ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年10月31日(月) 私の素顔

10月も晦日。なんと早いことだろう。

歳を重ねるごとに日々が駆け足で過ぎていく。

背中を押しているのは誰だろう。

なんだか得体のしれないものが後ろに居るような気がする。


先月末に精魂込めて書いた詩の行方が気になってならない。

もし入選していたらそろそろ通知が来る頃であった。

今日も郵便は届かず肩を落としそうになりながら

未だに「負けるもんか」とまるで意地を張っているような私だった。

駄目で元々なのかもしれない。期待しすぎるとよけいに辛くなる。

潔く諦める覚悟も必要なのではないだろうか。






ここに書くべきかずいぶんと迷ったけれど

今朝はとあるSNSである方の発信をミュートさせてもらった。

決して不快な発信ではなかったけれど気に障って仕方なかったのだ。

どうやら小説を書いているらしいが誇示し過ぎていると思った。

自信が無いと言いながら結局は自慢話なのだろう。

それが一日に何度も繰り返されるとさすがに辟易としてしまう。

私とは住む世界が違うのだと思った。離れるべきだと確信する。

顔の見えないネットの世界でご縁を頂き感謝をしているけれど

縁にも波長がある。その波長が確かに交わるとは断言できない。


離れてみるとずいぶんと救われたように思う。

もう心の琴線に傷を付けることもないだろう。


「人の振り見て我が振り直せ」と云うが私も気をつけたいと思う。

ありのままの自分を受けとめてもらえるように努めたい。


この日記は私の素顔そのものであるけれど

もし気を悪くされた方がいたら心からお詫びしたいと思っている。





2022年10月30日(日) ラーメン日和

朝の冷え込みに少しずつ慣れて来たようだ。

まだまだこれからの寒さを乗り越えていかねばならない。

今年の冬は一段と厳しい寒さになるとのこと。

「かかってこい」と勇気を出そうと意気込んでいる。

何事も気の持ちようなのだ。怖気づけば負けてしまうだろう。



今日は孫達のダンス発表会だとばかり思い込んでいた。

娘が何も言ってくれないので恐る恐る訊いてみたら

今日はリハーサルで本番は来年の3月なのだそうだ。

「見に来るつもりだったの」と娘に呆れられてしまった。

めいちゃんが「ダンスがあるよ」とずっと言っていたので

すっかり今日だと思っていて私の早とちりだったようだ。



気分がぽっかりと穴が開いてしまったようになってしまって

夫に提案しまたぶらりと出掛けることにする。

無性にラーメンが食べたくてたまらなくて

先週は西に行ったので今日は東に車を走らせていた。


快晴だったので太平洋の真っ青な海が目に沁みる。

サーファーのなんと多いこと。気持ち良さそうに波と戯れていた。

黒潮町の道の駅には県外ナンバーの車がたくさん停まっていた。

連休中なら頷けるが今日中に帰るのだろうかと心配になるほど。


11時に四万十町の七子峠に着いた。有名なラーメン屋さんがある。

ケンミンショーでも紹介されたことがあり今日も長蛇の列。

開店したばかりなのに凄いなと驚いていたら

コロナ禍で入店制限をしているようだった。

入口に立札がありまず名前を書いてから入店を待つしくみになっている。

その時20人くらい待っていただろうか。気長に待つしかない。

店の外にはベンチが置いてあり座ってそわそわとするばかり。


それでも10分程で名前を呼ばれラッキーだなと思った。

夫は醤油ラーメンと半チャーハンのセット。

私は塩カツラーメンを注文した。以前から食べたかったのだ。


ラーメン屋さんのにおいって何とも言えない。

美味しそうなにおいがどんどん押し寄せて来る。

そうして運ばれ来たラーメンのなんと美味しいことだろう。

お腹はいっぱいになったけれど大盛にすれば良かったと欲も出る。


お店を出てからが愉快だった。二人で顔を見合わせて

「もう帰ろうか」と意気投合したのだった。

これではドライブと云うよりラーメンを食べに来ただけである。

それでも良いではないか。満足に勝る幸せはないだろう。

家からちょうど一時間の道のり。またラーメン旅をしようと思った。



2022年10月29日(土) コウノトリ

西の空にぽっかりと三日月が浮かんでいる。

なんだか微笑んでいるように見えて心が和む。


三日月に目と鼻と口があってにっこりと笑っている絵。

子供の頃に見た記憶があるのだけれどあれは何だったのだろう。

テレビのCMで見たような気がする。花王石鹸ではなかっただろうか。

子供の頃の記憶は曖昧で間違っていたらお許し願いたい。


そもそもテレビは小学一年生の時まで家に無かった。

東京オリンピックの年だったのだろうか父がやっと買ってくれたのだ。

「ひょっこりひょうたん島」「鉄腕アトム」などとても懐かしい。


小学5年生の頃だったか「青島幸雄のお昼のワイドショー」を見ていた。

やたらと「セックス」と云う言葉が飛び交い何の事だろうと思った。

当時の官舎は父の職場の事務所と併設されていて

父と一緒にS君と云う23歳位の若い青年が働いていた。

なんと私はそのS君に「セックスって何?」と訊いてしまったのだ。

S君は顔を真っ赤にして狼狽え「お母さんに訊いたや」と言って

逃げてしまった。私は子供心にすっかり訳が解らなくなった。

そうして母に訊いたらきっと叱られるだろうと察したのだった。


それを知ったのは中学生になって間もなくのこと。

部活中に3年生の先輩がまるで内緒話のようにして教えてくれた。

その衝撃のなんと大きかったことだろう。とても信じられないと思った。

それまで私はコウノトリが赤ちゃんを運んでくれるのだと思っていた。

私も弟も確かに母から生まれたけれど男女のことなど知る由もない。

その上に母のお腹が割れて生まれたのだと信じていたのだった。


今のように学校で性教育をするような時代ではなかった。

生理のしくみも理解できず「月のもの」がくれば憂鬱でならない。

どうして女の子だけこんな辛い思いをしなければいけないのだろうと。


中学時代は何度も転校を繰り返しやっと海辺の町の学校に落ち着いた。

親友になってくれたSちゃんが泣きながら我が家に来たことがある。

上級生の男子に浜辺に呼び出されいきなりキスをされたのだそうだ。

「にんしんした」と彼女は叫ぶように泣き続けていた。

私はとにかく彼女に性教育を施すことに専念せざるに得なかった。


私は19歳で結婚しSちゃんは確か21歳ではなかっただろうか。





2022年10月28日(金) 秋遍路ひとりふたりと続く道

朝の寒さが少し和らぎ日中もぽかぽかと暖かくなる。

今も外気は20℃もありずいぶんと過ごしやすい。


今朝は久しぶりに歩き遍路さんの数をかぞえてみた。

国道だけで5人と今の季節ならではの多さである。

つい荷物に目がいってしまうのはもう習いとなっており

野宿なのか宿泊なのか確かめるためだった。

今朝は5人とも宿泊のようでなんだかほっとする。

野宿となると何処にテントを張るのかとても気になってしまうのだ。

寝袋ではなくお布団に寝かせてあげたくてたまらなくなる。

お風呂にも入らせてあげたい。温かな夕食を食べさせてあげたい等と。

お遍路さんにとってはよけいなお世話かもしれないけれど

お節介の私はどうやらそんな性分らしい。


帰り道の県道で3人のお遍路さん。今日は計8人となった。

外国人のお遍路さんも歩いていて話しかけたくてたまらない。

言葉は通じなくても気持ちはきっと伝わるような気がするのだ。

横顔に会釈をしながら追い越して行く時、ふっと切なくなったりする。

何故だろう。自分でもよく分からないが胸が熱くなるのだった。

そうしていつも後ろ髪を引かれるような気持になってしまうのだ。





めいちゃんの顔の傷がずいぶんと目立たなくなった。

娘が「若いって素晴らしいわねえ」と言うので思わず笑ってしまう。

皮膚がどんどん新しくなっているのだろう。子供は特にそう。

ずいぶんと痛い目にあったけれどもうすっかり忘れているようだ。

大人なら鏡を見ながら溜息をついていることだろう。


明後日の日曜日にダンスの発表会があるので心配していたけれど

薄っすらとお化粧をするのでもう大丈夫だろう。

