ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2022年01月31日(月) 初晦日

早いもので一月も最終日。「初晦日」と言うらしい。

冬晴れの一日となりたっぷりの陽射しが降り注いでいた。

職場の紅梅が咲き始める。まだ一輪だけれどささやかな春。

今日よりも明日と次々に花を咲かせることだろう。



本の虫が治まらずお昼休みと帰宅後に貪るように読んでいた。

津村節子の「流星雨」で明治初期に会津戊辰戦争を生き抜いた主人公。

「あき」はどうやら実在した女性らしかった。

戦禍から逃れ下北半島で飢餓に耐え忍んでいたところを

函館に奉公口が決まり初めての北海道へと向かうのだった。


父と兄二人は戦死し逃亡中に祖母を亡くし下北半島で祖父を亡くす。

母と妹、残された女ばかりで恐山に行くのだけれど

まるでその光景が目に浮かぶように表現されていた。

そこまで読んだ時に私は「賽の河原」に行ってみたいと強く思う。

そうすれば私の過去の罪も赦されるような気がしたのだった。

「あの子」に会いたい。あの子の魂を声をからして呼んでみたい。



あきは母と妹を下北半島に残し単独で函館に向かった。

奉公先の待遇の良さに残して来た妹が不憫でならない。

姉が妹を思う気持ちが痛いほどに伝わって来る。



ラストまでもう少しだったけれど今日はここまでだった。

明日はなんとしても一気に読み終えたいと思っている。



「あの子」には名前もつけてあげられなかった。

賽の河原で叫ぶときなんと呼べば良いのだろうか。



2022年01月30日(日) 一期一会

今日も曇り日。肌寒く陽射しのありがたさをつくづく感じる。

地区では野焼きがあり我が家からは炎は見えなかったけれど

白煙が狼煙のように漂い灰色の空に吸いこまれていた。

毎年立春前に行われていて春の訪れが近い事を知らせてくれる。



朝から読書に夢中になり家事も最低限のことだけ。

お大師堂にも足を向けず疎かにすることばかりだった。


初めてお大師堂にお参りに行ったのは2008年のこと。

亡きあんずとの散歩道でもありふと立ち寄ってみたのだった。

その時偶然にお遍路さんに会ってしばし語らったことを憶えている。

その時の事を手帳に記しており岡山市の石原布美子さん69歳とある。

ちょうど母と同い年であり親近感も増したのであろう。

石原さんは「歩ける限り歩きたい」と言っていたのだった。

少し心細そうではあったけれどなんと勇気のある人だろうと思った。


当時の私は弱音ばかり。体調も優れず死ぬことばかり考えていた。

「死」は恐怖そのものであり不安でならなかったのだろう。

いつも「明日死ぬかも」そんなことばかり考えていた。


石原さんはそんな私に希望を与えてくれたのだと思う。

翌日から私は毎夕お大師堂に足を向けたのは言うまでもない。

石原さんとの出会いが私の「一期一会」になったのだった。


その後石原さんに会うことは叶わず14年の歳月が流れた。

ご健在に過ごされているだろうかと気遣う気持ちが大きい。


14年の間に出会ったお遍路さんは数多く

すべて手帳に記してある。それは私の宝物でもあった。

職業遍路さんが多く何度も再会を果たせた例もあるけれど

今生に一度きりの出会いもありそれも思い出となっていく。


ここ最近はお参りを疎かにしており心苦しさも確かにある。

今日なども本を閉じてしまえば行けたはずと悔やまれてならない。

これではまるで自ずから縁を避けているとしか思えないのだ、


人は出会うべきして出会うものだと思っているけれど

私はいったい何から遠ざかっているのだろうと思う時がよくある。



2022年01月29日(土) みか姉

晴れの予報だったけれど陽射しは届かず。

夕陽も見られないまま日が暮れていった。


桜草の花がぼつぼつと咲き始める。

我が家の右隣のお宅は「花屋敷」でそれは沢山の花を育てている。

奥さんは花の事なら何でも知っている「花博士」であった。


「ますみ」という名の奥さんで「ますみ姉さん」と呼んでいるのだけれど

ご近所の年上の奥さんはみな「姉さん」と呼ぶのが常であった。

私も年下の奥さんから「みか姉」と呼ばれている。

なんだかくすぐったいような嬉しさを感じることが多い。

田舎の風習と言うのだろうかとても親しみを感じるのだった。

もうかなりのご高齢の奥さんでも「姉さん」なのである。

「おばあちゃん」などと言ったら失礼に当たるだろう。


昔嫁いだばかりの頃従兄弟の奥さんを「すみ姉」と呼んで

姑さんに酷く叱られた事が忘れられない。

まだ新米なのだから「すみ姉さん」と呼ぶようにと言われた。

けれども皆がそう呼んでいるのに私だけどうしてと思った。

いきなり呼び方を変えろと言われても急には変えられないものだ。

その後も私はずっと「すみ姉」と呼び続けている。

すみ姉もそのほうが嬉しそうだった。姉さんよりもずっと親しみがある。


私も未だ一度たりとも「みか姉さん」と呼ばれたことはない。

「みか姉」と呼ばれたほうが心地よくてずっと嬉しいのだ。

今日も洗濯物を取り入れていたらお向かいの奥さんが

「みか姉、乾いちょる?」と声をかけてくれた。

「うん、ばっちし乾いちょるよ」と言ったら

「今朝みか姉が干しちょったけん私も急いで干したがよ」と笑った。


それからお向かいのご主人に久しぶりに会って

「みか姉元気やったか?」そんな気遣いも嬉しくてならなかった。


みか姉は70歳になっても80歳になってもみか姉でいられる。

それがなんだか励みのように思えて長生きをしようと思った。


みか姉の夜は短い。まだ8時前なのにもう眠くなった。



2022年01月28日(金) 甘い珈琲

久しぶりの快晴。日中は春のような暖かさとなる。

陽射しを浴びているとまるで猫のような気分であった。

陽だまりで「にゃおん」と鳴けば誰かが気づいてくれるだろうか。



今日は午後から損害保険のオンライン試験に臨む。

「損害保険募集人」の資格を取ってから20年以上になるけれど

5年ごとに更新があり今年がその年になっていた。

本来ならば高知市の試験会場まで行かなければならないのだけれど

コロナ禍のため各自の職場で受験出来るようになっている。


5年前に受験した時にはもうこれで最後だと思っていた。

まさかまた更新が来るとは夢にも思っていなかったのだ。


20年前の試験の時には父が高知駅まで迎えに来てくれた。

父に会うのは25年ぶりのことで胸が熱くなるほど懐かしかった。

それなのに私は父に借金の催促をしてしまったのだった。

昔の事をほじくりかえすようななんと愚かな事をと悔やまれる。

その当時父は同居していた元同僚に全財産を持ち逃げされ

大変な苦境に晒されていた。その同僚はとうとう行方不明となる。

父は心労が重なり食物も喉を通らなくなり酷くやつれていたのだった。


心配した弟からの連絡で私はその日父との再会を決めた。

