はお葬式に行っており留守で
同僚が一人でてんてこ舞いしていた。
来年はもう還暦である。勤続43年目になる。
よく今まで耐え忍びながら会社のために尽力してくれたものだ。
「来年には赤いパンツを買うけんね」と言って笑い合ったりする。
私もそうだけれど誰一人欠けてはならない。
義父はもちろんのこと母もまだ専務のままであった。
母にもしものことがあれば会社はもう成り立たないだろう。
ぎりぎりの瀬戸際でなんとか持ち応えている状態である。
年末の資金繰りも今年は順調とはいかず頭を悩ませている。
昨年はボーナスを出せたが今年はどうなることだろう。
同僚にだけはなんとしても支給してやりたい。
29日が仕事納めに決まった。あと9日の勝負である。
負けることは考えていない。とにかく立ち向かって行こう。
今朝は今季いちばんの冷え込み。
雪こそ降っていなかったが車のフロントガラスが凍っていた。
午前8時の気温が2℃。朝陽が射し始めてほっと空を仰ぐ。
北日本や東北の日本海側では豪雪になっているようで気の毒でならない。
救急搬送中の救急車が雪に埋もれ動けなくなっている映像を見た。
ひっきりなしに除雪をしなければ身動き出来なくなってしまうのだ。
想像もつかないけれどどれほど大きな苦労を強いられていることだろう。
高知県西部は晴れたり曇ったり。時雨れた時間帯もあったけれど
雪にはならず平穏で恵まれた一日となった。
今朝も訃報が舞い込む。義父とは遠縁になるお客さんが亡くなる。
90歳を過ぎていて高齢ではあったが元気な老人であった。
数年前まで苺を栽培していて私は「苺のおんちゃん」と呼んでいた。
少し気難しいところがあって苦手なお客さんではあったけれど
よく苺をたくさん持って来てくれて嬉しかったことを思い出す。
娘さんから相談を受けたこともある。
施設に入居させたい。もう一緒に暮らしたくないと言う。
何か諍いがあったのだろう。早く死ねば良いのにとも言った。
その時は宥めて辛抱するようにと言い聞かせたけれど
娘さんの苦労も並大抵のものではなかったのではと察する。
けれどもいざ亡くなってしまうとやはり寂しいことだろう。
娘さんは一人っ子でもう独りぼっちになってしまったのだ。
今はまだ若いけれどやがては老いていく。
その時になって初めて父親の愛情を感じるのではないだろうか。
明日がお葬式とのことで義父があれこれと手助けをしているようだ。
親戚も少なく娘さんもどんなにか心細いことだろう。
「ひとはやはり死ぬのだ」と私は漠然と感じている。
せめて苺のおんちゃんは天寿を全うしたのだと思いたい。
雨が雪に変わり初雪となる。
日中も雪が舞い続けしんしんと冷えていた。
幸い積もるような雪ではなかったけれどはらはらとするばかり。
明日の朝の道路凍結が心配でならない。
同僚に冬タイヤとの交換を頼んであるのだけれど
お客さんが優先でまだ順番が来ないのだった。
忙しい最中に申し訳ないけれど明日もう一度頼んでみようか。
日曜日なのを忘れていたのか母から電話があった。
雪を心配して「早く家に帰りなさい」と言ってくれる。
私は炬燵にすっぽりと潜り込んでいたので笑い話になってしまう。
母の気遣いが嬉しかった。やはり母なのだなと改めて思う。
T君のお葬式であったが家族葬とのことで参列はしなかった。
コロナ禍になってから家族葬が主流となりなんとも侘しい。
親族のみの寂しいお葬式だったことだろう。
せめてお焼香だけでもと思う。故人にそれが伝わるだろうか。
66歳の生涯。あまりにも早過ぎる最期だった。
雪を仰ぎながら夫と「休んで正解だったな」と。
早朝から川仕事の予定だったけれど寒さに負けて延期したのだった。
明日から夫が一人で少しずつ作業をすることになった。
一週間もあれば終わるだろうけれど手伝えなくて申し訳ない。
「なんとかなるなる」夫はけっこう逞しく楽観的である。
この寒さの中、娘婿が落ち鮎漁に行っていて大漁で帰って来る。
早速塩焼きにしたけれど娘婿と孫達は全く食べようとしない。
「こんなに美味しいものを」と夫と娘は大喜びだった。
私は2匹だけ食べた。小さい鮎なのに卵が入っていておどろく。
まだ産卵前なのだ。鮎の儚い命を有難く頂く。