晴れ姿を見るのがわくわくと楽しみでならない。


怪我をして傷を負うこともあれば何かあって心に傷を負うこともある。

心の傷は子供ほど癒され難いのではないだろうか。

大人は常に子供を守ってあげなくてはならない。



2022年10月27日(木) ほうれい線とほうれん草

曇り日。夕方少しだけ雨が降った。

静かな雨であったが久しぶりの雨音が耳に心地よい。


畑では冬野菜が育ち始めている頃だろう。

そろそろ雨の一日があっても良いのではないだろうか。


山里の義父は一昨年までブロッコリーを栽培していたが

今年も休むそうで実のところほっとしている。

私が口出しするべきではないが本業が疎かになってしまうので

農業は米作りだけにしてくれたらずいぶんと助かるのだった。


日頃から本音は言えない。言ってしまえば怒りを買うだけだろう。

我慢しているわけではないがずっと穏やかな義父で居て欲しい。





あれは私が高校生の時だったろうか

住んでいた官舎には家庭菜園用のちいさな畑があって

父がほうれん草の種を蒔いていたらしい。

その芽が出たばかりの頃に私が引き抜いてしまったことがある。

「雑草と野菜の区別もつかないのか」と父に叱られてしまった。

未だにその時のことが忘れられず怒った父の顔よりも

ほのぼのと懐かしさが込み上げてくるのだった。


ほうれん草はまたすぐに種を蒔き順調に育ったと記憶している。

肥糧はぽっちゃん便所から直に汲み「肥え」としていた。

昔はどこの家庭でもそうしていたのではないだろうか。

不思議と汚いとは思わなかった。それがよく効くらしい。


食事係は主に私であったが部活で帰宅が遅くなる時もあり

父が腕を振るって作ってくれる日もあった。

ほうれん草の料理はあまり記憶にないけれど

私も弟も大好物だったのは「たまごチャーハン」である。

卵と葱だけのシンプルな物だったけれどとても美味しかった。

時々無性に食べたくなる時があるけれど今は作ったことがない。

一度作って家族に振舞おうと思うけれど

あやちゃんあたりから「しょぼい」とクレームが付きそうだ。

だからそれは父と弟と私だけの思い出の味である。


ほうれん草の話からずいぶんと逸れてしまったけれど

歳を重ねるごとに昔のことをよく思い出すようになった。

憶えているうちに記して置くことも良いのかもしれない。


ふと死んだら記憶は消えてしまうのだろうかと思うことがある。

人は輪廻転生を繰り返すらしいが記憶は何処に行くのだろう。

生まれ変わった時に人間になるとは限らないそうだ。

犬や猫になるかもしれないし川や海の魚になるかもしれない。

私などは道端の雑草になるのが似合っているだろうか。


まあそれほど自分を卑下することもないけれど

生まれ変わったらまた女でいたいし今の夫と巡り合いたい。

息子や娘、孫達とも巡り合えたらどんなに良いだろうか。


母には少し途惑うけれど父と弟にはきっと縁があるだろう。

父は今でも私を見守り続けてくれている。




2022年10月26日(水) 故郷の言葉

朝の寒さもつかの間。日中は穏やかな秋晴れとなる。


山道を走っているとツワブキの花が目につくようになった。

小さな向日葵のような花でとても可愛いらしい。

古代に初めて咲いた花は黄色だったと聞いたことがあるが

いったいいつ頃から日本で咲くようになったのだろう。

とても外来種だとは思えない。それは古風な佇まいで咲いている。

山影にひっそりと谷川の水辺だったり岩と岩の隙間だったり

とても逞しい花に思えてならず心惹かれる花であった。





職場のお客さんに東京からUターンして来ている方が居て

今日は電話でかなりきつい口ぶりの苦情を受けて少し辛かった。

「だからさあ言ったじゃない!」とか「ほんとに分かってるの!」とか

顔が見えないものだから言葉がもろにぶつかってくるのだった。

東京言葉は標準語であるけれどきつく聞こえるのは何故だろう。

どう受けとめても怒っているとしか思えないのだった。


同じことが高知県内の土佐弁と幡多弁にも言える。

幡多弁は伊予弁に近く穏やかな響きがあるのだけれど

土佐弁は関西弁に近く怒鳴っているように聞こえる時がある。

たとえば土佐弁で「おんしゃあ分かっちゅうがかや」

標準語だと「あなた分かっているの」なのだけれど

幡多弁だと「あんた分かっちょるかい」と言う具合である。

同じ人間でも住む地域によって言葉のニュアンスが大きく変わってくる。


今日のお客さんも決して怒っていたわけではないだろう。

私がうっかりミスをしていた為で確認の電話だったのだと思う。

それにしても山里で生まれ山里で育ったお客さんが

長い東京暮らしですっかり幡多弁を忘れているのが残念であった。


そんなものだろうか。私も東京に住んでいたらそうなるのだろうか。


故郷の言葉はこんなにも優しくあたたかいのだけれど。



2022年10月25日(火) 綺麗ごと

朝の寒さが更新され今季一番の冷え込みとなる。

とにかく寒さに慣れなければと思うばかり。


今朝は目覚めるなり胸がふたふたと落ち着かず

思った通り血圧がぐんと高くなっていた。

頓服の精神安定剤を服用しなんとか少し楽になる。

もちろん寒さのせいもあるけれど気の持ちようでもあるだろう。

ゆったりとした気持ちで寒さを受け止めていかねばならない。

寒さを冬を愉しもう。そう自分に言い聞かせながら乗り越えて行こう。





孫達の登校を見送り山里の職場に向かった。

めいちゃんはガーゼが気に入っているようで娘が貼り替えていた。

保健室の先生に手当てをしてもらったのがよほど嬉しかったのだろう。

まるで「勲章」であるかのように誇らしげな笑顔であった。



仕事は来客多し。初めてのお客さんに「奥さん」と呼ばれる。

それは社長夫人にも等しく勘違いされても仕方ない。

義父と私はとても親子には見えないのだろう。

すぐに否定すべきであったが何も言えなかった。

もやもやと嫌な気分になる。そうしてシュンと辛くなる。

腹を立てるようなことではなかった。ちょっとしたジョークである。


常連のお客さんは母のことをよく気遣ってくれる。

母の復帰を心待ちにしてくれているお客さんも多い。

それだけ母が慕われていた証拠でもあるだろう。


けれども復帰はもうあり得ない。それは誰にも伝えられない。

何よりもそれを望んでいないのは私自身であった。


薄情な娘はとことん薄情である。

母をゆっくりと休めせてあげたいなどと綺麗ごとを言っている。



2022年10月24日(月) 名誉の負傷

ここ数日夏日が続いていたけれど平年並みの気温になる。

西高東低の冬型の気圧配置だそうだ。

北海道の山間部では初雪が降ったらしい。

短い秋が終わりもう「冬」と云って良いだろう。

北国に比べれば温暖な四国のなんと恵まれていることか。

冬を怖れる私などほんとうに罰当たりだと思う。




今朝はめいちゃんが名誉の負傷。

集団登校に遅れそうになって慌てていたのだろう。

家から出るなり前のめりに転んでしまって顔に怪我をしてしまった。

月曜日は荷物が多く手で支えることが出来なかったようだ。

泣きじゃくりながら帰って来てしばらく様子を見ていたけれど

娘が学校に連絡をして少し遅れて登校することになった。

大丈夫だろうか、心配しつつ山里の職場に向かった朝のこと。


午後4時半、思ったよりも元気に帰って来てほっとする。

学校で保健室の先生が手当てをしてくれたそうで

頬と額にガーゼが貼られておりなんとも痛々しい。

眼の下は紫色になっておりよほど強く打ったのだろう。


娘からのお達しで家族皆が怪我のことに触れないことにした。

過剰に心配すればめいちゃんも落ち込むに違いないと。

私もとにかくそっとしておくのが一番に思えた。

明日にはガーゼも取れるだろう。しばらくは傷跡が気になるけれど

後々まで残るような深い傷ではないのが幸いだった。


娘も子供の頃にはよく怪我をしたことを思い出す。

今思えば男の子のような女の子だった。


めいちゃん痛い思いをしたけれど辛抱して偉かったね。

いっぱい泣いたけれど今は笑顔でいてくれてほっとしています。



2022年10月23日(日) 遅咲きのひまわり

朝のうちは雲が多かったけれど次第に晴れて来る。

今日もずいぶんと暖かく日中は夏日となった。