ちょうど父の誕生日であり少しでも励みになればと思っていたはず。

父は一万円札を財布から出すと「後は必ず返すから」と言った。

私は父を気遣うこともせず喜んでそれを受け取ったのだった。


試験が始まる時間まで一時間程あっただろうか二人で喫茶店に入った。

父は甘い珈琲が好きで「うんと砂糖を入れてくれや」と言い

確か3杯ほどの砂糖を入れてあげたことを憶えている。


試験が終わるまで駐車場で待っていてくれた。

「どうだ?出来たか?」と少し心配そうな顔をして気遣ってくれる。

「まあまあかな」と応えたら「きっと受かるぞ」と励ましてくれた。


3日後には合否発表があり父から電話がかかってきた。

「合格したよ」と言ったら「それは良かった」と大喜びしてくれた。


父の声を聴いたのはそれが最後になってしまった。

再会から9日目。父は急逝する。

一昼夜誰にも発見されないなんとも憐れな孤独死であった。





2022年01月27日(木) 備えあれば憂いなし

冬晴れの予報に反して曇り空となる。

気温は3月並みだったようだけれどずいぶんと肌寒く感じた。

まるで桜の季節の花冷えのようでもあった。


四万十市入田の河川敷に菜の花がぽつぽつと咲き始めたらしい。

病院のすぐ近くなので来月の通院日に行ってみようと思っている。

立春も近くなり早春の景色を愛でるのもきっと良いものだろう。



職場にJA共済の係の女性が訪ねて来てくれて

我が家の建物共済を見直すことにした。

地震の場合は保険金は半額になるとのこと。

今のままでは家を建て直すことも出来そうにない。

思い切ってこれまでの倍にし家財道具の保険も加入することにした。

総額で3千万。半額でも千5百万の保険金がおりることになる。

それだけあれば十分ではないかと思われるのだけれど

問題は月々の掛け金であり貧乏所帯には大きな負担となるのだった。

けれどもいざと言う時の事を考えると背に腹は代えられない。

命は守れても家を失い家族が路頭に迷うことはあってはならないのだ。


先日の地震から危機感は増すばかりでこれは早急を要する。

少し迷ったけれど2月1日に契約をすることになった。

あと数日、どうか大地震が来ない事をひたすら祈ることしか出来ない。


安心を買う。様々なリスクに備える。それが保険であり共済である。

一人一人の保険料が被災者を救うことを忘れてはならない。


備えあれば憂いなし。つくづくとそう思った1日だった。



2022年01月26日(水) 脱線

三寒四温の「温」の日。日中は3月並みの暖かさとなる。

朝の道を行けば民家の庭先に白梅がこぼれるように咲いていた。



昨夜は「白湯」と思い込んでいたのがただのお湯とわかり

そのお湯なるものを今日も3杯ほど飲んだ。

これがぬるま湯だったらそうそう飲みたくもないだろう。

果たしてめいさんの飲んでいる「白湯」なるものが

本当の白湯なのかただのお湯なのかは知る由もない。


夜は焼酎と決まっており毎晩ほろ酔って寝るのが常である。

飲み過ぎることは殆ど無く毎晩3杯と決めている。

真冬でも水割りでお風呂上がりには格別であった。

そうして飲みながらこの日記を書いているものだから

時おり脱線もするしとんでもないことを書き殴る時もある。

よくもまあ20年も書き続けてきたものだと我ながら感心するけれど

45歳だった私が65歳になりそれは「人生」そのものかもしれない。


最近よく思うのは大地震が来て津波で家を失うこと。

もしノートに書き綴った日記なら流失は免れないだろうと思う。

ここはどうだろう。いつサービスが終了するかは分からないけれど

バックアップ機能がありパソコンには保存できるようだった。

けれどもそれほどの価値もなくただの執着に過ぎないのかもしれない。


こうなったら潔く消滅するか。今ふっと投げ遣りになっている。


焼酎も最後の3杯目。今夜もいささかの脱線が見られたようだ。





2022年01月25日(火) 白湯

目覚めた時には霧雨が降っていた。

今日もすっきりとしない空模様となり夕方になり夕陽が見える。




コーヒーが好きで多い時には一日に5杯は飲んでいる。

朝のうちに3杯。職場で2杯と言ったところだろうか。

さすがに飲み過ぎだと自覚しており合間に白湯を飲むことが多い。

コーヒーを飲み終わった後や昼食時にも白湯を飲む。

飲み慣れるとお茶よりも美味しく感じるのは不思議なことである。

白湯が特に身体に良いとは思えないけれど冬場は身体が温まる。

熱々の白湯が胃に沁み込むように流れ込む感覚が好きなのだ。

「入っているな」と思う。どうやら心にも胃があるらしい。


昨日のこと某SNSで親愛なる詩人のめいさん(白井明大さん)が

「白湯で一服しているところ」と呟いていてなんだかとても嬉しかった。

詩人仲間としては永遠に認められることはないけれど

白湯仲間なのだなと思った。一緒なんだなと思った。

偶然にもその時私も白湯を飲んでいたから尚更のことである。


私はそれくらい単純に出来ている。いわゆる単細胞なのだ。

だからいつまでたっても「詩人」にはなれない。

そんな私の愚かさを一番知っているのがめいさんだとさえ思う。


認められたい欲はもうすっかり薄れた。

それでももしかしたらと思う希望は捨てきれずにいる。


無色透明の白湯のように生きられたらどんなに良いだろうか。



※書き終わってから白湯について調べてみたら

水が沸騰してから50℃程まで冷ましたものが白湯なのだそうです。

だから私が飲んでいたのはただの「お湯」だったようです。

またその白湯は身体にも効用があるとのことです。

すでに書いてしまったので記事の訂正はしませんが

無知無学な私をお許し下さいませ。









2022年01月24日(月) 損して得取れ

曇り日。夕方には西の空だけ晴れて夕陽が見られた。

明日は朝からきっと青空になるだろう。


また新しい一週間が始まる。すくっと前を向きながらも

毎日がスローライフならどんなに良いだろうかと思った。

出勤までの時間はとても慌ただしく気忙しくてならない。



職場は朝から来客が多く活気に満ちていた。

そうなると私も仕事の虫が動き出し自然と笑顔になるのだった。


昨年秋に新車を購入してくれたお客さんのバックドアに大きなへこみ。

お客さんは高齢者で誤って何処かにぶつけてしまったらしい。

修理をすればお金がかかるだろうとすでに諦めている様子だった。

それを社長である義父がわずか30分程で修復したのには驚く。

へこみは殆ど目立たなくなり完璧な職人技であった。

「お金はいいよ」と義父。私もそう言うだろうと思っていた。

義父は日頃からサービス仕事が多く手間を惜しまない人であった。


その後、懇意にしている建設会社の社長さんが珍しい機械を持って来る。

工事現場で使う機械らしくエンジンがかからなくなったらしい。

格闘すること二時間程だったろうか、大きなエンジン音が工場に響く。

それはさすがに少しくらい請求しても良いのではと思ったのだけれど