現在の外気温4℃。かなり冷え込んでいるが雪は止んでいる。
このまま降らなければ明日は大丈夫だろう。
早寝早起きで8時半には床に就いている。
夢を見ることが多いが真夜中にはっとしても朝にはもう忘れている。
小雨降る一日。気温も上がらず冷たい雨となる。
そんな寒さの中、お隣のアロエの花が満開になった。
なんだかそこだけ春であるかのように暖かく見える。
お隣の奥さんは知っているのだろうか。
もう何日も会っていない。元気でいるだろうかと気遣っている。
午前中に買い物。それから図書館へ行きカーブスへと向かう。
図書館では返却日が1月4日だと知り少し驚いてしまった。
それだけ今年が残り少なくなっていることに改めて気づく。
椎名誠のエッセイ本を3冊借りた。読むのが楽しみである。
カーブスでは足の痛みがあったけれど絶好調であった。
とても気分が良い。やはり気の持ちようなのだろう。
整形外科の医師に「頑張って続けなさいや」と言ってもらい
それがとても励みになっているようだった。
出来ることを精一杯にと思う。諦める訳にはいかないのだ。
午後は炬燵に潜り込みなんと3時間も寝ていたようだ。
「よう寝るなあ」と夫に笑われてしまった。
それから録画してあった「ポツンと一軒家」を見ていた。
もと刑事さんだったと云う66歳の人が出ていた。
「80歳ぐらいに見えるな」と夫と話していたけれど
私達も傍から見れば老けて見えるのではないだろうか。
自分ではまだまだと思っていても現実はとても厳しい。
気だけは若くと思っていてもその気も心細くなってしまった。
夕飯はあやちゃんのリクエストでポテトサラダ。
娘からのリクエストで鶏のから揚げを作る。
食べたい物をちゃんと言ってくれたらずいぶんと助かるものだ。
いつもいつも期待通りにはいかない。
その度に一喜一憂している日々であった。
明日のことはまた明日になってから考えれば良いだろう。
雨は止んでいるようだがずいぶんと冷え込んでいる。
明日は今季いちばんの寒さになりそうだ。
お布団の中がいちばん。とにかくぐっすりと眠ろう。
朝のうちは陽射しがあったが午後から雲が広がる。
気温はさほど低くはなかったけれど肌寒くてならない。
仕事を終えていつものスーパーに寄ったら
地元の農業高校の生徒さん達がシクラメンの店頭販売をしていた。
なんと鮮やかな色。一鉢でも買い求めたかったが諦める。
安価であったがやはり贅沢品だなと思ってしまった。
そんな気持ちが空しくてならない。情けなくてならない。
今朝も訃報が。同級生のT君が昨夜亡くなったとのこと。
入浴中の事で心臓麻痺ではないだろうかと言う。
ヒートショックも在り得るが詳しいことは分からなかった。
突然の訃報で胸が痛んだけれど悲しみとは少し違っていた。
漠然と「やはり人は死ぬのだな」と思う。
遅かれ早かれそれは自分の身にも必ず襲って来ることである。
T君とは小学5年生の時の同級生だった。
瘦せぽっちで背が高く皆から「ガイコツ」と呼ばれていた。
そんなあだ名にもめげず朗らかで明るい少年であった。
私の親友のYちゃんが好きでよくちょっかいを出していた。
恋の告白などまだ出来ない年頃のことで懐かしくてならない。
おとなになって再会したけれどたまに顔を見かけるだけで
「おい、元気なかや」と。互いに笑顔を交わすだけであった。
役場に勤めていたけれど早期退職をして米農家になっていた。
奥さんと二人三脚で今年も稲刈りを頑張っていたと聞く。
子供はいない。残された奥さんはどんなにか寂しいことだろう。
こんなにあっけなく逝ってしまうとは思ってもいなかっただろう。
冥福を祈りつつ少年の頃のT君を思い出している。
おどけた顔をして今にも駆け寄って来そうな気がしてならない。
真冬の寒さであったが陽射しに救われる。
特に車中は快適でお昼休みに少しうたた寝をした。
とろりとろりとなんとも心地よい。
みい太の姿が見えない。彼も何処かで日向ぼっこをしていたのだろう。
今年の仕事も後2週間程となった。
工場はフル回転していて義父も同僚も精を出している。
事務仕事はさほど忙しくなく今日は年賀状を書いていた。
印刷ばかりでは味気ないので宛名は手書きにしている。
