とうとう弥生三月も晦日。駆け抜けたような日々であった。
冬から春へと季節の変わり目でもあり
三寒四温を繰り返しながらやっと春らしくなったこの頃である。
はらはらと散り始めた桜。それは儚くもあるけれど
凛とした潔さも感じられ心を打たれるばかりであった。
憐れだと嘆くことは決してするまいと思う。
散り際も美しく花の命を全うした姿なのだろう。
今日も仕事が忙しく一時間程の残業を終え帰路に就く。
帰り道で思わず「やったね」と声をあげていた。
なんとも心地よい達成感に満たされていたからだろう。
少しも疲れを感じないのがその証拠ではないだろうか。
する仕事のあるのは本当に有難いことだととつくづく思った。
明日からもしばらくは忙しい日が続きそうだけれど
遣り甲斐を感じつつ乗り越えて行きたいと思っている。
時には老体にムチを打とう。それが精一杯に等しいのではないだろうか。
帰宅したらテーブルの上に娘が用意していたあやちゃんの昼食が
手を付けられずにそのまま残っていた。
じいちゃんに訊いたら朝食が10時と遅かったようで
お昼には「まだ食べたくない」と言ったのだそうだ。
子供部屋をのぞいたらお昼寝をしていたらしくごろりと横になっていた。
お腹も空いていないと言うので夕食の時間までそっとしておく。
娘が海老の天ぷらで「天むす」を作ったら大きなのを二個も平らげる。
その姿がまるでビーバーのように可愛らしかった。
まだまだあどけない姿と思えば胸のふくらみについ目が向く。
もうすぐ10歳。それはもう少女の姿に他ならなかった。
孫たちの春にはいったい何が待ち受けているのだろう。
悲しいことや辛いことがありませんようにと願ってやまない。
2022年03月30日(水) |
幸せはささやかなこと |
満開の桜が少しずつ散り始めた。
明日は午後から雨とのことで花散らしの雨になるかもしれない。
昨夜は夢の中で母とお花見をする。
車椅子ではなくて母を背負ってのことだった。
それが少しも重みを感じずまるで綿のような母であった。
場所は母の生まれ故郷の高台で懐かしさが込み上げて来る。
背中の母はあちらこちらの桜を指さし童女のように声をあげていた。
夢の中の私はずいぶんと優しい娘だったようだ。
不思議な夢を見たものだなと思う。現実ではないからこそ夢なのだろう。
同僚が白内障の手術を控えていて高知市内の眼科へ行った。
今日は開店休業と決めつけていたけれど思いがけずに義父が居てくれて
有り難い事にずいぶんと工場の仕事がはかどった。
同時に事務仕事も多くなりお昼休み返上で私も精を出す。
明日はもう月末で年度末でもあり忙しさは覚悟のことである。
帰宅したらあやちゃんとじいちゃんがお留守番。
めいちゃんは学童の「たけのこ学級」にほぼ毎日通っていた。
春休み中はお風呂洗いのお手伝いを二人が交替でやってくれている。
今日はめいちゃんの当番だったけれど近所のお友達と遊んでいて
無理かなと思ったらあやちゃんが率先して洗ってくれて嬉しかった。
「めいが出来ん日はあやがするけん」となんと頼もしいこと。
反抗期も峠を越えたのか最近はとても素直で優しくなってくれた。
相変わらず夕食を一緒に食べることはめったにないけれど
あやちゃんの笑い声がよく聴こえほっこりと耳を傾けている。
まるで鳩のように「くっくっくっ」と笑うのだった。
そうして平和に一日が暮れていく。
これ以上の幸せがあるだろうかと私はいつも感謝してやまない。
桜が満開になってから花曇りの日が続いている。
今日は気温もあまり上がらず花冷えの一日となった。
青空が相応しいように思うけれど曇り空を仰ぐ桜もまた良いものだ。
ひっそりと静かに佇んでいる姿がとても健気に見えてならない。
ふと人も同じではないかと思う。
明るくて朗らかな人。どこか影があり心もとなく見える人。
私はどちらかと言えば後者なのではないだろうか。
義父が田植えの準備に忙しく昼間は思うように工場の仕事が出来ず
昨夜も深夜から明け方まで車の修理をしてくれていたようだ。
そんな義父に人手不足だなどとどうして言えるだろうか。
今日も工場は猫の手も借りたいほどの忙しだった。
私は5時間のパートなので早々と帰路に就いてしまうけれど
母はよく夜遅くまで仕事をしていたことを思い出す。
その間に義父の夕食の支度までしていたのだから頭が下がる。
今思えばずっと働きづめの日々だったことだろう。
施設に入居してからも仕事の事ばかり気にかけている様子で
なんだか可哀想でならず母が不憫でならなかった。
昨日は母の施設のある病院のSNSが更新されており
生け花を楽しんでいる母の写真がアップされていた。
花が大好きな母らしく満面の笑顔にとてもほっとする。
腰痛も続いており少し鬱気味になっているようだと聞いていたので
母の笑顔はほんとうに嬉しく救われたような気持ちになった。
そうして施設側の粋な計らいには本当に感謝以外にない。
コロナ禍で面会は叶わないけれど母の笑顔に会える。
写真を見ながらずっと話しかけていた。
母は何も語らずただただ微笑み続けている。
花曇りの一日。午後には少しだけ薄陽が射していた。
満開になった桜がそれはそれはきれい。
今がまさに春爛漫だと言えよう。
散り急ぐことなかれと手を合わせつつ桜を仰いでいた。
帰り道の県道で珍しいお遍路さんを見かける。
思わずブレーキを踏んだけれど後続車があり停まれなかった。
親子にも見えたけれどお祖父ちゃんとお孫さんだったのかもしれない。
小型のリヤカーを引いており荷台に5歳くらいの男の子が乗っていた。
しっかりと白装束を着ておりすぐにお遍路さんだと分かる。
男の子は髪を刈り上げていて上の方だけ髪の毛があった。
まるで「子連れ狼」の大五郎のような髪型をしている。
ちょうど桜並木の下を歩いており絵のような二人であった。
通り過ぎてから声をかけるべきだったと悔やまれる。
車をUターンすれば近くまで行けたのにと残念でならない。
おそらく区切り打ちのお遍路旅であったことだろう。
小さな子供を連れての通し打ちはとても困難に思えた。
私の想像はふくらみ二人は四国内に住まいがあるのではとか
5歳位に見えたけれど一年生かもしれないとか
学校が春休みだからお遍路に出たのかもしれないと思った。
それは声をかけてさえいれば分かる事実だったのだろう。
とにかく残念でならず今もって後ろ髪を引かれるような思いでいる。
この時期のお遍路は「桜遍路」花に寄り添う旅なのだと思う。
日が暮れるまでに無事に延光寺さんに着いただろうか。
まさか野宿ではあるまいと考え出したらきりがない。
晩ご飯ちゃんと食べたかしら。お風呂にも入ったかしら。