「また飲みに行こうや」と義父は笑いながら告げるのだった。


商売には「損して得取れ」という諺がある。

労力を惜しまず多少の損をしてもそれは必ず倍になって返って来るらしい。

常連のお客さんなら尚更のことで奉仕は当然の事なのだろう。


母が現役だった頃はそれが理解できず義父との確執も大きかったようだ。

私は大いに理解できる。いくらでも損をしようとさえ思える。

何よりもお客さんの笑顔が「得」に思えてならないのだった。


商売は面白い。つくづくそう思った一日だった。











2022年01月23日(日) 慈雨

静かに優しい雨の一日。まるで春先の雨のようであった。

ずっと空気が乾燥していた日が続いていたので

「慈雨」と言うべきなのかもしれない。

四万十川にかかる沈下橋も橋桁が剥き出しになっていたようで

川の水量が著しく減少している証であった。

菜種梅雨にはまだまだ早いけれど程よい雨が必要なのだろう。



伯母の49日の法要が菩提寺でありじいちゃんが出掛ける。

コロナ禍の事で最小限の人数で執り行うとのこと。

お葬式にも参列できなかった私は伯母の遺影にさえ会うことが叶わず。

帰宅したじいちゃんに聞けば孫やひ孫達の姿もなかったそうだ。


49日になると魂は三途の川を渡るのだと言う。

川船で釣りに行くのが好きだった伯父が迎えに来ていただろうか。

そうして天国で穏やかに暮らせるのならもう言う事は何もない。


私は輪廻転生を信じていて魂は必ず生まれ変わると思っている。

ソウルメイト。ツインソウル。今はもう死語に等しいかもしれない。

けれども切っても切れない縁は必ずあるのだと信じてやまない。

「赤い糸で結ばれていた」という表現もあるように

ひとは出会うべきものとして出会うものなのではないだろうか。


そんなことを考えていると「死」は決して怖ろしいことではなく

魂は浄化され再び生を受ける望みも無いとは言い切れないだろう。

けれども死ぬのはやはり怖くてならない。そんな矛盾を抱えつつ

せめて与えられた命を全うしようと躍起にならざるを得ない。


脚光を浴びるわけでもなくひたすら地味な道をこつこつと進む。

「死んだら何も残りはしない」とある亡き作家の言葉にあるけれど

その作家は今でも脚光を浴びていることを知っているのだろうか。


私もずいぶんと老いぼれて来たけれど

枯野の尾花にも降り注ぐ雨があった。





2022年01月22日(土) 不安よりも希望を

晴れのち曇り。明日は雨になるらしい。

一雨ごとに春に向かうような優しい雨であることを願っている。


昨夜は深夜に豊後水道を震源地とする地震があった。

熟睡していたのをケイタイの地震アラートで飛び起きる。

その後すぐに揺れが襲って来たけれどかなりの横揺れで怖ろしかった。

二階では娘婿が叫び声をあげていて娘が子供達を庇っていたようだ。

四万十市では震度5弱。大分や宮崎では震度5強だったとのこと。

南海トラフとの関連性も考えられ大きな不安となってしまった。


幸い被害はなく夜が明ければ何事も無かったように平和であった。

余震が7回程あったらしいが身に感じない程の弱いものだった。



ちょうど今読んでいる本が津村節子の「三陸の海」であり

東日本大震災で津波に襲われた岩手県の田野畑村の事を書いてある。

偶然ではあるけれどもしも大地震が襲って来たらと考えずにはいられない。

津波は避けられないだろう。家も失ってしまうかもしれない。

命だけはなんとしても守らなければいけないとひたすらに強く思う。

それは今夜かもしれないし明日かもしれないことだった。

そんな大きな不安に立ち向かっていかなければいけないのだろう。


田野畑村は奇跡的な復興を成し遂げ今は観光地として栄えているらしい。

その様子を田野畑村役場のホームページで見たのは昨日のこと。

どれほど大きな打撃と悲痛を味わった事だろうと思う。


ひとはみな弱いけれど希望さえあれば強くなれるのではないだろうか。


明日は我が身と思いつつ今日の平穏無事をかみしめていた。



2022年01月21日(金) 母の椿

氷点下の朝が続いている。

山里は平野部よりも気温が低く8時半にマイナス3℃だった。

事務所のエアコンを28℃に設定してもお昼にやっと20℃。

同僚は暖房器具など無い工場でどんなにか寒かったことだろう。


そんな寒さのなか庭の椿の花が一輪だけ咲いていた。

傍らには蕾がたくさんありまるで希望のようにふくらんでいる。

椿の花は咲き終わるとぽとんと落ちてしまうので

縁起が悪いようにも言われるけれど私は好きだなと思う。

34年前に私が勤め始めた頃からあった椿の木なので

きっと若かりし頃の母が植えていたのだろうと思われる。

母も椿が好きだったのだろう。私達はやはり似ているのかもしれない。


17歳で父と結婚した母はずっと官舎住まいだった。

平屋だったけれど猫の額ほどの庭しかなかったと記憶している。

物干し台を置くだけで精一杯で植物を植えていた記憶はない。

当時は樹木を植えるなどとんでもない事だったのだろう。

ましていつ転勤になるか分からない。家はあくまでも借家であった。


そんな母が義父と再婚して広い庭を手に入れたのだ。

やまももの木。ねむの木。芙蓉の木。紫式部の木。梅の木。

そうして椿の木とどれほど嬉しかったことだろうと思われる。

私は20歳になって初めてそんな母の事を知ったのだった。


数年前の入退院を繰り返していた頃には樹木を我が子のように気遣い

誰も手入れをする者が居ない事を嘆いていたこともあった。


私は敢えて何もしなかった。忙しくてそれどころではないのは言い訳。

ただ花が咲けば母を想う。母の花なのだなと愛しく思って来た。


椿の木も周りは枯草に覆われているけれど

「今年も咲いたよ」と知らせてくれる母の声のようでもあった。









2022年01月20日(木) 春は遠からず

二十四節気の「大寒」一年で最も寒い頃となる。

けれども三寒四温のたのしみもあり

「ふきのとう」の咲く頃でもあるらしい。

日も次第に長くなり陽射しにも恵まれることだろう。

春は遠からずである。希望を持って歩んで行かなければいけない。



仕事が大忙しだった一日。お昼休みも無く走り回っていた。

速達郵便を出しに郵便局に行ったら局長さんが応対してくれて

優しい労いの言葉をかけてくれて嬉しかった。

「僕もまだお昼ご飯食べていないよ」と二人で笑い合った。

山里の郵便局は人情味に溢れていて行く度にこころが和む。


それにしても今日は疲れたなと帰宅したら

娘が休みだったらしく洗濯物をたたんでくれていた。

そんなささやかなことが私の幸せなのだろう。

肩の力がすうっと抜ける。ふにゃふにゃのクラゲみたいになる。



今夜は孫たちのダンス教室の日なのだけれど

めいちゃんは気がすすまないのかお休みをした。

晩ご飯もまだ食べたくないと言って独りで部屋に閉じこもっている。