そうして来年が車検のお客さんには一言添え書きをする。
ささやかなことだけれど気持ちが伝われば良いなと思う。
私は今年も年賀状を出さないことに決めている。
以前ここに「ご縁の断捨離」と書いたことがあるが
年賀状と云う「カタチ」に拘りたくない気持ちがある。
確かに音信不通となりそれが断捨離のなのかもしれないけれど
その人の存在が消えてしまうのではないのだと思う。
一昨年からだったか「寒中見舞い」を出すようになった。
年賀状を頂いた人にだけ出す手紙のようなものだ。
新年を迎えお正月気分が薄れた頃にゆっくりと書くのが良い。
元旦に届く年賀状は嬉しい。そうして返事を書く楽しみがある。
今日は父方の伯母の命日だった。早いものでもう13回忌である。
寒い夜の入浴中にヒートショックで亡くなってしまった。
虫が知らせたのか亡くなる数日前に声を聞いたことが忘れられない。
ふと思い立って電話をしてみようと思ったのだ。
伯母の涙声に私も泣かずにはいられなかった。
それが最後になろうとは思ってもいなかったけれど。
母親のいない私と弟に伯母は母代わりとして務めてくれた。
その恩は一生忘れることはないだろう。
最後に話した時に心から「有難う」と言えて良かったと思う。
少女時代の伯母とのふれあいを幾つも幾つも思い出している。
それが少しでも供養になればと願ってやまない。
最強寒波だとか冷たい北風が吹き荒れる。
日中も気温が上がらず真冬の寒さとなった。
北日本は猛吹雪。経験こそないが怖ろしくてならない。
温暖な四国に住みなんと恵まれていることだろうか。
午後から仕事を休ませて貰って整形外科へ。
2時半の予約であったが早めに行き受付を済ませておく。
今日はレントゲンと骨密度の検査があった。
検査技師の人がとても愉快な人で緊張を和らげてくれる。
なんと「骨まで愛して」を歌ってくれたのだ。
「知っちょうかえ?」と訊かれ子供の頃に歌っていたことを話す。
昭和40年頃の歌謡曲ではなかっただろうかとても懐かしい。
診察時、初診の時のレントゲンと今日のレントゲンを見比べた。
素人目でもはっきり分かるほどそれは悪化しているようだ。
少し意外に思う。自分では以前よりもマシになっている気がした。
単に痛みに慣れてしまっていたのかもしれない。
医師はとても親身になってくれ有難いこと。
「なんぼか痛いろう」その言葉だけで救われるような気がする。
痛みと云うものはその本人しか分からないものだ。
それをまるで自分の事のように気遣ってくれる。
「股関節変形症」は運動療法が一番の治療法らしい。
週一のカーブスだけでは足りていないのだろう。
今日は病院での定期的なリハビリを勧められた。
年内にはもう来られそうにないので新年早々からと決める。
とにかくやれることから始めてみなくてはいけない。
骨密度は62%。正常値が85%なので明らかに骨粗しょう症である。
このまま骨が脆くなると股関節の手術も出来なくなる可能性があるらしい。
かと言ってすぐには手術は無理なので4年後を目指すことになった。
「4年も辛抱出来るかえ?」医師はとても心配してくれる。
私は「頑張るけん」と応えていた。本心からそう思っている。
最悪の場合は歩けなくなってしまうかもしれないけれど
出来る限り楽観視をしていたい。負けないぞと気合が入る。
生きてさえいれば希望はきっとあるのに違いない。
西日本の暖かさも今日までだろうか。
夕方から風が冷たくなり気温が下がり始めている。
明日の朝は今季いちばんの冷え込みになりそうだ。
「寒さなければ花は咲かず」と言い聞かせている。
私の心にもきっと蕾がふくらむ時が来るだろう。
たとえ今は裸木であっても嘆くことはするまいと思う。
内科の通院日。先月から薬が増えており診察を受けねばならなかった。
予約制ではないのでなるべく早く行って順番を取ることにする。
その甲斐があって午後の診察の一番に診てもらえた。
緊張していたつもりはなかったが血圧が異常に高い。
医師がまた薬を増やそうとしていたがしばらく様子を見ることに。
「白衣高血圧」と言うらしい。病院で測ると高くなってしまうのだ。
先月から服用している抗不安薬は今までの倍の処方となる。
今のままで良いのにと思ったけれど医師に逆らえなかった。