早朝お大師堂へ。そろそろ花枝(しきび)を活け替える頃だった。

艶々とした緑のなんと綺麗なことだろう。

一枝ずつ手折りながら亡き姑を思い出す。

舅(義父)が亡くなってから植えたしきびは立派な木になった。

「お大師さんへ持って行くね」と私の声が聞こえただろうか。


Sさんがお線香を2箱も買ってくれていた。

「毎日香」でとても上品な香りがする。

いつもは百均のお線香なのに奮発してくれたのだなと嬉しかった。


川のせせらぎの音が耳に心地よい。ゆっくりと般若心経を唱える。

願い事はしてはいけないのだけれどついつい願ってしまうことばかり。





10時頃から夫とプチドライブに出掛けた。

遠出は出来ず近場の土佐清水市経由で大月町に向かう。

頭集(かしらつどい)と云う集落に遅咲きの向日葵が咲いているらしい。

海岸沿いの国道を走りながらきらきらと輝く海を眺めた。

快晴ではなかったので海は灰色に見えたけれど

水平線の彼方に貨物船だろうか大きな船がゆっくりと進んでいた。

なんと穏やかな海だろう。心が洗われるようであった。


頭集には一度も訪れたことがなくナビだけが頼りだった。

柏島方面に向かい右手に山沿いの細い道がある。

向日葵畑は何処だろうときょろきょろしていたら

道路からずいぶんと離れたところにそれがあった。

駐車場など無く車を停めることも出来ない。


「歩けるか?無理をするなよ」夫の声に「大丈夫!」と応えた。

なんとしても行きたい。諦めるわけにいかなかった。

夫はそこら辺を走って来ると云うので時間の余裕もない。

畑の畦道を痛い足を引き摺りながら歩いた。

でこぼこ道のなんと辛いこと。負けるもんかとひたすら思う。


向日葵はさすがに季節外れらしく夏の向日葵よりもずいぶんと小さい。

よく造花で見かけるような花でそれはそれで可愛らしかった。

花弁がすでに散り種だけになっている切ない向日葵もあった。

それでも陽に向かい精一杯に微笑んでいる姿に感動を覚える。


久しぶりに写真を撮ったけれどここではお見せ出来ず申し訳ない。

画像サイズの制限があり新パソコンではそれが上手く出来なかった。

明日の朝SNSでちらっと投稿しようと思っている。


2時間ほどのドライブであったが夫と色んな話しをした。

昔話やこれからのこと。私たち老夫婦にもきっと未来はあるだろう。



2022年10月22日(土) スランプだからこそ

日中は気温が上がり蒸し暑さを感じる。

寒暖差に途惑うばかりであるが寒いよりは良いだろう。

窓を開け広げていられるのも心地良いものだった。

扇風機を片付けてしまったので自然の風はとても有難い。




ここ数日、夜明け前に思うように書けず苦しんでいる。

短歌のようなものさえ書ければ後はなんとかなるのだけれど

その31文字がどうしても書けない。焦れば焦るほど

頭の中が真っ白になってしまって言葉は逃げていくのだった。

365日書けば365の短歌のようなものが出来るのだろう。

それが分かっているからよけいに焦ってしまうのだと思う。


ある尊敬している詩人さんがSNSで発信していた。

書けない時は「書けない」と書けば良いのだそうだ。

ありのままの自分と向き合うことで新鮮になれるのだと言う。


私は大きな壁に突き当たりその壁をよじ登れずにいる。

スランプは思った以上に辛い。自分が惨めでならなくなる。






午前中に週一のカーブスへ。

今日は例の親身になってくれるコーチが居てくれて

ほっと嬉しくずいぶんと精神的に楽であった。

足の痛みを気遣ってくれるのは本当に有難いことである。

自然と意欲が湧いてきて薄っすらと心地よい汗を流した。


決して特別扱いを求めているわけではない。

ただ心のこもった優しさを求めているのだろうと思う。

それはカーブスに限らず日常生活でも同じであった。


もちろんそれは一番に与えなければいけないことだろう。

与えもせずに求めるばかりでは「欲」と云うものだ。

私はまだまだ学ぶことが多い。成長しきっていないのだと思う。


いま陥っているスランプも成長するための試練なのではないだろうか。



2022年10月21日(金) こころの断捨離

爽やかな秋晴れ。降り注ぐ陽射しのなんと有難いこと。


秋桜はもう盛りを過ぎたようで切なげに風に揺れる。

芒はまるで青春を謳歌しているかのように輝いている。

背高泡立ち草は生き残るために風に身を任せようとしている。


私は秋の真っ只中にいていのちについて考えていた。

もしもある日突然があるのならばこんな日に逝きたいと思う。

けれどもまだまだと思う気持ちもある。

こころの断捨離がまだ終わっていない。

それはとても難しいことらしい。

少しでも永く生きてひとつでも捨てられたらと思っている。





午後は気温が上がりずいぶんと暖かくなった。

窓を閉め切った事務所に居るのが息苦しくなってしまい

西側と南側にあるドアを開け広げ風を通していた。

その間に看板猫のみい太が忍び込んだことに全く気付かなかったのだ。


事務所の二階は義父の住居になっており

みい太は台所まで行って悪さをしたらしい。

昼食を食べに二階に上がった義父が見つけ大騒ぎになった。

みい太は煮物を入れてある鍋の蓋を開けていたのだそうだ。

義父に見つかり酷く叱られすぐに跳び逃げたけれど

義父はもう煮物は食べられないと言って怒りまくっていた。


そのとばっちりが私に向かって来た。

どうしてドアを開けたのだと言い「暑ければエアコンを点けろ」と言う。

決して暑いのではなかった。ただ風に吹かれたかっただけなのに。

まるで「お前のせいだからな」と言わんばかりの剣幕であった。


それにしてもどうしてみい太は鍋の蓋を開けたりしたのだろう。

朝御飯もいっぱい食べていたので空腹だとは思えなかった。

二階に上がったのは初めてでただの好奇心だったのかもしれない。

父にはとても懐いていて許されると思っていたのだろうか。


私は常日頃から義父の顔色ばかり気にしているものだから

かなりのショックですっかり気が滅入ってしまった。

みい太のせいでこんな辛い思いをするなど考えてもいなかった。

メンタルの弱さをもろに突き付けられたような出来事だった。


こんな日はさっさと帰ってしまおうと思う。

車に向かったらなんと張本人のみい太が車の下でくつろいでいた。

「みいちゃん、悪さをしたらいかんろ」と𠮟りつけたら

目を閉じて寝たふりをする。聞く耳などまったく無い素振りをする。

そんなみい太の姿を見ていたら叱るのも馬鹿らしくなった。

そうして自然と笑みがこぼれて来る。

誰にも罪などないのだと思うとずいぶんと気が楽になった。


どんな日もあってよし。自動車道を時速90キロで走って帰る。







2022年10月20日(木) 一歩一歩踏みしめながら

今朝は今季いちばんの冷え込みだったようだ。

またすぐに更新されるだろう。

季節は急ぎ足で冬に向かっている。

じたばたしても仕方ないとやっと思えるようになった。


晩秋の樹々の紅葉。木枯らしの吹く頃。初冬の霜の風景。

自然はなんと素直なことだろうか。

その季節ならではの風情を見せて決して逆らうことをしない。

だから人も嘆いてはいけないのだと思う。

季節に身を委ね季節と一体になって日々を全うするべきなのだ。





午前中に職場のすぐ近くの商工会まで歩いた。

医師からも運動療法を勧められており痛くても歩かなくてはいけない。

ゆっくりと少しずつではあったが一歩一歩踏みしめながら歩く。


ご近所さんの金木犀が芳香を放っており足を止めた。

そのお宅は家の周りにぐるりと金木犀を植えてある。

日頃から手入れを怠らないのだろう。それはなんとも見事であった。

ふと足元を見ると季節外れの薔薇の花も咲いている。

深紅のミニ薔薇でとても可愛らしかった。


商工会の駐車場には鶏頭の花。まるで燃えているように紅い。

それはアスファルトの隙間からとても逞しく咲いていた。


どれもこれも歩いてみないと気づかない季節の花だった。

私はとても清々しくなって足の痛みも忘れてしまう。

少しでも歩けることは本当に有難いことだなと思った。


商工会からの帰り道で近所に住む「ゆっちゃん」に会った。

もう90歳が近いのではないだろうか。とても元気な老人であった。

「足が痛いがか?」と気遣ってくれてほっと嬉しくてならない