あやちゃんのような反抗期ではないと思うのだけれど

気になってしょうがなく何度も様子を見に行くばかり。

後30分もすれば娘たちが帰って来るだろう。

どうかしっかりと晩ご飯を食べてくれますように。


なるべく干渉をしないように心掛けているけれど

老婆心というものだろうか。お節介が度を過ぎる時もある。


それだけ愛しい存在なのだろう。無視などどうして出来ようか。

近すぎてもいけない。遠すぎてもいけない。

ちょうど良い距離というものは難しいものだなとつくづく思う。



2022年01月19日(水) 夢で会いましょう

今朝は今季一番の冷え込みだったようだ。

明日は「大寒」その山を越えればとひたすら思っている。

一歩一歩確実に春に向かっているのだろう。

土佐清水市ではもう白梅の花が咲き始めているらしい。



今日は母を腎臓専門の病院へ連れて行く予定だったけれど

ここ数日のコロナ拡大を受けて延期することになった。

施設側も外出を避けたいとのこと尤もなことだと思う。

心臓の上に今度は腎臓。母が憐れでならない。

最悪の場合は人工透析をしなければいけないそうで

もしそうなれば施設も転居しなければいけなくなる。

それだけは避けたいと思っていたのだけれど

ケアマネさんからは「命を優先するべき」と言われている。

とりあえず延期になったとは言え深刻な事態には変わりない。


あっけらかんとしている母は何も知らなかった様子で

先日電話で話したら寝耳に水のごとくで「嘘でしょ」と言う。

施設からも主治医からも腎臓の「じ」の字も聞いたことがないと。

それは私も意外であった。真っ先に母に伝えるべきではないかと思う。

認知症ならともかくとして母はまだ聞き分けることが出来るのだ。

いきなり人工透析と告げるほうがよほど酷なことに思える。



母との面会はしばらく叶わなくなったけれど

私の夢にはよく現れて一緒に仕事をしている。

遠い昔の母に遡ることはなくほんの数年前の母の姿であった。

私達は夢の中でも言い争い喧嘩ばかりしている。

母が私の仕事の邪魔をして困らせてくれるのだった。

いつぞやはあまりに腹が立ち母を突き倒したこともある。


さすがに目覚めが悪くひどく後悔するのが常であった。

憎しみなどこれっぽっちも無いはずなのにどうしてだろう。

何かトラウマのようなものがあるのなら拭い去りたいものだ。


もしも今夜会えたなら優しい言葉をかけてあげよう。

仕事なんかもうしなくてもいい。

微笑み合いながら昔話でもしましょう。ねえお母さん。



2022年01月18日(火) 波にもまれている

気温は低目だったけれど陽射しに恵まれた一日。

強風注意報が出ていた割にずいぶんと暖かく感じる。


いつものように4時に目覚めPC画面と向き合っていたのだけれど

雑念と言うものだろうか気分が散漫とするばかりで集中出来ない。

思うがままに書いてはみたものの陰鬱とした言葉の羅列だった。

「こんなものを」と思い躊躇いもせずにすぐに削除する。


どうやら昨夜ここに書いた「馬の骨」に拘っていたらしい。

今朝になり書かなければ良かったとひどく後悔していた。

何を書いても自由とは限らない。思い遣りに欠けていたと思う。

きっと気分を害された方もいることだろうと察している。

本音は矢にもなり胸を刺すことを忘れてはいけない。

だからと言って綺麗ごとばかりでは済まないのだけれど。

20年この日記を書き続けて来て壁にぶち当たったようにも思う。


穏やかな日常のこと。家族のことを書けない訳でもない。

無意識のうちにそんなことから遠ざかろうとしていたのだろうか。

理解に苦しむ。私自身がその理由に気づかずにいるのだった。


波のようなものがあるのなら身を任せたい。

ゆったりとした気持ちで言葉を綴れたらどんなに救われるだろうか。



2022年01月17日(月) 馬の骨

曇り時々晴れ。陽射しはあったけれど風がとても冷たかった。


阪神淡路大震災から27年目の朝。

神戸在住の若者たちが震災の記憶を風化させまいと

街頭インタビューをしている映像が流れていたけれど

「思い出したくない」と応える事を拒否する人が多かった。

それだけ震災の傷跡が根強く残っているのだろう。

決して忘れられない事だからこそ口に出来ないことなのだと思う。

神戸の街は復興しているように見えるけれど未だ傷跡は癒えていない。


某SNSでは今朝も「素敵な一日を過ごしましょう」と言う。

もちろん阪神忌に対しては一言も触れることはなかった。

そんな人達が溢れていることに私のストレスはまた増加する。

顔も本名も年齢も居住地も分からないことがそれに拍車をかける。


昔Rが言った「どこの馬の骨だか分からない」その言葉を思い出した。

Rはどうしているのだろう。無性に声が聴きたくてたまらない。

音信不通になってからもう10年が近くなった。


歳を重ねるごとにネット空間での出会いに臆病になっている。

信頼できる人はほんの一握りに過ぎない。

浅く広くが理想なのかもしれないけれどそれが上手く出来ない。

だからと言って深く親密になることを避けようとしている。

そこまでは許すけれどここからは許さない。

そんな境界線を引かなければいけないのだと思うこともある。


所詮私も「馬の骨」なのだ。



2022年01月16日(日) 朝陽の希望

真夜中にけたたましいサイレンの音。

すぐに市の防災無線放送が流れ「津波」だと言う。

地震でもないのにどうしたことかとテレビを点けたら

トンガで海底火山が噴火しその影響らしかった。

市はしきりに避難を呼びかけていたのだけれど

海岸からは離れた地域なので大丈夫だろうと再び眠りに就く。


けれども海苔の養殖場の事が気がかりでならなかった。

過去に2回。チリ沖地震の津波と東日本大震災の津波で

大きな被害を被ったことが忘れられずにいた。

特に東日本大震災の時はわずか50センチの津波だと言うのに

海苔は壊滅状態となり漁場は惨憺たる有り様であった。


夜が明け次第に様子を見に行くつもりでいたけれど

その前に従兄弟から電話があり川船が危ないと言う知らせ。

大急ぎで船着き場まで駆けつけ船を陸に上げる作業をした。


その時に川の水が凄い勢いで逆流しているのを目の当たりにする。

満潮時のはずなのに潮が引きその後すぐに押し寄せてくるのだった。

東日本大震災の時とは明らかに違う潮の流れに驚く。

恐怖心が募り足が震えるほどだった。とても異常な光景である。


無事に皆の船を陸に引き上げすぐに漁場の様子を見に行く。

水嵩があり網の状態は確認出来なかったけれど

漁場の竹杭はしっかりと立っており海苔が無事である事を確信した。


ちょうど燃えるように紅い朝陽が昇り始めた時だった。

漁場は茜色に染まりまるで希望のように輝いていた。


海苔の生育が著しく遅れているのが幸いしたのだろう。

順調に生育していたら被害は免れなかったと思う。

皮肉な事ではあるけれどとにかく無事で何よりと思うしかない。