精神的なものなので自分でもよく分からないところがある。
いずれにしても薬に頼らなければいけない状態なのだろう。
薬漬けではあるけれど私はけっこう元気だと思っている。
帰宅してパソコンを起動しSNSを見ていたら
母がお世話になっている施設のツイートが発信されていた。
そこには満面の笑顔の母の写真が添付されてあった。
今日は理容師さんに髪をカットして貰ったらしい。
前回はそれが嫌でたまらず泣きながらだったことを思い出す。
ずっとお気に入りの美容院へ行きたかったのだ。
けれどもコロナ禍でそれを諦めざる得なかった。
母も観念したのだろう。笑顔からそれが伝わって来る。
さっぱりと気持ち良くなった。それが嬉しくてならない。
引用リツイートをしたらすぐに母から電話があった。
写真を撮ってくれた介護士さんが母に知らせてくれたらしい。
離れていても会えなくても繋がっているのだなと思った。
弟にも知らせなくては。電話をしたら「もう見たぞ」と
弟一家も施設のSNSを常に気にかけているようだ。
「元気そうで良かったな」弟の声もいつになく弾んでいた。
今朝は寒さが和らいでいたけれど
山里では初霜が降りておりおどろく。
平野部に比べると気温が3℃ほど低くなっていたようだ。
職場の事務所に入ると義父が暖房を点けてくれていた。
そんな心遣いが嬉しくてならない。有難いことだなと思う。
日中は穏やかに晴れる。みい太の日向ぼっこに心が和む。
Kちゃんが抱っこして撫でていた。けっこう甘えん坊である。
猫の居る職場は本当に癒されるものだ。
あんずの命日。猫ではなく我が家の愛犬だったあんず。
もう9年の歳月が流れてしまったけれど昨日の事のように思い出す。
朝に夕に散歩した川辺の道。あんずは草と戯れるのが好きだった。
庭で飼っていたので時々脱走をして困らされたこともある。
その時はお大師堂まで行っており叱ることも出来なかった。
私と毎日お参りに来ていたのだ。よく覚えていたものだと思う。
15歳を過ぎてからは日に日に老いの衰えが見え始めた。
人間の一年のうちに犬は7歳も年を取るのだそうだ。
まともに歩けなくなり思うように散歩にも行けなくなる。
仕方なく犬用の紙おむつで排尿の手助けをしていたけれど
血尿が出始めていておそらく腎臓が悪かったのではないだろうか。
可哀想でならなかったけれどもう病院へ連れて行くことはしなかった。
寒い夜が続いていて何とかして家の中で寝かせようとした。
せめて毛布で包んであげたくてならなかったけれど
あんずは犬小屋がよほど気に入っているのか尻込みをして動かない。
とうとう昏睡状態になりやっと抱えて家の中に入れることが出来た。
毛布で包み湯たんぽを抱かせた。
水も飲めなくなり3日目の事だったと記憶している。
夜中に悲鳴のような声を発し翌朝にはもう冷たくなっていたのだった。
せめて一晩中抱いていてあげればよかった。
私の腕の中で息を引き取らせてあげたかったと今でも悔やんでいる。
9年前の寒い日のことだ。あんずは小さな骨壺に納まり帰って来た。
おおむね晴れ。日中は今日もほっこりと暖かくなる。
週間天気予報では水曜日頃から大寒波だとか。
北国では大雪。西日本でも氷点下の朝になりそうである。
覚悟さえ出来ていれば怖気づくこともないだろう。
生まれてから66回目の冬だ。これまでも乗り越えて来たではないか。
歳のせいになどしてはあまりにも愚かなことだと思う。
今日は何処にも出掛けずゆったりと過ごす。
午後少しだけ海苔の様子を見に行っていた。
網は微かに緑に染まっているけれど生育は芳しくない。
それでも精一杯に生きていると思えば愛しいものである。
水質や水温。自然環境はどれほど過酷なことだろう。
なんとしても乗り越えて欲しいと祈らずにいられなかった。
諦めてしまったら海苔の命があまりにも不憫ではないか。
夫と相談して来週末から漁場に網を張る作業をすることになった。
今は5枚づつ重ねてあるのを1枚に分けて張るのである。
海苔が一気に弱る可能性もあり慎重に行わなければいけない。
お向かいのご主人が落ち鮎漁に行っていて大漁だったようだ。
とても食べきれないと沢山いただき有難いこと。