ゆっちゃんも膝が悪く手術をして40日も入院していたのだそうだ。


「年寄りはみんなそんなもんよ」と笑い飛ばしてくれる。

私はゆっちゃんよりもまだまだ若いと思っていたけれど

この際お仲間に入れてもらおうかと愉快な気持ちが込み上げて来た。


私が職場の事務所に辿り着くまでゆっちゃんはずっと見ていてくれる。


空は抜けるように青くて眩しいほどの光が降り注いでいた。




2022年10月19日(水) 寄る年波

今朝は予報通りの冷え込みとなる。

やはり覚悟はしておくべきだなと思った。

昨夜のうちに用意しておいたちゃんちゃんこを羽織る。

靴下を履きエアコンの暖房を点ければもう怖いものはない。

それでも死ぬのならそれが定命なのではないだろうか。


寒さを否定しようとするから怖いのだと思う。

あっけらかんと受け止めればずいぶんと気楽になるものだ。

臆病風に吹かれている自分が滑稽でならず馬鹿じゃないかと思った。

馬鹿は死ななきゃ直らないらしいがまだ死ぬつもりはない。





仕事を終えていつものスーパーで買物をしていたら

川向に住む従姉妹と久しぶりに会った。

私より2歳年上なのだけれど髪の毛が真っ白になっていて驚く。

白髪と云うより銀髪に近い。それは見事で美しくも見えた。

思わず「綺麗ね」と声が出る。従姉妹は恥ずかしそうにしながら

「すっかりおばあちゃんになっちゃった」と微笑んでいた。

その顔を見てどれほどほっとしたことだろう。

老いを受け止めることは決して切ないことではないのだと思う。

感動すら覚えた私は彼女のように生きたいと憧れを抱いていた。


人は上辺だけでは分からない。苦労もあるだろう悩みもあるだろう。

不安もあれば心細いこともたくさんあるのだと思う。


「どうしたが?なんか疲れちょるみたいなね」と彼女が言った。

私は一瞬どきっとした。そんな風に私は見えるのだろうか。

弱音を吐くつもりなどなかったのに否定することが出来ない。

精一杯の笑顔さえも作り笑いのように見えたことだろう。


「早く帰って洗濯物を畳まんといかんけん」と呟いていた。

「また会おうね」」と手を振って別れる。

車に乗るなり大きな溜息が出た。それが何を意味していたのか

未だに分からないまま夜を迎えてしまった。


仕事のこと家事のことも少しも辛いとは感じたことがない。

けれども寄る年波に勝てないと云うことかもしれない。


今日頑張ったのかな私。それさえも分からないまま

寝酒の焼酎を飲みつつまったりとこれを記した。





2022年10月18日(火) 寒さなければ花は咲かず

雨上がりの朝。思っていたよりも暖かくほっと胸を撫でおろす。

それほどまでに寒さを怖れていたのかと呆れるほどだった。

いつからこんなに臆病者になってしまったのだろう。


突き詰めれば死ぬのが怖くてたまらないのだろう。

それよりも生きて在ることに喜びを感じなければいけない。


「寒さなければ花は咲かず」と云う。

私の葉は間もなく紅葉し散ってしまえば指先に芽が萌えて来る。

寒い冬を乗り越えてこその春。私はきっと満開の桜になるだろう。





舅(義父)の命日。もう40年もの歳月が流れた。

3歳だった息子がお棺に縋りつき泣きじゃくった秋の日を忘れられない。

まだ57歳の若さだった。どんなにか無念だったことだろう。

川漁師であり四万十川と共に暮らした人生に思いを馳せる。

亡くなった年の夏には川海老が豊漁で満面の笑顔であった。

前年までは天然青海苔漁、青さ海苔の養殖、モクズ蟹漁もしていた。


夫が30歳になり突然会社を辞めることになった時

「おらにも跡取りが出来たか」と喜んではいたけれど

そのすぐ後に「おらが死ぬると云うことかもしれんな」と言った。

夫はその時のことを思い出しては「虫の知らせ」だった気がすると言う。

どうしても会社を辞めたくてたまらなくなったのだそうだ。

再就職は考えていなかった。父親の弟子になるのだと言い張る。

定収入が途絶え幼い子供達を抱えての暮らしの苦労は云うまでもない。

それでも夫は一生懸命に川漁師の修行に励んでいた。


その夏のことだった。義父は夏風邪を拗らせたようであったが

詳しい検査の結果、肺癌の末期であることが判ったのだった。

40年前の事で今ほど癌治療が充実してはいなかった。

高知市内の病院に入院してからわずか2ヶ月で儚く逝ってしまう。


危篤の知らせを受け4時間の道のりを駆けつけた。

義父は初孫の息子を溺愛しておりなんとしても会わせてやりたい。

それは本当にぎりぎりだった。孫の顔を見るなり手を伸ばし

「おじいちゃんはもういかんぞ」と言ったのだった。

それが最後の言葉になった。手を伸ばしたまま息を引き取る。

私は息子の手で義父の手を握らせそっと胸の上に置いた。


どれほどの歳月が流れても一生忘れることはないだろう。

仏様になった義父は残された私達をずっと見守ってくれている。



2022年10月17日(月) あっけらかんと生きていきたい

小雨降る一日。静かで優しい雨であった。

少しぐらい濡れても平気。冷たい雨にはならず幸いに思う。


今夜のうちに雨は上がるとのこと。明日は晴れそうだけれど

ぐんと肌寒い朝になりそうで今からもう緊張している。

神経質な性質のせいかそれはすぐに血圧に作用する。

一度目は高い。二度目も高い。三度目にやっと正常値になった。

こんな有り様で冬を乗り越えられるのだろうかと不安でならない。


弱音はいくらでも吐ける。暗示にも掛かりやすい。

悪い方へ悪い方へと考え出したらきりがないのであった。

もっとあっけらかんと生きていきたいと願ってやまない。




熱でずっと学校を休んでいたけい君が今日は登校できたとのこと。

息子は「心配ないよ」と言うのだけれどあれこれと気遣う。

マンモス校なので授業に遅れが出ているのではないか

お友達とは仲良く過ごせただろうか。辛い思いをしなかったか。

これも老婆心なのだろう。息子に言わせれば心配し過ぎのようだ。


NHKの朝ドラ「舞いあげれ」を見ていると主人公の舞ちゃんが

おばあちゃんと暮らしながら逞しく成長する姿に感動を覚えた。

子供には無限の可能性がある。その可能性を信じてあげなければ。

心配ばかりしていては子供の芽を育てることは出来ないのだと思う。

「けい君はきっと大丈夫」と呪文のように唱えている夜になった。


あやちゃんとめいちゃんは元気いっぱい。

ただ宿題が多くて夕飯の時間になっても終わらなかったりして

可哀想だなと思う。それも日々の試練なのだろうか。

遣り遂げようとする意思はとても逞しく思えるのだった。


孫たちはそうして成長している。

私もまだまだ成長出来るかもしれない。

老いの道は厳しいけれど負けるわけにはいかない。








2022年10月16日(日) 高齢者の寝室

10月とは思えないほどの暑さ。

窓を開け広げ扇風機のお世話になる。

明日は雨の予報で明後日にはぐんと気温が下がるとのこと。

一気に炬燵の出番となるのではないだろうか。

寒暖差で体調を崩さないように気をつけなければいけない。

今はうかうかと風邪も引けないご時世である。


青空に誘われるように布団を干した。

平日には干せず久しぶりのこと。

主婦冥利に尽きる。陽射しのなんと有難いことだろう。



午前中に山里まで折り畳み式のベッドを貰いに行く。

母のアパートを引き払った時に捨てずに置いていたのだった。

一つは長年母が使っていたもの。もう一つは義父のものだったけれど

別居を決めてからも母は義父が泊まりに来てくれるのではと

ずっと諦めきれずにいたようだった。

それは一度も叶わず義父のベットは新品のままであった。

せつない話ではあるけれど母はどんな気持ちで暮らしていたのだろう。



ここ最近真夜中にトイレに行く時に転ぶことがよくあり

先日は寝ている夫の上にどさっと倒れ込んでしまった。

ベットがあれば身体を支えられるし安全ではないかと話し合い

義父に相談したらいつでも取りに来るようにと言ってくれた。

母のベットを私が使うようにし義父のベットを夫用に決める。

6畳間の寝室にそれはなんとか収まりほっと嬉しくてならない。

今夜からもう転ぶ心配はないだろう。トイレも苦にならなくなった。


仕事だった娘が帰宅しさっそくお披露目をしたのだけれど

「まるで介護生活じゃん」と苦笑いをしていた。