海苔のこども達は試練を乗り越えて強くなったのかもしれない。

津波をきっかけとしてぐんと逞しくなってくれる気がする。

だから決して諦めてはいけないのだと心に誓うように思った。


午後には津波注意報も解除され平穏な夕暮れ時となる。

明日は「阪神忌」ふと南海トラフ大地震が不安になったけれど

きっと平穏な朝を迎えられるだろうと信じてやまない。



2022年01月15日(土) 冬の声

氷点下の朝。曇りのち晴れて穏やかな冬日和となる。


夜明け前いつものように短歌のようなもの詩のようなものを

某SNSに書き込んだのだけれど

すぐに反応してくれた方から「冬の声とはどんな声でしょう?」と

質問を受けた。それは素朴な質問だったのかもしれないけれど

私は素直に受け止められずそれを「指摘」だと思い込んでしまった。

拙さ未熟さに対する「責め」のように感じたのだった。

そうしてこの歳になってもこの有り様だとつい嘆いしてしまったのだ。


劣等感が強いくせにプライドが高い。その心理状態が測りかねる。

私はいったい何を求めているのだろう。それさえも解らなかった。


確かに冬の声など聴こえないのかもしれない。

けれども感じることは出来る。しんしんと深い情景が浮かぶ。

それは叫び声かもしれないし吐息のような呟きかもしれない。

愚かな事だと分かっていてもそれを伝えたかったのだ。


嘆きもあれば焦りもあり身の置き所に戸惑いながらも

書くことを諦めはしないと強く思った出来事だった。

一生無名でいる覚悟はすでに出来ている。

死ぬまで雑草であるのも私らしい生き方なのではないだろうか。


とことん踏まれてみよう。それでこそ生きたかいがあるというもの。



2022年01月14日(金) 負けるもんか

陽射しはたっぷりと降り注いでいたけれど風はとても冷たい。

まるで冬将軍が矢を放っているかのようだった。

それでも雪国の人達を思うとどれほど恵まれていることだろうか。

仕事中に札幌の友からショートメールが届く。

除雪作業に追われていてとても大変な様子だった。

仕事の手を休めて一言でも労いの言葉を伝えるべきだったのだろう。

敢えてそれをしないまま夜になってしまった。

おそらくこのまま失念したふりをして過ごしてしまうだろうと思う。

申し訳ないけれどなんとなく心に余裕を感じられなかった。



午後から仕事を休ませてもらって定期の通院。

医師とは面談のみ。「今年もよろしくお願いしますね」と言われた。

「こちらこそよろしくお願いします」と自然に笑みがこぼれる。

偏見を持つのはもうよそうと思う。辛かったことはもう忘れよう。


薬局で薬を貰いその足で母の施設のある病院へ走る。

12月分の支払いを済ませ少しだけケアマネさんと話す。

ここ数日の間にコロナの感染者が急増しており

しばらくはまた面会禁止の状態が続きそうだった。

母は特に変わりなく元気に朗らかに過ごしているとのこと。

すっかり施設の人気者になっているらしく母らしいなと思った。



帰宅したら市役所から「介護保険被保険者証」が届いていた。

思わずこれ私の?と思った。65歳とはそういう歳らしい。

同封されていた介護保険料の納付書を見てまた愕然とする。

それは今の家計ではとても支払えないような金額だった。

いったいどこまで追い詰めたら気が済むのだろう。

怒りにも似た感情が押し寄せて来る。その矛先を何処に向ければ良いのか。

「義務だから仕方ないだろう」とじいちゃんは笑い飛ばす。

それは家計のやりくりに一切関わっていない無責任な言葉に思えた。


言葉はとても悪いけれど「くそ」と思わず声が出る。

そうして続いて「負けるもんか」と呟いていた。

まさに貧乏人のど根性を発揮するべき時が到来したのだと思う。


試練の上にまた試練とはありがたいことなのだろう。

見ているがいい。どれほど私が逞しいか思い知らせてあげよう。








2022年01月13日(木) これも試練

時おり小雪に姿を変えながら時雨降る一日。

日中の気温も5℃ほど。まさに真冬の寒さであった。

強い冬型の気圧配置になっており雪国の過酷さを気遣う。

雪には慣れているだろうけれど毎日の除雪作業は大変な苦労だと思う。



今日も一時間程の残業を終え帰宅したら年金機構から封書が届いていた。

12月で65歳になったので2月からの支給額が決まったらしい。

わくわくしながら封を切ったけれどその少なさに愕然とする。

年間80万に満たず一瞬目を疑ったのは言うまでもない。

おまけにじいちゃんの支給額は減額になるのだそうだ。

妻が満額支給になると夫は減額とは納得がいかないけれど

お国の方針でそう決まっているらしい。


一気に老後の不安が襲って来る。これでは暮しが成り立つはずがない。

やはり私は死ぬまで働き続けねばいけないのだろうか。


「なんとかなるさ」と楽天家のじいちゃんは笑い飛ばしている。

せめて家業の海苔養殖が順調ならば蓄えも出来るだろうけれど

昨年に引き続き今年も不作の兆しが強く圧し掛かっている。

前途はとても暗い。だからと言って嘆いても何も変わらないのだ。


とにかく私が働いているうちはなんとかなるだろう。

先のことはその時になってから考えるべきなのだろうと思う。


年末に買った宝くじは亡き父の仏壇に添えたままにしている。

結果を知るのが恐いのでしばらくそのままにしておこうと思う。

父も決して助けてはくれないと思うのだ。

「きっと乗り越えられる」大きな試練を与えてくれているのだろう。





2022年01月12日(水) やれば出来る

冬晴れとなったものの気温は上がらず冷たい北風の一日。

そんな寒さのなか母が育てていた紅梅の蕾がふくらむ。

枯草に覆われているけれどそこだけ春のように明るい。

梅一輪にこころを和ませる日もきっと近いことだろう。



12月に県に提出していた書類に沢山の付箋が付き返却されてきた。

それはもちろん不備だらけということで愕然とするばかり。

手直しをして来週中に再提出しなければならない。

頭を抱えて溜息をついていたら義父が「ひとつひとつやってみな」と

その言葉を励みにとにかくやってみようとすぐに取りかかっていた。

「やれば出来る」らしい。一時間程残業になったけれど

一通りの手直しを終えほぼ完璧になったような気がする。

とりあえず明日郵送してまた不備があれば直せば良いのだと思う。

こうなったらもう「いちかばちか」だ。なんだってかかってこい。


事務仕事を始めて今年で34年目。最初は経理だけだったけれど

今ではすべての事務仕事をこなせるようになった。

事実上の母の引退を機に一気に仕事量が増えている。

義父や同僚にも頼りにされていることを忘れてはいけない。

おまけに金庫番。昨年末のボーナスもそうだけれど

会社の資金繰りもすべて任されているのだった。

すでに経営側の立場になっていると言っても他言ではないだろう。


65歳となり老体にムチ打ちつつのこと。

55歳の時、あと5年と思っていた。それがあっという間で