明日は伊予路に差し掛かることだろう。
ただただ旅の無事を祈る事しか出来ない。
声もかけてあげられなかったおばあちゃんを許して下さいね。
昨日の大雨が嘘のように快晴となる
降り注ぐ陽射しは春そのものでぽかぽかと暖かくなった。
桜もほぼ満開となり青空に薄桃色の花が鮮やかに映える。
朝のうちにお大師堂へ。花枝(しきび)を新しく活け替え
残り少なくなっていたお線香の補充もする。
誰かがお供えしてくれたのか一升瓶の日本酒があった。
願かけでもしていたのだろうか。きっと叶ったのだろう。
心のこもった物だけにさすがに持ち帰るわけにはいかない。
昨日の大雨で川が少し増水しておりせせらぎの音が高い。
木屑がたくさん川岸に押し寄せて来ており無残な光景であったけれど
見上げればほぼ満開の桜が微笑んでおり心が和むようだった。
家事らしきことなど殆どしないのが常の日曜日だけれど
今日はホームセンターでコンクリートの小袋を買って来る。
先日草引きをしたばかりの庭と道路の境目が抉れており
今後雑草が生えないようにとその抉れを補修したのだった。
「俺に任せろ」とじいちゃんが得意げに手伝ってくれる。
「元プロだからな」と言ったりしてとても愉快に思った。
30歳で会社を辞めて川漁師になったけれど
夏場は収入がなく家の土台を作る基礎屋さんでアルバイトをしていた。
一輪車で汗を流しつつ生コンを運んだ経験があったのだった。
その後の再就職先は生コン会社で基礎屋さんの注文を受け運んだり
トンネル工事の現場へ大量の生コンを運んだこともある。
久しぶりに見る生コンが懐かしかったのか顔には笑みがこぼれていた。
おかげで補修はきれいに整う。私は惚れ惚れとしながら見ていた。
午後は2時間程読書。1時間程お昼寝をしてから大相撲を観る。
福島出身の新関脇若隆景が初優勝を果たした。
十両に落ちている炎鵬のファンだけれど若隆景もちょっと好きになる。
夕飯は鶏の唐揚げ。ほうれん草のお白和え。ツワブキと厚揚げの煮物。
今夜は珍しく家族そろって食べられて浮き立つように嬉しかった。
娘むこがお白和えを沢山食べてくれる。孫たちは唐揚げ一直線。
みんなの美味しい顔が見られて幸せだなあと思った。
朝はぽつぽつだった雨が本降りになり横殴りの雨となる。
まさに花に嵐となり桜の花も健気に耐えている様子。
幸いまだ満開ではないので花散らしの雨にはならなかったようだ。
むしろ恵みの雨になったのかもしれず満開も近いことだろう。
土曜日恒例のカーブスを終え降りしきる雨の中を職場に向かう。
対向車の殆どがライトを点灯しており私もそれに倣った。
高速運転も危険に思え制限時速内で前方の車の後を追う。
職場では車検整備完了の車が一台あったけれど
あまりの大雨に検査場も水浸しになっており月曜日に延期することに。
そうなれば私のする仕事も無くなり一気に手持無沙汰となった。
義父の計らいで二時間程でとんぼ返りをすることになる。
帰りはいつもの峠道を下っていったのだけれど
お遍路さんが5人も難儀そうに歩いている姿を見た。
雨合羽が強い雨と風に晒され一歩一歩がとても辛そうであった。
延光寺に着くまでには日が暮れてしまうだろうと思うと
思わず手を合わせずにはいられない光景であった。
帰宅して「長英逃亡」を読了。悲惨な最期に涙がこぼれた。
作者の吉村昭も感情移入をせずにいられなかったと書いてあったが
私も同じく長英と一緒に過酷な逃亡をし続けていたのだと思う。
なんとしても救ってあげたかった貴重で偉大な人物であった。
逃れ続けることが叶えば明治維新は目前の事だったのだ。
江戸幕府の犠牲になったことがとても残念でならない。
夕飯は「水炊き」おそらく今季最後の鍋料理だろう。
我が家のタレは大根おろしを沢山入れるのでめいちゃんが手伝ってくれた。
小さな手で一生懸命に大根をすりおろしてくれてなんと有り難いこと。
けれども今夜も家族揃って鍋を囲むことは叶わなかった。
じいちゃんと二人で少し遠慮しながら先に食べる。
もちろん〆のうどんなど叶うわけもなかった。
寂しいけれどそれが当たり前になってしまった我が家の夕食である。
もう慣れてしまったので嘆くこともないのだけれど
決して偽りの家族ではないことを信じてやまない。
陽射しはあったけれど風が強く肌寒い一日。
お天気は下り坂で明日は大雨になるのだそうだ。
毎年の事だけれど桜が咲き始めると荒れる日が多い。
桜にとっては試練のような雨になることだろう。
人にも試練がつきもの。嘆いていても何も変わらず
立ち向かうように突き進んでいかなくてはならない。
きっと困難な事ばかりではないのだと思う。
案外と「のど元過ぎれば熱さを忘れる」事が多いのではないだろうか。
定時で仕事を終え帰路に就く。
いつものことだけれど夕飯の献立に頭を悩ませていた。
自分の食べたい物とはいかず家族の好みを優先しなければいけない。
かと言って孫中心では娘夫婦が納得しないだろう。
晩酌の肴になる物も一品は必ず買わなければならず
高価なお刺身などには手が出ない貧乏所帯であった。
今日は「イワシの丸干し」を買う。
じいちゃんの好物だけれど娘夫婦にはどうだろうか。
後は鶏肉と茄子を揚げ新玉ねぎをのせ南蛮漬けにしてみた。
頂き物のベビーリーフのサラダにはトマトと生ハムを加える。
娘むこは気に入らないと一切箸を付けないのだけれど
イワシの丸干しを二匹も食べてくれていて嬉しかった。
鶏肉好きの孫たちも南蛮漬けをけっこう食べてくれていた。
家族そろって食卓を囲むことは殆ど無くなったけれど
後から食卓をチェックするのが常となったこの頃である。
たくさん残っているとさすがに気落ちするけれど
殆ど残っていないと胸を撫で下ろしほっとするのだった。
同居生活も今年で8年目となる。
一気に大所帯となり最初はパニック状態だったけれど
慣れてしまえばこんなものかなと楽観視も出来るようになった。
いつまでもこの家には居ないと娘は言うけれど
今のところは落ち着いている様子で何よりに思っている。
もしその時が来ても引き止めるつもりはない。
年寄りふたりでひっそりと静かに暮らすのもまた良いものだろう。
朝の肌寒さもつかの間のこと日中は春らしい陽気となる。
予想していた通り桜は一気に咲き始め5分咲き程になった。
中にはまだ咲いていない樹もあるけれど枝には蕾が沢山見えている。
山里では田植えの準備に忙しく水を張られた田んぼが多くなった。
義父は工場の仕事と掛け持ちでてんてこ舞いしており
昼間は田んぼ。夜は遅くまで工場の仕事に精を出している。
それは78歳という年齢を感じさせず頭が下がる思いであった。
まるで忙しさを楽しむように活き活きとしている。