そう言われてみれば確かにそこは高齢者の寝室のようであった。


10年後、20年後と生きているかは分からないけれど

娘や息子に介護の負担を掛けることだけはなんとしても避けたい。

かと言って年金収入だけで施設に入居する余裕も無さそうだった。


「俺はぽっくり死ぬぞ」と夫は言う。

それはある日突然の死を意味している。

私はそれが怖くてならなかったけれど今日は真剣に考えていた。


「昨日まであんなに元気だったのに」と言われて逝きたい。

それが子に対するいちばんの孝行ではないだろうか。







2022年10月15日(土) 勇気の花

雲ひとつない青空。空がとても高く感じる。

日中は汗ばむほどの陽気となったけれど陽射しの心地よいこと。

空を仰げば自然と深呼吸をしていた。空気が美味しい。


自分はいったい何処に向かっているのだろうと思う時がある。

心細くはあるけれどもしかしたら空に向かっているのかもしれない。




朝のうちにめいちゃんと買い物。

今日も「お金はある?」と訊かれて子供心に心配しているのだろう。

「いっぱい買いなさいね」と言ったらお菓子売り場に駆け出して行く。

子供用のカゴにそれは沢山のお菓子を入れてにっこりと微笑む。

セルフレジで精算をしたらなんと870円も買っていた。

おやまあと少しばかり痛手ではあったけれど笑顔には適わない。

貧乏なおばあちゃんのイメージから抜け出せたかなと思った。


帰りには重い荷物をよっこらしょと車まで運んでくれた。

今朝も足が痛くて辛かったのでなんと助かったことだろう。

めいちゃんさまさまである。感激で胸が熱くなってしまった。



帰宅してすぐにカーブスへ向かう。

足の痛みが酷かったので「そっとしておいて下さい」とお願いする。

けれども上手く伝わっていなかったのか過剰に励まされるばかり。

ついにはメンタルが弱りはて今にも涙が出そうになった。

どうしてもっと親身になってくれないのだろうと思う。

私は辛くてならなかった。誰にも分かってもらえないのかと悲観する。


けれども午後には足の痛みがずいぶんと楽になっていた。

やはり何もしないよりは効果が出ているのだろう。

継続はチカラである。どんなに辛くても続けなければと思った。


誰にだって限界はある。その限界に立ち向かう勇気が必要なのだ。

私は決して逞しくもなく強くもないけれど

心の片隅にささやかな勇気の花を咲かせてみたいと思っている。



2022年10月14日(金) 定命が尽きるまで

爽やかな秋晴れ。気温が高くなり暑さを感じたけれど

夏日になるのも明日が最後になりそうだった。

来週の日曜日には「霜降」となる。

季節は晩秋となり樹々の紅葉も始まることだろう。


とんとんとんと日々が順調に過ぎていく。

もう老いに足を踏み入れているけれど漠然とした何か

それに少しずつ近づいているようだった。

焦りもある。途惑いもある。心細さや不安もある。

けれども生きてさえいればと自分を励ましているのだった。





また訃報があった。じいちゃん(夫)の幼馴染が亡くなる。

「もうそんな年頃なんだな」と寂しそうに呟いていた。

今年になって友人を亡くすのは二人目。さすがにショックは隠せない。

ひしひしと押し寄せて来る危機感があって当然なのではないだろうか。


「おまえは俺より一日でも長生きをしろよ」と言われたことがある。

私はなんとしてもその約束を果たしたい気持ちでいっぱいだった。

夫を残してどうして先に逝けよう。それがとても残酷に思える。

夫を悲しませるより私が悲しみたいと願ってやまない。


「定命」とは仏教の言葉であるらしい。

人はこの世に生まれた時から命が定められているのだそうだ。

幼くして亡くなる子供もいれば長寿を全うする老人もいる。

やっかいなのは誰もその定命を知らされていないことだろう。

不慮の事故や災害。不治の病。死は様々な形で人を襲って来る。


「長生きがしたい」とどんなに願っても叶うとは限らない。

生命力そのものがすでに定められていることなのだろう。

だからこそ「いま」を精一杯に生きなければならないのだ。


不安や心細さも生きている証のように思う。

痛みや辛さも生きているからこそ感じられるのだろう。

同時に幸福も歓喜も与えられる特権もあるようだ。


人生の折り返し地点はとっくに過ぎたけれど

私は自分の定命を信じてみようと思っている。


今日はもう終わった。きっと明日があるだろう。



2022年10月13日(木) 母の写真

晴れたり曇ったり。気温は25℃まで上がり快適な一日となる。

暑からず寒からず身体にはとても優しい気温だった。

おかげで足の痛みも和らぎ昨日に比べると嘘のように楽であった。



夜明け前いつものように書けずもがき苦しむ。

いったい自分に何を課しているのだろうとふと考える。

もっとありのままで良いのではないかと思った。

そうしたら自然に言葉が浮かび詩のようなものが書けたのだった。

明日のことなど分からない。生きてさえいれば書けるのだろうか。




定期の内科通院日。わずか10秒ほどの医師の問診を受けるのに

30分も待たされてしまい少々虫の居所が悪くなる。

土佐の方言で云うと「いられ」なのだろう。

堪え性が無いと云うか我慢が出来ない困った性格である。


薬局で薬を受け取りその足で母の施設のある病院に向かった。

年金支給日は明日だけれど早めに支払いを済ませておくことに。

ちょうど母がいつもお世話になっている介護士さんに会うことが出来る。

タブレットでここ最近の母の写真を見せてくれてとても嬉しかった。

おまけに額に入れた写真をプレゼントしてくれて思いがけなかった。

敬老の日の写真でまだ母が体調を崩す前の満面の笑顔が見える。

まだ点滴等の治療は続いているようだけれどさほど心配はなさそう。

リハビリも少しずつ始めているそうで昨日は歩行練習をしたそうだ。

寝たきりになるのだけはなんとしても避けたい。

母の体力と気力次第ではないだろうか。そうして何よりも生命力だ。


母の笑顔の写真を職場に持って行こうかとも考えたけれど

お客さん達の目に触れるのでなんだか可哀想に思えて来た。

現役時代の母はいつも綺麗にお化粧をしていたからだ。

口紅も塗りたいだろう。おしゃれもしたいだろうと思わずにいられない。


母の写真は私の部屋に飾る。ひ孫達と一緒の方が母も嬉しいだろう。

そうして毎朝毎晩声をかけてあげようと思っている。



9年前の日記には「母に楽をさせてあげたい」と書いてあった。

ゆっくりと休ませてあげたかったのだろう。

母はいま幸せなのだろうか。寂しくはないのだろうか。





2022年10月12日(水) 挑戦者は私

天気予報が外れてしまって曇り日。

日中の気温も上がらずなんとも肌寒い一日だった。


朝から左足がずきずきと痛む。

歩かなくても痛み憂鬱でならない。

寒さのせいだとすれば冬が怖ろしくなってしまう。

嘆いても何も変わりはしないけれどつい弱音を吐くばかりだった。

不思議と情けないとは思わない。痛いものは痛いのだ。

我慢をするより「痛い」と口に出した方が気は楽になるものだ。


歩けば少しでも血行が良くなるような気がして

夕方、従姉妹の畑に葱を貰いに行く。

従姉妹も難病を抱えているのだけれど畑仕事は怠らず

いつも綺麗に手入れをしてあり頭が下がる。

さつま芋の葉がすっかり切り落とされていて収穫が近いのだろう。

茄子も一本だけ残してありまだ花が咲いており驚く。

葱は二カ所に植えてあり細い葱と太い葱がある。

今日は太い葱を10本ほど貰った。有難いこと。


足を引き摺りながら路地を歩いていたら

近所に住むYちゃんに久しぶりに会った。

私の歩きぶりを見てすぐに気づいたのだろう。

なんとYちゃんも足が痛く難儀をしているのだそうだ。

それも両膝と聞き私よりもずっと重症なのだった。

立ち話ではあったがしばし二人で「痛み」を語り合う。

あれも出来ないこれも出来ないと言い合ったり

あれも辛いこれも辛いと言い合ったりすっかり意気投合する。

最後には二人で笑い合っていた。なんとかなるよねと言って。


私は不謹慎ではあるけれど仲間を見つけてほっとしている。

自分だけではないのだなと思うと救われたような気分になった。


今は「冬よかかってこい」とまるで挑戦者の気分である。