今夜は鮎の塩焼き。後は豚汁と炊き込みご飯だった。
娘達が珍しく一緒に食べてくれて賑やかな夕食となる。
昨夜の複雑な気持ちは何処へやら。素直に嬉しくてならない。
めいちゃんが眠くなっていて私と一緒にお風呂に入る。
この前入った時にもう最後かもしれないと思っていたものだから
なんだか夢のように思えてとても嬉しかった。
ぷりぷりしたお尻のなんと可愛らいいことだろうか。
私には喜怒哀楽の「怒」が無い。
それは歳を重ねるごとに薄れて行ったように思う。
「哀」はまだまだしぶとい。一生捨てきれないかもしれない。
ここに記すことも「哀」に満ち溢れている時もある。
今日は「喜」と「楽」の日で本当に良かったなと思う。
晴れのち曇り。気温は高くなりぽかぽかと暖かくなった。
おとなりの山茶花が散り始め花弁が我が家の庭にも舞い込んでくる。
殺風景な庭のこと。花弁を掃き集めもせずそのままにしてある。
秋に植えた小菊も枯れ始めてしまった。
剪定をしたほうが良いだろうか。来年もきっと咲かせたい。
そろそろ新年を迎える準備も。近いうちに葉牡丹を植えよう。
ろくに掃除もしない玄関先は薄汚れていてみっともない。
何から手を付けようと気ばかり急いてしまって何も出来ずにいる。
今夜は娘達が夕食は要らないと。外食かなと思ったらそうではなく
家族で買い出しに行き今から支度をするようだった。
月に一回くらいはそんな日がありとても助かっている。
「たまには好きなようにさせてやれ」と夫も言う。
ただ少し複雑な気持ちになってしまうのだった。
毎日の私が考えるメニュにうんざりしてしまったのではないか。
この9年間、私なりに精一杯のことをしてきたつもりである。
娘の意見や孫達のリクエストにも応えて来た。
マンネリ化していたとしてもそれは仕方ないことだと思う。
悪い方に考えればきりがない。これは娘達の楽しみなのだ。
あやちゃんに声を掛けたらとても嬉しそうにしている。
朝はポテトチップス。お昼はカップ麺だったのだ。
私が何か作ろうかと言っても「要らない」の一点張りだった。
家族揃っての買い物がよほど楽しかったのだろう。
今夜はステーキを焼いてもらうのだそうだ。
娘達との同居があとどれくらい続くのかまだ先が見えない。
ある日突然にそれを切り出されることも在り得るだろう。
私も夫も覚悟は出来ている。むしろ望んでいるのかもしれない。
ステーキが焼けたようだ。階下からは家族水入らずの談笑が聴こえる。
2022年12月09日(金) |
「カタチ」ではない縁 |
日中は随分と暖かくなる。陽射しのなんと有難いこと。
北海道では積雪が1メートルを超えた地域があるようだ。
除雪をしなければ日々の暮らしも成り立たない。
その苦労を思うと頭が下がる思いである。
北と南では大きな差がある。それはどうしようもないことだろう。
せめて親身になって労う気持ちを持ちたいものだと思う。
そうして自分がどれほど恵まれているか思い知らなければいけない。
もう20年来の友の誕生日。57歳になったようだ。
ネットを通じて知り合い掛け替えのない縁を頂いた。
もちろん一度も会ったことはないけれど私は親友だと思っている。
いつか必ず日本海に沈む夕陽を見に行くと約束したこともある。
お互いが12月生まれで誕生日にメールを交わし合っていた。
私もまだ若かったのだろう。それが楽しみでならなかった。
けれども次第にそれが億劫になって来たような気がする。
一昨年の私の誕生日にはメールの返信を怠ってしまったのだった。
友は私の気持ちを察してくれたのだろう。
昨年からメールは途絶えすっかり音信不通になってしまう。
それでも私は少しも寂しさを感じなかった。
「これでいいのだな」と思った。その距離が愛しくも思えた。
友を想う気持ちは変わらない。今でも大切な親友だと思っている。
友は私よりもずっと若いがお互いに歳を重ねて来た。
もう誕生日を祝い合う歳ではないのもしれない。
それよりももっと大切なことがあるような気がしている。
「カタチ」ではないのだ。縁は目に見えるものではない。
繋ぎ留めるよりも離れることでその縁が深まるのではないだろうか。
友を懐かしく思い起こしている。この気持ちはきっと届く。