今日は同僚が親戚のお葬式があり午後から開店休業となった。
来客もなかったのでしばらく本を読みながら過ごす。
定時でタイムカードを押し事務所を出ようとしていたら
郵便局のI君が転勤の挨拶を兼ね新任者の引継ぎに来てくれた。
I君は若くてイケメンだったけれど新任者は白髪交じりの人だった。
人を見かけで判断してはいけないけれどなんとなく不安になる。
郵便局の車輌メンテを引き受けているので順調でなければならない。
そんな不安と同時にI君との別れが寂しくもあった。
三月は去るというけれど別れの季節でもあることを改めて感じる。
別れもあれば出会いもあるだろう。どうか新鮮な春であって欲しい。
帰宅したらめいちゃんが昼食を食べなかったとのこと。
今日は卒業式と終了式があって学校はお昼までで終わっていた。
子供部屋を覗いたらもう春休みの宿題に取り掛かっていて
どうやら一気に済ませて春休みを満喫しようと目論んでいるらしい。
通知表を見せてもらったら「よく出来ました」がたくさんあった。
この一年間ほんとうによく頑張ったのだと感慨深く思う。
春休みが終わったらめいちゃんは2年生。あやちゃんは4年生になる。
孫たちの成長がまるで生きがいのように感じるこの頃である。
午後から雨がぽつぽつと降り始める。
春雨と呼ぶには冷たい雨となった。
それでいて桜の季節となり二分咲きくらい。
日に日に蕾が開くことだろう。
山肌には山躑躅が咲いており桃色の花に心が和む。
やがて木の芽も見え始め新緑の季節も訪れるだろう。
冬の名残りを残しつつ季節は確実に春に向かっているようだ。
仕事で久しぶりに軽トラックの運転をする。
自動車道を高速で走りタイヤショップまでの道のり。
時速80キロは出せなばならぬとハンドルを握りしめてのこと。
行きは前方に大型トラックが走っていたので気楽だったけれど
帰りは後続車に追われ逃げるようにアクセルを踏んでいた。
無事に帰り着いたもののもうこりごりだと思った。
自動車免許を取得したのは22歳の時だったから
もう43年も経ったことになる。その間に雪道での事故が二回。
ずっと無違反でゴールド免許だったけれど三年前に初の違反。
山里に覆面パトが来ており不覚にもシートベルトをしていなかった。
初めての事なので勘弁して欲しいと懇願したけれど
「それは出来ませんよ」と警官は笑いながら対応していた。
運転には決して自信はなく過信は事故の元だと思うようにしている。
高齢者の事故が多発している昨今、明日は我が身だとも思う。
ブレーキとアクセルを間違えるなど在り得ないと思いつつも
咄嗟の時になってしまわなければそれも確信は持てないのだった。
かと言って車失くしては身動きが取れずたちまち不自由になる。
今は仕事があるので車を頼りに通い続けているけれど
10年後の事など考えると気が遠くなってしまいそうだった。
とにかく慎重な運転を心がける。事故だけは避けなければいけない。
今日はちょっとした「軽トラック野郎」を頑張ってみた日。
午前中は冷たい雨となったけれど静かで優しい雨であった。
関東は名残雪とのこと。その上に電力不足が追い打ちをかける。
寒い夜に停電にでもなったらなんとも気の毒でならない。
朝の山道に小さな集落があり「タラの芽あります」の立て看板。
もうそろそろではないかと待ちかねていたので早速買い求める。
良心市には可愛らしい湯呑が置いて在りその中に百円硬貨を入れた。
鍵付きの料金箱を備える良心市が多いけれどそれは無防備で
いかにも「良心」を問うような光景であった。
夕方、母の施設の看護師さんから電話があり
以前から予定されていた専門病院での腎臓の検査を見送ることになった。
コロナ禍の影響で先延ばしにしていたのだけれど
今の母の状態ではとても透析に耐えられそうにないのだそうだ。
透析となれば施設も移らなければならず悩んでいただけに
思わずこれ幸いと思ったことは言うまでもない。
この先腎不全が悪化する恐れもあるけれど仕方ないことだろう。
それよりも母が今の施設で笑顔で過ごしてくれることを望んでいる。
敢えて義父には伝えない事にした。私の一存で母を守ってあげたい。
血の繋がった娘として最後の親孝行になるのかもしれないけれど。
夕食は「タラの芽の天ぷら」柔らかくてとても美味しかった。
それと「ふ海苔の卵とじ」初物尽くしで春の恵みを有り難く頂く。
曇り日。午前中は少しだけ薄陽が射していた。
暖かいうちにと庭の草引きをする。
庭といっても猫の額ほどでしかもコンクリートであった。
雑草のなんと逞しいこと。それはコンクリートの隙間から
僅かな土を糧にしたかのように力強く伸びている。
そんな雑草に身を寄せるように野スミレの花が咲いていた。
周りの雑草だけを引き抜き野スミレを残す。
数えてみたら10本もありすっかり野スミレの庭になった。
自然のままにさりげなく。とても可憐な姿であった。
春分の日。お彼岸の中日でもあったけれどお墓参りは行かず。
例年ならば義妹が率先して段取りをするのだけれど
彼女も不整脈の発作が起こるようになり弱気になっているようだった。
お墓はお寺の裏山にあり急こう配の山道を上らればならなかった。
私達夫婦もすっかり足腰が弱くなり自信のないのが本音でもある。
これ幸いと思えば亡き義父母に申し訳がないけれど
今年は許して頂こうと意見が一致したのだった。
その代わりではないけれどお大師堂にお参りに行く。
お菓子をお供えして拙い般若心経を唱える。
それがせめてもの供養にも思えた。
昼食後からしばらく本を読んでいたけれど
甲子園で高知高校の初戦があったのでじいちゃんと観戦する。
9回裏に逆転されるのではないかとはらはらしていたけれど
無事に初戦突破できて何よりだった。胸に熱いものが込み上げて来る。
私はプロ野球には全く興味が無いけれど高校野球は昔から好きだった。
あれは高一の時だったから昭和46年の夏だったろうか。
高知商業高校の益永投手の大ファンになり「おっかけ」をした。
高知市営球場での予選も観に行き写真を撮ったこともある。
その時の写真は今でも手元にあり大切に保存している。
それは試合中の写真ではなくて待機中の写真なのだけれど
益永君はカメラを意識したのかはにかんだような横顔だった。
必ず優勝して甲子園に行くと信じていた通りになって
その夏の私の熱狂ぶりは半狂乱だったことは言うまでもない。
勝っても泣き負けても泣いた記憶が今でもはっきりと蘇る。
ずいぶんと歳月が流れたけれどそれは私の青春に他ならず
「甲子園」と聞けば必ず益永君の事を思い出すのだった。
午前中は肌寒く午後になりやっと暖かくなった。