60歳になった時もあと5年だと思っていたのが昨日のことのよう。

またあと5年と思っているけれど70歳の私が想像できない。

もし現役ならばそれは奇跡ではないかと思う。


もしかしたら私も母と同じような終着を迎えるのかもしれない。











2022年01月11日(火) するべきこと

時雨れのような小雨降る朝。幸い寒さは和らいでいた。

午後には少し青空が見えていたけれど強い北風が吹き始める。

また雪の前触れではないかとはらはらと気がかりでならない。


今朝はどうしたことか仕事に行くのが気が重い。

いったいいつになったら老後のスローライフを送れるのだろうと

考えても仕方のないことをつい考えてしまったのだった。


おそらく憧れのようなものなのだろう。

仕事が嫌な訳ではなく時間の余裕が欲しいだけだったのかもしれない。

一日中本を読んでいられたらどんなに良いだろうかと思った。



孫たちも今日から新学期。元気に登校する姿を見送る。

ずっと冬休みだったら良いのにと二人も思っていたことだろう。

学校へ行くのが義務ならそれ以上に仕事も義務なのだと思う。

まして働かなければたちまち暮しに困る我が家であった。


職場に向かいながら通い慣れた山道がとても新鮮に感じる。

それが不思議でならない。もしかしたら待っていてくれたのか。

私は行くべき道を行きするべきことをしようとしている。

邪念はそれを妨げる愚かな「欲」に違いない。


ゴールが見えないのはまだ道が続いていること。

走り抜けたからと言ってそこにゴールがあるとは限らない。

歳を重ねればそれだけ心細くもなるけれど

ゆっくりと歩きながら前へ進んで行こうと思う。



2022年01月10日(月) 山あり谷あり

冬うらら。風もなくまるで春先のような暖かさとなる。

窓を全開にして陽だまりで本を読むひと時は至福なり。

目を休めるために時おり川向の山々を眺めていた。

のどかな景色にこころが洗われるようであった。



午前中にやっとお大師堂へ。すっかり遅くなってしまった初詣。

無事に新年を迎えられたことに感謝しつつ

今年の平穏無事を祈る。般若心経を唱えればとても清々しくなった。

さらさらと流れる大河。水は清く無心になり海へ辿り着くだろう。



今日は43回目の挙式記念日。じいちゃんは忘れていたようだけれど

すぐに思い出してくれて照れくさそうに笑っていた。

私はすでに妊婦だったため11月には家族として迎え入れられ

入籍は12月の私の誕生日にしたのだった。

私は再婚だったけれどじいちゃん(夫)はもちろん初めてのこと。

挙式はそれは盛大で沢山の人達の祝福を受けた。

私側の親族は義父の計らいで一度も会ったことのない人ばかり。

それでも母はとても満足そうな顔をしていたことを憶えている。

もう実父の娘ではなくなったのだなと観念せずにはいられなかった。

義父と母が揃えてくれた嫁入り道具も有り難く受けとめていた。


夫側の親族がみな義父の事を「おとうさん」と呼ぶ。

私はまだどうしても「おとうさん」とは呼べなかったのだけれど。



新婚生活も実感が湧かないまま日々が流れていくばかり。

夫はいつも帰宅が遅く舅や姑と夕食を摂ることが多かった。

日に日に大きくなるお腹に「この子が生まれたら」と希望を託す。


初孫として生まれた息子も今年で43歳になる。

山あり谷ありの人生だったけれどここまで乗り越えて来たのであろう。


「金婚式まであと7年だな」とじいちゃんが言ってくれた。

それはきっとお互い長生きをしようなと言うことに等しい。


縁あってこそ巡り合えたひと。私はよき伴侶に恵まれたのだと思う。



2022年01月09日(日) なんとしてもこれだけは

曇りの予報だったけれど思いがけずに青空になった。

昨日のこともあり洗濯物を乾燥機に入れており

陽射しが降り注ぐのを見ながら残念でならない。

じいちゃんが「干せたのにな」と言ってくれる。

その口ぶりがなんだか所帯じみていて可笑しかった。

毎朝大量の洗濯物と格闘している私への思い遣りでもあったのだろう。

歳を重ねるごとにふとしたことで優しさを感じるようになった。



午前中に地区の役員会があり出席する。

毎年当番制になっており今年はその役がまわってきていた。

本来ならばじいちゃんが出席するべきなのだけれど

「俺はもうそういう場所には行きたくない」と言う。

消防団を辞めてから表立って活動することに消極的になっているようだ。

行って見れば女性の姿もあり特に違和感は感じなかった。


役員会は年に6回程あるらしく次回から平日の夜にするらしい。

誰も反対しないので私一人で反対したけれどあえなく却下された。

仕事を持つ身としては平日の夜はとても厳しいものがある。

帰宅してじいちゃんに相談したら次回から行ってくれるとのこと。

晩酌もしたいだろうに「我慢するけん」と言ってくれた。

回覧板や市の広報を配ったりする雑事は私がすることになった。

一年間の辛抱と思っても「役」に就くことは少なからず重荷になるものだ。



午後は図書館へと走る。もう読む本が無くなっていた。

今日も表ではなく裏の書庫から読みたかった本を探してもらう。

裏の書庫にはいったいどれほどの古い本が眠っているのだろう。

一度この目で確かめてみたい衝動に駆られた。

古い本ほど歴史を感じる。すでに今は亡き作家の本はとても愛しい。

遺作などは特に。読みながら涙が溢れて来る時もある。

命ある限りと書き残したであろう。明日を信じつつも不安はつのる。

なんとしてもこれだけはと。それは命を振り絞ってのこと。

それだけ心が込められており読者の心を捉えて離そうとしない。



私は詩人であることも歌人であることももう諦めてしまった。

おそらく最後の最期まで誰にも認められないだろうと思っている。

この日記もただの雑文でありなんの価値もないのかもしれない。


けれども「書きたい」その気持ちだけは大切に育んでいきたい。



2022年01月08日(土) アロエの花

氷点下の朝。日中も雲が広がり肌寒い一日となる。

大量の洗濯物が乾ききらず乾燥機のお世話になった。


お隣のアロエの花が咲いていて鮮やかなオレンジ色。

アロエと言えば熱帯の植物のようなイメージがあるけれど

毎年寒の入りをした頃に咲くのが習いなのだろうか。


お隣のご主人は昨年暮れから施設に入居したようだ。

老々介護で奥さんも大変な苦労だったことだろう。

お隣だと言うのに奥さんの姿もしばらく見えず少し気になっている。


ご主人は偶々なのか息子の勤めている施設に入居していて

息子の顔を覚えているようだけれど「ケンジ君」と呼ぶらしい。

それはじいちゃん(夫)の名で愉快なことでもあった。

息子は否定もせずすっかりケンジ君になりきっているらしい。

介護の現場では「否定」は厳禁なのだそうだ。

それは認知症のあるなしに限らずのことらしい。


ストレスの多い職場に居ながら息子の笑顔が見えるようである。