2022年12月08日(木) |
たかがお湯されどお湯 |
快晴。優しい陽射しが降り注ぎ暖かな一日となった。
栴檀の木の実がきらきらと輝き花のように見える。
実がなる木は沢山あるけれど私は栴檀の木が一番好きだ。
あちらこちらで見かけるのは鳥が実を運ぶからだそうだ。
実を食したことはないが鳥にとっては貴重な糧なのだろう。
八つ手の花も満開になった。白くて清楚な花である。
縁起物だと聞いたことがあるがかつて母が植えていたのだろう。
もう母の目に触れることも無くふと切なさが込み上げてくる。
夕食後、食器を洗いながら父のことを思い出していた。
確か16歳の冬のことではなかっただろうか。
洗い物をするのに冷たいだろうと瞬間湯沸かし器を買ってくれたのだ。
当時はまだ贅沢品で高価な物だったと記憶している。
ボタンを押すとガスの炎が見えて「ボボ」っと音がした。
そうして蛇口から温かいお湯が出て来るのである。
私は夢ではないかと思うほど感激で胸がいっぱいになった。
それ以来食器洗いが大好きになったのは言うまでもない。
父はいつも優しかった。私を不憫に思っていたのかもしれない。
そんな父のことを母は知りはしないのだ。
いったいどれほどの憎しみがあったのだろうかと思う。
話すきっかけもないまま歳月は流れるばかりだったのだ。
20歳の頃、母を頼らざる得なかった私は短期間ではあったが
母と義父の暮らしに身を寄せていた時があった。
台所には当たり前のように瞬間湯沸かし器が備えてある。
それだけで母が幸せであるように思えた。
たかがお湯。されどお湯。些細な記憶なのかもしれない。
いつまでもここにはいられない。
わずか数か月後、私は母の元を潔く去って行った。
二十四節気の「大雪」もう真冬と言って良いだろう。
今朝はいちだんと冷え込んだけれど日中は少し暖かくなった。
秋の名残の紅葉がまだ残っていて冬の陽射しを浴びている。
銀杏の木はすっかり裸木となり空に枝を伸ばしている。
桜の木も裸木だけれどとても凛として佇んでいるのだった。
冬ならではの景色を楽しんでいる。冬も良いものだなと思う。
義父を訪ねてとある人が相談に来ていてとても困っている様子。
どうやら借金があり家財道具を差し押さえられるようだった。
義父も親身に耳を傾けていたけれど何の手立てもない。
助けてあげたくてもどうすることも出来ないのだった。
その人は仕方なく肩を落として帰って行った。
師走になるとありがちなことだけれど理不尽にも思える。
どれほど負い目があろうともそこまで追い詰めるものだろうか。
また暗い話になってしまった。つい書いてしまったようだ。
もっと明るい話をと思うのだけれど今は何も思い浮かばない。
日々にそうそう浮かれてばかりもいられないのだろう。
幸せは「仕合せ」であるがすべてが思い通りとは限らない。
ただ平穏無事に一日を終えられ有難いことだと思っている。
ぐっすりと眠ればまた新しい朝がやって来るだろう。
快晴。気温は平年並みであったが随分と暖かく感じる。
冬の陽射しはほんとうに有難いものだ。
見渡す限りの雀色。枯れ草が目立つようになった。
私も草のように生きているけれど憐れだとは思っていない。
根をしっかりと張って土と語り合っているような日々だった。
寒い冬を乗り越えてこその春。私は若草にだってなれるだろう。
夕方母から着信アリ。忙しい時間帯のことで無視してしまった。
正直言って特に声を聞きたいとも思わない。
やはり私は薄情な娘なのだろう。まるで鬼のようでもある。
少し距離を置きたいとも思っている。とても複雑な気持ちだった。
それなのに後ろめたくてならない。心苦しくてならないのだ。
もしかしたら優しい娘を演じようとしているのかもしれない。
そんな自分が嫌いでならない。とても愚かなことに思える。
本音を言えば私の誕生日に電話を掛けてきて欲しかった。
もしかしたらと夜まで待っていたけれどそれは空振りに終わる。
やっぱり忘れているのだなと思った。母らしいと言うべきだろうか。
53年前のあの日も私の誕生日を忘れていたのかもしれない。
ああ嫌だ嫌だ。こんなぐじぐじしたことばかり書きたくはない。
と、思っていたらまた母から着信があった。