それでも気温は平年並みとのこと。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。
先日のように一気に夏日になるよりも身体には優しい。
我が家のチューリップにもう花芽が見え始めた。
つい先日まで5センチ程だったのが10センチにもなっている。
花の色はまだよくわからないけれど黄色ではないだろうか。
葉牡丹の花もいつの間にか咲いておりその成長におどろく。
種を採ろうと目論んでいるけれど上手くいくだろうか。
庭の手入れも怠ってばかりだけれど植物はとても健気であった。
最低限の家事だけに留めひたすら本ばかり読んでいた。
吉村昭の「破船」読了。夕方近くなりまた図書館へ走る。
裏の書庫から今度は「長英逃亡」を借りて来てすぐに読み始める。
片時も本から目を離せない困った人になってしまったようだ。
たまには掃除でもしたらどうだとじいちゃんは苦笑いしている。
そのうちやる気スイッチが入ることだろう。しばし待てと言いたい。
一人の作家に魅かれると全著書を読破しなければ気が済まず
今は8割程だろうか。あと一月はかかりそうであった。
夕食は焼肉。先日のじいちゃんの誕生日が平日だったため
家族がみな揃う日曜日にしたのだった。
家族6人でテーブルを囲むのはめったにないことで嬉しかった。
娘も気を効かせてくれたようで有り難く思う。
じいちゃんは子供の頃から誕生日に縁がなかったらしく
家族で祝うなどと言う習慣は皆無だったと聞く。
私が嫁いでからは少しずつ改善されて来たけれど
姑さんも舅さんもかなり戸惑っていた記憶がある。
特別な事をすれば「贅沢」だと思うのが当然の事だったのだろう。
郷に入れば郷に従えと言うけれど私は少し反発していたのかもしれない。
それを認めてもらうためには少なからず歳月が必要であった。
今はもう亡き人の誕生日と命日をカレンダーに記し続けている。
生きていればと思いつつ亡き人を偲ぶ日でもあった。
寒の戻りだろうか。日中も気温が上がらず肌寒い一日だった。
高知城下の桜(ソメイヨシノ)が咲いたそうで
全国に先駆けて開花宣言がある。
同じ高知でも四万十の桜はまだ蕾が固いように見え
咲き始めるのは彼岸明け頃ではないだろうか。
10時にカーブスへ行き終わり次第に職場に向かう。
自動車道で事故があったらしくパトカーが4台も停まっていた。
徐行しながら通り過ぎたけれど2台の車が損傷しているのが見えた。
高速道路なのでかなりのスピードが出ていたことだろう。
明日は我が身と思いつつ気を引き締めて慎重に走った。
工場の仕事はなんとか一段落。まだ後の予約が控えているけれど
それはまた連休明けの事として今日は肩の荷が下りたような気がした。
同僚のお給料は週給制なので少し奮発して支給する。
経営者側に立てば労う気持ちがとても大切に思うのだった。
高齢者のお客さんが多いけれど今日は珍しく20代の若者。
子供の頃に会ったきりだったのがすっかり好青年になっていた。
両親の離婚を経験しており女手一つで育てられたと聞いていたが
明るくて素直で少しも「陰」を感じることはなかった。
「お父さんには会っているの?」そこまで口に出掛けたけれど躊躇する。
もし絶縁状態になっていたら傷つけてしまう恐れがあった。
青年が帰ってから1時間程してその「お父さん」がやって来る。
まさにニアミス状態で父と子の再会が叶ったのかもしれなかった。
立派に成長した息子の姿を見せてあげたかった気持ちがつのる。
もし離婚してから一度も会っていないのなら尚更のことであった。
けれども「会いたくはなかった」と言われればそれまでのこと。
私にとってはとても他人事には思えない出来事であった。
もし45年前に私が母を頼りにしなかったら
私と母はどうなっていたのだろうと思う。
父を犠牲にしたように母を犠牲にしてしまったかもしれない。
母は死んだものと思い平然と暮らしていたのかもしれなかった。
切っても切れない血縁だとしても「会わない」選択は出来ただろう。
そこまで考えてしまうと私の今の暮しは消滅してしまうのだった。
母と再会したからこそ今の暮しがあるのだと思う。
あの時の私の選んだ道は決して間違ってはいなかったのだ。
夜明け前からかなりの雨。一時は小康状態になっていたけれど
お昼過ぎにかけて滝のような大雨となった。
朝の道でお遍路さんの姿を見かけていたので
どんなにか難儀をしていることだろうと気になった。
今朝は3人のお遍路さん。無事に目的の札所に着いただろうか。
国道沿いの白木蓮の花も雨に打たれたらしく
今朝はかなり散っており道路を雪のように覆っていた。
儚いものだなと思う。散り急ぐ花ではないだけに憐れであった。
彼岸の嵐と言うらしい。季節の分かれ目でもあり
冬と春がせめぎ合いつつまるで格闘をしているような一日のこと。
工場の仕事は順調に捗らず思うようにはいかなかった。
世間は3連休らしいけれど明日も出勤することに決める。
なんとしてもこの繁忙期を乗り越えなければいけない。
私は段取りをするばかりで何の役にも立たないけれど
義父や同僚を励ますことは出来るのではないだろうか。
娘の帰宅が遅くなる日だったので夕食の支度に奮闘していたら
昨日の今日でまた母から着信があった。
傍らから介護士さんの声が聞こえていて促されたことが分かる。
母は忙しい時間帯だとちゃんとわきまえているのだけれど
介護士さんにはそれが上手く伝わらなかったようだった。
気遣ってくれる気持ちはとても有り難いけれど
本音を言えば連日の電話は控えて欲しいと願ってしまう。
「ごめんね」と母が言った。「ありがとうね」と私は言った。
午前4時に目覚めるまで東北で大きな地震があったことを知らなかった。
宮城、福島は震度6強という11年前の大震災の記憶が蘇る。
どんなにか怖ろしかったことだろう。不安な夜となったことだろう。
避難中に亡くなられた方もいて心が痛むばかりであった。
とても他人事ではなく明日は我が身だと思う。
高知の報道でも「南海トラフ」に備えるようにとしきりに伝えていた。
ただただ恐怖心がつのる。いったいどうなってしまうのだろうか。
今日はじいちゃん(夫)70歳、母84歳の誕生日であった。
平穏な一日となりなんとありがたいことだろう。
夕方母から電話があった。例の介護士さんが促してくれたらしい。
体調は落ち着いているようだけれど腰痛は未だ完治せず
それでも声は朗らかで笑顔が見えるようであった。
じいちゃんはめいちゃんからお手紙をもらって感激していた。
「いつもじゃないけどおひるごはんつくってくれてありがとう」と
それは土曜日の昼食の事だとすぐに分かった。