2022年10月11日(火) この秋をこれからの冬を

ぐんと肌寒い朝。今季初暖房のお世話になる。

年寄りの冷や水ではないけれど寒さを我慢してはいけない。

光熱費が気になるけれど身を守ることが一番ではないだろうか。


母はお気に入りの毛糸のベストを羽織っているだろうか。

部屋は暖かくしているだろうけれど気になってならない。

体調には異変がないらしく施設からの連絡はずっと途絶えている。

この秋をこれからの冬をなんとしても乗り越えて欲しいと願う。





義父の稲刈りがすべて終わり今日は飼料米の出荷。

今年は豊作とはいかず全体的にお米の量が少なかったようだ。

おまけに安値で米農家の痛手は計り知れない。

それでも義父は決して嘆くことをしなかった。

79歳になったばかりの義父はとても逞しく活き活きとしている。

65歳の私などまだひよっこで義父を見習わなければいけない。

前途に希望を持ち立ち向かっていかなければならないと思った。





息子から連絡がありけい君が発熱とのこと。

息子の職場は家族に発熱があれば出勤出来ない規則になっており

高齢者施設がどれほど慎重になっているか思い知らされる。

午前中に小児科を受診。幸い陰性と聞きほっと胸を撫で下ろす。

季節の変わり目で急に体調を崩すことはよくあることだった。

夕方電話をしたらまだ熱が下がらないとのこと。

可哀想でならないけれどどうすることも出来なかった。

お嫁さんの体調は落ち着いているそうでそれが何よりに思う。

お母さんが元気ならきっと大丈夫だろう。

けい君頑張ろうね。お熱をやっつけようねとエールを送り続けている。



9年前の秋の日記。もう二度と結婚はしないと言っていた息子が

突然「また嫁さんをもらうから」と言った日が記してある。

彼女のおなかにはすでにけい君が宿っていたのだった。


仕事のストレスで鬱状態になっていた息子がやっと立ち直る。

前途は明るく希望に満ちていたあの頃がとても懐かしい。


そんな懐かしさが糧になり得るのかもしれない。



2022年10月10日(月) こころ旅

爽やかな晴天に恵まれ優しい陽射しが降り注ぐ。


今朝は火野正平さんの「こころ旅」を見ていて

急に何処かに出掛けてみたくなった。

じいちゃんに相談したら快くうなずいてくれて

さて西に行くか東に行くかと行き当たりばったりのドライブ。

結局四万十川を遡り私の生まれ故郷の江川崎まで。


あれはまだ子供たちが小学生の頃だったろうか

故郷に帰ってみたいと云う私の願いを叶えてくれたことがあった。

当時はまだ住んでいた家が残っておりなんと懐かしかったことだろう。

あの時はもう二度と訪れることもないだろうと思っていたけれど

それ以来何度も訪れもう数えきれないほどになった。


住んでいた家は壊され今は更地になっている。

けれども家に続く石段は昔のままで踏みしめながら歩いたこともある。

思い出に浸る私をいつも見守ってくれた彼には感謝しかない。


今日はかつての小学校の跡地に行ってみたかったけれど

今は消防署になっていてもう昔の面影はないだろうと言う。

車を降りてかつての通学路を歩いてみたかったけれど

足の痛みもありさすがに断念せざるを得なかった。

「また来ればいいさ」と彼が言う。生きているうちにそれは叶うだろう。

故郷は遠くにありて思うものと言うが今では身近な場所になった。


車中でいろんなことを語り合う。5年後、10年後のこと。

そのうち自動車免許も返納になるかもしれないなとも言う。

それまでに行きたいところに行こうなと彼は言った。

遠距離はすでに厳しくなっている。同乗する私も心配でならない。



江川崎からまた四万十川沿いに車を走らせ四万十町に向かった。

お昼も近くなり無性に豚太郎の「味噌カツラーメン」が食べたい。

けれどもさすがに有名店で店の外に行列が出来ていた。

潔く諦め以前から行きつけの「椿食堂」で中華そばを食べる。

あっさりとしたスープの美味しいこと。すっかり満足して帰路に就く。

椿食堂では明日からおでんも始めるらしい。

「また来るけんね」と幡多弁丸出しで告げるのも愉快であった。


次は「紅葉」になるだろう。楽しみにしていようと思う。

私たちの思い出作りはまだまだ続けられそうだ。














2022年10月09日(日) 希望なのか奇跡なのか

日が暮れてからぽつぽつと雨が降り始めた。

しみじみと胸に沁みるような旋律に聴こえる。

切なさなど口に出来る歳ではもうないのだけれど

なぜかしんみりとしてしまうのは何故だろうか。



夜明け前、いつものように短歌と詩を書こうとしたら

何かの不具合だろうか文字入力が正常に出来なくなっていた。

一行目の短歌は書けるが一行空白にして三行目からが書けない。

三行目からの詩を書こうとしたら最初の短歌が消えてしまうのだった。

焦ってしまって何度もやり直したけれどもう諦めるしかなかった。

どうやらWindows11とSNSの相性が悪いように思える。


親切にアドバイスを下さった方が居て他のプラウザで試してみる。

まずはインストールから始めなければならず手間取ったけれど

やっと正常に書き込めるようになりなんと安堵したことだろう。


私は書けなくなることを異常なほどに怖れているらしい。

一瞬目の前が真っ暗になってしまった今朝の出来事だった。






朝のうちに一時間ほど川仕事に行っていた。

先日から海苔の人口種付けが始まっており今日は少しだけであったが

漁場に網を張る作業をしていた。網はもちろんまだ真っ白である。

希望が全くないわけではない。きっと緑に染まると信じたい。


朝の川風のなんと心地よいこと。とても清々しい気持ちだった。

やっぱり好きだなとつくづく思う。きっと天職なのだろう。




パソコンのトラブルも解消され午後は読書のつもりであったけれど

瀬戸内寂聴の小説「秘花」を読み始めたが溜息が出るばかり。

最初の数ページからもう読む気がしなくなり本を閉じてしまった。

寂聴さんの随筆は好きだけれど小説はどうも性に合わないらしい。

そもそも私には文学を極めるような素質もないのだろうと思う。


その代わりと言ってはとてもおこがましく失礼に当たるけれど

先日から読み返している自分の日記を読んでいた。

今日は9年前の5月の日記を一時間ほどかけて読み終える。

読みながら胸が熱くなり不覚にも涙があふれそうになった。

あやちゃんに読ませたくてたまらなくなり声を掛けたら

素直に頷いてくれてパソコンの前に座ってくれて嬉しかった。

10年後二十歳になったあやちゃんがまた読んでくれそうな気がする。

それまでなんとしてもこの日記が消滅しないことを祈るだけだ。


先日、N先生は終活だと言い断捨離だと言った。

その潔さにひたすら頭が下がる思いである。

私はまだまだ諦めきれずにいるようだ。


定命が尽き私がこの世から消え去ってしまっても

この日記がもし残っているのならそれは奇跡ではないだろうか。



2022年10月08日(土) 初心に返る

二十四節気の「寒露」秋が深まり朝露が冷たく感じられる頃。

今朝はぐんと気温が下がり肌寒くなった。

明日は今日よりも気温が下がるのだそうだ。

日中の陽射しはとても有難くほっこりと幸せな気分になる。



娘夫婦が仕事だったので孫達と過ごしていたけれど

二人ともすっかり手が掛からなくなり楽をさせてもらった。

そんな楽も寂しいものでやがては祖父母離れをしていくことだろう。


めいちゃんと買い物。出掛けに「おばあちゃんお金ある?」と

また心配をかけてしまった。本当に優しい子に育ってくれたこと。

午後には洗濯物を取り入れるのを手伝ってくれて

夕方には自分から進んでお風呂を洗ってくれた。

そうしておじいちゃんと一緒にお風呂に入る。

娘が帰って来ると急に赤ちゃんみたいになって抱きついていた。

成長したとはいえまだまだ母親に甘えたい年頃なのだろう。






午前中にカーブスへ行っていて今日ははっきりと言わせてもらった。

とにかく励まさないでいて欲しい。過剰に褒めないで欲しいと。

コーチの反応が気になったけれど自分を守ることを選ぶ。

鬱々とした気持ちからなんとしても逃れたいと思っていた。

例の親身になってくれるコーチは今日も姿が見えない。

無いものねだりをするほど私は愚かではないのだと思ったのだ。