夕方自分が電話したことをもう忘れてしまっているのだった。
出られなかったことを詫びればへらへらと笑い飛ばしている。
もう何が何やら分からなくなってしまって呆然としている今である。
訊きもしないことをしゃべり続ける母は
やはり寂しくてたまらなかったのに違いない。
曇りのち雨。気温は低めで冷たい雨となった。
寒さのせいか気圧のせいか左足がずきずきと痛む。
この先耐えられるだろうかと少し不安になる。
なんとか歩くことは出来る。歩けなくなったらお終いだ。
弱気になってはいけないなと思う。気を強く持ちたい。
命に関わる事ではないのだ。私はしっかりと生きている。
山里では義父がお葬式に。家族葬ではあったけれど
故人の娘さんから是非にと頼まれたようだ。
喪主となった娘さんもどんなにか心細かったことだろう。
義父は少しでも力になってあげたい気持ちでいっぱいだったと思う。
なんとも寂しいお葬式だったようだ。
お棺に添える生花も無く義父が急きょ「お供え」をしたらしい。
故人は元気だった頃の面影は全く無かったと言う。
いつも明るくて朗らかな人だっただけに憐れでならない。
遺骨を娘さんの嫁ぎ先に納めてはいけないと言われたらしい。
そんな仏教のしきたりがあることなど知らなかった。
かと言ってもう誰も住んでいない家にどうして納められよう。
遺骨は仕方なくすぐに埋葬することになったのだった。
先祖代々のお墓はあるけれど納骨堂ではない。
お墓の周りに穴を掘って土葬にするしかなかったようだ。
義父はその役目を快く引き受けていた。
火葬場から帰るなり作業服に着替え長靴を履きスコップを持つ。
雨が降り始めていたけれど合羽も持たずに出掛けて行った。
そんな義父の姿に最後の最後まで「尽くす」ことを学んだ気がする。
故人の魂は今どこにいるのだろう。
冷たい土の中だとはどうしても思いたくない。
それではあまりにも可哀想でならなかった。
娘さん夫婦と可愛らしいお孫さん達。
唯一の家族に囲まれてきっと微笑んでいるのだと信じたい。
2022年12月04日(日) |
またひとつ歳を重ねて |
曇り日。陽射しがないとやはり肌寒い。
朝のうちに少しだけ本を読む。
後はずっと炬燵に潜り込んでばかりだった。
今朝は目覚めるなり父の遺影に手を合わす。
「お父ちゃん生きているよ」と声を掛けていた。
昨夜は本当に不安でならなかったのだ。
とうとう66歳になった。なんだか信じられなくて
自分が自分ではないような気がしてならない。
いったい私は何処に向かっているのだろうと思った。
めいちゃんが「おばあちゃんおたんじょう日おめでとう」と
少し照れくさそうな笑顔で言ってくれて嬉しい。
鬱々とはしていられない。笑顔で過ごさなければと思う。
トラウマだろうか。どうしても53年前の事が忘れられない。
私はそれ程までに可哀想な少女だったのだろうか。
未だに母を恨んでいるのならなんと愚かなことだろうか。
もうとっくの昔に過ぎたことに拘り続けている。
私にだって未来はあるのだ。もっともっと前を向きたい。
いったいいつになったら心から母を赦せるのだろうか。
夕方のこと娘と出掛けていためいちゃんから思いがけない贈り物。
可愛らしい袋に襟巻とマスコット人形とお手紙が入っていた。
手紙には「いつもおせんたくしてくれてありがとう」と書いてあった。
なんと嬉しいことだろう。感激で胸がいっぱいになる。
娘からはめったに飲めない焼酎の「黒霧島」
娘婿はチーズケーキを買って来てくれた。
改めて家族の有難さをつくづく感じた夜になった。
なんとしても長生きをしたいと思う。
私は未来の家族に会いたくてならないのだ。
今朝は今季いちばんの冷え込み。
まだまだこれから更新されていくだろう。
晴れの予報だったので陽射しを楽しみにしていたけれど
すっかり曇ってしまって洗濯物も乾かなかった。
どんな日もあって良しと思う。鬱々と気にしないことだ。
午前中にカーブスへ。今日は60歳位のコーチだった。
いつもは表立って指導をしていないが今日は特別だったのだろう。
思いがけずに優しく声をかけてくれてとてもほっとする。
頑張れない私に「無理せずやりましょうね」と言ってくれる。
それがどれほど励みになったことだろうか。