優しくて素直な手紙に私もほろりと目頭が熱くなる。
「おじいちゃんの宝物」と言って夫も泣きそうな笑顔だった。
70歳という年齢は人生の大きな節目にもなるだろう。
日増しに老いを感じるようになり肉体も衰えていく。
もう70と思うのかまだ70と思うかは彼次第だろうと思う。
気弱にならず現実を受けとめつつ前を向いて突き進んでいかねばならない。
私も必ず後を追う。二人して与えられた人生を全うしたいと思う。
「南海トラフ」の大地震は後30年で80%の確率で必ず起こると言う。
どれほどの覚悟が必要なのか途方に暮れてしまうけれど
生きてさえいればと願ってやまない。
もし逃げ遅れて津波にのみ込まれてもそれが私達の宿命なのだろう。
「生きたい、生きたい」と呪文のように呟きながら
平和そのものだった一日がまるで希望のように暮れていった。
初夏のような陽気も今日までだろうか。
明日から次第に気温が下がっていくようだ。
体調を崩さないように用心しなければいけない。
ここ数日夏服の孫たちも途惑うことだろう。
娘に任せておけば良いものをついつい口を出しては叱られている。
職場は同僚の通院日で午前中は開店休業だった。
そんな日に限って来客が多く対応に追われる。
同僚は内科だとばかり思っていたら眼科だったそうで
白内障が悪化し近いうちに手術をしなければいけないとのこと。
おまけに緑内障の疑いもあるそうで一気に心配が増えた。
明後日は整形外科の通院日なのだそうでなんだか仕事どころではなく
かと言って身体が資本であり十分な治療を願ってやまない。
58歳。まだまだ働き盛りと思っていたけれど現実は厳しかった。
午後2時を過ぎてから義父の仕事を手伝う。
ワゴン車のバックドア交換は一人ではとても無理な作業であった。
女手でも少しは役に立ち重いドアを持ち上げたりと精を出す。
最終的にはフォークリフトを使いなんとかドアを交換する。
午後4時になりやっと帰路に就いていたら警察署から電話があり
お客さんが自損事故を起こし車が国道を塞いでいるとのこと。
お客さんは救急搬送され連絡の取りようもなかった。
警官は事故車の処理を依頼して来たのだった。
すぐに義父に連絡をし事故現場へ駆けつけてもらう段取りをする。
なんだか頭がパニックになりそうな出来事であった。
お客さんの怪我の状態も心配であったけれどそこまで手が回らず
なんだか後ろ髪を引かれるようにしながら家へ帰り着く。
「今日はここまで」と自分に言い聞かせていた。
出来ること。出来ないこともあるのが世の常だろう。
手を抜いたつもりはない。精一杯の一日だったと思いたい。
3月とは思えないほどの暑さとなりとうとう夏日を記録する。
季節はずれと言って良いのだろう。週間天気予報を見ていると
彼岸の入りの頃には平年並みの気温に戻るのだそうだ。
ちょうど桜(ソメイヨシノ)の開花も予想されており
「花冷え」の日もあるだろうと思われる。
寒との別れもあるのが季節のけじめなのではないだろうか。
仕事は朝のうちに郵便局へ行ったきりで他には特になし。
まるで高卒で初就職した本屋さんの頃のようであった。
後ろめたさはあったけれど店番をしながらひたすら本を読む。
来客一人のみ。電話も全く鳴らない静かな一日であった。
ふとあの頃を思い出す。本はいくらでも読み放題であったけれど
たまに所長が営業所に居る時もあってさすがに読書とはいかず
世間話をしたり時には昼食をご馳走してくれることもあった。
営業所のすぐ隣に食堂があり私はよく親子丼を食べた記憶がある。
所長は本当に気さくな人で何事にも親身になってくれた。
結果的に裏切るようなカタチで退職した事が今でも悔やまれる。
健在ならば80代の後半だろうか。顔ははっきりと憶えているけれど
再会する機会もなく悪戯に時が流れていくばかりであった。
「過去」という一言で私の人生は語りきれないけれど
一期一会があったからこそ今の私が存在しているのだと思う。
「帰りたい」と思ったことは一度もないけれど
記憶はいつまでたっても私の元から去ろうとはしないのだった。
最高気温が24℃。ほぼ夏日の気温となり
春を通り越して初夏のような陽気となった。
朝の国道沿いでは白木蓮の花が満開となっており
思わず歓声をあげて見上げたことだった。
それは大木で民家の二階建ての屋根よりも高くそびえ
まるで空から千切れた綿が舞い降りて来たかのように見えた。
職場は相変わらずの忙しさですでに4月の上旬まで予約で埋まる。
義父は田植えの準備に追われておりてんてこ舞いしていて
同僚一人では手に負えないような有り様であった。
整備士の資格などない私は何の役にも立たないけれど
せめて洗車をと思い自分に出来ることに励むことにする。
今日はそれが裏目に出てしまって失態をしでかしてしまった。
フロントガラスの内側を拭いていたら油膜がにじみ出て来る。
どうやら雑巾代わりのタオルに油脂が付いていたらしい。
ガラス拭き専用のスプレーで何度も擦ったけれど落ちないのだ。
暑さで汗びっしょりなりとうとう同僚に助けを求めた。
同僚いわく。二度手間になるので今後は洗車をしないようにと。
私の洗車は雑過ぎて任せてはおけないと言うのだった。
若い頃にはガソリンスタンドに勤め洗車はお手の物と思っていたけれど
さすがに40年以上も経つと昔取った杵柄も通用しなくなったのか。
いささかショックではあるけれど所詮役立たずの我が身であった。
2時間の残業になりぐったりと疲れて帰宅する。
洗濯物は娘が畳んでくれておりお風呂洗いはあやちゃんがしてくれる。
今週は「お手伝い週間」なのだそうだ。なんとありがたいこと。
今日は母の心配もなく落ち着いていられた一日だった。
明日のことなど誰にも分からないけれど
穏やかな春の陽射しをいっぱいに浴びたいと思う。
曇り日ではあったけれど気温が高くなりずいぶんと暖かだった。
ご近所に河津桜だろうか早咲きの桜が満開になっており
それは目を瞠るほどの美しさで心惹かれるばかり。
写真を撮りたいけれど敷地内に勝手に踏み込む訳にもいかず
憧れの眼差しでただただ愛でるばかりであった。
早朝7時前に母の施設の看護師さんから電話があり
突然の不整脈の発作で血圧が異常に下がっているとのこと。
危険な状態なので県立病院へ救急搬送する旨の連絡があった。
義父にも連絡をして救急車の後を追うように病院へ向かった。
本音を言えば今度こそ駄目かもしれないと思う。
冷静に母の死を受けとめている自分が不思議にも思えた。
それだけ覚悟が出来ている証拠でもあるのだろう。
お通夜の事、お葬式の事と考えながら仕事の事も頭から離れない。