子供は褒められたら伸びるかもしれないけれど

大人も同じとは限らないのではないだろうか。

私はむしろけなされた方が伸びるではないかと思っている。

もっと悔しい思いをしなければならない。

どん底に突き落とされてこそ這い上がる勇気が出て来る。

試しに「足が痛くて駄目ですね。頑張れませんね」と言ってみなさい。

私はありったけの力を振り絞って頑張ることだろう。


カーブスに限ったことではない。人生には似たようなことが多々ある。

私のように「書く」ことに拘っている人間は特に評価に拘り

少しでも認めて欲しいとまるで欲の塊りになってしまうことがある。

この日記にしてもアクセス数が気になり得票数が気になってならない。

ランキングの上位に食い込もうと躍起になってしまうのだった。


「馬鹿じゃないか」今日は初めてそう思った。

私はもっともっと追い詰められなければいけない。

所詮駄文なのだからプライドなど捨ててしまうべきなのだ。


10年前の日記のなんと伸び伸びと穏やかなことだろう。

「初心に返る」今からでも遅くはないと思っている。



2022年10月07日(金) タイムカプセル

曇り日。午後から寒気が流れ込んで来たようだ。

北西の風が吹き一気に肌寒くなる。

北海道や東日本では真冬並みの寒さになったそうだ。

けれども一時的なものらしく数日経てば平年並みの気温になるとのこと。

体調管理に気をつけながら穏やかな秋の日を待ちたいと思う。



お昼休みに10年前の日記を読み返していた。

先日のN先生の言葉がずっと心に残り続けている。

とにかく納得がいくまで読み返さなければ気が済まない。

潔く燃やしてしまうことは出来ないけれど

ネット上から忽然と消滅してしまうことは覚悟の上だった。

ダウンロード機能はあるけれどそれは画像のみであるらしい。

ファイルを確かめてみて初めてその現実を知った。

かと言って20年間もの日記をプリントアウトするのは不可能である。

それをしたところでいずれは紙屑になってしまうだろう。

ひどく追い詰められた気分になる。私はとても焦っているらしい。


それにしても10年前の日記のなんと懐かしかったことだろう。

まだ生まれて間もない初孫のあやちゃんの可愛いこと。

愛犬あんずもまだ生きていて毎日の散歩の光景がよみがえる。

思ったこと感じたことも記されていて歳月の流れをしみじみと感じた。

「10年後私は生きているのだろうか」そんなことも記されていた。

まるでタイムカプセルを開けたような気持になる。

思わず「生きちょるけん」と微笑みながら呟いていた。

また新たに同じことを書いてみたいとも思う。

この場所が無くなっていてもきっと何処かで私は記しているだろう。

とにかく最後の最期まで書くことを諦めずにいたいと思っている。


たかが日記と思う人もいるかもしれない。

けれどもそこには私の人生そのものが記されている。

雨の日も嵐の日も雪の日も春夏秋冬私は書き続けてきた。

それが私のささやかな誇りでもある。


明日のことなど誰にも分からない。

だからこそ今日を「いま」を大切に生き続けていきたい。





2022年10月06日(木) 母の奇跡

朝の肌寒さを覚悟していたけれどさほど気温は下がらず

思いがけずに快適を感じる朝となった。

けれども油断は禁物だろう。身体に堪える日が来るのに違いない。

血圧がぐんと高くなりぽっくり死んでしまうことだって在り得る。

命は取り留めても祖母のように半身不随になる可能性もあるのだ。

まだ秋の序の口からもう冬が怖くて不安でならなかった。

潔くどうして死ねよう。私はまだまだ生きたくてたまらない。




母がお世話になっている施設のSNSが更新されていて

お習字をしている写真がアップされていた。

そこに母の姿が見つからず一気に不安がつのる。

これまでは必ず母の姿を見せてくれていたのだった。

どうにも気掛かりでならず今日は思い切って施設に電話をしていた。


やはり思った通り先日の母の元気は空元気だったと分かる。

けれども決して嘘をついたわけではない。母に自覚が無いようなのだ。

母らしくあっけらかんとしていて全く気にしていない様子だと言う。


幸い担当の医師と話すことが出来て詳しい病状を聞くことが出来た。

今は頭の上に壺を載せて恐る恐る歩いているような状態らしい。

躓けば壺が落ちて割れてしまうと言う。それは当然のことだった。


心臓を守ろうすれば腎臓が弱る。腎臓を守ろうとすれば心臓が弱る。

今はどちらにも負担が掛からないように最善を尽くしてくれているらしい。

素人にも良く分かるように説明してくれて少し気持ちが楽になった。

とにかく母の生命力を信じるしかないのだと思う。


コロナ禍で面会は叶わないけれど面会が叶う時には

「それは危篤状態になった時ですよ」と医師は言う。

だから面会出来ないことをむしろ喜ぶべきなのだろうとも思った。

異変があれば必ず連絡すると言う。連絡が無いことを祈るしかない。

どれほどの日々が流れるにしても受け止めていかなければいけない。


コロナ感染を乗り越えたのも奇跡だと医師は言った。

母の生命力が人並み以上に強いことを物語っている。


そんな母を残してどうして先に逝けようか。

私は不安がっている場合ではない。

もっともっと強く逞しく生きていかなければならない。







2022年10月05日(水) 執着を潔く手放すこと

北日本や東日本では一気に気温が低くなったとのこと。

西日本は一日遅れ明日から肌寒くなりそうだった。

今日もほぼ真夏日となり蒸し暑い一日となる。



高知新聞に「あけぼの」と云う随筆欄があり

今朝は小学校4年生の時の担任だったN先生の随筆が載っていた。

80歳になられた先生はそろそろ終活を始めたらしい。

断捨離をしていたら女学生だった頃の日記帳が見つかったとのこと。

懐かしさもありついつい読み耽ってしまったと書いてあった。

少女だった頃の先生を知る由もないけれど

文学少女であり恋もし物思いに耽る時もあったことだろう。

私も読んでみたかったなと思った。それは憧憬にも等しい。


先生と私は50年以上も会ったことがないけれど

今でもその縁はささやかに繋がっているのだった。

お昼休みに早速電話をするととても喜んでくれた。


そうして衝撃的な事実を知ることになった。

随筆には書かれていなかったけれどその日記帳のすべてに

火を点けて燃やしてしまったのだと言う。

私が残念がると笑い飛ばすように「すっきりした」と言った。

読み返した時点で納得しもう未練はないのに違いない。

それほどまでに潔くこの世から消してしまえるものだろうか。

私はひたすら胸を打たれた。きっと私もそうするべきなのだろう。

この20年間書き続けてきた日記がまさにそうである。


執着を潔く手放すこと。それこそが断捨離なのだと思った。






整形外科の受診日だったので仕事を終えるなり急いで病院へ。

予約制であったけれど今日もかなりの待ち時間だった。

診察を諦めて薬の処方箋だけ貰って帰ろうかとも思ったけれど

医師に会いたくてならない。少しでも語り合いたかった。

ひたすら待った甲斐があった。医師のなんと優しいことだろう。


先日の川仕事のことも気にかけてくれて「よう頑張ったね」と。

まるで子供を褒めるように言ってくれてとても嬉しかった。

鎮痛剤は胃弱の私にはあまり勧められないけれど

朝だけだったのが夜の分を頓服として処方してくれる。

我慢できない程の痛みがあればどれほど救いになることだろう。

私はもはや藁にも縋る思いである。本当に良き医師と巡り合った。


帰り道はとても清々しい。すかっと爽やかな気分だった。

スーパーで沢山買物をしたけれど重い荷物もなんのその

気がつけば颯爽と歩いている自分が別人のように思えた。



2022年10月04日(火) 令和枯れすすき

大気が不安定だったのか少しだけにわか雨が降った。

陽射しもあったけれど異常なほどの蒸し暑さとなる。

かつて10月にエアコンのお世話になったことがあっただろうか。

今年の秋は短く一気に冬が訪れそうな気がしている。


秋らしい風景を見かけるとほっとする。

今日は芒とセイタカアワダチソウ。漢字だと背高泡立ち草だろうか。

まだ三角帽子のてっぺんをわずかに黄色く染めたばかり。