そう思うとお隣のご主人に感謝しなければいけない。


息子はなぜ介護職を選んだのか今でもよくわからないと言う。

工業高校を卒業したのだからてっきり技術職に就くと思っていた。

就職難の時代でもなく就職率は百パーセントだった頃のこと。

いきなり介護の勉強をしたいと言い出したのは寝耳に水のことであった。


それから介護福祉の専門学校に通い始めた。

我が家は相変わらずの貧困生活で教育ローンと県の奨学金だけが頼り。

息子は学校が終わると深夜までコンビニでアルバイトをしていた。

今思えば本当によく乗り越えた2年間だっと思う。


無事に卒業し就職してからもう22年の歳月が流れた。

今では介護のプロなのかもしれないけれどやはり心配は尽きない。

幾つになっても我が子は子供のままなのだろう。


幸い今の職場は今までで一番楽なのだそう。

過酷な現場を乗り越えて来たらこそそう言えるのだろうと思う。


明日も「ケンジ君」と呼ばれつつ走り回ることだろう。


ふとお隣のご主人にアロエの花を見せてあげたくなった。








2022年01月07日(金) 情けは猫の為ならず

冬晴れ。風の冷たさもよきかな。

陽射しはたっぷりとあり救われるような思いだった。

車中は特に暖かくお昼休みに本を読む。

まるで陽だまりの猫のような気分になる。



猫といえば昨年から工場の片隅に居ついている猫。

もうすっかり野良猫ではなくなりまるで社員のようだった。

仕事を監督するようにしながら修理車に近寄って来たり

「にゃおう」と号令をかける時もある。


私は義父からきつく言われており餌を与えることをしないけれど

鉄骨工場のKちゃんが毎日餌をやり続けているようだ。

もうそうなれば飼っているのと同じだと思う。

情けは猫の為ならず。Kちゃんもきっとそう思ってのことだろう。



夕方のニュースでペットの衝動飼いが取り上げられていた。

コロナ禍で家に籠ることが多くなり癒しを求める人が増えたらしい。

けれどもそれが長続きしないことが問題になっていると言う。

ペットショップで猫や犬を買い求めてもすぐに嫌になるのだそう。

犬ならば吠えると言う理由で。猫ならばトイレの躾だろうか。

とにかく「思っていたのと違う」そう言って手放す人が多いらしい。

すでに名前も付けられていただろうになんと憐れなものである。

手放された猫や犬はまた値段を付けられて売り出されるのだろうか。

それならばまだ救いの道はあるのかもしれないけれど

無造作に捨てられてしまう猫や犬もいるのではないだろうか。


猫や犬を家族として迎える以上は責任と覚悟が必要に思う。

他人様に迷惑をかえないように努めなければいけないし

必ず訪れる「死」も覚悟しなければいけない。


我が家はあんずが死んでしまってからもう犬は飼わないと決めた。

孫たちが猫を飼いたがっているけれどそれも却下。

先日もあやちゃんが「おじいちゃんが死んだら飼ってもいい?」と。

「ええぞ、ええぞ」と猫嫌いのじいちゃんは苦笑いしていた。






2022年01月06日(木) 寒中見舞い

雨のち晴れ。もう少し気温が低ければ雪になっていただろう。

低気圧は北上し東京に雪を降らしたようだ。



お昼休みを利用し寒中見舞いの葉書を作成する。

ひとりひとりに添え書きをして冬の便りにしたいと思う。

年末の気忙しさの中で書く年賀状よりずっと

こころを込められるのではないだろうか。


午後も仕事が忙しく一時間の残業となった。

しばらくは定時で終れそうにない。

本を読む時間もないのが残念だけれど

仕事はとても遣り甲斐があり苦には思っていない。

ひと山越えるような気持ちで乗り切って行こうと思う。


買物をして帰宅したらめいちゃんが近所のお友達と遊んでいた。

近所でも同じ小学校には通っておらずいつの間に仲良くなったのか

ひとつ年上の二年生だけれどとても気が合うらしい。

少しためらいがあり自分からは「あそぼう」と家に行けないのを

お友達の方から「あそぼう」と呼びに来てくれたそうだ。

二人とも活発で土手を走りまわっていてなんとも微笑ましい。


遊び疲れたのか夕方から眠くなり泣きながらダンス教室に行った。

ダンスが嫌なわけではない。とにかく眠くて辛かったのだろう。

可哀想でならないのをはらはらしながら見送ったことだった。


もうそろそろ帰って来る頃。元気いっぱいの笑顔を待っている。



2022年01月05日(水) 家族らしさ

曇り日。陽射しのありがたさをつくづくと感じる。

寒の入りらしい寒い一日となった。

季節は真冬となり「立春」の声を聴くまで耐えねばならない。

それも雪国に比べれば恵まれている冬であろう。



やっと仕事始め。ついつい気負う気持ちがあり

ゆっくりと歩み出そうと自分に言い聞かせていた。

開店を待ちかねていたように来客があり幸先が良い。

職場は活気で溢れており自然と笑みがこぼれてくる。




娘が夕方5時から出勤。今夜は棚卸があるとのこと。

帰りは何時になるか分からないと言いご苦労なことである。

娘むこの帰りを待っていたけれど7時になっても帰らず

孫たちと4人の夕食は久しぶりのことであった。


めいちゃんと一緒にお風呂。これも久しぶりのことであった。

以前は浴室で玩具で遊んでいたけれどそれもせずにいて

いつの間にか成長したことを感じずにはいられなかった。

身体も自分で洗う。足の指の間までそれは丁寧だった。

お尻にはまだ生み痣が青く残っているのを見て

幼児の面影がふと懐かしく感じられた。


父親も母親も居ないことをしっかりと受けとめているのだろう。

あやちゃんはいつも終い風呂だけれど

今夜は何も言わなくても自発的に入浴を済ませていて感心する。


ふと同居でなければこんな時はどうするのだろうと思った。

私達祖父母は「家族ではない」と言われつつも

いざと言う時には頼りにされているのではないだろうか。


それが嬉しくもありせつなくもある。

そこには感謝されたい欲があるからだろうと思う。

それこそが愚かな欲なのではないだろうか。


当たり前のこと。当然のことをしただけのこと。

それには感謝などいらない。

家族とはそういうものなのかもしれない。







2022年01月04日(火) 父の声

風もなく穏やかな晴天が続いている。

お正月三ヶ日もあっという間に過ぎ去り

本来ならば今日が仕事始めであったけれど

社長である義父の計らいで明日からの仕事になった。

ゆっくりのんびりと過ごすものも良いものだけれど

ふと忙しい日常も恋しくなってきてしまった。

とりあえず明日を待とうと逸る気持ちを宥めている。



昼食後一時間程お昼寝をするようになってしまって

今日はとても不思議な夢を見た。

亡き父と電話で話している夢で声がとてもリアルであった。


若き日に母を頼ってしまってから父と会うことはなかった。

夫はあくまでを義父を父としていて認めていて

実の父とは縁を結ぼうとはしなかったのだ。