救急外来の待合室で一時間程待機していただろうか。
処置室から微かに母の声が聞こえ幸い意識はあるようだった。
その後二時間ほどしてやっと医師からの説明を受ける。
点滴中に歌をうたっていたらしく医師も苦笑いをしていた。
発作はすぐに治まり血圧もほぼ正常に戻ったと聞く。
もう帰っても良いですよと言うので狐につままれたようだった。
助手席に母を乗せて施設のある病院へ向かった。
空腹を訴える母。腹痛はすでに治まっており食欲のある証拠である。
腰痛はまだ治まらず数年前の骨折の後遺症ではないかとの診断だった。
季節の変わり目のことで古傷が悪さをしているのだろう。
母は今日が日曜日だと知らずにいたらしく
しきりに仕事の心配をしていた。私のお弁当の心配もしてくれる。
日曜日だと伝えると「ああ、良かった」と安心したようだった。
施設の介護士さんが出迎えてくれて母を軽々と車椅子に乗せてくれる。
母はまた思い出したように昼食の心配をしていたけれど
介護士さんの笑顔に救われたようににっこりと笑顔を見せていた。
「しなちゃん、ほんと人騒がせなよ」私も頷きながら笑っていた。
今日のことは狐の悪戯だと思うことにしよう。
発作はまたいつ突然に起こるのかわからないけれど
母の生命力は私が思っている以上に強く逞しいのだと思った出来事だった。
黄砂だろうか杉花粉だろうか春霞の空。
気温は昨日よりも高くなり春らしい陽気となる。
暖かくなるとなんだか肩の力が抜けたようになり
ふにゃふにゃと崩れ落ちてしまいそうな気がする。
ここ数日気が張っていたのだろう。
今日はずいぶんとリラックス出来たようだった。
朝のうちに図書館に行き帰りに買物を済ます。
10時からカーブスで終り次第に職場に向かった。
カーブスの店長であるMコーチが来月早々に退職するとのこと。
明るくて朗らかな人だったので残念でならない。
私が通い始めて9ヶ月になるけれどもう4人目の退職者だった。
傍目には楽しそうな職場に思えるけれど苦悩もあるのだろうか。
解らないものだなと思いつつふと不信感がつのったりした。
理想的な環境は思うよりも難しいものなのかもしれない。
仕事はひたすら義父の帰りを待つ。
おかげでずいぶんと読書がはかどった。
午後4時にやっと帰って来てくれて車検終了の書類を作成する。
帰宅したら5時を過ぎており急いで夕食の支度を始めた。
娘の帰宅も遅かったのでてんやわんやの夕暮れ時であった。
義妹から鶏飯が届く。あやちゃんの大好物でとても助かる。
入浴時の暖房も不要になりずいぶんと気が楽になった。
これからはお風呂の楽しみも出来ることだろう。
まだまだ寒の戻りがあるだろうけれどそれも些細なことに思う。
私のこころはまっしぐらに春に向かっている。
最高気温が20℃にもなりすっかり春の陽気となる。
暖かさに誘われたのか先日娘が植えてくれたチューリップの芽が
一気に5センチ程まで伸びていてその生命力に驚かされる。
植物もひともみんな精一杯に生きているのだなと改めて思った。
東日本大震災から11年目の今日。やはり複雑な気持ちが込み上げて来る。
決して忘れてはいないけれどコロナ禍や戦争の悲惨さに心が奪われていく。
せめて被災地に寄り添う気持ちを大切にしなければいけない。
今日は母の施設から何も連絡がなかった。
これ幸いと思ったのは言うまでもない。きっと快方に向かっているのだろう。
頭の中は仕事のことでいっぱいですっかり余裕がなくなっている。
昨日のワクチン接種の副反応は殆ど無くほっと胸を撫で下ろしていた。
気を緩めてはいけないと肝に命じていたせいもあるだろう。
病は気からではないけれど「負けるもんか」と強く思っていた。
なんだかあれこれとまとまりのない日記になってしまったけれど
気持ちの整理をしながらのことでお許しを願いたい。
明日のことはまた明日だけれど
少しでも心に余裕が出来ることを願ってやまない。
日中は今日も春らしい陽気となった。
陽射しをいっぱいに浴びているとほっこりと優しい気持ちになる。
玄関先に植えていた葉牡丹から花芽が見え始めた。
菜の花のような黄色い花を咲かせるのだけれど
今年は種を採ってみようかと思っている。
薪時は秋だろうか。芽が出たらどんなにか嬉しいことだろう。
今日も母の施設の看護士さんから電話があった。
ちょうど県立病院から派遣された医師の診察日であったらしく
CT検査をした結果、胆石などの異常は見当たらなかったとのこと。
単なる胃腸炎だと思われるという診断だったそうだ。
ただ感染性の胃腸炎の疑いもあるので母は個室に移されたとのこと。
救急搬送される心配は無くなったのだけれど
腰痛と腹痛が重なったことになんとなく疑問を感じずにいられない。
明日もおそらく電話があるだろう。少しでも快方に向かうことを願っている。
私達夫婦は3回目のコロナワクチン接種日であった。
私は職場から接種会場に向かう予定だったけれど
特に急ぎの仕事も無かったので早めに帰宅して一緒に出掛ける。
副反応の不安もあり気がすすまなかったけれど
「人並みに」とじいちゃんが言うので観念するしかなかった。
決して無敵のワクチンではないけれど備えにはなるのだろう。
市内の感染者も増えておりまるで「賭け」のような接種であった。
今のところ副反応らしき症状は出ておらず
こうしていつものように平穏な夜を過ごしている。
明日は何があっても仕事に行かねばならないので
気を引き締めたまま眠りに就こうと思っている。
明日の風は春風だろうか。どうか優しい風でありますように。
春うらら。日中はずいぶんと暖かくなる。
白木蓮の蕾がふっくらとふくらむ。
今日よりも明日と純白の花を咲かせることだろう。
母の施設から今日も電話があり今度は腹痛とのこと。
食事も摂れなくなり点滴を始める旨の連絡があった。
正直言って何が何なのか訳が分からず途惑うばかりである。
医師にも原因が分からないとのことであまりに酷くなれば
県立病院へ救急搬送されるかもしれない。
電話が鳴るたびに病院からではないかとびくびくしている。
私が薄情である証拠に母に振り回されたくはないと言う気持ちが大きい。
やはり世間一般の母娘とは違うのだろうと思う。
少女期に受けた傷が未だに尾を引いているのかもしれない。
あれこれと考えていると自己嫌悪になってしまいそうだった。
人並みに娘らしくありたいけれど本心は醜く歪んでいるようだ。
かと言って心配は尽きない。大事に至らない事を祈ってもいる。
とても複雑な気持ちではあるけれどこれも試練なのだろうか。
もし真夜中に電話があれば義父に任せるべきだとじいちゃんが言う。
その言葉に救われたような気持ちになった。