「ぶた草」とも呼ばれ花粉症の原因にもなるので

嫌う人も多いけれど私はなんとなく好きだなと思う。

子供の頃には見かけなかった花だ。いつ頃日本に渡って来たのだろう。

繁殖力が強い外来種なので駆除対象になっているようだ。

生き残るために必死の思いで花粉を放っているのだと思う。


芒はまだ若く艶々とした穂がなんとも美しい。

これは古来から日本に生息していたことだろう。

万葉の人々も歌に詠み慣れ親しんでいたのに違いない。

秋の日の風になびく姿はまるで空の波のようにも見える。


やがては枯れ芒となるのだけれど「昭和枯れすすき」を思い出す。

「貧しさに負けた いえ世間に負けた」

決してふざけているのではないけれど私は「令和枯れすすき」を歌いたい。


いけないいけない。書いているうちに脱線してしまったようだ。


それにしてもこうして書くのが本当に好きでならない。

この場所を失ったら生きていられないとも思う。

出来ることならば生前の最後の日記なるものを残したい。


「この場所を追われた いっそきれいに死のうか

 力の限り生きたから未練などないわ」



2022年10月03日(月) 季節の変わり目

朝は肌寒く日中はほぼ真夏日となる。

そんな夏の名残もあとわずかのようだ。

今はまさに季節の変わり目と云って良いだろう。


私はぽつねんと佇んでいる。

背中を押されたくはない。手を引かれたくもなかった。


職場の庭の片隅に秋桜が咲き始める。

昔はそれは沢山咲いたけれど今はほんのわずかである。

母を恨む気持ちはないが母のせいだと思っている。

いつだったか花が終わった頃に「汚い」と言って

根こそぎ引き抜いてしまったのだった。

母はそんな人だったのだろうか今はとても信じられない。

その証拠に母が育てていた季節ごとの花が今も咲き続けている。





今朝は職場に着くなり「みい太」が鳴きながら擦り寄って来た。

餌は毎朝義父が与えており空腹とは思えない。

かと言って私に甘える程には懐いていないのだった。

「お仕事するよ」と言ったら工場の車の下に潜り込んでしまった。


昼間、義父が「おう!」と声を上げるので何事かと思ったら

庭に数匹の子猫がよちよちと歩いている。

それはもちろんとても可愛らしかったけれど

一瞬どうしようと思うほど複雑な気持ちになってしまった。

父猫はみい太に違いない。母猫は黒い猫で時々姿が見えていた。

けれども餌を与えられているのはみい太だけなのだった。

子猫たちはまだ生まれて間もなく母猫のお乳だけが頼りだろう。

母猫もしっかりと食べなければお乳も出なくなるのではないか。

そんな心配が頭を過る。小さな命が不安でならなかった。


義父も元々の飼い主のKちゃんも黒猫には餌はやらないと言う。

心を鬼にしている気持ちは分かるけれどあまりにも残酷なこと。

みい太の家族を見殺しにするのだろうかと思った。


義父曰く。自然界の掟に沿うしかないのだそうだ。

野良猫には野良猫の生きる術がきっとあるのだろう。

情けをかけることは猫のためにならないと云うことだと思う。


みい太はあっけらかんとしている。

おそらくまだ父猫の自覚もないのかもしれない。

一日中工場に居て今日も看板猫を務めていた。



2022年10月02日(日) 明日がきっとありますように

残暑と言うより「秋暑し」と言った方が良いだろう。

もう10月だと言うのにほぼ真夏日の気温になる。


彼岸花が枯れ始めた。どす黒い血のような色。

よけいに怖ろしくなってつい目を背けてしまう。

けれども最後まで見届けてやらなければいけない。

緑の葉がその亡骸をきっと包み込むことだろう。




お隣のご主人のお葬式。お向かいのご夫婦と一緒に参列する。

なんとか他言無用を守り続けたけれどやはり複雑な気持ちであった。

私達以外は親族のみでわずか30名ほどの寂しいお葬式だった。


コロナ禍のせいもあるけれど遺族の意志で

今後のおつきあいが出来なくなるのが一番の原因らしかった。

奥さんは家を手放し娘さんとの同居をもう決めているとのこと。

お隣づき合いが出来るのも49日忌までではないだろうか。

奥さんも高齢なのでそれは致し方ないことにも思える。

今生の別れになることだろう。それも寂しくてならない。


亡くなられたご主人はとても安らかな顔をしていた。

それだけが救いに思える。ただただ冥福を祈るだけだった。



昔、何かの本で読んだことがあるのだけれど

自分のお葬式に誰が来てくれるか考えてみなさいと

あの人もこの人もと沢山の顔が浮かんだことだった。

私は「緊急連絡先」と称し電話番号を記し部屋に貼り付けたことがある。

娘がきっと皆に知らせてくれるだろうと信じていた。


歳月が流れてしまうと一人消え二人消える。

決して縁が切れるのではないけれど心に遠慮が生じてくるのだった。

もう迷惑なのかもしれないと思う。歳月にはそんな儚さもある。


今はもうその紙を破り捨ててしまったけれど

また新たな連絡先を記して置きたいと思うようになった。

遠方の友が多いけれどきっと駆けつけて来てくれるに違いない。

最期になんとしても会いたい。私の亡骸に声を掛けて欲しい。

そうでなければ私はどれほどの未練を残すことだろう。


歳を重ねるごとに人の「死」に慣れてくる。

悲しみよりも観念を感じることが多くなった。

出来ることならば長生きをしたいけれど

こればかりは自分の意志で叶うことではなかった。


希望はある。未来だってきっとあるだろう。

けれども生きれば生きるほど「死」が身近になって来るのだった。


「明日がきっとありますように」祈り続ける日々が続いている。





2022年10月01日(土) 気分一新の神無月

窓から三日月が見えている。まるで一切れの檸檬のようだ。

そんな月を仰ぎながら一日を振り返るのも良いものである。


カレンダーを10月にしたら一面の秋桜畑だった。

ラジオから山口百恵の「秋桜」が流れてくる。

母を想った。胸に熱いものが込み上げてきて涙がこぼれる。



早朝にお大師堂へ。ほぼひと月ぶりではなかっただろうか。

花枝(しきび)が気になっておりあらかじめ準備して行く。

これだけは人任せに出来ない。私の役目なのだと思っている。

日捲りの暦を今日にして花枝を活け替える。


さらさらと川のせせらぎの音を聴きながら般若心経を唱えた。

家族皆の平穏無事を祈らずにいられない。

神様は出雲の国だけれど仏様はきっと身近に居てくれるだろう。

ふとそんなことを思いながら手を合わせていた。


お線香の補充をしようとしたらもう買い置きがなかった。

買うことは容易いけれどすぐに持ってくる自信がない。

今朝は特に足の痛みが酷く歩くのも辛いほどだった。

仕方なくSさんに頼むことにして書き置きを残す。


手水鉢の水も空っぽ。ああどうしようと困り果てる。

川の水を汲みに行けない。なんとも情けない有り様だった。

Sさんや他のお参り仲間さんがきっと気づいてくれるだろう。

後ろ髪を引かれるようにしながらお堂を後にする。

疎かにしていることばかりだけれど私は精一杯であった。





買物を済ませてからカーブスへ。

先週は川仕事があり休んでいたので2週間ぶりだった。

例の親身になってくれるコーチが不在でなんとなく心細い。

案の定、足の痛みを気遣ってくれる人もなく気分が塞ぐ。

新人コーチが声を掛けてくれたけれど社交辞令に聞こえる。

頑張れないのに「頑張りましょう」とは辛いものである。


気分転換を兼ねてすぐ隣のセリアに寄っていた。

娘が働いているお店なので見つからないようにこっそりと。

「恥ずかしいので来ないで」といつも言われているのだった。

可愛らしいお皿を見つけたので孫たちにと買い求める。

レジに娘が居なかったのでこれ幸いと逃げるようにお店を出た。



気分転換が出来るうちはまだ大丈夫だと思う。

負にばかり囚われてしまうと本当に壊れてしまいそうだ。

けれども世の中には不治の病と闘っている人もたくさん居る。

私の足の痛みなど本当に些細なことなのではないだろうか。

命に係わることではないそれだけで恵まれているのだと思う。


70歳、80歳と人生はまだまだこれからなのだ。






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