だから父は死ぬまで孫にも会えず一生を終えたことになる。


父との唯一の繋がりは電話で事あるごとによくかけて来てくれた。

私の誕生日や孫の誕生日は決して忘れることはなく

娘などは「高知のおじいちゃん」と言って親近感さえ覚えてくれていた。


夢の中の父はしきりに孫である息子の事を気遣ってくれる。

お嫁さんの病気の事も話した。「それはえいかよ」と心配するので

「顔色も良くなってね。大丈夫と思うよ」と言ったら

「それは良かった」と言って一瞬声が遠のいていく。

「お父ちゃん!お父ちゃん!」と叫んだところで目が覚めてしまった。


父は間違いなく天国から電話をかけてきてくれたのだと思う。

その距離は計り知れない。どれほどに遠いところだろうか。

それなのに父の声ははっきりと聴こえ私を励ましてくれた。


見守っていてくれることを忘れてはいけない。

懐かしい父の声に明日の希望が湧いてくる。


お父ちゃんありがとう。今日はとても嬉しかったです。



2022年01月03日(月) いちかばちか

明けてみっか。今日も穏やかな晴天に恵まれる。

降り注ぐ陽射しのなんとありがたいことだろう。



朝のうちに川仕事へ。生育が悪く残しておいた海苔網を

諦める訳にもいかず望みを託して漁場に張った。

収穫まで漕ぎつけるのかどうか分からないけれど

微かに緑に染まった網を撤収する気にはならなかった。

「いちかばちかだな」悲観はせずに微笑みながらの作業だった。

海苔の胞子は確かに生きている。見捨てるような事は決してしない。



ふとじいちゃんと昔話を始めてそれも懐かしくもあり。

38年程昔のことだろうか。当時は天然青海苔の豊漁が続いており

12月は最盛期で猫の手も借りたいほどの忙しさだった。

元旦に姑さんが青海苔漁に行くと言って大喧嘩になったことがある。

じいちゃん(夫)が「元旦くらいは休めや」と怒鳴る。

姑さんは「正月どころではない」と言って凄い剣幕だった。

勝気で負けず嫌いの姑のことで頷ける話だけれど

嫁の私が口出し出来ることではなく耐えるように沈黙を貫いていた。

結局最後には姑さんが諦めて元旦だけは休むことになった。


「強欲だったよな」今さら亡き姑の悪口ではないけれど

一日休めば他の人に青海苔を採られてしまうのが悔しかったのだろう。

それを強欲と言った夫に思わず「一票」と叫びたくなった。


姑さんの性格には最後の最期まで馴染むことは出来なかった。

寝たきり状態になってもそれは変わらず

介護の手助けをしていてもそれが義務であるのが苦しかった。

それでも誠心誠意尽くせたのか今もって答えは出てこない。

夫を産んだ母である。それだけが真実だったのかもしれない。


歳月は流れもう天然青海苔もほぼ絶滅となった。

青さ海苔の養殖も手さぐり状態である。

それでも望みを捨てずにいるのが姑さんの供養になるような気もする。


諦めることはたやすい。

諦めないことこそが試練なのだろう。



2022年01月02日(日) 今日の栞

明けてふつか。今朝は氷点下の冷え込みとなったけれど

日中は風もなくぽかぽかと暖かくなった。


朝のうちに息子の車をマンションへ届ける。

てっきり二日酔いかなと思っていたらけっこう元気。

「昨日は死ぬかと思った」とそれも笑い話になっていた。

お嫁さんも起きていて顔色も良くほっと安堵する。

けい君の心配もなく笑顔を交わし帰って来た。

息子は今日も休めるのだそうで何よりだった。

明日からまた激務が始まるのだろう。

少しでもストレスのない日々が続くことを祈るばかり。



お昼前に母に電話。新年の挨拶などすれば

「なんのこと?」と呆けたふりをして笑わせてくれる。

私から電話あるのをずっと待っていてくれたのかもしれない。

寂しさの欠片も見せないことが返って憐れにも思えた。



初詣はお大師堂にと決めていたけれど結局行かず

新年早々からもう怠け癖が出始めているらしい。

じいちゃんが「何処かの寺に行くか」と言ってくれたけれど

お寺の石段を思うと足の痛みが気になり躊躇してしまう。

来週には3連休があるので気が向けば行ってみようかとも思う。

ドライブもしばらく遠ざかっている。

すっかり出不精になってしまったようだ。



午後、録画してあった「志村けんの誕生話」を観る。

懐かしさと共に笑いが込み上げて来て涙が出るほど面白かった。

そうしてコロナで命を失ったことが信じられない。

残念でならないけれどそれは紛れもない真実であった。

ここしばらく下火になっていたコロナ感染者が少しずつ増えている。

この先どうなるのだろうとひしひしと不安が募って来る。



それから夕方まで読書。西陽のあたる部屋はとても暖かだった。

夕焼け空が見え始めると一気に肌寒くなる。

本を閉じ夕食の支度に取りかかる。続きはまた明日と栞を挟む。


今日はここまで。明日は何処まで行けるのだろう。







2022年01月01日(土) あたらしい一歩

穏やかな晴天。とても清々しい気持ちで迎えた元旦の朝。

一歩あゆみ出したのだなと思う。頂きまで登れば

遠いはずの空もきっと近くなるだろう。



お昼には息子とけい君が来てくれて新年会を始める。

息子は元旦に休めるのはめったにないことであり

おまけにコロナ禍で新年会も遠ざかっていた。

よほど嬉しかったのか飲む気満々で上機嫌であった。


我が家で一時間程飲み次は義妹宅に押し掛け二次会。

従兄弟達に会うのも久しぶりで盛り上がっていたようだ。

3時を過ぎても帰らず様子を見に行ったら

かなり飲んだらしく目も虚ろになっていた。

義妹が「せっかく楽しんでいるのだから」と言ってくれる。


仕事の苦労に重ね家庭の苦労もありストレスも溜まっていたのだろう。

羽目を外したい気持ちもじゅうぶんに理解できた。

「好きなだけ飲ませてやれや」とじいちゃんも言う。


4時前にやっと帰って来てそのまま鼾をかきながら眠っていた。

それから1時間程して激しく嘔吐し大変なことになる。

慌てて洗面器を持って行ったけれど間に合わなかった。

「おかあ済まんな」と謝りながら顔は真っ青になっていた。


落ち着くまでしばらく様子を見てマンションまで送り届ける。

泊まっても良かったのだけれどけい君が帰りたがっていた。

父親の尋常ではない姿が不安になったのかけい君は途中で泣き出す。

助手席のけい君の手を握りしめながらなんとかマンションに着いた。


マンションには灯りもなく真っ暗だった。

お嫁さんはここ数日また体調が悪く臥せっているとのこと。

息子の家ではお正月どころではなかったのだろう。

逃げ出すような思いで我が家に来てくれたのだと思う。

息子とけい君が不憫でならないけれどお嫁さんを責める気はない。


「乗り越えて行かなくちゃね」と息子に声を掛けていた。


新しい年が始まったのだ。何があっても立ち向かって行こう。


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