私は自分の限界を知っているつもりである。
過剰に褒められたらすぐに気が滅入ってしまうのだった。
たとえば頑張ってなどいないのに「えらいですね」と言われること。
ひねくれているのかなとも思う。困った性格かもしれない。
土佐清水市で産業祭があり孫達がダンスを披露したようだ。
見には行けなかったけれどとても楽しかった様子。
でも少し疲れたのかあやちゃんは夕食前に寝入ってしまった。
めいちゃんも眠いのを我慢していて夕食も食べたがらない。
お風呂に誘ってみたら快く頷いてくれて嬉しかった。
めいちゃんと一緒にお風呂に入るのは本当に久しぶりのこと。
髪も自分で洗いメイク落としで洗顔もした。
二人で湯船に浸かりいろんな話をする。ほっこりと心が和む。
私は幸せ過ぎてふと今夜死ぬのではないかと思った。
65歳も最後の夜のことである。
真冬並みの寒さ。日中は陽射しがありずいぶんと救われる。
看板猫の「みい太」が陽だまりでお昼寝をしていた。
撫でると薄目を開けるがまたすぐに眠ってしまう。
なんとも気持ち良さそう。私も猫になりたいと思った。
みい太のおかげで皆が穏やかで優しい。
荒い言葉が飛び交うこともなかった。
これなら年末の慌ただしさもきっと乗り越えられるだろう。
今朝は訃報が。母が親しくしていたお客さんが亡くなった報せ。
娘さんが真っ先に義父に報せてくれたのだった。
家族は嫁いだ娘さんだけで他には身寄りはない。
なんと孤独な人だったのだろうと改めて思う。
母とはパチンコ仲間でよく話が盛り上がっていた。
ほぼ毎日職場に来てくれて母と話すのが楽しみだったようだ。
名前が母の弟と同じで母も弟のように思っていたのだろう。
談笑していた様子が昨日のことように蘇って来る。
義父が母には「絶対に言うな」と言う。
私も伝えるつもりはない。口が裂けても伝えてはならない。
どれほどショックを受け悲しがることだろうか。
母が施設に入居してからそれは沢山の人が亡くなった。
友人の妹さんが自死した時の母のショックも大きかった。
それも私が伝えてしまったせいで未だに後悔している。
「変わったことはないかね?」母は電話口でいつも訊く。
正直に言ってはいけないのだ。
「なにも変わったことはないけんね」と応えなければいけない。
これからはずっとそうしようと思っている。
母の心がいつまでも穏やかでありますように。
師走に入るなりの最強寒波。数日前までの小春日和が嘘のようだ。
まだまだ序の口だろう。氷点下の朝もきっとやって来る。
少しずつ寒さに慣れなければいけない。負けるもんかと思っている。
北風の冷たい寒い一日にだったが孫達は「マラソン大会」だった。
めいちゃんは楽しみにしていたけれど
あやちゃんは昨夜から憂鬱でならない様子。
「学校を休みたい」と言って娘を困らせていた。
「頑張ろうね」と決して言ってはならない。
娘もそれは心得ているようだった。
完走できなくても良いのだ。途中でリタイヤしても良い。
誰にだって苦手なことはあるのだもの。
ただ最初から逃げ出してはいけない。諦めてはいけないのだ。
私も子供の頃からマラソンは大の苦手だった。
すぐに横っ腹が痛くなりなんと苦しかったことだろう。
小学5年生の時だったか途中で寄り道をしたことがある。
友達も一緒であったが先生に酷く叱られた記憶があった。
高校生になってからは仮病を使って休んだ。
「生理」と言えば割と簡単に認めてもらえる。
けれども高校では追試験のような「マラソン」があったのだった。
当日休んでいた生徒を集めて再びコースを走らせるのである。
そう度々生理にはなれない。もう逃げ道などなかった。
途中で走れなくなり歩いたこともある。
それでもゴールは確かにあった。そうして心地よい達成感がある。
「やれば出来るのだ」やらなくてはゴールは永遠にないだろう。
未だに持久力はない。前途もそれほど明るくはないけれど
残された人生に何か一つでも貫くことがあればと思っている。
今は何処を走っているのだろう。不安になる時もあるけれど
全うするべき道が確かにあるのだと信じている。
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