やはりささやかな距離が必要なのだろう。まるで第三者であるかのように。
血の繋がった娘ではあるけれど家族ではないのだと思っている。
家族だったのは遠い昔のことで母はあくまでも去った人に他ならない。
心を鬼にするのはとても切ないけれど
まさに鬼が宿っているかのように私の心は厳しく彷徨い続けている。
雲ひとつない晴天。降り注ぐ陽射しは春そのものであった。
明日は今日よりも暖かくなるとのこと楽しみなことだ。
まだまだ寒の戻りがあるだろうけれど些細なことに思う。
それはまるで春の器に冬の欠片を落とすようなものなのだろう。
母の施設から連絡があり骨折の心配はないとのこと。
しばらく安静にして様子見をすることになった。
介護士さんが湿布を貼ってくれ有り難いことだと思う。
今まで以上にお世話をかけるけれど頼るしかないのだった。
面会も叶わず手も足も出せないのがもどかしくもある。
それにしても昨日の昼食時までは元気溌剌だったとのこと。
その後に転倒もしておらずいったい母に何があったのだろう。
職場は相変わらずの忙しさであったけれど定時で帰路に就く。
同僚も通院日で早退を申し出ていた。
焦っても仕方ないことでこんな日もあってよしと思う。
帰宅してからも電話が鳴り続け対応に追われていた。
職場の電話は常に転送にしてありすべて私の携帯に繋がっているのだった。
殆どのお客さんの番号を登録してあるのでとても便利でもある。
たまに「はいは〜い」と出てしまう時もありそれも愛嬌かと。
相手が名乗る前にすでに顔が浮かんでいるのである。
そんなわけで仕事尽くしの一日が暮れていく。
夕食後に暮れなずむ空を見上げつつ達成感に浸るのが常であった。
母のことも案ずるより産むが易しかもしれない。
優先順位を考えればどうしても仕事に重点を置かざるを得ない。
明日はあしたの風が吹くだろうといつも思いながら眠りに就く。
曇り日。日中の気温も上がらず冬の名残りとなる。
それでも確実に春は訪れているようで
今日は職場の近くに沈丁花の花を見つけて嬉しかった。
明日から週末にかけて春らしい陽気になるとのこと。
冬の背中をそっと押してあげなければいけない。
仕事が忙しく一時間程の残業となった。
今日は私も工場の仕事を手伝い洗車をしたりする。
工場には洗車機が無く手洗いなのだけれど
変わり仕事をしたせいかぐったりと疲れて帰宅した。
夕方、母がお世話になっている病院内の施設から電話があり
母が腰痛を訴えておりベッドから降りることも出来ないとのこと。
車椅子への移動も叶わず今は寝たきり状態と聞き驚く。
原因が分からず介護士さん達も途惑っている様子だった。
病院には整形外科がないけれどレントゲンは撮れるので
明日にでも出来る範囲で原因を調べてみてくれることになった。
骨折にしても原因があるはずだけれど母も心当たりがないのだそうだ。
つい先日、お雛祭りの楽しそうな母の姿を見たばかりで
なんだか信じられず寝耳に水のような出来事であった。
大事に至らなければ良いがとただただ祈るばかりである。
一気に心の余裕が薄れていくのを感じている。
「いっぱいいっぱい」なのだ。その上に母の心配が追いかぶさって来る。
いくら薄情な娘だと言え「知らない」とどうして言えるだろうか。
これも試練なのだろうと受け止めることにした。
「神のみが知る」そんな信仰心もないけれど神に縋りたい気持ちだった。
だいじょうぶ。きっとなんとかなるだろう。
冬の背にそっと息を吹きかけて別れ道まで見送っていく
今朝の高知新聞の「高新文芸」に私の短歌が一席に選ばれていた。
すでに落選慣れしており今朝も落選と思い込んでいただけに
あまりにも思いがけず胸に熱いものが込み上げて来た。
認められたと思っても良いのだろうか。いやそれは違うだろう。
まだまだ精進しなければいけない一歩なのではないだろうか。
新聞を見たと言って小学生時代の恩師からメールを頂く。
4年生の時の担任で先生は大学を出たばかりの新任教師であった。
半世紀以上の歳月が流れているけれど今もその縁が続いている。
先生にとって私はとても印象深い生徒だったそうだ。
国語の授業になると真っ先に私を指名し教科書を読ませる。
それが頻繁になりとうとう「贔屓している」と陰口を叩かれるようになった。
私も辛かったけれど先生はもっと辛かっただろうと思う。
あまりの攻撃に耐えきれず先生は教壇でおいおいと泣いたこともあった。
その時のなんとも居たたまれなかった気持ちは今でも鮮明に憶えている。
転校生だった私と新任教師だった先生との間に絆のようなものが芽生えた。
数年前に山里で同窓会があった時、先生ははるばる訪ねて来てくれたそうだ。
私は出席しておらず後になりずいぶんと悔やまれたことだった。
友達が写真を届けてくれ昔の面影を残したままの先生の笑顔に会えた。
70代とは思えない若々しさで凛とした美しさがあった。
「これからもずっと高新文芸を楽しみにしているから」と言ってくれる。
私の名を探し続けていてくれたのだろう。ほんとうに有難いことだった。
短歌も詩も自信はなくただ認められたい「欲」ばかりが先走る。
その欲に善悪を決めつけるにはあまりにも未熟な私であった。
ただ励みに思い救われたような安堵感で満ちた一日となった。
二十四節気の「啓蟄」冬ごもりをしていた虫たちが目覚める頃。
けれども虫に限らずあらゆる生物に当てはまるのだそうだ。
命あるものすべてとなると草や木、そして人間も同じなのだろう。
冬の間ふさいでいた心が生き生きとしてくるのかもしれない。
朝のうちに買物を済ませておきカーブスへ。
開店間際の混雑を予想していたけれど思いがけずに空いていた。
今日は計測があり確実に成果が表れているようだった。
何よりも左足の痛みがずいぶんと楽になって来ている。
それは筋肉量が増えている証拠であるらしい。
始めたのは昨年の6月だったからもう9ヶ月目になるのか。
体重は10キロ減。ウエストは3センチ減であった。
私は少女時代からの下半身デブで「桜島大根」と呼ばれていた。
そのあだ名を付けてくれた友人もかなり太っていたけれど
私は彼女にあだ名をつけることをしなかった。
体型に繋がるあだ名はやはり相手を傷つけることになる。
桜島大根と呼ばれてにこにこすることで良き友人関係を保てたのだと思う。
その頃の私の上半身はひどく貧弱でバストは78センチしかなかった。
ウエストは58センチ。足さえ太くなければかなりスリムだったのだ。
それが今はどうだろう。バストはずいぶんと豊かになり
入浴時には持ち上げてみたりして優越感に浸っている有り様である。
今の体重はちょうど出産後の体重と同じになっている。
あと4キロ減量できれば目標達成となることだろう。
それで何かが変わるわけでもないけれど挑戦してみたい気持ちが大きい。
この年になり努力することも張り合いになるのではないだろうか。
炭水化物を控えている為たまに白米のおにぎりが食べたくなる。
海苔など要らない塩だけのおにぎりにかぶりついてみたいのだ。
晴れのち曇り。陽射しのない午後は少し肌寒かった。
裸木ばかりだった山里に柳の新芽が出て来る。
若い緑がしなやかに風に揺れるのを見ていると心が浮き立つようだ。
たくさんある木々のなかで柳はいち早く春を知らせてくれることを知る。
今朝はけい君を学校へ送って行ったじいちゃんが
遠足であることを知らせてくれたけれどお弁当が気になってしょうがない。
そうしたら「お母さんが作ってくれた」と嬉しそうに言ったそうだ。
お嫁さんの体調が落ち着いているようでほっと胸を撫で下ろす。
けい君が不憫でならないといつも心配ばかりしているけれど
お嫁さんも精一杯に努力しているのだと思う。
無理をさせてしまったのかもしれないけれど
けい君の笑顔に救われたのではないだろうか。
日暮れ間近のこと某SNSに母のお雛祭りの様子が発信されていた。
施設のある病院のアカウントで先日からフォローさせてもらっている。
まさかこんなかたちで母に会えるとは思ってもいなかった。
職員の皆さんの計らいにはひたすら感謝しかない。
女雛に扮した母の楽しそうな笑顔に思わず目頭が熱くなった。
コロナ禍で面会が叶わないけれど諦めてはいけないのだと思う。
今後もきっと笑顔の母に会えることだろう。楽しみでならない。
昼間には母の旧知の友人から電話があった。
母の携帯電話の番号を教えたけれど無事に繋がっただろうか。
確かめてはいないけれど笑顔で語り合う母が目に浮かんで来る。
私は薄情な娘を貫きながらも母とのささやかな距離を保っている。
「お雛まつり」桃の節句でもある。
我が家は一昨年からお雛様を飾らずにいるけれど
孫たちに乞われることもなくそれを都合よく受けとめている。
床の間のある日本間はもはや物置部屋と化しており
とてもお雛様を飾るようなスペースはなかった。
おまけに40年前の娘の初節句のもので
孫たちには新しいお雛様を買ってあげられなかったのだ。
それでも孫たちの健やかな成長を願わずにはいられず
せめてもと思いショートケーキを買って帰る。
娘と孫たちにと3個だけで私は我慢することにした。
一足遅く帰って来た娘が冷倉庫を開けて「おお!」と声をあげる。
娘もショートケーキを買って来たのだそうだ。
4個買って来たと言うので思わず「おばあちゃんも女の子だもんね」と
単純な私は嬉しくにっこりと微笑んだのは言うまでもない。
しかしそれは大きな勘違いだったと後になり知った。
娘はあくまでも家族4人で食べようと思い買って来たのだそうだ。
7個もあるのだから食べればいいじゃんとそっけなく言う。
私はその時女の意地に目覚めた。絶対に食べるものかと思った。
食べ物の恨みは大きいと言うけれどそういう次元のことではなく
娘と孫たちにと思って買ったケーキが憐れでならないのだった。
なんだかその心遣いがないがしろにされたようで悲しくなる。
たかがケーキ。されどケーキであろうか。
偶然の事だと言えケーキには罪はないだろう。
あやちゃんが「おばあちゃん明日も食べるけん」と言ってくれる。
ほんとうに優しい子に育ってくれたものだ。
春うらら。優しい陽射しが降り注ぐ穏やかな一日。
まだまだ寒の戻りがあるだろうけれどその時はその時。
少し冬と語り合うのも良いのかもしれない。
名残惜しさをそのままに彼にも伝えたいことがあるだろう。
頷いてあげなければいけない。思い残すことなどないように。
定時で仕事が終われたので図書館へ走る。
また裏の書庫から古い本を借りて来た。
どうしても裏の書庫には立入禁止なのだそうだ。
掘り出し物の本が眠っていると思えば歯がゆくてならない。
「規則ですので」と言われても何の為の規則なのかわからない。
職員さんとはすっかり顔馴染みになったけれど
「また裏の人が来た」と思われていることだろう。
帰宅したらあやちゃんがピアノ教室に行くところだった。
「おばあちゃん行って来ます」と言ってくれてとても嬉しかった。
ずっと反抗期だったのが最近はずいぶんと素直になった気がする。
あと2ヵ月もすれば10歳になる。なんだかあっという間の歳月だった。
地区の中学校が今年で閉校になるとのこと。
生徒数が著しく減少しもう限界になったらしい。
あやちゃんが中学生になる頃には市内のマンモス校に通うことになる。
県立と市立がありあやちゃんはどちらを選ぶのだろう。
まだまだ先のことと思うけれど3年なんてあっという間ではないだろうか。
孫たちの成長は私達老夫婦にとって大きな励みでもある。
長生きをして見届けたい気持ちは生きる糧にもなり得る。
未来あってこその人生なのだ。その未来に賭けてみたいと思う。
恵みの雨。春を告げるような優しい雨であった。
梅の花もしっとりと濡れより一層の風情である。
花に限らず植物たちはどんなにか雨を待ちわびていたことか。
そうして弥生三月の扉が開かれていく。
冬の背はせつなく少し肩を落としているようにも見える。
春の胸は希望でふくらみ夢を見ることを許されたようだ。
公立高校の卒業式。私達の頃から変わらない3月1日。
もう47年の歳月が流れたようだ。
いったい自分はどうなってしまうのだろうかと不安でならなかった。
私は妊娠7ヶ月に差し掛かろうとしていた。
お腹の子はそれは元気に動き回っていたのだった。
母乳がにじみ出るようになっていて制服の胸を濡らしていた。
本来なら卒業式どころではなかったのだろう。
思い出してはいけないことなのかもしれないけれど
どうして忘れ去ることが出来ようか。
どんなにか生まれたかったことだろう。
まさか母親に殺されるとは夢にも思っていなかっただろう。
なんの供養もしてあげれなかった母を永遠に憎んで欲しいとさえ思う。
今が幸せであればあるほど心が痛んでならないのであった。
誰にでも過ちはある。取り返しのつかない罪もある。
人生に「卒業」があるのだとすればそれは「死」に他ならない。
過去の罪を墓場にまで持って行く覚悟は出来ている。
肉体は消滅しても魂は永遠に生き続けるのだろうか。
「天国」に辿り着く前に私は罪を償わなければいけない。
地獄の閻魔様に泣き縋って赦しを乞うことだろう。
そうしてあの子の魂を捜す。きっと見つけて抱きしめてあげたい。
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